瞑想は日課として毎日継続していた。
どのように忙しくて疲れていても、わずかな時間であってもそれを休むことはなかった。
わたしは気の向くことであれば、それを飽きずに続けることができた。
自分のことを飽き性だと思っていたが、どうやらそれは間違いであったようだ。
わたしが何かに対して継続することができなかったのは、その対象に対する興味や楽しみが不足していたからであろう。
わたしが飽き性なのではなく、選択が間違っていたのである。
人がもしも、継続することができないのであるならば、それはその対象が間違っている可能性があるだろう。
どのような人も、好きなことには情熱的である。
瞑想をしていると、わたしは心(感情)が静まるのを感じた。
日常生活の中ではそれらは様々な方向に刺激されて高ぶる。
感情が高ぶり、心が乱れていると、知らず知らずの内に心は破滅的な意識によって汚れていく。
人や状況に対する苛立ちや焦りや心配などが、人の心を汚すのである。
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