このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2014年12月31日水曜日

追憶 844

複雑に入り組んだ心を進むのは簡単なことではなかった。
進む程に胸騒ぎと不快感が増していくのである。
それでも、わたしは進む必要があった。
それは、この胸騒ぎと不快感を取り除くためである。
Tさんは何らかの形でこの感覚に苦しんでいるはずなのだ。
投げ出したい気持ちが蔦(つた)のように絡み付き、わたしを支配していく。
進む程に道は険しくなり、わたしは何度も挫(くじ)けそうになる。
しかしながら、人生には何が何でも果たさなければならない志がある。
わたしにとっては、Tさんの心を苦しめる原因とその問題を解決することがそれであるのだ。

2014年12月30日火曜日

追憶 843

ここまでは、わたしの勝手な推測である。
しかし、これは直感として受け取ったものであり、大抵の場合これが正しい。
直感に疑いをかけ、常識や価値観によって様々に考えるために、この正しい認識が歪むのである。
わたしは自らの直感を信じている。
そして、この直感の真偽をニュートラルな立場で検証する必要があるのだ。
直感は結果的に正しいことが多いだけであって、すべてが正しいという訳では無いからである。
わたしは乱雑に積み上げられた感情を掻き分けながら、胸騒ぎの理由を探るために奥へと進んだ。

2014年12月29日月曜日

追憶 842

整えられていない心は不快である。
図書館の書籍が何の脈絡もなく、ただでたらめに並べられていることを考えれば、この不快感を理解することができるであろう。
目的の書籍を探し当てるのは困難である。
わたしからすれば、Tさんの心は「困難」であった。
また、整えられていない心は正しく機能しない。
整備を怠る自動車が、正しく走行しないのと同じである。
きっと、Tさんは正しく心を使うことができてはいないだろう。
即ち、感情に翻弄(ほんろう)されて、苦しい人生を生きているに違いないのである。



2014年12月28日日曜日

追憶 841

瞼を閉じて、深く呼吸をし、わたしは心を落ち着ける。
自らの深層に存在している静寂を目指すのである。
静寂に辿り着くと、わたしは神の道具となる。
即ち、自らの意思とは別に肉体が導かれるのだ。
これによって、わたしは光の仕事を実行するのである。
大きな背中に目一杯に天使文字を描く。  
どういう原理なのかは分からないが、これによってTさんの心の扉が開き、内と外を行き来することができるようになるのであった。
Tさんの心の中には混沌(こんとん)が存在しており、様々な感情が不規則に積み上げられ、それが散らかっていた。
わたしはそこに統一性を見出すことができず、不快感を覚えるのであった。

2014年12月27日土曜日

追憶 840

無理矢理に瞼が開かれたのだ。
わたしは何かに否定されたのであろう。
それが、気分の悪さと胸騒ぎに関連していることは疑いようが無いように思える。
わたしは今回の仕事は骨を折るものになると覚悟を決めた。

大天使ミカエルは、Tさんを呼ぶように告げた。
わたしはその意思に従ってTさんを目の前の座布団に招いた。
ぎこちなく腰を下ろしたTさんの背中からは、戸惑いの印象を受けた。
その瞬間に胸騒ぎが更に高まるのも感じた。
Tさんには、これからわたしが叫んだり、倒れたりするかも知れないが心配ないという趣旨のことを伝え、気楽にしておくように頼んだ。
うなづいて見せたTさんの心の中には、不安の色が一層強くなっていた。

2014年12月26日金曜日

追憶 839

部屋に到着し、わたしは中央に置いてある虎柄の座布団を前にして座り、二人は入り口付近に腰を下ろした。
わたしは全身を覆う鳥肌と胸騒ぎが強くなっていることに気が付いていたが、それを態度には出さなかった。
二人には気楽にしているように告げて、わたしは深呼吸と共に瞼(まぶた)を閉じた。
視界には暗闇が広がっていたが、そこには何らかのネガティブな感情と気分の悪さがあるように思える。
そこはとても居心地が悪いのである。
その時、わたしは弾かれるようにして、強制的に瞼が上がるのを理解した。
秒速約30万キロで角膜を通過し、水晶体を超えて硝子体に入り、網膜から運ばれた情報を大脳が認識するのには、一瞬ではあるが、それは普段よりもコンマ数秒だけ遅れていた。
所謂(いわゆる)、目が眩んだ状態である。
そうなったのは、わたしが自らの意思で光を取り入れた訳では無いからである。

2014年12月25日木曜日

追憶 838

インターホンが鳴り、わたしは玄関へと向かった。
磨りガラス越しに、闇夜を背景にして大柄の男の影が浮き上がっている。
扉を開くと、そこには緊張を笑顔で隠すTさんの姿があった。
Tさんとは初対面である。
しかし、歳は離れているが、同じ小学校の出身であり、わたしには中学生か高校生くらいのTさんのことを見た記憶があった。
その後ろに隠れるようにして、Tさんの母親であるKさんの姿があった。
大柄であるTさんの迫力に負けて、Kさんの姿に気が付くのに少し時間がかかってしまった。
このKさんは、既に何度か光の仕事に来てくれていた。
そこでも様々な体験があるが、今回は割愛しよう。
わたしたちは互いに挨拶を交わし、わたしは二人を部屋に招き入れた。

2014年12月24日水曜日

追憶 837

朝から、わたしは嫌な予感に襲われていた。
胸騒ぎが続き、どうしても落ち着かなかったのである。
今晩はTさんという男性の予約が入っている。
自分なりに胸騒ぎの原因を探るが見当が付かない。
きっと、Tさんに関係していることなのではないかと思う。
わたしは嫌な気分のまま一日を過ごした。
前日か当日、もしくは何時間か前に、その日の光の仕事で会う人の抱えている問題や苦しみがわたしに届くということは良くあることである。
これは、光の仕事というものが、霊的存在たちの間での駆け引きによる影響によって、人間であるわたしたちが動いているという事情があるからである。
それが、Tさんの場合は朝から始まっただけの話であるだろう。

2014年12月23日火曜日

追憶 836

人生は様々な苦しみによって、わたしたちに努力することの価値を教えてくれる。
人生における問題や苦しみとは、人に本当の価値や幸福というものを理解させるための教育なのではないだろうか?
そのことを理解して人生の様々な状況に向き合うことが大切であるだろう。
一見すると、その教え(問題)が何を意味しているのか分からない。
青年は胸の痛みがNに対する未練であり、わたしに対する不満であるということに気が付くことは難しいであろう。
そこには、何の繋がりも無いように思えるからだ。
だから、人は努力しなければならないのである。
目に見える範囲、認識の及ぶ範囲だけで考えてはならない。
答えはそんなところにはないのだ。
人生を深く深く見つめなければならないであろう。

2014年12月22日月曜日

追憶 835

青年は胸の痛みが無くなるまで苦しむだろう。
この胸のナイフは、青年を成長させるための役割であり、その役目を終えると消えるはずである。
その時が苦しみとの決別であり、Nに対する思いとの別離なのであろう。
苦しみを受け入れることは誰にとっても難しいものではあるが、必要なことである。
わたしたち人間は苦しみを受け入れ、それによって成長するために生まれて来たと言っても過言ではないだろう。
人生には様々なことが起こり、そこには様々な感情が導かれる。
それを思いやりや感謝などの建設的なものにしていくのが、人の仕事なのではないだろうか?
不満や恨みの感情を導くのは簡単であり、何の努力も必要としない。
しかし、大切なのは努力することであり、努力して得られるものにこそ本当の価値があるのではないだろうか?

2014年12月21日日曜日

追憶 834

人生において大切なことは、先へと進むことである。
わたしたちは様々な問題を抱えて苦しむ。
時には怒り、時には悲しみ、時には恨み、時には絶望する。
心が苦しみに捕らわれてしまうと、そこから抜け出すことは難しく、同じことを延々と考え続けるのである。
そこには心地好さはないのだ。
苦しみ続けることが幸福であるはずがないのである。
目の前にどのような問題が起きようとも、わたしたちはそれに捕らわれてはいけない。
しかし、そこから抜け出すことは容易ではない。
そのために、人生は難しく、生きることは辛いのである。

2014年12月20日土曜日

追憶 833

彼の中には、Nを思う気持ちがあるはずである。
わたしにはそれが良く分かるので、青年をかわいそうに見てしまう。
しかし、そこに必要が存在していることも知っている。
彼にはかわいそうではあるが、それぞれが成長するためには仕方のないことだったのであろう。
現時点においては、わたしを含め、Nにも青年にも、このような状況に導かれた理由は分からないであろう。
しかし、何らかの必要が存在しているためにこうなったのは理解することができるはずである。
わたしたちはその理由を探すために、それぞれの立場で受け入れなければならないのだ。
受け入れることがなければ、理由を探すことはできず、理由を探し出すことができなければ、先へと進むことはできないのである。

2014年12月19日金曜日

追憶 832

一連の経緯を聞くNの瞳は、真っ直ぐにわたしの瞳を捉えていた。
Nは不思議そうな顔ではあるが、一生懸命にわたしの話を理解しようと努めているようであった。
ナイフが無くなると、Nもわたしも胸の痛みが嘘の様に消えていた。

後日、Nがわたしを訪ねた。
Nには話したいことがあるようであった。
わたしが青年にナイフを返した翌日、Nは普段通りに登校した。
そこで、普段通りに過ごしていた。
そこに一人の男子生徒がいて、彼がNに対して「胸が痛い」と胸を摩りながら訴えていたとのことだった。
Nはこの時に、青年が誰であるのかを理解したのである。
それは、わたしよりも以前に交際していた青年であったのである。



2014年12月18日木曜日

追憶 831

しかし、思いを汲(く)んで成長することができるかは青年次第である。
いくら話して聞かせ、行って見せたとしても、それを学び取る意思がなければ成果として現れることはないのである。
結局は、自力に頼る必要があるのだ。

大天使ミカエルは、わたしに青年までの道を示した。
大天使ミカエルはこのナイフを青年に返すことをわたしに命じているのである。
わたしはナイフに思いを込めて、それを青年へと投じた。
ナイフは一直線に飛び、青年の胸に刺さった。
それを見届けて、わたしは瞼(まぶた)を上げた。

2014年12月17日水曜日

追憶 830

わたしはこの青年よりも歳上である。
従って、この青年からすれば大人なのである。
わたしはこの青年に大切なことを伝えなければならない。
この方法が間違いであると教えることができるのは、思いを向けられたわたしの仕事なのである。
わたしはこの青年が誰であるのかを知らないために、直接話をすることはできない。
わたしにできることと言えば、霊的な働きかけによって、間接的にでも伝えることなのである。
わたしは手に持つナイフを青年に返そう。
青年の元から来たこのナイフに思いを乗せて返すのである。
間接的にではあるが、思いが伝わった時には、青年はある程度の成長を実現しているだろう。

2014年12月16日火曜日

追憶 829

そのために、人は簡単に他人に対して怒りの感情を抱くし、恨むのである。
そして、自分自身を正当化することによって、これは自らの正義の戦いだと思い込むのである。
その考えは間違っていると教える大人がどれだけいるだろう?
残念ながら、わたしはそのような大人に会ったことがない。
そのために、わたしは自らの魂の汚れを取り除くことができずに、更に歪んでしまったのである。
誰もが他人を嫌い、敵がいるのだ。
わたしの両親でさえ、あからさまでは無いにしても好き嫌いはある。
人の悪口を言うような両親ではないが、幼かったわたしが人の悪口を言うことがあり、それを制することはあっても、正しい道を示すことはなかった。
わたしは両親から道徳的な教育というものを明確に受けた記憶はない。
それはエゴや常識の植え付けの回避という観点においては感謝しているが、それはプラスマイナスゼロであって、教育であるとは言えないのである。



2014年12月15日月曜日

追憶 828

何らかの理由で他人に憎まれたり、恨まれたりすることはあるだろう。
例え身に覚えのないことであろうとも、誤解や逆恨みなどということもあるのだ。
しかし、他人がどのような思いを自分に対して向けようとも、こちらはそれにネガティブな思いを返してはならないのである。
わたしたちは、他人に害されると思っているが、事実としてはそのようなことはない。
何度も言うが、この世界には因果の仕組みという誰も逆らうことのできない真理が存在している。
他人に害されていると思えることであっても、その原因は自分自身にあり、他人には無いのである。
この事実を知らずに生きている人が大半である。
今日の日本では、このようなことを教えることのできる人物はほとんどいなくなってしまったのだ。

2014年12月14日日曜日

追憶 827

わたしはこの思い(ナイフ)を本人に返さなければならなかった。
それは、因果の仕組みである。
人を呪わば穴二つという言葉があるが、自分自身の思いが自分自身を決定する。
誰かに対してネガティブに思えば、そのネガティブに思う心が原因となり、自らに仇(あだ)となるのである。
どのような思いであれ、それが返ってくる、そして、それが自分自身の原因となるということを覚えておかなければならないだろう。
人は自分勝手に思いを向けるが、それがどのような結果を導くのかを知る必要があるだろう。
誰なのかは分からないが、わたしはこの青年に対して思いを返さなければならない。
しかし、怒りの感情を抜いてきれいにした思いなので、決して災いを返すのではない。
ここが重要なのである。

2014年12月13日土曜日

追憶 826

これは、怒りの感情が抜けた人の思いである。
ナイフの形をしているのは、わたしの認識に頼るところが大きいであろう。
わたしにはナイフに見えるということである。
言葉が人の心に届き、それを癒したり傷付けてしまうように、思いであっても同じ結果をもたらす。
言葉には相手に直接的に認識させる力があるが、思いにはそれが弱い。
しかし、認識させる力が弱いからといって、影響力が弱いということではない。
Nとわたしの胸を刺し、実際の痛みを与えたように、それには確実に影響力があるのである。
人の思いには、力があることを忘れてはならないであろう。
わたしたちは思いに従って行動するのである。

2014年12月12日金曜日

追憶 825

わたしは力一杯に胸に刺さるナイフを抜いた。
それと同時に、わたしは大量の破滅的な意識をゲップによって吐き出すのであった。
破滅的な意識を吐き出すと、気分の悪さと体調の不調が嘘のように消えた。
気分の良さに喜びを感じて、わたしは心の中で感謝を紡いだ。
ナイフを見ると、刃の部分が赤黒い光を放っていた。
これは、不快なものである。
怒りの感情がそうさせるのであろう。
わたしは人差し指と中指を伸ばして、宙に線を引いた。
するとそこには一筋の金色の光が生まれ、それは光の杭となるのである。
光の杭を掴んで、ナイフに突き刺した。
すると、甲高い悲鳴のようなものが響き、刃の部分の赤黒い光が失われ、それは何の変哲もない銀色のナイフとなった。

2014年12月11日木曜日

追憶 824

わたしにできることと言えば、この方法が間違っていると教えることくらいだろう。
わたしには彼の心を操作する力は無いし、それは彼の仕事なのである。
わたしには誰の心も変える力は無いし、他人を救えるなどと思ったことはない。
わたしに救えるのは自分自身だけである。
人は自分以外を救うことなどできないであろう。
他人を救えると考えるのは思い違いであり、思い上がりである。
この青年を救えるのは、青年自身だけなのだ。
わたしはナイフを掴む指に力を込めた。
すると、気分が悪くなるのを感じて、ゲップと共に黒い煙のようなものを吐いた。
それは苦しかったが、わたしの愛の方が勝っていた。

2014年12月10日水曜日

追憶 823

わたしはこの青年を理解しようと努めた。
そうすると、胸に刺さるナイフが深く食い込むように感じた。
わたしは痛みを気にすることなく、慈しみによって青年を見つめていた。
青年は敵意を向けてきたが、それは苦しみから生じた一種の不器用な方法だったのである。
この青年を子どものように感じたし、昔の自分自身を見ているような気持ちになったのだ。
わたしの仕事は、この青年を間違った考えや感情から引き抜くことであるだろう。
どのようなことがあろうとも、苦しむことは間違っているのである。
ましてや、人を恨んだり、敵意を向けるなどという行為が人の道として正しいはずがないのだ。
わたしは人生の先輩として、この青年に大切なことを伝えなければならない。
人の生きる道において大切なことを教える必要があるだろう。

2014年12月9日火曜日

追憶 822

この痛みは、切なさであった。
愛する者を失った時の辛さである。
わたしは久しく忘れていたが、ようやく思い出すことができた。
その時、わたしは自らの心に同情が生まれていることに気が付いたのである。
わたしもこの痛みに苦しめられたことがある。
どうしようもなく辛いのだ。
わたしはこの思いをかわいそうに思った。
この辛さを自分自身に置き換えて考えることができるのである。
その時、わたしは人影を見た。
それは十代の青年であった。
顔の作りまでは認識することができないが、なぜかそう思うのである。
わたしはこの青年が苦しみの原因であるということを直感的に理解した。
間違っているかもしれないが、それ以外には考えられないのである。
青年からは怒りの印象を受けるが、その中には悲しみが溢れていると感じるのであった。

2014年12月8日月曜日

追憶 821

わたしは瞼(まぶた)を閉じて、この鳥肌の原因に対して意識を集中した。
すると、すぐに敵意を見付けることができた。
その敵意を手繰り寄せていると、どこからともなく小さな声のような音が微かに聞こえてくる。
集中して聞いても、何を言っているのかを聞き取ることはできなかったが、それは何かを悔しがっているように思えた。
敵意と共に、悔しいという感情が伝わってくるのである。
それが発せられる場所に近付いて行くほどに、わたしは胸を引き裂かれるような痛みを感じていた。
これ以上は進みたくないと思ったが、進まなければならないという気持ちが勝るのである。
わたしはこの痛みの中に何か懐かしさを感じていた。

2014年12月7日日曜日

追憶 820

それは明らかな敵意であった。
わたしは胸の奥が激しく脈打つのを感じた。
血圧が上昇し、身体が臨戦態勢を整えたようである。
わたしは自らの感覚が研ぎ澄まされるのを感じていた。
これは無意識の反応である。
わたしの中の防衛本能が反射的に働いたに違いない。
わたしはこの状態が好きではない。
緊張し、疲れるからである。
わざと深く呼吸をして、身体に対して冷静になるように告げる。
深呼吸を繰り返していると、鼓動の高鳴りは徐々に収まっていった。
しかし、全身を覆う鳥肌は収まりそうにはなかった。

2014年12月6日土曜日

追憶 819

ある日のこと、Nが学校からの帰りに立ち寄った。
わたしの自宅は、Nの自宅と学校の間にある。
わたしは笑顔で迎え入れたが、Nは複雑な表情を浮かべていた。
気になって尋ねると、胸が痛いのだと言う。
その時に、わたしも胸が痛くなるのを感じた。
何か鋭い物が胸に刺さるような感覚である。
見てみると、わたしの胸にナイフのようなものが突き刺さっていた。
驚いて、その柄(え)を掴み抜こうとした時に、全身に鳥肌が走るのを認識した。
それと同時に、そこに強烈な人の意思を感じるのである。

2014年12月5日金曜日

追憶 818

これは、わたしに対する気持ちが迷いを振り切ったということを示しているのではないだろうか?
わたしは自然とNの手を取っていた。
後に聞いたことではあったが、Nがわたしを訪れた時には、交際をしていた彼とは別れていたそうである。
理由は分からないが、Nはわたしと共の時間を生きることを選択してくれたのであった。
Nの心が晴れたように感じたのは、わたしと元交際相手との間で不安定に揺れていた状態から解き放たれたからだろう。
Nにとっては大きな問題であったに違いない。
それは、痛みにも似た悩みであっただろう。
わたしはこの状況を喜んだが、それは素直なものではなかった。
Nの元交際相手のことを気にしていたのである。



