このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2015年12月31日木曜日

追憶 1207

今回のセッションによって、わたしたちは互いの経験と理解を深めることができただろう。
それは、今後わたしたちが人助けをするのに役立つはずである。
大天使ミカエルも千手観音も、人助けや世界への貢献を求めた。
成長することによって、どのような存在も”愛”の重要性に気が付くのである。
知らなかった何かを知り、理解を深めることによって、わたしたちは”愛”を重んじることになるだろう。
”愛”による行為によって、わたしたちは生きる意味を見出すはずである。
それは、幸福とは何か?という難しい問いの答えになるのではないだろうか?
あなたは幸福とは何か?という問いに答えることができるだろうか?
わたしにはそれを安易に答えることができない。

2015年12月30日水曜日

追憶 1206

これは、とても素晴らしい体験である。
誰であっても、本を読むことで著者の考えを得ることができる。
それは素晴らしい体験である。
しかし、霊的な体験はそれを遥かに凌駕(りょうが)するのだ。
本を読むことが平面的な体験ならば、霊的な体験は立体的な体験のようなものに思える。
それは、実体験にも似た”実体験”である。
わたしは、自分というフィルターを通して、他人の学びを体験することができる。
わたしにとって、それは何ものにも代え難い貴重な宝物なのだ。
これは、どれだけの金銭を支払っても得られないものである。
なぜなら、人は他人にはなれないからだ。
わたしはその体験によって、理解を深めることができる。
これ以上に幸福なことがあるだろうか?
わたしには思い付かない。

2015年12月29日火曜日

追憶 1205

わたしはAに対して、仕事の終わりを告げた。
虎柄の座布団を降りたAは振り返ってわたしに感謝の言葉をくれた。
同じようにわたしも感謝の言葉を返した。
これは、貴重な体験を与えてくれたことへの感謝である。
日常的に考えるのだが、わたしが欲しているのは理解である。
理解することによって、何かを実現するための力になるのではないかと思うのだ。
何かの原理でも良いし、考え方でも良いだろう。
とにかく、何かに対して理解が深まることがなければ、何かを実現することはできないと考える。
Aの中には、わたしには体験することができない体験が存在している。
わたしが自分自身の体験の重箱の隅をどれだけつついても、それ等は決して得られないものである。
それを、擬似的にでも体験することができるのである。


2015年12月28日月曜日

追憶 1204


「わたしの手は、あなたのためにあります。あなたの手はわたしのためにあるのです。わたしの手の数のように、多くの人に援助の手を差し伸べなさい」

千手観音の穏やかな声がわたしに届いた。
それをそのままの形でAに伝えた。
快(こころよ)い返事が返ると、千手観音は微笑みを浮かべて光の中に溶けた。

わたしは必要な仕事をした。
今までと同じように、Aは自力によって人生を切り開いていくだろう。
その中で様々な人に出会い、様々な形で援助の手を差し伸べるだろう。
これまでと違うことは、千手観音という守護者による心強さがあることだ。
人にとって、これ以上に必要な手助けがあるだろうか?
少なくとも、今のAにはそれ以上は必要ないのである。
これからの人生で、Aがどのように活躍するのか?
今から楽しみである。

2015年12月27日日曜日

追憶 1203

これは、ライトワーカーに限ったことではないだろうが、人は苦しみによって”良いもの”を得るのである。
そのため、嫌な過去に対して心を閉ざしてはならない。
それは、成長のための大切なヒントを失うということであるからだ。
これから、Aは自分自身の正体と人生の目的を思い出すだろう。
それは、過去の苦しい体験の手助けによって実現するはずである。
Aが自分自身の正体と人生の目的を思い出した暁(あかつき)には、これまでとは違う人生を生きることになるだろう。
それは、常識では計り知ることのできない素敵な世界である。

2015年12月26日土曜日

追憶 1202

それ等の経験と感情は、すべてが自分自身を思い出すために必要なものなのである。
Aは苛めを受けた過去の体験によって、いつかは自分自身の正体を思い出すことができる。
もしも、順風満帆に生きることになれば、誰も自分自身の正体を思い出すことはできない。
なぜなら、現状に満足することによって、それ以上を求めることも得ることもできないからである。
それに、自分以外の人や世界を支えるためには、人や世界を理解する必要がある。
苛めによって、Aは人の心の中に巣食う弱さ(問題点)を見たはずである。
わたしはどちらかと言えば苛める立場(故意ではない。わたしは遊んでいるつもりでも、有り余るエネルギーは時に人を傷付けた。受ける方は苛められたと思っても仕方ない)であったが、それによって自分自身の中にも、他人の中にも弱さを見たのである。

2015年12月25日金曜日

追憶 1201

ライトワーカーの人生は波乱に満ちていることが多いようだ。
そして、多くの場合、自分自身の内面と向き合わなければならない。
”普通”の魂も波乱万丈な人生には違いないが、その目的は少し違うのである。
ライトワーカーの場合は、苦しみを受けることによって自分自身の正体と役割を思い出し、人生の目的を果たすためである。
ここが”普通”の魂との差であろう。
ライトワーカーは”普通”の人生を生きることは難しい。
なぜなら、”普通”の魂に比べて形而上的であるため、様々な問題や歪みに気が付いてしまうからだ。
気が付くことはなくても、何処と無く違和感を覚える。
当たり前を当たり前として受け入れることが難しく、反抗的になったりする。

2015年12月24日木曜日

追憶 1200

ライトワーカーとは、世界を向上させるために働く魂のことであろう。
すべての魂が世界を向上させるために働くが、ライトワーカーはその下支えや先導の役割を担っているのではないだろうか?
”普通”の魂の主な目的は、経験によって自身の浄化や成長を実現させることである。
ライトワーカーの主な目的は、それを支えることにあるだろう。
ライトワーカーは自身のことよりも、他人や世界のために働く傾向にある。
しかしながら、ライトワーカーが特別であり、優れている訳ではない。
様々な経験によって自身の浄化と成長を実現しなければならないのは同じことである。
しかし、ライトワーカーの魂は”普通”の魂に比べて経験値に優っている。
それは、長く存在しているということである。
そのため、”普通”の魂よりも浄化や成長に必要な経験は少なく、形而上(唯心)的な感覚は元々強く備わっている。
その能力(例えば霊能力、超能力、直感、包容力、先見性など)によって、唯物論に偏った者を支えることにより、唯心論を受け入れさせるという役割を担っているのであろう。


