このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2017年12月31日日曜日

追憶 1911

心に対して、"どちらでも良い"という状態を与えることによって、人は豊かな人生を得ることが出来るのである。
死を意識した時、人は執着を離れる。
しかしながら、生を意識した時、人は執着を得るのだ。
多くの人は、執着によって死後に苦しむ。
生きている状態においては、死後の苦しみのことなど考えもしないだろう。
生きている人にとっては、生きることで精一杯なのである。
しかしながら、人は必ず死を得る。
人生の目的地は誰にとっても死なのである。
死を否定することの出来る人は存在しない。
人が死を得ることは自然の理(ことわり)なのである。

2017年12月30日土曜日

追憶 1910

何かに執着する心が平穏を得ることはない。
心は、一つの状態に止まるのである。
生きることに執着する心が死を得ることはなく、死に執着する心は生きることが出来ないのだ。
それは、自動車のマニュアルトランスミッションのようなものである。
1速に入れた状態で、リバースに入れることは出来ない。
それは、構造上不可能なことなのである。
人の心というものは、自動車でいうところのトランスミッションであると言えるだろう。
1速が生きることだとすれば、そこに執着した状態であっては、リバースという死を得ることは出来ないのである。
大切なのは、"どちらでも良い"というニュートラルの状態に心を落ち着かせることなのである。

2017年12月29日金曜日

追憶 1909

死ぬために生きるという状態を得るためには、何事にも執着することなく生きる必要がある。
執着しない生き方とは、"どちらでも良い"という生き方のことだ。
財産が有っても無くてもどちらでも良い。
健康で有っても無くてもどちらでも良い。
幸せで有っても無くてもどちらでも良い。
友人が居ても居なくてもどちらでも良い。
思い通りに生きても生きなくてもどちらでも良い。
という心の状態を実現するということなのである。

2017年12月28日木曜日

追憶 1908

晩年の彼は、死ぬために生きていたのではないだろうか?
推測(すいそく)でしかないのだが、死が避けられないと悟ったのであろう。
死ぬために生きる人は、死後に命を受ける。
しかしながら、生きるために生きる人は、死後に命を失うのである。
わたしは多くのネガティブな霊体に出会ってきたが、彼等は皆、生前の何かに対しての執着を所有していた。
それは、命であったかもしれないし、人生であったかもしれない。
仕事であったかもしれないし、家族であったかもしれないし、肉体や財産であったかもしれない。
生前の何かに対して執着するということは、生きるために生きる必要があるということなのである。

2017年12月27日水曜日

追憶 1907

彼は60歳を超えていたが、人生に対する満足に年齢は関係ないであろう。
例え100年生きたとしても、人生に満足することが出来ずに、健康と長寿を求める人はいるのである。
彼は、癌のおかげで死に向き合う時間を与えられた。
死に向き合うことによってそれに満足し、人生に満足を得たのではないかと思えるのである。
もしも、彼が癌ではなく、他の事で突如(とつじょ)として死を得ていたのであれば、葬儀の時に笑顔で挨拶して回ることもなかったのではないだろうか?
避けられないことを知ったので、死を受け入れる心構えが整ったのである。

2017年12月26日火曜日

追憶 1906

しかしながら、人生においては、病気を避けることは出来ないし、短命を退けることも出来ない。
生まれながらに病気や障害を抱えている人も多くいるし、長く生きることの出来ない人もいるのである。
そのような人たちは幸福を得ることが出来ないのであろうか?
そのようなことは有り得ないだろう。
人は、健康であろうが、病気を抱えていようが、長く生きようが、短く生きようが、幸福にもなれるし、不幸にもなれるのである。
人の幸福に、状態や状況は関係ないであろう。
病気や短命に対して、そこに情緒を感じることが出来る人は、人生に満足を得るのである。

2017年12月25日月曜日

追憶 1905

それは、働くことに対しても、休むことに対しても、そこに感慨(かんがい)を覚えることである。
人は心を使って生きなければならない。
機械のようにただ作業をこなしている訳にはいかないのである。
生きるために生きている人には、人生に疑問を持たずに突き進んでいる人が多いだろう。
与えられたものに従って生きるのである。
それは、常識的な価値観を自分の幸福だと思って生きるようなものである。
常識的な価値観とは、平均的な価値観と言い換えることが出来るだろう。
平均であるために、疑問を持たずに生きる人にとっては、受け入れ易い幸福の形である。
そのため、多くの人は常識的な価値観である健康や長生きをすることを幸福だと思うのである。

2017年12月24日日曜日

追憶 1904

すべての人は、今この瞬間に失うかも知れない人生を生きている。
大抵の人は、人生が終わる時を知らない。
今この瞬間に心臓が止まり、死を得てもおかしくないのである。
人生には、詰まらないことに悩み、詰まらない不満を吐いてだらだらと無益な時間を浪費するようなことはあってはならないはずである。
ただし、わたしはがむしゃらに生きることが良いなどとは思わない。
馬車馬のように忙しく働き、一心不乱に突き進むような生き方が良いとも思えないのである。
死ぬために生きるというのは、働くことに対しても、休むことに対しても、そこに情緒を感じることだと思うのである。

2017年12月23日土曜日

追憶 1903

死を考える人は、熱意を以(もっ)て益々力強く生きる。
それは、自分がいつか死ぬことを考えているからだ。
そのような人は、今この瞬間に死を得ても良いように生きているのである。
しかしながら、生きていることを当たり前のことだと考え、死を考えることもなく生きている人は、詰まらないことに悩み、詰まらない不満を吐いてだらだらと無益な時間を浪費する。
そのような人は、自分がいつまでも生きるとでも考えているのだろう。
人生を逆算しないために、懸命に生きることが出来ないのである。

2017年12月22日金曜日

追憶 1902

癌は、自分が死を避けられないという事実を教えてくれる。
人は普段、死を遠ざけて生きている。
死が自分には関係のないものだと思っているのだ。
癌になったからといって、必ずしも死を得る訳ではないが、死を意識して生きるようにはなるだろう。
死を意識して生きることによって、人は人生を逆方向から考えることが出来るのである。
それが、死ぬために生きるということだ。
計画を実現したい時には、完成から逆算するのが良いだろう。
完成を考えずに作り始めるのであれば、熱意もやがて冷めてしまう。
しかしながら、完成から逆算していれば、熱意は増していくのである。

2017年12月21日木曜日

追憶 1901

わたしには、本来ならば恐れる必要のないものを恐れるように仕向けているように思えてならないのである。
金儲けをしたければ、人の恐怖心を操作することである。
恐怖心を煽(あお)れば、人を簡単に支配することが出来る。
病気や死を恐ろしいものにしたのは、自分自身の未熟さに違いないが、それを煽るのはテレビなどのメディアである。
それに医療と保険がぶら下がっているように思えてならない。
それが悪いということではない。
それによって助かったと"思っている"人もいるのである。
それはそれで良いのだ。
しかしながら、病気や死に対する誤解を手放さない限りは、豊かに生きることは出来ないのである。

2017年12月20日水曜日

追憶 1900

彼は癌を患(わずら)ってから死を得るまでの期間に、痩せ細っていく肉体を目の当たりにしながら、生と死について考えたに違いない。
多くの人は癌を恐れているが、それは、死をネガティブなものだと考え、その部分だけを抽出しているからであるだろう。
死のポジティブな部分も考えなければ、癌の意味を理解することには至らないのである。
例えば、癌は人が死を得るための準備をさせてくれる病気である。
きっと、癌によって即死した人はいないだろう。
個人差はあれ、現代においての癌は、死を得るまでにある程度の時間を与えてくれるのである。
その時間を使って、身辺整理や思考や価値観の再構築を行うことが出来るのだ。
癌によって苦しむのは、テレビや現代医療や保険屋などの商売による弊害(へいがい)であるとも思っている。

2017年12月19日火曜日

追憶 1899

生きるために生きることには限界があった。
それは、生きるためには争わなければならなかったからだ。
生きるためには有利な立場を得なければならない。
有利な立場を得るためには、嘘を吐く必要がある。
それは、見栄を張ることでもあったし、相手や自分を裏切ることでもあったし、無理をすることでもあったのだ。
生きようとすればするほど、わたしは罪悪感に襲われたのである。
その積み重ねによって、わたしは自分自身が嫌いであったし、他者を嫌うようにもなった。
誰にでも好き嫌いはあるが、それが不自然であることには気が付かないのである。

2017年12月18日月曜日

追憶 1898

すべての人は生きることに懸命である。
その中の多くの人は、生きるために生きるのである。
そこには、死に対する配慮はない。
多くの人は死を恐れているために、無意識の内に死について考察することを拒んでいるのだ。
そのため、必然的に生きるために生きることになるのである。
もちろん、生きるために生きることが悪いということではない。
それはそれで良いのである。
これは、わたしの個人的な見解ではあるが、霊的な存在達と触れ合う中で、わたしの考えは大きく変わってきた。
わたしも以前には、生きるために生きていたのだが、霊的な存在達と触れ合う中で、わたしは死ぬために生きるという考えに変わったのである。

2017年12月17日日曜日

追憶 1897

死は、必ずしも苦しいものではない。
死とは、特別なものでもないのだ。
死とは自然である。
それは、喜怒哀楽のすべての性質を備えている。
そこから、何を引き出すかを決めるのは、自分自身である。
彼は、死を前向きに捉えたに違いない。
そのため、結果として死を満足することが出来たのであろう。
中には、死を後ろ向きに捉えることによって、死を得たにしても、それに不満を抱き続ける者もいる。
そのような者は、死に対して不満を抱き続ける。
そのような態度が、破滅的な状態の霊を生み出しているのだ。

2017年12月16日土曜日

追憶 1896

それをわたしに伝えるのは天使である。
わたしは、相手に最善を導く。
相手はそれを最善だとは思わないかも知れないが、わたしはそれが最善であることを知っている。
それはわたしの身勝手によって導くものではないからだ。
そのため、それは相手にとっての最善なのである。
わたしが幼馴染に本当のことを伝えないのは、彼女にとっての真実は他に存在しているからだ。
人は、自分の速度で歩むのが良いだろう。
より良い方法を知ってはいても、それが却(かえ)って足並みを乱す可能性もあるのだ。
ゆっくりであっても、確実に歩む方が良い。
走ることの出来ない人に走れと言うのは良くない。
相手が歩むことが出来るのであれば、歩めと言うのが良いのである

2017年12月15日金曜日

追憶 1895

押されるようにして、わたしは幼馴染の前に立った。
幼馴染は、悲しみを秘めた笑顔でわたしを労(ねぎら)った。
わたしは何も言えなかった。
幼馴染に控え目の笑顔だけを贈り、会場を後にした。

わたしは今でも、幼馴染に対して、父親である彼が自らの死を満足していることを伝えてはいない。
それは、幼馴染が聞いても受け入れないからである。
受け入れてもらおうとは思わないが、反発することによって、霊的な事象に対して否定的な感情を生み出して欲しくはないのだ。
それは、わたしの自我の要求ではない。
わたしは、自分勝手に決めてはいないのである。
幼馴染には、それを聞く準備ができていないのである。

2017年12月14日木曜日

追憶 1894

お焼香の時に彼の遺影の笑顔が説得力のあるものに思えて嬉しくなった。
しかしながら、わたしが笑顔を作ることは、彼との別れを悲しんでいる人たちにとっては不快なものとして受け取られる可能性があると考えて、自重(じちょう)することにした。
席に戻ってからも彼の姿を探したが、どこにも見当たらなかった。
葬儀が終わると、親族が参列者を見送る。
わたしが最後に到着したので、最初に会場を出て行くことになる。
係員に促(うなが)されて、わたしは席を立った。
しかしながら、足取りは重たかった。
わたしは頭の中で、幼馴染に対して、彼のことを話そうか迷っていたのである。



2017年12月13日水曜日

追憶 1893

お焼香の順番が回ってくるに連れて、わたしは遺族と近付いた。
そこには、わたしとは幼馴染である彼の娘がいた。
彼女は、父親との別れをどのように思っているだろうか?
わたしは彼が死を満足していることを知っていたので、それを知らせるべきなのか?と考えていた。
しかしながら、考えがまとまらないままにわたしの順番が来てしまった。
わたしが遺族に向かって頭を下げると、幼馴染がわたしの名前を呼んだ。
わたしが葬儀に参列しているとは思わなかったのかも知れない。
彼女は、わたしの名前の中に感謝の意を込めていたのである。
わたしは幼馴染に頷(うなず)くことで言葉を返した。

2017年12月12日火曜日

追憶 1892

それから、彼はわたしを離れた。
そして、何席か離れた人の前に立って、その人を優しい眼差しで見詰めていた。
きっと、彼なりの別れの挨拶なのだろう。
親しい人を回っているのであろうか?
何か意味があるとは思うが、わたしには選別の基準が分からなかった。
しばらくして、また別の人の前に立っては微笑んでいるのである。
彼はそれを繰り返していた。
お焼香の順番が回ってきたので、わたしは同じ列の人たちと共に立ち上がった。
その時には、彼を見失っていたのである。

2017年12月11日月曜日

追憶 1891

そこでわたしは、彼が死を満足していることを悟った。
そして、彼の死を祝福したのである。
すると、彼がわたしに向かって手を差し出した。
握手を求めているのである。
そこでわたしは彼の掌(てのひら)に自分の掌を重ねた。
暖かで穏やかなエネルギーが掌を伝って胸に届いた。
わたしは良い気分に包まれた。

"ありがとう"

わたしが心で伝えると、彼は僅(わず)かにお辞儀をして言葉を返した。

2017年12月10日日曜日

追憶 1890

彼は、癌によって痩せ細る前の懐かしい姿で現れた。
それは、わたしの中のイメージに合わせてくれたのかも知れない。
そして、その微笑みは幸福感に溢れていたのである。
彼は、死を得ることによって威厳(いげん)に満ちていた。
その姿は生前よりも逞(たくま)しく、更には美しく感じられた。
彼の言葉は、穏やかな微笑みであった。
彼は何も言葉を紡がずに、わたしをただ優しい眼差しで見詰めているのである。

2017年12月9日土曜日

追憶 1889

時が過ぎ、司会の女性が彼の人となりを参列者に紹介していた。
それを聞きながら、わたしは彼との記憶を思い出していた。
すると、急に暖かい空気のようなものに包まれたような感覚を得た。
それはとても心地好いものであった。
気が付くと、目の前に人が立っていた。
突然のことではあったが、それが余りにも自然であったために、わたしが驚くようなことはなかった。
それは、わたしが目の前の人が霊体であることを悟っていたからである。
見上げると、それは亡くなった彼であった。

2017年12月8日金曜日

追憶 1888

わたしは彼の死を喜んだ。
彼は、死という新しい道を得たのである。
それは、祝福されるべきものだと思えるのだ。

後日、わたしは彼の葬儀に参列した。
いつものように、わたしが会場に到着した時には既にたくさんの人が着席しており、廊下に並べられた椅子にも多くの人が座っている。
わたしは一つだけ空いていた最後の椅子に腰を下ろした。
いつものように何事も無く葬儀が進行していく。
彼のキャラクターのためか、会場には明るい雰囲気が漂っているように思えた。

2017年12月7日木曜日

追憶 1887

彼は死を迎え入れなければならなかった。
ただ、それだけのことである。
生まれた者で、死を得ない者は存在しない。
生まれた時点において、死に辿り着くことは決まっているのである。
人が死ぬことは自然の摂理(せつり)であり、決して不自然なことではない。
不自然なことではないのだから、苦しいものでもないのである。
多くの人が、死に対するネガティブな印象を抱えているのは、その人が不自然な状態を生きているからに他ならないのである。
不自然な状態から見れば、自然は歪んでいるのである。

2017年12月6日水曜日

追憶 1886

一人の老人が死を迎えた。
彼は同級生の父親であり、わたしの友人でもあった。
癌(がん)であった。
彼は明るい性格によって、多くの人に愛された。
そんな彼を、わたしも愛していた。
闘病生活は、苦しいものであったかも知れないが、そんな素振りは見せない男であった。
しかしながら、日に日に痩せ細っていく様子は、彼の死を予感させた。
誰もが回復を願っていたが、それが難しいことは悟っていただろう。
人には、それぞれに分際が与えられ、それを否定することはできない。
因果は避けられないのである。

2017年12月5日火曜日

追憶 1885

始まったものは、終わらなければならない。
この世界には、永遠は存在しないだろう。
すべては変化の中に存在しているのである。
始まりはいつも突然に生じ、終わりもいつも唐突(とうとつ)に訪(おとず)れる。
人には、物事の始まりと終わりを制御する力は与えられていない。
人は誰もが、物事の始まりと終わりを黙って観察しなければならないのである。
物事の始まりと終わりの前では、人はそれを見守ることが義務付けられているのだろう。
しかしながら、その中でも心の自由だけは奪われてはいない。
物事の始まりと終わりに対して、どのような心でそれを迎えるのかは、人に与えられた最大の権利なのである。

2017年12月4日月曜日

追憶 1884

わたし達は、より良いものを見付けなければならない。
しかしながら、それは、わざわざ探すということではない。
興味関心を以(もっ)て生きることによって得られる知識によって、自然と見えてくるものなのである。
より良いものを見付けることによって、人は幸福を覚えることができる。
そして、その積み重ねこそが、人生の豊かさを感じさせるのである。
何も知らずに生きてはならない。
乏しく生きてはならない。
そして、何も知らずに死んではならない。
人は、豊かに死ななければならないのである。



2017年12月3日日曜日

追憶 1883

人は様々な知識に触れることによって、自らの道を見出していく。
無知な者には、道は見えない。
自分の興味や得意不得意を知らなければ、自分は何がしたいのか?自分に何ができるのか?ということは分からないのである。
人は比較によって相対的に理解を深めていく生き物であるだろう。
比べるものがなければ、それを最良だと思い込んでしまうのである。
しかしながら、所有物が最良であった試しが今までにあっただろうか?
そう思い込んでいる人は多いが、残念ながら、冷静に考えてみればそのようなことはなかったであろう。
人は、必ずより良いものを見付けるのである。

2017年12月2日土曜日

追憶 1882

人生は、自らの解釈に従って展開していく。
人生は、自らに相応しく存在するのである。
わたしの解釈は、わたしが生きる現実を作り出す。
あなたの解釈は、あなたの生きる現実を作り出すのである。
人生がどのようなものであっても、それは自己責任なのだ。
それを理解しなければならない。
無駄だと思えるような知識も、決して無駄にはならないというのは、それが解釈の材料となるからだ。
誰かに何と言われようとも、その言葉に左右される必要はない。
それを解釈の材料として考えれば良いのである。

2017年12月1日金曜日

追憶 1881

わたしは友人に対して、わたしの体験のすべてを伝えたが、わたしと友人の解釈は異なっているはずである。
学んだことも、それを活用する方法も異なるはずだ。
人生とはそれぞれの道であるが、それは、それぞれの解釈に従って築かれていくのである。
それが自然であり、最善であると思える。
そのため、目の前の状況の読み解き方は自由な発想に従って行えば良いだろう。
多くの人は、所謂(いわゆる)"正解"というものを求めるが、残念ながら、そのようなものはどこにも存在しないのである。
しかしながら、それはどこにでも存在している。
あなたの解釈こそが、あなたにとっての正解なのだ。

2017年11月30日木曜日

追憶 1880

この世界がわたし達に要求することを完全に理解することは出来ない。
わたし達は、理由を聞かされないままに行動し、納得しないままで学びを得なければならないのである。
そして、学び終えた後も、その理由を教えられることはなく、自分の解釈によって着地点を見付けなければならないのだ。
この世界は、わたし達に対して明確な指示はしない。
世界は決して、命令はしないのである。
尊重されるのは自分の意思であり、その決定であるといえるだろう。
そのため、世界はわたし達に示唆(しさ)を与えるのである。
わたし達に許されているのは、世界からの示唆を読み解くことであろう。

2017年11月29日水曜日

追憶 1879

それから、わたしは友人と人生について簡単に話してから店を出た。
店を出た時、わたしは心が軽くなるような感覚を覚えた。
それは、老女の悪夢を見て以来の感覚である。
わたしが友人に一連の体験を伝えることが、今回の光の仕事の内容だったのではないだろうかと思える。
仕事が終わることによって、何かから解放されたような感覚である。
仕事の責任感や重圧感のようなものであろうか?
緊張を解かれてリラックスしているような、心地の好い感覚が心の中にあった。

