このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2013年12月31日火曜日

追憶 479

心が静まると、わたしは自分自身よりも大きな意思を感じるような感覚を得る。
それは、大きな力に導かれているような感覚であり、次に何をするべきであるのか?という欲求がどこからともなく自然と沸き起こるのである。
わたしは見えない意思を見つめ、聞こえない声を聞いているのであろう。

Hさんの背中を眺めると、わたしは無性に嬉しくなった。
理由は分からない。
ただ、嬉しいのである。
それは、離れて過ごしていた旧友に久しぶりに会う前のような緊張感と高揚感であった。
高鳴る胸の鼓動は身体を飛び出し、部屋の中を駆け巡るのではないかと思うほどである。


2013年12月30日月曜日

追憶 478

呼びかけに対して進み出たHさんは、わたしの目の前の座布団に背中を向けて腰を下ろした。
小さい背中からは、少しの緊張と未知への楽しみが伝わってくるようである。
その背中を確認したわたしは、ゆっくりと目を閉じた。
そして、できる限りゆっくりと深く息をした。
それは、心を静めるためと、集中力を高めるためである。
その方法が実際に集中力を高める効果があるかは分からないが、自分自身では効果があると感じている。
この世界には、静かな心で見なければ見えないものがたくさんあるのだ。
わたしが見なければならないものは、静かな心によって見えてくるものである。

2013年12月29日日曜日

追憶 477

わたしは心に従って新たな一人を指名した。
彼女のことをHさんとしよう。

「よろしくお願いします」

その声の中には、不安と期待と緊張が見て取れた。
Hさんはとても明るい性格の持ち主である。
わたしのHさんに対する印象の中で最も強烈なのがそれであった。
いつも笑顔で楽しそうにしている、という印象を思い出す。
わたしは自分自身のHさんに対する印象が比較的に良いものであることを楽しんだ。
彼女は所謂、わたしの中では「良い人」であったのだ。

2013年12月28日土曜日

追憶 476

静かに目を閉じて自らの心の中に静寂を探す。
精神が疲労しているため、リラックスすることが難しく感じた。
それでも、わたしは努めて心を静めた。
心を静めていると、精神の疲労が軽減するような感覚がある。
それは、睡眠に至り、休まるような感覚である。
時間にすると一分も経っていないであろうが、わたしは自らの精神が回復するのを感じていた。
疲労感が完全に無くなるという訳ではないが、気にならない程度にはなっていた。
わたしは静寂に至り、穏やかな気持ちになった。

「呼びなさい」

わたしは脳裏に輝く光を見た。

2013年12月27日金曜日

追憶 475

どのような人にとっても、人生には不満や不安を生み出す要因があると思う。
人の心が未熟であるのだからそれは避けられないことであるだろう。
人がそのように捉えてしまうのである。
しかしながら、そのような状況にあって見出された希望は、それが息を吹きかけると消えてしまうような微かな光であれ、大切にしなければならないだろう。
希望は誰にとっても大切なものである。

力を使った後は、いつも疲労感があった。
それは、精神を必要以上に拡張し、普段は使っていない感覚によって状況を捉えているからに違いない。
わたしは重たい身体と精神を感じながら、静かに目を閉じた。
それは、次の仕事の指示を待つためである。

2013年12月26日木曜日

追憶 474

自分自身という内の状態と、状況や環境などの外の状態が改善されれば、どのような人であっても幸福を得ることは確実であるだろう。
内と外の状態が充実して初めて、人は幸福を得るのである。

「もう良いでしょう」

その時、わたしは心の中に響く声を聞いた気がした。
それは、彼女に対する仕事が終わりであるということを告げる大天使ミカエルからの啓示であったように思える。
わたしはその意思に従って、彼女に元の位置に戻ってもらった。
元の位置に戻って座る彼女の表情は、初めに比べて若干明るくなったように思えた。
どこがどうということはないのだが、違うと感じるのである。
それは、希望への兆しであるのかもしれない。


2013年12月25日水曜日

追憶 473

人が誰かや何かに頼ることなく、自分自身によって満足を得ることができたなら、そこに不足(不満や不安)を感じずにいられると考えるのは甘いだろうか?
それが希望的観測であったとしても、そこに希望という可能性が存在しているのであれば、それを掴みたいものである。
人の心が完全に満たされることはないであろうが、自助努力によって不足を軽減するということは可能ではないかと思える。
これから、彼女は日常の不満や不安に対して、その不足を軽減するために努めなければならないだろう。
それは、自分自身の考え方や捉え方を変えることと、行動によって状況や環境を変えていくことである。

2013年12月24日火曜日

追憶 472

人が不満や不安の感情に頼るのは、自らの心に不足を感じているからなのではないだろうか?
幸福を感じている時には、大抵のことは気にならないものである。
わたしや彼女が不満や不安を感じているのは、誰かや何かに原因があるように見えるが、本当の理由はそこにあるだろうか?
結局は、自分の心の不足によって満たされない心を、誰かや何かのせいにして目を逸らしているだけではないのか?
わたしはそのように思うのである。
誰かや何かのせいにしていては、いつまで経っても満足することなどできないであろう。
わたしはこれまでの人生において、誰かや何かに頼ることによって自らの心を見たそうとしてきたが、それが意味の無い虚しい行為であるということに気が付き始めている。
しかしながら、具体策が無い為にわたしは足踏みをしているのである。

2013年12月23日月曜日

追憶 471

人が苦しみを抱えながら生きているのは、その心が繊細であり、微かな揺れにも敏感に反応してしまうからである。
良く気が付く人ほどそのような傾向が強いであろう。
図太い人というのは、鈍感な人なのではないだろうか?
わたしには苦しみを抱える人が悪人だとは思えない。
世間では、悪いことをした人を悪人だと決め付けるところがあるが、わたしはそう思わない。
わたしは幼い頃から人に迷惑をかける「悪いこと」をたくさんしてきたが、そこには悪気や悪意があった訳ではない。
わたしには微塵の悪気も悪意もないため、何故怒られるのかを理解することが難しかったのである。
もちろん、明確な悪意を以て「悪いこと」をする人はいるだろうが、元々が悪人だった訳ではない。
どのような人にも悪意や「悪いこと」を選択するきっかけが存在していたのである。
今になって冷静に分析すれば、わたしが「悪いこと」をしたのは、自らの満たされない心を無意識の内に満たそうとしたり、不満や不安などの恐怖から逃れるための手段だったのではないかと思えるのである。

2013年12月22日日曜日

追憶 470

わたしがしていることは不満や不安という破滅的な感情への反抗である。
現状のわたしには、それらに逆らい、打ち勝つことでしか改善する方法が見付けられなかったのである。
他に良い方法があるはずだが、今できることは不満や不安の感情に対して歯向かうことくらいである。
そして、彼女にもそのようにしてもらうことしかできなかった。
何が良いのかは分からないが、今のわたしには心が穏やかにあることが最善であると思えるのだ。
心が平穏に満たされ、平和な状態であることが幸福に対しては重要であるのではないかと思えるのである。
心が乱れているというのはとても苦しいものだ。
それはどのような人にでも当てはまることなのではないかと思える。
不満や不安の感情はそれをいとも簡単に実現してしまう。
人の心は繊細であると言えるだろう。
人は誰もが繊細な心を所有している。
そのために、様々なことに対して心が乱れるのである。

2013年12月21日土曜日

追憶 469

人は誰もが不満や不安を抱えて生きている。
そして、それが当たり前だという価値観が蔓延している。
多くの人が人生には不満や不安が生じて当たり前だと考えているのである。
誰かのことを悪く言うと、それに共感し、誰かのことを悪く言う。
何かに対する不安を口にすると、それに同調し、不安を煽(あお)る。
ほとんどの人がその考え方が間違っているとは言わない。
ほとんどの人がこの方が良い考え方であると提示しない。
不満や不安に対して共感し同調することが当たり前になっているから、不満や不安は更に大きくなるのである。

2013年12月20日金曜日

追憶 468

自分を変えるのは他人ではない。
どのような人物も、自分を変えることができるのは結局自分自身なのである。
わたしには彼女を変えたいという願望はあっても、それを実現する力はない。
人は誰もが、自分で自分を変えるのである。
彼女がどうするのかは、今後の彼女次第である。
一通りの話を終えると、彼女はわたしに日常の中に潜んでいる不満や不安を教えてくれた。
それは誰かに対する不満であり、現状に対する不安であった。
わたしは彼女の告白に対して、それを理解することができる。
それは、わたしにも同じような状況が多々あるからである。

2013年12月19日木曜日

追憶 467

わたしは彼女に対して、自身の失敗を話した。
それは、わたしの失敗を聞くことによって、自身の選択に客観性を持たせ、それによって違う道を選んでもらいたかったのである。
わたしの失敗談に対して彼女がどのような感想を覚えたのかは分からないが、不満の感情から遠ざかることができれば良い。
今のわたしが彼女に対してできることといえば、彼女の心の中に客観性を持たせることくらいである。
わたしは何とかして彼女を変えたいと考えていたが、後にこの考えは傲慢であったと気が付くのである。
それは、これより何年も後の話である。
今のわたしには彼女を変えたいという考えはあっても、その理想を実現する力はなかった。

2013年12月18日水曜日

追憶 466

自分自身を正当化する状態から抜け出すためには、自分自身の非を認め、反省する必要がある。
自分自身の非を認め、反省するためには広い視野と見識が必要であるだろう。
それが非であると認識することがなければ、反省することもできないのである。
わたしの話を聞いた彼女の中には半信半疑が見て取れた。
その時、わたしは脳裏にこれまでの実体験が思い浮かぶのを見た。
自分自身で思い起こしたのではなく、導かれるようにして浮かんできた思い出は、自身の苦い体験であった。
それは、高校生だった頃のわたしが友人に対して怒りを覚え、そのために苦しんだという記憶である。

2013年12月17日火曜日

追憶 465

わたしの説明に対して、彼女は自分なりの解釈によって納得し、また疑問を持った。
それは良いことである。
わたし自身がそうであるように、人は自分自身を正当化している。
それは、自分自身が可愛く、自分自身を守りたいという気持ちから生じる自己防衛であるが、彼女もそのような状態を所有しているだろう。
人が正しく物事を理解するためには、自らを正当化するという歪んだ見識を捨て去る必要がある。
それを捨て去るまでは、正しい理解は導かれないであろう。
彼女の疑問は、自分自身を見つめ直し、考えるという結果に繋がるはずである。
もちろん、それは希望的観測である。
どうするのかは常に自分次第であるということを忘れてはならないだろう。

2013年12月16日月曜日

追憶 464

体験したことを話している最中、彼女は何度もうなづいていた。
わたしには彼女の背中しか見えないが、何か思い当たる節があるのではないだろうか。
わたしが体験したことはわたしにとっても彼女にとっても抽象的なものである。
それを自分なりの解釈によって理解する必要があるが、それを彼女がどのように理解するかということは、わたしにも分からないことである。
わたしが彼女に伝えなければならないことは、過去と現在における誰かや何かに対する不満の感情を捨て去り、心の中に平和を実現しなければならないということである。
その目的を念頭に置いて話し、彼女からの反応に対して道筋をつけることがわたしの仕事であるだろう。

2013年12月15日日曜日

追憶 463

気が付いた時には、わたしは目覚めていた。
まぶたを開いて彼女の背中を見つめていたのだ。
わたしはいつの間にかに彼女の心の中から抜け出し、自己の現実に戻っていたようである。
意識は鮮明であるが、強い疲労感があった。
思考回路が混線しているのか、または機能していないような感覚である。

わたしが彼女の心の中で体験したものは、彼女が豊かな人生を生きるために必要な情報であるような気がする。
彼女がどのような不満や不安を抱えているのかは分からないし、それらの感情を所有しているのかどうかも分からない。
しかしながら、何の脈絡もなくあのような光景を見たり、あのような感情を抱くだろうか?
そう考えた時に、わたしは彼女に対してできる限り詳細に自分の体験とそこから読み取ったことを伝えるべきだと判断したのである。

2013年12月14日土曜日

追憶 462

人は、自らの心の中に抱えている思考や感情を無意識の内に選択し、実現しようと日々努める生き物である。
しかしながら、多くの人は自らの心の中に抱えている思考や感情がどのような結果をもたらすのかを理解してはいない。
しかも、自分自身を正当化してしまうために、自分自身がどのような思考や感情を抱いているのかも既に曖昧(あいまい)になってしまっている。
自分自身が認識していようがそうでなかろうが、心の中では過去の思考や感情が道を進み続けている。
わたしが彼女の心の中に歩んだ道がそれである。
それを食い止めるためには、本人が過去の思考や感情を自身を正当化する気持ちから解放し、自らを省みることによって改善する必要があるだろう。
自分自身の考え方や価値観を改めることができなければ、心の道のりは変わらないのである。



2013年12月13日金曜日

追憶 461

わたしが歩んでいるこの道は、彼女の心の道のりであるだろう。
辿り着く場所(未来)には、先程の女のように顔を歪めて苦しむ彼女の姿があるに違いない。
女の姿は未来(結果)からの警告であったのだと思える。
彼女が現在、過去、未来にわたって不満や不安などの破滅的な価値観と感情を抱き続けているなら、苦しみによる制裁を受けなければならないのである。
破滅的な感情によって選択された事柄は、どのような理由があろうとも苦しみという結果を導いてしまうのである。
彼女は過去や現在における、誰かや何かに対する不満や不安といった破滅的な価値観や感情を所有し続けている。
そのため、道を引き返すことも、変更することもできない状態にあるのだと推測することができるのである。

2013年12月12日木曜日

追憶 460

わたしは怒りに捕らわれた心が苦しいことを経験上知っている。
どのような理由があろうと関係ない。
その結果として心が怒りの感情に支配されるということが問題なのである。
誰が悪い、何が悪いということではない。
心がどのような状態にあるのか?
重要なのは、ただそれだけである。
わたしは怒りに支配され、その顔面を歪めた女をかわいそうに思った。
きっと、女は休むことなく怒りの感情が引き起こす「あの」苦しみを味わい続けていたのであろう。
想像しただけで血の気が引く。
彼女は、日常の中で誰かや何かに対して不満を感じているのではないだろうか?
もしくは、過去にそのような体験があって、それを依然として引きずっているのではないだろうか?

2013年12月11日水曜日

追憶 459

わたしは女が邪魔だと思い、力一杯に突き飛ばした。
すると、よろめいた女は後方に倒れるようにして闇の中に溶け込んで消えた。
その時、わたしは自我を取り戻した気がした。
我に帰り、自分自身の感覚が麻痺していたことを悟った。
わたしはこの道を進みたくはないのだ。
それがいつの間にかに進まなければならないという強迫観念によって支配されていたのである。
わたしが突き飛ばした女は、彼女の心の一部であったように思える。
女はわたしを食い止めようとしていたのだろうか?
それとも、わたしに理解を求めていたのか?
女の意向は分からなかったが、女に対して同情が生まれたのは事実である。

2013年12月10日火曜日

追憶 458

女は独り言のように「許せない…」と繰り返している。
どうやら、女の眼中にわたしの姿は無いようである。
女の歪んだ心からは執着が感じ取れた。
何かに対しての怒りの感情が溢れている。
女は何か気に食わないことを抱えているのだろう。
わたしはこの時、この女が道を塞いでいては先に進むことはできないと考えていた。
進みたくない道にもかかわらず。
きっと、わたしの感覚は麻痺していたのだと思う。
ずっと進んできた道であるため、それがいつの間にかに習慣となり、無意識の内に心地の好いものになっていたのかもしれない。

2013年12月9日月曜日

追憶 457

それでも進み続けていると、前方に女性だと思われる人の姿をした影が立っているのが見えた。
暗闇の中にある人影なので、それはかろうじて認識することができるような状態である。
しかしながら、わたしは人がいるという状況に対して微かな嬉しさを感じた。
歩みを進めるに従って人影の輪郭が鮮明になってくる。
そして、人影の前に辿り着いた時、わたしは驚愕(きょうがく)した。
そこには怒りの感情を露わにした女が立っていたのである。
女は憎しみを絞り出すかのように歪んだ表情を見せていた。

2013年12月8日日曜日

追憶 456

そのように感じながらも、わたしは道を進んで行く。
それを止めたい感情もあるのだが、突き進んで行こうとする感情の方が大きく、それに逆らうことはできなかった。
このままではいけない。
この道は間違っている。
わたしは悪いことをしている。
そのように考えながらも、足は確実に前進していた。
目の前には真っ暗な空間が見えるだけであった。
それは闇と言うよりはただの黒色である。
全く何も見えない。
ただ黒いのである。
この先は恐い。
この道には希望がない。
わたしは必ず苦しむ。
わたしは必ず恐れる。
わたしは必ず後悔する。
わたしはこの道を進みたくはないのである。

2013年12月7日土曜日

追憶 455

わたしはどこへ向かって歩んでいるのだろう?
わたしはどこに辿り着き、そこで何を得るのか知りたかった。
わたしは惰性的に、何かに急かされるようにして道を進んでいるが、これは自発的な意思ではない。
決して、歩みたくて歩んでいる訳ではなかった。
熱意を以て歩み始めたは良いが、今ではそこに熱意が感じられないような感覚がある。
この時、わたしは景気の良い時代に建設された山中の廃ホテルを思い出していた。
それは、経済の勢いによって建設されたが、計画性が無い為に経営が成り立たなかったことを彷彿(ほうふつ)とさせる。
実際にはその他の様々な理由があると思うのだが、単純に考えるとそのような推測が生じるのである。
わたしが進んでいる道は、山中の廃ホテルのように滅亡へと向かう道であるような気がしてならないのである。



2013年12月6日金曜日

追憶 454

怒りの感情が込み上げてくる。
わたしはそれをどうしても抑えることができなかった。
気に食わないものは気に食わない。
許せないものは許せない。
嫌なものは嫌。
心の中には否定的な考えが渦巻いているのだった。
わたしはとても不愉快な気分によってその道を進んだ。
こんな道を進みたくはないが、意志に反して足は勝手に歩を進める。
進む程に怒りが深まり、不愉快な気分も増した。
しかしながら、後戻りもできなければ、別の道も見えない。
わたしには進み続ける以外に方法はなさそうだった。
立ち止まろうとすると何かがわたしを急かすので、立ち止まって考える時間もなかった。

2013年12月5日木曜日

追憶 453

目の前には黒くて粘り気のある気体のようであり、液体のようなものが浮いている。
これは、彼女の心の中に存在している破滅的な意識、即ちこれまでに抱えた悩みなどの苦しみの感情である。
目の前に存在している破滅的な意識が、どのようなことを意味し、どのようなことを伝えるのかは、それに触れてからのことである。
わたしは何気無く、目の前に浮遊している破滅的な意識に対して手を伸ばした。
すると、車酔いのような感覚が迫り、目眩(めまい)と吐き気に強襲された。
わたしはとても不愉快な気分になった。
それは一瞬のことである。
わたしの感情は一気に乱れ、そして崩れた。

2013年12月4日水曜日

追憶 452

わたしには目の前の光景をただ見守ることしかできなかった。
しかし、それで良いのである。
それは、いつの時にもわたしには分からないことがそこでは行われているからである。
わたしが認識しようがするまいが、そんなことはどうでも良いことなのだろう。
未熟なわたしに合わせているのであれば、成すべきことも成されないのだ。
わたしは素直に受け取れば良いだろう。
余計な抵抗は必要ないのである。

天使の文字が彼女の背中の中に消えると、わたしの中に新たな認識が生じていることに気が付いた。
それは彼女の心の中に存在している苦しみであった。
わたしは彼女の心の中に存在している苦しみの場所に対して、今までの方法よりも簡単に、より素早く辿り着いていたのである。

2013年12月3日火曜日

追憶 451

それは何かを意味した文章であるに違いないが、わたしにはそれが何を意味しているのかを理解することはできなかった。
なんせそれは初めて目にする形状の文字だったのである。
わたしにはその文字が持つ意味を理解することはできなかったが、それが天使のものであるということは何となく感じていた。
根拠な無いが、この光る文章が大天使ミカエルの力であるだろうと推測することができるのである。
四角の枠によって囲われた天使の文字に触れようと手を伸ばすと、次の瞬間にそれは溶け込むようにして背中の中に消えてしまった。