2015年12月23日水曜日

追憶 1199

即ち、Aの心の中で出会った女の子は、主に苛めによって形成された破滅的な価値観であり、トラウマとなっている感情であろう。
千手観音はAの守護者であり、必要な経験を得られるように見守っている。
千手観音はAが”使い物”になるように手助けしているに違いない。
苛めを始めとするすべての経験は成長のために導かれ、それを総括(そうかつ)しているのが千手観音なのではないだろうか?
形而上学(けいじじょうがく)には、”ライトワーカー”という言葉がある。
Aは正にその典型であろう。
ライトワーカーとは、そのまま光の仕事人である。

2015年12月22日火曜日

追憶 1198

Aは小学生の頃に苛(いじ)めにあっていたそうだ。
Aにはそれがネガティブな印象として残り、今でも当時の同級生が嫌いであるという。
全身が痺(しび)れた。
雷に打たれたことはないが、そんな感覚だった。
わたしは何も知らなかった。
Aは明るく、笑顔の絶えない女の子であった。
それは、表立った情報でしかなく、心の奥底には苦しみを抱えていたのである。
それで合点がいった。
すべての点が線によって結ばれた。
わたしの覚えた違和感、そして、心の中の黒い女の子、千手観音の存在…
それ等に対して、わたしは一人で納得した。

2015年12月21日月曜日

追憶 1197

大天使ミカエル(霊的な存在たち)がわたしを唯物論から救い出してくれたように、千手観音はAを救い出そうとしているのであろう。

Aの口から千手観音という言葉が出たことに、わたしは心底驚いた。
それも、Aも忘れているほどの心の奥底にしまわれていた記憶である。
わたしの見ているものは、強(あなが)ち間違ってはいないのだろう。
恐らくは、妄想ではないはずだ。
わたしとAの双方が確認したのであるから、千手観音(のようなもの)は存在しているはずである。
その時、唐突(とうとつ)にAが話を始めた。



2015年12月20日日曜日

追憶 1196

人の幸福というものは、お金や物、地位や名誉などによって実現することは出来ない。
精神が幼い段階ではそれ等を喜び、幸福を得ることもできるだろう。
しかし、いつかは必ず煮詰まる。
想像してみて欲しい。
あなたが老いさらばえ、体力も、仕事も、健康も、地位も、名誉も、お金をも失う時が来ることを。
その時にも、同じことが言えるだろうか?
人は”老後”のためにがむしゃらに生きているが、その価値観は人を真の意味で幸福にするのだろうか?
人はいつか、目には映らない大切なものの存在に気が付く。
そして、訳も分からずそれを探し始めるのだ。

2015年12月19日土曜日

追憶 1195

それは、Aの本質、人生の目的、世界での役割…
様々な原因に由来しているだろう。
Aが人生を果たすためには、千手観音(のように見える存在)のことを知る必要があるのだろう。
人生には、唯物論だけでは理解することや、果たすことが出来ないことがあるはずである。
個人的には唯物論だけでは何一つ理解することも、果たすことも出来ないと考えている。
どのようなものに対しても、唯物論と唯心論の両方が必要なのである。
”神”や愛、心や絆というものを唯物論で説明することができるだろうか?
生命という当たり前のことでさえ、唯物論だけでは答えを導き出せないだろう。
文明が発展すれば、肉の塊に生命を宿らせることができるのか?
何千、何万年後にそれができたとしても、それは唯物論だけでは実現しない事柄であるだろう。





2015年12月18日金曜日

追憶 1194

トンネルを幾つか越えて、空を見上げた時にそこに大きな何かが浮かんでいることに気が付いた。
それが千手観音であったのである。
それは、山よりも高く、雲よりも大きかった。
神々しく輝き、幼心に美しいと感じた。
幼心には、それが違和感としては映らない。
残念ながら、その時にそれをAが家族に話したどうかは忘れてしまった。
しかし、話したところで他の誰の目にも映らなかったであろう。
千手観音はきっと、Aに対して見せたのである。

2015年12月17日木曜日

追憶 1193

これは、Aがまだ保育園に通っていた頃の話である。
ある日、Aは家族と共に車に揺られていた。
Aを乗せた車は、旧津島町から宇和島市に至り、吉田町を抜けて西予市の宇和町に向かう峠道に差し掛かっていた。
吉田町と宇和町の間には、長い峠道がある。
それは、山肌に張り付くように設けられた道で、幾つものトンネルを有していた。
二車線の道が整備されており、個人的には走ることにストレスは感じない。
宇和海を望む絶景がストレスを癒しているのかも知れない。
高速道路が開通するまでは、そこが主要道路として皆の生活を支えていた。

2015年12月16日水曜日

追憶 1192

霊の話をした後に千手観音の話をするのは気が引ける。
それは、ただでさえ怪しい話が、更に怪しいものになってしまうからである。
Aがわたしに対して不信感を表すのではないかと一瞬だけ迷った。
しかし、わたしがAに対して隠すようなことは何もないと思い出した。
それは、わたしにとってもAにとっても大切な話であると確信することができたからだ。
わたしはAが受け入れ易くするために、冒頭にこれから怪しい話をすることを伝えた上で話を始めた。

わたしの話を聞き終わると、Aが興奮して言った。

「わたし…それ見たことある」

わたしは何のことだか分からなかった。

2015年12月15日火曜日

追憶 1191

わたしは千手観音と会い、伝言を言付かったのでAに話すのである。
それは、理解されないかも知れないし、妄想であるかも知れないが、わたしにとっては事実であり、Aにとって人助けが損失であることはないだろう。
わたしは言われた通りに伝え、言われた通りに行うのである。
自分自身の利益のために、自分勝手には言わないし行わない。
寧(むし)ろ、言えないし行えないのである。