2014年12月4日木曜日

追憶 817

Nは返事をしなかった。
わたしも答えを求めてはいなかった。
ただ、わたしは大天使ミカエルの意思に従えたことを嬉しく思うのであった。

Nからの返事が無いままに、しばらくの時が過ぎた。
ある日、Nから会いたいという趣旨のメールがあり、Nが自宅に遊びに来ることになった。
仕事以外で、それもNが一人でわたしを訪ねるのは初めてのことであった。
わたしたちは普段通りに楽しく過ごしたが、そこでわたしはNの心がいつもとは違うのではないかと思ったのである。
比喩(ひゆ)することは難しいのだが、何か心が晴れたような、純粋さが増したような、そんな感覚であった。

2014年12月3日水曜日

追憶 816

それにこの時、Nには交際している相手がいたようだ。
詳しくは知らないが、わたしにはそれを壊す権利はないと思えたのである。
大天使ミカエルの意思は、何かしらの必要を満たすためのものであるだろう。
しかし、それは絶対というものではないと思える。
わたしたち人間には「神様」から自由意思が与えられ、守護者の意思を受け入れないという選択肢もあるのだ。
大天使ミカエルがわたしを叱咤(しった)したのは、先述したように、これはわたしが自分自身の意思によって志した道であるからである。
わたしが自分自身の意思によって志すことがなければ、大天使ミカエルはわたしのことなど気に留めてはいないのだ。
もちろん、Nにも自由意思が与えられており、それを大天使ミカエルやわたしが歪めることなどできるはずがないのである。

2014年12月2日火曜日

追憶 815

Nに対して気持ちを伝えるのは、Cさんに対するものよりも幾らか気楽なものであった。
わたしはNにことの顛末(てんまつ)を正直に伝えた。
恋愛感情も無いままに交際を申し込むのは、わたしの常識からは外れているが、これはNにとっても同じであるだろう。
わたしは申し訳ない気持ちを感じていた。
必要なことを伝え終わると、わたしは返事を急いではいないことも付け加えた。
この場で返事をすることなど到底無理だと考えたからである。
大天使ミカエルと直接話したわたしでさえ、今だに混乱しているのだ。
Nに理解できるはずがないのである。

2014年12月1日月曜日

追憶 814

しかし、Cさんの口を吐いて出た言葉は、またしてもわたしの想像を裏切った。

「良いんじゃない」

それは、またもやわたしの意思を肯定する言葉だったのである。
今度は、すべてを丁寧に説明した。
しっかりと理解した上での発言である。

「恋愛に歳は関係ないと思うよ。わたしだって旦那とは10歳離れているし、(わたしとNの歳の差が)9歳なら大丈夫よ。お互いが好きなら応援するよ」

このように付け加えてくれた。
わたしは嬉しく思い、感謝を言葉に乗せた。
しかし、ここまでは自分勝手な話である。
Nの気持ちは全く反映されていないのである。

2014年11月30日日曜日

追憶 813

わたしは一瞬、その言葉を理解することができなかった。
しばらくの間を置いて、わたしはCさんがわたしの意思を肯定(こうてい)しているということに気が付いた。
しかしながら、Cさんはきっと誤解しているであろう。
わたしが人生の伴侶としてNを欲しているなどとは、想像することもできないはずである。
このようなことは、常識から大きく外れているために、何か違う意味として捉え、それについて了承したに違いない。
多少の冷静さを取り戻したわたしは、Cさんに大天使ミカエルとのやり取りを、Nにも聞こえるように話した。
再度、Cさんの表情が狐につままれたようになり、わたしは嫌われることを覚悟するのであった。

2014年11月29日土曜日

追憶 812

しかし、わたしは言わなければならない。
勇気を出して口を開いた。

「Nを頂戴(ちょうだい)」

わたしは自分自身の口を吐いて出た言葉に驚いた。
自分自身でさえ、このように唐突な言葉になるとは思ってもみなかったのである。
しまったと思った。
主語が無ければ何のことだか分からないだろう。
沈黙の中に、わたしは慌てて言葉を続けようとした。
Cさんは狐につままれたような顔でわたしを見ていた。

「え。良いよ」

Cさんが言葉を投じた。



2014年11月28日金曜日

追憶 811

Nの意思が重要であることはもちろんのことが、先ずは保護者であるCさんに伺(うかが)いを立てることが筋道だと思ったのだ。
わたしが瞼(まぶた)を上げると、Cさんと目が合った。
Cさんはわたしが大天使ミカエルと会っている時に、わたしのことを観察していたようである。

「どうしたの?何かあった?」

Cさんからの言葉に、わたしは少し戸惑った。
決心はしたものの、これを実際に人に伝えるのは簡単なことではなかった。
言うは易く行うは難し、とはこのことであろう。

2014年11月27日木曜日

追憶 810

大天使ミカエルの叱咤(しった)によって、わたしは自分自身の道を思い出すことができた。
わたしには大天使ミカエルの意思を完全に理解することはできない。
しかし、それがいつも正しかったことは経験によって知っていた。
しかし、現時点においてのわたしの信仰は、自分自身の保身を考える程度のものだったのである。
このままでは、これより先へと進むことはできないであろう。
わたしは決心を固めた。
どのような結果が出るかは分からないが、Nを人生の伴侶(はんりょ)としてもらい受けると伝えなければならない。
Nが14歳であることもあり、わたしは事の次第を先ずは母親のCさんに伝えることに決めた。

2014年11月26日水曜日

追憶 809


「早く、もらい受けると伝えないか」

わたしは雷鳴に打たれたような衝撃に襲われた。
業を煮やした大天使ミカエルは、天に轟(とどろ)くような大声によって、わたしを叱ったのである。
大天使ミカエルがわたしを叱るのには理由があった。
それは、これがわたしが自分自身で選んだ道であるからだ。
誰に命令される訳でも無く、自分自身でこの道に進んだのである。
それなのに、今のわたしはそれを否定しているのだ。
大天使ミカエルを裏切るということは、道を背くことに他ならないのである。

2014年11月25日火曜日

追憶 808

わたしは自分の決断力の無さ、勇気の無さに絶望していた。
わたしは世間からどう思われるだろうかと考えていたし、Nにどう思われるだろうかと考えていた。
それに、Nの母親であり友人でもあるCさんにどう思われるだろうかと考えていたし、Nの父親にどう思われるだろうかと…
とにかく、わたしの頭の中には自分自身を守ろうとする考えが、まるで死体に集(たか)る蛆(うじ)が波を打つように溢れていたのである。
わたしはそれを振り払えないでいた。
その情けなさに絶望を覚えたのだ。
わたしは再び黙ってしまった。
今までに、多少なりにも女性との交際経験はある。
しかし、ここまで心が乱れたことはなかった。
わたしの中では、これが普通のことではないと理解していたのである。
しかし、ここまで重要視する必要もないであろう。
しかし、決断することができないのだ。

2014年11月24日月曜日

追憶 807

しかし、今のわたしには大天使ミカエルという尊敬に値する人物(?)がいる。
わたしは尊敬する人物から教えを請(こ)う必要があるのだ。
そうでなければ、未熟なわたしが正しい理解を得ることなどできるはずがなく、これよりも成長することなどできないのである。
大天使ミカエルを見ると、彼は力強い眼差しを返していた。
そこには何の迷いも、汚れもなかった。
わたしはこのように純粋な眼差しを人の中に見たことがない。
これは、人よりも優れた純粋さなのである。
わたしは大天使ミカエルを信じなければならない。
これほど信用に値する人は、これから先も決して現れることはないであろう。
しかし、わたしは今だに決断を恐れていたのである。

2014年11月23日日曜日

追憶 806

人生において重要なことは、自我によって無理に抵抗しないことである。
わたしは今までに多くのことに抵抗し、反抗してきた。
わたしは親であれ、学校の先生であれ、誰かに支配されることが嫌で仕方なかったのである。
そこには、尊敬することができる相手がいなかったという理由があるのだ。
自分自身が未熟であるということは十分に理解しているつもりであるが、わたしの人生には、わたしの憧れる人物がいなかったのである。
感謝することができる人はたくさんいたが、尊敬とは違っている。
そのために、わたしは自我を中心としたに違いないのである。
その習慣が強く根付いており、わたしはその習慣に従って自我を手放せずにいるのであろう。

2014年11月22日土曜日

追憶 805

わたしはどうしても納得ができなかった。
意味が分からないのである。
後に思うのは、わたしは自我を中心として生きてきたということである。
この時も、わたしは大天使ミカエルの意思よりも、自分自身の意思である自我を大切だと判断したのであった。
そのために、「わたし」という取るに足らない小さな存在を守っていたのである。
わたしには分からないことが無限に存在している。
自分自身のことすらも全く理解していないのだ。
ということは、自分自身という存在の判断など、信用に値しないということになるだろう。
大天使ミカエルは、いつもわたしに様々な学びを与えてくれる。
わたしにとっては人生の師と呼ぶべき存在であった。
その大天使ミカエルの判断よりも、わたしの判断が優れていることなど有り得ないのである。
わたしの思考はこのように分析していたが、決断は下せないのであった。
これは、わたしの抱える弱さというものであるだろう。

2014年11月21日金曜日

追憶 804

わたしは年齢のことに始まり、様々な理由をつけてこの要求を拒否した。
Nはとても可愛い女の子であるが、恋愛対象としてはどうしても見ることができなかったのである。
わたしにはNのことを異性として好きでもないのに、交際を申し込むのは余りにも失礼なことだと思えるのである。
何しろ、自分自身に嘘を吐いているのだ。
これほどの理由があるだろうか?
わたしには、それ以上の理由が見付けられなかったのである。

「この者をもらい受けなさい」

大天使ミカエルは、それでもわたしに迫るのであった。

2014年11月20日木曜日

追憶 803

人は、自らの抱える常識と著(いちじる)しくかけ離れているものを突きつけられた時に、どうも混乱してしまうようである。
何が起きたのか理解することができるずに、思考がショートすることを避けるように沈黙する。
今のわたしには冷静な判断ができないであろう。
わたしは明らかに動揺していたのである。
その同様に飲み込まれないように沈黙していることが、今のわたしにできる唯一の行動だったのである。
しかし、大天使ミカエルは、わたしの沈黙を許さなかった。

「この者をもらい受けなさい」

彼は再度、わたしに要求を突きつけた。

2014年11月19日水曜日

追憶 802

Nは可愛い女の子としての魅力は十分に持っていたが、恋愛対象としての女性の魅力は持っていなかったのである。
わたしはNに対して、性を感じることがなかったのだ。
わたしは困り果て、途方に暮れた。
大天使ミカエルのことを信用しているし、わたしの中では彼の意思は絶対である。
これは、変な宗教心から導き出される感情ではなく、経験から導き出された信条であった。
しかし、この要求は余りにもわたしの常識から掛け離れていたのである。
わたしは大天使ミカエルに対して、返事をすることができなかった。

2014年11月18日火曜日

追憶 801

常識的に考えて、中学生相手に恋愛など常軌を逸する行為である。
わたしの中の常識が、大天使ミカエルの意思を拒絶している。
これは、わたしの中の理性が正しく働いた結果であるだろう。
この時点において、わたしの頭はおかしくはなってはいないと理解することができた。
それを知って少しだけ安心した。
大天使ミカエルの意思に理性が反応するということは、大天使ミカエルの意思はわたしの勝手な妄想ではないと言えるだろう。
わたしは洗練された大人の女性に憧れを抱いていたが、それはわたしの顕在意識での願望であり、深層心理では子どものような可愛い女の子を求めているのだろうかと、自分自身を疑った。
Nは14歳という年齢から分かるように、まだ何も知らない純真無垢な可愛い女の子である。
わたしの憧れとは真逆の状態であったのである。

2014年11月17日月曜日

追憶 800


「この者をもらい受けなさい」

力強い言葉が響いた。
直感的に、わたしにはこの言葉の意味が分かっていた。
しかし、確信は無かった。
わたしは大天使ミカエルの言葉の真相を問うた。
言葉は同様に返り、その言葉が真であることを知らせた。
わたしはこの言葉から逃げられなくなった。
大天使ミカエルの意向は、わたしにNと共に時間を過ごせということである。
それは、男女としての交際をしなさいというものであった。
わたしは自分自身の頭を疑った。
Nは14歳であり、わたしは23歳であったのだ。

2014年11月16日日曜日

追憶 799

大天使ミカエルが正装している姿に少しだけ驚いたが、わたしはそれを表に出さないように努めた。
彼は何か言葉を紡ごうとしているように思える。
わたしはそれを待つ必要があり、現時点においては待つこと以外の選択肢は与えられてはいなかった。
ページをめくる手が止まり、目線が何らかの文字を追っているようである。
そして、目線がその動きを止めると、不意に彼が目線を上げた。
その目線は恐ろしく力強いものであった。
しかし、そこには大きな愛の包容力を感じるために、畏怖(いふ)と安心が同時に得られる感覚があった。
しばらく見つめ合った後に、大天使ミカエルは言葉を紡いだ。

2014年11月15日土曜日

追憶 798

金色の光からは壮大な世界を感じる。
それは大きな包容力を以て、わたしを包んでくれているかのようである。
わたしはその光から目を背けることができなかった。
厳密に言うなら、目を背けたくないのだ。
理由は無いが、その光をずっと見ていたいのである。
それは、炎の揺らぎを意識散漫に眺めているような感覚であった。
輝きが収まると、そこには金糸で折られた美しい花柄の布を服のようにまとった大天使ミカエルの姿があった。
大天使ミカエルは難しい顔で、片手には収まり切らないほどの大きな緑色の表紙の書籍を持ち、もう一方の手でページをめくりながら何やら思案しているようである。

2014年11月14日金曜日

追憶 797

我欲に捉われる小さく未熟な価値観であるが故に争いが生まれ、苦しみが襲うのであろう。
人の価値観が我欲に捉われることがなければ、そこには争いも苦しみも導かれないのではないだろうか?

Nの心から破滅的な意識を取り除くと、わたしは充実感を覚えた。
破滅的な意識が取り除かれることは、人の精神にとっては良いことなのだろう。
Nが認識しているのかは分からないが、わたしはこの違いに驚くのである。
気が付くと、Nの頭越しに光が輝いているのが見えた。
いつの間に現れたのかは分からないが、金色に輝く朝日のような光が、目の前の空間に存在しているのである。

2014年11月13日木曜日

追憶 796

純粋な心を以て、真理に従って生きることが求められるのである。
自我による我欲に従って生きるのであれば、本当に大切なことは分からないであろう。
わたしたち人間には、この世界のことや、人生のこと、そして、自分自身のことが分かっていない。
そのために、取るに足らないくだらないことに一喜一憂しているのである。
宇宙が存在し、銀河や太陽系が存在し、地球には自然という巧みなシステムが存在している。
すべてが完璧な造形であり、すべてが完璧な動きをしている。
このように計り知ることのできないような世界に生きているわたしたちの目的が、お金が多いや少ないや、誰かが好きだとか嫌いだとか、その程度の個人的なレベルのものであるはずが無いのである。

2014年11月12日水曜日

追憶 795

それ以外にNの心には、破滅的な意識は確認することができなかった。
これは、Nの心から破滅的な感情が完全に消えたということではない。
今のわたしの能力と、それを使って実現することができるNに対する必要がそれであったということなのである。
わたしは今に必要なことしかできないのだ。
それも、わたしの考える必要などではない。
わたしたち人間よりも、更に優れた意識的な存在が、真理を基準として考える必要なのである。
そのため、わたしには何が必要であり、何が不要なのかは分からない。
ただ、見えるものは見えるし、できることはできるのであった。
霊的な能力を扱う者に求められるのは、どこまでも純粋な心なのではないだろうか?
自我によって、金や名誉や地位などの我欲を満たそうとするような心ではならないだろう。

2014年11月11日火曜日

追憶 794

触れたと同時に怒りや悲しみなどの破滅的な感情が流れ込んでくるような感覚に襲われる。
そして、わたしは気分を害し、強い吐き気を覚えた。
胸の奥から気持ち悪いものが込み上げ、わたしは大きくゲップをした。
口から吐き出されたものは黒い煙のようなものであった。
再び光の杭を作り出し、わたしはそれを黒い煙のようなものに投じた。
光の杭は迷うこと無く黒い煙のようなものに突き刺さり、その姿を光の粒に変えた。
光の粒に変わった黒い煙のようなものは、素早く上昇して、光の溢れる天に帰るのである。
天が閉じると、気分の悪さは消えていた。

2014年11月10日月曜日

追憶 793

そのことを意識してかどうなのかは分からないが、常識に支配される前に常識外れの妙な話を聞きに来ているのであった。

背中に二度、円を描くと、そこには光の扉が生じる。
これは、わたしとNの意識を繋げる通路のようなものである。
人差し指と中指を空中に走らせると、そこには一筋の光が生まれる。
光はやがて杭となった。
光の杭を掴み、それをNの心の中に見える破滅的な意識に対して投じる。
光の杭は一瞬にして破滅的な意識を捕らえ、その自由を奪った。
張り付けにされた破滅的な意識はもがいているように見えたが、光の杭をどうすることもできないようである。
わたしは手を伸ばし、破滅的な意識にそっと触れた。

               

2014年11月9日日曜日

追憶 792

人の心にとって破滅的な意識は必要ではあるが、大き過ぎるそれは心を歪めてしまう。
光に闇が寄り添う時には、それはとても美しい。
しかし、闇に光が寄り添うのであれば、暗闇によってそれが何なのか分からないであろう。
大木となると手出しすることができないように、小さな時にはコントロールすることができるものでも、大きくなってはそれも難しいのである。
人は破滅的な意識がまだ小さな時にコントロールすることを覚え、それが大きくなり過ぎるのを防がなければならない。
大切なのは、光と闇のバランスである。
破滅的な意識によって歪んだ心が導くのは、苦しみの状況なのである。
Nが若くしてこのような話し合いの場にいるのは、年齢を重ね、既成概念を身に付けてからでは遅いからであろう。
まだ、心が純粋な内に伝えなければならないことがあるのだと思える。




2014年11月8日土曜日

追憶 791

大天使ミカエルの言葉には、いつも包容力を感じる。
わたしは大きな愛に従って、Nを呼んだ。
目の前の座布団に小さな背中が腰を落ち着かせた。
それを見届けて、わたしは静かに瞼(まぶた)を下ろすのであった。
Nの思考や感情の中には黒い煙のようなものが見える。
光に闇が絡み付き、曇り空に顔を覗かせる太陽を連想させた。
黒い煙のようなものは不満や不安などの破滅的な意識である。
Nは14歳という年齢ではあるが、彼女なりの苦悩があるのだろう。
喜びとして処理することのできない意識は、破滅的な状態を得て、思考や感情などの心に残るのである。

2014年11月7日金曜日

追憶 790

会を重ねる度に様々な発見と学びがある。
わたしの行っている「光の仕事」とは、外面的な問題から内面的な問題へと深く掘り下げる作業のようである。
一度目よりも二度目、二度目よりも三度目という具合に、心を掘り下げて行く。
深い場所にほど重要な発見や問題が存在し、それに比例して学びも深くなるように思える。
CさんとNと仕事をするのは、数えてはいないために、既に何度目であるのかは分からない。
その間に様々なことがあったが、ここには記さないでおく。

Cさんに対する仕事が終わった。
互いにお礼を交わし、CさんはNの隣に腰を下ろした。
次がNの順番だとは思うが、自分勝手には呼ぶことができない。
わたしは大天使ミカエルの合図を待っていた。

2014年11月6日木曜日

追憶 789

わたしがこのように記すのは、霊や神を信じろとか、そのように生きろなどと言いたい訳ではない。
唯物的な視点を必要としている人は、そのように生きていれば良いし、霊や神を信じて生きる必要もないのである。
これは、個人的な見解なのだ。
わたしはそのような学びの段階にあるということなのである。