2013年12月2日月曜日

追憶 450

わたしは、わたしを導く大きな感覚に従って三人の中から一人を呼んだ。
部屋の中央、わたしの目の前の座布団にわたしに対して背中を向けて座ってもらった。
彼女の背中からは微かな緊張が伝わってきた。
わたしは彼女にリラックスするように伝え、静かに目を閉じた。
大きな意思に導かれるようにして、わたしは彼女の背中に手を伸ばした。
すると、右手は人差し指と中指を伸ばし、彼女の背中を滑らかに走った。
それは、筆記体によって文章を綴(つづ)るようである。
三行の文章が描かれると、わたしはそれを直線によって囲った。
すると、その文字のようなものは金色の光を放って輝いた。

2013年12月1日日曜日

追憶 449

今のわたしにはそれで良かったのかもしれない。
わたしは暗闇の中に一筋の光を見た気がした。
その光はわたしの思考を紡ぎ、心を定めさせた。
わたしは自分自身のやるべきことを抽象的であるにしても理解したのだ。
これは不思議な感覚である。
自分自身よりも大きな意思によって導かれるような感覚なのである。
誰かに大切なことを教えてもらっているようで、そこには安心感や勇気という力が存在しているのであった。
わたしはこれを大天使ミカエルや白龍神やハクとコンなどの、わたしを手助けしてくれている意識的な存在の協力であると感じる。
そのような存在が手助けしてくれるおかげで、わたしは自分自身以上の力を引き出したり、扱うことができるのである。

2013年11月30日土曜日

追憶 448

わたしが向き合わなければならないものは客人である三人の心ではあるが、このような状況で自分自身の心と向き合わなければならなくなるとは思いもよらなかった。
人生には常に、自分自身への学びが存在しているのであろう。
何をするにも自分自身と向き合うことになるのだと、わたしはこの時に悟った。
しかしながら、わたしにはこの場で自分自身のトラウマを解決する術はない。
しかしながら、自分自身の中にそのようなトラウマが存在しているということを理解することはできた。
今のわたしにはそれが精一杯である。
わたしには右を向きながら左を見るという芸当はできなかった。

2013年11月29日金曜日

追憶 447

人は過去に形成された心の状態に従う生き物である。
人は自らの心によって次の選択をするのだ。
心の中に喜びがあれば、喜びを生み出すための選択をする。
心の中に苦しみがあれば、苦しみを生み出すための選択をするのである。
心の中に存在するものは、周囲の人間からの教育によって決められる。
成人した人間は自分自身に対して教育を施しているため自己責任である。
成人した人間が周囲の人間のせいにするのは間違っているが、幼い子どもにはどうすることもできないのである。
成人した人間は、幼い子どもに対しての教育的な責任があるのだ。
わたしが恐れているのは、自分自身に対する教育が不足しているのが最たる原因ではあるが、周囲の成人した人間からの教育的なトラウマというものが影響しているという状況もあるのである。

2013年11月28日木曜日

追憶 446

周囲の大人(教師)がわたしを叱るのは仕方のないことであろう。
(両親は放任的、または、教育的な人物ではなかった)
それが常識であるのならばそうしなければならない。
それに、わたしに対して(深い意味での教育的な観点は持たないにしても)連帯行動の意味を教えていたのだろう。
それは、人が互いに協力して生きる為の知恵である。
しかしながら、幼い頃のわたしにはそれを理解することができなかった。(それは、二十歳を超える頃まで続く)
深い意味を理解することのできないわたしは、ただ叱られることだけをピックアップして理解した。
そのため、何のために叱られているのか理解することができずに、叱られているという恐怖が幼い心の中に根を下ろしてしまったのである。



2013年11月27日水曜日

追憶 445

わたしは目の前の見えない壁に恐れを抱き、それと向き合おうという気持ちを持ちながらも背を向けていた。
自分自身で求めていたにもかかわらず、いつの間にかに消極的な気持ちが芽生え、自分自身に自信が持てなくなっていたのである。
これは、物心ついた頃からの習慣である。

わたしは幼い頃から人とは違う性質を持っていた。
わたしは皆と同じようにすることができなかった。
大人の言い付けを聞いたり、それを守ることもできなかった。
それに、皆のように「いい子」でいることもできなかった。
他人の気持ちを理解することもできなかったし、大人の言う良いことと悪いことも理解することができなかった。
注意が散漫で、状況に関係なく思い付いたことを思い付いた通りに実行していた。
そのため、わたしは同じ子どもや周囲の大人から反感を買っていたことだろう。
わたしはいつも大人(教師)に叱られていたのである。


2013年11月26日火曜日

追憶 444

どのような天分に恵まれていたとしても、人は努力重ねて失敗し、更なる努力と工夫を積み重ねることによって更に失敗していくものであるだろう。
わたしが難しい状況に対して恐怖を感じているのは、失敗することを恐れているからであろう。
失敗することによって、悪い状況が手に入ると信じているからこそ、恐れているのである。
わたしにはこの世界のルールがどのようなものであるのか分からないが、失敗を積み重ねることによってのみ、それを理解していくことができるのであろう。
人が失敗するのは、当たり前のことなのである。
考えてみると、わたしは言葉を話すことも歩くこともできなかったのである。
幾度となく失敗を積み重ね、ようやく少しだけできるようになったのだ。
わたしがしなければならないことは、失敗を恐れずに突き進むことである。
人は完璧ではない。
人は万能ではないのだ。
どのような人も失敗しているのである。
しかもわたしはまだ、この状況に対して失敗すらしていない。
わたしはこれより先に失敗するのである。
まだ実現していないことを恐れているのは愚の骨頂であるだろう。

2013年11月25日月曜日

追憶 443

わたしは今の自分自身にできることを精一杯にやろうと心を定めた。
これはいつも思うことである。
困った時には、現状において自分自身にできることを探し、それを一つ一つ積み重ねていくことしかできないのである。
わたしにはいきなり大きなことはできない。
わたしには小さなことを地道に積み重ねていく以外に方法は無いのである。
天分に恵まれた人を羨ましく思う。
より大きく物事を考え、動かす人が輝いて見える。
どのような天分に恵まれた人であっても、成果を上げている人たちであっても、必死に努力を重ねてそのような立場を手に入れたに違いない。
誰もが失敗し、苦悩したのだろう。
わたしが抱えている問題も質は違うが、誰もが向き合わなければならないものなのだと理解することができる。




2013年11月24日日曜日

追憶 442

もちろん、覚悟が定まっているだけで抱えている問題が解決するということはないが、覚悟が定まっていない者には問題の解決に繋がる糸口さえも見付からないであろう。
覚悟が定まっていない者は、何をやっても中途半端で駄目である。
結果を残す者はいつも、覚悟を以って事に当たるものであろう。
わたしは絶対に結果を残すという強い意思によって自分自身に発破をかけた。
わたしはこの道を進みたいのである。
わたしにはこれ以外に進みたいと強く願う道は無いのである。
これは、20年間という命の道において、自分自身が初めて切望することのできた道なのである。

2013年11月23日土曜日

追憶 441

人は苦しいことに立ち向かわなければならないだろう。
わたしはいつもそう思う。
そう思いながらも、逃げ出していることの方が多いのは、わたしが軟弱であるからであろう。
わたしには覚悟が定まっていないのである。
二十歳を過ぎているというのに、わたしは甘えた餓鬼である。
年齢は関係ないかもしれないが、同じ年齢の人であっても責任感を以って自らの仕事に対して真剣に向き合っている人はごまんといるのである。
それよりも幼い年頃でありながら、必死に生きている人たちもたくさんいるのだ。
死活問題を抱えながら生きている子どもたちもたくさんいる。
わたしの抱えている問題はなんと平和であり、なんと小さなものなのであろうか。
わたしは自らの状況に対して、少しでも弱音を吐いたことを恥じ入った。

2013年11月22日金曜日

追憶 440

人数が増えることによって、意識を集中させ、それを安定させることがこれ程難しいことであろうとは予想していなかった。
考えてみれば、一人の人間の心を見るのにも必死であり、それを満足にこなすことができない状態であるのだから、この状況が難しいということは当たり前なのである。
わたしは自分自身がやりたいこと、やらなければならないと自発的に感じることに対しては責任を強く感じる傾向にある。
わたしは苦しいことは嫌いである。
問題や壁からは逃れたいと思うのだ。
しかしながら、わたしが向き合っているこの状況というものは、わたしが自ら求めている理想なのである。
この状況がどのように難しいものであろうとも、わたしには逃げることができないのである。
ここで逃げるのならば、わたしはまたうだつの上がらない人生を歩まなければならないからである。

2013年11月21日木曜日

追憶 439

これまでは、自分自身の中に静寂を探していた。
そして、その次は母親やMさんといった特定の他人の中にそれを探した。
自分自身の中に静寂を探すのは大変なことであったが、特定の他人の中に静寂を探すことに比べるなら大したことではない。
そして、わたしは多数の他人の中に静寂を探すことに比べるなら、特定の他人の中に静寂を探すことは大したことではないと実感するのであった。
人間が増えれば、その人数に比例して作業は複雑化する。
それは、どのようなことであっても同じであろう。
一つの受信機によって三つの電波を受信しなければならない。
しかも、その中から一つの電波に限定する必要がある。
一つの電波に限定することができても、他の二つの電波を打ち消すことなどできないであろう。
わたしはまるで意識の乱気流の中にいるような気分であった。

2013年11月20日水曜日

追憶 438

わたしには集中力が必要であった。
わたしが意識的な世界を捉えるのには、洗練された集中力が必要だったのである。
視覚で捉えることができないものを捉えることは、とても難しいことである。
見えないものを見るのだ。
決して簡単なことではない。
それも、自らが想像するのではなく、そこにあるものを捉える必要があるだ。
それは、空中を飛び交う電波を見るようなものなのである。
人は想像によって世界を自分自身に都合の良いものに導こうとしてしまう。
それでは、歪んでしまうのだ。
わたしがしたいことは、人を自分に従わせることではない。
目的は寧ろ、独立することであろう。
そのためには、その人にとって必要な学びを導く必要があると思うのである。

わたしは今だに会話を続けている四人に対して集中が必要であることを告げて目を閉じた。
彼女らにも自分なりに集中してもらうことにした。
わたしはいつものように自らの心の中に静寂を探すが、それはとても難しいことであった。

2013年11月19日火曜日

追憶 437

しばらく座っていると、来客を知らせるチャイムが鳴った。
わたしは静寂の中から抜け出して、そろそろと玄関に向かった。
そこには母親と三人の女性がいた。
皆、近所に住んでいる主婦で、わたしもよく知っている人たちである。
彼女らは、楽しそうな笑顔の中にどこか恥ずかしそうな表情を隠していた。
わたしは三人と軽く挨拶を交わして招き入れた。
三人はそれぞれに何かを会話しながらわたしの後に続いた。
それは、これから待っているであろう状況に対する期待と不安を互いに共有し、精神を安定させようとする行動だったのだと思う。
部屋に到着し、わたしは中央に、母親と彼女らは入り口付近に腰を下ろした。

2013年11月18日月曜日

追憶 436

疑問を抱き、それを追求することによってのみ物事は本質へと近付き、何かを付け足すことや間引くことによって向上を実現するのではないだろうか?
それはどのようなことにも言えることであると思える。
ただし、自分自身の見識が未熟であったり、偏っているのであれば向上は実現しないため、注意しなければならないだろう。
わたしは古い習慣や風習を否定しているのではない。
古い習慣や風習は素晴らしい。
続いているのだから、それだけで素晴らしいのである。
古いものをただ否定するだけであるのならば、どこかの国の革命のように、善悪の判断もなく文化を壊してしまうだけである。
大切なのは、その習慣や風習がどのように役に立っているのか?ということであるだろう…
と、いうようなことを考えながら、わたしは部屋で独り静かに座っているのである。


2013年11月17日日曜日

追憶 435

何も考えない純粋で従順な子どもは素敵だと思う。
しかしながら、何も考えない大人は素敵だろうか?
わたしが盆踊りについて考えても、その答えに辿り着くこともないだろうが、自分で何かに疑問を持ち、それを自分で考えることは大切なことであるだろう。
そうでなければ、何のためにそれをしているのか分からないからである。
ただの習慣や風習としてやるのなら、それは飾り付けられただけの内容の無い儀式でしかないであろう。
そこに意味があるのだろうか?というのがわたしの考えである。

2013年11月16日土曜日

追憶 434

それは夏祭りの時期だった。
わたしの住む地域では、毎年地元の住民だけでこじんまりとした盆踊りが催される。
それは出店も出ないような小さな小さなお祭りである。
この時期になると、婦人会の人たちは盆踊りの練習に勤しんでいた。
わたしは消防団に所属していたため、櫓(やぐら)を組み立て、山から切り出してきた竹に短冊や花飾りを飾り付けて準備を整える。
幼い頃のわたしは、毎年訪れる夏祭りに何の考えも持ってはいなかったが、今のわたしは夏祭りの効果について余計なことを考えてしまう。
盆踊りをすると神様は喜ぶのだろうか?
盆踊りの時だけしか自然に感謝しない人間に救いはあるのか?
盆踊りの時であっても自然に対して感謝していない人はたくさんいるだろう…
盆踊りを踊ったくらいで、死者は天国へと向かうのだろうか?
変な疑問が頭をよぎるのである。

2013年11月15日金曜日

追憶 433

ある日、わたしにある依頼が飛び込んできた。
母親が持ち込んだそれは、近所に住む母親の友人を「見る」というものであった。
母親が話したのだと思うが、彼女たちはこういうことに興味があるのだろう。
わたしも人の心や意識というものに対して関心があったし、何かしらの助けになれば良いと思ったので、需要と供給は満たされるのである。
わたしはこの依頼を快く引き受けることにした。
依頼といっても、要はただの実験である。

2013年11月14日木曜日

追憶 432

目の前の問題を解決するためには、それを問題としている原因を突き止めなければならない。
どのような問題にも、それを構成している要素が存在しているはずなのである。
 それを問題として存在させているメカニズムがあるはずなのだ。
それは、人の持つ原因であるかもしれないし、意識的、霊的な外部からの原因であるかもしれないが、そこに問題が存在している以上は、何かの働きがあったに違いないのである。
わたしにはそれを解明することが求められるだろう。
問題に対する理解を深めることによって、わたしはより良い仕事ができるはずなのである。
それから、Mさんと少し話してその日は解散となった。


2013年11月13日水曜日

追憶 431

わたしが破滅的な意識を取り除くことによって、その人が幸福を感じ、それを持続していくのかどうかは分からないが、人が幸福を求める存在であるなら、その目的に至るために思い付く可能性はすべて試してみなければならないと思うのである。
わたしには知らないこと、分からないことが多過ぎる。
20年以上生きてきて、わたしが知り得たものは何も無いに等しかった。
わたしは今更ながら、何も知らないことにショックを受けるのであった。
しかしながら、それと同時にもっと知りたいという願望の芽生えがあったことも事実である。
自分自身が何も知らないという事実を得たことによって、その歪(ひずみ)や不足を補おうとする心の働きが芽生えていた。
これは、人が成長したいという生物の根源的、本能的な欲望による感情であるだろう。

2013年11月12日火曜日

追憶 430

それらを取り除くことによって、人の心は安定する。
わたしの心の中から黒い犬が出た時のように破滅的な意識が取り除かれるなら、人の心は安らぎを得ることができるのである。
不安や不満などが心の中に存在しているとして、どうやって心の安らぎと安定を実現することができるだろう?
残念ながら、人は強くはない。
破滅的な意識を所有していながら幸福に至るのは難しいだろう。
大切なのは、楽しみや喜びなどの建設的な意識を生み出すことと、破滅的な意識を取り除くということだろう。
この二つの方法を用いて、人の心は豊かに存在することができるのである。

2013年11月11日月曜日

追憶 429

遊び半分で意識的な存在と、その問題に向き合うことはできない。
そんなことをすれば、すぐさまこちらの精神が危険にさらされてしまうであろう。
わたしは何をするにしても、そこには確固とした動機(信念)が必要なのではないかと思った。
褒美をもらおうなどという感覚であっては、信念が汚れ、気が緩み、方向性を失って、きっと怪我をしてしまうだろう。
それはどの道でも同じことなのではないだろうか。
何に対しても真剣に取り組むことが大切なのである。

わたしは今回の仕事によって、Mさんの心の中に存在していた破滅的な意識の一部を取り除くことができた。
しかしながら、それは文字通り一部でしかなく、Mさんの心の中にはその他にも様々な破滅的な意識が存在しているだろう。
人の心は広くて深い。
そこにはこれまでの人生で生み出した思考や感情が蓄積している。

2013年11月10日日曜日

追憶 428

人の苦しみを肩代わりし、それを解決する作業というものが仕事であるだろう。
問題を解決することが仕事である。
仕事とは貢献すること、そこに利益や価値を生み出す作業のことである。
苦しみを肩代わりすることもなく、問題を解決することもなければ、それは仕事とは呼べないだろう。
わたしは良い仕事をしたいと考えていた。
仕事とは、必ずしも給金を得て行うことだけではないと思う。
主婦の家事、子どもの勉強、親の子育て・・・
例を上げれば切りがないが、直接的に給金を受け取ることがなくても、人がやっていることはすべてが仕事であると言うことができるであろう。
わたしは意識的な存在と向き合う時に、それを仕事であると考えている。
それは、生半可な気持ちで向き合うことができないからである。
意識的な存在と向き合う時のあの危機感や苦しみを味わえば、誰でも自ずとそのような答えに至るであろう。

2013年11月9日土曜日

追憶 427

感情の共有によって、同じ体験をしたとは言い難い。
それは、所詮他人事であるからである。
しかしながら、それに近い苦しみを体験することによって、そこから導き出される感情を理解することはできるだろう。
他人のことを理解するためには、他人と同じ境遇から導き出される気持ちを所有しなければならない。
そうでなければ、どのような言葉も総じて綺麗事であるだろう。
わたしには自分自身と他人の抱えている意識的な問題を解決したいという願望と目的がある。
他人のそれを解決するためには、疑似体験を通じて、その苦しみを肩代わりする必要があるのだと学んだ。
どのような仕事も、他人の問題や苦しみを肩代わりすることによって成り立っている。


2013年11月8日金曜日

追憶 426

他人の心と向き合うことによって、わたしは他人も自分自身と同じように苦しんでいるのだということを理解したのである。
他人の心の中に入り、それと向き合うことがなければ、わたしは実感としてそれを理解することはなかったであろう。
わたしにとってそれはただの他人事であり、その苦しみにわざわざ触れる必要などないと考えていただろう。
これまでのわたしは実際にそう思っていたし、そうしてきたのである。
実際に体験したことがなければ分からないことはたくさんある。
他人の苦しみを理解するためには、同じ経験をするか、その心の中に入って、苦しみを肩代わりすることであろう。
同じ経験をしたことがない人が何を言おうとも、相手を慰めることはできないのである。
わたしはMさんの心の中に入って、同じ経験をしたのではない。
しかしながら、そこに導かれる感情を共有したのである。

2013年11月7日木曜日

追憶 425

わたしが話し終えると、Mさんは抱えている不安や苦しみについていろいろと聞かせてくれた。
そして、Mさんは疑問に思ったことを質疑し、わたしはそれに出来る範囲で答えた。

幼馴染の母親であり、幼い頃から知っているMさんが苦しみを抱えて生きているということを、わたしは今まで想像したこともなかった。
わたしは子どもだったのだろう。
他人のことも考えられるということが、大人に成るということなのかもしれない。
今までのわたしは自分自身の中には苦しみが存在しているのは当たり前のように理解していたが、自分自身のことで精一杯であり、身近な人も様々な苦しみを抱えながら生きているという考えは浮かんでこなかった。
そして、それをどうにかわたしが解決しようなどという考えには至らなかったのである。

2013年11月6日水曜日

追憶 424

疲労が溜まり、心も肉体も鉛のように重たかった。
心も身体も大いに消耗しているようである。
わたしは体力と精神力の回復のために、少しばかり目を閉じて静寂を探し、その中で心穏やかに過ごした。
体力と精神力が少しだけ回復したのを感じると静寂の中から抜け出し、Mさんの背中に向かってMさんの心の中で見たことや理解したことを話して聞かせた。
わたしには具体的なことは分からなかったが、わたしの経験に対してMさんは静かに頷き続けるのだった。
きっと、何か思い当たる節があって、その理解と反省と対策を思案していたのだろう。
わたしには分からないことがたくさんあり、現時点においては推測が先行してしまう。
しかしながら、今はそれで良いのではないかと思うのである。
それ以上のことはできないし、そのような手段も知らないからである。
それに、わたしが変な価値観を付属するよりは、Mさんが自分自身で考える方が有益であるような気もするのである。