2017年11月28日火曜日

追憶 1878

わたしの思いが友人に伝わったのかは分からないが、友人の口からは感謝の言葉が生まれた。

「おばあちゃん(義母)はもう苦しんでないよね?」

友人の言葉に対して、わたしはもう一度、老女と黒い人たちが共に光へ帰ったことを伝えた。
確認作業を終えた友人は、安心したような表情を浮かべた。
友人が死後の世界や霊的な存在を信用しているのかは分からないが、わたしの言葉を前向きに捉えてくれていることは理解できる。 
それは、友人が人生を豊かなものにするためには良い傾向だと思えた。

2017年11月27日月曜日

追憶 1877

自分独りで人生を豊かに築いた者が今までに存在しただろうか?
利己的な人物は決して豊かさを得ることはできない。
世の歴史は、歴史を伝えた者の主観によって歪んでいるために参考にはならないが、周囲に利己的であっても豊かな人生を生きた人物がいた試しがあっただろうか?
人は、互いに支え合うことによって人生を豊かなものにするのである。
そのため、自分のための知識に加えて、誰かのための知識も必要なのだ。
支え合うというのは、誰かの役に立つということであるからだ。
誰かの役に立つことは、やがて自分の役に立つのである。
人生を豊かなものにしたいと考えているのであれば、無駄に思えることであっても、それが無駄になるとは考えずに学び続ける必要があるのだ。

2017年11月26日日曜日

追憶 1876

思考の停止に陥(おちい)らないためには、知識の循環を怠(おこた)らないことであろう。
それは、呼吸することに似ている。
古い空気をいつまでも肺の中にとどめておく訳にはいかない。
必要な要素を体内に取り込めば、残りは吐き出さなければならないのである。
そして、再び新しい空気を吸い込む。
それは、必要なものが全体の一部に過ぎないからだ。
この世界には無駄は存在しないが、自分だけで世界を考えることは出来ない。
自分にとって無駄に思えるものであったとしても、自分以外の存在にとっては必要であるからだ。
不要とされ、吐き出された空気は、植物の役に立つかも知れないのである。
あなたが無駄に思える知識を得ても、それを活用することの出来る状況は少ないかも知れない。
しかしながら、それは、誰かの役に立つ知識であるかも知れないのである。

2017年11月25日土曜日

追憶 1875

わたしの幸福の形と、他者の幸福の形が同じであるとは思っていないが、わたしの辿って来た幸福の道のりは、他の人とさほど変わりないものであろう。
わたしも、以前は無知を喜んでいた。
よく、昔を幸福だと語る人がいるが、以前のわたしならその考えに共感することも出来たかも知れないが、今のわたしには過去を幸福だとはどうしても思えないのである。
過去にも楽しいことはあっただろうが、当時は楽しいことも、今では退屈と思えるのである。
わたしには、今よりも優れた過去など存在しないと思えるのだ。
昔を幸福だとは思っている人は、残念ながら思考が停止しているのであろう。


2017年11月24日金曜日

追憶 1874

無駄に思える知識に興味関心を示すこともなく、与えれた刺激に満足し、”井の中の蛙”や貝のように堅く身を守っている人は、主観的には幸せと思えるかも知れないが、大きなお世話ではあるが、客観的には不幸に思えてならない。
鎖(くさり)に繋がれた犬は、きっと自分を幸せ者だと思っているだろう。
室内で飼われている猫も、同じように思っているかも知れない。
もちろん、それを不幸に思っている犬や猫もいるはずだが、大人しく繋がれている様子を見ると、それを幸せと思っているようにも思えるのである。
まぁ、諦めもあるのかも知れないが…

2017年11月23日木曜日

追憶 1873

人生を豊かなものにするためのこつは、好奇心を抱くことであろう。
好奇心とは、興味関心のことである。
人生を豊かなものにするためには、無駄に思える知識をも得る必要があると思えるが、無駄に思える知識を得るためには好奇心が必要なのだ。
好奇心に乏しく、興味関心が薄い人物で、豊かな人生を生きている人がいるだろうか?
わたしは今までに多くの人に出会うことができたが、人生を豊かに生きている人は、好奇心を抱き、多くのことに興味関心を持つ人物であったように思える。
例えば、好きなこと、やりたいこと、興味のあるもの…
このような問いに即答する人は、自分の好奇心を満たすための具体的な行動を起こしている場合が多く、そのような態度の人はやはり豊かに生きているのである。

2017年11月22日水曜日

追憶 1872

わたしが友人に聞かせた話は、友人にとっては価値の見出せない無駄なものであったかもしれない。
しかしながら、この世界には無駄なものはなく、無価値なものも存在しないのである。
今は価値の見出せない無駄な知識であったとしても、それはいつか役に立つ時が来るのである。
知識とは、食材のようなものであり、様々な組み合わせによって味を変える。
出汁(だし)や調味料は地味な食材であり、料理に疎(うと)い人には無駄に思える食材であるかも知れないが、それによって料理の出来は大きく変わってしまう。
食材に様々な選択肢があれば、美味しい料理を作ることも出来るが、食材に選択肢が無ければ、料理の出来はいまいちなものになってしまうのである。

2017年11月21日火曜日

追憶 1871

多くの人は、知識の在り方を誤解している。
人は、無駄だと思える知識も学ばなければならないのだ。
今の自分には関係ない。
興味が抱けない。
役に立たない。
無駄に思える。
様々な理由によって、人は知識を否定する。
喉の渇きを覚えない老人が、熱中症によって命を落とすのと、知識の渇きを覚えない若人(わこうど)が自殺によって命を落とすことは、原理としては同じことなのである。
そのため、知識の渇きを覚えなくても、人は知識を得る必要があると理解しなければならない。

2017年11月20日月曜日

追憶 1870

知識が与えられるのを待っているのであれば、やがて知識の枯渇(こかつ)が生じる。
それは、やがて人生に対する問いと答えを失うことに繋がるのである。
喉の渇きを覚えなくても、水分(ミネラル)を補給することは重要だ。
例えば、熱中症のように、必ずしも喉の渇きを覚えなくても死を引き起こす可能性のある状態も存在している。
新たな知識を蔑(ないがし)ろにして、既知(きち)や既成概念に埋れていると、そのまま無知の暗中に引き込まれてしまうのである。

2017年11月19日日曜日

追憶 1869

人生において重要なことは、人生の意義を探すことにあるのだと思える。
それは、”人生とは何か?”という根源的な問いに答えを導くということだ。
自らの知恵に満足している人は、その状態での意義を見出しているだろう。
それを幸せと感じるのであれば、それで良いと思う。
しかしながら、人が新たな経験を経ることによって成長した時には、今までの幸せを幸せとは感じられなくなってしまうのである。
そのような過程は何度も繰り返される人生の必然であるが、多くの人はそのことを知らずにいたり、忘れてしまうのだ。

2017年11月18日土曜日

追憶 1868

待っていれば幸福が訪れるということは有り得ない。
喉が渇いたからといって、空に向かって口を開けて待っているとでもいうのだろうか?
人々の態度を見ていると、口を開けて待っていると、雨粒が都合良く降り注ぎ、喉の渇きを潤してくれるとでも信じているように見えてくるのである。
ソクラテスの”無知の知”を実感している人がどれだけいるだろう?
多くの人は、自分が無知であることを知らずにいる。
そして、どういう訳か、自分の知恵が十分であると思っているのだ。
知恵が十分であると思っているために、勉強したり、何かを積み重ねる努力を怠(おこた)り、息抜きの時間を過ごすのである。

2017年11月17日金曜日

追憶 1867

多くの人は、知らなくても人生が豊かさを増すような解釈をしている。
多くの人は幸福を求めているが、何かを勉強したり、努力して積み重ねるということはしない。
知らなくても幸福を得られると誤解しているのである。
残念ながら、無知な者が幸福を得ることはない。
それは、知識は選択肢であるからだ。
そのため、知識に乏しい者は選択肢にも乏しい。
選択肢が乏しければ、可能性を広げることは出来ない。
それでは、幸福は得られないのである。

2017年11月16日木曜日

追憶 1866

彼女は、困惑しているようであったが、前向きにわたしの話を理解しようとしてくれているようであった。
わたしの仕事は、彼女に霊的な話を理解させることでもなければ、それを信じさせることでもない。
わたしは、誰かに霊的な世界を理解して欲しいとも、信じて欲しいとも思わないのである。
理解する状態にある人は勝手に理解するし、信じられる状態にある人は勝手に信じるのである。
わたしが誰かの行動を左右する必要などないのだ。
わたしの仕事は、人に選択肢を与えることである。
人は、知ることによって選択肢を広げることができる。
そのために、わたしは知らせるのである。

2017年11月15日水曜日

追憶 1865

わたしの話を聞いた友人は、常識を外れた内容を受け入れるための手掛かりを探してくれているようであった。
今までに体験したこともなければ、深く考えたこともなく、周囲の人たちからは怖いものや悪いものとして教育を受けてきたはずである。
そのような話を素直に受け入れられるはずもないであろう。
しかしながら、今回は友人であるわたしからの話である。
そして、それは起承転結(きしょうてんけつ)に沿った構成であり、既に解決している内容だ。
何かを要求する話ではなく、事後報告なのである。
彼女にとっては、そこまで難しい話ではないだろう。

2017年11月14日火曜日

追憶 1864

もちろん、相手への気遣いは必要である。
自分への余計な気遣いは必要ではないということだ。
自分への余計な気遣いとは、相手に変に思われるのではないか?嫌われるのではないか?などという心配のことである。
人は、他者に変に思われようが、嫌われようが良いのである。
自分が考える思いやりを忘れなければ、相手がどのような判断を下したとしても、それが最善の結果へと結び付くのだ。
人は言いたいことは言わなければならない。
自分に遠慮する必要はない。
相手に対する気遣いさえ忘れなければ、絶対に悪いことにはならないのである。

2017年11月13日月曜日

追憶 1863

そこでわたしは、会話の切れ目を探して、そこに友人の義母に関する話を切り出すことにした。
わたしは自分が体験したことを、出来る限り素直に、有りの儘(まま)を忠実に話した。
わたしには嘘を吐くような器用さはない。
体験をそのまま伝え、どう捉(とら)えるかは友人に任せるしかないのである。
受け入れることができれば、それは役に立つだろうし、受け入れることができなくても、それで役に立つはずだ。
人に何かを伝える時には、余計な脚色も気遣いも必要ないのである。
事実を伝え、判断は相手に任せるのである。

2017年11月12日日曜日

追憶 1862

店の扉を開くと、扉にぶら下げてある小さな鐘が心地好く鳴った。
それと同時にどこからか友人の快活な挨拶が響いた。
声は店の奥から聞こえているらしい。
柱の陰から顔を覗かせた友人がわたしを認めた。
友人は先日の義母の葬儀のお礼を口にした。
わたしは言葉を返しながら、同時に店の状況を確認していた。
幸いなことに他の客はおらず、忙しそうな気配もない。
話をするには最良の状況だと思えたのである。

2017年11月11日土曜日

追憶 1861

そのため、霊的な話をする時には、相手の許容を見極めながら、唯心論と唯物論の構造とバランスを考慮した話をしなければならない。
どのような話も、相手が聞き易いように、受け入れ易いように工夫しなければならないのである。
自分だけが分かったような話し方ではならないだろう。
大切なのは、理解を得ることであって、知識をひけらかすことではないのだ。
自分が尊敬される必要も、利益を得る必要もない。
その話によって、相手が何かを理解し、何か大切なことに気が付くことができれば良いのである。

2017年11月10日金曜日

追憶 1860

人は、唯心論によって”神”に近付き、自分が全体の中の一部であることを忘れる。
人が”神”に近付く時、部分性に対する反発が生じる。
人は全体の中の一部であるが、決して全体そのものではない。
唯心論は人を盲目にし、部分性を見失わせる。
部分性を見失った人間は、自分が”神”だと思い込み、傍若無人な振る舞いを行う。
それでは、豊かさを築くことはできないのだ。
それが、唯心論の問題である。

2017年11月9日木曜日

追憶 1859

唯心論の問題は、”神”に近付き過ぎることにあるが、それは、全体性に陶酔(とうすい)することによって、自分が全体の中の一部であるということを忘れることである。
それは、自分を”神”とする思い上がりに繋がる。
唯心論に傾倒する人は、宗教に属し易(やす)い。
または、宗教を立ち上げるかも知れない。
人は信仰の違いによって争ってきた歴史を持つ。
自分が正しいという思い上がりによって、人は争うのである。

2017年11月8日水曜日

追憶 1858

心に不安を抱えている人は、破滅的な選択をしがちである。
それは、唯物論によって”神”を離れるということである。
人が”神”を離れる時、全体性との反発が生じる。
それは、人が利己主義に走るということだ。
人は全体の中の一部である。
唯物論は人を盲目(もうもく)にし、ただの一部として孤立させてしまう。
孤立した人間は、”神”を恐れることもなく、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な振る舞いを行う。
それでは、豊かさを築くことはできないのだ。
それが、唯物論の問題である。

2017年11月7日火曜日

追憶 1857

唯物論に傾倒する人は不安を語り、唯心論に傾倒する人は希望を語る。
人の心は、そういった傾向にあると思える。
もちろん、例外はあるが、割合としてはそのような状態の人が多いと言えるだろう。
唯物論に傾倒している人の心の深くには強い不安が存在している。
そのため、多くを所有しなければならない。
唯物論に傾倒する人は、資本主義に従い、奪い合いのゲームを始める。
唯物論に傾倒する人(国や企業)が自然環境を破壊してまで利益を求めるのは、心の根底に不安を抱えているからなのである。

2017年11月6日月曜日

追憶 1856

この世界には、陰陽の仕組みが存在しているが、それに当てはめて考えれば、唯物論とは陰であり、唯心論は陽の性質を持っていると言えるだろう。
人は、陰陽の性質を持っているが、割合としては陽の性質の方が多いと思える。
8時間を睡眠にあて、16時間を活動にあてているような割合なのではないかと思える。
そのため、人は陽の割合が多いものに美しさ(魅力)を感じるのではないだろうか?
例えば、陰をネガティブな言葉や感情として、陽をポジティブな言葉や感情とする。
ネガティブな言葉や感情が悪いという訳ではないが、その割合が大きければうんざりしてしまうだろう。

2017年11月5日日曜日

追憶 1855

韓国人選手を卑下(ひげ)するつもりはない。
彼女はわたしには出来ないことが出来るのである。
その時点において尊敬に値する人物なのだ。
個人的な見解では、韓国人選手とそれに関わる人達は、唯物論に傾倒していたのだと思える。
それは、数字や成績を強く求めたということである。
そのため、ルールに従い、合理的な方法を用いて良い成績を得たのであろう。
一方、日本人選手とそれに関わる人達は、唯心論に傾倒していたのだと思える。
それは、数字や成績を求めないということではないが、日本における独特な文化である心を、数字や成績以上に強く求めたのではないかと思えるのである。

2017年11月4日土曜日

追憶 1854

女子のフィギアスケートの世界では、一世代前にある日本人選手と韓国人選手の存在が話題になっていた。
メディアは二人の少女をライバルとして扱い、テレビや新聞などから情報を得ている人達にはそう信じさせた。
数字だけ見れば、二人の少女はライバルだったのかも知れない。
しかしながら、わたしの素人目で見ても、二人の演技には大きな違いがあるように思えたのである。
わたしはどちらかを贔屓(ひいき)している訳でも、どちらかを嫌いな訳でもない。
フィギュアスケートに詳しい訳でもない。
しかしながら、数字上では劣る日本人選手の演技は、指先から足先までしなやかで美しく、見ていて惚れ惚れするものなのである。

2017年11月3日金曜日

追憶 1853

それを気にしない人もいるだろうが、ある程度精神的に成長すれば、そのようなものは受け付けなくなってしまうだろう。
唯物論と唯心論を互いに意識している人にとっては、ものを大切にしないことは耐えられないのである。
人は皆、成長を求められている。
それは、物質の中に意識を見ることである。
意識の先に物質を見ても良いだろう。
より良く、より本質的なことが成長なのである。
そのため、ある程度成長した人は、所作に美しさを備えている。
それは、気品として雰囲気を形成する。
気品をまとった人は気高く、尊(とうと)ばれるのである。

2017年11月2日木曜日

追憶 1852

心(魂)のこもった所作(しょさ)は美しい。
例えば、能楽(のうがく)や日本舞踊(にほんぶよう)を始め、茶道や書道、花道や弓道、剣道や柔道など、所作の美しいものには心が必要なのである。
心がこもっていない所作は、不快感さえ与えるものになる。
だらけた所作に美しさを覚える人がいるだろうか?
残念ながら、そのような人は僅(わず)かであるだろう。
お店に入って、商品が乱雑に置かれ、店員の態度も横柄(おうへい)であり、埃(ほこり)やゴミが溜まっていたらどうだろうか?
友人や恋人の部屋が汚なくても、同じように接することが出来るだろうか?

2017年11月1日水曜日

追憶 1851

生活における形式美とは、規律を守り、整理整頓を行い、優美な時を過ごすことである。
簡単に言えば、良く働き、良く遊び、良く休み、良く学ぶということだ。
無作法であり、乱雑な生活を送る人には優美な時を過ごすことはできないのである。
日本には、”心”という概念が存在する。
それは、魂と言い換えても良いだろう。
日本では、古来からすべてに魂が宿ると考えられてきた。
心のこもったものが上級とされてきたのである。
そのため、人生の質を高めるためには、心のこもった生活を送ることが求められるのである。
唯物論と唯心論が合わさった時に、そこには心のこもった生活が導かれる。

2017年10月31日火曜日

追憶 1850

大切なのは、当たり前の日常に対して、唯心論と唯物論を同時に持ち込むことである。
すべてを唯心論的に捉え、同時にすべてを唯物論的に捉えるのである。
例えば、日本においては、”物を大切にする”という思想がある。
これは、とても大切な思想であると思える。
物を大切にするということは、唯心論的な価値観と、唯物論的な価値観の両方を必要とする。
物とは、物質である。
それを大切にするのは精神の力である。
物を大切にするという思想によって、生活は美しくなる。
そこには、生活の形式美というものが導かれるのだ。

2017年10月30日月曜日

追憶 1849

唯心論に重点を置く人は、俗世間から離れようとする。
寺や山や特殊な場所に身や精神を置き、社会のルールや人間関係を離れて、不自然な生活を試みるのである。
当然、思想体系も偏(かたよ)る。
例えば、”神”の名を公言し、小さな世界の戒律(かいりつ)に縛られている。
それで可能性が広がるのであれば良いだろうが、大抵の場合は可能性を乏しくする。
なぜなら、結局は、誰かの決め付けを守っているだけであるからだ。
親の決め付けを守り続けた子どもは悲惨な人生を歩む。
世間では、反抗期が無いことを喜んでいる人もいるが、わたしには従順な”僕(しもべ)”を得て自尊心を保つことができた哀れな人が、愚かにも安心しているようにしか見えない。
唯心論に重点を置く人は、もう一度、この世界に生まれ落ちた意味を改める必要があると思うのである。

2017年10月29日日曜日

追憶 1848

それは、考え方や生き方にも反映されなければならない価値観であるだろう。
わたし達はこの世の富を得るためだけに生きてはならない。
財産を蓄え、子孫を繁栄させることだけに専念してはならないのである。
財産を蓄えることも、子孫を繁栄させることも良いが、この世の富を得るのが動機であるのならば、それは歪んだ結果を導くであろう。
大切なのは、この世においてあの世の富をも蓄えることなのである。
あの世の富とは、徳(とく)のことだ。
徳とは、この世においては見えない財産なのである。
見える財産を蓄えるのも良いが、見えない財産を蓄えることも忘れてはならないだろう。

2017年10月28日土曜日

追憶 1847

大切なのは、この世界が唯心論と唯物論によって支えられているということである。
肉体だけではただの肉塊に過ぎないし、霊体だけではただのエネルギーに過ぎない。
肉塊とエネルギーが互いに支え合うことによって、この世界に人の存在が許されるのである。
そのため、人は唯心論と唯物論の両方を大切にしなければならない。
肉体を肯定(こうてい)し、霊体は否定するという考えでは、世界が歪み、その捉え方は浅くなってしまうのである。
水の底を見るためには、水面が揺れていてはならないのである。
唯心論か唯物論のどちらかのみを信仰している人には、物事の本質を見極めることはできないのである。