その日は、友人であるCさんと、その娘であるNがわたしを訪ねていた。
この二人は以前にもここ(追憶 699)で紹介している。
この二人とは何かと縁があり、わたしはそれを嬉しく思っていた。
CさんにはCさんの苦悩がある。
そして、NにはNの学び(学ばなければならないこと)があるのだ。
そのために、二人はわたしを訪ねているのである。

2014年11月5日水曜日

追憶 788

日々はドラマチックに過ぎて行く。
わたしの人生が変わったのは、霊的な世界を受け入れてからのことである。
それまでは、人生に対して絶望すら感じていた。
わたしの中にある疑問は、

「人生とは何か?」

「自分自身とは何者なのか?」

というものである。
唯物的な視点の中にはその答えが無いと感じ、わたしは別世界への扉を開いた。
そのおかげて、毎日驚くような日々を生かされている。
わたしは心底、霊的な世界の扉を開いて良かったと思っているのである。

2014年11月4日火曜日

追憶 787

それを理解するために、オープンな心が必要なのである。
何かを否定したり、拒絶しているのであれば、本当に大切なことを理解することはない。
人生というものを深く考えた時に、否定や拒絶などの破滅的な思考が利を生み出すことがないと知るだろう。
人生を深く考える機会の無い者にはそれが分からない。
すべてが大切なのである。
人生がどのような状況を得ようとも忘れてはならないだろう。
小さな命でさえ、そのことを懸命に伝えようとしていたのである。
生きているわたしたちはその思いを深く理解し、人生に生かさなければならない。
これを以て、赤ん坊の仕事が完成した。

2014年11月3日月曜日

追憶 786

死を受け入れることのできない人には、この考えを理解することができないであろう。
しかし、受け入れることがなければ何も終わりはしないし、始まりもしないままである。
人生は死を以て終わり、その意味を理解することによって完成するのである。
意味を理解するまでは、A子のところにとどまっていた赤ん坊と同様に、意味のある場所にとどまることになる。
それは、魂にとっては間違った行為であるために、汚れ苦しむことになる。
人は死後に、人生に対する理解が必要である。
人生が完成すると、人は魂となって天に帰る。
赤ん坊が魂として母体に入り、魂として天に帰ったことは、人というものの本質がそれであることを示しているのである。

2014年11月2日日曜日

追憶 785

人の死でさえ、大切な学びであることは言うまでもない。
しかしながら、多くの人はこの最大の問題(学び)から目を背けてしまう。
わたしたちには生きている意味があるだろう。
死は人生の中に組み込まれた一つの出来事である。
霊や神々との付き合いの中で理解した価値観ではあるが、人の死というものは、誕生日とか、旅行とか、入学式とか…
このような行事と何ら変わりはないと思うのだ。
それなのに、死のみを大きな悲劇だと考えるのは不自然であると言いたいのである。

2014年11月1日土曜日

追憶 784

流産という悲しい出来事を肯定した時点において、A子はこの苦しみから解放されたのである。
苦しい出来事を受け入れることができて初めて、人は壁を乗り越えて成長することができるのだ。
A子が具体的に何を学んだのかは分からないが、何かしら価値観は変わったはずである。
それは、この世界の実相を理解する上で重要なことだといえるだろう。
赤ん坊は、ただ死ぬためにA子とB男の元に訪れたのではない。
赤ん坊は、関係するすべての人に対して大切な学びを届けたのである。
このことを理解しないままで、表面的な部分だけに乱されて嘆(なげ)いていることが、どれほど愚かなことであるのかを理解することができたのではないだろうか?

2014年10月31日金曜日

追憶 783

光の中には見知った姿があった。
それは、あの赤ん坊である。
赤ん坊が光と共に天から来て、A子の肩に触れた。
そして、そのまま首に抱きつく形となった。
赤ん坊はとても満たされた表情をしている。
その光景を見て、わたしは嬉しくなった。
その時、思いがけずA子が口を開く。
それは、赤ん坊との出会いと別れを肯定(こうてい)する言葉であった。
それを聞いて、わたしの喜びは更に大きなものとなったが、赤ん坊も同じ気持ちであっただろう。

2014年10月30日木曜日

追憶 782

わたしの仕事は、ある意味霊と人とを繋ぐ架け橋のようなものであるのかも知れない。
霊と人が正しく学ぶための役割を担っているように思える。
人生における正しいさとは成長することであり、成長するためには喜びや感謝、思いやりや協力などの建設的な感情に至ることが重要である。
わたしの仕事の目的は、霊と人が様々な出来事を建設的な感情によって処理することへの手伝いであるのではないだろうか?

A子に対して必要なことを話し終えた。
A子は泣いていたが、自らの体験を受け入れることができたようである。
その時、天から光が降るのが見えた。
それは優しい光であり、安心を感じるものであった。

2014年10月29日水曜日

追憶 781

A子のところに宿った赤ん坊がこの世に生を受けることはなかったが、この赤ん坊は明らかにA子の子どもである。
この赤ん坊も自らの死(肉体の死)を以てA子に苦しみを与え、そこから大切なことを学ばせる必要があったのだ。
しかしながら、A子は流産という出来事の中から、自責の念という苦しみに焦点を当ててしまった。
そのために、正しく理解することができなかったのである。
わたしたちは子どもが与えてくれる苦しみに対して真っ向から向き合う勇気を持たなければならない。
そうでなければ、誰も幸せにはなれないのである。
赤ん坊はずっとA子に対してメッセージを送り続けていた。
しかし、A子はそれに気が付いてもいなかったであろうし、それを受け入れもしなかった。
そのために、今回わたしを使って様々な現象を体験させたのである。

2014年10月28日火曜日

追憶 780

A子は涙ながらに流産があったことを語ってくれたが、その時点では受け入れることができてはいなかったのである。
大抵の学びは苦しみを連れて来る。
人は苦しまなければ学ぶことができないのかも知れない。
それほど、無知であったり、自我が強いのであろう。
状況を受け入れ、学びによって成長することができれば、苦しみはなくなるのではないだろうか?
人は成長するほどに、苦しいと思うことが減っていくのである。
母は強しと言うが、それは、良い意味で子どもに迷惑をかけられ、苦しめられるおかげで肝が据わり、成長することができるために得ることのできる状態であると言えるのではないだろうか?
母が強いのは、子どもが運ぶ苦しみのおかげなのである。

2014年10月27日月曜日

追憶 779

最愛の人の死という苦しみを認めることができなかったのだ。
受け入れることがなければ、それについての情報を得ることはできない。
自発的に知ろうともしないものを知ることなどできないのである。
A子が受け入れなかったので、その学びは心の中に停滞することになった。
循環しない水が「腐る」のと同じように、停滞する学びは破滅的な状態を得るのである。
赤ん坊はA子のことを恨(うら)んでなどいなかった。
赤ん坊の怒りの感情の原因は、寂しさからくるものであったからだ。
A子が受け入れていたなら、赤ん坊はすぐさま天に帰っていたに違いないが、A子が学びを得る必要があったがために停滞していたのである。


      

2014年10月26日日曜日

追憶 778

人の死というものは悲しいものである。
最愛の人との別離は、誰にとっても辛いことであろう。
しかし、それは無駄なものではないし、無意味にあるのでもない。
そのことを理解した上で状況を眺めるなら、結論は違うものになるのである。
「神」は死をも使って、わたしたちを育んでいるのだ。
だから、わたしたちは最愛の人の死に会ったとしても、それを悲観し、くよくよとしている訳にはいかないのである。
すべては成長のためにあり、すべては幸福のためにある。
このことを忘れてしまえば、最愛の人の死を無駄なものにしてしまうだろう。
赤ん坊が苦しんでいたのは、A子がそれを受け入れることができなかったからであると推測することができる。

2014年10月25日土曜日

追憶 777

霊や神々と交流していると、死という概念さえ怖くは無いということに気が付く。
そして、それが意味を持ち、大切なものであるということも悟るのである。
霊や神々と交流する以前のわたしであれば、死は怖いものだと思っていたし、不運や不幸というものが存在していると思っていた。
しかし、歳を重ね、経験が増す程にその考えが浅はかなものであったことに気が付くのである。
極端な話をすれば、人を殺すことも、人に殺されることも選択肢としては有り得るのである。
しかし、わたしは人を殺したいとは思わない。
誤解して欲しくはない。
殺されることがあるなら、それはそれで仕方のないことだと受け入れるだろう。
この世界において実現可能なことは、そのすべてが「神」によって与えられた選択肢であり、可能性なのである。

2014年10月24日金曜日

追憶 776

それは、所謂(いわゆる)成長である。
しかし、多くの人はこのことに気が付かない。
すべてが意味のある大切な学びであるという考えにまで至らないのが現状である。
そのために、苦しみを否定しているのだ。
苦しみを否定しているが故に苦しんでいるのである。
今日の日本に生きている人の多くは、ある種の平和の中に生きている。
不幸だとか、苦しいなどと主張しているが、今の時代や生活や悩みが、如何に恵まれているのかを知らないでいる。
簡単に言えば、取るに足らない詰まらないことに苦悩しているのだ。
わたしは霊や神々の存在を知った。
そこから、真理という「神」が創り出したこの世界のルール、そして、人生が何のためにあるのか?また、自分自身は何であるのか?ということを理解しようと努めている。
以前のわたしがそうであったように、多くの人が大したこととして恐れていることは、今のわたしには恐れるべきものではないことを理解しつつある。


2014年10月23日木曜日

追憶 775

わたしはA子に対して、多くの必要な言葉を伝えた。
その中には、赤ん坊を流産した理由というものがあった。
流産は成るべくして成った。
それは計画されたものだったのである。
A子は実子を失う必要があったし、赤ん坊は孤独の中で苦しむ必要があったのだ。
それは、A子と赤ん坊、それにB男を始めとする関係者に対する学びである。
その計画は真理と守護者たちによって進められた。
人は大切なものを失うと、それに対する気持ちが強化される。
失う苦しみを理解する人でなければ、本物の大切にする気持ちを得ることはないのである。
人は苦しんで初めて、それが如何に大切なものであったのかを知るのである。

2014年10月22日水曜日

追憶 774

わたしが会った赤ん坊は、やはりA子の実子(じっし)であったのかも知れない。
A子は傷口から膿を取り出すように、心の中から辛い経験を絞り出した。
A子は過去に流産の経験があったのだ。
早期流産であったために、赤ん坊の姿までは無かったであろう。
今のところ、肉体に魂が宿るタイミングがどこにあるのかは分からないが、A子が流産した時点において、赤ん坊の魂はやがて肉体となるものに宿っていたに違いない。
しかし、何らかの理由によって、肉体が滅びなければならない状況になったのである。
その結果、赤ん坊の魂だけがA子の中にとどまるという状況が生じたのである。

2014年10月21日火曜日

追憶 773

わたしは、見たまま、感じたままをA子に告げた。
しかしながら、その言葉には自我は含まれていない。
わたしの言葉には、大天使ミカエルを始めとする神々の意思が宿っているのである。
言葉を選んだつもりではあるが、A子にとっては辛いことを言ったかも知れない。
わたしはA子にとっては辛いことも伝えなければならないのだ。
人は辛い現実と向き合い、それを受け入れて乗り越えなければならないのである。
わたしの言葉を聞いて、A子は泣き始めた。
背中越しなので確証は無いが、話し始める前から泣いていたようにも思える。
むせび泣くA子を思いやりつつ、わたしは話を続けた。

2014年10月20日月曜日

追憶 772


「思い煩う必要はありません。心に従いなさい」

天から降ってきた光は、大天使ミカエルの言葉である。
わたしは自分独りでこの仕事をしているのではないことを思い出した。
未熟なわたしが仕事をこなしているのは、わたしを導いてくれる神々の存在があるからである。
大天使ミカエルを始め、狐であるハクとコン、北灘湾の神様である白龍神など、わたしは多くの守護者と共に仕事をしているのである。
わたしに足りないものは、わたしの守護者が補う。
守護者との協力によって、わたしは仕事をしている。
わたしが思い煩うことは、仲間を信用していないということになるだろう。
わたしの守護者が力不足だと言っているようなものである。
大天使ミカエルの言う通りである。
わたしは守護者たちを信頼し、心のままに伝えれば良いのだ。
どのような結果に繋がるのかは分からないけれども、それで良いのである。

2014年10月19日日曜日

追憶 771

わたしは悩んでいた。
A子にどのように伝えるべきか?
赤ん坊のこと聞いても良いだろうか?
傷付きはしないだろうか?
一瞬の間に、様々な思考が巡った。
わたしは迷っていた。
どうすることが正解なのか判断が難しいのである。
わたしは気が付いてはいないが、自我によってどうにかしようとしているのである。
しかしながら、自我によってどうにかしようと考えるのは間違いである。
なぜなら、わたしは未熟であるからだ。
未熟であるわたしが判断したところで、良い結果を導き出すことなどできるはすがないのである。
その時、天から光が降った。


2014年10月18日土曜日

追憶 770

「ありがとう」

小さな声は力強く心に届いた。
わたしは心の中で、しっかりとその思いを受け止めた。
天が閉ざされて光が去ると、わたしは視界を失った。
目の前には薄暗がりがあったが、これは瞼(まぶた)の裏であり、部屋の明かりが透けているのだと理解することができた。
わたしはゆっくりと瞼を開き、一つ深く息をした。

B男が心配そうな表情でわたしを覗き込んでいる。
それを悟り、心配の必要がないことを伝えた。
体力と精神力を消耗していたが、それは問題にはならないだろう。
わたしは少しずつ強くなっているようである。

2014年10月17日金曜日

追憶 769

わたしは幸せだった。
赤ん坊も幸せなのではないかと思える。
それは、赤ん坊の表情が穏やかであったからだ。
愛に包まれて安らかに眠っている。
わたしにはそう見えた。

天から光が降りてきて、赤ん坊を包み込む。
その光は赤ん坊を受け取りに来たのだと理解して力を緩めた。
すると、赤ん坊はわたしの腕を離れて宙に浮かんだ。
その時にわたしは、赤ん坊の頬を伝う涙を見た。
その涙によって、この苦しみが終わりであることを理解するのであった。
小さくなっていく姿を見送りながら、わたしは自分自身が泣いているのに気が付いた。
これは喜びの涙であることをわたしは知っている。

2014年10月16日木曜日

追憶 768

光の杭は迷いなく飛び、黒い煙に到達すると同時にその輝きを伝えた。
光の杭によって、黒い煙は光の粒になり、水蒸気のように揺らぎながら天に登っていった。
黒い煙が天に帰ると、わたしの気分の悪さは微塵も無くなっていることに気が付いた。
わたしは気分の良さに感謝した。
気分が良いことは幸せである。
赤ん坊に視線を落とすと、嵐の過ぎ去った夜のように沈黙していた。
目を閉じたままで身動き一つしないのである。
赤ん坊は霊であるためおかしな表現ではあるが、死んだのではないかと思うのであった。
赤ん坊の顔には安らぎが浮かんでいるように見える。
これを見てわたしは安心した。
そして、穏やかな気持ちが肩を抱くのを感じるのであった。




2014年10月15日水曜日

追憶 767

苦しみの中には希望が芽生えるものである。
わたしが赤ん坊を抱き締めた時に、その小さな胸の奥の暗闇の中に、小さな光が生じた。
それは、愛と呼ぶべき希望の光だったのである。
わたしはその小さな光が消えないように、またそれを育むようにしっかりと赤ん坊を抱き締めた。
すると、赤ん坊は真っ黒な目と口を目一杯に開くと天を仰いだ。
耳を劈(つんざ)くような悲鳴は、赤ん坊のものである。
その時に目と口からは大量の黒い煙のようなものが吐き出された。
それが空中で一つに交わる。
吐き気を覚えたわたしは、光の杭を握り締めていた。
そして、これを黒い煙に向けて放った。

2014年10月14日火曜日

追憶 766

赤ん坊が霊となり、孤独にいるということは、先程の推測通り堕胎か死産のどちらかであろう。
何かしらの事情によって、赤ん坊にとっては想定外の出来事が起きたに違いない。
その状況を受け入れることができないが為に苦しんでいるのではないだろうか?
黒い煙のようなものを吐き続けていると、赤ん坊の表情が悲しみに塗り替えられているのに気が付いた。
それと同時にわたしの中には、慈悲が芽生えていた。
小さな瞳から次々に溢れては落ちる涙に引き寄せられ、わたしは赤ん坊に手を伸ばした。
小さな肩に手を掛け、引き寄せて抱き締めた。
もう、わたしのことを拒絶してはいない。

2014年10月13日月曜日

追憶 765

黒い煙のようなものを吐き続けていると、赤ん坊の表情が一瞬だけ泣いているように見えた。
これは、赤ん坊の本意ではないだろうか?
赤ん坊は悲しんでいるのである。
悲しい気持ちが積み重なり歪むことによって、怒りの感情が生じたのだろう。
悲しみによって、人は怒りを覚えるものである。
この空間には、赤ん坊以外には誰もいない。
赤ん坊以外には何も無い。
ここには、赤ん坊だけが存在しているのである。
赤ん坊は孤独の中にいる。
この孤独の中から助けを求めているのであろう。
わたしにはそうとしか考えられないのである。

2014年10月12日日曜日

追憶 764

気分の悪さが込み上げてきて、わたしは黒い煙のようなものを吐く。
わたしから吐き出された黒い煙は、空中を漂う間に光に変わった。
それは、天に登り消えていく。
そのプロセスは苦しいものであったが、結果からは大きな喜びを得ることができた。
黒い煙が光へと変わることが、わたしには嬉しかったのである。
繰り返していると、赤ん坊の表情に微妙な変化を見た気がした。
怒りの感情の中に、何か別の感情が現れたように思えるのである。
それは、どこか物悲しいものであった。
秋が別れを告げる頃に、葉が燃えて散っていくような切なさをそこに覚えるのである。
これは、寂しさである。

2014年10月11日土曜日

追憶 763

決め付けは危険である。
何事にあっても、裏付けを取ることをしなければ、それはいつまでも神秘的であったり、疑いを離れることはなく、懐疑心がいつまでも付きまとってしまう。
物事を有耶無耶(うやむや)に処理するのは、医者が患者に対して適当な病名を告げることと同じである。
正しい病名を知らなければ、病気の治療はできない。
病気を治すためには、病気の本質を理解しなければならないのと同じに、問題を解決するためには、その問題の本質を理解しなければならないのである。
今回の問題の本質とは、赤ん坊が抱えている怒りはどこから来たのか?ということである。
物事を論理的に考え、理論付て裏を取り、赤ん坊の怒りを解くことが求められているのである。

2014年10月10日金曜日

追憶 762

赤ん坊の怒りは、わたしにとっては不快なものである。
これは赤ん坊にも言えることであるし、もしかすると母親であるかも知れないA子にも不快感として様々な影響がおよんでいるのかも知れない。
ここでいう影響とは、赤ん坊の破滅的な意識である怒りの感情によって、A子の心が乱され、破滅的な状態を得るということである。
そして、わたしがA子が母親であるかも知れないと述べたのは、A子に妊娠の事実を確認した訳ではないからである。
A子のところに赤ん坊の霊がいるからといって、それがA子の子であるとは限らないというのである。
この赤ん坊には違う母があり、後にA子のところに来た可能性もあるからだ。
このように、分からないことが多くあり、様々な可能性を検証しなければならないのである。

2014年10月9日木曜日

追憶 761

赤ん坊は心に深い傷を負っているに違いない。
霊ではあるが、赤ん坊が恨みを抱くにはそれなりの理由があるだろう。
赤ん坊が恨みを抱くということは、生まれて間も無く殺されたか、堕胎(だたい)されたか、このどちらかの可能性が高いのではないだろうか?
A子が生まれて間も無い我が子を殺すだろうか?
常識的に考えるとその可能性は低いと言えるだろう。
堕胎であるなら、状況によっては可能性として有り得る。
様々な理由によって、仕方なく堕胎する人は多くいるだろう。
A子とB男、もしくはA子の過去にそのような事実があるかも知れない。
わたしは赤ん坊の苦しみの原因が後者であることを信じ、それを仮定して赤ん坊と向き合うことを決めた。
しかしながら、現状において真実は分からないために、これはあくまでも仮説であることを忘れてはならない。