2013年11月5日火曜日

追憶 423

黒い顔が完全に沈黙すると視界がにじんできて、すべてが暗闇に包まれそうであった。
わたしは自らの体力?精神力?に限界を感じていたこともあり、その状況を見守る以外の手段が思い浮かばなかった。
世界が崩壊しつつあったのだ。
徐々に閉ざされていく視界を眺めていると、わたしは自分の仕事が終わったのだと感じた。
暗闇に飲み込まれるようにして埋れていく黒い顔は、少し笑っているように見えた。
その記憶を最後にわたしはMさんの心の中から弾き出された。

懐かしい暗闇が眼前に広がっている。
懐かしい音が届き、懐かしい匂いによって鼻腔(びこう)が満たされる。
わたしは錆び付いた鉄の扉をこじ開けるようにして、重たい瞼(まぶた)を上げた。

2013年11月4日月曜日

追憶 422

わたしは何があっても目の前の状況を受け入れることにした。
その意味や意図が分からなくても、それを認め、そこから学ぶことがこの状況においてわたしにできる唯一のことだったのである。

光の杭に抵抗していた黒い顔も、光の杭が押し込まれて見えなくなると抵抗することもなくなっていた。
命が絶たれるようにして沈黙した黒い顔に対して、わたしは新たに光の杭を作り出してそれを突き刺した。
光の杭を突き刺す度に猛烈な気分の悪さを感じ、わたしはゲップによって黒い煙を吐き出した。
その行為を何度か繰り返していると、気分の悪さに襲われることもなくなり、黒い煙を吐き出すこともなくなった。
それは、傷口から膿をすべて取り出したような爽快な感覚であり、とても心地の好いものであった。
わたしは安心感を覚えていた。

2013年11月3日日曜日

追憶 421

子どもが正しい判断を下すことはできない。
それは、子どもが経験不足の未熟者であるからである。
幼少期の子どもは親の教育に従わなければならない。
それは、子どもが何が正しくて、何が間違っているのかを知らないからである。
子どもは親の命令に従わなければならない。
それは、子どもが自分自身で考え、判断することができないからである。
子どもは我慢しなければならない。
それは、子どもが自力で生きていくことができないからである。
わたしは子どもである。
わたしにとっての親は大天使ミカエルだ。
彼がわたしを導く。
彼の命令を無視することはできない。
それは、わたしには何が正しくて、何が間違っているのかを知らないからである。
また、この状況を正解(豊かさ)に導く力がないからである。

2013年11月2日土曜日

追憶 420

わたしは、今すぐにでも
黒い顔の絶叫から逃れたかった。
とにかく、その音が恐かったのである。
それはわたしの精神を壊してしまうのではないかと感じるほどの嫌悪感であったのだ。
これはわたしの意思ではない。
わたしは黒い顔に光の杭を打ち込もうなどとは考えていない。
しかしながら、わたしはそのように行動している。
これは大天使ミカエルの意思であろう。
大天使ミカエルの言う「正しく導く」ということの答えは、黒い顔を殺すというものであったのだろうか?
徐々に食い込んでいく光の杭を押し込みながら、わたしは状況を整理し切れずにいた。
わたしには何が正解であり、何が不正解であるのか分からなかったのである。

2013年11月1日金曜日

追憶 419

わたしの中で考えがまとまらない間に答えは出た。
わたしは右手を掲げ、人差し指と中指を宙に差し出した。
それは無意識の行動であった。
空中に一筋の線を描くようにして、それを一気に引き下げる。
すると、目の前には黄金に輝く一つの杭が現れる。
わたしはこの金色に輝く杭を「光の杭」と呼んだ。
光の杭を手に取ると、躊躇(ちゅうちょ)なくそれを目の前の黒い顔に突き刺した。
すると、黒い顔は苦痛に歪んだ表情を見せて悲鳴を上げた。

「ぐぐ…ぎゃぁぁぁぁぁぁ」

わたしはこれまでに聞いたことのない音に衝撃を受けた。
断末魔の叫びというのは、このことを言うのだろうか?

2013年10月31日木曜日

追憶 418

この顔(破滅的な価値観)がMさんに対して導くのは、怒りや争いなどの破滅的な意識と、そのような状況であるだろう。
人は幸福を求める生き物である。
残念ながら、この顔が心の中にいるならMさんの幸福の妨げになってしまうはずである。
それは、自らが所有する価値観が、人の選択肢であるからである。

「正しく導きなさい」

その時、わたしは声を聞いた。
聞いたというよりは、感じたという表現の方が近いだろう。
頭か心か、わたしの認識に対して直接的に投げ掛けられる意思である。
それは、大天使ミカエルのものであった。
正しく導くとはどういうことだろう?
どのようにすれば正解なのであろうか?
わたしはそのようなことを考えていた。

2013年10月30日水曜日

追憶 417

人の感情には形はないが、それが寄り集まれば形を成す。
塵(ちり)は目には映らないが、それも大量に積もれば山となるのである。
黒い煙のような破滅的な意識が塵であり、黒い顔のような破滅的な意識が山であると言えるのではないだろうか。
塵を吐き散らすのは簡単なことではあるが、山を動かすのは至難である。
人の行いが習慣となれば改善するのが難しいように、破滅的な意識が積み重なれば難しいのである。

黒い顔を眺めていると、わたしはどうしようもなく切なくなってきた。
ただ寂しく、ただ虚しいのである。
この心(顔)は何を生み出すのだろうか?
残念ながら、この心が良いものを生み出すことはないであろう。
ならば、ここで断ち切るのが道理である。

2013年10月29日火曜日

追憶 416

意識にも種類があるのだろう。
わたしは意識とは自発的な意思を以って存在するものだと思っていたが、Mさんの心の中に存在している黒い顔に自発的な意思を感じることはできなかったのである。
それは風に漂う雲のように、波に運ばれる漂流物のように、それ自体は性質を以って存在してはいるが、命(意思)は持たないようなものであろう。
自発的(能動的)な意識と、受動的な意識とが存在しているのであろう。
Mさんの心の中に存在している黒い顔は、人の形をしているが、それが霊体や魂などではないと思える。
感情が寄せ集まって一つになり、人の形を作っているような感覚なのである。
黒い顔が人の形をしていたのは、それが人の感情より生み出されたものだからであろう。


2013年10月28日月曜日

追憶 415

黒い煙のようなものは、わたしの心の中から溢れてくるようだった。
一緒に内蔵も出ていくのではないかと思うほどの苦しみがそこにはあった。
経験上、これはMさんの心の中に蓄積された破滅的な意識の一部ではないかと推測することができる。
この黒い煙のようなものが、Mさんの心の中に存在し、そこで破滅的な意識を生み出す原因の一部であったのだろう。
もちろん、どう考え、どう思うのかは自分次第である。
黒い煙のようなものは、Mさんの心の中に存在している不安や心配などの破滅的な意識を増長させる役割を担っているのではないだろうか?
それは、黒い煙自体には主体的な意思を感じないからである。
それ自体に意思を持たない意識とでも言うのだろうか?
破滅的な意識ではあるが、それを生み出すことはしないように思えた。

2013年10月27日日曜日

追憶 414

わたしの中に芽生えた思いやりの気持ちが自発的なものであったのか、天使の導きであったのかは分からないが、思いやりに至るという結果はとても心地の好いものであった。
わたしは今まで苦しみに対して争うことしか知らなかったので、この感覚は新鮮であったのだ。
それにとても優れていると感じるのである。
同情と憐れみが入り混じる思いやりの気持ちによって黒い顔に向き合えば、どうにかして助けてやりたいと思うのが自然であるだろう。
その時、わたしは気分の悪さを感じ、胸の奥から込み上げてくるものを認識した。
それは、嘔吐する時のように苦しいものであった。
わたしの喉を目一杯に押し広げて、黒い煙のようなものが体内から飛び出すのである。

2013年10月26日土曜日

追憶 413

わたしの中の嫌悪感や苦しみが思いやりに変わった時、わたしは自分自身の中に新たな感覚が芽生えるのを感じていた。
それは今までよりも強い光のようなもので、破滅的な意識に対してはより有効的な力のように思えた。
この時に、わたしは自分自身の人格がほんの少しではあるが、以前よりも成長したように感じたのである。
わたしは今までよりも多くの光が扱えると感じた。
それは天使の力である。
わたしの中の思いやりが増えるに従って、力が得られるのではないかと推測することができる。
天使の目的は、人や霊を正しく導くことであると思える。
わたしがより強力な天使の力を使うためには、天使の目的に対して協力し、従わなければならないのであろう。

2013年10月25日金曜日

追憶 412

暗闇の中に半分溶け込むように見える女性の顔、それはMさんの顔であった。
それは恐怖に怯えるように歪んだ表情をしていた。
わたしはこの顔がMさんの心の中に存在している苦しみの本質なのではないかと感じた。
わたしが感じていた破滅的な意識の正体は、Mさんの感じている恐怖心なのではないかと思うのである。
今、そこに辿り着いたのだ。
暗闇の中に存在している怯えた表情を浮かべるMさんの顔を見ていると、わたしの中には嫌悪感ではなく、新たに悲しみが溢れてきた。
それは慈悲であるように思える。
わたしは苦しみの先に同情や慈愛を得たのである。
なんだか可哀想で仕方なかった。
それはわたしの中の思いやりの気持ちであった。
わたしはこの恐怖に怯えるMさんの心をどうにかして、この苦しみの状況から引き上げてやりたいと思うのであった。

2013年10月24日木曜日

追憶 411

わたしは心の中にやる気が満ち溢れてくるのを感じていた。
これは、目的意識がわたしにそうさせるのではないかと思えた。
人は自らのやるべきことが見付かり定まれば、自ずとやる気に導かれるのではないかと思う。
ただし、それが根本的に楽しいと思えることであり、自発的に求めているものに限られるのではないかと思われる。
根本的に楽しいと感じることもなく、自発性も無いものには、やる気が出ることはないだろう。
やる気によって満たされたわたしは、根拠のない自信によっても満たされていた。
さしたる理由もないのに、わたしはこの状況を乗り越えることができる。
この仕事を完了することができると信じていたのである。
やる気というものがわたしに自信を持たせたのだろう。
わたしが自信を以てMさんの心を見た時、暗闇の中に女性の顔らしきものが見えた。
その顔らしきものは暗闇に溶けるようにして存在していた。

2013年10月23日水曜日

追憶 410

Mさんの心から溢れる破滅的な意識は決して心地の好いものではなかった。
わたしの本能はそこに不安と恐怖を覚えていたのだから、本来ならそれを受け入れたくもないのである。
しかしながら、わたしには目的があるのだ。
その目的意識がわたしの理性を繋ぎとめていたのである。
もしも、わたしが目的意識を持っていないとしたら、今すぐにでもこの場を去り、二度と戻っては来ないであろう。
目的意識こそが責任感を生む。
今までのわたしであるなら、嫌なことや苦しいことからは逃げ出していたのだ。
それは、責任感の欠如、目的意識の欠落が原因だったのである。
人が責任を果たそうとする時、責任感というものが重要になるが、それは強い目的意識なくして実現し得ないものである。

2013年10月22日火曜日

追憶 409

わたしはMさんの心から溢れてくる破滅的な意識に対して報復してはならなかった。
それは、この危機を解決するためである。
相手が危害を加えてくるのに、それに応戦しないのは弱虫の所業である…
と、今までのわたしは考えていた。
確かに、危機が迫っているのに応戦しないというのは理不尽に感じる。
しかしながら、わたしが言っているのは、危機が迫っているのをただ傍観しているということではない。
危機を解決するための道筋として、破滅的な意識に対しても建設的な意識によって対応するべきであると主張しているのである。

2013年10月21日月曜日

追憶 408

破滅的な意識を解決するためには、それに対して建設的な意識を用いなければならない。
傷付いた心を癒すためには、優しさや思いやりが必要である。
傷付いた心に暴力を用いるのは、傷口に塩を塗るのと同じことなのである。
追い討ちをかけてはならないのだ。
大切なのは、どのような意識に対しても、優しさや思いやりなどの建設的な意識を用いるということであろう。
相手が暴力に訴えるからといって、同じ暴力によって報復するのであれば、暴力が増大するだけなのである。
唐辛子を甘くするためには、砂糖を加えなければならない。
ということである。

2013年10月20日日曜日

追憶 407

暴力によって問題が解決するのであれば、この世界は簡単である。
しかしながら、わたしの経験上、暴力によって問題が解決したことは過去に一度もなかった。
解決したように見えたことも、ただ見た目が良くなっただけで、中身が良くなったことは一度もなかったのである。
暴力によって問題に向き合うと、表面的な部分は整えることができるかもしれないが、そこには必ず遺恨が残る。
暴力によって相手を従えても、それは強制的な服従であり、間違っても自発的な尊敬や従順ではないのである。
それは、樹木の根を残して幹を切り倒すことに似ている。
根が残されているのならば、樹木は枝葉を伸ばすのである。
樹木を絶つためには、根を残してはならないのだ。
破滅的な意識(苦しみ)に対して、破滅的な意識(暴力)を向けるのは間違いである。
それは、樹木に水と肥料を与えるようなものなのである。

2013年10月19日土曜日

追憶 406

改めてMさんの心に対して向き合ってみる。
わたしは嫌悪感や恐怖によっていつの間にかに忘れていた目的を思い出したのである。
わたしの目的は、Mさんの心が抱えている苦しみを認識し、それを解決することである。
気分が悪くなるのは、破滅的な意識がわたしの心に悪影響をもたらすからである。
破滅的な意識によって気分が害されるなら、わたしは自らの小さな力でさえ十分には引き出せないのである。
わたしはMさんの心から送られてくる破滅的な意識をどのようにすれば解決することができるだろうと考えた。
それはある意味で直感的なひらめきであったのかもしれない。
その時のわたしは、破滅的な意識に対して優しくしようと思ったのである。
そして、実際にそうしてみた。
嫌悪感や恐怖などの苦しみに対して、否定的、拒絶的な感情は出来る限り抱かないように努めた。
わたしは理性によって、破滅的な意識を制しようとしたのである。

2013年10月18日金曜日

追憶 405

同じことを繰り返していては進歩がないのは当たり前のことである。
人が進歩するためには、習慣に捉われずに新たな可能性を見出して進まなければならないのだ。
可能性とは、より良くなる方法である。
わたしは苦しみから逃れるという従来の習慣を所有しているが、それに対していつまでも従っているのであれば、可能性が広がりを見せることはないであろう。
従来のままでは何も変わりはしない。
ましてや、良くなることなど有り得ない。
寧ろ、悪くなる一方ではないだろうか?
習慣を断ち切ることは決して簡単なことではない。
今までのやり方の方が道筋ができている分簡単であり、気楽である。
しかしながら、そのままでは道幅は狭まってしまう。
簡単や気楽という安心を守っているのであれば、その先は無いのだ。
安心の中にいるということは、却(かえ)って苦しむのだということを知らなければならないだろう。

2013年10月17日木曜日

追憶 404

その時、大天使ミカエルがわたしに告げた。

「心を静めて良く見なさい」

わたしの脳内?もしくは心?に届くその意思は、とても力強く頼もしいものであった。
わたしは落ち着きを取り戻し、もう一度丁寧にMさんの心に対して向き合うことにした。

人が苦しみに会った時には、大抵がそれから目を背ける。
どのような人も、自らが苦しいと感じるものに対しては、それを直視したいとは思わないであろう。
わたしもこれまでそうして来たし、Mさんの心に触れている今も、その苦しみから目を背け、そこから逃げ出そうとしていたのである。
わたしには、Mさんの心が抱えている苦しみを取り除くことはできないかもしれないが、それは、やってみなければ分からないことなのである。
大天使ミカエルの一声がなければ、わたしは逃げ出していたかもしれない。

2013年10月16日水曜日

追憶 403

天使文字が見えなくなると、わたしは急激に気分が悪くなるのを感じ、吐き気を催した。
Mさんの中から黒く重たくて気持ちの悪いものが流れ込んでくるようである。
それは破滅的な意識であった。
何となくではあるが、それは肉体的な不安(不健康)、そして、生活や仕事など、人生における様々なものに対する不安と恐怖を感じさせた。
Mさんは様々なものに対して、不安と恐怖を感じているのではないだろうか?
その意識に触れていると、わたしはどうしようもなく辛くなる。
心が重たくなり、暗い海の底へと引き込まれるような感覚を覚える。
心が鬱々(うつうつ)としてくる。
とても苦しかった。
わたしはこれに触れていてはいけない。
ここにいてはならないと強く感じた。
とても耐えられない。
わたしには既に限界だったのである。
しかしながら、どのようにすればこの破滅的な意識から逃れることができるのであろう?
周囲を探しても出口は見当たらない。
しかしながら、何かしらの良い方法があるはずである。
わたしは精一杯に思いを巡らせた。


2013年10月15日火曜日

追憶 402

わたしは直感的にそれが天使の使う文字なのではないかと思った。
その理由は、文字自体が熱した鉄のように金色の光を放っていたからである。
まるで映画を観ているようであった。
わたしはMさんの背中に三行の天使文字と思われる文字を書いたが、その意味は全く理解することができない。
それよりも、この天使文字を書いた理由さえも分からないのである。
わたしの中には天使文字を見た感動と、その理由を探す困惑とが入り混じっていた。
それは、母親の時にはこのようなことはなかったからである。
わたしには初めてのことであった。
天使文字を眺めていると、わたしはそれを直線によって囲んだ。
長方形によって囲まれた天使文字は、更なる光を放って輝いた。
わたしの両手がそれに触れようとすると、吸い込まれるようにしてMさんの背中に溶け込んでいってしまった。

2013年10月14日月曜日

追憶 401

ゆっくりと目を閉じて心を静めると、そこに意思が届く。
届くと表現したのは、その意思が自己によって生み出したものではないからである。
わたしの持つ目的に対して無意識の内に欲求が生み出され、わたしはそれにただ従うだけである。
恋人と接する時に、考えなくても様々な欲求が生じ、その髪に触れるのと同じような感覚である。
それはとても自然であり、とても甘美なものであった。
わたしの中に生じた欲求は、Mさんの背中に触れるというものであった。
わたしがその欲求に従って手を伸ばすと、人差し指と中指によって背中に何かの文字のようなものを書き始めた。
指がなぞる文字に見覚えはない。
それは筆記体のローマ字に似ていた。
しかしながら、英語ではないようである。

2013年10月13日日曜日

追憶 400

部屋の中心に座布団を敷き、Mさんに座ってもらう。
わたしはMさんの背後に座り、その小さな背中と向き合う。
わたしたちから少し離れて、母親は腰を下ろした。
わたしは短く息を吐き出し、気持ちを切り替える。
母親の心の中で体験したように苦しみに出会うかもしれない。
そう考えると、どうしても気合いを入れておかなければならなかったのである。
わたしはMさんにリラックスして座るように伝えた。
それは、自分自身への言葉だったのかもしれない。
わたしは気合いと緊張感が生み出す力みを取り除くように、今度は長くゆっくりと息を吐き出した。
そして、わたしは目を閉じて自分自身の心が整うのを待つ。
それは、心が静寂に至る時に、自分自身がどうするべきなのかを理解することができるからである。
それは心の閃(ひらめ)き、意識的な存在からの導き…
何と言うべきか分からないが、そうすることによって自分自身の力以上のものが扱えるのである。

2013年10月12日土曜日

追憶 399

約束した日にMさんはやって来た。
Mさんはどこか恥ずかしそうにしていた。
わたしにはその意味が分からなかったが、彼女はわたしに心の中を覗かれ、自分という存在が知れてしまうのが照れ臭かったのかもしれない。
わたしは事前にMさんに対して、今のわたしができることを告げていた。
それは即ち、自分自身が何ができるのか分からないということであった。
Mさんに施すことが試験的な実験に過ぎないこと。
結果がどうなるか分からないというようなことである。
わたしは楽しみであったし、緊張もしていた。
わたしの力に興味があった母親も同席して、わたしはMさんの心に向かう実験を始めた。