2017年10月27日金曜日

追憶 1846

霊的な力(唯心論)から目を背ける時、人は唯物論を捕らえる。
唯心論も唯物論も、世界の捉え方に過ぎない。
それは、物理学と量子力学の違いのようなものであるだろう。
どちらも、同じ世界を捕らえているが、見え方には大きな違いが現れる。
心臓も霊的な力が働かなければ動くことはないが、それを認めようとはしない。
現時点において、分からないことは分からないし、理解できないことは理解できないのである。
しかしながら、唯心論と唯物論に二分された人たちは、自らの信じる理論によって世界を断言しようとしているのだ。

2017年10月26日木曜日

追憶 1845

すべてにおいて、霊的な力は本質であると思える。
霊的という言葉でなくても良いが、不思議な力によってすべてが活動しているのは事実である。
アインシュタインは、物理法則の中に神聖な存在(神)を見出したのであろう。
わたしも、自分なりにすべての中に不思議な力を感じるのである。
それを神と呼んでも良いだろう。
考える程に、不思議な力は不思議さを増していく。
向き合う程に、その力に驚くのである。
しかしながら、多くの人はそれを気にしてはいない。
神など存在しないと考えている人も多いのである。

2017年10月25日水曜日

追憶 1844

合理的に設計された肉塊(にくかい)がどうやって生み出されたのかも不思議ではあるが、その動力の存在はより不可思議である。
死を受け入れた肉体は、横たわる肉塊に過ぎない。
何が肉塊に過ぎないものに熱を与え、肉体として活動させているのであろうか?
そして、何が肉体に人格という心を与えているのだろうか?
わたしには到底辿り着くことのできない答えであるだろう。
科学者に命を創造することができるだろうか?
未来のことは分からないが、現状においてはできないのではないだろうか?
霊的な働きを定義することはできないだろうが、その不思議な力を無視することはできないだろう。


2017年10月24日火曜日

追憶 1843

例えば、心というものは、大きく分けて感情と思考によって形成されていると思うが、感情と思考は霊的な働きであると思える。
どうすれば、水分、脂質、塩分、糖分、たんぱく質、カルシュウム…などの物質の塊(かたまり)に過ぎない人体が、感情と思考を生み出せるのだろう?
なぜ、同じ人体であるにもかかわらず、好みがこれ程までに甚(はなは)だしく分かれるのだろう?
人体的な構造には、それ程の違いはないと思える。
しかしながら、人の個性には大きな違いがあるように思えるのだ。

2017年10月23日月曜日

追憶 1842

以前のわたしがそうであったように、友人も同じように霊的な存在に対する歪んだ教育を受けているはずだ。
誤解を招くと、その後が拗(こじ)れて面倒なことになってしまう。
それは、人の人生を観察した時には、霊的な要素が必要不可欠であるからだ。
残念ながら、人生を真剣に考える時には、霊的な要素を無視することはできない。
例えば、アインシュタインは20世紀を代表する理論物理学者であるが、彼は神の存在を信じていたようだ。
科学者だろうが、経営者だろうが、主婦であろうが、本質を目指す人は霊的な要素を必要とする。
霊的な要素を無視すれば、決して本質には辿り着けない。
それは、すべての本質が霊的な要素であるからだ。

2017年10月22日日曜日

追憶 1841

最も多い誤解が、霊的なものが恐ろしいという誤解である。
表面的に見れば、それは恐ろしいものとして映るだろう。
それは、幼い頃からの教育が、霊的な存在や現象を恐ろしいものとしていることに由来している。
多くの人は視聴率を稼ぐために制作されたテレビ番組を観ている。
視聴率を稼ぐためには、過激な表現を必要とするが、それが過剰な演出として視聴者の感情に誤解を与える。
そして、認識の浅い自称霊能力者達は、無知や愚かさや地位や名声や財産のために、霊的な存在を利用して恐怖を煽(あお)る。
その教育を受けた親は恐れを抱き、態度や言葉によって子に再教育を行う。
そのような環境で育った人間は、霊的なものを特別視することによって、誤解に陥(おちい)るのである。

2017年10月21日土曜日

追憶 1840

考えも無しに霊的な話をすることはできない。
それは、どのような話でも同じことではあるが、人にはそれぞれに許容があるからだ。
人は、受け入れることのできない話は拒絶するのである。
拒絶されると、話が拗(こじ)れてしまう。
それは、可能性を得ることを否定することに等しい。
一度、拒絶された話を続けるのは難しい。
それは、人が簡単には態度を変えることができないからである。
そのため、霊的な話は慎重に進めなければならない。
それは、勝手な誤解をされることが多いからである。

2017年10月20日金曜日

追憶 1839

後日、わたしは友人と会うために、友人の店に向かった。
駐車場に到着すると、わたしは老女のことを思い出していたが、それはポジティブな思い出となっていた。
友人はいつものように明るい笑顔で出迎えてくれた。
しかしながら、友人の雰囲気は以前よりも軽いものに感じられたが、それは、義理の母親への心配が不要になったことによるものだろう。
友人は義理の母親のことを大切に思っていたので、今回の葬儀によって肩の荷が下りたのではないだろうか?
わたしは益々、義理の母親(老女)が無事に旅立ったことを伝える必要があると感じた。

2017年10月19日木曜日

追憶 1838

わたしは、自分が経験したことを、それに関わる人達と共有したいと考える。
光の天秤は、その考えを現しているだろう。
そのため、わたしは老女と黒い人影達のことを友人に伝える必要があると考えていた。
友人はそんなことに関心を示さないかも知れないが、わたしには役に立つ学びであったのだ。
わたしに役に立つことは、きっと他人にも役に立つはずである。
役に立つかどうかは、役立たせるかどうかということだ。
情報をどのように扱うのかはその人次第ではあるが、情報を所有していることによって選択肢は広がる。
そのことを考えて、わたしは自分の体験を友人に伝えることにしたのである。


2017年10月18日水曜日

追憶 1837

老女と黒い人影達が生まれ変わり、新たな人生を生きるかは分からないが、もしもそうなれば、今回の人生の経験が役に立つはずである。
どのような形で役に立つかは分からないが、無駄な経験でないことは確かなことである。
その時は、過去世の記憶として、わたしとの経験も思い出すかも知れない。
そう考えると心が躍(おど)った。
しかしながら、わたしにはそれを確認する術は無い。
それは、それが他者の人生だからである。
だから、わたしは二度と会えないかも知れない老女と黒い人影達の幸福を願った。


2017年10月17日火曜日

追憶 1836

人生とは、過去世の成果である。
すべての人の魂には、過去世の経験値が蓄積されているのだ。
それを引き出すことができれば、人生に豊かさを導くことができるだろう。
しかしながら、多くの人はそれを引き出す術を知らない。
そのため、問題に捕まってしまうのである。
しかしながら、問題は悪いものではない。
問題は、あなたに魂の蓄えである過去世の経験値を思い出させようとしてのいるのだ。
そのため、すべての人は問題と向き合う必要がある。
問題こそが過去世の扉を開く鍵なのである。

2017年10月16日月曜日

追憶 1835

しかしながら、それはゼロからのスタートではない。
例えば、前世の体験や体系化した価値観は引き継がれる。
それは、記憶として反映されるようなものではないが、性格や関心などの特徴として所有するのである。
老女や黒い人影達は今回の人生において、どうすれば死後に炎に焼かれて苦しむのかを知った。
それは、次の人生に利用することができる財産として魂に蓄積される。
それを引き出せば良いのである。
しかしながら、銀行の口座にどれだけの預金があっても、それを知らなかったり、引き出さなければ得られないのである。

2017年10月15日日曜日

追憶 1834

死とは終わりである。
しかしながら、それは同時に始まりでもある。
すべての終わりは始まりに繋がっている。
それは、夜と昼が繋がっているようにである。
すべての始まりは、終わりによって導かれるのである。
そのため、現状を終わらせなければ、新たな可能性を得ることは出来ないのだ。
多くの人は存続を喜ぶが、同じ状態が続いてはならないのである。
生命は死を得る。
それは、新たな生を得るためである。
わたしは過去に死を得て、今に別の人生を得た。
今回のわたしは、松岡 真として生きているが、過去の人生においては別人として生きていたのである。
別人としてのわたしが死を得ることによって、新たな可能性として、松岡 真という人生が始まったのである。

2017年10月14日土曜日

追憶 1833

もちろん、霊的な存在であっても不自由な存在はいる。
老女や黒い人影達は不自由の中に存在していたのである。
わたしがいうのは、守護者や天使などの柵(しがらみ)を離れた存在のことである。
人は、感情的な柵の中に存在している。
そのために不自由なのである。
感情的な柵の中で生きるというのは、不自由の中に生きるということだ。
自由を得るためには、感情的な柵を手放さなければならないが、それは感情的な柵の中で死を得るということなのである。

2017年10月13日金曜日

追憶 1832

死は、可能性の限界ではない。
わたしは寧(むし)ろ、死によって可能性は広がると思っている。
それは、わたしが幾つかの前世の記憶を持っていることや、霊的な存在達と対峙した経験によって導き出した答えである。
わたしには、霊的な存在達の方が自由に映る。
人は皆、不自由な存在であると思うのだ。
小さなことにいつまでもくよくよと思い悩み、自分を何かに縛り付けている。
そのような人間の態度を、わたしは不自由に感じてしまうのである。
霊的な存在達には、人間が抱えている不自由さは感じない。
誰もが、自らの役割りを理解し、それに従っているように思えるのである。

2017年10月12日木曜日

追憶 1831

既に身体を支配していた重さは無い。
気分の悪さも去り、心地の好い気分だけが残っていた。
わたしは昼寝から目覚めた時の充足感に似た気分に促(うなが)されて瞼(まぶた)を開いた。
フロントガラス越しの青空を眺めながら、老女と黒い人影達のことを思い返していた。
わたしは可能性を掴んだ彼等を羨(うらや)ましく思っていたのである。
それは、幼い頃のわたしが、友人が買い与えられた新しい玩具(おもちゃ)を羨ましく思い、わたしも新しい玩具が欲しいと願う心の働きと同じであるだろう。
わたしも、彼等のように新しい可能性を欲していた。
それは、新しい可能性が楽しみであることを知っているからである。

2017年10月11日水曜日

追憶 1830

現状に文句を吐いているようでは、あの光に到達することは出来ないであろう。
現状に文句を吐いているのであれば、人は炎に焼かれてしまうのである。
わたし達はできる限り、現状に可能性を見出し、文句を吐かなくても良いように自らを整えておく必要があるだろう。

光り輝く彼等は、天の光に溶けるようにして去った。
そして、天の光が閉じると同時に、わたしは視界を失った。
わたしは暗闇の中に独り取り残されたが、それが瞼(まぶた)の裏であることは容易に理解することができた。

2017年10月10日火曜日

追憶 1829

しかしながら、それは現実逃避ではない。
どちらかといえば、わたしは現実的な価値観に従って生きている。
多くの人は”奇跡”を求めているが、わたしはそのようなものは信じていない。
”神様”が救ってくれるなどとも考えない。
人生は、考えたようにしか成らないし、行ったようにしか成らない。
そのため、より良い生き方について考え続けているのである。
わたしは死後の豊かさを実現するために、生前の豊かさを探し求めている。
生前に豊かさを実現することができない者には、死後の豊かさを実現することはできないと考えるからだ。
目の前には、常に可能性が存在しているが、それを見出すのである。

2017年10月9日月曜日

追憶 1828

何かを始めた者は、必ず何等かの可能性を掴む。
それがどのような状況や結果を導こうとも、それは紛れもない可能性なのである。
天に輝く光の先には、彼等にとっての大きな可能性が存在しているに違いない。
あの美しい光を見て、何の可能性も感じない人はいないだろう。
わたしはあの美しい光の先には、この世界では得ることのできない大きな可能性があると確信している。
あの美しい光を見る度にそう思うのである。
そのため、わたしはいつも死にたいと思っている。

2017年10月8日日曜日

追憶 1827

すると、老女と黒い人影達は光を放ち、やがて全体が光に覆われた。
それぞれが光の塊(かたまり)となり、光り輝いている。
それは、春の柔らかな日差しのように、希望に満ち溢れた光であった。
これから、彼等は春の芽吹きのように、エネルギーに満ち溢れ、様々な可能性を見出すだろう。
今の彼等ならば、苦しみに立ち止まることなく、先へ進むことができるはずである。
光を放つ彼等は、軽くなってわたしの腕を離れた。
そして、天に輝く光へと上昇していった。
それは、一つの大きな可能性である。

2017年10月7日土曜日

追憶 1826

わたしは胸に空いた光の扉に腕を差し入れ、老女と黒い人影達を掴んだ。
そして、それを力一杯に引き摺(ず)り出したのである。
沈黙を得た彼等は、何の抵抗も示さず、素直にわたしの行為に従った。
彼等を腕に抱えたままで光の扉に対して十字を描くと、それは掌(てのひら)で溶ける雪のように優しく消えた。
わたしは静寂を喜んだ。
老女と黒い人影達は何の反応も示さないが、彼等からは穏やかなエネルギーのようなものを感じ取ることができる。
それも喜びとなった。
わたしは彼等が救われることを願って、愛情の赴(おもむ)くままに抱き締めた。

2017年10月6日金曜日

追憶 1825

胸に二回、わたしの右手が円を描いた。
それは、わたしの胸に金色に輝く”穴”を開けた。
それは、わたしと老女と黒い人影達を繋ぐ光の扉である。
光の扉を介(かい)すると、わたしは霊的な存在に触れることができた。
わたしは老女と黒い人影達をいつまでもとどめておくことはできない。
可能性を見た彼等は、それを得なければならないのである。
そのためには、わたしの中にいつまでもとどまっていてはならないのだ。
可能性を得るために、彼等は彼等なりに歩き出さなければならないのである。

2017年10月5日木曜日

追憶 1824

黒い煙が去った後、わたしの中には沈黙と、老女と黒い人影達が残った。
彼等はもう、炎に焼かれてはいない。
彼等はもう、苦しみを手放したのである。
それは、光の十字架が彼等に対して、何等かの可能性を見せたからであろう。
可能性を見た彼等は、これ以上苦しむ必要がなくなったのである。
死んだように動かなくなった彼等を見て、わたしは胸を撫(な)で下ろした。
これ以上、彼等の苦しむ姿は見るに堪えないし、彼等の悲鳴は聞くに堪えないからである。
わたしは心から、彼等が歪んだ感情を手放し、苦しみの炎から解放されたことを喜んだ。

2017年10月4日水曜日

追憶 1823

真実は、人の心の数だけ存在している。
天国と地獄の議論があるが、人は信じているものしか見ないし、受け入れない。
天国と地獄は存在しているかも知れないが、それを信じていない人には見えないし、辿り着くことも出来ないのである。

わたしはゲップと共に、黒い煙のようなものを吐き出した。
それは、老女と黒い人影達の抱えていた破滅的な感情である。
わたしの右手は再び宙に十字を描いた。
そして、黒い煙に光の十字架を投じた。
すると、黒い煙は光の十字架によって光の粒となり、軽くなって天に輝く光に向かって昇っていった。

2017年10月3日火曜日

追憶 1822

悪夢に実体は無いが、それを体験している人はそれを鮮明に感じている。
悪夢には実体が無くても、そこに生じる感情には実体が存在するのである。
人は感情の生き物だと言われるが、思い込みによって生きているのが実態であるだろう。
思い込みとは、感情の導きである。
人は、感情による思い込みに従って生きる。
老女と黒い人影達は、自らの抱える感情によって、今もなお苦しんでいるのだ。
光の十字架は、彼等の執着する感情を打ち砕(くだ)くための道具なのである。

2017年10月2日月曜日

追憶 1821

ブレーキを弱めるためには、思い込みを手放さなければならない。
それは、苦しみが存在するという思い込みである。
老女も黒い人影達も、苦しみが存在しているという思い込みを所有している。
苦しみは破滅的な感情を強める原因となる。
苦しみが存在していると考えている人の足取りは重たいのだ。
苦しみとは、それを苦しいと考えている人だけに引き起こされる感情である。
同じ状況を得ても、それを楽しいと考える人には苦しみは訪れない。
そのため、苦しみとは単なる思い込みに過ぎないのである。
それは、悪夢にうなされるようなものであるだろう。

2017年10月1日日曜日

追憶 1820

黒い炎に焼かれている彼等は、ブレーキを強く踏んで停滞しているような状態である。
それは、炎天下にエアコンの効かない車で停車しているようなものだろう。
文字通り焼かれているのである。
エアコンが効かなくても、走っていれば快適に過ごすことが出来る。
人生もそれと同じようなもので、立ち止まってしまうと苦悩することになるのだ。
ブレーキを弱めなければ、前進することは出来ない。
光の十字架は、彼等にブレーキを弱めるように促しているのである。

2017年9月30日土曜日

追憶 1819

光の十字架によって、彼等の抱える破滅的な意識が取り除かれていく。
それは、破滅的な意識が彼等の可能性を奪っているからであろう。
光の十字架は、彼等にとっての希望の光である。
希望とは可能性のことであり、それを見出すためには、破滅的な意識が足枷(あしかせ)となっているのだ。
破滅的な意識とは、自動車でいうところのブレーキと同じ働きをしている。
それは、止まる力である。
道を進むためにはブレーキの働きは必要であるが、強く踏んでしまえばその場に停滞してしまう。
大切なのは、アクセルに対してブレーキは弱く使うことである。
破滅的な意識は必要不可欠な感情ではあるが、可能性を見失っている時には、それを弱める必要があるのだ。

2017年9月29日金曜日

追憶 1818

わたしは光の十字架を掴むと、それを自らの胸に突き立てた。
光の十字架は、新雪を踏み締める時のような抵抗を伝えながら、胸の中に収まった。
すると、光の十字架はわたしを無視して、老女の胸に突き刺さったのである。
鋭い悲鳴がわたしの頭蓋(ずがい)に響いた。
それに続いて、黒い人影達も同じように叫んだ。
彼等の全身からは、黒い煙のようなものが立ち上っている。
それは、彼等の抱える破滅的な意識であるだろう。

2017年9月28日木曜日

追憶 1817

悲しみに従って行くと、間も無く哀(あわ)れみに辿り着いた。
わたしの心は、老女と黒い人影達を哀れんだのである。
すると、わたしの意思に関係なく、右手が目の前の空間に十字を描いた。
目の前には金色に輝く光が現れたが、それはやがて十字架の形を成した。
わたしは光の十字架を老女と黒い人影達に届ける必要があると感じた。
これは、彼等にとっての希望の光となるであろう。

2017年9月27日水曜日

追憶 1816

死後の可能性とは、”あの光”を得ることだろう。
あの光とは、天に輝く光のことである。
満たされない霊的な存在が満たされた時には、必ず天に輝く光が現れ、彼等は例外なくそこへ向かう。
光の先には”天国”があるかも知れないし、転生があるかも知れない。
光の先に何があるにしても、停滞を免れることは確実である。
暗闇で苦しむよりも、光に向かって進む方が良いと思えるのは、偏見であるかも知れないが、わたしにはそう思えるのである。

2017年9月26日火曜日

追憶 1815

心の整っていない人は、人生が思い通りに展開しないことが自然であることを理解しない。
それは、自分自身が歪んでいるという事実を受け入れることが出来ないからだ。
そのため、人生(や他人)が自分の期待に応えてくれないと嘆(なげ)き悲しむのである。
それは結果として、心に執着を生み出してしまう。
悲しみの感情によっては、心が満たされることがないからである。
心が満たされない人は、それを満たそうとして不満に執着してしまうのだ。
その不満とは、生前に生じたものである。
そのため、多くの人は死後にも生前(の感情)に執着することになる。
死後にも生前に執着するということは、死後の可能性を否定するということなのである。

2017年9月25日月曜日

追憶 1814

人生は、思い通りにいかないことばかりである。
わたしは今までに、人生が自分の思い通りに進んだことなど一度も無かったと記憶している。
わたしの目の前には、いつも思い通りにいかない現実が存在していたのである。
これは、他のすべての人にも言えることだろう。
誰も、自分の思い通りに人生を展開させることは出来ない。
残念ながら、人生は思い通りにいかないものなのである。
心の整っていない人には、それを人生の裏切りだと考えることだろう。