千手観音はわたしを離れた。
それは、高い場所で輝く太陽のようである。
彼女?はわたしたちを見守った。

2015年12月14日月曜日

追憶 1190

誤解して欲しくはないが、これは自分自身を高い所に置くのでも、他人を低くするのでもない。
人にはそれぞれの経験の段階(経過)があり、その分野に触れる期間の問題なのである。
わたしは数学が得意ではない。
どちらかと言えば、感覚的な人間であり、理論家ではないと思っている。
計算と計画を用いるよりも、どちらかと言えば直感に従う方が優勢である。
これは、時として望ましい結果をもたらすが、時として望まない結果をもたらす。
理論家は、その反対の結果を得る。
時と場合によって最善は異なるために、
とちらが優れている、劣っているなどということはないのだ。
ただ、わたしが言いたいのは、知らないことをあたかも知っているように嘯(うそぶ)くことは良いのか?ということなのである。
そして、神々の意思はどこにあるのか?ということなのだ。

2015年12月13日日曜日

追憶 1189

天使に会ったからといって、わたしが西洋の宗教の信者になることはない。
わたしの信仰は、宗教という限られた世界にはないのである。
仏に会ったからといって、Aに東洋の宗教の信者になれというのでもない。
天使も仏も、そのようなことは一言も言わない。
宗教を信じろ、信者となれというのは人間だけである。
わたしが人間に従うだろうか?
人間に従った20年という月日は、わたしを殺したではないか。
神父や坊主はコスプレをした人間である。
それも、何も知らない哀れな人間である。
彼等は天使や仏に直接会ったこともない。
会えないのである。


2015年12月12日土曜日

追憶 1188

それ等は安心感を与えてくれるだろうが、本当の満足感を与えてくれるだろうか?
しかし、霊的な満足感も決して完結することはない。
どのような満足感も限定的なものであり、人はすぐに飢えてしまう。
これは、天然物を食すか、人工物を食すか?程度の差でしかないのかも知れない。
しかし、病気のリスクには違いがあるだろう。
サプリメントで健康を保つのが難しいのと同じである。
金銭や人間関係や宗教などに満足感を求めると、心を病むリスクが高いのである。

2015年12月11日金曜日

追憶 1187

どんな推測も想像の域を出ることはない。
そのため、そのような可能性もあるという範囲で考察を終える。

千手観音は、Aに”仕事”を求めている。
それは、Aの生き方に関わることであり、幸福に直結していることであろう。
”当たり前”の生き方では、残念ながらAが幸福を得ることは出来ない。
それは、自分自身によって証明していることである。
わたしとAが同じ幸福の形を所有しているはずはないが、霊的な存在を無視して得られる幸福が存在しないことは同じであろう。
多くの人は金銭や人間関係、宗教などに依存することによって幸福を実現しようとする。

2015年12月10日木曜日

追憶 1186

天使は”やる気”に満ちている。
施しの愛とでもいうのだろうか?
天使はいつも、出来ることはないかと探しているような印象を受ける。
千手観音からは違う種類の愛を感じる。
それは、悟らせる愛とでもいうのだろうか?
仏からは、見守ることで助けようとしているような印象を受けるのである。
天使と仏は見た目からして違うが、その性格も大きく違うように思える。
個人的には天使や仏という存在は、高次元の(肉体を持たない)意識的な生命体、もしくは宇宙人の種族なのではないかと考えている。
種族(出身地(惑星、銀河))が違うために見た目が違い、文化背景が違うために教え(方法)が違うのではないだろうか?


2015年12月9日水曜日

追憶 1185

わたしはぼんやりと声を聞いた。

「お願いがあるのです。多くの存在を助けなければなりません。Aにはその役目があります。Aはその力によって多くの存在に手を差し伸べることができるのです…」

話を聞いていると、少しずつ意識が輪郭を取り戻そうとしていた。
わたしは目の前の大きな光の中に千手観音を見た。
それは、山のように大きく、たくさんの腕を持った女性?であり、ヒンドゥー教や仏教の千手観音(千手千眼観自在菩薩)に似ていた。
わたしには他に思い当たるものはない。
千手観音?からは癒しの波動のようなものを感じる。
天使とは違うフィーリングである。

2015年12月8日火曜日

追憶 1184

安らかで良い気分であった。
頭上の光がわたしを癒しているようである。
わたしは夢見心地で頭上の光を眺めていた。
すると、光が大きくなっていることに気が付いた。
それは、わたしに近付いているのだろう。
光が大きくなるにつれて、わたしは意識が輪郭を失うのを感じていた。
とても良い気分である。

「お願いがあるのです…」

その時、しなやかな女性のような声を聞いた。
輪郭を失った意識では、その声はぼんやりとしているのであった。

2015年12月7日月曜日

追憶 1183

わたし(天使)からの言葉をAは真剣に受け止めているようである。
背中越しの反応ではあったが、注意がわたしに向けられていることは明確であった。
唐突(とうとつ)に頭の中にヴィジョンが浮かんだ。
それは、離れた頭上に光を放つ何かがあるというものである。
わたしは話を簡潔(かんけつ)に切り上げて、ヴィジョンに集中した。

それは、とても暖かな光であり、春の陽射しを思わせる。
何だか幸せな気持ちになり、心の鎧(よろい)のようなものがほどけていくように感じた。
わたしはイソップ寓話(ぐうわ)の”北風と太陽”を思い出した。

2015年12月6日日曜日

追憶 1182

わたしの口が紡いだ言葉の内容と、わたしの推測は概(おおむ)ね一致していた。
推測の時点において、わたしは天の意思を聞かされていたのかも知れない。
わたしの口が紡いだ言葉とは、天使(ミカエル)の言葉である。
わたしは通訳に過ぎない。
わたしは天の道具であり、ただの代弁者である。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただし、”わたし”というフィルターを通してすべてが行われる。
そのため、わたしの実力、状態と掛け離れた力を発揮することはできない。
使い手によって道具は実力以上の力を発揮することができるが、それ以上のパフォーマンスを求める時には、より優れた道具を必要とするのである。
プロフェッショナルが道具にこだわるのはそのためである。
わたしは天(”神”)の道具であることを知っている。
そのため、より良い仕事をするために努めるのである。