2014年10月8日水曜日

追憶 760

わたしの中には哀(あわ)れみが溢れていた。
悲しい気持ちになり、可哀相なのである。
吐き気を堪えながら、わたしは泣き喚く赤ん坊に近付いた。
抱き抱えようと思いしゃがみ込む。
その時、強烈な吐き気と共に今度は赤黒いものを吐瀉した。
それは地に満ちて、赤い絨毯(じゅうたん)の様になった。
すると、赤ん坊が泣き止み、そのままぎこちなく立ち上がった。
瞼(まぶた)を開いて見せた赤ん坊の眼球のあるべきところには、黒い何かが収まっていた。

「お前のせいだ…お前が悪いんだ…」

赤ん坊は確かにそう言った。
わたしは心に鋭い痛みを覚えた。

2014年10月7日火曜日

追憶 759

赤ん坊が泣き喚(わめ)く光景を前に、わたしは茫然自失(ぼうぜんじしつ)としていた。
何も無い空間に赤ん坊の泣き声はこだまする。
その声がわたしに入り、遠くなる。
悲しい感情が溢れてくるのは気のせいでは無い。
わたしは頬を伝う涙を認識した。
赤ん坊が泣き喚くのは、悲しいからなのである。
小さな胸に抱える悲しみを、わたしが理解することを願っているのである。
赤ん坊の泣き声は言葉ではないが、そこに意思が込められているのを理解することができる。
赤ん坊は必死に訴えているのであろう。
自分にできることで精一杯に努めているのである。

2014年10月6日月曜日

追憶 758

その時に強烈な吐き気に襲われて、わたしは何かを吐瀉(としゃ)した。
目の前に吐き出されたものは、血に浮かぶ人の内蔵の様に見えた。
それを吐き出すことによって多少の不快感が消えたが、それでも吐き気が消えることはなかった。
わたしが吐き出すものを見て、黒い何かが這(は)う様にして近付いてきた。
そして、吐瀉物にその身を踊らせた。
それを見て、わたしの不快感は一層強くなるのであった。
しかしながら、この光景から目を逸らすことはできなかった。
わたしはこれを見なければならないのである。
これを見ることによって、何かを理解しなければならないのだろう。
何時ものことであるが故に、わたしは今更驚きはしない。
黒い何かは人の内蔵の様なものを身に纏(まと)おうとしているようであった。
しばらくして、それは人間の赤ん坊の姿となった。

2014年10月5日日曜日

追憶 757

知らない場所は心細さを覚えさせる。
わたしは暗く狭い空間にいた。
ここは寂しい場所である。
わたしはいたたまれない気持ちになって辺りを見渡した。
何か分からないものが落ちている。
それは空間の暗がりの中にあって、それよりも黒いものであった。
この空間で認識することができるものはそれだけである。
黒い何かは、人の赤ん坊ほどの大きさである。
わたしはそれを赤ん坊だと思ったが、ここからでは姿を確認することはできなかった。
導かれるように歩を進める。
それが目の前にあっても、わたしにはその黒いものが何であるのかを理解することはできなかった。

2014年10月4日土曜日

追憶 756

光の塊が背中に溶けると、光のトンネルのような道が開かれた。
わたしはそこに吸い込まれるようにしてA子の意識の中に入ったのである。
そこは、始め暗かったが、慣れてくると目の前に白い何かがぼんやりと浮かんでいることに気が付く。
わたしは何と無く手を伸ばし、それに触れようとした。
すると、嫌な予感がするのと同時に無意識的に動きが止まった。
しかし、それを振りほどき、わたしは一瞬の後に再び手を伸ばして触れた。
白い何かに触れた瞬間に嫌な気分に支配された。
指先から黒い何かが流れ込んでくるのが分かったが、それを食い止めることはできなかった。
黒いものが入ると、わたしは視界を失った。


2014年10月3日金曜日

追憶 755

A子は自分が何故涙を流しているのか分からないと言った。
わたしにもそれが分からないから、これからその理由を探すのだと告げた。
A子は深く頷(うなず)いて見せ、背中を向けて座した。
わたしはA子とB男に対して何の心配もないことを告げ、何が起ころうとも静かに座っているように頼んだ。
大きく息を吸い、静かに吐く。
少しずつ意識が整うような感覚に導かれるようにして、わたしはゆっくりと瞼を閉じた。

A子の背中に右の指先が触れる。
わたしはA子の背中に触れているが、その意識に触れているのである。
人差し指と中指が背中を走ると、そこには黄金色に輝く天使文字が現れた。
三列の天使文字を直線で囲う。
すると、それは強く輝き始め、光の塊となった。
わたしの両の掌(てのひら)がそれをA子の背中から意識へと押し込むのを見た。

2014年10月2日木曜日

追憶 754

わたしは胸の鼓動の高鳴りを感じていた。
それは、嬉しい感情から導き出されるものではなく、緊張感や危機感に似ていると思えた。
嫌な気分なのである。
わたしはA子の顔を見た。
すると、A子の大きな瞳からは涙がこぼれていた。
何かしらの感情があって、それを抑えることができなかったのであろう。
わたしにはそれがどのような感情からくるものか分からなかったが、あの赤ん坊の泣き声に関係しているのではないかと思えてならなかった。

「呼びなさい」

大天使ミカエルの声が天から降る雷の様に響く。
わたしはその声に従って、A子を目の前の座布団へと誘導した。

2014年10月1日水曜日

追憶 753

二人を部屋に招き、わたしは中央に置いてある座布団の前に、二人は入り口付近に座ってもらった。
二人には楽にしてもらうように告げて、わたしは意識を整えるために瞼(まぶた)を閉じた。
瞼を閉じると、気分の悪さが強調される。
その時、どこからとも無く赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
それは遠くに聞こえたが、わたしに向けて発せられているような気がした。
その声は、助けを求めているように思えてならなかった。
その声を辿ると、どうやらA子の元から聞こえてくるようである。
そこまで認識した時に、わたしはその場から弾かれて部屋の景色を眺めていることに気が付いた。

2014年9月30日火曜日

追憶 752

しかしながら、これは感覚であって確証ではない。
実際に触れるまでは、何事も結論に至ってはならない。
それは、自分勝手な妄想である可能性が高いからである。
それに、霊的な存在に騙されているという可能性もあるからだ。
自分自身の感覚でさえ不用意に信用してはならないのが、この世界の鉄則であるだろう。
その感覚を理論的に証明していき、矛盾と疑問が少なくなるほどに信用に値するであろう。
矛盾と疑問が重なり合っている現状においては、何も信用に値しないのだ。
わたしがこれからやらなければならないことは、自らの得た感覚の証明である。
そのために、霊的な観点から状況を探っていかなければならないのである。
積み重なっている矛盾と疑問を、一枚一枚剥ぎ取っていかなければならないのだ。

2014年9月29日月曜日

追憶 751

約束の時間になると、玄関のチャイムによって仕事の開始が告知らされた。
わたしはやっと体調の悪さから解放されると思い歓喜した。
出迎えると、そこには男女の姿があり、どこかで見た顔だと思ったが、二人は兄の同級生であった。
とは言え、わたしは二人と話したことがなかったのである。
仮に女性をA子として、男性をB男としよう。
二人はわたしに挨拶をした。
わたしもそれを返す。
二人は笑顔を見せたが、B男は何処と無く緊張感を抱いているように思えた。
そして、A子は浮かない顔をしているように見えた。
何と無く表情が沈んでいるように見えるのである。
A子から連想されるのは心配と疲弊であった。
それは、A子の心の状態を感じ取ったものである。

2014年9月28日日曜日

追憶 750

電話をかけてきた女性と会う日、わたしは朝から体調が悪く、胸騒ぎと吐き気とが同時に襲うのを感じていた。
わたしはこの体調の悪さが、夜に会うことになっている女性に関係していることだということを何と無く感じていたので、我慢して待つことに決めた。
霊的な作用によって体調が悪かろうが、自分自身の意思によっては力が使えない。
霊能力というものは、自分のためにあるものではないということである。
だから、わたしは女性と会う時間まで辛抱して待つのである。
しかしながら、この体調の悪さが女性に関係しているものだという確信はなかった。
そのため、人のせいにしてはいけないと自分自身を戒めながら、家業である養殖漁業の仕事を海の上で精一杯にこなしていたのである。

2014年9月27日土曜日

追憶 749

ある日、電話が鳴った。
携帯電話のディスプレイには知らない数字が並んでいた。
携帯電話を耳に当てると、向こう側からは女性の声が届いた。
その声は明るさの中に何処と無く寂しさを引き摺(ず)っているように思える。
女性はわたしに会いたいと言った。
わたしはそれを快諾(かいだく)し、日を改めて会うことになった。
わたしは女性との会話の最中から妙な胸騒ぎを感じていたが、それは会話が終わってからも続いていた。
女性には、何らかの霊的な問題が発生しているのだと確信した。
しかしながら、今の段階ではその歪みが何であるのかを知ることはできなかった。

2014年9月26日金曜日

追憶 748

すべてを話し終えた時、Nの心に何らかの変化が生じているような気がした。
それが何なのかは分からなかったが、秋に地に落ちる種のようなものであるように思えた。
まだ、認識することができるほどのものではないけれども、何かが生じる可能性を感じているのである。
きっと、Nは意識的な世界に対して心を開き始めているのだ。
自分自身で霊体験をした訳ではないが、わたしの行ったことを見て、何かしら感じるものがあったのではないだろうか?
N自体も何かしらの感覚を受け取っている可能性はあるが、それは聞いていないので分からない。
しかし、今日、Nは新たな世界への扉を開いたのである。

2014年9月25日木曜日

追憶 747

良いことと悪いことに分ける行為こそが、偏見を生み出すのである。
認識することができるもの、自分が知っていることだけを善と成し、認識することができないもの、知らないことを悪としてはならないのだ。
現状において、Nは霊を認識することができない。
そして、それがどのようなものであるのかも知らない。
だからと言って、それを否定して良いことなどないのである。
わたしたちは、知らないことに対して好奇心を持ち、知っていることを増やしていかなければならないのだ。
そうやって偏見を取り除いていかなければならないのである。
そのために、わたしはNの心に触れ、それに関係する霊を処理し、必要な光景を見せ、必要な言葉を語るのである。

2014年9月24日水曜日

追憶 746

それが価値観の歪みを取り除くということだと思うのである。
この世界には様々な国があり、そこには様々な人がいる。
そこには多様な文化、宗教、考え方がある。
それ等を否定する必要はない。
なぜなら、そこには様々な知恵と時代背景が存在しているからである。
それを無理矢理手放す必要はないと思う。
大切なのは、それぞれの主義に基づいた歪みの無い価値観を形成することにあるからである。
何を信じていようとも構わない。
あれはダメ、これは良く無いということもないだろう。
なぜなら、それ等はすべて「神様」が創造したからである。

2014年9月23日火曜日

追憶 745

人はこの世の真理を解き明かし、幸せに生きていくための方法を確立しなければならないのである。
そのために、科学者であっても霊能力者であっても、無神論者であっても、どのような主義の人も、道の極みを目指している人は日々自分の仕事に邁進しているのである。
様々な主義主張の人が、様々な方向性によって真理に近付いているのである。
わたしは価値観の歪みを取り除くために、霊的な世界を否定しない方が良いと主張しているが、それを信じなければ救われないとか、それが絶対であるなどと、その辺の宗教家のようなことを言うつもりはない。
唯物論者であっても、唯心論者であっても構わないのである。
「神様」を非難してはならないが、神を信じていなくても幸福を得ることはできるのだ。
神という概念が無くても、豊かに生きていくことはできるのである。

2014年9月22日月曜日

追憶 744

霊的な存在を信じていない人、それを否定する人には残念だが、霊的な世界は確実に存在している。
そのため、霊的な世界から得られる可能性も存在しているのである。
人間(自分)という存在すら、唯物論では証明することができないのだ。
科学が発展し、文明が進歩すれば、唯物論と唯心論は広く受け入れられるだろう。
その時には、霊的な存在や世界を否定する考え方は非常識となり、衰退しているに違いない。
これからの人類は、より高いレベル、文字通り高次元(別次元)の認識を得ることになるだろう。
科学は今までにない発見をし、人類の進歩を妨げている考え方や人物や勢力が、その力を弱めていくのである。


2014年9月21日日曜日

追憶 743

良いことは早い方が良い。
良いと分かっていることを先延ばしにしてはならないが、良いと分からなくても、良いと教わることは早めに試す価値はあるのだ。
それがどのような方法であったとしても、素早く試して、その根拠を確かめなければならないのである。
霊の存在を否定する人は、霊がいない世界からの可能性を受け取ることはあっても、それ以外の可能性を得ることはできない。
即ち、霊がいる世界の可能性を受け取ることはないのである。
否定するのだから、そこからは何も得られないのが道理である。

2014年9月20日土曜日

追憶 742

目の前の事象が、何らかの意図と意志によって導かれたものであるということを理解すると、それに対する見方が変わる。
そこに秘められた意図と意志を探すようになるために、ただ一喜一憂するということが無くなるのである。
目の前の事象に対して思慮を深めるのであれば、感情的になって心が乱れることはないであろう。
心が乱れることがないのであれば、不満や不安に捉われることなどないのである。
そして、そこには感謝の気持ちが生まれるだろう。
感謝の気持ちを以て向き合うのであれば、価値観が歪むということはないのである。
このような意味を以て、目には映らない意識的な存在とその働きに対して、心を開かなければならないというのである。

2014年9月19日金曜日

追憶 741

霊と向き合っていると、今までには無かった感覚を得ることが多い。
わたしにとってそれはとても新鮮な感覚であり、強く心を打つのである。
霊的な存在を意識することなく生きてきた20年間は、目の前に起こる状況に対して、わたしの心は大きく乱れていた。
それは無力であり、何より無知であったからである。
今も無力であり、無知なことには変わりがないが、経験を経ることによって、少しは成長したのではないかと思える。
その中で、すべての事象には意味があるのではないか?という思いに至る。
そこにはいつも、何らかの意図と意志があるように思えてならないのだ。
霊的な存在を意識するまでは、このような思いに至ることはなかった。
事象の成り立ちを考えることはなく、ただ目の前のことに一喜一憂していたに過ぎないのである。

2014年9月18日木曜日

追憶 740

どのように苦しい状況を得ようとも、幸福について考え続けなければならない。
幸福を考え、それを行うことによって初めて、人は歪んだ価値観を退けることができるのである。
女がNのところにいたのは、互いに共通する部分があったからに違いない。
Nはまだ幼く、ひねくれているとは言い難いが、このままの価値観で生きていくのであれば、いずれ歪んでしまうのである。
そして、あの女のようになってしまうのだろう。
女は、Nがそのようにならないように「誰か」から遣わされたのである。
Nのことを大切に思う「誰か」が、その学びを分かり易く伝えるためであろう。
わたしには、今回の件が何か別の大きな意思による計画であったのではないかと思えるのだ。

2014年9月17日水曜日

追憶 739

わたしたちは偏見に捉われないように生きていかなければならない。
出来る限りの広い視野と、柔軟性を以(もっ)て生きなければならないのである。
それには、成長に対する熱意と、正しい学び(真理)への探究心が必要であるだろう。
その情熱を保つ鍵が幸福にあるとわたしには思える。
幸福を求める気持ちが、人を正しい姿へと導いてくれるのではないだろうか?
Nに取り憑いていたあの女はきっと、大きな苦しみに対して成す術をなくしていたのではないかと思える。
苦しみが大き過ぎて手に余り、幸福を求める気持ちが消えてしまい、結果としてその考え方や価値観が歪んでしまったのであろう。

2014年9月16日火曜日

追憶 738

人が死後にどのような姿と状況を手に入れるのかは、生前に形成した価値観によって決まるのである。
価値観が偏見によって歪んでいれば、その人の心は歪んでいるのである。
人は死後には、生前の状態を引き継ぐことになる。
Nに取り憑いていたあの女は、生きている時に形成した歪んだ価値観によって、死後に歪んだ姿と歪んだ価値観を得たのである。
あの女が生きている時に正しく学び、偏見によって歪むことがなければ、生前にも死後にも苦しむことはなかったであろう。
やはり、無知が危険なのである。

2014年9月15日月曜日

追憶 737

彼女から得たものは、価値観への執着である。
人は自らが形成した価値観に従って生きるが、死後もそれに従わなければならない。
死とは、生の延長線上に存在しているのではないだろうか?
死んだからといって、そこで何もかもが終わりだということはない。
死してなお、人は生きているのである。
それは、人の本質が魂であるという証明であるだろう。
霊を見ない人には理解することが難しいかも知れないが、体験すると疑いようが無くなるのである。
価値観が破滅的な方向に傾いていると、人は死後に苦しみを手に入れる。
価値観が建設的な方向に傾いていると、人は死後に喜びを手に入れるのである。

2014年9月14日日曜日

追憶 736

降り注ぐ光が彼女を天へと導いていた。
彼女が天に近付くに連れて、わたしは心の中に喜びが増すのを感じていた。
恍惚(こうこつ)の表情を浮かべていた彼女も、わたしと同じ気持ちであったのではないだろうか?
いや、わたしよりも大きな喜びがそこにはあったように思える。
天が閉じると、光と共に彼女の姿は消えた。

瞼を開き、わたしは体験したことを整理した。
そして、口が勝手に話すことを許すのであった。


2014年9月13日土曜日

追憶 735

辺りが光に包まれるのを見て、わたしは瞼(まぶた)を閉じた。
しばらくして、光が弱まったのを感じて見ると、目の前には若い女性が白いワンピースを着て立っていた。
黒髪の美しい人であった。
わたしは彼女には微笑みが似合うと感じた。

「ありがとう」

そう言った彼女の瞳は濡れていた。

「わたしはようやく他人と自分自身を許すことができました。わたしを縛り付けるものは無くなりました。これは素敵なことですね」

そう言って笑った彼女の頬に一筋の涙が光った。
頬を離れた涙が地に着くと、それを合図に天が開いて太い光が降り注ぎ、彼女を力強く包み込んだ。
わたしたちは時間が来たことを悟った。

2014年9月12日金曜日

追憶 734

光の杭は暗闇に浮かび上がるように綺麗である。
わたしはそれを女に向けて投じた。
光の杭は迷いなく飛び、女の額に突き刺さった。
すると、より大量の黒い煙のようなものが吐き出された。
悲鳴が耳に痛かったが気にしない。
これは、この女を助けるために行っていることだからである。
黒い煙を吐き終えると、光の杭が更に輝きを増した。
それと同時に目と口の中からも光が溢れた。
その光は強いものであり、辺りの暗闇を押し広げ、わたしたちは光に包まれるのであった。

2014年9月11日木曜日

追憶 733

女は明らかに戸惑っていた。
表情は相変わらず怒りに満ちていたが、心には動揺が生じていた。

「許しなさい」

その時、大天使ミカエルの声が天から響いた。
わたしはその言葉に従い、女に向かって「あなたを許す」と告げた。
すると、その言葉を合図に女の汚れた髪の毛が毛先から真っ白に染まり、やがて全体が灰のようになった。
耳を劈(つんざ)くような悲鳴が轟(とどろ)いた。
驚いて見ると、目と口を大きく開いた女が、目と口から大量の黒い煙のようなものを吐き出していた。
わたしの首から髪の毛の束が落ちた。