2017年9月24日日曜日

追憶 1813

それは、彼等の本質が悲しみにあるからだろう。
人は、悲しみによって苦しむのである。
例えば、怒りの感情の本質も悲しみであるだろう。
初めから怒りの感情を所有している人はいないのではないだろうか?
期待を裏切られた(自分勝手に期待したのだが)悲しみの積み重なりによって、怒りの感情が形成されるのではないかと思うのである。
怒りの積み重なりは、やがて苦しみとなる。
そのため、苦しんでいる人は怒りを抱えており、怒りを抱えている人は悲しみを抱えているのだ。
老女や黒い人影達も、その本質には悲しみを抱えているのである。
そのために、わたしは悲しみを感じているのだろう。

2017年9月23日土曜日

追憶 1812

わたしは老女と一体化し、苦しみの炎に焼かれた。
痛みを感じることはないが、強烈な苦しみを感じる。
わたしは自分の肉体が、地響きのような唸(うな)り声を上げているのに気が付いた。
わたしの喉(のど)は、低、中、高音の唸り声を同時に出している。
それは、老女を含(ふく)めた黒い人影達の呻(うめ)き声であるだろう。
彼等の呻き声を聞いていると、わたしは悲しくなってきた。
霊的な存在と対峙すると、わたしはいつも悲しみの感情に出会うのである。


2017年9月22日金曜日

追憶 1811

言わば、人生とは、死後のための練習なのである。
練習で出来ないことは、本番にも出来ないだろう。
生前にやっていないことを、死後にやるというのは無理な話なのである。
人が死後に黒い腕に掴まれて、恐怖に沈まないためには、生きている時に死への恐怖を克服している必要があるだろう。
それから、様々なものに対する執着を手放すことが重要だと思うのである。
脅(おど)す訳ではないが、わたしが黒い腕に掴まれているように、生きている人であっても、老女と同じような状態を得る可能性が十分に考えられるのだ。
生前の練習(思考や行為の習慣)の成果が、死後に実を結ぶということである。


2017年9月21日木曜日

追憶 1810

生前に心を腐らせていた人は、死後にも心を腐らせている。
生前に不満を打開して来なかった人は、死後にも不満を打開することは出来ない。
生前に苦しんでいた人は、死後にも苦しむことになる。
死後の世界を否定する人もいるが、それはそれで良い。
わたしは、誰かに死後のことを考えろと言いたい訳ではない。
しかしながら、満足の出来る死というものを迎えるためには、満足の出来る人生を生きていないといけない訳である。
死後の世界を否定する人にとっても、死を迎えるまでの時間を否定することは出来ない。
死後の世界とは、死に際の心境といっても過言ではないだろう。



2017年9月20日水曜日

追憶 1809

現状に対して恐怖心を抱くということは、それを拒絶しているのである。
拒絶すれば、何事も上手くは進まない。
拒絶は現状に停滞を導き、現状の停滞は心を腐らせてしまうのである。
心が腐るということは、苦しむということなのだ。
老女も黒い人影達も、死という現状を否定することによって心が腐った状態であったのだろう。
そのために、現状を打開することが出来ないのである。
心が腐っていない人は、どのような現状に対しても建設的な心で向き合うことが出来る。
それは、現状を打開する唯一の力であるだろう。

2017年9月19日火曜日

追憶 1808

生前でさえ、現状は心の状態を現す。
死後には、それが肉体や自然法則の影響を受けない。
そのため、霊(意識)的な存在となった死後には、何の障壁も無く、直接的に心の状態に左右されるのである。
多くの人は、心の重要さに気が付いてはいない。
心の状態こそが人生を築き、心の状態によって死後の状態が決まるのである。
心とは、現状の原因である。
これを考えずに現状に対してアプローチしたところで、現状に対して変化を導くことは出来ない。
それは、現状が心の状態だからだ。
現状に変化を導くためには、心根を変えるだけである。


2017年9月18日月曜日

追憶 1807

満足している者が苦しむだろうか?
残念ながら、そのような矛盾は生じないであろう。
目の前の状況に対して満足している者は、喜んでいるのである。
喜んでいる者は苦しんではいないのである。
人は、その心の中に一つの感情しか抱くことが出来ない。
同時に様々な感情を抱いているように思えることもあるが、刹那(せつな)を観察してみると、そこには一つの感情だけが存在していることに気が付くだろう。
生きている時には知り難いことではあるが、人生というものは、心の中で最も強い感情によって築かれている。
現状というものは、自分自身の心の中で最も強い感情に従ってそのようになっているのである。

2017年9月17日日曜日

追憶 1806

そして、何よりも、わたしの目的は死後に天使に成ることにある。
わたしは死後に天使に成りたいのである。
わたしは豊かに死ぬために生きているのだ。
豊かに死ぬためには、豊かに生きる必要がある。
わたしの場合は、死ぬことから逆算して生きている。
わたしの命は、死のために存在している。
死ぬことは、わたしの目的である。
そのために、死ぬこと自体に恐怖心を抱いてはいない。
寧(むし)ろ、死ぬことを楽しみにしていたりもするのである。

2017年9月16日土曜日

追憶 1805

わたしには、死に対するネガティブな感情はない。
20歳頃には自殺を”前向き”に検討(けんとう)していたし、いつも、わたしを殺してくれる霊的な存在を探している。
厳密には、わたしを殺すことのできる霊的な存在は存在しない(霊的な存在(他人でもそうだが)が人を不幸にしたり、呪い殺すことなど不可能である)が、それ程のネガティブなエネルギーを抱えている霊的な存在と対峙するのは、刺激的で楽しいに違いないからだ。
”普通”の霊的な存在との対峙も楽しくはあるが、命を掛けた対峙の方がより楽しいに決まっているのである。

2017年9月15日金曜日

追憶 1804

老女と悲鳴の中で、少しずつ身体と心の制御が失われていく。
わたしは鉛となって深い海の底へ沈んでいくような感覚を得た。
これは、恐怖の感情を引き起こすには十分である。
老女は、強い恐怖に溺れたのであろう。
わたしは老女の強い恐怖心と共に沈んでいくのであった。
黒い人影達も、同じように恐れたに違いない。
生前も死後も、人の道を分けるのは、恐怖心であるということなのだろう。
老女と黒い人影達は、恐れたのである。
そのために、苦しみの道を進んだのだ。

2017年9月14日木曜日

追憶 1803

すると、地鳴りのような音が聞こえてきた。
それは、車酔いの絡み付いて離れない不快感のようにわたしを襲った。
地鳴りのような音を聞いていると、黒い腕がわたしに触れた。
それは何本も伸びてきて、わたしの身体を掴むのである。
その時、地鳴りのような音が、黒い人影達の呻(うめ)き声であることを理解した。
黒い人影達は、わたしに絡み付いて離れない。
わたしは、老女のように成るのだろうか?
いや、既にわたしは老女であった。
わたしはわたしの内側に、老女の悲鳴を聞いた。

2017年9月13日水曜日

追憶 1802

車への足取りは重たいものであった。
会場を出た瞬間から、わたしは強烈な倦怠感(けんたいかん)に襲われていたのである。
会場を出た瞬間に、何かがのしかかってくるような感覚によって、わたしは車への道のりを遠くしたのであった。
身体は鉛(なまり)のように重くなり、視界は揺れた。
それでも、なんとか車へと辿り着き、シートに身体を投げた。
瞼(まぶた)を開けているのが辛かった。
光を見るのが苦しいのである。
わたしは反射的に瞼を閉じて、そのままシートに溺れた。

2017年9月12日火曜日

追憶 1801

霊的な力は、自分の意思で扱えるものではない。
わたしは老女と黒い人影達を見せられたが、それを観察することは許されたが、それ以外は許されなかった。
個人的には、なんとかしてあげたいが、私情で扱えるような力ではないのだ。
頼まれたから扱える力でもない。
すべては、わたしを”使う”霊的な存在が、その人の因果に従って決めることなのである。

会場を出る時に、遺族が見送りをしてくれる。
その中に友人の姿を認めた。
わたしは、自らの体験を友人に話さなければならないと感じた。
そこで、別れ際に話したいことがあることを告げて会場を出た。

2017年9月11日月曜日

追憶 1800

和尚達の”演奏会”が終了し、葬儀も終わりを迎えようとしていた。
それは、同時に老女が老女であることの終わりを意味しているようでもあった。
わたしには見ていることしか出来なかった。
それ以外は許されなかったのである。
わたしが老女に対してどのような形で関わるかを決めるのは、わたし自身の意思ではない。
それは、老女の因果やわたしを”使う”霊的な存在が決めることであろう。
何度も言うが、わたしは自分勝手に力を使うことは出来ない。
もしも、自分勝手に使える力があるとすれば、それは偽物であるだろう。
先程の和尚達の”演奏会”もそうだし、俗に言うお祓(はら)いなどもそうだが、残念ながら偽物の力である。

2017年9月10日日曜日

追憶 1799

わたしは”見よう見まね”の焼香を済ませて、黒い人影が群がり、既に頭を残して黒く染まっている老女の前に立った。
老女は相変わらず苦しそうな表情をしているが、やはり声は聞こえなかった。
わたしは、古いサイレント映画を思い出しながら、老女も黒い人影に成るのだと考えて切なくなっていた。
後ろに人の気配がするのは、わたしの次の順番の人が焼香を済ませたからである。
わたしは押し出されるようにして老女を離れ、自分の席に戻った。

2017年9月9日土曜日

追憶 1798

友人は、喪主(もしゅ)を務める主人の後に続いている。
友人の主人は、故人の長男であり、恐らくは強い絆で結ばれた人物であるだろう。
長男である主人ならば、老女の声が届くかも知れない。
そう思って、わたしは観察を続けた。
しかしながら、焼香を済ませた主人は、炎に焼かれる老女の前を平然と素通りしてしまった。
その足取りは自然なものであり、その挙動には何の違和感も見られなかった。
そして、友人も同じように通り過ぎてしまったのである。
彼等にも、老女の声は届いていないのだろう。
誰も何の反応も示さないまま、わたしの順番が回ってきた。

2017年9月8日金曜日

追憶 1797

彼等はきっと、友人の母と同じように、この会場で葬儀をされた人達だろう。
そもそもの原因は分からないが、この場所には、特定の故人の霊を引き込むシステムが出来上がっているのだと思えた。
もちろん、そこに引き込まれるのは、それに相応しい原因を所有している者だけであるだろう。
友人の母は、その原因を抱えているために、わたしの目の前で引き込まれようとしているに違いない。

和尚達の”演奏会”が終盤に差し掛かると、焼香の案内があった。
焼香を済ませて席に戻る時に、誰もが炎に焼かれる老女の前を通ることになる。
焼香は親族から始めるが、そこに友人の姿があった。

2017年9月7日木曜日

追憶 1796

どうやら、人生の目的は、良心的な人物であることだけではなさそうである。
多くの人が良心的な人物であるが、それだけでは解決されない問題があるのだろう。

老女の下半身が黒く焦げ始めた。
老女はやがて、彼等のように黒い人影となり、他の人に縋り付くようになるのであろう。
まるでネズミ講のように、次から次へと”仲間”を増やしていくのだと思える。
老女が黒い人影になるのであれば、黒い人影は元は普通の人間であったに違いない。

2017年9月6日水曜日

追憶 1795

歪んだ感情は、歪んだ状況を導く。
彼等が炎に焼かれて苦しんでいるのは、その心が歪んでいたからであろう。
しかしながら、彼等が悪人であったかといえば、そうではないだろう。
恐らく、彼等は”普通”の人達である。
信条に偏りはあったであろうが、良心的な人達であったに違いない。
それは、炎に焼かれている老女が、友人の義理の母だと思えるからである。
葬儀には、たくさんの人達が参列している。
このような人が悪人であると考えるのには無理がある。
友人の義理の母が良心的な人物であったが故(ゆえ)に、多くの人達が見送りに出向いているのである。

2017年9月5日火曜日

追憶 1794

欲深かったとか、死を恐れて生に執着したとか、利己的な生き方をしたとか、人生というものを考えなかったとか…
彼等が炎に焼かれて苦しんでいる理由は様々であるだろう。
死後に苦しむのには、様々な理由があるのだろうが、それは個人的なことだ。
それぞれの立場があり、それぞれの学びがあり、それぞれの必要が存在しているのである。
そのため、彼等が苦しんでいる原因を一様に述べることはできないが、彼等の心が豊かではなかったのは共通していることなのではないかと思える。
不安や心配、利己的な怒りや悲しみ、焦りや怠慢(たいまん)、妬(ねた)みや僻(ひが)み…
このような歪んだ感情を克服することができずにいたのではないだろうか?


2017年9月4日月曜日

追憶 1793

黒い人影は、炎に焼かれて焦げた人の姿なのではないかと思った。
その人達が、老女に助けを求めて縋(すが)っているか、老女を炎の中に引き摺(ず)り込もうとしているように見えたのである。
そして、経に誘われるようにして、どこからともなく黒い人影が這(は)いずるようにして集まってくるのが見えた。
黒い人影は、次から次に老女に縋り付くのである。
この黒い人達は、死後も苦しみの炎に焼かれている霊であるだろう。
何等かの理由によって、苦しみの炎に焼かれているのではないだろうか?
それは、生前の考え方や生き方に起源しているように思える。
それは、彼等が死後に苦しみの炎に焼かれなければならないという因果を所有していたからである。

2017年9月3日日曜日

追憶 1792

葬儀が、”残された”者たちへの慰(なぐさ)めであるというのであれば、わたしは納得することができる。
それならば、遺影に向かってではなく、参列者に向かって経を唱えるのが正解だと思うのだ。
わたしには、葬儀という儀式が、それを執(と)り行う者たちの自己満足に過ぎないと映ってしまうのである。

和尚達の合唱を聴きながら、わたしは炎に焼かれる老女を観察していた。
すると、赤い炎が黒く色を変えているのに気が付いた。
そして、炎の形をしていたものは、人の姿のように変化していく。
ついには、それはたくさんの黒い人影が老女に縋(すが)り付くような構図になったのである。

2017年9月2日土曜日

追憶 1791

彼等は列席者に対して軽く会釈をし、最も派手な者が中央の豪華な椅子に、派手ではあるが中央に座る者よりは控え目な者たちは左右の椅子に腰を下ろした。
中央に座る派手な和尚が木魚を鳴らしながら経を唱えると、左右の和尚が小さなシンバルのような楽器を鳴らしながら続いた。
葬儀に出席すると、いつもこうである。
宗派によって多少の違いはあるのだろうが、皆同じようなことをしている。
彼等にとっては仕方の無いことだが、わたしはこれを歪んでいると感じてしまう。
なぜなら、目の前には炎に焼かれて苦しんでいる老女の姿があるからである。
彼等には見えていないのかも知れないし、わたしだけが見えているのかも知れない。
そして、わたしが歪んでおり、おかしいのかも知れないが、納得することができないのである。

2017年9月1日金曜日

追憶 1790

そして、炎の中であの老女が、悪夢の中と同じように焼かれているのである。
老女は炎から逃れようとして、身を捩(よじ)り、腕を上げて暴れた。
溺れてはいないが、藁(わら)をも掴むとはこのことだろう。
叫び声を上げているのであろうが、わたしには何も聞こえなかった。
わたしは周囲を見渡した。
それは、わたし以外にも老女が焼かれている姿を見ている人がいるかも知れないと思ったからである。
しかしながら、皆平然としていた。
皆には見えていないのかも知れない。

司会の女性からの会場内に響き渡る豪勢な紹介を受けて、金糸の派手な着物をまとい、頭には立派な被り物を乗せ、手には白く長い房(ふさ)のようなものを持った和尚が、皆からの礼拝を受けながら登場した。
同じような格好をして、楽器のようなものを抱えた和尚が二人、それに続いた。

2017年8月31日木曜日

追憶 1789

葬儀の日にも、わたしはあの老女を思い出していた。
わたしが会場に到着した頃には、既に多くの人が着席していたので、わたしは会場の外の通路に設けられたパイプ椅子に腰を下ろした。
それは、一般的な葬儀であった。
いつものように、故人の遺影が中央に飾られている。
しかしながら、わたしは会場の右手に飾られてある花が気になった。
そこが、陽炎(かげろう)のように揺らめいて見えたからだ。
それを見て、わたしはあの悪夢を思い出した。
それは、老女が炎に包まれる前の光景と良く似ていたからである。
わたしが陽炎を見つめていると、それは少しずつ炎となった。

2017年8月30日水曜日

追憶 1788

友人は、複数ある商業施設の一つで働いている。
わたしは久し振りに彼女の店を訪ねた。
すると、彼女はわたしを快(こころよ)く迎えてくれた。
わたし達は互いの近況や、他愛の無い話をして再開を喜んだ。
しかしながら、彼女の話の中に強く惹(ひ)かれるものがあった。
それは、義理の母親の訃報(ふほう)である。
わたしは彼女の義理の母親を知らないが、話を聞いた時にあの悪夢を思い出したのである。
わたしは”流れ”のようなものを感じた。
わたしが彼女に会い、義理の母親の訃報を聞くのは、偶然ではないような気がするのである。
そこで、葬儀の日時を尋ねると、明日だというので、わたしは参列することに決めた。

2017年8月29日火曜日

追憶 1787

夢の中で老女が焼かれたのと同じ場所に立ってみた。
そこは、複数の商業施設が共有している駐車場である。
車の往来もあるので、長時間そこに立っている訳にもいかないが、わたしには感じられるものが何も無かった。
あの悪夢は、何の脈絡もない只の夢だったのだろうか?
そう考えると、わたしは独りで駐車場の真ん中に立っているのがおかしくなった。
わたしはあの悪夢と老女を頭の片隅に追いやり、友人に会うことを楽しむ気持ちを引き寄せた。
このまま駐車場の真ん中に立っている訳にもいかないので、友人の職場に向かって歩を進めた。

2017年8月28日月曜日

追憶 1786

夢の中の場所へ向かう間も、わたしは老女のことを考えていた。
結論に辿り着かない思考は、宛(あて)の無い旅路のようである。
それは、途方も無い旅路であるが、終わりが知れないことで心が高揚しているというのも事実であった。
簡単に答えに辿り着ける問いには面白味は無いが、答えに辿り着くことの難しい問いは面白いものである。
手品には、必ず”種”があるが、最後までそれが隠されているために見ていて楽しいのである。
途中で”種”を見破ることのできる手品など、見ても楽しくはないだろう。
そのため、わたしはこれからどのような展開が待ち受けているのか?と胸を弾ませながら車を走らせているのだ。
わたしは、あの悪夢の”種”を明かしたいのである。



2017年8月27日日曜日

追憶 1785

わたしはずっと、夢のことを考えていた。
熱帯夜の湿気のように、不快感が全身に纏(まと)わり付いて離れない。
何をしていても、炎に焼かれた老女の苦痛に歪んだ顔と悲鳴が、頭から離れないのである。
老女が焼かれた場所は、わたしの良く知っている場所であり、近くでは友人が働いている。
わたしは、仕事終わりにその場所へ向かうことを決めた。
そこへ行けば、夢や老女のことが何か分かるかも知れないと考えたからである。
そして、久し振りに友人の顔でも拝(おが)もうと考えたのである。

2017年8月26日土曜日

追憶 1784

ある日のこと、わたしは悪夢に叩き起こされた。
嫌な夢であった。
それは、見知らぬ老女が目の前で炎に焼かれて絶命するというものである。
夢の意図は分からない。
あの老女には見覚えがないし、なぜ炎に焼かれるのかも分からない。
彼女はなぜ、わたしの夢に現れたのであろうか?
何かを訴えるためにわたしを訪ねた霊的な存在なのであろうか?
それとも、わたしの感情的な問題が、あのような形として現れたのであろうか?
目覚めてからも、悪夢のことを思考していた。
悪夢の余韻(よいん)が、依然として頭の中に漂(ただよ)っていたのである。

2017年8月25日金曜日

追憶 1783

親友の父親は、人生が独りの道であることを死後に知ることになったのだと思う。
それを悪いことだとは思わない。
わたし達は、何を理解するにも遅過ぎるからだ。
それは人の愚かさ故(ゆえ)の結果であり、仕方のないことであろう。
人生とは、後悔との対話である。
それは、弱い自分自身との対峙(たいじ)なのだ。
人はこれを避けることはできない。
わたし達は皆、苦しみを乗り越えて進むのである。