2015年12月5日土曜日

追憶 1181

光の中を昇る女の子は、天使が光をまとっているかのように美しかった。
天が閉じると、目の前には暗闇が広がった。
しかし、この暗闇はネガティブなものではない。
晴れ晴れとした暗闇であった。
瞼(まぶた)を開くと、ここぞとばかりに照明の光が網膜に入り込んできた。
眩しさの先にはAのか細い背中が見える。
わたしは”帰って来た”のだと思った。
体験したことを頭の中でまとめようとした時に、口が勝手に言葉を並べた。

2015年12月4日金曜日

追憶 1180

わたしは女の子を抱き締めた。
わたしの愛情が役に立てば良いと思ったのである。
すると、閉じられた目から桜色の頬に一筋の涙が流れた。
それを見て、わたしは心が満たされていくのを感じた。
もう大丈夫だと思った。
すると、天から光の束が降り注ぎ、わたしと女の子を包んだ。
それは、暖かな光であり、わたしは安心感を得たのである。

「ありがとう」

そう聞こえた。
これは、女の子の意思であろう。

「後のことは心配せずに行きな」

わたしが返すと、女の子の口角が上がったように見えた。

2015年12月3日木曜日

追憶 1179

わたしはそこで、大体の事情を悟った。
この女の子は、Aの幼心であるだろう。
小児性人格と言うかも知れないし、インナーチャイルドと言うかも知れない。
恐らくはそれである。
推測するに、Aはわたしには知り得ない何等かの心の傷を抱えているのであろう。
何かしらのネガティブな体験によって、破滅的な感情を生み出したが、それを消化(昇華)することが出来ずに抱えているのではないだろうか?
怒りや悲しみなどの破滅的な感情を放置しているのであれば、それは”重さ”によって心に沈殿してしまう。
破滅的な感情の沈殿物がトラウマと呼ばれる心的外傷として形成されてしまうのだ。
Aにとっての心的外傷というものを、わたしは女の子という形で認識したのではないかと思うのである。

2015年12月2日水曜日

追憶 1178

人差し指と中指が宙に十字を描く。
光の十字架は輝きを放ったが、女の子はそれを反射することはなかった。
わたしは光の十字架を女の子に突き刺すことを知っている。
だから、恐れは無い。
小さな胸に光の十字架が刺さった時、女の子の身体は仰(の)け反った。
まるで、電気ショックによって全身に力が入ったようである。
悲鳴が耳に痛かった。
すると、本来ならば口のある場所から、大量の黒い煙のようなものが吐き出されたが、それは途中で光の粒に変わり、そのまま天の光の中へと消えた。
その光景を見終わって振り返ると、腕の中には幼いAの姿があった。

2015年12月1日火曜日

追憶 1177

清々しい風が心を渡るようであった。
それは、険しい山道の果てに輝く水平線を眺めるような達成感である。
木箱の中には女の子が抱えていた感情が詰まっていたと、わたしは直感によって理解した。
これによって、わたしがそうであったように、女の子も幾分か軽くなったのではないだろうか?
振り返ると、女の子は倒れていた。
わたしは女の子を抱え上げた。
わたしの腕の中には、泣き疲れて眠る子どもがいた。
女の子の表情は黒いために知り得ないが、それが安らかなものなのではないかと感じる。
女の子は長い間闘ってきたのだろう。
何故かそう思うのである。

2015年11月30日月曜日

追憶 1176

光の十字架が箱に刺さると、わたしは強烈な吐き気を覚え、意思に関係なく口が開いた。
すると、大量の黒い煙のようなものが吐き出され、瞬く間に頭上に広がった。
黒い煙のようなものを吐き出すと、吐き気も消えた。
わたしは疲労を感じていたが、女の子を助けるという使命感の方が優っていたのである。
再び光の十字架を生み出すと、頭上の黒い煙のようなものに投じた。
光の十字架は、黒い煙のようなものを金色の光によって優しく包むようである。
光に包まれた黒い煙のようなものは、光の粒へと変容した。
それは軽くなり、天の光へと向かって上昇していく。
その美しい光景によって、いつの間にかに疲労は去っていた。

2015年11月29日日曜日

追憶 1175

箱に触れていると、恐怖感が沸き起こってくるように感じた。
箱に意識を合わせると、怒りと悲しみの感情が伝わってくる。
それ等のネガティブな感情が、わたしを重たくさせるのであろう。
女の子を見ると、頭を抱えて震えているようである。
それを見た時に、この箱が女の子を苦しめているのだと直感した。
空中に十字を引くと、光の十字架が現れる。
これは、金色の光を放ち、周囲の暗闇を押し退けた。
光の十字架を掴むと、わたしはそれを抱える箱に突き刺した。

2015年11月28日土曜日

追憶 1174

「それで良いのです」

どこからか声が届いた。
同時に胸の痛みと吐き気が強襲し、わたしは黒い”箱”を吐き出した。
意識が分断するように感じるほどの衝撃である。
回復を待って改めて見ると、それは古びた木箱であった。
頑丈そうな鉄の鍵がかけてあり、簡単には開きそうにもない作りである。
胸の痛みと吐き気は無くなった。
恐らくは、この木箱が原因であったのだろう。
女の子は泣くのを止め、座ったまま沈黙していた。
疲労した身体に鞭(むち)を打って、わたしは木箱に近付き、両手でそれを抱え上げた。
何が入っているかは分からないが、それは想像していたよりも随分(ずいぶん)重たいものであった。

2015年11月27日金曜日

追憶 1173

わたしが望むものは何であろう?
胸の痛みがわたしに問い掛けているようである。
わたしが望むものは、女の子の幸せであった。
これは、偽善ではない。
わたしは幼い頃から、余り自分の幸せには執着しなかった。
誰かが同じものを欲している時には、大抵の場合、それを相手に譲(ゆず)った。
争うことは苦手であり、競争することにも価値を感じない。
そのため、大抵の場合、自分のことは遠慮するのである。
この時も、わたしは自分の幸せのことなど考えてはいなかった。
胸の痛みよりも、女の子の涙の方が苦しいと感じるのである。
そのために、わたしは問い掛けに対して、女の子の幸せを望んだ。