2014年9月10日水曜日

追憶 732

女の攻撃を耐え続けていると、場の空気が変わる瞬間があった。
わたしはその瞬間を肌で感じた。
今までは怒りの感情によって支配されていた空間が、戸惑いへと変わったのである。
女は戸惑っていた。
それは、わたしが逆らわないからであろう。
攻撃すれば仕返しがあるのが普通である。
しかしながら、わたしは怒りもせず、怯(おび)えもしない。
女にしてみれば、これほど奇妙なことはないであろう。
普通という、自らの常識から外れたものに遭遇した時、人は混乱する。
そして、恐るのである。
この場で恐れを抱いているのは女の方である。
わたしの行動は、女にしてみれば理解不能なのであろう。
そして、戸惑いと共にわたしの首を絞める力が緩んだ。

2014年9月9日火曜日

追憶 731

攻撃的な霊を人は悪霊と呼ぶ。
それを恐れて忌み嫌う。
その名の通りに悪に仕立て、逃げるか争うかの選択をするのが一般的である。
しかしながら、そこには愛の無いことが分かる。
愛がなければ問題は解決しない。
それが経済の問題であっても、人間関係の問題であっても、霊的な問題であってもである。
わたしは目の前の問題を解決しなければならないので、この女を悪霊とは呼ばない。
大天使ミカエルがそうであるように、わたしはこの女を愛しているのである。
愛しているから、理解しようと努めているのである。
相手を理解するためには、先ずは相手の話を聞かなければならないのだ。
相手の話を聞かず、その本意も知らず、相手を愛しているはずがないのである。

2014年9月8日月曜日

追憶 730

女の汚れた髪の毛が強く絞まるので、わたしは息ができなかった。
それはとても苦しいものであったが、この女の抱えている苦しみはこんなものではないと思えた。
肉体の苦しみというものは、魂の苦しみに比べると対したことではない。
わたしは腰痛で身動き一つ取れないことが良くあるが、睡眠時にはその苦しみから逃れている。
それに、体勢によっては痛みが軽減されることもあるのだ。
一方、魂の苦しみが止むことはない。
それは一瞬の間も置かずにやって来るのである。
女はこの苦しみを受け続けているのだ。
そのため、わたしが女から受けている苦しみなどは、取るに足らないものなのであると理解しなければならない。

2014年9月7日日曜日

追憶 729

多くの人は知らないが、天使は知っていた。
わたしは知らなかったが、天使に教わった。
それは、争いによって魂が救われることがないということである。
わたしと大天使ミカエルの目的は、この女を苦しみから解放することである。
女に制裁を加えたり、追放することではない。
罪を犯したこの女を許さなければならないのだ。
人は愛によって許されることがなければ、正しい姿に立ち返ることはないのである。
そのため、わたしがこの女に与えるのは愛だけなのである。
そのためにわたしは、この女の好きなようにさせているのである。

2014年9月6日土曜日

追憶 728

この女はわたしのことが嫌いなのだ。
それは、わたしとこの女とは、正反対の立場にあるからである。
わたしは光を求めているが、この女は闇を求めているのだ。
相入れなければ争いが生じてしまう。
しかしながら、わたしはこの女とは争わない。
それは、わたしが光を求めているからである。
女の汚れた髪の毛が伸びて、わたしの首に巻き付いた。
わたしはそれに抵抗することができない。
首が絞められるので息ができなかった。
苦しいと思ったが、どうすることもできなかったので、わたしは女の好きなようにさせた。

2014年9月5日金曜日

追憶 727

これは、先程のNの価値観に通じるものがある。
この女も偏見を抱いているのである。
偏見を抱いているために歪み、苦しむのだ。
本来ならば、美しさと喜びの溢れる世界なのである。
しかし、偏見がそれを阻止する。
わたしは女を助けなければならない。
この偏見の地獄を終わらせなければならないのだ。
女はNを再び偏見へと誘(いざな)うだろうことは予想ができる。
それでは、二人共不幸になってしまうのである。

女の血走った目がわたしを捉えた。
同時に、顎(あご)が外れていなければ開かないほどに口を開いた。
真っ黒な口内からは、わたしを威嚇(いかく)するかのように嗄(しわが)れた音が鳴っていた。

2014年9月4日木曜日

追憶 726

わたしは女を哀(あわ)れに思った。
人は皆、幸福を求めているはずである。
幸福とは、思いやりに根差した喜びのことであるが、この女が目指しているのは思いやりの伴わない喜びであるからだ。
女は間違った喜びの形を幸福であると信じ込み、このようなことをしているのである。
そして、首だけの醜い姿になったのだ。
喜びの本質を見極め、間違えることがなければ、この女はここにはおらず、このような姿でもなかったであろう。
女は既に亡くなっている人の霊であろうが、生前の価値観として、本物の幸福が何であるのかを知らなかったのである。
生前の価値観に従って、死後を歩んでいるのである。

2014年9月3日水曜日

追憶 725

女はNに巻き付いた状態で目を見開いているが、その口元には笑みを浮かべていた。
女がNに対して何を言っているのかは分からなかったが、それが悪意のある言葉であることは理解することができる。
女はNを陥(おとしい)れようと画策しているのである。
これでは、Nの純粋さが奪われてしまうだろう。
女の声はNには聞き取ることができないであろうが、その心(魂)には確実に届いてしまうのである。
人の耳が音を防ぐことができないのと同じように、人の心は霊の声を防ぐことはできないのだ。

2014年9月2日火曜日

追憶 724

それから、わたしはNの首に女が巻き付いているのを見た。
この女は霊であり、破滅的な状態を得ていた。
女は頭だけの姿をしており、長い黒髪は油と埃(ほこり)で汚れていた。
女は目を見開き、苦しそうな声で何かを呟(つぶや)き、時折、歯を鳴らしているような音を出していた。
それを見た時、わたしは吐き気を催(もよお)した。
わたしが吐き気を催したのは、女の姿に対してではない。
この女の持つ破滅的な意識に対して、わたしは吐き気を催したのである。

2014年9月1日月曜日

追憶 723

何が正しいのか?と言えば、この世で受け取る結果から推測される真理である。
真理以外に正しいことなど存在しないのである。
真理とは、人が豊かに幸福に生きるためには欠かせないものである。
真理に従うのであれば、誰であろうとも豊かに幸福に生きることができる。
しかし、真理に反するのであれば、豊かさと幸福を得ることはできないのである。
偏見を所有するのであれば、真理を理解することはできない。
真っ直ぐに見る者でなければ理解することができないようになっているのである。

2014年8月31日日曜日

追憶 722

わたしの姿を見て、目には映らない世界があるということを受け入れることは無いにしても、否定することはなくなったのではないかと思える。
心の中に築かれた偏見を取り除いたことで、これからNの心には柔軟性と好奇心が生まれるはずである。
それによって、偏見に捉われることなく、正しい判断が下せるのではないかと思える。
広がりを見せる価値観は、Nにより楽しい世界を教えるはずである。
それによってNは、以前よりも幸福になると確信することができる。
どうするかはN次第であるが、その心に触れた時に多くの純粋さを知ったことで、この確信が生じたのである。

2014年8月30日土曜日

追憶 721

気が付くと、わたしはNの背中を見ていた。
わたしはいつの間にかにNの心から離れたようである。
わたしは一つ深く息を吐き、今見たことをできる限り正確に伝えた。
Nはわたしの話に的を得るところがあったのか、その話を背中越しにではあるが真剣に聞いているのが分かった。
わたしは人の心の中にいる時、その身体はわたしの意思を離れている。
身体と完全に切り離されるということはなく、身体がどのような状態であるかということは客観的に認識している。
霊や人の心が破滅的な黒い血反吐を吐き、または感情を露(あら)わにする時には、わたしの身体はゲップをしたり、叫び声を上げたり、倒れて暴れているようである。
Nはその光景を目の当たりにしているはずであり、その行為が演技であったり、人を騙すためのもので無いことを理解したのだろう。
そのために、わたしの話に対して、真剣に向き合っているのである。

2014年8月29日金曜日

追憶 720

次の瞬間に、ガラスが割れるようにして光の線が走り、黒い空間は粉々に砕かれた。
音を立てて崩れ落ちる様は、新たな可能性を予感させるのには十分な印象である。
風が吹いてくるような感覚を覚えて、わたしは心地好さを得た。
窓を開けて、部屋の中に新鮮な空気を取り込む時のような清々しさがそこにはあった。
散らばった空間の欠片を拾い集め、わたしは光の杭を打ち込んだ。
すると、欠片は光を帯びて輝き、光の粒となって天へと登っていくのである。

「ありがとう」

そう聞こえた気がしたが、気のせいかもしれない。

2014年8月28日木曜日

追憶 719

この空間(偏見によって築かれた価値観)があれば、再びあの少女のような感情や価値観が生じてしまう。
価値観とは、心を育む揺り籠のような役割りを果たしているのである。
心という純粋な赤子は、教育によってどのような姿にでもなるのだ。
偏見の無い価値観を所有すれば、偏見の無い心が育まれる。
人はそのようにして正しくあるべきなのである。
10代の少女であれ、60代の成人であれ、人は偏見を持ってはならない。
そうでなければ苦しみが続くからである。

わたしは光の杭を生み出した。
それを目の前の空間に対して投じた。
闇の中に吸い込まれるようにして、光の杭は見えなくなった。


2014年8月27日水曜日

追憶 718

わたしたちは偏った価値観に捉われてはならない。
偏見によって世界を見るなら、それは簡単に歪んでしまうものなのである。
窓ガラスに少しでも歪みや汚れがあれば、外の景色を正しく見ることはできないであろう。
何らかの勘違いを生むはずである。
勘違いをして生きていると、正しいことを正しく見ることはできず、間違ったものを間違いだと認めることができずに過ごすことになる。
そうなれば、人は気付かない内に道を踏み外してしまうのである。
わたしはNが道を踏み外さないようにしなければならない。
どうするのかはN次第であるが、選択肢を与えることが仕事であるだろう。
新たな選択肢を受け入れるためには、この偏見によって築かれた空間が邪魔なのである。

2014年8月26日火曜日

追憶 717

この空間はNの価値観の一部である。
その価値観の中に少女であるNの心の一部が存在していた。
13年間という短い年月であっても、その中で形成される価値観というものがある。
それによって、Nの思考や感情などの判断が導かれている。
Nが霊的な事象に対して懐疑的であったのも、この価値観によって導かれる判断であるのだ。
人は価値観によって思考や感情を決定し、人生を判断している。
どのような人物も、自らの価値観に逆らうことはないであろう。
それは、価値観というものが、心(思考や感情)の蓄積によって築かれたものであるからである。

2014年8月25日月曜日

追憶 716

目の前には少女のいた空間が存在している。
そこは狭く、暗い場所であった。
わたしは歩を進め、少女と同じように立ってみる。
すると、そこは閉塞感が存在しており、圧迫感によって外部との接触が断たれてしまうように感じた。
この中にいると、外部からの刺激もないので、偏見が生じるのは容易に推測することができる。
少女が怒りの感情に満ちていたのは、このように閉鎖的な場所にいたからに違いないのである。

2014年8月24日日曜日

追憶 715

安らかな表情で眠る少女を眺めていると、天から声が響いた。

「解放し、行かせなさい」

わたしはその言葉に従い、抱える腕の力を抜いた。
すると、少女は風に誘われる鳥の産毛のように柔らかく浮かんで、わたしの腕から離れた。
その時に天から差した一筋の光によって、全身が輝きに包まれるのであった。
輝きが増すほどに、少女は天へと近付いていく。
やがて、天の光と少女が一つに溶け合って見えなくなった。
少女の姿が見えなくなると、速やかに天が閉じ、もはや光が照らすことはなかった。
わたしは少女のいた空間と共に取り残されたのである。



2014年8月23日土曜日

追憶 714

少女の瞳から涙が零れ落ちた時、わたしは少女のいる空間に歩を進め、少女を抱き締めた。
すると、強烈な吐き気に襲われて、黒い煙のようなものがわたしの口から吐き出されるのを見た。
人差し指と中指を使って光の杭を作り出す。
それを空中に浮遊している黒い煙のようなものに投じた。
光の杭が黒い煙のようなものに突き刺さると、それはキラキラと輝く光の粒となって天に帰った。
わたしはそれを見て嬉しくなるのであった。
少女を見ると、わたしの腕の中で安らかな表情を浮かべて眠っているようであった。

2014年8月22日金曜日

追憶 713

それは、その選択が最善だと思ったからである。
考えてはいなかったが、自身の心がそうさせるのであった。
わたしは我慢していた。
心に突き刺さるものは耐え難い程の苦痛であったが、これはわたしが受けなければならない試練であるのだ。
これをしなければ展開することの無い状況があるのである。
そのことを理解して、わたしは耐えているのである。
少女は、有りっ丈の感情をわたしにぶつけたに違いない。
それは、少女の頬に一筋の光が走るのを見たからである。
わたしはその涙が救いであることを理解した。

2014年8月21日木曜日

追憶 712

背後に立つわたしを認識した少女は、雲が形を変えるようにゆっくりと振り返った。
そこにあったのは、怒りに満ちたNの顔であった。
ここは、Nの心の中である。
そこにいるNの顔をした少女は、Nであるに違いない。
彼女はNの心の一部であり、価値観なのであろう。
少女は当然のようにわたしを睨み付けた。
その怒りが鋭く尖り、わたしの心に突き刺さる。
わたしは胸を押さえ、その痛みに耐えた。
彼女のすることに対して抵抗しようとは思わなかった。

2014年8月20日水曜日

追憶 711

扉の奥には赤黒い空間があった。
それは、トイレの個室くらいの広さであり、そこにはあの少女が後ろ向きで立っているのが見えた。
その背中からは不満と拒絶が漂っている。
しかし、わたしは少女がわたしをここまで招き入れたのだと確信していた。
そうでなければ、ここまで辿り着くことはできなかったであろうし、扉がこんなに簡単に開くはずもないのである。
前提として、彼女はわたしを拒絶しているのだ。
このように、上手く事が運ぶのは、協力者がいなければ不可能である。
その協力者が彼女自身であると、わたしには思えてならないのだ。

言葉が出ない。
わたしは言葉すら探してはいなかった。
どうするべきなのか分からなかったのである。


2014年8月19日火曜日

追憶 710

わたしが向かっているのは潜在意識である。
なぜなら、答えはそこにあるからだ。
どのような表現も、必ず本質からくるのである。
顕在意識は潜在意識から現れる。
人の価値観や意思は、そのすべてが潜在意識から生じるのだ。
あの少女も顕在意識の中には見かけなかった。
ならば、もっと深い潜在意識にいると推測するのが普通であるだろう。
わたしはあの少女を探しているのである。
静寂の中を進むと、小さな扉に辿り着いた。
それは簡素な洋風の扉であり、何の警戒も感じない。
ノブを回せば開くのではないかと思えるようなものであった。
わたしは何の躊躇(ちゅうちょ)もなくノブを回し、力を込めて扉を引いた。

2014年8月18日月曜日

追憶 709

Nの心の中は、様々な音で溢れていた。
四方八方から様々な音が飛んでくる。
それを避けながら奥へと進む。
進むに従って音の数が減り、やがて静寂が辺りを包んだ。
静寂の中でわたしは一つため息を吐いた。
それは、騒がしいのが苦手だからである。
多感な中学生の心の中には、様々な興味が詰め込まれているようである。
それで良いのだ。
子どもは様々なものに興味を持つことが良いだろう。
騒がしかったのは、Nの顕在意識(けんざいいしき)である。
これは、普段Nが意識的に使っている意識である。
自分の思い通りになる思考や感情などがこれに当たる。
静寂は潜在意識である。
これは、Nが意識しても使うことができない意識である。
潜在意識にあるものは、自分勝手に使うことはできない。


2014年8月17日日曜日

追憶 708

わたしは彼女のことが知りたかった。
彼女の心の内を理解したかったのである。
彼女が誰で、Nの中で何をしているのか?
どうしてわたしを否定するのか?
知りたいことはたくさんあった。
好奇心がわたしの胸を叩いた。
それに従って再度瞼を閉じる。
わたしの意思に反して右手が伸びる。
Nの背中に到達した右手は、人差し指と中指を使って天使文字を記し始めた。
金色に輝く文字を三行記すと、それを直線で囲った。
直線によって囲まれた天使文字は更に輝きを増し、わたしは両手によってそれを背中に押し込んだ。
輝きが見えなくなると同時に、わたしの視界はNの意識の中に入っているようだった。

2014年8月16日土曜日

追憶 707

瞼の裏の暗闇を見詰めると、すぐに人影が現れた。
それは後姿の女性であった。
彼女は後姿から察するに十代前半の女の子という容姿である。
この人を見て、わたしは直感が働くのを感じた。
この人がわたしを否定しているのだと。
弾かれるようにして瞼が開いた。
わたしは喜びを感じていた。
それは、あの女性はわたしを否定しているのだが、わたしに会いに来たからである。
後姿を見せてはいるが、姿を見せたのだ。
本当に嫌なら、姿を見せるのも嫌であろう。
わたしには、この否定する行為が彼女の本意ではないような気がしてならなかった。
そのために、嬉しかったのである。

2014年8月15日金曜日

追憶 706

感情に流されてはならない。
これは仕事の鉄則であると思う。
感情に流されてしまっては、正しく行うことができないであろう。
わたしには正しく行う必要がある。
私情を挟んでは仕事が歪んでしまうことをわたしは知っている。
多くの霊能者と呼ばれている者や自称霊能者の大抵が、仕事に私情を差し挟んでいる。
そのため、正しく聞いて、正しく見て、正しく理解して、正しく行うことができないでいるのが現状である。
正しく行うとは、その人や霊を正しい道に導き、本当の幸福を得させることである。
その人や霊に対して真理を伝え、行うことができなければ、その人の霊能力には何の価値も無いのだ。
わたしは瞼(まぶた)を閉じて、Nの心を感じ取ろうと努めた。

2014年8月14日木曜日

追憶 705

Nがわたしを嫌っているという事実は存在しない。
寧ろ、友人としての好意を持っているのではないかと思える。
そうでなければ、わたしたちが笑顔で会話をすることは無かったであろう。
わたしの抱えている猜疑心(さいぎしん)は、わたしとNのどちらからか生じたものによって覚えたものではない。
もしも、この感情がわたしとNのどちらからか生じたものであるのならば、もっと早い段階において表現されていなければおかしいのである。
この場には、わたしとN(とCさんとその他の人たち)を除く、第三者がいるはずである。
その第三者がわたしに対する嫌悪感を持ち、拒絶しているのであろう。


2014年8月13日水曜日

追憶 704

これは、大天使ミカエルからのNに対する仕事の準備が整ったという合図である。
わたしは自分勝手には仕事をしない。
必ず、わたしの守護者である大天使ミカエルの合図を待ち、彼の思うことを実現するために働くのである。
わたしの言葉を聞いて少しだけ肩を震わせたNは、緊張した面持ちで背中を向けて座布団に腰を下ろした。
Nの後姿を見て、わたしは嫌な気分になった。
それは、心の中にNがわたしを嫌っているのではないか?という思いが現れたためである。
わたしの心は疑いに満ち溢れていた。
それを受けて、わたしはNのことが嫌いになりそうだった。



2014年8月12日火曜日

追憶 703

二人を部屋に通し、適当に座ってもらった。
わたしは部屋の中央に置いてある座布団の前に腰を下ろした。
そこでNの緊張が増すのを感じ、それを受けたわたしの胸の鼓動も増すのを感じた。
これがNの緊張であるのかは確信は無かったが、なぜかそのように感じるのである。
わたしは目を閉じて意識を集中した。
すると、誰かがわたしを警戒し、否定しているような感覚に襲われた。
それは居心地の悪さを教え、わたしの挙動は少しばかり違和感を抱えるのである。