2017年8月24日木曜日

追憶 1782

わたしが親友の父親のその後を知らないのは当然である。
それは、わたしと親友の父親の道は違うからだ。
残念ながら、わたし達は誰かと共に人生を歩むことはできない。
生前も死後も、わたし達は独りで歩まなければならないのである。
独りで歩むことを決心した人には退路が無い。
誰にも頼ることはできず、責任は自分にあるという気概(きがい)が芽生えるのである。
自分独りでは、甘えることはできない。
それは、人を成長させるのである。
誰かに頼り、責任を誰かや何かのせいにしている人には自力が育たない。

2017年8月23日水曜日

追憶 1781

親友の父親は、人生が独りの道であることを見失っていた。
そのために、甘えたのである。
甘えた者には、人生は重荷となってしまう。
それは、自力で歩む力を失っているからである。
自らの命を絶つという選択を悪いとは思わない。
誰かのためにそうする人もいるであろうし、そのような場合が最善であることもあるだろう。
しかしながら、親友の父親の場合は自らの選択に後悔していたのである。
それは、人生という重荷に耐えられずに倒れたことを意味しているだろう。
それは、甘えていたということを現しているのである。

2017年8月22日火曜日

追憶 1780

残念ながら、わたしはそれから親友の父親の姿を見ていない。
姿が見えないということは、問題を解決して光へと無事に旅立つことができたのであろうか?
ネガティブなものを感じないので、問題を解決して旅立ったのだと信じたい。
残念ながら、わたしには、これ以上を知る必要はないということなのだろう。
なぜなら、親友の父親の道は、わたしの道とは異なるからである。
彼は彼の道を進み、わたしはわたしの道を進まなければならないのだ。
今回、わたしが親友の父親に関わったのは、道が近付いていたからに他ならない。
残念ながら、道が交わることはない。
それは、人生が本来、独りの道だからである。
人は、孤独に歩まなければならないのだ。

2017年8月21日月曜日

追憶 1779

親友が閉めた玄関の扉の前で、親友の父親は俯(うつむ)いて立ち尽くしていた。
わたしは親友の父親の踏ん切りの悪さに業(ごう)を煮やした。

”覚悟を決めて早く入れよ。面倒臭いなぁ”

わたしの思いに対して、親友の父親は泣きそうな顔を向けた。

”早く”

わたしの思いによって、親友の父親は渋々ではあったが、玄関の扉を通り抜けて帰宅したのであった。
その姿が子どものようであったので、自然と笑いが込み上げてきた。
わたしは笑いながら帰路についた。

2017年8月20日日曜日

追憶 1778

無事に親友の自宅に辿り着いた。
親友が車を降りて、門扉(もんぴ)を背にした時、親友の父親も同じように門扉のところに立っているのが見えた。
わたしが親友と別れの挨拶を交わしている間、父親はわたしに背を向けて自宅を眺めていた。
心なしか、その背中が小さく見えた。
きっと、自宅に帰ることを躊躇(ためら)っているのだろう。
迷惑を掛けた妻と娘に会うことを恐れているのかも知れない。
わたしは親友に状況を告げた。
親友は笑っていたが、その思いが親友の父親に届いたのかは不明である。
わたしは親友に対して、先に帰宅するように提案した。
それは、親友について行けば、自宅に帰り易いのではないかと思ったからだ。
わたしは親友が玄関の扉を閉めるのを見届けた。



2017年8月19日土曜日

追憶 1777

親友の家に辿り着くためには、二つの順路があった。
わたしは普段、広い道を選択して親友の家に向かっていた。
しかしながら、今回は狭い道を通りたいという衝動に駆られて右折したのであった。
すると、なぜか親友がわたしの行動に驚いていた。
理由を聞くと、わたしが狭い道を選択することを見たことがないというのである。
そこでわたしは、気分の問題だと返した。
しかしながら、親友は納得してはくれなかった。
親友は、それが父親の意思だと言い張るのである。
わたしは考え過ぎだと反論したが、親友にはそう思えたのだという。
それは、親友の父親はいつも狭い道を通って帰宅していたからだそうだ。
どちらにしても、わたしにはどうでも良いことだったので、親友の主張に賛同して、狭い道を進んだ。

2017年8月18日金曜日

追憶 1776

息子に叱責された父親は、情けなく謝罪した。
それを見て、わたしには親友の父親の前途は程遠いと感じた。
わたしが父親の反応を伝えると、親友は声を出して笑った。
わたしと親友との間では、今回の騒動で多くの人に迷惑を掛けた親友の父親が、反省の末に”借りてきた猫”になっていることが可笑しくて仕方なかったのである。
それでも、親友の父親はわたしと親友の会話に参加する場面もあった。
わたしが親友の父親の言葉をそのまま真似て話すと、親友はそこに父親の言葉癖を見付けたようで喜んでいた。
わたし達は、和気藹々(わきあいあい)と家路を辿った。

2017年8月17日木曜日

追憶 1775

目的を終えたので、わたし達は帰ることにした。
助手席に乗り込む親友と同時に、後部座席に親友の父親が座っていた。
わたし達は三人で、奇妙なドライブをすることになった。
わたし達は親友の父親の話をしながら帰路についた。
わたしと親友の会話に対して、親友の父親が謝罪によって相槌(あいづち)を打ってくる。
親友には聞こえていないみたいなので、気が向いたら通訳してやった。
しかしながら、親友の父親の言葉は非常にネガティブなものであったので、それを聞いていた親友は次第に腹が立ってきたのだろう。
親友は、見えない父親が座っている後部座席に向かって強く叱責(しっせき)したのである。

2017年8月16日水曜日

追憶 1774


「馬鹿なあいつらしいな」

親友は見えない父親にも聞こえるように言葉を投げたのだと思う。
親友の言葉には、怒りと悲しみが混ざっていた。
わたしには、親友が父親のことを自分の子どものように考えているのだと思えた。
親友は、父親が亡くなったくらいで落胆するような性格ではない。
強い意思を持った男なのである。
親友は父親に対して悪態をついたが、それは悪戯(いたずら)をした子どもを許すための言葉だったように思えた。

2017年8月15日火曜日

追憶 1773

親友の父親は、黒い獣から解放された。
それは、一時的な機会を得たことを意味している。
死後ではあるが、その状態で出来ることを懸命に行わなければならないのである。
生前の怠慢(たいまん)のつけを支払わなければならないのだ。
その機会を得たのである。

”一緒に帰ろう”

わたしの提案に対して、親友の父親は風呂場の磨りガラス越しにうなづいた。
そして、次の瞬間にはわたしの背後に立っていたのである。
振り向いて見ると、親友の父親は申し訳なさそうな、やけに情けない顔をしていた。
そこでわたしは笑ったが、親友がそれを不思議がったので、事の顛末(てんまつ)を聞かせてやった。

2017年8月14日月曜日

追憶 1772

請求書が届いてから、自らの愚行を恥じても遅いのである。
事実は事実として存在し続け、それが跡形もなく消えるということはないのだ。
しかしながら、人は未熟であり、愚かである。
人は過ちを犯さなければならない。
過ちを避けて生きることのできる者は存在しないのだ。
大切なのは、自らの愚行を認めて、それを繰り返さない努力を重ねることである。
それは、生きている人間であっても、霊的な存在であっても同じことである。

2017年8月13日日曜日

追憶 1771

だから、わたし達は懸命に生きなければならないのである。
人生において、無駄にして良い時間や労力など存在しない。
欲望に溺れ、怠惰(たいだ)に生きる者は、その代償を必ず支払わなければならないのである。
それは、稼ぎもないのに豪遊し、稼ぎもないのに寝て過ごす人の借金のようなものである。
借りた金の支払いが許されることはない。
何等かの形で代償を支払わなければならないのだ。
人生を怠惰に過ごす者は、誰かや何かに借りを作っているようなものである。
怠惰に過ごす者は、それを気楽と呼んで得をしたかのようにさえ思っている。
クレジットカードで買い物をすれば、買い物をした時には得をした気分になるだろう。
しかしながら、後になってから、請求書(領収書)が確実に届くのである。

2017年8月12日土曜日

追憶 1770

現在、黒い獣は存在しないが、それは状態のことであり、克服したということではない。
親友の父親は霊的な存在となったが、選択を変えなければ、同じ状態を繰り返すことになるのである。
それは、これからの彼の選択次第であろう。
残念ながら、人生は死によっては完結しない。
死後にも魂の道は続いているのである。
親友の父親は、これから自分自身の人生の後始末をしなければならない。
死ねばすべてが清算されるほど、この世界は甘くないのである。

2017年8月11日金曜日

追憶 1769

人生において重要なことというのは、大抵が難しいものである。
どのような道においても修練が必要であるが、それは難しいことなのである。
大抵の人が安楽を求め、怠慢(たいまん)を選ぶ。
それを選ばせているのは弱さである。
人生を豊かなものにするためには、自身の弱さと向き合い、それを克服しなければならないが、それは争って勝るということではない。
弱さを認め、”癒す”ことが求められるのだ。
親友の父親にとって、黒い獣は克服しなければならない存在である。
それは、黒い獣の存在を認め、癒すことによって解決する問題なのだ。

2017年8月10日木曜日

追憶 1768

苦しみは、黒い煙のような嫌悪感をまとっているが、その本質は光の粒のような輝きを放つ成長の糧(かて)なのである。
そうでなければ、苦しみを経験した人が成長することの説明が付かないであろう。
親友の父親は、黒い獣を手放すことによって、何かしらの成長を実現することが出来るだろう。
それを知っているから、わたしにとって黒い獣は敵ではないのである。
わたしにとって黒い獣は、干ばつの後の台風のように、見た目には悪いが、本質的には良いものなのだ。
多くの人は台風を嫌うが、台風がなければ水不足は避けられないのである。
黒い獣を嫌う人は、成長という魂にとっての命の糧を嫌うようなものなのだ。
それを喜ぶことは難しいであろう。

2017年8月9日水曜日

追憶 1767

わたしには、どちらが良いかを判断することが出来ないが、黒い煙を悪いものだと考えている人にとっては、光の粒は相対的に良いものとなるだろう。
例えば、多くの人が苦しみを悪いものだと考えている。
しかしながら、わたしには苦しみを経験することには大きなメリットがあると思える。
それは、苦しみを経験することによって成長することが出来るからだ。
苦しみというものは、見た目には黒い煙のような嫌悪感を覚えるものである。
しかしながら、苦しみとは問題提起であり、様々な指摘を的確に与えてくれるものだと思えるのだ。
例えば、年齢の若い人は、年齢を重ねた人に比べると、人格に重みを感じることが少ない。
単純に考えると、それは苦しみを経験した量の違いなのではないかと思えるのである。

2017年8月8日火曜日

追憶 1766

すると、黒い獣の全身が光に包まれた。
そして、光の粒となって砕けたのである。
光の粒は、天に輝く大きな光の先へと帰りたいようであった。
そこでわたしは、光の粒を両の掌(てのひら)で掬(すく)い上げて、天に輝く大きな光に向かって進んで行けるように息を吹き掛けた。
すると、光の粒は春の突風に巻き上げられた桜の花弁(はなびら)のように優美に舞い、大きな光に溶けるように消えたのである。

欲望は黒い煙のような姿をしている。
それは、破滅的な性質を持っているからである。
一見すると、それは悪いもののように思える。
確かに、その状態を良いとは言えないだろう。
しかしながら、黒い煙である欲望の本質は、光の粒である。
大抵の人は、光の粒と聞けば、良いもののように思うだろう。

2017年8月7日月曜日

追憶 1765

光の十字架は、風呂場の磨りガラスを通り抜けて黒い獣に突き刺さった。
甲高い悲鳴が闇夜に響いた。
しかしながら、それは親友の耳には届かないものである。
わたしは吐き気に襲われて、ゲップによって黒い煙を吐き出した。
そして、目の前に円を描くと、光る扉が現れる。
それは、わたしと黒い獣を繋ぐ扉であった。
光の扉に腕を差し込んで、沈黙した黒い獣を掴む。
そして、こちらに引き抜くと同時に光の扉は消えた。
黒い獣には覇気がなく、眠っているように沈黙している。
わたしは再び宙に十字を描いて、光の十字架を膝(ひざ)の上の黒い獣に突き刺した。

2017年8月6日日曜日

追憶 1764

嫌な相手を助けようとすることが重要なのである。
大切に思う相手を助けようとすることは当たり前のことであり、誰にでも出来ることだ。
しかしながら、嫌な相手を助けようとすることは、誰にとっても難しいことなのである。
愛とは単純なものであると思えるが、それを行うのは難しい。
それは、多くの人が好き嫌いによって愛を壊してしまっているからである。
わたしは黒い獣との時間を楽しんでいる。
そのため、ここ(わたしの心の中)には愛が導かれたのであろう。
難しく、複雑に考えなければ、どこにでも愛は導かれる。
しかしながら、多くの人は過去や偏見や誤解に捕らわれてしまうのだ。
そのために、愛を導くことができずに争っているのである。
わたしは黒い獣を助けたい。
それは、親友の父親を助けたいからである。
ただ、それだけのことである。

2017年8月5日土曜日

追憶 1763

わたしは破滅的な性質を持つ霊的な存在に対しても好意を抱いている。
わたしにとっては、霊的な存在には善悪の境が無いのである。
天使だろうが、悪魔だろうが、どちらも大切に思うし、どちらと接している時も楽しいと思う。
それは、個性のようなものであり、人によって遊び方が異なるようなものだと解釈しているのだ。
黒い獣との遊び方は、天使との遊び方とは異なるが、同じように遊んでいることには変わりない。
わたしには、それが愛であると思えるのだ。
神様は、愛によって善悪の両方を創造した。
そして、善悪の両方が神様なのである。
という理論なのである。

2017年8月4日金曜日

追憶 1762

ただし、他者のために成るということを誤解してはならない。
多くの人が他者に対してただ尽くすことや、許(ゆる)すことだと思っているだろう。
確かに、誰かに対して尽くすことや許すことは素晴らしいことだとは思うが、必要な過程を経て、最終的にそのような行為に至るのであれば問題はないだろう。
他者に対して尽くすことや許すことに至るまでには、反対することや叱(しか)る必要もあるかも知れないのである。
本当に相手のことを考える時には、すべての感情や方法を可能性として必要とするのである。
そう考えると、愛とは、すべての感情が存在する場所にこそ生じるのではないだろうか?
光の十字架は天使?神様?の力であるが、これが美しく輝いているのは、それが喜怒哀楽のすべての感情を兼ね備えた力である愛だからだと思えるのである。

2017年8月3日木曜日

追憶 1761

わたしは、人生が自分自身のためにあると思っているが、自分自身のために成ることというのは、他者への貢献によって初めて実現すると思っている。
それは、他者を通じてのみ、人は自分自身に気が付くことができるからである。
とはいえ、わたしの場合はそこに打算はない(と思っている)。
経験として、自分の利益のために行動した時よりも、他者の利益のために行動した時の方が短期、長期に関係なく、結果的に心地好かったという程度のことなのである。
それは、他者のために行動することによって、結果的に自分自身のために成ると理解しているのだ。
わたしは自己犠牲など美しいとは思わない。
寧(むし)ろ、そこには偽善者の態度を垣間見(かいまみ)るような気がするのだ。
自分自身のために他者に対して行動するのではなく、他者のために行動した結果として、それが自分自身のために成るということだと思うのである。

2017年8月2日水曜日

追憶 1760

感謝の気持ちに導かれるようにして、わたしの右手は宙に十字を描いた。
すると、暗闇を切り裂くようにして、光の十字架が出現した。
感謝の気持ちがなければ、光の十字架を出現させることは出来ないのだろう。
霊的な存在を敵と見做(みな)し、争っている人には扱えない力なのである。
なぜなら、光の十字架は霊的な存在を痛め付けるための武器ではなく、救済するための道具であるからだ。
わたしは光の十字架によって、黒い獣を助けるのである。
天使?神様?から与えられた力というものは、自らの利益のためには扱えない。
わたしの扱える力は、それを向ける相手の利益のためにこそ与えられたのである。

2017年8月1日火曜日

追憶 1759

自尊心が愛情を見失えば、それは傲慢(ごうまん)となる。
傲慢に陥(おちい)れば、貢献は難しいのである。
わたし達の仕事は、黒い獣を助けることだ。
そのためには、自尊心の協力が必要なのである。
自分を整えていない者は、誰の手助けにもなれないのだ。
チームが内乱を起こしていれば、良い成果を導くことは出来ないのである。
わたしの説得を自尊心が受け入れると、黒い獣に対する感謝の気持ちが芽生えた。
黒い獣は、親友の父親の問題ではあったが、それは、彼が成長するためには必要な存在であったのだ。
自尊心を和らげ、問題に対しても愛情を持てば、そこには必ず感謝の気持ちが導かれるのである。


2017年7月31日月曜日

追憶 1758

人間的な感性で捕らえれば、それは醜い姿をしていた。
それは、人間の欲望そのものであり、人間が欲望に溺れた姿であろう。
わたしの自尊心がそれを否定していた。
わたしの自尊心は、自分はあのような姿には陥(おちい)りたくはないと主張した。
気持ちは分かるが、それは余りにも偏った考え方であり、同じように自らも既に欲望に溺れた姿であることを自覚していないのである。
わたしの自尊心は、高尚(こうしょう)でいたいという欲望に溺れているのである。
黒い獣とは陰陽で対極に位置するものの、状態に違いはないのだ。
わたしは自らの自尊心を窘(たしな)めた。
それは、自尊心が愛情に欠けていたからである。


2017年7月30日日曜日

追憶 1757

親友の父親をここから動かすには、黒い獣を処理する必要があった。
彼は、黒い獣によってこの場に縛られているのである。
黒い獣は、鎖(くさり)のようなものなのだ。
過去を手放すことをしなければ、人はその場を離れることが出来ないのである。
親友の父親は沈黙の時間の中で自分と向き合った。
それは、過去と向き合うことにも等しいだろう。
彼は過去を手放す決心を固めたのである。
わたしも、わたし達を見守っている霊的な存在達も、彼が変わろうとしていることを理解した。
わたしの右手が宙に十字を描くと、光の十字架が暗闇を押し退けた。
すると、暗闇の中から、犬のようでもあり、猫のようでもあり、猿のようでもある獣が輪郭(りんかく)を現した。

2017年7月29日土曜日

追憶 1756

彼の発言は、苦しみから逃れたいという意思からのものではないだろう。
わたしには、自分を変えるための発言だと感じたのである。
人は、大切なものを失って初めて、自分の愚かさに気が付く。
親友の父親が”帰りたい”と発言したのは、死後に人生や家族や家庭というものが大切だと気が付いたからだろう。
人生や家族や家庭の在り方には様々な形があって良いと思う。
しかしながら、後悔するようなものにしてはいけないのである。
既に肉体を離れた彼に何が出来るのかは分からないが、帰ることが許されるのであれば、何か出来ることもあるだろう。

2017年7月28日金曜日

追憶 1755

親友の父親にとって、黒い獣は必要な存在であったのだろう。
それは、自分を変えることが出来なかったからである。
変化とは、どのような場面においても可能性である。
既に生きている立場からすれば、自らの命を絶つという行為に可能性を見出すことは難しいだろう。
親友の父親が、自分を変えることが出来たなら、今こうして風呂場に停滞しているようなことはないのである。
親友の父親がこうしているのは、自分を変えるためである。
それをわたしが手伝っているのだ。

沈黙を破り、親友の父親が意思を投じた。

”帰りたい”

わたしには、その一言で十分だと感じた。

2017年7月27日木曜日

追憶 1754

黒い獣に従えば、後悔を残す選択をしてしまう。
建設的な欲求に従うのではなく、破滅的な欲求に従ってしまうのである。
しかしながら、後悔を残す選択が悪いということではない。
結局のところ、人は誰もが頑固である。
人の忠告を受け入れることや、自らの間違いを認めることは難しい。
そのため、どうすることも出来ないような状態まで追い込むことによって、謙虚さを手に入れる必要があるのだ。
後悔を積み重ね、自分の力量ではどうすることも出来ないことを理解することが必要なのである。
そこでようやく、人は変わることが出来るのだ。
自分が変わることによって、選択が変わる。
そうなれば、黒い獣は必要ないのである。