2015年11月26日木曜日

追憶 1172

女の子はずっと泣いていた。
その声を聞きながら、わたしは苦しみに耐えていた。
女の子の泣き言を聞く程に、少しずつではあるが気分の悪さが増しているように思える。
しかしながら、わたしは動くことができなかった。
この苦しみを受ける必要を感じていたのである。
この苦しみを耐えることこそが、わたしに求められている”仕事”なのだと感じるのだ。
そのため、わたしは苦しいが女の子の側を離れないのである。
突然、強烈な吐き気に襲われた。
胸の奥で何か大きな”固形物”が動いているのを感じる。
これが動く度に、胸の奥が激しく痛むのであった。

2015年11月25日水曜日

追憶 1171

振り向いたのは、真っ黒な顔であった。
しかし、それが女の子であることは分かったし、泣いているのも分かった。
女の子からはネガティブな印象を受ける。
見た目が真っ黒であることや泣いていることだけではなく、ネガティブなエネルギーが伝わってくるのである。
わたしの問い掛けに対して、女の子は泣き言で返した。
ここには女の子以外には誰もいない。
そして、何も見当たらなかった。
相変わらずの胸の痛みと、全身を襲う重さによって、わたしはその場に腰を下ろすことにした。
泣いている女の子に話し掛けても何の反応もないので、わたしはその場で休むことにしたのである。
肉体を所有している訳ではないので、休んだところで状態は変わらないのであろうが、習慣がわたしにそうさせたのであろう。

2015年11月24日火曜日

追憶 1170

目を凝らすと、少し先の暗がりに更に黒い塊が見えた。
小さな泣き言はそこから届いているようである。
わたしは胸の痛みと、全身を襲う鉛(なまり)のような重さを引き摺(ず)って、なんとか歩を進めた。
近付いて見ると、それが女の子の背中であることが分かった。
そこにあるものが女の子の背中だと分かった途端、わたしは安心感から変な緊張を所有していたことに気が付いたのである。
しかし、それだけでは胸の痛みと、全身を襲う重さが解消されることはなかった。
それにしても、こんな寂しい場所に女の子が独りで泣いているのにはそれなりの理由があるのだろう。
それを聞くために、わたしは小さな肩に手を伸ばした。

2015年11月23日月曜日

追憶 1169

少し奥に進むと、秋の夕暮れのように周囲が急に暗くなった。
幼い頃のわたしは、秋の夕暮れに切なさを覚えることがあったが、その時と同じような感覚を得た。
寂しさが、わたしを感傷的にさせるのだ。
これは、Aの心の中に存在している”センチメンタル”ではないだろうか?
わたしが向かっているのはそこである。
更に進むと、悲しみによって動揺した。
胸が切り裂かれるような痛みによって脈打ち、ここから逃れたいと思った。
わたしは歩けないと感じた。
これ以上は進みたくないのである。
その時、どこからか女の子の小さな泣き言のようなものが、わたしにそっと触れた気がした。

2015年11月22日日曜日

追憶 1168

Aの心の中は、入り口はとても明るく、良い雰囲気を感じた。
わたしはここを心地好く思い、長居したいと考えた。
しかし、目的を思い出して先へ進むことにした。
心の入り口とは、心理学でいう顕在意識(けんざいいしき)であろう。
それは、自分自身である程度の認識、記憶、操作することのできる意識である。
Aは気立ての良い子である。
朗(ほが)らかな印象を受けるし、それは幼い頃から変わりないと感じる。
それは、わたしの受ける印象通りの心であった。
しかし、どこかで悲しみが引っ掛かる。
その矛盾が気になって仕方ないのである。

2015年11月21日土曜日

追憶 1167

目を閉じると、Aの背中にわたしの右手の人差し指と中指が走った。
それをわたしは天使文字と呼んでいるが、欧文文字の筆記体のようではあるが、見たこともない文字の書体であり、それは金色に輝いている。
神代文字であるアヒル草文字を横書きにしたような姿である。
天使文字を三行記し、それを直線で囲む。
そうすると、それは輝きを増して一つの光のようになる。
それを背中に押し込む。
すると、どういう訳か、心の中を理解し易くなるのであった。

2015年11月20日金曜日

追憶 1166

「始めなさい」

天から声があり、わたしは仕事を始める必要があることを悟った。
Aは、その顔には似合わない緊張を浮かべていた。
わたしがAを呼ぶと、緊張の上にぎこちない笑顔が咲いた。
細い背中を見ると、わたしは悲しくなった。
これはわたしの感情ではない。
”誰か”の感情が伝わってきているのだ。
どこかに、悲しんでいる誰かがいるのではないだろうか?
取り敢(あ)えず、今のわたしに分かることは悲しみの感情がどこからか来ていることである。
今のわたしに出来ることは、その出処を探すことであろう。

2015年11月19日木曜日

追憶 1165

Aの抱える”病”と、その原因が何であるのかは分からない。
しかし、それが存在していることは確信した。
根拠の無い確信ではあるが、科学でさえ同じ段階を踏む。
根拠の無い理論によって観察と実験に至り、その積み重ねが理論の証明(可否)を実現するのである。
現段階では、Aが何等かの”病”とその原因を抱えていて、それを取り除く(解決)することによって、より豊かな人生を得ることができるという理論がわたしの中にある。
この理論を観察と実験によって証明する必要があるのだ。
その観察と実験こそが、光の仕事なのである。
机上の空論ではいけない。
命を掛けて実際に向き合う必要があるのだ。

2015年11月18日水曜日

追憶 1164

部屋に入り、わたしは中央の虎柄の座布団の前に、Aは入り口の座布団に腰を下ろした。
わたしはAに楽にしておくように伝えて、深い呼吸と共に瞼(まぶた)を閉じた。

鼓動が早まるのは、苦しみに会った喜びであろうか?
それとも、他の要因であるのか?
わたしが強く感じるのは、胸の奥にある歪みである。
これは、破滅的な意思を所有し、”病”の元になっている。
わたしが認識することができるAの抱える問題の中で、優先されるべきはこれであろう。
そこまで感じ取ると、意思に反して瞼が開いた。