「呼びなさい」

突然の声にわたしは瞼(まぶた)を上げた。


2014年8月11日月曜日

追憶 702

以前の遣り取りによって、Nが唯物論者であることは分かっている。
しかし、彼女が霊を見た結果それを否定しているのか?
それとも、霊を見たこともなく否定しているのかは分からなかった。
わたしにはNがどのような理由によって唯物論者として生きているのか?ということに興味があった。
しかし、それを本人から聞き出そうとか、どうしても知りたいということでない。
他人が何を信じ、どう生きようとも、わたしにはあまり関心の無いことであったのだ。
わたしは幼い頃から他人に対してあまり興味が無かった。
きっと、自分自身のことで精一杯であり、余裕が無かったのであろう。
そのため、他人に対しての強い興味が持てなかったのではないかと思う。
自分自身や他人への幸福には関心があったが、その人の主義主張には関心が無いのである。



2014年8月10日日曜日

追憶 701

その日、Nは笑顔の中に疑いと興味、そして緊張を隠してやって来た。
Cさんは慣れたもので落ち着いている。
わたしはいつもと同じように二人を招き入れた。
(その他に多くの人がいたが割愛する)
Nは笑顔の可愛いどこにでもいる普通の中学生である。
わたしにとっては友人であるCさんの娘であり、霊や天使を信じていない唯物論者だった。
わたしは霊や天使を信じている唯心論者である。
わたしたちは違うものを信じて生きていた。
しかし、わたしも元は唯物論者である。
わたしの場合は知らなかったというのが理由である。
知らないから、信じるもなにも無かったのだ。
わたしのような人が一般的であるだろう。
多くの人が霊や天使に出会うことも、それ等がどのようなものであるのかを知ることもなく生きているのである。


2014年8月9日土曜日

追憶 700

Nは霊を信じていないようであった。
その文面から、人を小馬鹿にした印象を受けた。
わたしはそれを気に掛けない。
なぜなら、Nが霊を否定しようとも、わたしには何の関係もないことであったからだ。

Cさんは時々わたしの「光の仕事」に顔を出した。
この時は来たい人は勝手に来ても良いという状態だったので、一晩に20人くらいの人で部屋は一杯になっていた。
わたしは力不足でありながらも、精一杯に仕事をこなしていた。
ところで、CさんとNは仲が良かった。
母娘とはそういうものなのかもしれない。
NはCさんからわたしの仕事のことを聞いていたに違いない。
ある日、CさんがNも光の仕事に連れて行きたいとの要望があった。
わたしはそれを嬉しく思い、快く承諾した。

2014年8月8日金曜日

追憶 699

ある日、Cさんが中学生の娘について相談を持ち掛けてきた。
それは誰もが経験するようなたわいもないことではあるが、わたしはその相談に親身に答え、Cさんもそれをよく聞いていた。
それから、自然な流れでCさんの娘であるNと出会い、少しだけ話をするようになった。
この時点では、わたしが霊や天使を見ていることは話していない。
Cさんとは相談事から世間話まで話す普通の友人である。
わたしとCさんはよくメールで交流していた。
そこにNがCさんの携帯電話を使ってわたしにメールをし、たわいもない話をして楽しく過ごしていた。
ある時、Nとメールをしていると、わたしはなぜか霊や天使についての話をしたが、その時Nはそのことを完全に否定した。

2014年8月7日木曜日

追憶 698

政府が広めようとする価値観は、経済を中心とした資本主義である。
それはとても大切である。
経済の発展なくして国の発展は有り得ない。
経済の発展なくして、地域も家庭も個人の人生も豊かにはならないからである。
しかし、資本主義に翻弄(ほんろう)され、それに偏ることは良くない。
それは、この世には、人の心や守護者といった目には映らない存在がいるからである。
精神論だけでは不足している。
唯物論だけも不足する。
人には精神と肉体があるように、この世にも意識的な状態のものと、物質的な状態のものとが存在しているのである。
この二つの理(ことわり)を見失ってしまえば、豊かな人生を得ることはできないのだ。

2014年8月6日水曜日

追憶 697

神道や(特に今日の)仏教が必ずしも良いということではないが、それらは人が豊かに生きるための方法を追求してきた文化であるだろう。
(しかし、今日の仏教はシッタルタ(釈迦)の教えとはかなり異質なものとなっている。葬式仏教と呼ばれ堕落している。それは、人が欲望によって都合の良いように改めたのと、真理を知らない者が上に立つからである。キリスト教を初めとするすべての宗教もこれと全く同じ道を辿っている) 

「お天道様が見ているよ」

という教えがある。
これは、太陽を神様と例え、すべての行為が神様に見守られているという素敵な考え方である。
この教えは真理である。
神様は、人の心の内にあって輝き、わたしたちを見守っているのである。
Cさんの守護者である白い犬がそうであったように、神様とは人の心の内に存在しているのだ。
神道には、清明心(きよきあかきこころ)という教えがある。
字の如く、清らかで明るい心によって生きることが大切だということである。

2014年8月5日火曜日

追憶 696

守護者を認識する以前に比べ、わたしの心や人生は豊かなものになった。
迷いの生存をやめ、道が見え始めたように思うのだ。
地上のことだけでは、人は生きる目的を見出せないのではないかと思う。
数年前のわたしが人生の目的を見失っていたように、多くの人がそこに至るのではないだろうか?
今日の日本では、年間三万人前後の人が自殺している。
それは、分かっている範囲での数字であり、行方不明者として扱われている人数を合わせると、実際の数はそれよりも多くなるのではないだろうか?
これ程までに進んだ文明の日本にあって、これ程までに自殺があるのは、生活環境の向上と人生の豊かさ(幸福感)には確信的な因果関係は無いのではないかと思える。
敗戦国としてアメリカの文化を受け入れた日本は、神道や仏教の教えが薄れてきた。

2014年8月4日月曜日

追憶 695

守護者が見守ってくれていると思うことで、人は孤独を制することができるのではないだろうか?
わたしはまだまだ未熟であり、孤独に打ち勝っているとは言えないが、守護者の存在を認識する以前は、家族や友人や恋人に依存していたところが多かった。
依存心はわたしの中に弱さを生み出す原因となり、それによって心は歪んだ。
人は他人からの協力を受けずに生きることはできない。
そのため、人は他人と協力しなければならないのだ。
しかし、寂しさを紛らわせるために依存することが正しい生き方であるとは思えないのである。
人は自立を目指し、一人でも多くの人を助ける必要があるのでないかと思えるのだ。
守護者を認識することで得られるのは、自立心から生じる他人への貢献であり、
そこから得られるの豊かな人生であるだろう。

2014年8月3日日曜日

追憶 694

守護者はわたしたち人間の霊的な親である。
わたしたちは守護者からの愛を受けて、すくすくと成長することができるのだ。
どのように辛い状況に至ろうとも、わたしたちは決して独りでは無い。
目には映らないかも知れないが、わたしたちのすぐ側には、いつも守護者がいてくれるのである。
これは、推測でしかないが、どのような人にも守護者がいると思う。
わたしの見識が推測を出ないのは、すべての人のことを調べたからではないからである。
しかし、わたしやCさんがそうであるのだから、その他の人であっても同じことが言えるのではないかと思うのだ。
人は孤独を感じて苦悩している。
親族や恋人、友人を頼りにしても孤独が消えることはない。
他人の存在はとても大切であるが、わたしの場合は他人によって孤独が満たされるということは無かったのである。
一時的に忘れさせてくれるので孤独が消えると思うが、また独りになると襲ってくるのだ。

2014年8月2日土曜日

追憶 693

守護者はわたしたち人間のために、真理に従って状況を導いている。
それも、わたしたち人間が理解することができるように、できる限り簡単なものとして導くのだ。
子どもが間違っていることをすると、その親は叱る。
子どもが正しいことをすると、その親は褒める。
それは、子どもに理解させるために分かり易くしているのである。
人生には様々なことがある。
苦しいこともあれば、嬉しいこともある。
ただ、苦しいと感じることの方が多いに違いない。
それは、人が真理に対して間違った生き方をしているからである。
その間違いを理解するために、苦しい状態に置かれるのだ。
暴飲暴食をしたり、怠惰な生活を送っていると、病気になって教わるのと同じである。
しかし、その指摘は守護者のおかげで分かり易いものとなり、また、守護者がかばうために軽減されている。
そのために、Cさんの守護者である白い犬は黒く染まっていたのである。

2014年8月1日金曜日

追憶 692

人が幸福を得るためには、自分のために働いてくれている存在のことを忘れてはならないのだ。
自分のために誰かが種を撒き、育て、収穫する。
それを誰かが運び、誰かがお店に並べるのである。
そして、それを誰かが買ってきて、あなたに振る舞うのだ。
あなたは腹に収める食物が誰がどのように、どのような思いによって育てたものであるのかを知らない。
しかし、それはあなたの腹を満たすのである。
食物を育てた人がいなければ、あなたは空腹に苦しんだのである。
実在する人であっても、あなたがその人を見ることはない。
しかし、そこに違和感を覚えることはないのだ。
守護者は意識的な存在であるため、側にいても認識することは難しいが、「遠く離れている誰か」と同じ認識で良いのではないかと思う。

2014年7月31日木曜日

追憶 691

自らを磨けば、それに相応しい守護者が現れる。
それは、成長したあなたが、今までよりも素敵な人たちに出会うのと同じである。
人は自らの人格に等しい人たちと共に生きなければならない。
自らの志(精神レベル)が低いのであれば、それに等しい人たちと共にいる。
悪口を吐く者は、悪口を吐く者と共にいるのである。
悪口を吐く者が、人を褒める者と共にいることは有り得ない。
人を褒める者は、人を褒める者と共にいるからである。
幸福を求め、高い志を持つ人物には、霊格の高い守護者が共にいる。
それは、その人の思いを実現するためである。


2014年7月30日水曜日

追憶 690

即(すなわ)ち、守護者を意識した上で自らを磨けば、守護者との間の絆が高まり、直感などの第六感と呼ばれる普段は使っていない力を引き出すことができるようになるのである。
別に超能力者や預言者のようになると言っている訳ではないが、守護者との協議によって自らの選択の質が一人で行う時のものよりも向上するということである。
誰かに相談すると、自分では思い付かなかった答えを得られることがあるだろう。
そのような状態が、自分自身の中だけで行えるということなのである。
そして、わたしがハクとコン(狐の神様)、白龍神(北灘湾の神様)、大天使ミカエルというように守護者の数が増え、そのレベルが上がってきたのは、自分自身が少しずつでも成長してきたからに違いない。


2014年7月29日火曜日

追憶 689

守護者とは導きである。
守護者は人が感知することができないことまで知っている。
それは、視点が違うからである。
守護者は意識的な存在である。
この世のすべての事柄が意識から物体へと変化している。
アイデアが形になるのと同じである。
どのような物も状況も、意識という原因から生じているのだ。
人は意識のレベルで事の成り立ちを見ることができない。
しかし、意識的な存在である守護者にはそれが見えているのだ。
人が自らの格を高めれば、守護者との関係性(絆)は高まる。
そうすれば、守護者からの働きかけが強化されるのである。
そして、人は守護者からの声を直感として受け取るようになる。


2014年7月28日月曜日

追憶 688

しかしながら、わたしたちの認識が及ばないところでは、守護者が様々な働きをしているのである。
それを奇跡や偶然として片付けるのは余りにも不躾(ぶしつけ)であるだろう。
人生というものは、わたしたち人間の生き方と守護者の働きによって成り立っているのだ。
そのことを忘れてはならない。
人は自分自身に対して、そして、守護者に対しての感謝の気持ちを忘れてはならないだろう。
感謝の気持ちがあれば、不満や不安などの破滅的な状態を生み出すことはないからである。
自分のために働いてくれている存在があることを忘れてはいけない。
そして、感謝の気持ちを以て生きる人は、その人格が成長する。
人が成長するなら、それを守る守護者も成長することができるのである。

2014年7月27日日曜日

追憶 687

この世に奇跡などというものは無いと思うのだ。
それは、経験上そう思っている。
原因が無ければ結果は出ない。
奇跡に見えることは起こるだろう。
しかし、それにも原因が存在しているはずなのである。
奇跡に見える結果の原因がどこにあるのかを知らないために、それが奇跡的に起こる現象なのだと思うのである。
わたしたちは奇跡が起こるのを信じて生きてはならないだろう。
わたしたちは原因が結果を導くという真理を信じて生きていかなければならないのだ。
そう考えれば、生き方が変わるに違いない。
不満に思うことも、不満のままであってはならないと思うだろう。
しかし、奇跡を信じている人は自己を省みることはない。
心の状態がどのようなものであっても、奇跡が起きて帳消しにしてくれるなどと思っているのである。



2014年7月26日土曜日

追憶 686

神が誰かを特別視することなど有り得ない。
良いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こるのである。
守れば育ち、叩けば壊れるのである。
誰がやっても同じ結果になる。
それが真理である。

Cさんはこれから、白い犬という守護者を意識しながら生きていくだろう。
そして、心の状態を大切にするに違いない。
これから、Cさんは自分の力によって自己を正し、人生を豊かな方向へと向かわせることになるだろう。
しかし、それは努力が続けばの話である。

2014年7月25日金曜日

追憶 685

わたしたちは真実を知って生きていかなければならない。
間違った方法では、どれだけ努力しても無駄である。
多くの人が冠婚葬祭の儀式を執り行う。
しかし、人の中にはこれだけたくさんの苦悩があり、世の中にはこれだけたくさんの破滅的な状態の霊がいるのだ。
一生懸命にお経を覚え、それを毎日飽きずに唱え、欠かすことなく行事に参加し、仏壇やお墓を買い揃え、多額のお布施をする。
その結果、人は天へと向かうのだろうか?
残念ながら、そのようなことはない。
神に祈るだけで救われるような甘い世界ではないのだ。
この世界は原因と結果という真理に従ってのみ動くのである。
それが、神の作ったシステムである。
神が人を救うのではない。
神の作ったシステムが人を救うのである。

2014年7月24日木曜日

追憶 684

間違った形の信仰は、幸福どころか不幸を招いてしまう。
今日の日本にも様々な宗教が乱立しているが、残念ながらすべてが間違った信仰であるということを言わなければならない。
宗教を否定しているのではない。
やりたい奴はやれば良いのだ。
しかし、宗教というものは所詮(しょせん)人が作ったものである。
それに、時間の経過と共に足したり引いたりして形を変えていく。
そして、宗教を引き継ぐのは神を知らない人間なのである。
自らの信仰する神を見たこともないのに、どうやってその道を説くというのだろう?
会ったことも無い人のことを自分勝手に公言する者は嘘吐き以外の何者でもないのである。
それが人の正しい道だと言うのは間違っているのだ。
偽物を偽物として売るのは良い。
しかし、偽物を本物として売るのは許されない。
偽物と知らずに売っても、偽物を売ったのであれば罪人なのである。

2014年7月23日水曜日

追憶 683

わたしは20歳を超えるまでは霊的な存在を見たこともなかった。
そのため、否定はしなかったが懐疑的な立場であった。
そのため、わたしには信仰がなかったのである。
それは、実体験としての実感がなかったからである。
どのような人も実際に体験すれば信じざるを得ないだろう。
しかし、それを体験することができないのが実情である。
それは、現時点においては体験する必要がないということなのであろう。
偽物の「神」を祭るのは間違っている。
誰が何を信じようとも、わたしには関係のないことではある。
しかし、実際に触れてみて、それがどのようなものであるのかを実感することがなければ危険なのだ。

2014年7月22日火曜日

追憶 682

この世のほとんどのことが、目には映らないレベルで進行している。
目に映るのは距離も大きさも光量も限定されたものである。
遠過ぎるもの近過ぎるものは映らない。
大き過ぎるもの小さ過ぎるものも映らない。
明る過ぎるもの暗過ぎるものも映らないのである。
人は電波や磁気が存在しているということを発見したが、それらを発見するまでは誰一人としてその事実を信じることができなかったのである。
ならば、電波や磁気が意思を持ち、霊という意識的な存在を形成しているということを知らないからといって、どうしてそれを否定することができるだろうか?
知らないからといって否定するのは浅はかであると知らなければならないのだ。

2014年7月21日月曜日

追憶 681

守護者の存在が無ければ、Cさんの苦しみはより深いものであっただろう。
守護者である白い犬のおかげで、現状で済んだと知らなければならないのだ。
しかし、多くの人はこのことを受け入れることができない。
そして、守護者に敬意を払うこともない。
それで良いのならばそれで良い。
何を信じ、どのように生きようともその人の事柄である。
強制的に何かを信じさせる必要はないのだ。
間違っていれば苦しむ。
そのようにこの世の真理が答えを教えてくれるのだ。
守護者の存在を受け入れない人は、何らかの苦しみを以てそのことに気が付くのである。

2014年7月20日日曜日

追憶 680

目に見えているものだけを追って生きるのは簡単であり、目に見えないものを追って生きるのは難しい。
そのため、多くの人は前者となる。
簡単なことにあっては得るものは少ない。
難しいことにあっては得るものは多いのだ。
目には映らない霊的な存在である守護者を意識しないで生きる人の人生は簡単である。
目には映らない霊的な存在である守護者を意識して生きる人の人生は難しい。
守護者を意識して生きる人は、人の目が届かない状況にあっても、不正を働くことができないからである。
守護者を意識することなく生きる人は、人の目が届かなければ不正を働くことを厭(いと)わないであろう。
厚かましい者は、人の目が届こうとも不正を働くのである。

2014年7月19日土曜日

追憶 679

わたしたちは真実を知らなければならない。
しかしながら、真実は隠されているのが現状である。
それは、人が「忘れて」生きるためである。
人は知っていたことを知らずに生きなければならないのだ。
それは、知らずに生きることによって、知ることが強化されるためである。
失って得る方が価値が上がるのだ。
人は霊である。
すべての人が霊的な存在として、霊的な存在と共に生きているのが真実である。
本来、すべての人がこの事実を知っていたが、信仰を増すために忘れるのである。
Cさんは白い犬のことを無意識下における霊的な感覚では認識していたはずである。
しかしながら、霊的な感覚によって生きていない状態であるため、その事実に気が付かないのである。

2014年7月18日金曜日

追憶 678

守護者は未熟な人が経験を積み、成長を実現するためのサポート役なのである。
子どもが立派に成長するためには、親がその失敗を許し、大きな心で見守ることが大切である。
親は子の過ちを許し、代わりに謝るのが仕事であるのだ。
親が子をかばうのは当たり前のことなのである。
守護者は守護の対象の親のようなものである。
白い犬はCさんの霊的な親であるのだ。
白い犬はCさんのことを精一杯に守った。
その結果、闇に覆われてしまったのである。
世間では、これを悪霊だと言ったり、祟(たた)られているなどと言うが、わたしにはこのような守護者を責めることなどできない。
真実を知れば、誰も彼らを非難することなどできないのだ。

2014年7月17日木曜日

追憶 677

白い犬はCさんの守護者であるため、その幸福を望み、そのために努めていたに違いない。
しかしながら、様々な経験を通して生まれ出るCさんの感情がネガティブなものであるのならば、その心は闇に覆われて不幸を導いてしまう。
それを防ぐために、白い犬は心の闇を自らの中に取り込んだのだろう。
そして、黒い獣の姿になったのである。
しかしながら、それが悪いということはない。
わたしたちは未熟であり、学んで成長するために生きているのである。
未熟であるのだから、失敗するのは当然である。
寧ろ、失敗しない方が不自然なのだ。