2013年10月11日金曜日

追憶 398

ある日、母親が相談事を持ち込んだ。
それは、母親の友人であるMさんのことを見て欲しいという依頼だった。
話を聞いた時に、わたしは喜んだ。
それは、他人の心に触れるチャンスであると感じたからである。
しかし、わたしは考えた。
Mさんのことは幼い頃から知っている。
Mさんの娘とわたしは幼馴染であり、家族ぐるみでお世話になっている親しい間柄であった。
いくら親しい間柄だからといって、Mさんに対して適当なことは言えないし、中途半端で役にも立たないようなことになってもいけない。
わたしはそのように考えていた。
しかしながら、Mさんはわたしの力を求めてくれている。
今のわたしにも、何かしらのできることがあるかもしれない。
結果がどうなるのかはわからないが、今のわたしでできることをしなければ、その先の可能性は存在しないだろう。
そう結論付けて、わたしはMさんからの依頼を引き受けることにした。

2013年10月10日木曜日

追憶 397

わたしは思い付く限り、霊的、意識的な力を高める方法を探した。
そのために、辿り着ける範囲の心の中を虱潰(しらみつぶ)しに探したし、苦手ではあるがヒントになりそうな本を読んだりもした。
 しかしながら、残念なことにわたしが思い付く方法によって霊的、意識的な力が高まるかどうかは分からない。
分からないからこそ、今のわたしは暗闇の中に見えたものは何でも掴まなければならなかったし、試してみなければならなかったのである。
わたしは仕事の合間を縫うようにして、毎日の習慣の中に、瞑想、寝る時の金縛り(になるために願う行為(笑))、母親の意識に触れる(これは毎日ではない)ということをしていた。
今のわたしにはそのような方法しか思い付かないし、そのくらいのことしかできないのであった。
しかし、今思い付くことがより上手くできるようになれば、あるいは違う方法が見えてくるかもしれないのである。

2013年10月9日水曜日

追憶 396

わたしが霊的、意識的な力を身に付けるためにはどうすれば良いだろうか?
わたしはどのような力も経験値だと思っている。
誰よりも経験を重ねることができたのなら、誰よりも上手く、誰よりも強くなることができるだろうと本気で考えているのである。
人間などというものはそうも変わるものではないだろう。
身体的な特徴などは、そうも違いがある訳ではない。
自らを凡人だと思っていたわたしには、人と比べてずば抜けた身体的な特徴がある訳でもない。
一種の天才でもなければ、特別な才能もない。
周囲を見渡しても、そのように思える。
アインシュタインのように、脳が一般の人に比べて大きな作りであるのならば経験値以外の力によっても違いが現れるだろう。
しかしながら、わたしがそのような特別な人間であるとは到底思えない。
寧ろ、劣っていると思いながら生きてきた。
しかし、普通の人間ができることなら、経験値を積み重ねることによって、わたしにもできるという可能性があるという考えがあった。
もちろん、そのためには必要な経験値を所有することが前提ではあるが。
経験値さえ所有することができれば、わたしが思い付くくらいのことは、何だってできるのではないかと思うのである。
スペースシャトルを作った人たちであっても、経験値を積み重ねたからこそ、そのような偉業を成せるのである。
自分が実現したいと思う事柄について、誰よりも考え、誰よりも感じ、誰よりも探し、誰よりも行い、誰よりも触れ、誰よりも生み出すのであれば、誰よりも上手く、誰よりも強く、それを実現させることができるであろう。

2013年10月8日火曜日

追憶 395

わたしは自分のことを、巣立ちすることができない鳥の雛のように感じていた。
わたしには翼(可能性)が生えているが、それはとても貧弱であり、自らの身体を支えることもできなければ、大空を自由に飛び回ることも叶わないのである。
わたしは小さな巣の中で羽ばたかずに一生を終えたくはなかった。
鳥が鳥として大空を行き、自然界に貢献するように、わたしは「わたし」として社会や自らの人生に対して貢献したかったのである。
それを実現するためには力が必要である。
翼という力持たなければ、鳥は鳥として大空を行くことはできないのだ。
わたしが生きたいと願う道にとっては、霊的、意識的な力は必要不可欠である。
わたしにとっての翼(可能性)とは、霊的、意識的な力なのである。

2013年10月7日月曜日

追憶 394

わたしのやりたいことというのは、意識的(霊的)な力を使って、苦しんでいる人の心や霊体や神を救いたいということであった。
今の生活を言われるがままに続けても、わたしが自分の人生を生きることのできる可能性は低いだろう。
はっきり言えば、無理なのである。
ある日突然、幸運によって人生が変わる。
奇跡的に心が満たされる。
そのようなことは決してないと断言しておこう。
幸運や奇跡にすがったとしても、状況が良くなることなど有り得ないのである。
宗教(仏教を含む)という名の会ったこともない神様という偶像を信じ込む熱心な信者を何人か知っているが、わたしはその人たちのようには成りたくはなかった。
信じているだけで神様が救ってくれる…
信じていれば奇跡が起きる…
そのような話には懐疑的であるし、根拠の無いものを信用することもできないのである。
夢を持たない頃のわたしであれば、ただ仕事があり、ただ稼ぎがあれば良いなどと無気力に考えていたし、根拠の無いものにすがり付きもしただろうが、今のわたしはそのようには考えられなかった。
自分自身は何のために、何の仕事をし、何を得る(実現する)のか?
わたしの心の深くに芽生えたこの疑問を納得させることができなければ、わたしが幸福を得ることなどできないのである。
今のわたしは自分自身の人生やその生き方に対して疑問と不満を抱えているのである。


2013年10月6日日曜日

追憶 393

わたしが求めている報酬とは、お金のことだけではない。
わたしは人生の豊かさを求めていたのである。
それは、生き甲斐であるのかもしれない。
それは、自由であるかもしれない。
それは、本当の意味での満足であるかもしれない。
わたしが人生で求めているものを得られないというのは、わたしの人生の失敗を意味しているだろう。
わたしは、自分の人生が失敗することに恐れを抱いていた。
何が成功なのかと聞かれたら、わたしは「自分自身の人生を生きる」ことだと思っている。
自分が一番やりたいことを思う存分にやれることこそが、人生の成功だと考えるのである。
わたしには自分が一番やりたいことを思う存分にやれない人生が成功だとは思えないのだ。
これから、わたしがしなければならないのは、自分自身の一番やりたいことを思う存分にやるための準備である。
わたしには自分自身の人生を生きる権利があるのである。




2013年10月5日土曜日

追憶 392

わたしの日常は忙しく過ぎていった。
ほぼ毎日、朝の2時から漁に出ていたし、昼間は養殖業に精を出し、夕方には漁の準備をした。
帰宅するのは大抵19時を回っていた。
遅くても22時には就寝しなければ身がもたなかった。
わたしには自由に使うことのできる時間が無かったのである。
勤労なのは良いことではあるが、働くばかりではわたしの心が充足を感じることはなかった。
これは、祖父が築き、父親が守ると決めた道である。
わたしが築き、守ろうとする道ではなかった。
わたしは現状に対して不満を抱えていた。
それは、わたしには自分自身が何のために生きているのか?という疑問があったからである。
ただ、目の前の仕事をこなしてお金を稼ぐことが生きるということなのだろうか?
忙しく過ぎていく日々を眺めながら、わたしはいつもそのように考えていた。
わたしが必死に働いたところで、得られる収入はしれていた。
我慢したり、寝る間を惜しんだり、苦悩して働くのであれば、それに相応する報酬を得なければならない…
というのがわたしの考えである。


2013年10月4日金曜日

追憶 391

瞑想することによって、わたしは今までに見ることのできなかった世界を見るようになった。
自らの心の深くに向かうことによって、わたしは今まで知らなかった(忘れていた)自分自身の一面を知った。
わたしにとって、意識の領域は未知の世界だったのである。
大天使ミカエルはわたしのことを手助けしてくれるが、彼がどこにいて、どのような条件によって手助けしてくれるのか?
彼がわたしに求めているもの、彼の目的などは分からないままなのである。
それは、彼がわたしに対して何も求めてはこないからである。
彼がわたしの意思や理想を実現させるために手助けするのであれば、わたしは自分自身の思うように努めなければならないだろう。
わたしが求めているのは、霊的な力の向上と人格の向上、そして、生きる道である。
それらを実現するように努めれば良いのであろうか?
何が正解なのかは分からないが、わたしは自分にできることを少しでも良くしなければならないと感じていた。
わたしが成長することによって、大天使ミカエルともより親密なコンタクトがとれるようになるのではないかと考えるのである。





2013年10月3日木曜日

追憶 390

わたしはとにかく、経験を積む必要があった。
意識的な存在とどのように対峙するべきであるか?ということは、誰もわたしに教えてくれないのである。
霊感や天使の力の使い方をわたしに教えてくれる人は、少なからずわたしの周りにはいなかったのである。
わたしはそれを自力によって得なければならなかった。
その道は険しいものであるだろうが、わたしは人から何かを教わるのが好きではなかったので、成功すれば有意義なものになると考えていた。
それから、わたしは毎日時間を見付けては瞑想した。
それは、自分自身の心をコントロールすることが、意識的な力を扱うためには最低限の必要だと考えたからである。
わたしは瞑想こそが自らの心をコントロールする方法だと思っていたのであった。
現状の力を満足に扱うこともできない状態では、その先の段階へは進んでいくことはできないであろう。
そう考えたわたしは、仕事や生活に追われながらも、瞑想を欠かすことはなかった。
瞑想によって、わたしは大天使ミカエルに会いたかったのである。

2013年10月2日水曜日

追憶 389

わたしが自らの人生を自らの力(意思)によって築いていくためには、ある種の疑心が必要なのである。
人々が当たり前と呼んでいる常識を疑い、人としての生き方を疑い、自分自身という存在を疑い、他人を疑い、自らに関わるすべての真偽を自分自身の意思によって確かめなければならないのである。
わたしはそのために、知識と経験を追い求める必要があるだろう。
破滅的な意識を所有し、苦しんでいるネガティブな存在との対峙は大変な苦労を有する。
キャンプ場の女であれ、母親の心の中の人影であれ、その他の破滅的な存在と対峙する時、わたしは自らの命が消耗するような感覚を得る。
しかしながら、それが悪いことであるとは思わない。
寧ろ、それが喜びとして感じられるのである。
それは、わたしが自らの人生において、唯一生きているという魂からの実感だったのである。
破滅的な意識を所有する存在に向き合うことが、今のわたしに対して未知の知識と経験を与えてくれる方法なのである。

2013年10月1日火曜日

追憶 388

この体験は、わたしに人生というものを考えさせた。
当たり前を当たり前として素直に飲み込むような従順な人間ならば、わたしは人生というものについて改めて考えることもなかったであろう。
常識を疑問として感じる自らの本心に従うことがなければ、わたしは自分自身の人生を生きようとはせず、ただ流れに沿うようにして生かされるだけであろう。
これまでのわたしの人生というものは、流れに任せて生かされているだけであったと思う。
流れに沿うように生きてはいるが、流れを生み出そうとはしていなかったのである。
わたしが生み出すことのできる流れというものは小さなものであるかも知れない。
しかしながら、それが小さな流れであっても、自分自身の力でそれを生み出すことができるのは素敵なことだと思うのである。
それこそ、自分自身の人生を、自分自身の力で生きるということなのではないかと思うのである。
わたしは生かされるために生きているのではない。
わたしは生きるために生きているのである。

2013年9月30日月曜日

追憶 387

苦しいことは苦しいと、嫌なものは嫌だと、敵は敵だとわたしに教えたのは周りの大人たちである。
残念ながら、周りの大人たちがわたしに本当のことを教えることはなかった。
大人たちはそれが真実であると思っていたかも知れないが、わたしにとっては真実ではなかったのである。
苦しいことは苦しみではない。
嫌なことは嫌なことではない。
敵は敵ではなかったのだ。
もしも、わたしが母親の心の中に存在していた人影と直接向き合うことがなかったら、わたしは正義感という偏見によって敵対していたに違いない。
戦隊ヒーローのように、敵を打ちのめしていたかも知れない。
人影の抱えていた怒りや悲しみなどの苦しみを共に支えることもなかったであろう。
正義感によって人影と対立し、互いに更なる傷を負ったに違いないのである。

2013年9月29日日曜日

追憶 386

わたしはこれまで、周りの大人たちの用意する常識を飲み込む以外に方法がなかった。
出された料理がどんなに口に合わなくても、それ以外に食べるものがなかったのである。
わたしは何も知らない子どもであった。
わたしは出される料理がわたしを生かすものだと信じ込んでいた。
今でも未熟であり、何も知らないことには変わりないが、しかしながら、わたしは周りの大人たちがわたしに押し付けてきた常識を判断しようと考え始めたのだ。
わたしは自分自身の経験から、それを自分自身で考え、自分自身で判断したいのである。
わたしはこれまでに多くの偏見を教わり、多くの偏見を生み出してきた。
その結果、わたしの心は乱れ、悪事を働いていたように思える。
自分自身の行いを人のせいにするつもりはない。
わたしがやったことは、わたしの責任である。
しかしながら、大人たちが子どものわたしを作り上げたのも事実であると思えるのである。
大人たち(特に親)が責任を以て子どもを導かなければならないと、わたしは自分自身の経験から学んだのである。

2013年9月28日土曜日

追憶 385

多くの人の中に存在している常識はある種の偏見の塊である。
それは、人に歪んだ正義感を植え付けてしまい、その本質を見極める正しい心を育むことはない。
正義を守るために悪を痛め付けるのである。
悪を痛め付けることが正義なのか?と疑問を抱くのは、わたしが少しはまともになったからだろう。
幼い頃のわたしは、戦隊ヒーローに憧れていた。
しかしながら、今のわたしは戦隊ヒーローが卑怯者にさえ思える。
悪役の目的は世界征服?にあり、戦隊ヒーローはそれを阻止しようとしている。
悪役は手下を従えて戦隊ヒーローと戦うが、戦隊ヒーローが手下を打ち負かしてしまえば、一対五という構図が出来上がる。
悪役が諦めることがないことや、強敵であることを考慮しても、わたしにはそれが心地悪く思えるのである。
この世界は闘いの場所であり、物事の優劣を決めなければならないことは理解しているつもりである。
わたしの考えは甘いのかもしれない。
しかしながら、正義が悪を定め、それを痛め付けることが本当に正しいことなのか?ということを考えずにはいられないのである。

2013年9月27日金曜日

追憶 384

わたしはまだ霊に対する知識も経験も浅い。
そんなことは自覚している。
しかしながら、そんなわたしにでも理解できることはあった。
それは経験から導き出される独自の見解である。
実際に体験しなければ分からないことがたくさんあるものだと、わたしはそう思うのである。
少なからず、テレビ番組に出演していた科学者は霊体験をしたことがないのであろう。
少なからずあの自称霊能者たちは、科学的な見識から霊を捉えてはいないだろう。
どちらも互いを否定しているのだから、きっと経験が浅いのである。
自らが実際に体験することによって理解することができることはたくさん存在するとわたしは思っている。
わたしは、母親の心の中に黒い人影を見て、そこに怒りや悲しみなどの感情を受け取り、その重さを感じたのである。
誰が何と言おうとも、それはわたしが経験の中から得た確実な感覚なのだ。


2013年9月26日木曜日

追憶 383

どのような主義の人であっても、自らの意識を否定することはできない。
自らの意識に対して様々な理由や名称をつけて解釈しようとしているが、それを否定することができる人はいないのである。
一昔前のテレビ番組では、幽霊など存在しないという科学者と、それを肯定しようとする霊能者の討論の様子が放映されていて、わたしもそれを楽しく観たものである。
しかしながら、どの番組のどのような出演者も、幽霊の是非を問うばかりである。
そういう趣旨の番組だから仕方がないのかもしれないが、科学者と呼ばれる人たちも、霊能者と呼ばれる人たちも、自らの意識についての議論には至らない。
霊と人間の心が同じものであるということを知らないのであるだろう。
今になってわたしは、人の意識と霊体が同じものであると理解することができるのである。

2013年9月25日水曜日

追憶 382

気分は最高に優れていた。
しかしながら、体力は著しく消耗しているようであった。
わたしは母親の心の中で体験したことを説明する余裕もなく、意識を失っていた。
わたしは眠ってしまったようである。

悩みが解決する時、人は心が軽くなる。
それは、悩みという破滅的な意識が重たいからである。
目には映らないからといって、意識が質量を持たないと決め付けてはならないだろう。
意識に数値としての重量はないかもしれないが、人はそこに重さを感じてしまう。
「気が重たい」や「気分が沈む」などという言葉に対して、あなたは何の疑問も持たずに共感し、納得することができるだろう。
頭では認めることができなくても、心では分かっているのである。
霊を信じない人は、どうやって自らの心を証明するのであろう?
思考や感情、意識をどのように理解するのだろうか?

2013年9月24日火曜日

追憶 381

わたしは、瞼(まぶた)の向こう側に淡く光が滲んでいるのを見た。
わたしはいつの間にかにいつもの「わたし」に戻っていた。
淡い光に導かれるようにして、わたしは瞼を上げた。

室内の蛍光灯の明かりがわたしの網膜には刺激的であった。
わたしは一度上げた瞼をすぐさま下ろして、身体の準備が整うのを待った。
しばらくしてゆっくりと瞼を上げると、そこには懐かしい背中と部屋の様子が広がっていた。
そこにはわたしが目を閉じる前と何ら変わらない光景があったが、それがどこか違って感じられた。
どこがどう違うのかと、具体的なことは説明することはできないが、感覚としては少し明るくなったような気がするのである。
気のせいかもしれないが、そう思うのであった。
悩みが解決した時のあの清々しさと言えば分かるかもしれない。
心を塞ぐ厚い雲が取り除かれ、からっと晴れた高い空を眺めるような、そのような心地好さなのである。

2013年9月23日月曜日

追憶 380

良いことをすれば気分が良い。
それが良いことなのか悪いことなのかは、自らの心がその気分によって教えてくれる。
それが常識としては良いことであったとしても、それをした後に気分が良くないのであれば、それが良いことであるとは言えないであろう。
わたしは天から降り注ぐ光と、それに包まれて上昇していく人影を眺めながら、自らの心が非常に満たされているのを感じていた。
それは大好きな人に会った時のような喜びをわたしに導いてくれる状況であった。
わたしはこの状況を素晴らしいと思った。
できる限りこの状況の中で、この心境で在りたいと思うのであった。
光の先に消えていく人影を見送り、わたしは大きな充足感と少しの寂しさを覚えた。

2013年9月22日日曜日

追憶 379

天から降り注ぐ光に照らされた白い人影は、まるで蛍光灯のように自身が発光するように輝いていた。
わたしはその光が美しいと感じて感動を覚えるのであった。
すると、ふと白い人影が重さを失い、わたしの腕を離れようとしているのに気が付いた。
それはまるで風船のように簡単に、わたしの腕を離れて宙に漂った。

「ありがとう」

わたしは、心の中に声を聞いた気がした。
気のせいだったかもしれない。
しかしながら、わたしの心は喜びを感じて嬉しかったのである。
わたしは良いことをしたと思う。
それは身勝手な判断であるのかもしれない。
しかしながら、心が喜んでいるのだから、わたしがしたことはきっと良いことなのである。
今はそう信じたい。
わたしはこれまでの人生で、人に迷惑の掛かる悪いことを散々繰り返してきたから良く分かる。
わたしが人影に対して行ったことは決して悪いことではないと。
それが良いことである可能性が高いことを。

2013年9月21日土曜日

追憶 378

その形容し難い音なのか何なのか分からないものを認識した時に、わたしは上空に光が射すのを見た。
それは、冬の厚い雲の隙間から覗く陽の光のように幻想的で美しいものであった。
降り注ぐ光を見ていると、不思議とその先へと進みたくなるような気分になる。
わたしにとってその光は、とても魅力的に映るのであった。
その先に行けば、すべてが満たされるのではないかと思うのである。
根拠はないが、降り注ぐ光を見ていると期待が膨らみ、心が高揚するのであった。
しかしながら、それよりもここにとどまらなければならないという気持ちの方が強く、わたしは後ろ髪を引かれながらも、無理矢理にその思いを断ち切った。
すると、降り注ぐ光は白い人影を捉えた。
光に照らされた白い人影は、朝日に照らされた朝露のように何の汚れもなく、ただ美しかった。