2017年7月26日水曜日

追憶 1753

黒い獣を見ていると悲しくなってきた。
以前のわたしも、自身の心の中に獣を飼っていたことがある。
わたしの心の中には、獣が20年間住み着いていたのである。
親友の父親に至っては、50年以上の歳月に渡り、獣を飼っていたことになるだろう。
それは、自分自身と違和感なく共存し、やがてはそれを自分だと思い込んでしまう。
多くの人は、欲求がどこから生じているかを知らないのである。
獣とは、弱い心のことであり、それは様々な不足の感情によって形成される。
そのため、獣の欲求は歪んでいるのだ。
それは、ニーチェでいうところのルサンチマンであるだろう。

2017年7月25日火曜日

追憶 1752

親友の父親の頭や肩の辺りから、黒い煙のようなものが立ち上(のぼ)った。
それは、獣のような姿となって頭上にとどまった。
黒い獣と向き合うと、わたしは強烈な吐き気に襲われた。
そして、ゲップと共に黒い煙を吐き出した。
その時、黒い獣が、親友の父親の抱えていた欲望だと直感したのである。
人は誰でも欲望を所有している。
それは、未熟から生じる弱さであるだろう。
人は誰もが弱いのである。
そして、弱い者ほど欲望の虜(とりこ)となる。
親友の父親は、生きることを諦めてしまった。
それは、弱いからである。
わたしには具体的なことは分からないが、親友の父親の現状から推測すれば、弱さと欲望を抱えていたのだろう。
親友の父親は、自らの弱さと欲望によって命を失ってしまったのだと思えるのである。

2017年7月24日月曜日

追憶 1751

部屋が散らかっている人の人生は、やはり乱れている。
余計な考えである悩みを抱えたり、誰かや何かと無闇に争っていたり、時間や財産を浪費している。
そのような人の部屋は散らかっているはずだ。
部屋を見る機会がなければ、庭でも良いし、車やハンドバッグの中身でも良いし、身なりでも良いだろう。
整頓することを怠けていたり、汚れをそのままにしていたりするのである。
普段の思考体系が普段の生活態度に現れる。
普段の生活態度が人生を築くのである。

2017年7月23日日曜日

追憶 1750

親友の父親は、自分自身に対して怠慢だったのであろう。
自分とは何か?
人生とは何か?
という問いに対して怠慢だったのである。
そのため、部屋は汚れてしまったのだ。
部屋を汚せば、いつかはそれを掃除しなければならない。
親友の父親にとっては、それを今行っているのである。
沈黙の中で自分自身と向き合うことは、自分自身を整えることだ。
それは、部屋を綺麗にすることである。
わたし達は、心の状態が人生の状態であることを理解する必要があるだろう。
実生活における部屋の状態と、心の状態と人生の状態は同じなのである。

2017年7月22日土曜日

追憶 1749

多くの人は沈黙を恐れている。
それは、沈黙が自己の正体を教えるからだ。
沈黙には、人を強制的に内省させる力がある。
多くの人は自己の正体が暴かれるのを恐れている。
それは、自己とは未熟な存在であり、歪んでいるからだ。
汚ない部屋を他者に見られるのを恐れるのに似ているだろう。
多くの人は、有りの儘(まま)の生活を他者には知られたくないのである。
内省するということは、自らの汚ない部屋を客観視するようなものだ。
多くの人は、部屋が汚ないことに気が付いていながらも、それを改善することを恐れているのである。
それは、気楽な怠慢(たいまん)生活を手放すことになるからだ。

2017年7月21日金曜日

追憶 1748

わたしも詳しく聞いた訳ではないが、親友の父親の霊的な状態を見て、彼の生前の生き方に思い当たる節があった。
今から考えると、様々なことが繋がり、現状に納得するのである。

親友の父親は何も語らなかった。
わたしはただ黙ってそれに付き合う。
霊的な存在との対話とは、決して騒がしいものではない。
意思疎通とは、本来静かに行われるものである。
わたし達は、黙って向き合うことに意味があるのだ。
それは、沈黙が内省を後押ししてくれるからである。
多くの人は騒がしく、思慮に浅い。
口数ばかりに気を取られ、考えることをしない。

2017年7月20日木曜日

追憶 1747

わたしは親友の父親と対話を始めた。
彼を取り巻くエネルギーも、心に占めるエネルギーも、黒く重たいものであった。
恐らくは、生前に蓄えた破滅的なエネルギーであるだろう。
それは、思考や感情や行為の結果である。
自分本位な選択によって、人は破滅的なエネルギーを得るのだ。
種を蒔(ま)けば、いつかはそれを収穫しなければならない。
種を蒔かなくても、土地を所有すれば、そこには様々な種類の野草が勝手に茂る。
わたし達は誰もが、因果の中に存在しているのである。
誰もが、自分自身の因果を刈り取らなければならない。
親友の父親は、自分自身の因果によって、黒く重たいエネルギーが茂っている状態なのである。

2017年7月19日水曜日

追憶 1746

わたしがここに来たのは、親友の父親を自縛(じばく)から解放するためである。
親友には時間をくれるように頼み、わたしは親友の父親と話をしてみることにした。
しかしながら、磨りガラス越しにでも暗い印象を受ける。
生前の明るさはどこにも見受けられない。
下手をすれば、室内の暗闇に溶けてしまいそうである。
わたしは親友の父親を説得するのは簡単ではないと感じた。
まぁ、これはいつものことである。
大切なのは、対話であるだろう。
力を以て制するのは簡単なことである。
しかしながら、それは後に歪みを引き起こすことになる。
それでは、せっかくの行為も価値を得ないのである。

2017年7月18日火曜日

追憶 1745

すべての状況は、自らの選択によって築かれる。
教育や誘導によって何かを選択させられたとしても、それは自らの選択に他ならない。
親友の父親が、どのような思いで自らの命を絶つという選択に至ったのかは分からないが、そのような状況に至るまでの選択をし続けたのは自分自身なのである。
多くの人は、目の前の状況に対して右往左往するが、それは自らの選択の積み重ねに他ならず、冷静に振り返ってみれば何の不自然さもないことを理解することができるのである。
例えば、食品添加物や医薬品、農薬や除草剤、化粧品や水道水…
このようなものを摂取し続けていれば、自然環境と同じように身体が壊れるのは当然の結果である。
”医療先進国”である日本では、癌や糖尿病を始めとした病気が増え続けている。
精神病と呼ばれる病もあるらしい。
それに、奇形児は世界でも上位(一位か二位)の頻度で生まれているというデータもある。
放射能や晩婚化や霊的な学びなどの様々な要因も考えられるが、普段摂取しているものが強く影響しているとわたしは考えるのである。
わたしには、これ等の状況が当然のことだと思うのだが、残念ながら、多くの人にとっては偶発的な悲劇であるようだ。

2017年7月17日月曜日

追憶 1744

親友の父親が自らの通夜に参加していなかったのは、ずっとこの場所にいたからであろう。
父親の時間は、この場所で止まっていた。
それは、思考が停止していたからに他ならないだろう。
より良い可能性を導くのが思考の仕事である。
主観的にも客観的に見ても、親友の父親の選択が最善だとは思えない。
何かの理由で仕方なく選択したようにしか思えないのである。
思考が働いているのであれば、仕方なく何かを選択するという状況には至らない。
多くの可能性の中から、一つを選択させることが思考の仕事なのである。
自らの命を絶つという選択は、極端な選択肢である。
思考が働いているのであれば、もう少し柔軟な発想ができただろう。

2017年7月16日日曜日

追憶 1743

わたしは親友の許可を得て、敷地を散策した。
玄関を過ぎて、家の端まで歩いた。
すると、端の勝手口のような扉の磨りガラス越しの室内に、人の姿が浮かんでいるのが見えた。
その姿は磨りガラスによって滲(にじ)んでいるものの、体型から親友の父親だと一目で理解した。
わたしは親友に対して、父親の所在を告げた。
しかしながら、親友には何も見えていないようである。
わたしが出来る限り明確に見えているものを伝えると、それが風呂場から外へ通じる扉だと教えてくれた。
親友の父親は、この場所で自らの命を絶ったのである。



2017年7月15日土曜日

追憶 1742

道の突き当たりに、親友の父親の実家があった。
それは道路から一段高い場所に建てられているため、ヘッドライトによって照らし出された家は闇夜にぼんやりと浮かび上がり、とても幻想的に見えた。
定期的に掃除をしていたのか、今でも人が住んでいるかのような外観をしている。
わたしは親友の指示で、家に隣接する空き地にヘッドライトが家までの道を照らすようにして車を停めた。
車のヘッドライトがなければ、携帯電話のライトを頼りにする意外に方法はなかった。
ヘッドライトを消せば、わたし達は一瞬の内に光を失うだろう。
わたしには、あの暗闇の中で家に辿り着く自信はなかった。


2017年7月14日金曜日

追憶 1741

親友からすれば、父親の選択肢は逃げのように感じたのかも知れない。
親友は困難に立ち向かって行くような性格である。
そのため、自分とは正反対な父親を”馬鹿”だと言ったのだろう。
道幅が狭くなるに連れて、わたしにはこれが親友の父親の心境を現しているように思えた。
自らの命を絶とうとする動機には様々なものがあるだろう。
わたしも、霊的な生き方を志す前には、前向きに自殺を検討していたものである。
わたしの場合は、何か辛いことがあった訳ではなく、やりたい仕事があった訳でも無く、この世界が詰まらないものに思えたからであった。
結果的には、新たな可能性を見出して今も生きている。
わたしには、ヘッドライトが映さない世界が見えたのかも知れない。
しかしながら、街灯も民家もないこの道では、何も見えはしないだろう。

2017年7月13日木曜日

追憶 1740

親友の父親は、目の前の小さな世界しか見えず、結果的に極論に至ったのであろう。
人生を終わらせたい気持ちは分からないでもないが、いつかは必ず迎えがくるのだから、急ぐこともないのである。
しかしながら、目の前の小さな世界を生きている人にはその余裕がないのだろう。
ヘッドライトの先にも、恐らく世界は広がっている。
確認することができないために確信は無いが、わたしはそう信じている。

親友と親友の父親について様々な会話をしながら、わたし達は集落を抜けて、狭い脇道に侵入した。
親友は、父親のことを”馬鹿”だと言った。
父親の死を悲しむ気持ちも多少はあるかも知れないが、それを受け入れる気持ちの方が強い奴である。
父親の死は悲しいことではあるが、彼にはそれを糧(かて)にして成長する強さがあった。
親友の自慢をしておくと、彼はある分野での日本代表である。
拠点は日本に置いているが、海外の舞台で活躍しているような人物だ。
親友とは高校の時からの仲だが、わたしは今までに彼から数え切れない程の刺激をもらい、(勝手に)ライバルとして尊敬している。
そのため、わたしは親友として付き合うことができるのだと思っている。

2017年7月12日水曜日

追憶 1739

親友の父親を探しに行く日、二人の都合により出発が遅れた。
陽は完全に没し、雲の立ち込める夜空には遠慮がちに星が瞬(またた)いている。
車で山奥の父親の実家を目指している時に月を探したが、わたし達には見付けられなかった。
真っ暗な山道にはヘッドライトの明かりの中だけに世界が存在している。
それは、親友の父親の見ている世界なのかも知れないと思った。
月明かりでもあれば、別の選択肢も思い付いたかも知れない。
もちろん、わたしは人の選択はそれがどのようなものであっても最善だと思っている。
例え、それが自ら命を絶つ行為であろうとも、それ以外にはできないのだ。
できないことを嘆(なげ)いても仕方はない。
とはいえ、違う結果を求めるのは、人の傲慢(ごうまん)であるだろう。

2017年7月11日火曜日

追憶 1738

時刻は深夜に近付いていたが、わたしは今すぐにでも親友の父親を探しに行きたかった。
しかしながら、親友が通夜を抜け出す訳にもいない。
そこで、わたしは一人で探しに行こうとしたが、どうやら今住んでいる自宅ではなく、山奥の今は空き家になっている父親の実家だと言うことだった。
わたしは場所だけ聞いて一人で行こうとした。
すると、親友も同行したいと言うのである。
わたしは親友の申し出を当然のことだと思い、後日二人で親友の父親を行くことになった。

2017年7月10日月曜日

追憶 1737

わたしは気持ちを押し隠せるほど出来た人間ではない。
我慢ができなくて、親友を表に呼び出した。
そして、わたしの感じている違和感を素直に伝えた。
すると、親友の表情が少しだけ曇ったように見えた。
少しの間を置いて、親友が口を開いたが、それは、謝罪と真実の吐露(とろ)であった。
親友の話によると、父親は農作業中の心不全で亡くなったというのは嘘であるそうだ。
真実は、浴室で自らの命を絶ったということである。
その話を聞いて、わたしは今までの違和感が一気に腑(ふ)に落ちるのを認識した。
親友の父親が自分の通夜に参加していないのは、参加することが出来なかったからであろう。
きっと、自らの命を絶った浴室に今もいるのではないかと思えるのである。



2017年7月9日日曜日

追憶 1736

どういう訳か、わたしは遺影の笑顔や会場の雰囲気に違和感を覚えるのである。
そして何より、この会場に親友の父親の姿がないのが、わたしにとっては最たる違和感の原因であった。
わたしにとって、それは大きな違和感として感じられるのだ。
わたしが霊的な存在と向き合うようになってから、何度か通夜や葬儀に参加したことがある。
大抵の人は、自分の通夜や葬儀には参加していた。
彼等はそこで、参加者にお別れの挨拶をして回る。
親友の父親の性格ならば、参加者と一緒に一緒に酒を飲んでいてもおかしくはない。
しかしながら、見渡してもどこにも姿が見当たらないのだ。
そのため、わたしにはこの通夜が”空っぽ”なものに思えたのである。


2017年7月8日土曜日

追憶 1735

会場に到着すると、親友が出迎えてくれた。
彼はわたしを労(ねぎら)ったが、それはわたしの台詞のようにも思えた。
会場には、多くの親戚縁者が料理を囲んでそれぞれに言葉を交わしていた。
父親のキャラクターの影響もあるのか、通夜はとても明るい雰囲気だと感じる。
親友の母親がわたしを出迎え、親友よりも丁寧にわたしを労ってくれた。
わたしは簡単に挨拶を済ませて、父親の霊前に腰を下ろした。
それは、常識的な考えからではなかった。
何か感じるものがあれば良いと思ったからである。
父親の写真は満面の笑みを浮かべている。
それは、生前に良く見た笑顔であったが、わたしはそこに何か不自然なものを感じた。

2017年7月7日金曜日

追憶 1734

久々の親友からの連絡は、わたしを驚かせた。
それは、親友の父親の訃報(ふほう)であったからだ。
親友の父親は60代の前半だと思われる。
人当たりの良い楽しい人で、その場の雰囲気を明るくする不思議な魅力を持った人であった。
親友の話では、農作業中の心不全が原因である可能性が高いと聞かされた。
親友の父親は肥満体型であり、お酒が好物だったので、その説明にも納得することができた。
人生は、どう転ぶか分からない。
人生は、思わぬ展開を見せるものである。
わたしはその日の晩のお通夜に参列することにした。




2017年7月6日木曜日

追憶 1733

子ども達を見送ることで、わたしの仕事は終わったようである。
それ以上、わたしを訪ねる者はいなかった。
そこで、もう一つの仕事である清掃活動の続きを始めることにしたのである。
持参した袋からは、ゴミが簡単に溢れてしまった。
そこでわたしは清掃活動をやめることに決めた。
まだまだ、ゴミがたくさん捨てられていることは知っている。
しかしながら、何事も焦りは禁物である。
人は、今の段階で確実にできることをするべきであって、確実にできないことを無理に推(お)し進めるのは健全ではないと思うのだ。
続きは次の機会と決めて、わたしは山を降りた。

2017年7月5日水曜日

追憶 1732

子どもにとって、遊ぶことは造作も無いことである。
しかしながら、何等かの苦しみを抱えている子どもにとって、遊ぶことは難しい。
心を閉ざしていれば、子どもは遊びを失ってしまうのである。
わたしの腰に縋(すが)って泣いていた子ども達は、心を閉ざした状態であったに違いない。
白い象は、そんな子ども達を無理に変えようとはせずに、自発的に変わろうとするまで見守ろうとしていたのではないだろうか?
わたしを使ったのは、心を開くことができるにもかかわらず、その勇気を持てなかった子ども達を後押しするためだったのではないかと思う。

2017年7月4日火曜日

追憶 1731

わたしには、白い象が子どもの魂を慰(なぐさ)めているのではないかと思えた。
白い象の側にいる子ども達と、寂しくて泣いていた子ども達にどのような差があるのかは分からないが、泣いていた子ども達のことを気に掛けていたことには間違いないであろう。
白い象は、亡くなった子どもの魂が天国?へと旅立つ準備(心構え)ができるまでの間、優しく見守り続けているように思えるのである。
子どもは遊ぶことが人生の目的である。
子どもは、遊びを通じて様々な理(ことわり)に触れる。
そのため、子どもは遊ばなければならない。
しかしながら、何等かの理由で亡くなってしまった子どもには、学びが不足するのではないだろうか?
それは、歪んだ欲求になって残留するかも知れない。
そのため、必要な学びを得るためや、歪んだ欲求を解消するために、白い象の加護の下で遊んでいるのではないかと思うのだ。

2017年7月3日月曜日

追憶 1730

光の十字架によって、子ども達は泣き声を手放した。
そして、皆安心して眠っているかのように沈黙したのである。
わたしは子ども達を抱き締めて、お別れの言葉を伝えた。
すると、天から優しく光が差して、子ども達を連れ去っていった。
その時、渓谷の奥で鈴の音が鳴り、子ども達の笑い声が聞こえた気がした。
あれは、白い象の周りの子ども達の笑い声であろう。
姿は見えなかったが、どこかでわたしを見ていたに違いない。
もしかすると、わたしを働かせたのは白い象なのかも知れないと思った。

2017年7月2日日曜日

追憶 1729

わたしが子ども達の泣き声を哀れむと、腰の辺りが重たくなった。
見ると、幼い子ども達がわたしの腰に縋(すが)って泣いているのであった。
どうして、こんな山の中に子ども達がいるのだろう?
わたしの頭の中には、人柱(ひとばしら)という言葉が浮かんだが、それは推測であるかも知れない。
理由は分からなかったが、子ども達が悲しんでいることは理解することができる。
わたしにできることは、子ども達を安心させることくらいだろう。
腰に縋って泣く子ども達の背中に、わたしは光の十字架を優しく刺した。

2017年7月1日土曜日

追憶 1728

青年を見送ると、次は大勢の足音が聞こえてきた。
見ると、先程の青年と同じように、大勢の落ち武者のような男達が渓谷を下って来ていた。
わたしは、自分がするべきことを理解した。
わたしは彼等を一人一人、光へと導いたのである。
この場所では、以前に戦でもあったのであろうか?
この辺りにも昔は小さな城が幾つもあったのではないかと思える。
長い歴史の中では、戦の一つや二つはあっただろう。
すべては推測を脱しないが、彼等の姿を見ると、悲惨な戦があったに違いない。
男達を見送ると、今度はどこからともなく幼い子どもの泣き声が聞こえてきた。
それも、一人や二人ではない。
大勢の子ども達が静かに泣いているようであった。
それは、渓谷に反響するように、四方八方から聞こえてきた。

2017年6月30日金曜日

追憶 1727

黒い煙のようなものは、光の十字架によって光る霧のようになり、吸い込まれるようにして天へと向かった。
次にわたしは動かなくなった男を引き寄せて抱き締めた。
すると、男の身体が輝きを放った。
光が収まると、鎧は白い着物に変わり、痩けた頬は膨らみ、汗や血に塗れた身体も綺麗になったのである。
わたしの腕の中には立派な青年の姿があった。
青年は静寂に包まれて眠っているように沈黙している。
すると、わたしの腕を離れて、先程の霧と同じように天へと向かって見えなくなった。
彼はずっと戦い続けていたのだろう。
それは、戦(いくさ)や敵とではない。
彼は自分自身と戦い続けていたのである。
彼は自分を許すことができたのだろう。
それは、わたしが彼を許したからである。

2017年6月29日木曜日

追憶 1726

男は所謂(いわゆる)、落ち武者というものであろう。
男が既に他界しており、霊体として彷徨(さまよ)っていることはすぐに理解できた。
男は恐ろしい形相で迫ってくるが、わたしの心の中は悲しみで満たされていた。
わたしは男を哀(あわ)れんだ。
すると、右手が宙に十字を描いた。
光の十字架は、彼を救ってくれるだろう。
わたしは身体に任せて、光の十字架を男へ投じた。
光の十字架は真っ直ぐに飛んで、男の薄い胸を射抜いた。
男が苦しそうに倒れると、わたしは吐き気に襲われて、黒い煙のようなものを吐き出した。
これは、男の抱える苦悩の意識である。
黒い煙のようなものに対して、わたしは再び光の十字架を投じた。