2015年11月17日火曜日

追憶 1163

しかし、この胸の苦しさは何であろうか?
悲しみと辛さが混じり合うような嫌な思いが胸の中で叫んでいる。
それは、手が届かない場所にある背中の痒(かゆ)みのような、何とも言えないもどかしさなのである。
Aを部屋に案内しながら、わたしは胸の中で叫んでいるものの正体が気になっていた。
そして、同時にそれはわたしを高揚させた。
なぜなら、わたしにとっては、人の心に存在する破滅的な感情は”仕事”を意味していたからだ。
多くの人は苦しみを嫌うが、わたしはそれが好きなのである。
しかし、人が苦しんでいるのが好きな訳ではない。
人が抱える苦しみに向き合い、それを解決に導くことが好きなのである。
それは、わたしの役割と能力に関係していることであるだろう。

2015年11月16日月曜日

追憶 1162

約束の時間にAはやって来た。
玄関の磨りガラス越しには、夜の静寂を背景として、細身の女性の姿が映し出されている。
しなやかに伸びた頭身には、山ツツジのような気高さと、凛とした美しさを感じた。
扉を引くと、退屈な山の緑をツツジの花が鮮やかに彩るように、Aの笑顔が夜の静寂を華やかなものに変えていた。
わたしは胸を打たれたように感じて、Aの笑顔を褒(ほ)めた。
それを受けたAは、しなやかにそれを返す。
すっかり女性になっていた。
久々の再会を喜び合って、わたしはAを部屋に通した。


2015年11月15日日曜日

追憶 1161

Aと会うのは何年ぶりだろうか?
年齢が離れているのもあって、小学生の頃からはまともに会ってはいない。
Aが中学生の頃以降は記憶にもあまり無いような状態であった。
十九か二十歳くらいだろうか?
見た目はかなり変わっているはずである。
わたしは久々の再会に”少しだけ”心を踊らせていた。
しかし、わたしはAの容姿よりも内面に興味があった。
幼い頃から知るAの内面を知りたいという欲求もあったのは事実である。
わたしにとっては、人の内的構造とでも言うのだろうか?
そんなものに価値を覚えるのである。
これは、わたしの持つ”存在する意味”から生じる価値観であろう。

2015年11月14日土曜日

追憶 1160

Aは、わたしの幼馴染の妹である。
年齢は5歳程離れている。
わたしにとっても可愛い妹のような存在である。
幼い頃は家族ぐるみで時々遊んではいたが、年齢を重ねるのに比例して、会う機会は少なくなった。
中学に上がってからは、ほとんど話した記憶がない。
幼馴染の妹とは言え、接点はないのである。
時々見掛ける程度のことであった。

光の仕事を始めて2、3年経過したであろうか?
詳しくは覚えていないが、わたしの話を自らの母親に聞いたであろうAから連絡を受けた。
わたしたちは時間を調整して、後日会うことにした。


2015年11月13日金曜日

追憶 1159

個人的な事柄ではあったが、わたしは恥を忍んで彼女に体験を伝えた。
これは、彼女にとっても何か大切な知識となると感じたからである。
彼女の反応は薄いものであった。
それは、実感が湧かないからであろう。
それも仕方のないことに思える。
しかしながら、いつかは役に立つはずである。
なぜなら、すべての人が自分自身と向き合わなければならない時が来るからだ。
それから、わたしたちは様々な話をして別れた。
今回の光の仕事が、彼女の今後に良い影響を与えることを願う。
前世では一度切りの出会いであったが、今世ではどうであろう?
(この話から現在に至る約6年間(曖昧)、わたしは彼女には会っていない)
出会いは真理が因果の仕組みによって決めるだろう。
わたしと彼女の間に因果の必要性があれば、再会も用意されるはずである。

2015年11月12日木曜日

追憶 1158

彼女の背中に、わたしは安心感を覚えた。
そして、同時に自分自身との約束を果たしたように感じて、どこか誇らしかった。
わたしは自分自身との約束を、長い年月(幾つかの人生)を経てようやく成し遂げることが出来たのである。
人が抱えている苦しみの原因の一部は前世にあるだろう。
生まれ変わる時には、苦しみの原因である無知や誤解などの歪みも持ち越す。
そのようにして、わたしたちは自らの歪みを乗り越える機会を伺(うかが)っているのであろう。

2015年11月11日水曜日

追憶 1157

多くの人は苦しみを否定するが、それは浅はかであろう。
すべての苦しみが内から生じると表現しても過言ではないだろう。
受けるものをどう解釈するかは本人次第である。
内に歪みを所有していなければ、誤解もない。
人が苦しみを受けるのは、内に苦しみの元が存在しているからに他ならないのである。

光の粒が天に溶けた後、わたしは瞼(まぶた)の内側を見ていることに気が付いた。
いつの間にかに意識が切り替わり、視点が戻っていたようである。
わたしは室内の明かりに慣らすように、ゆっくりと瞼を上げた。

2015年11月10日火曜日

追憶 1156

光の十字架によって、黒い煙は光の粒となった。
光の粒は黒い煙よりも遥かに軽く、自ずから天に向かって上昇するのであった。
天には一番星のように見える太陽のような光が存在し、光の粒はそこへ吸い寄せられるように上昇を続けるのである。
わたしは光の粒に対して感謝の気持ちを伝えた。
しかし、光の粒に対しての思いではなかった。
それは、黒い煙に対しての思いである。
黒い煙はわたしの歪みではあったが、この歪みのおかげで気付きを得ることが出来た。
これを所有していなければ、わたしは未だに愚かなままであっただろう。

2015年11月9日月曜日

追憶 1155

魂に汚れが付着し、それが魂からの光を歪める。
その歪みが心となり、心は選択肢を与える。
心による選択肢によって人は行為し、その行為の集積が世を築くのである。
そのため、一見すると大袈裟な見解も、強(あなが)ち間違っているとは断言出来ないのである。

黒い煙の情報を読み取ることで、わたしは新たな気付きを得た。
その気付きを以て、この学びは終わりである。
わたしは右手が光の十字架を黒い煙に投じるのを見た。

2015年11月8日日曜日

追憶 1154

前世の話から世の中の話になるのは、いささか強引であるように思うかも知れない。
しかし、人の世は(ある意味)人が作り上げるのである。
人とは心であり、魂である。
(本当は魂などという個体ではなく、全体と一つの存在(”神”)であり、何者でもないのだが…)
前世の記憶、経験、感情はここに保存されていると推測される。
人が世を作ろうとする時には、魂に従って行うだろう。
そのため、前世と世の中の話には因果が存在していると思うのである。