2013年9月20日金曜日

追憶 377

わたしと白い人影の間に安心感が溢れる。
それは、わたしたちのいる場所をも包み込むのであった。
わたしたちは安心感に包まれていた。
とても穏やかな気分だった。
先程までは、怒りや悲しみなどの破滅的な感情によって心を乱し、苦しんでいたという状況が幻であったかのようにも思える。
嵐の後の青空が、どこか現実味を帯びないように。
このような状況にあっては、わたしたちの心が乱されて苦しむこともないであろう。
心が穏やかに在るというのはこれほどまでに幸福なことなのである。
わたしはこの時ほど、心の平穏が大切であると感じたことはなかった。
その時、わたしは時間が終わりを告げる音のようなものを聞いた気がした。

2013年9月19日木曜日

追憶 376

すると、人影の口の中から黒い煙のようなものが溢れ、それがゆっくりと上昇して消えた。
黒い煙のようなものが消えた後、人影の胸の辺りが輝き出し、やがては全体が眩(まばゆ)い光によって包み込まれた。
光によって包み込まれた人影は真っ白な人の形をしたものになった。
わたしは、それを抱き締めたくて仕方がなかったので、自らの心に従ってそのようにしたのである。
白い人の形をしたものを抱き締めると、何とも言えない充足感を得ることができた。
安心感が溢れ、まるで暖かいベッドの中にいるようである。
この充足感は、白い人の形をしたものが感じているものであるだろう。

2013年9月18日水曜日

追憶 375

わたしは相当疲弊(ひへい)していたが、それよりも高揚する気分の方が勝っていた。
気分が高まれば、疲労は何とかなるものである。
わたしは右手を宙に伸ばして、人差し指と中指によって一筋の線を描き、そこに光の杭を生み出した。
それを掴んで人影を見る。
わたしはこれからこの杭を人影に突き刺さなければならない。
このような意思が心の中に芽生え、わたしはその意思に従って事を成した。
鈍い音がして光の杭が人影の胸を貫いた。
わたしは再度光の杭を作り出すと、それを人影に突き刺す。
それを何度か繰り返し、眉間、両胸、腹という具合に光の杭が配置された。

2013年9月17日火曜日

追憶 374

疲れた精神には意識の集中はこたえたが、このような状況で泣き言は価値を持たないだろう。
わたしは投げ出したくなる気持ちを抑えて、力を振り絞った。
湿ったタオルを力一杯に絞ると少しだけ水滴が落ちるように、わたしは限界の向こう側の力によって精一杯に人影を引いた。
すると、ぶちぶちと肉が引き千切れるような感覚を以て、人影が母親の心を離れた。
わたしは無我夢中で人影を引っ張った。
人影の身体が母親の背中に開いている穴に引っ掛かり、それを引き抜くことは大変だった。
しかしながら、わたしは力任せに人影を母親から引き抜いたのである。

呼吸が乱れ、流れる汗を気にすることもできない程疲労していた。
わたしの膝(ひざ)の上には死んだように沈黙する人影の姿があった。

2013年9月16日月曜日

追憶 373

それは、気力の闘いであった。
精神を統一し、全霊を込めなければ、人影を母親の心の中から引き抜くことはできないと感じていた。
いや、感じていたのではなく、そのような事実があったのである。
わたしの目的は母親の心の中から人影を引き抜いて、それを解放することであった。
そのためにはここで休む訳にもいかなかったし、諦める訳にもいかなかった。
わたしがここで休んだり、諦めたりしてしまえば、人影はまた母親の心の中に戻ってしまうに違いない。
それに、また同じように苦しみの感情を育み、苦しむのだろう。
それだけは阻止しなければならなかった。
だからわたしは、全霊を込めなければならないのである。

2013年9月15日日曜日

追憶 372

わたしは自分自身が何をするべきなのかを知っていた。
それは、知識でも、推測でも、想像でもない。
男が女を抱く時にどうすれば良いかを本能的に知っているように、わたしの精神と肉体は自らの必要を理解しているのである。
わたしは何も考えなかった。
ただ、状況がわたしを必要へと運ぶ。
母親の背中にぽっかりと空いた穴の中に右腕を突っ込み、わたしは人影に触れた。
そして、人影を力一杯に掴み、そのまま力一杯に引いた。
見た目とは違い、人影は地に根を下ろした樹木のように頑丈であり、簡単には動かなかった。
わたしは気合いを以て疲れた身体(精神)に全霊を込めた。
びくともしなかった人影が僅(わず)かに動く。
それを見て、わたしは更なる力を振り絞った。

2013年9月14日土曜日

追憶 371

母親の心の中にいる人影は完全に沈黙し、そこには何の嫌悪感も感じなかった。
わたしは目を閉じたままで右手を差し出し、人差し指と中指によって母親の背中に大きく円を二周描いた。
わたしの指の軌跡は金色の光を以て輝き、母親の背中を眩しいほどに照らした。
光の眩しさに(目は開いていないけれど見えるため)わたしは目を細めた。
しばらくして光が収まると、母親の背中と心の間には何の隔たりも無くなってしまった。
背中にぽっかりと穴が空いているような状態である。
それは、肉体を超越し、心の中に直接繋がるトンネルのようだった。
わたしと人影の間には、肉体と意識の壁のようなものが存在していた。
人が自らの心に触れることができないのは、肉体と意識の間に見えない壁のようなものが存在しているからである。
そのため、わたしの肉体では母親の心の中にいる人影に触れることはできなかった。
しかしながら、今の状態であればそれができるような気がしていた。
手の届く範囲に人影が見えるのである。

2013年9月13日金曜日

追憶 370

そのような思いに至った時、わたしは自らの身体が自分自身とは違う意思によって導かれるのを感じていた。
わたしがそのように考えなくても、右手は人差し指と中指を差し出し、宙に一筋の線を描いた。
それは暗闇を照らす蝋燭(ろうそく)のように優しく、また、暗闇を切り裂くハロゲンランプのように力強い光によって杭が生み出された。
わたしは光の杭を掴むと、それを目の前の人影に対して再度投じた。
それは迷うことなく一直線に人影を射抜いた。
それによって人影が何かの反応を示すということはなかった。
人影は完全に沈黙しているようである。
わたしは腕を伸ばして人影を掴んだ。
次の瞬間には意識が切り替わり、わたしは目を閉じたままで現実の世界に戻っていた。
五感が目覚め、母親の背中に触れている実感を得る。
目は開かない。
目を閉じたままでもわたしには母親の心の中が見えた。
そして、わたしは母親の心の中にあの人影の姿を認めた。



2013年9月12日木曜日

追憶 369

どのようなことも、この世界では豊かに育まれる。
それは、人の考える善悪では決めることができない。
世界からすれば、すべてのことが大切な役割を所有しているからである。
そのため、人が考える悪いことでも、この世界では豊かに育まれる。
母親の心の中に存在している苦しみの価値観(黒い人影)を放っておけば、それはまた同じようにやがては大きくなってしまうのである。
この世界では、物事が豊かに育まれることを防ごうと考えれば、それを根絶やしにするしかないのである。
原因が存在しなければ結果は存在しない。
そこに僅(わず)かでも原因が存在しているのであれば、それはやがて結果に結び付くのである。
わたしは鉛のように重たい頭で考えた。
今ここで目の前の人影が所有している苦しみの価値観を根絶やしにしておかなければならないのである。

2013年9月11日水曜日

追憶 368

黒い煙のようなものを吐き終えると、わたしは気分が楽になったことを感じた。
目の前の人影が気になって見やると、それはうなだれる様にして立ち尽くしているようであった。
黒い人影からはこれ以上の嫌悪感を感じなかった。
黒い人影は完全に沈黙しているようである。
状況を見て安堵(あんど)した次の瞬間、わたしは身体が鉛のように重たくなるのを感じた。
とにかくしんどかった。
わたしは疲れ果てていたのだと思う。
できることなら、このまま倒れてしまいたかった。
しかしながら、わたしにはやるべきことがあると確信していた。
それは、目の前の人影をどうにかしなければならないのである。
このまま放っておくのは良くないだろう。
この人影がこのまま母親の心の中に存在していれば、更なる苦しみをもたらしてしまうと思えるからである。

2013年9月10日火曜日

追憶 367

光の杭をその身に受けた人影は悶え苦しんでいた。
その光景を見ていると、わたしは猛烈な嫌悪感に襲われた。
強烈な吐き気がして、黒い煙のようなものが口から大量に出てきた。
それはとても不気味なものだと感じる。
傷口から膿(うみ)が出るように、わたしの体内からは大量の黒い煙が溢れ出ているのであった。
しかしながら、その黒い煙を止めようなどとは考えなかった。
傷口からは膿が出た方が良いように、わたしの体内からは黒い煙のようなものが出た方が良いと思えるのである。
その作業は嘔吐を繰り返す時のように辛く苦しいものではあったが、吐き終わると気分が楽になるのと同じことをしているのではないかと思える何かがあった。
わたしはその抽象的な確信に向かって歩みを進めるのである。

2013年9月9日月曜日

追憶 366

感じている苦しみに対して、わたしの気持ちが嫌悪感から希望や期待に変わった時、母親の心の中に存在している苦しみの中にその本質的な部分が見えた気がした。
感覚的なものであるため、それが何であるのかは具体的には分からなかったが、今のわたしにはそれで十分であったのかもしれない。
苦しみの本質的な部分を見た気がした次の瞬間に、わたしは人差し指と中指を突き出して、宙に一筋の線を描いた。
それは、夜空を切り裂く流れ星のように母親の心の闇を切り裂いて、光の杭を形成した。
それを掴むと、わたしはすぐさま目の前の黒い人影に対して投じた。
光の杭は迷うことなく一直線に飛んでいき、人影の胸に突き刺さった。
鈍い音がした。
人影は光の杭に反応して身を縮める。

「ぐっ…ぐぎぎぃぃぃぁぁあ」

耳をつんざくような悲鳴を上げて人影は苦しそうに仰け反った。

2013年9月8日日曜日

追憶 365

その可能性がどのようなものであるのかは、わたしには分からない。
しかしながら、その先には今までとは違う何かがあると確信することができるのである。
どのようなことであっても繰り返しはだめだ。
ただ同じことを繰り返すだけなら何の進歩もないからである。
すべては常に変化を求めて進み続けなければならないのだ。
わたしは苦しみに対しての価値観を変化させる必要がある。
苦しみから逃げるのはもう嫌なのである。
わたしは苦しみに立ち向かう。
そして、その苦しみを乗り越える。
そして、その先に存在している可能性を掴み取る…
そう決意するのであった。

2013年9月7日土曜日

追憶 364

わたしが霊を見たいと思った日から、この苦しみに会うことは既に決まっていたのである。
意識(な存在)に向き合うということは、そこに存在している苦しみや危険と向き合わなければならないということは当たり前のことなのである。
これはわたしが自分自身によって決めたことである。
この状況は、わたしが求めた結果なのである。
そのことを思い出した瞬間に、わたしの中では何かが変わったように思えた。
現状の苦しみに対しては拒絶ではなく、期待や可能性を感じるようになっていた。
わたしの心は躍動し、震えていた。
この苦しみの中には、わたしを喜びに駆り立てる何らかの可能性が存在しているということを考えると、胸の高鳴りを抑えることができなかったのである。

2013年9月6日金曜日

追憶 363

この考え方は素直ではない。
苦しいと感じるものは苦しいのである。
しかしながら、それを苦しいと感じるということですら思い込みなのである。
しかも、破滅的な思い込みである。
それは改善すべきものであるのだ。
それは人からの教育や自らの経験などによってもたらされる価値観である。
その価値観が破滅的な場合は、自らの心に対して苦しみを導いてしまう。
破滅的な価値観は改善しなければならない。
既に築かれた価値観を変えるためには、新たな価値観の形成が必要だ。
新たな思い込みや決め付けによってのみ、人は新たな価値観を得ることができるのである。
わたしは母親の心から迫り来る苦しみに対して、それを楽しもうと心掛けてみた。
この苦しみの中に楽しいと思えるものはないかと探した。
その時、わたしは思い出した。
わたしは以前より、このような状況を待ち望んでいたことを。


2013年9月5日木曜日

追憶 362

苦しいことをただ苦しいと表面的に捉えるのではなく、その中に存在している苦しみ以外の感覚に気が付くことが重要なのである。
ただし、それが持つ本質的な部分を捉えたことで、それを好きになることができるかどうかは分からないことだ。
学生の頃のわたしには、マラソンはどうも好きになることができなかったからである。

人が心に抱えている苦しみは決め付け(思い込み)によって得られるものである。
人が苦しむのか?楽しむのか?は、それをどのように決め付けて、どのように思い込むのかである。
わたしは母親の苦しみや、自らの感じている苦しみに対して、それが苦しいからという理由によって拒絶するのは間違っていると思えるのだ。
だから、わたしはこの苦しいと感じている状況の中に、それ以外の感覚を探さなければならないのである。


2013年9月4日水曜日

追憶 361

苦しみながらも走り続けていると、その状態が苦しくなくなるという瞬間が訪れる。
それはランナーズハイと呼ばれる現象であるが、わたしの中では走ることに対する苦しいという感覚が苦しいという感覚として限定されることはなかったのである。
最後の方は走ることが楽しいとさえ思えていたのである。
わたしには苦しいことが苦しいことだけで成り立っている訳ではないと思えるのである。
物事の中には、人が決め付けているもの以外の性質も含まれている。
もしも、苦しいことが苦しみだけによって成り立っているのであれば、それを苦しみ以外の感覚によって感じることはできないであろう。
それに、人それぞれに苦しいことが違うという矛盾にも対応することができなくなってしまうのである。
結局は、「ものの見方(価値観)」というものがそれを自分にとってどのようなものであるのかを決めるのである。
それを苦しいと思い込めば、それは苦しいものである。
それを楽しいと思い込めば、それは楽しいものなのである。
人は思い込みをコントロールすることが重要なのである。

2013年9月3日火曜日

追憶 360

わたしはマラソンは嫌いである。
何のために人はただ走るのか分からないからである。
マラソンに対して明確な目的を見出すことができるのであれば、わたしはマラソンを好きになることだってできるかもしれない。
しかしながら、わたしにその目的を見出すことは難しそうである。
学生の頃、体育の授業で嫌嫌ながらもマラソンをしていた時に、わたしは一つだけ大きな学びを得たことがあった。
人というものは習慣に対して好意を持つという性質があるように思える。
それが嫌嫌ながら始めたことであるにしても、それを続けている間に楽しくなる、好きになるということがあるだろう。
初めは興味の無い、もしくは嫌っていた相手であっても、共に過ごす時間が増えることによって、相手に対して何らかの好意を持つということはある。
人というものは苦しみの中にあっても、それに慣れることができると思うのである。
マラソンは初めは何の苦しみもないが、走っていると精神的にも肉体的にも苦しくなってくる。
しかしながら、その苦しみに耐え、次第にその状態に慣れてくると苦しみは消えて楽しさが溢れてくることがある。

2013年9月2日月曜日

追憶 359

初めて対峙する他人の心、そして、怒りの感情の中で自らの心は翻弄(ほんろう)される。
わたしは集中することだけに努めた。
それ以外のことに気を取られたら、集中することすらできないであろう。
しかしながら、刃のように突き刺さる怒りの感情を気に掛けないというのは、わたしにとってはとても難しいことであった。
耳元の蚊ですら気に掛かるのである。
全身にまとわりつくこの苦しみが気にならないということはなかった。
わたしは、どうすればこの苦しみから抜け出して集中することができるだろうかと考えていた。
苦しみを苦しいと感じている間は、苦しみは永遠にわたしのものである。
苦しみを苦しいと感じることがないのであるなら、わたしは苦しみを所有することはないであろう。
その時、わたしはマラソンを思い出していた。


2013年9月1日日曜日

追憶 358

普段の瞑想によって静寂に至る時のように、わたしは自らの心を静めるように努めた。
静寂を探して進んで行くが、すぐさま怒りの感情によって引き戻されるということを繰り返していた。
怒りの感情の支配下にある時には、心のコントロールは途轍(とてつ)もなく難しいものである。
人の心にとって、怒りの感情というものは大敵であるといえるだろう。
心を乱す感情の中でも、怒りの感情というものは特別な力を持っていると思えた。
怒りの感情によって、心のコントロールが全くもって思い通りにならないのである。
普段、わたしは自らの心の中に存在している静寂に対して、ある程度の確立で入り込むことができていたし、そのコツを掴んでいると思っていた。
しかしながら、それは、穏やかな海で舟を接岸するように優しいものだったと、わたしはこの時になって気が付いた。
「あんなもの」はただの練習に過ぎなかったのである。

2013年8月31日土曜日

追憶 357

真っ黒な人型の影を救うためには、人型の影が抱えている苦しみから解き放たなければならない。
わたしは自分を苦しみから解き放つ時と同じように、人型の影に対しても行わなければならないだろう。
怒りの感情によって乱される心を集中することに努める。
荒波に揉まれる小舟のように、そのコントロールは難しいものであった。
わたしは人型の影の抱えている苦しみの本質を見極めなければならない。
どこに病気があるのかを知らない医師が、患者の腹を割くことがないように、どこに苦しみの意識が存在しているのかも知らずにいては、手の施しようがないのである。
しかしながら、わたしにとっては始めてのことである。
何をどうすれば良いのか、皆目見当もつかないのであった。
いつものことではあるが、わたしは今の自分で、今の自分にできることをしなければならないだろう。
とりあえずは、怒りの感情に打ち勝って心を集中することである。



2013年8月30日金曜日

追憶 356

わたしは怒りの感情に支配されることの苦しさを知っている。
怒りの感情に支配されると、自分が自分ではなくなってしまう。
考えたくないことを考え、思いたくないことを思い、行いたくないことを行ってしまう。
自分をコントロールすることができないというのは、とても辛いことであるということをわたしは経験から学んでいる。
目の前の真っ黒な人型の影も、怒りの感情に支配されてしまい、自分をコントロールすることができていない状態にあるだろう。
きっと苦しいはずである。
わたしは現状の苦しみから抜け出したかった。
そのためには、目の前の真っ黒な人型の影が抱えている怒りの感情を解決し、その支配から解き放たなければならないだろう。
逃げ出せば、自分だけは助かるかも知れない。
しかし、逃げ出せばわたしは幸福を得られない。
目の前で苦しんでいる人?がいるのならば、その人を助けること以外に、わたしが後悔しない方法はないだろう。

2013年8月29日木曜日

追憶 355

これまでのわたしには、怒りの感情を解決することはできなかった。
わたしにできる唯一のことは、時が過ぎるのを待つことだけだったのである。
幼くて軟弱なわたしは、怒りの感情に対して抵抗することはできなかった。
それが襲来すると簡単に捕らえられ、ただ従うだけであったのだ。
わたしにとって、怒りの感情というものは途轍(とてつ)もなく強大な敵であった。
それがどこにいるのかも分からない。
どのような姿をしており、どのように対処すれば良いのかも分からない。
それは突如として暗闇から襲いかかってくる梟(ふくろう)のように、わたしを音も無く飲み込む恐ろしい存在であった。
今、わたしの目の前にいる真っ黒な人型の影は怒りの感情によって支配されている。
それは、わたしが怒りの感情に支配された時と同じようだと思ったからだ。
わたしが今感じているこの苦しみは、目の前の真っ黒な人型の影が得ている感覚に違いないであろう。

2013年8月28日水曜日

追憶 354

その時、黒い人型の影が背中を丸めるようにして頭を抱えた。
そして、地を這(は)うような唸(うな)り声をあげ始めた。
その瞬間から、わたしは強烈な頭痛と吐き気と怒りの感情に襲われた。
わたしは腹が立って仕方がなかった。
それは、水面に油が広がるように一瞬に、この怒りの感情はわたしの心に広がり、一瞬にしてわたしの心を支配してしまった。
黒い無数の手がどこからか伸びてきてわたしを掴む。
わたしは抵抗する反応も与えられずに捕らえられる。
そして、身動きが取れなくなる。
この感覚はこれまでに何度か経験したことがある。
わたしはその都度この感覚に支配され、それをどうするかなんて考えられなかったし、その選択肢はわたしには無かった。
わたしには闘うことすら許されていなかったのである。
怒りの感情は苦しいものであり、良くない結果を導くものであることは経験として知っていた。


2013年8月27日火曜日

追憶 353

真っ黒な人型の影は、上半身を水面から出してただ立っているだけだったが、わたしにはその真っ黒な人影が恨みの感情を抱いているような気がしていた。
表情も何も分からないが、冷たい刃物のような殺気を感じる。
近付く者があれば敵と見なして飛び掛かってくるのではないかと思わせる狂気がそこにあった。
わたしは最大限に警戒していた。
わたしはこの真っ黒な人型の影が怖いものだと思うのである。
野生の動物と対峙しているような感覚である。
山でイノシシに出会った時の緊張感に似ている。
真っ黒な人型の影との対峙は、少なからず、命が関わっているように思えたのである。
わたしは蛇に睨(にら)まれた蛙のように、身動きが取れないでいた。