2017年6月28日水曜日

追憶 1725

わたしはあの猪がただの動物には思えなかった。
わたしを監視するために遣わされた、化けた獣のように思えるのである。
猪は、生命体としての存在であるだろうが、何かが猪を通じてわたしに会いに来てくれたように思えてならなかった。
霊的な存在が猪に乗り移っているような
、そんな不思議な感覚を得たのである。
それが、白い象なのかは分からないが、わたしにとっては不思議な出来事だった。

それから、周辺の清掃をした。
しゃがんでゴミを拾い上げようとした時、渓流を挟んだ反対側の斜面から、鈍い足音のようなものが聞こえてきた。
わたしは音の出処(でどころ)を探した。
すると、木々の間に男が渓谷を下っているのが見えた。
男は襤褸(ぼろ)の着物と、朽ちた鎧(よろい)を着けていた。
頬(ほほ)は痩(こ)け、ひん剥かれた目の玉が異様な輝きを放っていた。
男の目の玉を見れば、彼がわたしを目指していることは一目瞭然であった。


2017年6月27日火曜日

追憶 1724

猪を見送った後に、渓谷に独り取り残されたわたしは、以前にネットで読んだ怖い話を思い出していた。

それは確か、東北の話だったと記憶している。
主人公の少年(投稿者)が、祖母に疑問を投げ掛けることで話が始まる。
少年は、狐や狸などの動物がなぜ人を化かすのか?という疑問を抱えていた。
それを祖母に聞いてみたのである。
すると、祖母は少年にとっても、わたしにとっても興味深い話をしてくれた。
それは、山で遭遇する怪異をもたらす狐や狸を初めとする動物は、祖母曰(いわ)く神様(人にとっての善悪は関係無い)の遣(つか)い、もしくは、神様が化けた姿なのだという。
化け物とは、化けた獣のことであり、神様が化けた動物ということである。


2017年6月26日月曜日

追憶 1723

しばらくの間、わたし達は緊張感で結ばれていた。
わたしは猪から視線を離してはいけないような気がして、見詰め続けていたのである。
その時、葉先を揺らす優しい風が渓谷を吹き抜けた。
それを合図としたように、わたしと猪を結ぶ緊張の糸が切れたように感じた。
不意に力が抜けた時に初めて、わたしは自分が力んでいたのだと知ったのである。
すると、わたしはこの状況が面白くなって笑った。
わたしが笑ったのを見て、猪は興味を無くしたかのように鼻を鳴らし、絶壁を駆け上がって行ってしまった。

2017年6月25日日曜日

追憶 1722

刺すような視線に対して、わたしは反射的に視線を返した。
すると、絶壁の岩壁の高い位置に、一頭の大きな猪がわたしを監視するように睨(にら)み付けていたのである。
わたしは猪の視線に射抜かれて動けなくなった。
猪もまた、わたしと同じように微動だにしなかった。
わたしは心臓の鼓動が素早くなるのを感じた。
緊張しているのである。
しかしながら、呼吸が深く、弱くなっていることにも気が付いた。
肉体(本能)は危険を感じてはいないのであろう。
この緊張感は、知らないことを学んでいる時に味わう、心が弾(はず)むような高揚感である。
わたしは猪に会ったのを、なぜか喜んでいたのであった。


2017年6月24日土曜日

追憶 1721

捨てられたゴミを横目に見ながら、わたしは渓谷へ向かった。
それは、渓谷の清掃が優先だと感じたからである。
途中にあの記念碑があり、前回と同じように老人が座っていた。
老人は以前と何ら変わらない姿勢で座り、わたしの挨拶にも何ら変わらない対応をしてみせた。
わたしは彼の性格を納得して、それ以上を追求せずに先へ進んだ。

渓谷に辿り着くと、爽やかな風と渓流の美しい音色が出迎えてくれた。
その心地好さに導かれるようにして、わたしは瞼(まぶた)を閉じて深く呼吸をした。
それは、心が騒がしければ、霊的な存在には会えないからである。
わたしは白い象と会いたいと思っていたのである。
その時、わたしは左の崖の上から鋭い目線のようなものを感じた。

2017年6月23日金曜日

追憶 1720

それから、時間を見付けて山に向かった。
それは、約束を果たすためであった。
わたしは自分自身に対して、そして、白い象に対して山の清掃活動を約束していたのである。
今回はゴミを持ち帰るために車で向かうことにした。
通行の邪魔にならない場所に停車して、白い象に出会った渓谷まで歩いた。
歩いてみると、想像以上にゴミが捨てられていた。
ジュースの缶やペットボトル、弁当のケースやお菓子の袋、強いてはテレビなどの家電製品、そして、用途が不明な道具のようなものまで捨てられている。
バイクや車で走行している時には気が付かない。
それ等は、一段下の目立たない草むらに捨てられているのである。
人の目が届かないところに人の本性が現れる。
日本人もまだまだ成長が必要である。

2017年6月22日木曜日

追憶 1719

それは、白い象の山車(だし)を引く子ども達の姿であった。
子ども達は、楽しそうに笑っていた。
それは、山で見た光景そのものであった。
その映像を観た瞬間に、わたしは指先で静電気が火花を散らした時のような感覚を得たのである。
わたしが白い象と出会った山と、テレビで紹介された寺は遠く離れている。
そのお祭りが、その寺に限ったことなのかは分からないが、わたしが白い象と出会った地区ではそのようなお祭りを見たことはなかった。
何か関係しているのだろうか?
それとも、偶然であろうか?
あの白い象はどこの山にもいて、それに出会った人が祭ったのであろうか?
考えても分からないが、不思議な出来事であった。

2017年6月21日水曜日

追憶 1718

あれから、半月程が経過していた。
わたしは夕食を済ませようとしていた。
わたしは静かに食事を摂りたい性格なので、食事中に(限ったことではないが)テレビは点けない。
その時は、家族がテレビを観ながら食事をしていたのである。
だから、わたしは思い掛けずにテレビを視界に入れることになったのだ。
それは、地域の情報を提供する企画であった。
テレビには、あるお寺のお祭りの様子が映し出されていた。
わたしはなぜかその映像が気になり、何と無く眺めていたのだが、ある映像に目が奪われてしまったのである。


2017年6月20日火曜日

追憶 1717

わたしがこれ以上ここにいる必要はない。
いつの間にかに森は夜の準備を整えようとしていた。
わたしは姿の見えなくなった白い象と子ども達に、心の中で感謝をした。
そして、今度お礼に清掃活動をすることを約束してバイクに跨(また)がったのである。
気分も身体もバイクも軽く感じた。
わたしは生まれ変わったような気分であった。
少し走ると、前方にあの記念碑が見えたが、そこには、今だに同じ姿勢で座る老人の背中があった。
速度を落として近付き、老人を少し過ぎたところでバイクを停めた。
わたしは老人に対して、白い象に世話になったことを伝えて礼をした。
しかしながら、相変わらず老人はわたしには何の興味もないようである。
老人からは何の反応も引き出せなかった。
仕方ないので、わたしはバイクを走らせた。



2017年6月19日月曜日

追憶 1716

これは、”普通”になれなかった自分への慰(なぐさ)めであり、賞賛(しょうさん)でもある。
もちろん、これが誰かの役に立つかも知れない。
もしも、”普通”であることにストレスを感じている人がいるのであれば、思い切って自分を生きることを勧(すす)める。
自分を生きることにも様々な苦労はあるが、”普通”を生きる苦労にくらべれば随分と容易(たやす)いのである。
”普通”を生きることで得られるのは、偽りの苦しみと、偽りの喜びであるだろう。
自分を生きることで得られるのは、本当の苦しみと、本当の喜びだと思えるのである。


2017年6月18日日曜日

追憶 1715

どちらにしても間違っているのだから、開き直って自分の感性に従おうという程度のことである。
わたしの人生には、霊的な存在との共存が普通だ。
そのため、わたしの人生は、誰が何と言おうともそれで良いのである。
どのような人生にも、それに相応しい学びがあるが、それを決めるのは魂の状態であるだろう。
そのため、わたしは誰かにわたしの思う通りに生きることを求めはしない。
それぞれが、それぞれの感性に従って生きれば良いのである。

2017年6月17日土曜日

追憶 1714

それが誰に対しても有益なのかは分からないが、少なからずわたしには最善の道であった。
それは、わたしが人の世を不自然だと考えているという前提があるからだと思える。
人の世を謳歌(おうか)している人たちには、わたしのような考え方は良いものとは言えないだろう。
人の世を謳歌するためには、”当たり前”を享受(きょうじゅ)し、何も疑わずに生きることが求められるからである。
そのような人たちには、一般的な常識を外れた”冒険”はお勧(すす)めしない。
一般的な常識の中で幸せに生きれば良いと思っている。
わたしは自分が正しいなどとは思わないし、誰かが正しいとも思わない。
皆正しく有り、皆間違っているのである。

2017年6月16日金曜日

追憶 1713

学校の勉強もそうである。
わたしが真面目に勉強するということはなかった。
母親はわたしの為を思ってか、塾に通わせたりしたが、無駄なお金を使ったものである。
わたしは勉強が嫌いであった。
そのため、常識的な既成概念が育つのを免(まぬが)れたのであろう。
真面目に勉強していれば、誰かの思い通りの価値観によって生きることになったはずである。
それは、所謂(いわゆる)、量産型の常識人になり、”立派”に生きていたことだろう。
わたしは無知であったから、後に自分自身で勉強する必要性を感じて、独自の勉強法に至ったのである。
そのため、わたしの常識と一般的な常識は異なる。
わたしは自分自身で情報を収集し、一般的な常識を抱える人たちは、教えられたことを記憶したのである。

2017年6月15日木曜日

追憶 1712

わたしは田舎に住んでいるが、それでも不自然である。
祖父母の世代でさえ、少しずつ自然から遠ざかってきていた。
両親の世代では、不自然が極まったと思える。
家業が漁師や養殖業など、海に関わっていたこともあるが、畑を放棄して、基本的には野菜をスーパーなどで買うようになった。
買うことが悪いという訳ではないが、祖父母の世代では畑も田んぼもしていたのである。
若さもあってか、両親にはそういったことに興味を抱けなかったのかも知れない。
そのため、幼い頃にわたしが畑に触れる機会は皆無であった。
現在、わたしは自然農法での野菜作りに挑戦しているが、近代農法の影響を受けなかったという点では良かったと思っている。

2017年6月14日水曜日

追憶 1711

鬱病(うつびょう)を抱えていようが、自然の中で暮らせば治るのではないかと思う。
様々な動植物、昆虫や微生物、陽の光や風、温度差や匂いなど、様々な刺激が偏った人間の状態を正してくれるとわたしは信じている。
都市部では、人間関係や商業施設などの人工的な変化は激しいものの、自然環境の変化には乏しい。
本来ならば、人は自然環境の中に人工的な環境を築く。
しかしながら、都市部では、人工的な環境の中に自然環境を築こうとしているのである。
環境が反転しているのである。
環境が反転しているのであれば、人間も反転するだろう。
現代人が抱える様々な問題は、環境が反転し、不自然の中に生きていることに本質があるのだと思える。

2017年6月13日火曜日

追憶 1710

わたしは自らの心の歪みを取り除くために、無意識に山へ向かった。
そこで白い象に会うことによって、幾らかの歪みを吐き出したのである。
それは、自然環境や精霊の助力がなければ、成し得なかったことだろう。
人は成長を義務付けられている存在だと思える。
現代人は、文明の発達を望んでいるだろう。
そのため、都市部のような人工物によって覆われた住環境が形成される。
文明の発達も良いとは思うが、自然から離れて生きることなど、人間には出来ないことである。
自然から離れて暮らせば、必ず何かしらの問題を抱えることになるのだ。
自然には、人が道を間違えるのを正す力があるのだろう。

2017年6月12日月曜日

追憶 1709

自然環境こそが、わたし達人間の肉体を健やかに保ってくれる。
現代的な生活も良いとは思うが、自然環境から離れ過ぎてしまえば健康問題を引き起こすだろう。

自然界には、白い象のような精霊?も存在している。
人が、特に年齢を重ねる程に山に惹(ひ)かれるのは、若い頃の不自然な生活が祟(たた)ることによって健康を害したり、精神が歪んだのを正す必要性を意識的、無意識的に感じているからだろう。
人が自然を得るためには、人工物から離れて山に登るのが一番だと思える。
それは、山には自然環境が僅(わず)かながらに残っているし、里に比べると、多くの精霊が存在しているからである。
山が古代の切り株(米のデビルズタワーなど)だとする説もあり、わたしはその説を支持しているが、人は無意識の内にでも自然に惹かれるものなのである。

2017年6月11日日曜日

追憶 1708

とは言え、わたしもアニミズムを意識して育った訳ではない。
幼少の頃から自然の生き物達と共に暮らしてはきたが、それを大切に思うことはなかった。
ただ、幼心に楽しいという気持ちによって接してきただけであり、思春期を迎える頃には、それが嫌いで仕方なかった。
わたしがアニミズムを意識し始めたのは、霊的な存在に興味を持ったことに由来している。
人の形をした霊が入り口となり、徐々にアニミズムに至ったのだと思える。
わたしはアニミズムを合理的な思想だと思っている。
霊的な存在を意識するまでは、自然環境のことなど考えたこともなかった。
しかしながら、霊的な存在を意識することによって、生き物(動植物や微生物など)のことを意識するようになり、土や水や風や陽などの無機物(厳密には違うだろうが)のことも意識するようになったのである。

2017年6月10日土曜日

追憶 1707

医療や食事や生活が豊かになったのであれば、どうして病気は増え続けているのだろうか?
わたしにはどうしても解せないのである。
現実には、病気は増えているし、食事も生活も質は下がっているように感じてならない。
食料自給率も下がり続けている。
背景には様々な要因があるだろうが、自給も出来ない国になってしまった。
食料を輸入に頼っているが、干ばつや外交問題によって輸入が滞ればどうなるのだろうか?
現実的には考え難いことではあるが、そうなる可能性も無いとは言えないだろう。
人は自然から離れることによって多くの問題を生み出した。
現代人は自然から離れ過ぎていると思う。
現代人は、アニミズムをもう少し考慮しなければならないだろう。

2017年6月9日金曜日

追憶 1706

スーパーだろうが、自動販売機だろうが同じことである。
わたし達は自然から離れてしまった。
それが普通になってしまったのである。
微生物に触れないから免疫力が低下する。
植物に触れないからストレスが溜まる。
日光を浴びないから骨や血が弱る。
”細胞”を食べないから栄養不足に陥る。
わたし達人類は自然と共生してきた歴史を持つ。
人体は、長い時間をかけて作り上げられた自然そのものなのである。
(もしくは、人類創造の時に当時の自然環境に対応して造られたか?)
しかしながら、人は自然界のルールを破り、人工的に様々なものを生み出してきた。
それが不自然であるために、病気は増え続けているのだと思える。

2017年6月8日木曜日

追憶 1705

この世界に生まれた時から、わたし達に対する教育は始まっている。
人間の与えるものは、善意も悪意も総じて歪んでいる。
歪んだ教育を受けて育った人間は、やはり歪んでいる。
しかしながら、生まれた時から受け続けた教育が歪んでいることに気が付くことは難しい。
多くの人間は、その不自然さに気が付かずに偽善を生きることになる。
そして、偽りの幸福の中で、偽りの満足に首を絞められて死んでいくのである。
歪んだ人間が歪んだ人間を生産する。
それが、この世界の縮図である。
それは、工場で製造される弁当のようなものだろう。
見た目は不自然なまでに美しい。
そして、味も中身(栄養や”細胞”)も不自然である。
残念ながら、”あれ”は食べ物ではない。
”あれ”は工業製品なのである。

2017年6月7日水曜日

追憶 1704

最たる目的は、自分自身の歪みを理解するためだと思える。
そして、霊的な存在に出会うことによって、謙虚さを身に付けさせるためだとも思える。
わたしが生きる世界には、自分よりも優れた霊的な存在がいる。
そのため、わたしは自分が優れているとは思えない。
霊的な存在を知らない人たちは、人間や人間が生み出したものが優れていると思っているだろう。
科学に対する信仰が、その傲慢(ごうまん)さを物語っている。
もちろん、まともな科学者(どのような業種の人でも)であれば、科学が自然法則を発見しているに過ぎないことを理解し、謙虚な気持ちで研究を続けているだろう。
しかしながら、人間が優れていると思っている人は、自分が何者かも分からないのに、何かを分かった気でいるのである。

2017年6月6日火曜日

追憶 1703

白い象は、子ども達の笑い声を引き連れて、渓谷を渡った。
子ども達の笑い声が聞こえなくなると同時に、わたしは束縛を解かれたような感覚を得た。
薄暗い森の中には、小さな虫の声だけが響いている。
わたしは独りで取り残され、しばらく呆然としていた。
滲(にじ)む視界の中で、様々なことを考えていたが、考えたところで答えが導けないのはいつものことである。
焦点が渓流の流れに合ったのを自覚して、わたしは目的を達したのだと、何の根拠も無く”理解”した。
わたしは今日、体調不良によって森へ向かい、白い象に会わなければならなかったのであろう。

2017年6月5日月曜日

追憶 1702

多くの人が誤解をしているが、他者とは自分自身なのである。
人は、他者を通じて自分自身を見る。
人は、他者によって自分自身を見せられるのだ。
他者と対峙した時には、様々な感情が湧き起こる。
それは、紛れも無く、自分自身の内側で起こっている現象なのである。
そのため、如何なる苦しみも外側には存在しない。
人は、独りで勝手に苦しんでいるのである。
喜びであっても同じことである。
すべてが独り善(よ)がりであることを知るべきであろう。
それぞれが独り善がりによって様々な感情を生み出し、独り善がりによって共感しているように思い込んでいるだけなのである。

2017年6月4日日曜日

追憶 1701

わたしは、苦しんでいる人たちのおかげで、自分自身を内省することができる。
多くの人は、他者の苦しみを厄介事(やっかいごと)だと思っているだろう。
しかしながら、実際には、喜びよりも苦しみを通じて学ぶことの方が多く、成長するためには苦しみが必要不可欠なのだ。
他者の苦しみを厄介事として否定するのであれば、人は自分自身を内省することも、成長することもできないだろう。
わたしが黒い煙のようなものを吐き出すことができたのは、苦しんでいる人たちのおかげなのである。
あなたが他者の苦しみを厄介事として否定しているのであれば、それは勿体無いことをしていると認識した方が良いかも知れない。
もちろん、限度はある。
相手が甘えてもいけないし、自分自身が疲れ果ててもいけない。
力量を見極める必要があるだろう。

2017年6月3日土曜日

追憶 1700

わたしは悩みを抱えている人と共に成長している。
悩み、苦しんでいる人に出会う程に成長することができるのだ。
少なからず、わたしはそのように実感している。
そのため、彼の主張はわたしには当てはまらないのである。
もちろん、彼の主張は真実であるだろう。
しかしながら、それは彼にとっての真実である。
彼は人の悩みによって(自分にとって都合の)悪い結果を導くであろう。

2017年6月2日金曜日

追憶 1699

知り合いは、わたしを気遣ってくれたに違いない。
彼は、彼なりの善意の言葉を投げ掛けてくれたのだろう。
しかしながら、わたしは彼のようには考えなかった。
なぜなら、人の悩みを聞くことは楽しかったからである。
もちろん、人が苦しんでいる姿を見るのが楽しいということではない。
人の悩みを聞くことによって、わたしは他者を疑似的(ぎじてき)に体験することができる。
それに、共に考えることもできるし、成長することもできるだろう。
苦しんでいる人が、その苦しみを手放す瞬間のあの高揚感は、他のどのような刺激にも勝る快楽なのだとも思える。
そして、苦しんでいる人の悩みを聞いている時、わたしは霊的な存在達と一層強く過ごすことができる。
それは、わたしが最も自分らしくいられる時間なのである。

2017年6月1日木曜日

追憶 1698

わたしは自分がどれだけ矛盾しているのかを誰よりも知っている。
それは他者に比べて知っているという意味であり、自分でも知らない矛盾は数え切れないほどに抱えているだろう。
そのため、わたしが何かの問題を抱える時には、それが自分自身の抱える矛盾であるということを理解することができるのである。
問題を短絡的に捕らえるのであれば、問題は誰かや何かのせいで生じているように思える。
以前、知り合いに言われたことで、今でも覚えている言葉がある。
それは、わたしがバイクで転けたり、家族の誰かが病気を患(わずら)ったりと、世間的に見ると悪いことが続いた頃のことだった。

”悩みを抱えている人の話ばかりを聞いているから、悪いものをもらうんじゃないのか?”