2015年11月7日土曜日

追憶 1153

絶食療法や瀉血療法(しゃけつりょうほう)というものがある。 
西洋医学は”ある目的”のためにこれ等の療法を認めない。
現代人が寿命を伸ばしているのは西洋医学のおかげである。
大抵の人は自分を肉体だと思い込んでいるし、長生きすることが幸福などと思っている。
しかし、現状といえば、健康寿命は明らかに減少している。
病人が生にしがみ付いているのが現状なのだ。
もちろん、西洋医学だけが悪者ではない。
食品業界、衛生業界、教育界、出版情報業界、政界、経済界、工業界、建設業界…
すべての相互作用によって今日の歪んだ世界が築かれているのである。

2015年11月6日金曜日

追憶 1152

しかし、どれだけ多くの知識や能力によって”武装”したとしても、それによって守ることが出来るだろうか?
そもそも、敵など存在するのだろうか?
敵など存在しないのに武装することは、今日の国同士がやっている”戦争ごっこ”と同じではないのか?
本来ならば、人類に敵など存在しないのに、仮想の敵を作り上げ、争うことによって他者から利益を奪い取る。
それが今の地球の姿である。
付け加えようとするから、満足することが出来ないし、満足することが出来ないということは、本質を欠いているのである。
天使達はそのことを知っているのであろう。
そのために、わたしの内から前世の歪みを引き出させるのである。

2015年11月5日木曜日

追憶 1151

付け加えるということは、大きく複雑になるということである。
それは、純粋さが失われるということでもあるだろう。
人に付け加えるのであれば、自我が大きく複雑になる。
これによって、人は”自分”という存在を見失う。
今日を生きる多くの人は、”自分”が何者であるのかを知らないであろう。
それは、大きく複雑になった自我によって、本来の”自分”が隠されているということだ。
多くの人は”自分”を確立するために、多くのことを付け加える。
様々な知識や能力によって”武装”した存在を”自分”としているのである。

2015年11月4日水曜日

追憶 1150

今回、わたしは自らの過去生から問題(間違った信仰)を取り除いたように、病を得れば何かを取り除く必要があるのではないだろうか?
病を解決しようとして薬を加えるよりも先に、病を発生させる考え方と習慣を取り除く努力があれば、病に会うことなどないであろう?
西洋医学の基本理念は、”毒を以て毒を制す”ということであるから、基本的には加えることに専念するのである。
明治維新以降の日本は、それまでの取り除く努力から、付け加える努力へと変わっていった。
日本的な侘(わ)びの精神は失われ、西洋的な盛(さか)りとでも言うような精神に取って代わられたのである。
それは、歪んだ世界と心を助長した。

2015年11月3日火曜日

追憶 1149

多くの人は肉体的な感覚の中に生きている。
自分という存在を肉体(脳や心臓)だと考えている。
そのため、人生には疑問が尽きない。
疑問が尽きないから、苦悩が絶えないのである。
大抵の人が苦悩を抱いて生きているだろう。
そして、その解決を唯物的な偏った方法に頼る。
何かしらの病を得れば、薬によって解決しようとする。
病院に出向き、医者という他人に任せれば解決すると本気で考えているのである。
肉体の病を薬などの方法で治療することにはまだ理解することはできるが、精神の病をも薬などの方法によって治療しようとすることには驚くばかりである。

2015年11月2日月曜日

追憶 1148

そのため、”神”が前世のことを来世に語ることなどは容易いであろう。
”神”はわたしに間違った信仰を取り除くように語り、彼女への因果を果たすように命じたのである。
今回の仕事の要点はそこにあるだろう。
すべてを理解した時、わたしは初めて彼女と面識した時に久しく感じたことへの合点がいった。
前世を含めて考えれば、自らの感覚にも納得が得られるのである。
人間的な感覚とは、肉体的な感覚であろう。
肉体にとっては、今回が初めての人生であるから、死後の世界や生まれ変わりなどは存在しないと結論付ける。
肉体にとってはそれで正しいのである。

2015年11月1日日曜日

追憶 1147

”神”という存在がいるのであれば、それは人間のような小さな感覚の中にはいないであろう。
”神”は、人間の所有する時間感覚に限定されてはいないはずだ。
人は一年や十年、百年や千年単位で時間を捉えるが、”神”はそのような感覚を持たないであろう。
想像することもできない程の長い時間単位と、想像することもできない程の短い時間単位を所有している。
もしかすると、時間感覚すら所有していないかもしれない。
時空間を超越し、別の世界(次元)を同時かそれ以上に扱っている。
過去も現在も未来も、同時かそれ以上に扱っている。
”神”とはそのような存在であるだろう。
しかし、これは、わたしの貧弱な想像力が思い付いた”神”の限界である。
本当は、わたしには想像すら及ばない強大な存在であるに違いなのだ。

2015年10月31日土曜日

追憶 1146

わたしはそれを思い出すために彼女に引き合わされ、彼女の協力を得て自らの問題を解決しているのである。
しかし、最大の目的は彼女への恩返しであったに違いないだろう。
当時、助けてくれた恩を今返す時なのである。
彼女にとっては、わたしが天使などの高次元の存在から導く知恵が必要であったに違いない。
観察すると、人生は相対的なものであり、互いに意味のあるものであると理解することができる。
人は、因果の仕組みによって自らの行為を必ず受ける。
それは、すぐに実現するかも知れないが、来世で実現するかも知れない。
しかし、ベストタイミングによって必ず実現するものなのであろう。

2015年10月30日金曜日

追憶 1145

わたしはこれを取り除く必要があった。
これは成長するために解消しなければならないカルマである。
これを所有し続けていれば、この人生においても間違った信仰を続けることになり、やはり愚者として生きることになるだろう。
生まれ変わって来た魂は、同じことを繰り返すような暇はないのである。
それは、生まれて来た目的のためだ。
これは、わたしに正しい信仰を”思い出させる”ための経験であるだろう。
わたしたちは誰も(善人も悪人も、天使も悪魔も)が、正しいところ(神、光、愛など)から生まれているが、そのことを忘れている。
忘れている状態が無知である。
だから、思い出す必要があるのだ。
思い出すことができなければ、目的を果たすことができないのである。