2013年8月26日月曜日

追憶 352

わたしはその真っ黒な水溜りを眺めていた。
わたしにはそれが何であるのか分からなかったのである。
しかしながら、その真っ黒な水溜りが破滅的なものであり、禍々しい雰囲気を伝えているのは分かった。
わたしは警戒しながら真っ黒な水面を見つめていた。
すると、水面に変化が見て取れた。
水面が揺れたと思ったらそれが盛り上がり、黒い人型のものになったのである。
黒い人型のものはただ真っ黒な影のようであり、目も鼻も口も無かった。
ただ真っ黒な人型の何かなのである。
それが目の前に現れた時、わたしは不快感に襲われた。
吐き気がした。
目眩(めまい)がして倒れそうであった。
これは、危険なものである。
わたしの本能がそう叫んでいた。

2013年8月25日日曜日

追憶 351

何日も母親の心に触れることで、母親の心の中に存在している破滅的な意識を多少は取り除くことができているのではないかと思えた。
もちろん、母親が破滅的な感情によって破滅的な意識を生み出してしまえば、心の中は破滅的な状態になってしまうだろう。
それでも、母親が破滅的な感情を抱くことよりも、わたしがそれを取り除く作業の方が優れているようであった。

ある日、いつものように母親の心の中に入り込み、そこに存在している破滅的な意識を取り除く作業をしていた。
その日はいつもよりも深くに進むことができたように思えた。
感覚でしかないので確証を得ないが、そのように思えたのである。
心の深い場所には、これまでとは違う空間があった。
そこはただ真っ暗であり、ただ静かであった。
そこには真っ黒な水溜りがあった。

2013年8月24日土曜日

追憶 350

破滅的な意識(感情)を抱えているのならば、その人は破滅的な生き方をしてしまうだろう。
それは、人生の幸福の土台を自ら崩しているようなものなのである。
建設的な意識(感情)を抱えているのならば、その人は建設的な生き方をするであろう。
それは、人生の幸福の土台を積み上げ、踏み固めるようなものなのである。

人は過去に対して様々な感情を抱えている。
もちろん、未来に対してでもある。
それが建設的な感情であれ、破滅的な感情であれ、人の心はそれに束縛されている。
建設的な感情に束縛されているのであれば、それに従って幸福へと向かうことができるが、破滅的な感情に束縛されているのであれば、苦しみへと向かってしまうのである。
今のわたしにできることは、自分自身と他人の心の中に存在している破滅的な、あの気持ち悪い感情を取り除くことくらいである。
今のわたしにできることはそれくらいのものだが、それが役に立つのであればやらなければならないと思うのであった。


2013年8月23日金曜日

追憶 349

喜怒哀楽、すべての感情が余すことなく心に蓄積されている。
人は自らの感情を忘れているが、心はそれを覚えているのである。
感情というものは、自らの見解によって導き出される。
自らの捉え方や考え方がその心を築くのである。
人が感情をコントロールすることなく、心が傷付くような感情を心に蓄積するのであれば、心は破滅的な状態に傾くのであるだろう。

心の状態が人に与える影響は大きい。
人生をどのように感じるかは、その心を通して眺めた世界の感想である。
人は主体性の中で生きている。
自らの心の赴くままである。
人は心によって考え、心によって話し、心によって行う。
人(人生)は心の賜物(たまもの)なのだ。
心にどのようなものを抱えているのかによって、どのように生きるのかが決まってしまう。
人は心を成すのである。

2013年8月22日木曜日

追憶 348

瞑想によって自らの心に対峙し、母親の心に触れることによって他人の心に対峙した。
その中で少しずつではあるが、人の心というものを何と無く理解するようになってきた。

人の心というものは、その人の方針である。
人は自分自身の心の声を聞いている。
多くの人はそのことを認識してはいない。
それはとても自然であり、昔からやってきた習慣だからであろう。
心の声が楽しいものであるのならば、その人は楽しいことを探し、楽しいことを思い、楽しいことを話し、楽しいことを行う。
心の声が苦しいものであるのならば、その人は楽しいこととは逆のことをする。
人は気分によって変わるということである。
自分自身も母親も、心の声である気分によって行動を決めているのではないかと思えるのである。

心は、感情の溜り場である。
人は経験の中で様々な感情を生み出している。
その感情がその経験をどのようなものにするのかを決めているのだが、どのような感情も心の中に蓄積されている。

2013年8月21日水曜日

追憶 347

破滅的な意識を取り除く作業を続けていると、わたしは自らの体力と精神力に限界を感じた。
その時、わたしの意識が強制的に?母親の意識から切り離されるのであった。
わたしは酷く疲れて瞼(まぶた)を開いた。
一瞬、部屋の明かりが眩しかったが、母親の心の中に存在している破滅的な意識の中にいたわたしは、当たり前のそれを愛おしく感じるのであった。
母親に実験の終了と、わたしが体験したことを簡単に告げ、その後解散になった。
わたしはそのまま横になって眠ってしまった。

母親に対して、わたしは明確な説明をすることができなかった。
それは、わたしが体験したことが、わたしには理解することができなかったからである。
状況の報告はできるのだが、それの説明にはいたらない。
わたしには母親の心の中で体験したことを母親に対して説明する責任があるだろう。
その責任を果たさなければならないと思うのである。
それから、わたしたちは毎晩のように実験を試みた。


2013年8月20日火曜日

追憶 346

それは、母親の心の中から取り込んだ破滅的な意識であった。
ゲップによって多少の破滅的な意識が取り除かれると、気分の悪さが少しではあるが改善されたように思えた。
これは、瞑想の時に自分自身の破滅的な意識を取り除く状況と酷似している。
この時、わたしは自分自身に成すことも他人に対して成せるのではないかと思い、それを続けてみることにしたのであった。
母親の心の中から流れ込んでくる破滅的な意識をできる限り受け入れる。
それが目一杯になると(自然と)ゲップが出て少しではあるが気分が楽になる。
この作業を何度も繰り返した。
この作業はとても骨の折れるものであった。
わたしは精神的にも、肉体的にも消耗するのを感じていた。

2013年8月19日月曜日

追憶 345

掴めそうで掴めない。
見えそうで見えない。
そのように思い通りに行かないのは、何であっても腹立たしいものである。
その時、わたしは胸に強い衝撃が加わるのを感じて驚いた。
瞼(まぶた)が開かないので視覚による確認はできなかったが、どうやらわたしの左手が自らの胸を平手で叩いているようである。
左手がわたしの胸を何度か叩いた時に、わたしは胸の奥から込み上げてくるものを感じ、それに抵抗することはできなかった。
わたしは大きなゲップをしていた。
その時は、不思議なことにわたしの肉体は口を閉じた状態でゲップをしているにもかかわらず、意識のわたし?は口を目一杯に開いて虚空を見上げているのである。
そして、その開かれた口からは黒い煙のようなものが大量に吐き出され、上空へと舞い上がっているのだった。

2013年8月18日日曜日

追憶 344

わたしが感じたことを母親に伝えることによって、母親の心が破滅的な意識(苦しみ)から離れることができれば良いのである。
しかしながら、そうはいっても、わたしには母親の心の中に存在している破滅的な意識の全容が見えなかった。

全身に入り込んだ破滅的な意識は苦痛以外の何ものでもなかった。
先程から強烈な頭痛と吐き気がわたしを苦しめていた。
わたしは何と無く、それらの感覚を気に掛けるようにして意識を合わせてみた。
すれと、胸の奥から何かが込み上げて喉元に詰まるような感覚があった。
喉元に詰まる何かがわたしを更に不快にさせた。
出そうで出ないくしゃみのように、喉元に詰まるそれはわたしを焦(じ)らした。

2013年8月17日土曜日

追憶 343

破滅的な意識というものは、人の心にとっては苦しいものである。
破滅的な意識は、人の心の毒である。
それは心の健康を蝕(むしば)み、やがて破壊する。
しかしながら、わたしがそうであったように、多くの人は破滅的な意識に対して危機感を抱いていないのが実情であるだろう。
それは、破滅的な意識によって傷付く心の痛みに気が付かないからである。
もしくは、その痛みに慣れてしまい、感覚が麻痺するからであろう。
喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったものである。
わたし自身も、自らの心に触れようと試みなければ、破滅的な意識が心に与える影響について気に掛けることもなかったであろう。
わたしの心は破滅的な意識に犯され、やがて破壊されていたに違いない。
母親が自らの破滅的な意識に対してどのような見解を所有しているのかは分からないが、この苦痛をダイレクトには感じていないだろう。
わたしはこの苦痛を母親に伝える必要があるのではないだろうか…

2013年8月16日金曜日

追憶 342

母親の心の中に存在している破滅的な意識を受け入れることを決意すると、それが一層多くわたしの中に雪崩れ込んでくるのを感じた。
それは吐き気を催(もよお)すほどのものであった。
破滅的な意識はわたしの胸に向かい、そこで溜まる。
胸の次に頭に至る。
その次に腹に溜まる。
そして、全身に行き渡るような感覚があった。
紙に水が染み渡る様にして、破滅的な意識はわたしの中を徐々に蝕んでいく。
わたしは自らの心と身体が鉛(なまり)の様に重たくなるのを感じた。
思考が働かない。
精神が幾つもの槍で貫かれ、そのまま十字架に張り付けられるようである。
わたしの中の嫌悪感は、いつの間にかにその姿を苦痛へと変えていた。

2013年8月15日木曜日

追憶 341

母親の心に触れることによって、わたしは母親の心が抱えている破滅的な意識に触れる。
破滅的な意識に触れると、それがわたしの中に流れ込んでくるのが分かった。
それは、無理矢理に腐った水を飲まされているような不快な感覚である。
わたしはそこに嫌悪感を感じていたが、そんなことよりも母親の心の中に存在している破滅的な意識を取り除くという目的意識の方が勝り、その嫌悪感を拒絶しようとは考えなかった。
寧ろ、その嫌悪感をより深く味わう必要があるのではないかと感じていた。
それは、破滅的な意識をより深く理解するためである。
拒絶や否定から理解が導かれることはない。
どのようなものにしても、それに触れる時間が長い程に理解も深まるであろう。
わたしは嫌悪感を抱えながらも、母親の心の中からより多くの破滅的な意識を受け入れることに努めた。

2013年8月14日水曜日

追憶 340

母親(他人)の心に触れることによって、わたしは自分自身に対する偏見を少しではあるが取り除くことができたのである。
それは、人の心に対して、以前にも増して深く侵入することができる可能性をわたしに見せるものであった。

母親の心に触れることによって得られる嫌悪感に対して、わたしはそれを問題であると認識している訳であるが、それを問題であると認識しているからこそ、それをどうにかして改善したいと思っていた。
わたしは自分自身の心の中に存在している破滅的な意識を改善することが、自分自身の心に平穏をもたらすことを知っていた。
わたしが母親の抱えている破滅的な意識を取り除くことができたなら、母親の心には何らかの平穏が導かれるのではないかと踏んでいるのである。

2013年8月13日火曜日

追憶 539

人は自分自身を正当化するものである。
この卑怯な思いに捕らわれない人は恐らくはいないだろう。
人は自らの思いや行いに思い付く限りの言い訳を用いて、罪悪感を感じないように努めているのである。
わたしが母親の心に対して自分自身のものよりも大きな嫌悪感を感じたのは、そこに自分自身を正当化することによって真実を覆い隠す「嘘」が存在していないからであろう。
客観視においては、「嘘」は役に立たないと推測する。
普段、わたしは瞑想によって自分自身の心に向き合ってはいるが、どこかでまだそこに自らを正当化するための「嘘」が存在しているということを忘れてはならないだろう。
無意識の内にでも、人は自分自身を正当化しているものである。
母親の心に触れたことによって、わたしは自分自身に対する客観視を得ることができた。
これは素晴らしいことである。

2013年8月12日月曜日

追憶 538

様々な方向から、様々な感情が襲ってくる。
怒り、悲しみ、恐れ、怠け…
それらは、すべて破滅的な感情であった。
わたしはこの状況に恐怖した。
それは、この状況にはわたしが受け取りたくない感情しか存在していなかったからである。
わたしは破滅的な感情の刃に身体を切り裂かれているようだった。
このプレッシャーを心地好いとは思えなかった。
わたしは素直に「ここにいてはいけない」と思った。
この破滅的な感情の中にいれば、わたしの精神が崩壊しそうである。
わたしは人の感情に対して鈍感だったのだと知った。
自分自身に対しても、他人に対してもである。
それは、母親の中に存在している破滅的な感情と、わたしが抱えている破滅的な感情にはそれ程の違いがあるようには思えないからである。
しかしながら、自らが意識として人の心に触れた時には、その感覚は何倍にも膨れ上がり、妙にリアルなものになる。

2013年8月11日日曜日

追憶 537

わたしはこの苦しみを繰り返してはならないであろう。
同じ道を選択しても、結果は同じことである。
情けない自分とは決別すると心に決めた。
後悔はしたくないのである。
人は苦しいことにも向き合わなければならない。
幸福というものは、気楽の中に存在しているのではないだろう。
勇気を出して苦しみに立ち向かった者だけが得ることのできる楽しみである。
わたしは、わたしの中の「安全弁」が制止するのを無視して、母親の背中に触れた。
次の瞬間、わたしは目眩(めまい)を感じる。
いきなり暗闇の淵に突き落とされた様な感覚だった。
方向感覚を失った自己がすがるものを探して暴れる。
わたしは必死だった。

2013年8月10日土曜日

追憶 536

母親の背中に右手が触れる直前になって、わたしは吐き気を感じた。
緊張感と共に吐き気が襲うのである。
この嫌悪感を感じて、わたしの心には母親の背中に触れるべきなのであろうか?という思いが生じた。
わたしの中の「安全弁」がわたしを消極的にさせる。
危険なことや苦しいことに首を突っ込むなと諭す。
わたしはその通りだと思った。
しかしその一方で、わたしに目的を果たせと投げ掛ける勇気があった。
わたしは自分の求めているものがどの道の先にあるのかを思案した。
わたしは安全策を取って、(自分にとって)安全な道を進むべきなのであろうか?
それとも、それが危険であり、苦しいということを知っていながら、険しい道を進むべきなのであろうか?
葛藤がわたしを苦しめた。
わたしは今までの人生において、この道の選択という場面に苦しんできた。
わたしは今までの人生において、安全な道を進むことを優先してきた。
嫌なこと、苦しいことからは逃れてきた。
その結果、わたしは苦しんだのである。



2013年8月9日金曜日

追憶 535

わたしには人の心がどこに存在しているのか分からないが、そこから発せられているであろう破滅的な意識は認識することができた。
それを辿って行けば、きっと心に行き当たるであろう。
わたしはとにかく、目の前の破滅的な意識を取り除かなければならなかった。
とは言っても、どうすれば良いのか分からなかった。
わたしは思案して、大天使ミカエルに聞いてみることにした。
自らの内側に存在している静寂に意識を傾け、そこに存在しているであろう小さな声を探す。
意識的な存在の声は小さい。
人の心の声が人の耳には届かないようにである。
それは容易に聞き取れるものではなかった。
わたしは心を落ち着けて、静寂の中でただ待った。
すると、わたしの中に欲求が芽生えるのを感じた。
それはとても自然な欲求であり、何の違和感も躊躇(ちゅうちょ)も無かった。
わたしは母親の背中に対して右手を伸ばしていた。

2013年8月8日木曜日

追憶 534

しかしながら、それを知識として理解していても、それを実際に行うのは難しいことである。
車の原理を理解していても、それを実際に作るのは難しいようにである。
人が幸福を得るためには、心が苦しみの束縛を離れて穏やかになれば良いと思っていても、それを実行するのは難しい。
鍋にこびり付いた汚れを取り除くことの難しいように。
知識を体系化しなければならないが、その見当さえも今のわたしには付かないのである。

心には手が届かない。
本人であっても届かない。
他人なら尚更である。
医者のように身体を切り開いて、病に犯された患部を取り除くことができれば良いが、心に対してそれは不可能であろう。
心というものは人の意識として確実に存在しているが、それがどこに存在しているのかを人は知らないからである。

2013年8月7日水曜日

追憶 533

人がその苦しみの束縛から逃れるためには、心を落ち着けていなければならないであろう。
何事にも動じない器量が必要なのである。
心が混乱して慌てふためくのであれば、人が心を患うのは当たり前のことである。
楽しいことに在って人は心を乱してはいない。
その時、人は幸福を感じている。
苦しいことに在って人は心を乱している。
その時、人は不幸を感じている。
どのような状況に対しても心を乱さないのであれば、人は幸福を得ることができるであろう。
どのような状況に対しても心を乱すのであれば、人は不幸を得る。
わたしは20年間という時間をかけて人というものを観察し、このことを悟った。
わたしが楽しむことに苦しむ人がいて、わたしが苦しむことに楽しむ人がいるのである。
そのことから、人にとっての幸福というものは個人的なものであると理解することができる。
幸福を得るのも、不幸を得るのも、すべては各自のことなのであろう。

2013年8月6日火曜日

追憶 532

こんなことを考えているわたし自身でさえ、多くの苦しみによって束縛されている。
過去と現在と未来の苦しみによって束縛されているのである。
わたしが成すべきことは、人をこの苦しみの束縛から解放する方法を探すことである。
その方法によって、人は幸福に向かうであろう。
わたしは母親の心の中に存在している黒くて重たい破滅的な意識から、その心を解放してやりたかった。
そう思った時に、わたしはどうすればその問題が解決するだろうと考えた。
そもそも、問題が生じる状態というのは、心が乱れて破滅的な状態にある時ではないかと思える。
混乱して焦ったり、不安に思って心配したり怒りを覚えた時には、状態が問題を抱えているであろう。




2013年8月5日月曜日

追憶 531

わたしがそうであるように、多くの人は苦しみというものをコントロールすることができていないであろう。
苦しみに対する認識も感情も行動も、大抵は野放しの状態にあるのだ。
多くの人は苦しいことに在って苦しみを感じている。
それは、苦しみというものをコントロールすることができていない証なのである。
すべての認識や感情や行動がコントロールされるなら、すべての人は幸福に向かう。
自己をコントロールすることによって、失敗が成功に導かれるようにして、苦しみは喜びに導かれる。
そのためのコントロールが必要なのである。
しかしながら、人は過去のトラウマによって束縛されているため、そのコントロールは容易なことではないのだ。
多くの人はそれが当たり前だと思っているし、変わることなどないと思っている。
何故だか、諦めているのである。
それを本人が自覚していないこともあるので、苦しみからの束縛を断つことは難しい。


2013年8月4日日曜日

追憶 530

わたしたちは人類史上、最も優れた文化と教育の中に生きている。
教科書に書かれてある歴史のことならある程度は知っているが、過去の文化や教育などの事実は知らない。
口頭や書面、絵画や映像によって伝えられるが、そこには何らかの価値観が侵入しているだろう。
しかしながら、人が過去から学ぶ生き物であるのならば、現在が最も優れた時代であると推測するのである。
しかしながら、それでも人は苦しみを抱えながら生きている。
苦しみに耐え切れずに自らの命を自らの手で手放す者もいる。
それは、最先端の文化ですら、苦しみを除き去ることには失敗しているからであろう。
人という生物からは苦しみという陰の部分が消え去ることはないだろう。
それは、命を所有して自然界で生きていく以上、恐怖の感情は必要不可欠であるからである。
苦しみを除き去ることはできないかもしれないが、それを原動力に変える方法はあるはずである。
苦しみをコントロールすることが、苦しみを苦しみとして存在させない方法なのではないだろうか?