この言葉は今でもわたしの心に突き刺さっている。
それは、わたしがそのように考えたことが無かったからだ。

2017年5月31日水曜日

追憶 1697

医者は病人を必要とし、消防士は火事を必要とし、宗教家は信者を必要とし、政治家は社会問題を必要としているのである。
矛盾が生じる時、例えば、医学が病気を作るという状態を得るのである。
霊能者と呼ばれる人たちや宗教家は、悪霊を仕立てる。
それが善意であっても同じことである。
その人の状態は、因果の仕組みによって導かれた自分を知るために相応しい最善であるにもかかわらず、それを不幸と呼んで、更にはそれを他者である霊的な存在のせいにするのである。
名前や時期や方角や物の配置などで自分の状態が決まるという、余りにお粗末な見解もあるのだ。
医者は病気を、霊能者や宗教家は不幸を作ることによって繁盛するだろう。
他者の幸福のために働いている人が半数はいると信じたいが、社会を構成しているのは矛盾に満ちた人間である。
それが、集団を作れば、仕事や生活や立場を失う恐怖に駆られて、利権のために働くようになるだろう。


2017年5月30日火曜日

追憶 1696

これは、すべての人に言えることだろう。
誰一人として、無知と誤解を克服した人はいない。
ソクラテスでさえ、無知の知と考えたのである。
誰もが、歪んでいる。
それは、現代社会を見れば明らかである。
すべてのシステムが歪み、矛盾を孕(はら)んでいる。
現代社会において、矛盾の存在しない場所はないと思えるのだ。
例えば、わたしは真鯛の養殖業を営んでいるが、そのために真鯛を苦しめ、海を汚しているのである。
現代の養殖のやり方では、自然から貪(むさぼ)るだけである。
自然を顧(かえり)みることなく、自己の利益を追求して自然から貪るのであれば、自分の手で自分の足場を崩すという矛盾を生じさせるのだ。

2017年5月29日月曜日

追憶 1695

光の十字架は、暗くなった森を照らした。
わたしは光の十字架を掴むと、それを黒い煙のようなものに投じた。
すると、黒い煙のようなものは苦しむような印象を残して沈黙し、光の粒となった。
それは、森に漂う霧のようで美しかった。
その時、これがわたしの中の弱さであることに気が付いた。
それは、人間としての歪みである。
黒い煙のようなものは、わたしに内在する誤解の姿である。
わたしは様々なものに対して無知であり、それ故に誤解を所有しているのである。

2017年5月28日日曜日

追憶 1694

白い象の瞳がわたしを見透かしたのであろう。
それは、とても心地の好い感覚であった。
白い象は、わたしよりもわたしのことを知っているのである。
わたしは白い象によって、自分を教えてもらったのであろう。
黒い煙のようなものが腹の中から引き抜かれると、先程までの吐き気が消え去った。
身体の重さも感じない。
わたしは体調不良から解放されたのである。
次にわたしが行うことは分かっていた。
吐き出した黒い煙のようなものの処理である。
この場所にとって、この黒い煙のようなものは異質な存在であり、不自然であるからだ。

2017年5月27日土曜日

追憶 1693

子ども達の笑い声を聞いていると、吐き気が込み上げてくる。
その時、白い象が動きを止めて、透き通るような瞳がわたしを捕らえた。
白い象の瞳がわたしを捕らえた途端に、何かに掴まれるような感覚によって吐き気が限界に達した。
わたしは大量のゲップと共に黒い煙のようなものを吐き出していた。
それは、腹(潜在意識)の奥底から胸(顕在意識)を通って吐き出されたような感覚である。
わたしの抱えている汚れのようなものが、強制的に根刮(ねこそ)ぎ引き抜かれたような気分であった。

2017年5月26日金曜日

追憶 1692

白い象は紅い絨毯(じゅうたん)のようなものを羽織っているが、その先端の無数の総(ふさ)に鈴が結ばれていた。
白い象は歩いている訳ではなく、滑るようにして渓流を横切るように移動しているが、紅い絨毯の先端が揺れて鈴が音を立てているのであった。
その周りにたくさんの子ども達が楽しそうに走り回っていて、笑い合っているのである。
白い象はそんな子ども達にも、わたしにも関心が無いような態度であり、それはまるで、樹木に戯(たわむ)れる小鳥の群のようであった。

2017年5月25日木曜日

追憶 1691

鈴の音と子ども達の笑い声が近付くに連れて、地面に束縛(そくばく)する力が強くなった。
荒い呼吸が、腹の中の獣の興奮を伝えている。
その時、わたしは渓流の奥を見せられた。
そこには、わたしの常識を超越したものがあった。
それは、真っ白な象であった。
他に形容する言葉が見付からない。
百合の花のように全身が透き通るほどに真っ白な象が、渓流の谷間にいるのである。
きっと、陽は落ちているだろう。
今は夕陽の余韻(よいん)で明るいのだろうが、渓流の奥は既に暗闇が迫っている。
そこでは、山の景色に相応しいとは思えない真っ白な象が異彩を放っているのであった。

2017年5月24日水曜日

追憶 1690

すると、森の奥から微かに鈴の音のようなものが聞こえてきた。
それは癇(かん)に障(さわ)った。
怒りの感情が込み上げてくるが、それは身体を動かす程の力も無く、腹の中で煮えたぎるだけであった。
すると、鈴の音に合わせて、幼い子ども達の笑い声のようなものも聞こえてきた。
腹の中で煮えたぎる怒りの感情が、手脚を縛られて身動きが出来ないような歯痒(はがゆ)さを感じる。
相容れない異質なものが、相反しているように感じた。
しかしながら、それ等は矛盾を否定するかのように引き寄せ合っているのである。

2017年5月23日火曜日

追憶 1689

怒りの感情を持続させるには、膨大なエネルギーが必要となる。
それは、大きな火力を持続させるためには、膨大な燃料が必要であることと同じである。
怒りの感情を持続させるためには、例えば、森を切り倒し、地中に穴を開け、大量の燃料を確保する必要があるが、その方法では膨らむのも早いが、萎(しぼ)むのも早いのである。
そのため、怒りの感情を長らく持続させることはできない。
怒りの感情を持続させれば、心の中の資源が枯渇(こかつ)するのも早いのである。
わたしは余りの体調の悪さに、その場に膝(ひざ)を着いた。

2017年5月22日月曜日

追憶 1688

腹の深いところから、どうしようもなく怒りの感情が込み上げてくる。
わたしの腹の中の獣が、森の奥に潜む何かに対して、強烈な敵対心を抱いているのである。
わたしはそれを傍観(ぼうかん)しているに過ぎなかった。
わたしは腹の中の獣の感情に呼応していた。
森の奥に潜む何かに対して、その存在を拒絶したいのである。
わたしには選択肢はなかった。
渓流の緩やかな流れにも逆らうことのできない無力な落ち葉であった。
その時、わたしは自分が威嚇(いかく)する犬のように、歯を剥(む)き出しにして森の奥を睨(にら)み付けていることに気が付いた。

2017年5月21日日曜日

追憶 1687

記念碑から少し進むと、強烈な吐き気が襲った。
わたしは堪らずにバイクを停めて休憩することにした。
そこには小さな橋が掛かってあり、その下には渓流(けいりゅう)が輝いていた。
本来ならば、この美しい光景に心が洗われるのだろうが、今のわたしには何の喜びも得られなかった。
腹の中に猛り狂う獣が潜んでいるような感覚に縛られ、深い穴の奥に閉じ込められているようである。
ヘルメットを置いて、渓流を眺めていると、森の奥から視線のようなものを感じてた。
それは、刺すような視線であり、今のわたしには耐えられるものではなかった。


2017年5月20日土曜日

追憶 1686

わたしを呼んだのは、この老人ではないのか?
それにしては無関心であり、暖かさも感じられない。
どちらかと言えば冷たく、嫌悪感すら覚えそうになるのであった。
わたしを呼んだのは別の何かに違いない。
そう思うと、身体の重さが増したような気がした。
重たい身体を引き摺(ず)りながらバイクに戻り、エンジンに火を入れて彼を見ても、やはりわたしには何の興味も抱いてはいないようである。
わたしは彼にこの先に立ち入ることを断ってからバイクを走らせた。

2017年5月19日金曜日

追憶 1685

常識的に考えてみれば、彼が人間ではないことは理解することができる。
汚らしい着物を羽織った老人が、一人で山の中の記念碑の上に座っているとは考えにくい。
わたしは初めから彼が人間だとは思っていない。
霊的な存在であり、山の神様か何かだろうと考えていたのである。
バイクを停めて、エンジンを切る。
すると、静寂が押し寄せてきた。
ヘルメットを置いて彼を見ても、同じように遠くの方を眺めている。
人間ならば、わたしに目線を落とし、多少の警戒心でも抱くところだろう。
しかしながら、彼はわたしに見向きもせず、興味すら無いようであった。
近付いて話し掛けてみても、何の反応もない。
彼はまるで、記念碑の一部のようであった。

2017年5月18日木曜日

追憶 1684

山道を進むに連れて、身体の重さと吐き気が増した。
それでも、進む必要があると思ってバイクを走らせる。
幾つかのカーブを越えると、前方に大きな岩の記念碑のようなものが見えた。
そして、その上に古い着物をだらりと羽織った老人が胡座(あぐら)をかいて座っている。
遠目に見るそれは、浮浪者のような汚らしく、老いぼれた男であった。
しかしながら、見た目とは裏腹に威厳(いげん)のようなものを感じる。
わたしは彼を只者では無いと直感し、挨拶をしようと決めた。

岩の記念碑は見上げるほどの大きさである。
書いてある漢字を理解することは出来ない。
その上に小さく薄汚れた老人が、どこか遠くの方を眺めながら鎮座(ちんざ)しているのであった。

2017年5月17日水曜日

追憶 1683

わたしは誰かに呼ばれているような気がした。
それは、とても大らかな声であったように思う。
何かとても大きくて、暖かいような感覚を得たのである。
わたしはその声に従う必要があると思い、心の赴(おもむ)くままにバイクを走らせた。
わたしはある山に向かっていた。
何と無く、そこへ向かうべきだと感じたからである。
それは、自宅から15kmほどの場所にある山で、そこは多くの住居がある地区だ。
わたしは二車線の広く快適な道を、住居を横目に見ながら進んだ。
山に向かうに連れて、樹木の割合と対照的に少しずつ住居が少なくなってくる。
住居の数に比例して、道幅も狭くなり、山の入り口では、運転に気を使うほどの道幅となっていた。
わたしは心の中で山に挨拶をして、人の生活を通り抜けた。

2017年5月16日火曜日

追憶 1682

初夏のことである。
陽は傾いていたが、未だに遠くの山の上に浮いていた。
わたしは重たい心と身体を放り投げるようにして椅子に沈めた。
指で瞼(まぶた)を抑えると、疲労しているのだと実感した。
わたしはその姿勢のままでしばらく瞼を抑えていた。
すると、瞼の裏側に声が聞こえた気がした。
それは、音声であっただろうか?
それとも、映像であったか?
それは、刹那(せつな)の出来事であったが、どこからか何かが伝わったような気がしたのである。

2017年5月15日月曜日

追憶 1681

その日、わたしは体調不良に陥っていた。
吐き気が続いていたのである。
身体は鉛(なまり)のように重たく、それに比例するように気分は沈んでいた。
わたしにも気分の浮き沈みはある。
わたしも未熟な存在なのだ。
気分の浮き沈みによって見える景色は異なる。
それは、新たな視点を学ぶ機会となるのだ。
そのため、気分が浮き沈みすることを悪くは思わない。
寧ろ、それは良いことであると思える。
例え、どのような気分であろうとも、わたしはいつもの生活を続ける。
その日も、吐き気と重たい気分と身体を引き摺(ず)りながら、一日の仕事を終えたところであった。

2017年5月14日日曜日

追憶 1680

わたしの人生にはいつも不思議が付きまとう。
それは、わたしが人生の意図を理解することも出来ない未熟者であることを意味しているのである。
わたしは未熟な存在として生まれ、未熟を積み減らすために生きている。
きっと、ただ、その目的のためだけに生きているのだろう。
未熟を積み減らすために様々な経験が存在しているのだと思えるのだ。
理由は分からない。
しかし、胸の奥の更に奥の方から湧き起こる欲求が、わたしに囁(ささや)いているのだ。

”学べ、そして、読み解け”

と…

2017年5月13日土曜日

追憶 1679

人生は不思議で満ち溢れている。
本来ならば、不思議なことなど存在しないだろう。
しかしながら、人生は不思議で満ち溢れている。
それは、人間が無知であるからに他ならない。
この世界には、遍(あまね)く因果の仕組みが存在している。
これは、疑いようの無い事実であると思える。
人生はいつも後になって理由を明かしてくれるが、それは、後になってようやく自分自身の成長が人生の意図に追い付いただけの話である。
そのため、人生には不思議に思えることはあっても、不思議という実体は存在してはいないのだ。

2017年5月12日金曜日

追憶 1678

わたし達一人一人が、古い自分を殺さなければならない。
それは、野蚕(やさん)が幼虫の姿を捨てて、暗闇の中の一筋の光を求めて懸命に羽ばたくように、わたし達も先の見えない人生を不慣れな新しい自分で進んでいく必要があるのだ。
野蚕が幼虫の姿を捨てなければ、桑の葉を食い尽くしてしまうか、秋に葉と共に落ちてしまい、蟻の餌になってしまうだろう。
生命は、季節に合わせて古い自分を殺し、新しい自分を生きるのである。
それが理である。
理に反することは、豊かさに反することだ。
ならばわたしは、自分を殺そう。

2017年5月11日木曜日

追憶 1677

人は、何かを殺すことによってしか生きられないのである。
古い文化を殺し、新しい文化を生み出す。
これは、世界中で行われていることだ。
原住民族の文化も、強く伝統に根差してはいるが、決して生き続ける訳ではない。
差はあれど、必ず変化の中に存在しているのである。
古いものが良いとする考えもあるだろうが、わたしは必ずしもそうとは思わない。
この世界の理に根差したものが良いのであって、新旧は関係のないことなのである。
新しくても、よりこの世界の理に近ければ良いものであると思うのだ。

2017年5月10日水曜日

追憶 1676

改めたとは言っても、以前に比べて多少改まったということであり、依然として多くの不自然さは潜在している。
わたしの場合は、自らの抱える不自然さとは、生涯を通じて向き合い続ける必要があると思えてならない。
わたしはそれを不服に思っている訳ではない。
それが人生の目的であると思っている。
わたしはいつも、古い自分と向き合うだろう。
その度に自分を殺し続けなければならないのだ。
この世界は、他の命を殺さなければ生きていくことができない。
わたしは動物の肉は食べないが、魚と野菜は殺している。
それに、体内には免疫機能が備わり、毎日無数の細菌を殺しているのである。


2017年5月9日火曜日

追憶 1675

わたしの幼少期は、環境的にも、人間関係も満たされていた。
しかし、自らの心は満たされていなかった。
それは、わたしの中に存在する不自然を感じていたからであろう。
わたしの苦悩は、20年に渡り続くのである。
それは、鍛冶屋が鉄を打つように、人生がわたしを鍛えたのであろう。
わたしは幼少の頃から人生に叩かれ続けた。
それは、自らの選択の当然の結果である。
その度にわたしは古い自分を殺し、不自然な自分を改めた。
その結果として今の自分が在るのだ。
だから、人生に対しては感謝以外の感情は抱いていない。

2017年5月8日月曜日

追憶 1674

残念ながら、以前のわたしは不自然さに気が付かずに生きていた。
そのために、苦悩を抱えていたのである。
今でも、不自然さを抱えてはいるが、以前に比べると薄まったようにも思える。
それは、人生が教えてくれる学びによって自分を殺し、改めたことで実現したのだろう。
人生の教えとは苦悩である。
人は、苦悩を通じて自分を殺すのである。
幸福感を通じて自分を殺すのは難しい。
それは、幸福を得ている時には、それが良いと考えてしまうからだ。

2017年5月7日日曜日

追憶 1673

山の中で出会った二人も、あの青鬼も、わたしを殺そうとしていた。
二度も同じことが続くということは、それを強く求められているということであるだろう。
この世界には偶然は存在せず、すべてが意味を以った必然であると言えるだろう。
わたしは自分を改めることを求められているのだ。
人生がわたしに求めているのであれば、そうなるように努めなければならない。
これまで、わたしは自分勝手に生きてきた。
しかし、それが不自然な生き方であることは人生が教えてくれたのである。

2017年5月6日土曜日

追憶 1672

わたしは自分の性格を長所だと認識しているが、長所の半分は短所でもあるだろう。
一途に頓着することは良い結果を導く反面、そうではない結果を導く可能性を抱えている。
わたしの場合は、一途に頓着する余り、横の広がりが弱くなる。
深くなることは良いが、細くなってしまうのだ。
大切なのは、太く深く育つことだろう。
そのためには、横の広がりが必要なのである。
”曲がる”というのは、改めるということであるだろう。
樹の根は、地中の岩を避けて通る。
それは、根を曲げることであるが、結果として広く頑丈に根を張ることができる。
岩を取り除いた畑に植えた樹は、簡単に耐えれてしまう。
それは、曲げる必要もなく、細い根で事足りるからである。

2017年5月5日金曜日

追憶 1671

恐らく、青鬼はわたしに遣わされた精霊か何かであろう。
神社の前でバイクに乗ってきたのは、土地に関係しているのかも知れない。
青鬼を遣わせたのが何かは分からないが、学びのためであったことは明白である。
青鬼がわたしに導いてくれた学びとは、”道を曲がれ”という教えであるだろう。
それは、柔軟性を持てということなのだと思える。
わたしの性格は頑固で一途であると分析している。
自分で決めたことは簡単には諦められず、時間や食事を忘れて頓着(とんちゃく)してしまう。
光の天秤を書き続けているのも、その性格のためであるだろう。

2017年5月4日木曜日

追憶 1670

わたしは、そうしたいと思い、光の塊を抱き寄せた。
すると、そこから情報が伝わる。
それは、直感のように曖昧(あいまい)な情報であった。
恐らく、わたしの力量においては、全体の一部を感じ取ることにとどまるのであろう。
わたしは青鬼の意味を知るための手掛かりを得たように思える。
そう感じた時には、光の塊はわたしの腕を離れて、天に輝く大きな光に向かって上昇していた。
わたしは胸の奥に充実する感覚を得て、感謝の気持ちを言葉に変えた。

2017年5月3日水曜日

追憶 1696

青鬼はまとわり付くような嫌らしい笑みでわたしを見詰めた。
何かを企んでいるような笑顔が不愉快であった。
すると、わたしの意思に反して、右手が宙に十字を描いた。
右手が光の十字架を青鬼に投じた後に、自らの行為に対する認識が追い付いたのである。
わたしが驚いていると、光の十字架に射抜かれた青鬼が苦悶(くもん)の表情を浮かべて苦しんでいるようであった。
先程までの嫌らしい笑みを失った青鬼を見ていると、可哀想に思えた。
それから、すぐに青鬼は沈黙し、その姿は光の塊(かたまり)となった。

2017年5月2日火曜日

追憶 1695

それから帰宅するまでの間、バイクは何の問題もなく走行した。
わたしの内省のテーマは、バイクが曲がらないことに変わっていた。
しかしながら、納得することの出来る答えを導き出すことは叶わなかった。
バイクをいつもの場所に停め、ヘルメットを外し、一息ついた時に異様なものが視界に飛び込んできた。
それは、荷台に座る青鬼であった。
それは、どう見ても青鬼にしか見えなかった。
それは、肌の青い、毛の抜けたチンパンジーのような姿をしている。
それがバイクの荷台に静かに座っているのだ。
わたしの頭の中には疑問符が飛び交っていた。

”こいつは何だ?”

それ以外の思考は存在してはいなかった。