2014年7月16日水曜日

追憶 676

守護の対象の代わりに破滅的な意識を取り込むと、水の中に黒い絵具を垂らすようにして染まる。
破滅的な意識の量によって、その濃度が変わるのだ。
黒い絵具の量が多ければ水は黒色に近付くのと同じである。
黒く染まった水は水ではなくなる。
それは、全くの別物だと言えるだろう。
破滅的な意識に染まってしまった守護者は、本来の性質や仕事とは異なる存在となる。
守護者の本来の目的が守護の対象の幸福であるなら、破滅的な意識に染まってしまった後の目的は、守護の対象の不幸という具合に真逆の状態となってしまうのだ。
光が闇に変わり、喜びが苦しみに変わるのである。


2014年7月15日火曜日

追憶 675

守護の対象は未熟な人間である。
未熟な人間は、人生の問題に対して思い煩(わずら)う。
怒りや悲しみなどの感情は破滅的な意識として心に蓄積する。
破滅的な意識は黒く、冷たくて重いのである。
「心が暗い」「気分が沈む」「気が重たい」という表現は、心の状態を現したものである。
心を害した人は、その心に光を失うことによって苦しむ。
守護者はその人の成長と幸福を求めている。
そのため、心に破滅的な意識が生じると、それを身を以て制するように努める。
その時に、守護の対象の代わりに破滅的な意識を蓄えることはできても、それを浄化するということはできないのである。(人の守護者の大抵が、そのレベルにない)

2014年7月14日月曜日

追憶 674

守護者(守護霊、守護神、守護天使…)という存在は霊であり、言わば心(意識)である。
その人の心の中にいる存在であり、その心と一体である。
守護者はその人の心を守り、その人が豊かな心で幸福な人生を歩めるように努めている。
しかしながら、人生とはそれを生きる人のものであり、守護者といえども脇役に過ぎない。
守護者がその人の代わりに人生を選択して築くのはタブーであると言えるだろう。
失敗しようが、窮地(きゅうち)に立とうが、それを学べるように守るのが守護者の仕事なのである。
守護者とはその名の通り保守的な存在なのだ。
守るために存在しているのであって、攻撃して攻めるためには存在していない。
そのため、それが破滅的な意識でさえ受け入れなければならないのである。

2014年7月13日日曜日

追憶 673


「ありがとう」

そう聞こえた。
わたしの心には、白い犬からの感謝の気持ちが幾つも届いているのである。
あまりに執拗(しつよう)に御礼を繰り返すために、わたしは居心地が悪かった。
そのため、わたしは白い犬を制するのであった。
すると、白い犬は聞いてもいないのに自らの身の上を話し始めた。

この白い犬はCさんを守る役割を担う、言わば守護者である。
世間では、守護霊と呼ばれる存在である。
白い犬がいつの頃からCさんを守護していたのかは分からないが、最近までは自らの役割を果たせていなかったのは事実であろう。
そこには、守護者(守護霊)としての仕方のない事情があったのである。




2014年7月12日土曜日

追憶 672

わたしは精一杯の愛情を以て白い犬を抱き締めた。
すると、白い犬が眩い光を放ち、その毛並みを更に白く染める。
わたしはその光が眩しくて瞼(まぶた)を閉じた。
腕が軽くなった感覚を得て顔を上げると、目の前には白く立派な犬が座って真っ直ぐにこちらを見ているのである。
その目には確かに力がみなぎっていた。
強い意思を伝えるその目を見ると、この状態が獣の本当の姿であると理解することができた。
わたしは嬉しくなって笑みを浮かべた。
すると、表情に違いはなかったが、白い犬も笑ったように感じた。

2014年7月11日金曜日

追憶 671

光の杭を作り出し、抱えている獣の身体に突き刺した。
すると気分が悪くなって、ゲップと共に黒い煙のようなものが出る。
そんなことを何度か繰り返すと、わたしは獣を強く抱き締めたくなり、腕に力を込めた。
すると、黒い獣が白い光を放って輝き始める。
わたしはそれを嬉しく感じて、更に強く抱き締めるのであった。
強烈な光に包まれて姿が見えなくなって、しばらくして光が収まると、そこには白い毛並みの立派な犬がいた。
腕の中で眠る白い犬を眺めていると、わたしは狛犬(こまいぬ)を連想するのであった。

2014年7月10日木曜日

追憶 670

光の杭が獣の身体を貫くと、耳をつんざかんばかりの悲鳴が辺りに響いた。
黒い獣が、その身体よりも更に黒い血反吐のようなものを吐きながら倒れた。
それが出た時、わたしは安心して胸を撫で下ろした。
あの黒い血反吐のようなものが獣の中の汚れであると理解することができたからだった。
根拠は無いが、そうだと思えるのである。
わたしは手を伸ばして、倒れて動かなくなった獣を抱えた。
姿はまだ黒いままであり、本来の姿も想像することはできない。
獣を眺めていると、更に光の杭を突き刺すべきだと強く感じ、わたしは空中に手を伸ばした。

2014年7月9日水曜日

追憶 669

赤黒い汚れを何度も何度も吐き出し、それがそれ以上は出なくなった時、わたしは疲れ果てていた。
全身が重たく、何とか立っているような状態であった。
息を切らしながら獣を見ると、黒い姿はしているものの、倒れ込むようにしている状態を見ると、わたしに向けられた殺意が薄れていることが分かる。
汚れを取り除いたから、殺意も薄れたのだろう。
わたしは一旦安心した。
とりあえずは、獣は強烈な殺意からは解放されたからである。
疲れ果てていたが、そのようなことを気は掛けず、右手は空中に差し出された。
人差し指と中指を振り下ろし、光の杭を生み出す。
光の杭を掴み、それを黒い獣に向かって投じた。
光の杭は一直線に飛び、黒い獣に突き刺さった。

2014年7月8日火曜日

追憶 668

吐き気に従って、赤黒い大量の液体を吐瀉(としゃ)した。
血のように見えるそれは、意識の膿(うみ)であるように思える。
意識がネガティブで破滅的な状態を得て、腐敗してしまったのだと確信したのだ。
これは、黒い獣から出たものである。
わたしは獣の持つ意識の汚れを代わりに取り除こうとしているのである。
獣は尚もわたしに対して殺意を抱き、それを惜しげも無く向けていた。
この獣はどれほどの汚れを溜め込んでいるのであろう?
赤黒い汚れた意識を大量に吐き出しても、その姿は黒いままなのである。
今のわたしにできることと言えば、獣が抱える汚れを取り除くことだけであろう。
わたしは純粋な心で、獣の汚れが取り除かれることを願った。

2014年7月7日月曜日

追憶 667

わたしが近付くと、獣の発する殺意が濃くなった。
全身の毛を逆立てて必死に威嚇(いかく)する野良猫のように、獣はわたしに対して最大限の敵意を以て迎え受けようとしていた。
わたしは怖くはなかった。
わたしは光である。
恐れはないのだ。
それに比べて、目の前の獣はわたしを恐れているようでならない。
わたしのことが怖いから、必死に威嚇しているのだろう。
野良猫は人間が怖いから威嚇するのである。
この黒い獣もわたしのことを恐れているに違いない。
弱い犬程よく吠えるという言葉があるが、あれは真理を現している的確な言葉なのではないだろうか?
黒い獣に手が届きそうな距離まで近付いた時、わたしは強い吐き気に襲われた。

2014年7月6日日曜日

追憶 666

この獣が黒くなったのには理由があるはずだ。
Cさんの童心が傷付いて歪んだのに理由があったのと同じ原理によって、獣は黒くなってしまったのだと推測されるのである。
Cさんの心の中にいた少女が故意に苦しんだ訳ではないように、この獣も現状は不本意であると思える。
ならば、この獣の心の傷と歪みを取り除くことができれば、Cさんの心の中にいた少女のように、本来の穏やかさを取り戻すことができるのではないだろうか?
わたしは獣の心の中の洞窟を進むために、愛情という名の灯火(ともしび)を絶やさないように努め、目の前の黒い獣に歩み寄った。


2014年7月5日土曜日

追憶 665

わたしは心を強く保った。
闇に屈するのであれば、わたしはCさんのことを救うことなどできるはずがないのである。
誰かを助けるためには、それだけの覚悟が必要だということである。
恐れて立ち尽くしている者に誰かを守ることなどできない。
守ることができない者には、救うことなどできるはずがない。
人は強くなければならないのだ。
わたしたち人間が強くあるためには、自分が何者であるのかを思い出せば良い。
自分が光の子であると思い出すのであれば、恐ることなどないのだ。
光は温かい。
それは、愛情なのである。
わたしが光の子であるということを思い出した時、心には黒い獣に対する愛情があった。

2014年7月4日金曜日

追憶 664

急に目の前のことが馬鹿らしくなったのだ。
なぜわたしが、たかだか獣一匹に怯えなければならないのか?
冷静に考えれば分かることである。
人間様を舐めてもらっては困るのだ。
わたしの守護は天使であり、光なのである。
光は闇を照らし、闇を包み込んで光に変える。
光の前ではどのような闇もその性質を保つことはできない。
それがこの世の道理であると、わたしは知っているのだ。
わたしが光であるなら、闇をまとうこの獣がわたしに勝ることなど有り得ない。
恐ることなどないのである。
いつの世も光が勝る。
そのために、世は発展してきたのだ。
世が衰えることは有り得ない。
それは、光が闇に負けることは有り得ないからである。

2014年7月3日木曜日

追憶 663

それは、闇に覆われていた。
目鼻は認識することができない。
まるで水墨画のようである。
しかし、わたしに向けられた悪意は理解することができる。
わたしに対する強烈な殺意を感じるのだ。
わたしは胸が萎縮するのを認識した。
胃が痛くなるのではないかと思えるほどに緊張している。
全身の毛が逆立ち、理性が投げ捨てられる。
次の瞬間、わたしは自分自身の叫び声で我に返った。
わたしは自分自身を鼓舞するように雄叫びを上げていたのである。
これは無意識の行動ではあるが、そのおかげでわたしは理性を取り戻した。
冷静さを取り戻したわたしは、この状況が可笑しくてたまらなかった。
笑いが込み上げてきて、わたしは高らかに声を響かせた。


2014年7月2日水曜日

追憶 662

わたしは再び、瞼を閉じなければならなかった。
そして、右手がCさんの背中に天使文字を描き、それを背中に押し込む。
すると、Cさんを背後から眺める視点に辿り着いた。
そこでわたしは、Cさんの頭に絡み付くようにしている黒い動物の姿を見たのである。
吐き気に襲われて黒い煙のようなものを吐瀉(としゃ)した。
これは悪意であると理解することができる。
わたしはまた心が乱れ、怒りの感情が湧いて出るのを認識するのであった。
その時、黒い姿をした動物のようなものがわたしに気付き、いやらしい視線をわたしに向けたのが分かった。
しかし、その瞳を捉えることはできなかった。

2014年7月1日火曜日

追憶 661

少女の存在と成り立ち、そして彼女から得た教訓と新たな方向性。
これ等の必要をCさんに伝え終わると、Cさんの反応を見る前に強烈な頭痛に襲われた。
釘のような鋭利なものでこめかみに穴を開けられるような感覚である。
わたしはそれに驚くのと同時に、頭の中に強制的に流れ込む映像を見た。
それは、黒い姿をした動物であった。
一瞬のことであったので、影のようなシルエット以外に認識することはできなかったが、それは狐のような姿をしていた。
それは禍々(まがまが)しいオーラを放ち、わたしの危機感を煽(あお)ってきた。
わたしの心はこの危機感に対して高揚した。
頭の中ではアドレナリンが爆発しているようであった。


2014年6月30日月曜日

追憶 660

多くの人は心に歪みが存在していることに気が付かない。
多くの人はその傷を抱えたままで死んでいく。
歳を取っても愚かな者がその類(たぐい)である。
自らが直そうと考え、行動しなければ直らない。
しかしながら、多くの人は自分自身を正当化しようとするために、自身の心の状態の把握ができないのである。
Cさんは自らの心の歪みに何と無く気が付いたのではないだろうか?
苦しみから逃れるためにわたし(の後ろの神々)に会いに来たのだろうが、結果的には心の傷を癒し、歪みを直すことになるのである。
しかし、どのくらいのことをすれば歪みが解消され、傷が癒えるのかは分からないことなのである。

2014年6月29日日曜日

追憶 659

Cさんは良い人である。
わたしは個人的に好きな人であるが、やはり心の歪みを感じることがある。
わたしは自身の心の歪みを知って、人のことを言うのである。
自身がそうであるから、他人のことが理解できるのだ。
わたしは幼い頃から今に至るまで、自らの心の中の怒りの感情に苦しんできた。
それが苦しいことを知っているから、今、直そうとしている。
Cさんは見せないように努めているが、様々なことに不満を抱いているに違いない。
そして、それは心の中から生じる感情や思考によって導かれる当然の結果なのである。
人は感情や思考によって状況を選択し、人生を築いているのである。

2014年6月28日土曜日

追憶 658

話を聞くと、Cさんの家庭は少し複雑であり、祖母に育てられたのだというが、その祖母が理不尽な人物であり、虐待にも似た育て方をしたそうだ。
そのような環境が幼いCさんに特殊な価値観を植え付けてしまったのだろう。
愛情を受けずに生きる人の心は必ず歪んでいく。
どのような人物であっても、愛情を得なければ必ず傷付いてしまうのである。
幼い子どもにはそれが顕著(けんちょ)であり、それを修正することはとても難しい。
多くの人はこの傷を治すことができない。
心の歪みによって生涯苦しむようになるのだ。
人からの愛情を知らない人は、人を愛することができないのである。
人を愛することができないのは辛いことだ。
人を愛することができなければ、自分自身を愛することもできない。
自分自身を愛することができなければ、それ以外の何も愛することはできないのである。

2014年6月27日金曜日

追憶 657

天が閉じると光が失われた。
光が失われたわたしの目の前には、瞼(まぶた)の裏側の景色があった。
わたしには、疲労感に勝る充足感があった。
そのおかげで辛さは無かった。
ゆっくりと瞼を開けば、Cさんの背中がわたしを出迎えた。

わたしがCさんの心の中で出会った少女は、Cさんの心の一部であるのではないだろうか?
わたしにはそのように思えてならないのである。
少女が怒りの感情に支配され、わたしを睨み付けて拒絶していたのは、その心が傷付いていたからに違いない。
Cさんは幼い頃に、何らかの心の傷を受けたのではないだろうか?
そうでなければ、心があれほど荒れるはずがないのである。

2014年6月26日木曜日

追憶 656

少女をこちら側へと引き抜くと、扉は自動的に塞がった。
わたしの膝(ひざ)の上で眠るように沈黙している少女の表情は、安らぎに満ちている。
わたしは愛情に従って少女を抱きしめた。
すると、天が開けて眩(まばゆ)い光が降り注ぎ、わたしたちを包み込んだ。
それはとても温かな気持ちにさせる素敵な光であった。
すると、少女がわたしの手を離れ、光の方に向かって昇り始めた。
それを見ると、わたしはなんとも言えない嬉しい気持ちになった。
少女は少しずつ天へと向かい、やがてその姿を光に溶け込ませた。
少女の姿が見えなくなるのと同時に、天が閉じて光が消えた。
わたしは強い充足感によって抱かれるのである。



2014年6月25日水曜日

追憶 655

光の杭を掴む手の力を緩めると、ゆっくりと少女がわたしから離れるように後ろに倒れた。
少女はまるで眠っているかのようであった。
その顔には、幼子に似合う汚れのない純真無垢な表情があるのみだった。
わたしは全身に込めていた力が一気に抜けて、疲労感が停滞しているのを認識した。
その時、わたしは自分自身の感覚と視点が肉体に戻っていることに気が付いた。
瞼(まぶた)を閉じているのだが、そこからCさんの背中の奥に少女が倒れているのが見えるのである。
わたしは右手の人差し指と中指によって、Cさんの背中を円形に二回なぞった。
すると、その線は黄金に輝きを放って、背中に穴を開けた。
その穴はCさんの肉体と霊体の壁を越えて、わたしと少女を繋ぐ扉であった。
その扉に手を差し込むと、わたしは少女の身体をしっかりと掴んだ。

2014年6月24日火曜日

追憶 654

突然に耳をつんざくような甲高い音が頭の中に響いた。
わたしはそれが何だか分からなかったが、次の瞬間にはそれが少女の悲鳴であったと理解した。
少女は目と口をこれでもかというくらいに開き、驚愕(きょうがく)の表情を浮かべていた。
そして、目と口からは黒い煙のようなものが溢れ出ている。
それを見て、わたしは光の杭を掴む手に更に力を込めた。
やがて、目と口からは黒い煙のようなものが出尽くした。
それに比例して甲高い悲鳴は枯れていく。
悲鳴が枯れた時、少女は沈黙した。
そして、わたしは光の杭を掴む手の力を緩めるのであった。

2014年6月23日月曜日

追憶 653


「皆、死ねば良い」

少女の言葉にわたしは悲しくなった。
まだ5歳くらいに見える少女の口から出て良い言葉ではないのである。
子どもは何の心配もなく、ただ楽しく遊んでいれば良いのだ。
これは異常事態である。
この少女をこのままの状態にしておく訳にはいかない。
少女に何があったのかは分からないが、辛いことがあってこのような状態になってしまったのは明らかである。
わたしは心の底から少女を助けたいと願った。
すると、右手が空中に一筋の線を描いた。
そこに金色に輝く光の杭が現れたので、わたしはそれを掴んだ。

「苦しみに心を合わせ、喜びを求めなさい」

大天使ミカエルの言葉に従った時、わたしは少女の胸に光の杭を突き刺していた。

2014年6月22日日曜日

追憶 652

黒い液体を吐き出すと、気分の悪さが無くなった。
少女は今だにわたしのことを睨み付けている。
「話をしなければならない」と心の中に聞こえた。
わたしは少女に歩み寄り、膝(ひざ)をついて肩を掴み、目線を合わせた。

「わたしは君のことが知りたい」

わたしが告げると少女の恨みの感情の中に小さな歪(ひずみ)が生じたように思えた。
わたしの一言によって、少女の気持ちが揺れたのが分かったのである。

「嫌いだ…」

少女はわたしの目を睨み付けながら言った。

2014年6月21日土曜日

追憶 651

わたしの心の中に湧き起こった感情は、少女を救いたいと願う愛情であった。
まだ幼い少女がこのような歪みと苦しみの中に存在していることが悲しかった。
わたしはもう、少女がどのような態度を見せても怒りに支配されることはないだろう。
心の中には慈悲が溢れていたからである。
その時、わたしは気分が悪くなり、猛烈な吐き気に襲われた。
自分自身の意思に反して口が大きく開かれると、そこからコールタールのようなどす黒い液体が大量に流れ出た。
嘔吐する時にはとても辛い。
あの辛さが更に大きくなって襲い来るような感覚である。
吐き出したそれは、わたしの足元を黒く汚した。

2014年6月20日金曜日

追憶 650

わたしはただ、この少女を「壊す」ことに専念した。
わたしには少女の睨み付ける眼差しが許せなかったのである。
力を込めて細い首を絞め上げると、少女は何かを企むようにいやらしく笑って見せた。
その表情を見て、わたしは背筋が凍り付くのを覚えて我に返った。
わたしは何ということをしていたのだろう。
わたしは自分自身の愚かさに吐き気がした。
首を絞める手を離すと、少女は再び睨み付けた。
今度は少女の眼差しにわたしの心は静けさを取り戻していった。
そして、胸を熱いものが込み上げてくるのを感じるのである。

2014年6月19日木曜日

追憶 649

少女は精一杯にわたしのことを睨(にら)み付けていた。
その表情からは深い憎しみが溢れている。
わたしは少女の恨みの感情に晒されると、それに対抗するように怒りの感情が噴出するのを感じた。
わたしはこの少女を「壊したい」と思った。
憎たらしく、邪魔な存在であると思ったのである。
わたしには冷静な判断というものが欠けていた。
相手は幼女なのだ。
幼い子どもがどのような態度を見せても、それに対して憎しみを覚えるなどということは有り得ないことであろう。
わたしは自分自身でもなぜそのようなことをするのかは分からなかったが、少女に近付いてその細い首に手を伸ばした。
白い肌は冷たく、わたしの手の温もりを奪おうとしていた。