2013年8月3日土曜日

追憶 529

「神様」が助けてくれるなんてことは、宗教が信者とお金を集めるための戯言(たわごと)である。
なぜなら、神を謳(うた)う彼らは、実際に神に会ったこともなければ、神がどのような「奴」かも知らないのである。
会ったこともなければ知りもしないのに、無償の愛がなんたら、四十九日や何回忌がなんたらと言っているのである。
自分自身が実際にそれを見て、体験して公言するのであれば良いと思うが、ただ、そう言われているからといって利用するのは考えものであるだろう。
話を戻すが、人は他人の言っていること、その価値観や風習を無条件に正しいと信じているところがある。
もちろん、すべての人がそうではないし、すべての事柄についてそうではない。
世論も伝統も風習も大切だと思うが、改めて自分自身がそれの診査をしないのはおかしいと思う。
わたしたちは当たり前を当たり前とし過ぎている。
子どもの頃の教育を引き摺り、その過ちに気が付かずに苦しみによって束縛されているのである。
母親の中に黒くて重たい破滅的な意識が存在しているのは、母親が周りの大人たちの教育や当たり前の風習を疑問に思わなかったからであろう。

2013年8月2日金曜日

追憶 528

例えば、人生が初めから決まっているのならば努力なんて必要ない。
思考や感情や判断などの自我など必要ないであろう。
しかしながら、わたしたち人間は誰もが自我に目覚め、それに従って人生を築いている。
わたしはこの短い20年間の人生において、人の努力が成果に繋がることを嫌程思い知らされた。
わたしが努力しなかったのは、人生が初めからそのように決められていたからであろうか?
そんな馬鹿げたことはない。
それならば、努力して成果を得た人は報われないではないか。
努力したのも、怠けたのも、本人が自分自身の意思によってそう決めたのである。
わたしは努力することもできた。
実際、周りの大人たちはわたしに対して、子供ながらにうんざりするほど努力を促していた。
それは、明らかな選択肢であったのだ。
それを選ばなかったのは自分自身に他ならないのである。
自分の良いと思う方を自分自身で選んだのである。
わたしは努力しない方を良いと思い、それを自分自身で選んだ。
それは、誰かに仕組まれた訳ではない。
「神様」は何十億という人の中の、わたしという一匹の甘ったれた子羊にかまっているほど暇ではないだろう。


2013年8月1日木曜日

追憶 527

母親の心の中に認められるこの黒く歪んだ価値観は、その心を苦しみに対して束縛しているように思えた。
それはまるで、鍋に焦げ付いた汚れのように強固で離れ難いものである。
人は様々な苦しみ(経験や憶測によってもたらされる偏見)に対して束縛を受けている。
わたしたち人間が豊かさや幸福というものを認識しながら生きていくためには、この苦しみからの束縛を切り離さなければならないであろう。
物事を苦しみと見なすような歪んだ価値観が心の中にある以上、状況をそのように捉えてしまうのは必至である。
どのような人物であっても、世界を主観によって捉えているのであるから、その感想が自らの価値観(物の見方)に従うのは当たり前のことなのである。
人は自分自身によって人生(状況)を判断し、それを築いているに他ならない。
占い師や宗教家と呼ばれる人の中には、人生というものが初めから決まっていて、それには逆らうことができないと主張しているが、心が違えばどうであろうか?
それでも、人生は変わらないであろうか?
占いや宗教を否定する訳ではないが、そのような考え方は人生の可能性を摘み取ることに他ならないと思うのである。

2013年7月31日水曜日

追憶 526

母親は好き嫌いが明確な人である。
それは価値観の偏りを意味するであろう。
自らの正義(好きなこと)に反することや人を許すことや、受け入れることができない人物は偏見を抱えている。
偏見がもたらすのは、文字通り偏った見方である。
物事を偏った見方によって見るのであれば、その判断を誤ることは明確であるだろう。
偏見を以てして、正しい判断など行えるはずがないのである。
わたしの中にも様々な偏見が存在しているからそのことが良く分かる。
何かや誰かを許すことができなかったり、受け入れることができなかった時には、例外なくわたしは苦しみを得た。
今までの人生がそうであったのだから、これからも同じであるだろう。
きっと、世界の理(ことわり)は変わらない。
この世界を快適にするためには、自らを変える以外に方法はないであろう。

2013年7月30日火曜日

追憶 525

それは、母親が抱える破滅的な意識である。
それらが、傾斜を与えられた水のように勢い良く流れ込んできた。
指先から流れ込み、胸の中に溜まる破滅的な意識に対して、わたしは強烈な不快感を覚えた。
それは、不満や不安や拒絶などの感情が一つにまとまった残飯を無理矢理食わされているような感覚である。
強烈な吐き気や気怠さがわたしを襲う。
わたしはこの状況に驚いた。
人の心とは、これ程の破滅的な意識を抱えているのであろうか?
自分自身の破滅的な意識も強烈ではあったが、母親の破滅的な意識はそれを遥かに凌(しの)いでいる。
母親はバセドウ病によって苦しんでおり、肉体的、精神的なストレスが主な要因であると推測するが、母親がこれまでの人生において築き上げた自己というものにも要因があるような気がした。

2013年7月29日月曜日

追憶 524

純粋な欲求というものは自我を離れたものである。
それは、愛というものであるのかも知れない。
見返りを求めずに施すことや、大天使ミカエルがわたしに下す指示などがそれに当たるだろう。
わたしが探しているのは、自我によって導き出される自発的な目的ではなく、相手のためだけの目的なのであった。
それは、能動的なものではなく、受動的なものである。
しばらく待っていると、わたしの中に純粋な欲求が芽生えてきた。
それは、「母親の心に触れたい」という欲求であった。
その欲求に従うようにわたしは右手を母親の背中に伸ばした。
不思議なことではあるが、純粋に欲求は必要な行動を無意識の内に教え、それを行わせる。
わたしが母親の背中に触れた瞬間に、母親の中からわたしの中に何か黒くて重たいものが流れ込んでくるような感覚に襲われた。

2013年7月28日日曜日

追憶 523

母親を真正面に座らせるのには抵抗があった。
母親だからだというのではないが、向かい合って座ることには恥ずかしさと気まずさがあった。
わたしは母親に対して、背中を向けて座ってもらうことにした。
まずは、自らの意識を集中することが必要であるだろう。
自分自身の準備ができていないのに、必要なことは行えない。
わたしは自らの心に向かい、静寂を探した。
割りと短い時間で静寂を感じることができた。
思っていた結果とは違っていたが、それが良い方の結果であったので嬉しかった。
この時、わたしは自分自身のために何かをする時よりも、他人のために何かをする時の方が力が増すことを改めて実感することができた。
真意は分からないが、わたしが普段よりも良い結果を残せたのはそのせいだと思っている。
わたしは静寂の中で自我を手放し、純粋な欲求だけを待った。

2013年7月27日土曜日

追憶 522

人は自分自身のことを知らないものである。
外面として作り出していると書いたが、別に自分自身のことを理解した上で外面として自分というものを作り上げている訳ではないだろう。
自分自身を理解してそれを作り上げている訳ではなく、剥がれ落ちる外面を繕うように人は自分自身を形成しているのである。
外壁の修繕に忙しいのであれば、家屋と室内に至っては手が回らないであろう。
わたしは自分自身が外面ばかりを気にかけて生きてきたからそう思うのである。
わたしは自分自身を見つめた時に、他人にも同じような特徴が見えるのに気付いた。
現時点においては推測の域を離れることはないが、わたしが抱えている問題を同じように他人も抱えているであろう。
母親の中にも、外面を繕うことによって内面が損なわれるという自己形成にあたっての間違いというものが、きっと存在しているはずである。

2013年7月26日金曜日

追憶 521

わたしは母親に実験の旨(むね)を伝えて協力してもらった。
母親は多少霊感というものを備えているように思える。
霊を見るとか、直感的であったり、察しが良いという感じではないが、何と無くそう思う。
根拠は無いのだが、わたしが感じる感覚を理解することができるのではないかと思った。

わたしは自らの心に触れるように、母親の心に触れてみようと考えた。
生まれてからこれまでの間、わたしは母親の言葉や表情、感情や行為などの外の表現に触れては来たが、それらの外面を生み出している内面に触れたことはなかった。
人と人は作り出された外面によって関わるのが普通である。
親子であってもそれは変わらない。
人と人は作り出された外面の情報によって判断しているのである。
どんなに自らをさらけ出しても、そこには自らを正当化する気持ちやプライドを拭い切ることはできないであろう。


2013年7月25日木曜日

追憶 520

人が自分自身に対して行えることは、少なからず人に対して施すことができるであろう。
わたしは自らの内側(体内や心境)に存在している破滅的な意識を取り除くことに多少なりとも成功していた。
これを他人に対して施すのである。
自分が心地好いのだから、きっと人もそのように感じるであろう。
その具体的なやり方は分からないけれど、その欲求がわたしを導いた。
わたしは母親に協力してもらって、自らの力を試すことにしたのである。
この実験によって、わたしは自らの力を多少なりとも理解することができるであろう。
そうすれば、自らの力が誰かや社会に対して貢献することができるものであるのか?
それとも、何の役にも立たないものであるのか?
ということが分かるだろう。
とにかく、わたしは自らの力のことを知る必要があった。

2013年7月24日水曜日

追憶 519

わたしが幸福を得るためには、意識的な充実と物質的な充実が必要である。
それは即ち、どのような考えを以てどのような事を行うのか?ということであろう。
好きなことや興味のあることをしなければ、意識的な充実も物質的な充実もないであろう。
好きでもないことや興味のないものを嫌々こなしたところで、何が満たされるのであろうか?
わたしはこれまでの自らの生き方がそれを満たすことができなかったから、それを繰り返してはならないのである。
人は自分のやりたいことをしなければならないと悟らざるを得ないのである。
わたしが好きなこと、興味のあることは、霊や人の心などの目には映らないけれども、確実にそこに存在しているものであった。
それがわたしを通じて他人や社会に対して貢献することが、わたしに幸福をもたらしてくれるような気がするのである。

2013年7月23日火曜日

追憶 518

お金さえ十分にあれば幸せになると考えている人の多くは、お金を得ることだけを考えている。
その結果だけを見て、手段は考えていない。
ただ、お金が欲しいのである。
意識的な満足さえあれば幸せになると考えている人の多くは、宗教や神という存在に頼る。
宗教や神という存在を信じてさえいれば救われると本気で信じていて、その結果しか見ていない。
だから、宗教や神という存在の名前を使って人道に反したことも行え、また何も行わなかったりする。
それは結果だけを見て、その手段のことを考えてはいないのである。
ただ、意識的な救いが欲しいのである。
極端な考え方は、人生を歪めてしまう。
二十歳までのわたしは物質的なもの(
お金や品物)だけを見て生きてきた。
その結果は散々なもので、自己が満たされているという感覚を得ることは遂になかったのである。
わたしはそのアンバランスを正さなければならないのである。
物質的な充実だけでは不足している。
意識的な充実だけでも不足しているのだ。
お金を得るのであれば、どのような仕事をした結果それを得るのか?
心の充足を得るのであれば、どのような信仰によってそれを得るのか?
結果だけを見ずに理念や手段にまで考えが及ぶのであれば、本当の意味での満足が得られるであろう。

2013年7月22日月曜日

追憶 517

すべての命はその意識を正しく美しく整えることによって満たされるであろう。
人が幸福を求めるのであれば、それを速やかに成さなければならない。
何を得ても、意識の充足がなければ意味がないのである。

目の前の問題を解決するためには、それを物質的な方法と、意識的な方法によって働きかけなければならない。
どちらか一方の方法では不足してしまう。
例えば、お金という物質的な方法によって解決することのできる問題は多いが、それだけですべての問題が解決する訳ではない。
宗教のように、神という存在を信じるという意識的な方法によって解決することのできる問題は多いが、それだけですべての問題が解決することもないのである。
人は物質的な豊かさと意識的な豊かさの両方を満たさなければ、人生の幸福は得られないものである。
しかしながら、自分自身を含めた多くの人はその方法に偏りがあるように思える。



2013年7月21日日曜日

追憶 516

人は心という意識を正しく美しくする程に喜びや豊かさを得ることができる。
それは、正しく美しい意識が人にそのような行動をさせるからである。
当然、受け取る結果もそのようになる。
人は自らの抱える意識に従って物事を行うが、それは人だけに限ったことではない。
犬や猫などの動物たちも、意識に従って物事を行っている。
飼い主から多くの愛情を受け取る動物は、心穏やかに暮らす。
意識が満たされ、心が満足しているならば、その行動も静かで穏やかである。
飼い主からの愛情を受け取ることができない動物は、例外なく心が乱れている。
意識が満たされることなく、心が傷付いて痩せ衰えているのであれば、その行動は騒がしく乱暴である。

2013年7月20日土曜日

追憶 515

人以外の生物にも意識は存在している。
犬や猫、魚や昆虫さえも、自発的に活動している。
そこに何らかの意識が存在していることは明白であろう。
植物にしてもそうである。
彼らが声を発することはないが、枝葉を伸ばし、花を咲かせる姿には何らかの意識を感じることができるであろう。
その感覚をより研ぎ澄ましていけば、自然の営みに対しても、そこに何らかの意識が存在していると思うこともできるだろう。
雨が降り、川が流れ、地が潤い、太陽が照らす…
このような当たり前のことに対しても、ただ当たり前にそのような活動があるのではなく、何らかの意識に従ってそれが行われていることを考えることもできるかもしれない。
世界中に意識が存在し、すべての事柄を動かす動力となっているのであれば、人生そのものが何らかの意識によって成り立っているという考えが出てくるのは、自然なことであろう。
人は自らの判断によって行動を決める。
その判断が人生を築く訳であるが、その行程が人の意識によって導き出されたものであるということは明白なのである。

2013年7月19日金曜日

追憶 514

この世界には意識があまねく行き渡っている。
人は思考や感情などの意思を持っている。
それが人の本質であるということは誰にも否定することができないであろう。
どのような主義の人物も、思考や感情によって人生を築くからである。
幸も不幸も、その思考や感情によって決まるのである。
それらが目には映らないから、うまく説明できないからといって、自らの思考や感情という意識を否定することができる人はいないであろう。
科学が発展するに従って、人は意識という存在を明確に捉えるようになるのではないだろうか?

命には意識が宿っている。
命とは意識である。
命とは肉体の持つ生命活動だけのことではない。
精神も命である。
そのように考えるなら、意識は人だけにあるものではないと思うのが普通である。

2013年7月18日木曜日

追憶 513

わたしに不快感を与える破滅的な意識は、わたしの内側にも外側にも確認することができた。
内側の破滅的な意識とは、自分自身が抱える劣等感や悲壮感やトラウマなどの苦しみである。
外側にあるそれは他人の心や頭の中、それに場所(空間)に存在しているのであった。
他人の中に存在している破滅的な意識は、自分自身が意識していなくても、その人の言動などによって一緒にいると不安を抱いたり、不満を覚えるなどの嫌な気分になるというような感覚が分かりやすいであろう。
場所(空間)に存在している破滅的な意識は、そこにいると居心地が悪く、何と無く嫌な気分になるというような感覚があると思うが、そのようなことである。
当然のことではあるが、心地好いと感じる建設的な意識も存在している。
わたしが意識に対して意識的に向き合う中で導き出した結論は、意識という目には映らない存在は、この世界のすべての場所に行き渡っているということであった。
この世界に意識の存在しない場所はないと思えるのである。


2013年7月17日水曜日

追憶 512

わたしの今回の挑戦は、それを知るためのものであるだろう。
これまでの不器用で不自由な生き方から、わたしはわたしを解放する。
わたしは人生の自由を手に入れ、楽しく生きていたいのである。

毎日、自らの心と向き合うことで、わたしは心の中に存在している破滅的な意識を掃除することが上達していた。
状況や心を整えた状態で瞑想しなくても、日常のあらゆる場面で気分が悪くなってゲップが出た。
ゲップが出ると楽になる。
そして、また気分が悪くなり、ゲップが出る。
その繰り返しであった。
意識的にやらなくても自然に出るということは、それが習慣として馴染んで来たということであるだろう。
それを更に追求すれば、より良い結果が得られるはずである。
わたしはこの力をもっと自然に、もっと自由に使いこなし、それを他人に対して役立てることを目標にしていた。

2013年7月16日火曜日

追憶 511

わたしは苦しみという名の人生を自由に泳ぎ、自分自身と多くの人を救わなければならないのだ。
救うことができるかどうかなど、今のわたしには先のことは分からない。
分からないから、試すのである。
わたしは自らの人生に対して、初めて挑戦したいと思えることに出会えた気がする。
これまでのわたしは挑もうとはしていなかった。
周りの大人たちがわたしに対して何かを押し付けてくることはあったが、それも渋々のことであった。
やるのはやるが、それが自主的なものになることは有り得なかった。
わたしにはやる気がなかったのである。
どうすれば良いかなんて分からなかった。
自分がどのように生きたいのか?
どのような人物になりたいのか?
何のために生きているのか?
何が心を満たすのか?
わたしは人生というものが何であるかを、全くもって分かっていなかったのである。

2013年7月15日月曜日

追憶 510

自分自身の心の膿を取り出すことができるのであれば、他人の心の中にある膿を取り出すこともできるかもしれない。
自分自身に対して行えることは、他人に対して施せるはずである。
もちろん、この考えは推測でしかなかったが、何と無くそう思える自分がいた。
他人を助けることができるのは、自分自身を救うことができる人物であるだろう。
自分自身のことが疎(おろそ)かな人物には、自分自身のことよりも難しい他人のことをどうこうすることはできないであろう、というのがわたしの持論である。
泳げない者が溺れている人を助けるために水に飛び込んでも、溺れている人を助けるどころか、その人にも辿り着けない可能性もあるのだ。
泳ぎの得意な者であれ、溺れている人を助けることは難しい。
泳ぎの得意な者であれ、溺れている人と共に溺れることもあるのである。

2013年7月14日日曜日

追憶 509

わたしはこれまでの人生の中で多くのことに傷付き、その傷口は膿を溜めてうずいていた。
わたしが行おうとしているのは、その傷口から膿を取り出す作業なのである。
傷口から膿を取り出し、傷口を塞ぐことができたなら、わたしの抱える劣等感や悲壮感、それにこの人生に対する空虚感も手放すことができるだろう。
傷口がうずかなければ、傷口に対して悩むことも心配することもないのである。
苦悩を考えている人が、それ以外の場所に辿り着けるだろうか?
苦悩を抱えていたわたしがこれまでの人生で辿り着いたのは幸福などではなかった。
やはり、わたしは苦しんでいたのである。
そこから抜け出すためには心の傷口を塞ぎ、より良い心を育てるということであろう。

2013年7月13日土曜日

追憶 508

瞑想をすることによって心の中に存在している汚れが取り除かれ、その結果として心が穏やかになり、身体が軽くなるのだから、それは良いことであると思える。
わたしは良い発見をしたと喜んだ。
それは、自分自身が心の汚れや歪みによって苦しんでいて、それを解消する可能性が見えたからである。
自らの心の中に存在している汚れやその歪みを解消すればどのようなことが起こるのであろうか?
わたしはそのように考えていた。
わたしが苦しみから抜け出すためには、今のわたしができることの中ではそれが最善の方法であるような気がしていた。
わたしは自らの心を治さなければならないのである。
それは、医者に見せても、薬を飲んでも治らないものである。
それは、心が汚れているのは病気ではないからである。
鬱病(うつびょう)という状態があるが、それは心が汚れて歪んでいる状態であると思っている。
心が汚れて歪むことによって、建設的な思考や感情を形成することができないのである。
わたしも自らの人生を考える中で、大きな虚無感に襲われたことが何度もある。
その度に、わたしはそれに飲み込まれまいと必死であったが、心が汚れを知らずに歪んでいなければ、鬱状態に落ち込むことはないであろう。

2013年7月12日金曜日

追憶 507

瞑想を繰り返す中で、わたしはあることに気が付いた。
それは、瞑想中に気分が悪くなることである。
今までは明確には分からなかったが、目を閉じると車酔いに似た感覚が襲うのだ。
吐き気に対峙していると、それが込み上げてくる感覚があり、ゲップが出た。
ゲップが出るとすっきりする。
瞑想をする度にそれの繰り返しであった。
わたしにはそれが何を意味しているのか分からなかったが、経験を重ねる中でそれが自らの内にある破滅的なもの(意識)であるような気がしていた。
人は生活の中で意識を汚していく。
その思考、感情、価値観は様々な影響力に従って歪んでいく。
それを正そうとする力がなければ、人の中にあっては心は汚れて歪む。
普通に生活しているだけでも部屋を掃除しなければ、それが汚れるのと同じことであろう。
わたしが瞑想することによってゲップをするのは、自らの心を掃除しているということなのである。
わたしは瞑想することによって、心の中に蓄積された汚れを取り除いているのである。

2013年7月11日木曜日

追憶 506

わたしが自らを救うためには、それらの思いから遠ざかる必要があった。
乱れた心ではその思いから遠ざかることはできない。
瞑想によって思いを制し、心を静めることが重要なのである。
ただし、思いを制し、心を静めることだけではならない。
不要なものを取り除くことは大切であるが、それと同時に必要なものを育てなければならないのである。
人は座っているだけではならず、動き働かなければならないのだ。
静と動が正しく導かれて初めて満たされるのである。
必要と不要のバランスが保てずに、豊かさは存在しないであろう。
わたしは自らの心と人生のバランスを考え直さなければならない時期にきていた。
ここで自らを見つめ直さなければ、わたしの人生は詰まらないものとして終わるに違いない。
わたしはただ歳を取った老人にはなりたくなかった。
老いた日においても役に立つ立派な人物になりたかったのである。
そのための今であるような気がしていた。

2013年7月10日水曜日

追憶 505

瞑想は日課として毎日継続していた。
どのように忙しくて疲れていても、わずかな時間であってもそれを休むことはなかった。
わたしは気の向くことであれば、それを飽きずに続けることができた。
自分のことを飽き性だと思っていたが、どうやらそれは間違いであったようだ。
わたしが何かに対して継続することができなかったのは、その対象に対する興味や楽しみが不足していたからであろう。
わたしが飽き性なのではなく、選択が間違っていたのである。
人がもしも、継続することができないのであるならば、それはその対象が間違っている可能性があるだろう。
どのような人も、好きなことには情熱的である。

瞑想をしていると、わたしは心(感情)が静まるのを感じた。
日常生活の中ではそれらは様々な方向に刺激されて高ぶる。
感情が高ぶり、心が乱れていると、知らず知らずの内に心は破滅的な意識によって汚れていく。
人や状況に対する苛立ちや焦りや心配などが、人の心を汚すのである。


2013年7月9日火曜日

追憶 504

そして、その力を人に分け与えることができたら素敵だと考えるのであった。
人が心に持つ何らかの煩(わずら)いによって苦しんでいるのであれば、わたしはそれを取り除きたいと思うのである。
そのためには、自分自身の心の中に存在している様々な煩いを取り除く術を身に付けなければならない。
わたしの心は多くの煩いによって束縛を受け、多くの苦しみを味わった。
わたしは自分で自分のことを歪んだ人間だと知っている。
その歪みがわたしに悪さをさせ、苦悩する状況を導いてきたのである。
わたしはその歪みを矯正し、正しい思いを以って生きなければならない。
正しい思いがあれば、心は豊かさを得るであろう。
豊かな心であれば、そこには分け与えるものが何かあるはずである。
わたしは意識的な力の強化と自らの心の矯正に努めることによって、人間的な成長を成さなければならないのである。

2013年7月8日月曜日

追憶 503

わたしが小さな思考を駆使して辿り着いた答えは「自立」であった。
自分自身のことが十分にこなせなければ、人のことにまで手が回らないであろう。
自分自身の食う分があって、分け与えることができるのである。
自分自身が不足しているのに、他人に与えるのは困難である。
例え自分自身が持っているものが少なくても、持っているものがあるのならば、そこから分け与えることができるだろう。
わたしは多くのものを持ってはいないが、せめて人に分け与えることができる量は持ちたいと思った。
そのために、自分自身のことを十分にこなし、自立しなければならないのである。
何かに依存している状態では既に不足している。
大切なのは分け与えることなのである。
分け与えるためには、多くのものを持っていなければならない。
わたしは意識的な力(霊能力?)が自分自身のために十分に活用することができるように、自分なりにより一層努めるのであった。

2013年7月7日日曜日

追憶 502

今のわたしには難しいことではあるが、わたしは意識的な力によって苦しんでいる人や霊の役に立ちたいという目的を持った。
それを具体的な形として組み上げなければならないのである。
今のわたしが目指すべきは、この不安定な力(霊能力?)を体系化することであろう。
そのような意思が導かれたことによって、わたしの考えと行動には変化が生じた。
これまでは、興味や好奇心に先導されることによって進んでいた道が、使命感や責任感に従って進むようになったのである。
自分自身のために求めていた道が自分自身のためのものではなく、自分以外の存在のためのものになる。
その感覚は、わたしを少しだけ「大人」にしてくれたようであった。

2013年7月6日土曜日

追憶 501

わたしの人生の幸福は、個人的な幸福の上に成り立つのであろう。
一般的な幸福を当てはめたとしても、わたしの人生の幸福は得られないと感じた。
わたし個人としての目的を果たすことが必要なのである。
個人的な目的を果たすことによって、わたしは個人的な幸福を得るであろう。
個人的な幸福を得たなら、人生という自分以外のことを含めた全体的な幸福を得ることができるのである。
全体的な幸福を以って、わたしは人生に幸福を得るであろう。

わたしは人生の幸福を得るために、個人的な目的の達成に乗り出さなければならなかった。
それは、全体的な幸福を達成するためである。
だから、わたしは全体(社会や人や命や自然や意識的な存在や世界)に対して貢献しなければならないのである。

2013年7月5日金曜日

追憶 500

それが、自分自身としての個人的な人生の目的だったのである。
生活を成り立たせることが人生だと思っていたわたしの考えは浅はかであった。
生活が成り立てば幸せだと思っていたが、そんなことで満たされる程、人生は簡単なものではなかったのである。
もしも、生活が成り立つこと、例えば家族が健康であり、家庭が円満で日常が安定することが人生の幸福であると言うのならば、わたしは生まれた時点から幸福であり、そこで迷うことも苦悩することもなかったであろう。
祖父が始めた養殖漁業を父親から引き継ぎ、素敵な嫁をもらって、仲の良い家庭を築く…
それは素晴らしいことであるのかもしれないが、わたしにはその未来や人生が虚しく見えたのである。
世間一般に求められている「幸せ」によって、わたしという個人が幸福になれるとは到底思えないのである。
もちろん、そのような幸せを否定している訳ではない。
わたしの中にもそのような幸せを欲する気持ちは大きくあった。
でも、それだけではわたしという個人が満たされることがないと思うのである。


2013年7月4日木曜日

追憶 499

わたしは様々な苦しみを味わったことで、ようやく自らの意思によって進みたいと思える道の入り口を見付けたのである。
わたしの苦しみは大したことはないだろうが、それでもわたしはもがき苦しんでいたのである。
苦しみには様々な種類があるだろう。
わたしの場合は、それは先が見えないという苦しみであった。
それは、停滞を意味する。
どれだけ仕事や生活が安定し、多くの物を所有し、食物によって腹を目一杯に満たしても、わたしの心が苦しみの束縛から逃れることはなかった。
わたしにとっては、金品には価値がない。
価値がないというのは語弊があるが、金品だけでは心や人生を満たすことができなかったのである。
わたしは必要以上(使用する以上)の金品を所有することによって、自身の人生に対しては金品よりも、もっと価値のあるものが必要だと思うようになった。

2013年7月3日水曜日

追憶 498

人は皆、向上心を持って生きなければならない。
向上心を持って生きるためには、向上心を持つことのできる道を選択する必要があるだろう。
人は自分の興味が及ぶものでなければ向上心を持つことができない。
わたしがこれまでの人生において向上心を持つことができなかったのは、自らの進んでいる道に興味がなかったからである。
本当の意味で楽しかったことがあっただろうか?
きっとなかった。
そう思い込みたかったのは、道を知らなかったからである。
人生には様々な可能性が存在しているが、わたしにはそれを見付ける力量はなかったのである。
それは苦しみ以外の何ものでもなかった。
興味の湧き立つ道を知らず、向上心を持たずに生きることは心への拷問である。
興味を持たずに楽しまず、向上心を持たずに怠慢な人生には喜びが存在しない。
そのような人が苦しむのは当然のことなのである。


2013年7月2日火曜日

追憶 497

わたしには、意識的な力によって人や社会の役に立ちたいという目的意識が芽生えていた。
わたしは自分の好きなこと、自分の楽しいこと、自分ができることを人の中に投じなければならないのだ。
社会はサービスの台頭によって成り立っている。
様々なサービスが同業種間で競い合い、より良いものを社会に提示することによって暮らしは高まる。
人は豊かな社会を求めている。
ならば、より良いもの(サービス)を提示することが必要であるだろう。
人(個人)がより良いものを提示することがなければ社会に発展はなく、社会の発展がなければ人生の豊かさも得られないのである。

2013年7月1日月曜日

追憶 496

これまでのわたしの生き方では人生の幸福には辿り着くことができないと理解した。
わたしはたくさんの悪事を働き、苦悩の中に生きていたのである。
わたしが感じる幸福の中には、それに反するようにいつも苦しみが潜んでいた。
わたしはそのことに気が付いていながら、それが幸福であろうと思い込んでいたし、その矛盾を指摘しようなどとは思わなかった。
矛盾を指摘することで、必死に掴んでいる希薄な幸福でさえ、指の間をすり抜けて消えるのが怖かったのだ。
何をしてもわたしの心が満たされることはなかったが、わたしはその見かけだけの幸福にしがみつこうと必死にもがいていたのである。
わたしは苦しみの中に在って、それが愚かな行為であることにようやく気が付いた。
幸福とは、心が満ちることであろう。
わたしにも、幸福というものの正体は分からない。
しかしながら、今までのわたしが抱えていた「何か」は幸福とは程遠いものであったことは理解することができるのである。

2013年6月30日日曜日

追憶 495

その答えを得るためには、「何のために生きるのか?」という答えが必要である。
何のために生きるのか?ということが分からない人には、幸福とは何であるのかを理解することができないであろう。
わたしはとにかく、自分という存在が何のために生きるのか?という答えを探さなければならない。
例えそれが見付かったとしても、探し続けなければならないだろう。
人には常に道(可能性)が必要なのである。
信念に従って生きる人は幸福を得る。
信念を持たず、怠けて生きる人が幸福に辿り着くことはないであろう。
わたしはこの世界の何かや誰かに貢献したいという思いが芽生え始めていた。
もちろん、思うだけでは何も得られない。
人は行動によってそれをその手に掴まなければならないのである。
わたしは自分の「好きなこと」によって、自分にできることがないか?を探していた。


2013年6月29日土曜日

追憶 494

人は自らのできることに従って、その欲求に対して建設的な方向性を与えなければならない。
欲求が建設的な方向性を持つことができなければ、苦しみに束縛されるのは時間の問題なのである。
欲求に方向性を与えるのは、自己の責任である。
欲望に根差して強欲に集めるのは、その中にある毒も集めるようなものである。
人は毒を選別しなければならない。
手当たり次第に口にしているなら、毒をも飲み込んでしまうであろう。
何が食べられるのかを知ることは大切なことなのである。
何をしなければならないのか?
何をしてはいけないのか?
自らの行いを選別することができるの人は幸福である。
幸福に従って進むのであれば、人は幸福を得る。
不幸に従って進むのであれば、人は不幸を得る。

この世界においての幸福とは何なのか?

その答えを知ることも重要なのである。


2013年6月28日金曜日

追憶 493

この世界においての幸福が、我欲から発する欲望を満たすことで得られるのであれば、そうすることが望ましい。
いや、寧ろそのようにしなければならない。
しかしながら、この世界においての幸福は我欲から発する欲望を満たすことでは得られないものなのである。
世の中には、強欲な人間ほど豊かさや幸福を得るという考えがある。
ある意味では、それは間違ってはいない。
強欲に根差して行う者は、力強く多くのものを集めるからである。
欲求が深く、それでいてそれが強い人間ほど何かを得ることができるのは、この世界の理(ことわり)であるだろう。
欲求が破滅の方向性を持てば、それは欲望となる。
この世界においては、破滅への道は簡単である。
築くことは難しく、壊すことは簡単なのだ。
そのため、多くの人は建設的な欲求よりも、破滅的な欲望を支持してしまう。
それは、簡単に多くのものを集めることができるが、後で人生が難しくなるのである。

2013年6月27日木曜日

追憶 492

わたしは自分自身の人生と同時に、世界のこと(自分以外のこと)について考えなければならなかった。
自分自身の内側と外側を良くすることで、わたしは救われるのである。
人生というものは、自分だけが良ければ良いというものではないだろう。
今までのわたしは自分が幸福ならば、それで満たされると思っていた。
しかしながら、わたしのその考えは浅はかであったと認めざるを得ない。
今までのわたしは、自分自身を満たすためだけに生きてきた。
それは、欲望に従って行う亡者の姿であった。
残念ながら、そのような生き方がわたしを救うことはなかった。
自分のことだけを考えていたわたしは、苦しみの中に生きたのである。

2013年6月26日水曜日

追憶 491

良い行いとは、貢献することである。
何かの役に立ち、この世界を少しでも発展させることが良い行いである。
人は良い行いによって世界を救うが、世界を救う人は自分自身の人生を救うことができるであろう。
自分自身のことに満足がいかない人は、力不足によって貢献することもできないので、世界を救うことはできない。
世界を救うことができない人は、自分自身の人生に満足することはできないのである。
世界を救うというのは、世界の発展に貢献することである。
人は世界の歯車である。
その歯車が良い形と良い素材であることは、良いことである。
人は自己を鍛え、更には研磨して良い人にならなければならない。
そのためには、良い行いを納める必要があるのである。

2013年6月25日火曜日

追憶 490

その対象物が何であるのかを知るためには、その対象物に触れなければならない。
打ってみて、それが木材だと、それが鉄材だと、それが石材だと分かる。
わたしが何のために生きているのか?という答えに辿り着くためには、自らの人生を打たなければならないだろう。
人生を打ってみて、その反響によってわたしはその答えを理解しよう。
光の反射によって世界が映し出されるように、わたしは良い行いによって人生を照らし出さなければならない。
悪い行いによっては、暗闇(無知、疑心、誤解、苦悩)が増すばかりである。
暗闇は真実を覆い隠してしまう。
良い行いによってのみ、わたしはこの世界の真実を見ることができるのである。

2013年6月24日月曜日

追憶 489

わたしはこの世界の真実(真意)が知りたかった。
何のためにこの世界は存在しているのだろう?
何のためにわたしという人物が存在し、何のために人生を生きているのだろう?
わたしはどこへ行けば良いのだろう?
わたしはどうなることが正解なのだろう?
わたしとは何であろう?
この世界の真実に辿り着くことができれば、わたしは自分のことを知ることができるような気がしていた。
それは、何の根拠もない漠然とした考えである。
しかしながら、これまでわたしが苦しんできたのは、きっとこの世界のことを知らなかったからである。

「何のために生きているのか?」

この答えに辿り着くことができれば、わたしは苦しまないような気がするのである。



2013年6月23日日曜日

追憶 488

苦しみによって心が傷付くことがなければ、わたしは以前にも増して「悪い人間」になっていただろう。
苦しみによって心を痛めたからこそ、わたしはその方法が間違っていることに気が付き、自らを改めることによって「良い人間」に近付くことができたのである。
以前のわたしは苦しみというものが嫌いで仕方がなかった。
わたしを苦しめるものはこの世から無くなれば良いと思っていた。
(自分にとって)良いことだけが幸せに繋がると信じていた。
しかしながら、それは甘い幻想に過ぎなかった。
苦しみに会わない人が、自己を正しく鍛えることなどできないだろう。
それは、苦しみを知って喜びを知ることができるように、失敗を経ることによって成功に近付くことができるからである。

2013年6月22日土曜日

追憶 487

わたしはその時に心の平穏の有難さと、人を憎むことの愚かさを知った。
それに加え、小さな力の重要性を理解したのである。
しかしながら、その知識がすぐに実行されることはなかった。
わたしにはそれをすぐに成すことができるような力がなかったのである。
わたしは長い時間をかけて、友人に対する怒りの感情と闘い、それを制した。

友人に対する怒りの感情によって苦しんだことによって、わたしの価値観には大きな変化が起きたように思える。
少なからず、それ以前の自分よりは冷静であり、謙虚でいられるようになったと思っている。
わたしはできる限り、人を傷付けたくないと思った。
できるならば、人の役に立たなければならないと思えた。
わたしは自分の姿に恥じ入ったのだ。
そして、自分の未熟さに絶望したのである。
同じ過ちを繰り返してはならないと心に誓う。
わたしは「良い人間」にならなければならないと思うのであった。

2013年6月21日金曜日

追憶 486

当時のわたしには分からないことではあったが、わたしは本能か教育か別の何かによって救われた。
境界線を超えることは誰にも容易にできることであるだろう。
人が怒りの感情の犠牲になるのは簡単なのである。
それを救うのは、心の中に在る思いやりや優しさなどの温かな気持ちと、感謝や理解などの建設的な思考なのだ。
当時のわたしが紙一重で助かったのは、わたしの中に存在している温かな気持ちや建設的な思考が、諦めなかったおかげであろう。
怒りの感情に支配されていた心にとって、それ等はとても小さな力であったが、小さく打つことが全体を揺さぶることもある。
わたしが怒りの感情の支配を振りほどき、反省と改善に至ったのはこの小さな力が小さくても心を打ってくれたからなのである。
どのような状況にも諦めてはならない。
小さな力でも大きな力を制することもあるのだ。

2013年6月20日木曜日

追憶 485

それから、わたしは友人に対する批判を改め、自らの愚かさを反省した。
それはとても難しいことであり、苦しいことでもあったが、わたしが救われるために残された道はそれ以外にはなかったのである。
自らを反省し、怒りの感情から脱しない限りはわたしは更なる苦しみに向かって進み、帰って来れなくなるような気がしたのだった。
わたしはそれを怖いことだと感じた。
これまでも良くは知らなかった「自分」という存在が、更に分からなくなるような気がして怖かったのである。
わたしは十分に不幸であったが、これより先は更なる不幸が待ち構えていることは容易に想像することができた。
キャンプ場で出会った女の霊や、その他の破滅的で黒い姿をした霊たち…
彼らはこの感情の境界線をまたいでしまったのだろう。
彼らは、「向こう」から帰って来れなくなった人たちなのである。

2013年6月19日水曜日

追憶 484

怒りの感情が心を満たして溢れると、それを抱えきれなくなった自己はひび割れて崩壊し、やがて反省に至る。
わたしは絶望感によって自己を省みて、壊れた自己の代わりに新たな自己の形成をしなければならなくなった。
これまでの古い自己では、これ以上先に進むことができないということなのである。
それはわたしにとって良いことである。
友人や恋人、それに周囲の人たちを傷付けたという事実が変わることはない。
わたしの失敗と苦悩が過去から消え去ることはないのである。
しかしながら、わたしは失敗し、苦悩することによって未来の可能性を得たのである。
愚かな自分を見て、それを改善することができるのである。
わたしが人を傷付けることで苦悩し、絶望感を味わうことがなければ、それが「悪いこと」であると理解することはできなかったのである。

2013年6月18日火曜日

追憶 483

自分という存在が分からなくなった時、わたしは怒りの感情が端から崩れていくのを感じていた。
今まで自分自身だと思っていた人間が分からなくなると、わたしは強烈な絶望感に襲われたのである。
それは、自己の否定であるように思えた。
怒りの感情が心の容量を超え、心を壊したのだろう。
わたしは自分という存在が世界から否定され、掌(てのひら)から擦り抜けてどこかへ去っていくような感覚を味わった。
それはとても苦しく、とても悲しいものであった。
人の最大の苦しみは、自分という存在を見失うことであるのかも知れない。
自分という最大の拠(よ)り所を失うことは、絶望以外の何物でもない。
人は自分という存在によって必要を満たすのである。
その自己を失ってしまうことは、必要を失うことに等しいのだ。
人生の中心は自己である。
それを見失うことなく保つことは、とても大切なことなのである。

2013年6月17日月曜日

追憶 482

彼女にまで否定されると、わたしは心の安息を完全に奪われたような気がしたた。
彼女はわたしのことを否定するつもりはなく、ただ正しいことを言っただけなのだ。
彼女が正しいのである。
しかしながら、錯乱した当時のわたしは自分自身が正しいと思い込んでいた。
感情の行き場を無くした心は、コントロールを失って暴れた。
わたしは心底怒り、心底悩み、心底苦しかった。

それから、怒りの感情が冷めることはなく、わたしは長い時間(約二週間)その苦しみを味わい続けた。
その時のわたしは何をやっても楽しくなかった。
わたしの周りにいた人たちも楽しくはなかっただろう。
わたしを煩(わずら)わしく思い、嫌っていたに違いない。
心が苦しみによって引き裂かれ、わたしは自分という存在が分からなくなった。