2014年6月18日水曜日

追憶 648

次にわたしが見たものは赤黒い煙のような怒りの感情の中にいる自分自身の姿であった。
やはり、ここは不快である。
息苦しく心が落ち着かない。
こんな場所からは早く抜け出したいと強く願う自分がいた。
その時、赤黒い煙の先に人の気配のようなものがあるのに気が付いた。
その気配はまるで蝶を誘う花香のように、わたしに何らかの信号を送っているように思えるのである。
この気配の主が何者であるのかは分からないが、その他には何も無かったので、そこに向かう他方法はないように思えた。
重たい心を精一杯に支えながら、赤黒い煙を掻き分けて進んだ。
進むに連れて、わたしは心が重たくなっていくのを感じていた。
奥に行くほどに心が乱れ、腹立たしさが増していく。
わたしの我慢は限界に近付いていた。
何もかもを投げ出しそうになった時に、目の前に少女が立っているのを見た。

2014年6月17日火曜日

追憶 647

緊張感を引き摺るようにして、Cさんはわたしの目の前の座布団に背中を向けて腰を下ろした。
わたしはあの少女に再び会わなければならない。
彼女に会って事情を聞かなければならないのである。
Cさんにリラックスしておくように告げて、わたしは静かに瞼(まぶた)を下ろした。
すると、右手の人差し指と中指がCさんの背中に何かの文字を記し始める。
これは無知なわたしが見たこともない文字列であり、わたしは天使の使う文字なのではないかと推測していた。
天使文字は黄金に輝きを放ち、わたしはそれを四角の線で囲った。
そして、両手でそれを背中に押し込んだのである。
天使文字は吸い込まれるようにして背中へと消えていった。
それと同時に、わたしは瞼の裏側の視界でさえ失った。

2014年6月16日月曜日

追憶 646

赤黒い煙の中を進むと、思考が乱されていくのが分かる。
わたしは冷静な判断を失い、自分自身という存在を保つことが難しかった。
そして、いつの間にかに全身に小さな赤黒い染みのようなものがあるのを見付けた。
それが少しずつ大きくなってわたしを飲み込もうとしているようである。
広がっていく染みに全身が覆い尽くされようとする時、わたしは目の前に一人の少女が立っているのを見た。
そこで、視界はブラックアウトして、気が付くとわたしは自分自身の視界を取り戻していた。
一瞬の出来事ではあるが、それはとても長い時間に感じられた。
わたしが見た光景は、Cさんの怒りの感情に関係しているものに違いない。
意を決して、わたしはCさんを目の前の座布団に招いた。


2014年6月15日日曜日

追憶 645

Cさんの心の中には様々な感情が入り混じって見えた。
その中でも多くを占めていたのが怒りの感情である。
これは、感情の中でもCさんに最も影響力を持っているに違いない。
きっと、普段から強弱はあるにしても、不満を抱えながら生きているのだろう。
不満の感情を抱えながら生きるのは辛い。
心にこれがある以上は幸福を得ることはできない。
だから、Cさんは現時点において幸せではないのは明らかなのである。
わたしがしなければならないのは、この怒りの感情の原因を探り、それを断つことであろう。
わたしは様々な感情の中から怒りの感情である赤黒い煙のように見える場所に向かった。

2014年6月14日土曜日

追憶 644

深呼吸をして平然を装い玄関に向かうと、そこにはCさんと共通の知人が立っていた。
軽い挨拶を交わして、二人を招き入れたが、Cさんからは緊張感が伝わってきていた。
Cさんに会うと、わたしは自分自身の心の中に怒りの感情が濃くなるのを感じた。
どうしようなく腹が立ち、わたしはため息を吐いてそれをどうにかしようと試みたが無駄なようである。
部屋に入って、彼女等を入り口の辺りに座らせ、わたしは部屋の中央に置いてある座布団の前に座った。
わたしはCさんにこれからわたしがすることを簡単に説明し、目を閉じて天の意思を待った。
目を閉じて集中すると、わたしは心の中に存在している怒りの感情に対して焦点が合ってしまう。
どのように努めても、怒りの感情に至るのである。
わたしは諦めて、怒りの感情に意識を合わせ、そこから得られることを探し始めた。

2014年6月13日金曜日

追憶 643

Cさんを迎える日、わたしは怒りに支配されていた。
明確な理由は無いのだが、ちょとしたことで不満が沸き起こり、心が定まらないのである。
この状態に自分でも驚いた。
そして、心を整えようと努めるのではあるが、無駄な足掻きのようである。
Cさんを迎える数十分前、わたしは一人で瞑想を試みていた。
しかし、不満によって心は乱され、静寂に至ることは叶わなかった。
その時に、わたしは自分自身の表情が自分の意思に反して動くのを認識する。
それは、犬が敵を威嚇(いかく)する時のように、歯を剥き出しにして唸(うな)るような表情であった。
わたしはため息を吐いて、胸の中のストレスを押し出そうと努めた。
しかしながら、それも無駄であった。
その時、来客を告げるチャイムがわたしを瞑想から引き上げた。

2014年6月12日木曜日

追憶 642

ある日、わたしはCさんという女性から、見て欲しいという依頼があった。
これは霊視のことである。
わたしは快くそれを承諾(しょうだく)し、後日会うことにした。
とは言え、このCさんという女性は知人である。
この人の嫁ぎ先は家業として養殖の仕事をしている。
言わば仲間内である。
わたしたちは、わたしが霊や天使などの意識的な存在に会う前からの付き合いであった。
共通の知り合いの女性を通じて、わたしがやっていることを知り、そういうことに興味があったと言うのだ。
そして、今までにそんな話をしたことが無かったので驚いているようであった。

2014年6月11日水曜日

追憶 641

わたしがKに対して行えることは、天使の出現であった。
きっと、そのためにわたしたちはここに集ったのである。
その後はいつものように他愛もない世間話をして、次の約束をすることもなく別れた。
わたしたちは仲が悪くなった訳では無いと思うが、今回の出来事によって交わる機会が減っていった。

学びが無ければ人は共に歩むことにはならない。
わたしたちの人間関係というものは、学びによって構築されているのである。
どのような人との出会いも別れも、すべてが学びによるものなのだ。
わたしたちは何の意味も無く出会うのではない。
そして、何の意味も無く別れるのではないのだ。
わたしたちは成長するために出会い、成長するために別れるのである。
そこには幸福と豊かな人生への扉(可能性)が存在している。
だから、わたしたちは出会い、そして別れるのである。

2014年6月10日火曜日

追憶 640

それ故にわたしは残念でならなかった。
わたしはKに天使や「神々」のことを話した。
わたしの話をKが受け入れるとか、信じるとか、そんなことはどうでも良い。
わたしは自分自身がしなければならない仕事をするだけである。
わたしが話すことを受け入れるも受け入れないも、すべては本人の自由なのだ。
Kの心の中には、自分自身の常識を超えた力に対する恐怖が根を張っていた。
この時点において、Kはこの力を拒絶したのである。
正直にKがわたしに怖いと言った時から、わたしはKとの間に見えない壁のようなものを感じるようになった。
Kがわたしを拒絶していたのかは分からないが、わたしたちは人生の方向性について天界によって選別されたのである。
人は自身の学びに従って生きる。
今回のことで、わたしとKの学びには決定的な違いが生じた。
ならば、わたしたちは一緒に歩むことが出来ないのである。

2014年6月9日月曜日

追憶 639

願望としては、Kに自らの持つ力をより良いことのために使って欲しかった。
Kの身体が自らの意思に反して動くという体験は、そのための可能性の提示であったように思える。
Kには霊は見えているが「神々」は見えていなかった。
物心付いた頃から霊を見てきたが、それ以上の存在を見ることは無かったのである。
Kの場合は、現時点においては自らの霊的な力を自らの楽しみのためだけに使っている状態である。
肝試しの目的で心霊スポットと呼ばれる場所に何度も足を運んでいるということを笑い話として話していた。
わたしたちの持つどのような力も、より良いことのために使うことが求められるだろう。
自らの快楽だけのためではなく、自分自身と他人の両方の快楽を満たし、そこに喜びを導くためであると、わたしはそう思うのだ。

2014年6月8日日曜日

追憶 638

この一言で、現時点においてはKがわたしと同じ方向性を持つことはないと悟った。
わたしは寂しい気持ちがしたが、それがわたしにとってもKにとっても悪いということではない。
寧ろ、良いことであるだろう。
人にはそれぞれに学びがある。
その学びに従って行動を選択し、人生が築かれていくのである。
わたしの選択は意識的な世界の追求であり、霊的な観点からのアプローチである。
Kの選択は実世界の追求であり、人間的な観点からのアプローチだった。
ただ、それだけである。
人はそれぞれの道を認めなければならないし、祝福しなければならない。
それを否定することは誰にもできないのである。
「神様」がそれを許しているのに、たかだか小さな人間であるわたしが、他人の道や学びを否定するのは間違っているのである。

2014年6月7日土曜日

追憶 637

その時、驚きの声を上げてKが倒れた。
遠心力に負けて転がったようである。
そこで、わたしはKの背中から手を離した。
わたしはKが起き上がるのを手伝った。
そして、自分たちが自己を磨き成長しなければならないということ、自分たちが人助けをしなければならないこと、どのような人も霊も状況も敵では無いということ、感謝の気持ちを以て生きなければならないということなど、Kの守護者である天使や大天使ミカエルからの伝言を伝えた。
Kはわたしの話を上の空で聞いているようであった。
糠に釘を刺しているように手応えが無かったのである。
わたしは悲しかったが仕方のないことだと思った。
Kは普通ではないこの状況を怖いと言った。

2014年6月6日金曜日

追憶 636

Kは状況に対して軽く混乱しているのであろう。
動揺が伝わってくる。
わたしには掛けであった。
Kがどちらに転ぶのか、今のわたしには分からないからである。
希望としては、この感覚を受け入れ、共存共栄していって欲しいと思う。
幼い頃から霊が見えていたKならば、きっとその能力を使って苦しんでいる人や霊を助けることもできるのではないかと思うのだ。
今のわたしには人や霊を助けるということはおこがましく思うが、いずれはそういうことがしたいのである。
そして、そうなるために自分なりに努めているのである。
わたしは歩き始めたばかりではあるが、Kには入り口に立って欲しいと願っているのだ。
そして、この状況が正に入り口に立つか立たないかを決めているのではないかと思える。

2014年6月5日木曜日

追憶 635

その場所が光で満たされるのと同時にKの身体が大きく揺れ始めた。
わたしは瞼(まぶた)を上げてその光景を見せられた。
Kはまるでコマのように、全身で大きな円を描くように円運動をしているのである。
その揺れ方がひどく、今にも遠心力に負けて倒れてしまうのではないかと思えるほどであった。
しかしながら、上手くバランスを取るようにして倒れなかった。

「えっ…何これ?」

Kが自分の状態の異常に気が付いて背中越しに問うた。

「何の心配もないよ」

わたしはそれだけを返した。

2014年6月4日水曜日

追憶 634

かざした手は、磁力に引き寄せられるようにしてKの背中に触れた。
すると、Kの背中の奥の黒く何も無い場所にオレンジ色に輝く球体が現れた。
わたしはそれをとても綺麗だと感じた。
それは、硝子玉のようでもあり、太陽のようでもあった。
形容し難いほどに美しい球体がそこに存在しているのである。
球体が輝きを増したのは、わたしの掌(てのひら)から出ている光に呼応してのことであった。
わたしの掌からは金色の光が溢れているが、それがKの中に存在している球体から発せられるオレンジ色の光と交わってとても幻想的である。
金色とオレンジ色に輝く光は徐々に広がりを見せ、やがては黒い場所を光で満たした。

2014年6月3日火曜日

追憶 633

わたしは身体が自分自身の意思に反して揺れるこの感覚を、Kに対して理解させる必要があると感じた。
この感覚に慣れ、いずれは自由に使いこなす必要があると確信するのである。
それが天使の意思であると思えるのだ。
明確な理由はない。
何と無くではあるが、「絶対」にそうだと思えるのである。
わたしはKに瞑想状態を体験させる必要があると感じた。

「これから、何があっても驚かないで欲しい。どうなるのかはわたしにも分からないけど、良いと言うまで目を閉じて座っていてくれ」

Kは一瞬考えるように間をとって返事を返した。
深呼吸をして、わたしはKの背中に手をかざした。

2014年6月2日月曜日

追憶 632

そっと瞼(まぶた)を上げると、そこには何の変哲もないいつもの世界と、見慣れたKの背中があった。
そこでわたしは、自分が体験したことを出来る限り詳しくKに伝えた。
Kは理解することが難しいのか、または驚くことでも無かったかのように何気無い返事をしていた。
わたしは天使に出会えたことに感動し、心の中には抱え切れないほどの喜びが溢れていたので、Kとの温度差に少し寂しいと感じていた。
気を取り直して話を続けていると、Kの身体が微かに揺れているのが見えた。
わたしは瞑想をしている時に身体が自分自身の意思に反して揺れるのを知っている。
天使が身体から出てきたという共通点を持つKにも、わたしと同じ現象が起きているとしても不思議ではなかった。
そこでわたしはまた感動し、更なる喜びを抱えるようになった。


2014年6月1日日曜日

追憶 631

顔を上げると目の前の男は優しい笑顔をわたしに向けた。

「わたしは○○エル。光の使いである。この者(K)を守護し、導く。共にあれ」

男は透き通る声で響き渡るように言った。
(○○エルと表記したのは、天使の名前を忘れてしまったからである)
わたしは感動して心が打ち震えていることに気が付いた。

「ありがとう。よろしくお願いします」

わたしが精一杯の言葉を返すと、天使はまた優しく微笑んだ。

光が消えた。
わたしの眼前に広がっているのは暗闇である。
わたしは感覚的にこれが瞼(まぶた)の裏側であるということを理解した。

2014年5月31日土曜日

追憶 630

彼を見た時、わたしは心が躍動するのを感じた。
天使に会った時にはいつも、恋人に巡り合った時のような高揚感を得るものである。
すぐにわたしは左の腕を胸に当て、右腕は地面と水平になるように真横に伸ばした。
そして、それと同じ要領で反対の動きをした。
昔のヨーロッパの貴族の挨拶を派手にしたような形である。
その後に両腕が胸の前で交差するようにたたまれて、そのままの姿勢でお辞儀をした。
これはきっと、天使の挨拶である。

2014年5月30日金曜日

追憶 629

それは、間違いなく天使の翼である。
わたしは大きな疲労感を得たが、それ以上に喜びが勝っていた。
それは新たな天使に会える予感がしているからである。
すると、頭上に大きな光が現れた。
それは、温かなオレンジ色の光であった。
その中に後光をまとう人影が見える。
わたしは心に更なる喜びが溢れるのを感じた。
後光が人影の頭上集中すると、それは光の輪となってそこにとどまった。
そこには、たくましい肉体の白人男性がいた。

2014年5月29日木曜日

追憶 628

背中に手を差し込むと、指先に当たるものを感じた。
それを引き抜かなければならないと感じ、わたしは力一杯にそれを引いた。
しかしながら、それはびくともしない。
感触は柔らかいのであるが、それは竹の根っこのように頑丈であり、わたしに屈するまいと抵抗をやめなかった。
しかし、わたしはやりたいことは自分なりにとことん突き詰める負けず嫌いな性格なので、それが引き抜けないのは悔しかったのである。
わたしは意地になって引き続けた。
心の中では抜けろと何度も願っていた。
しばらく続けていると、感触に変化が現れた。
今まではびくともしなかったそれが、微かに動いているような手応えを感じるのである。
わたしはこのチャンスを逃すまいと、より一層の力を込めた。
すると、抵抗が緩んだと同時に背中から白い翼が引き抜かれた。

2014年5月28日水曜日

追憶 627

それはオレンジ色の美しい輝きであった。
光の粒が密集し、まるで一つの輪に見える。
宗教画に描かれている天使は、その頭上に光の輪を掲げている。
わたしが見ているのは正にそれであろうと確信する。
感動する暇もなく、次にわたしはKの左右それぞれの肩甲骨の辺りに、左右の手を添えた。
すると、わたしの手の甲がオレンジ色に輝き始め、それは瞼(まぶた)を細めなければならないほどの輝きを放ったのである。
しばらく、自らの手の甲が輝いているのを見ていると、Kの背中に感触がなくなっていることに気が付いた。
そして、わたしの手が音もなく背中に沈んでいくのを見たのである。

2014年5月27日火曜日

追憶 626

自分と同じような状況がKの中にあるのに感動を覚えながらも、わたしは冷静に自分自身のするべきことを疎かにはするまいと考えていた。
わたしには余裕がないのだ。
いつも必死に、必要を受け取ろうとしていたのである。

「導きなさい」

という大天使ミカエルの意思に従うと、わたしはKの頭上で指を弾き始めた。
指が弾かれると、乾いた音によって一粒の光が生まれた。
それは火花のような光であったが、一度生まれた光が消えるということはなかった。
何度も指を弾く。
その度にKの頭上には浮遊している光の粒がその数を増していた。
よくよく見ると、それは一つの輪を形成しているのであった。

2014年5月26日月曜日

追憶 625

Kの背中の中、光が生まれる場所にあったのは鳥の翼であった。
白い翼が圧縮されて収まっているように見える。
卵の中に雛(ひな)がいるなら、多分このような姿であろう。
わたしはこの光景に驚きはしなかった。
それは、大天使ミカエルが自分自身の中にいた時にも同じものを見ているからである。
Kの背中の中に存在しているのは天使で間違いないだろう。
しかし、Kの中に天使がいるのはある種の驚きではあった。

2014年5月25日日曜日

追憶 624

Kの背中から漏れる光に触れると、温かな気持ちと共に、なぜか緊張感が心に溢れている。
わたしは高鳴る胸を気に掛けないように努め、その感覚に従うようにして瞼(まぶた)を閉じた。
視界を絶った世界にもKの背中は存在していた。
暗闇の中にKの背中だけが浮き出ているような光景である。
やはり、それは淡く光を放っていた。
しかしながら、先程と違うところがあった。
それは、背中の中に何かが見えるということである。
背中の中、光がある場所に白い何かが確認できた。
わたしはそれが気になり、目を凝らすように意識を集中した。

2014年5月24日土曜日

追憶 623

光の柱が天に納まると、わたしはKの心から弾き出されるようにして瞼(まぶた)を開いた。
そこにはKの背中があったが、わたしは何とも言えない充実感によってその当たり前の景色を眺めていた。
すると、背中が仄(ほの)かに光を放っているように見えた。
心に向き合うまではこのような輝きは確認できなかったはずである。
わたしがKの心に触れることによって何らかのスイッチが入り、このような状態になったのではないかと推測される。
わたしには、この光が何を意味しているのかは分からなかったが、光を放っているということは良いことなのではないだろうか?
わたしはこの光の正体を確かめたくなって、それに手を伸ばした。

2014年5月23日金曜日

追憶 622

それは、大天使ミカエルの言葉だった。
わたしはその言葉に安堵(あんど)した。
それは、わたしの行ったことが間違いではなかったと理解することができたからである。
その時、光の柱の中からたくさんの声が届いた。
そのすべてが感謝を現すものであった。
わたしは自分が彼らの役に立てたことを確信して感動した。

「導きなさい」

大天使ミカエルの言葉は、わたしにこの人たちを天へと送り届けろというものであった。
わたしが頭上の光を指差すと、光の柱と共に人々が天へと昇っていく。
それは、表現し得ない感情を呼び起こすもので、わたしは自らの魂が震えるのを感じていた。