2015年10月29日木曜日

追憶 1144

しかし、権力者が間違った方法を取るように、わたしも間違った方法を取る。
当時のわたしは権力を握ってはいないし、暴力に訴えることもしなかったが、間違った信仰を所有していたことは確かである。
それは、無知から生じる浅はかな思想であったに違いない。
”神”という存在を知らなかったにも関わらず、それを知った気でいたに違いない。
良く知りもしないのに人々に教えよう、人々を変えようなどという意気込みに思い上がっていたのだ。
”神”を信仰しているつもりが、いつの間にかに自我を信仰していたに違いないのである。
その間違った方法がわたしの足枷(あしかせ)となり、苦悩の過去として内に残留したのであろう。
それが、銀色のアタッシュケースの中に詰まっていた”嫌なもの”の正体である。

2015年10月28日水曜日

追憶 1143

しかし、それを快く思わない者はいつの時代にもいる。
人の世で欲望の権力を所有している愚者(ぐしゃ)は、真理を説く者、心に従って生きる正しい者を弾圧する。
それは、真理の正しさによって自らの欲望の権力が揺らぎ、それを手放さなければならないということを理解するからである。
権力とは、欲望の成せる業(わざ)であるだろう。
支配体制というピラミッド型の人間関係を構築しなければ、権力者は権力を失うのである。
それは、下らない自尊心を保つことができないことへの恐怖に起源している。
言うなれば真理を伝える者は、そのような人の世(心)の歪みを取り除くために生まれるのである。
当時のわたしは、その仕事を完遂(かんすい)するために奔走(ほんそう)していたのだろう。


2015年10月27日火曜日

追憶 1142

意識を合わせると、そこから意思のようなものを感じ取ることができた。
これは、黒い煙の持つ情報である。
それを読み解くと、黒い煙は前世のわたしが生み出した感情であると感じた。
しかし、それはネガティブな性質の感情である。
そして、それは先程の男に関係していると強く感じるのであった。

当時のわたしは(恐らく)東ヨーロッパのどこかの地域で、”神”の教えを広める活動をしていた。
この時の”神”とは真理のことであり、特定の宗教的な布教活動ではなかったと思う。
当時は誰かを師事していて、その教えを広めるために旅を続けていたのだろう。

2015年10月26日月曜日

追憶 1141

光の十字架は、わたしに銀色のアタッシュケースを貫くように告げた。
わたしは意識的にではないが、光の十字架を銀色のアタッシュケースに振り下ろした。
光の十字架は、まるで鍵のようにその口を開かせた。
すると、そこから黒い煙のようなものが大量に飛び出して空中に固まるのであった。
わたしにとって、それは”嫌なもの”である。
しかし、それに触れる必要を感じていた。
わたしは心を静め、目前に浮かぶ黒い煙のようなものに意識を合わせた。

2015年10月25日日曜日

追憶 1140

わたしは銀色のアタッシュケースを今すぐにでも投げ出したかった。
この中には”嫌なもの”が詰まっている。
わたしはそれを遠ざけたい。
わたしはその中身を永遠に忘れたいのだ。
この中には重要な何かがある。
しかし、わたしにとっては不利なものであるだろう。
そうでなければ、ここまでの拒否反応を示すはずがないのである。
しかし、わたしは向き合うと決めた。
乗り越えなければならないのだ。
覚悟を決めて大きく息を吸った。
すると、右手が空中に伸びて、そこに十字を描いたのである。

2015年10月24日土曜日

追憶 1139

銀色のアタッシュケースを引き出す程に頭痛は強くなっているように思える。
ここからは気合いである。
辛抱強く、丁寧に行うのだ。
苦闘の末、わたしは頭の中からそれを取り出すことに成功した。
銀色のアタッシュケースが頭の中から取り出された瞬間に、頭痛は跡形もなく消えた。
気分は晴れ晴れとしていた。
しかし、手に持つ銀色のアタッシュケースからは不快感を得ているのである。
わたしはこれを嫌なものに感じていた。
そして、これが頭痛の原因であると確信したのである。

2015年10月23日金曜日

追憶 1138

わたしは未熟であるが故に成長に対する願望が強い。
少しでも早く、少しでも大きく成長しなければならないと思うのである。
頭痛に耐えながら手を引くと、頭の中に銀色のアタッシュケースが現れた。
わたしが掴んでいるのは、映画で見掛けるそれであった。
なぜ、銀色のアタッシュケースが頭の中から出てくるのかは分からない。
しかし、あるものはあるのである。
これは、わたしの想念が作り出した表現であり、別の人が見れば違うものになるのかも知れない。
霊的な世界は不思議である。

2015年10月22日木曜日

追憶 1137

しかし、向き合わなければならない。
苦悩を以てまで向き合うのは、その先にのみ成長が実現するからであろう。
人生において現れるものは、そのすべてが成長に関することだけである。
そのため、理由が分からなくても、結果は分かっている。
多くの人が苦悩を嫌うのは、すべてが成長という結果に至るということを知らないからであろう。
ただ、それだけの理由である。
わたしは未熟であるにしても、そのことを知っているので、この状況に向き合うことを許されている。
人生は知っていることしか実現しない。
すべては内の現れなのである。

2015年10月21日水曜日

追憶 1136

この矛盾は、心の葛藤そのものであった。
これは心の葛藤を現しているのではないだろうか?
わたしは何を出したいと思い、出すのを恐れているのだろう?
自分自身と向き合うには勇気が必要である。
長短のすべてを受け入れる覚悟が必要であるだろう。
わたしはどこかで、内側から出てくる何かを恐れているのである。
それは、何であるかも忘れてしまった過去に封印した記憶。
思い出したくもない感情に違いない。

2015年10月20日火曜日

追憶 1135

ある程度黒い煙を吐き出した時に、何かが引っ掛かるような感覚を得た。
黒い煙は弱くなり、それ以上は出なくなった。
しかし、頭痛は強くなった。
わたしは自分の意思に反して、自らの頭に手を伸ばした。
そして、そのまま頭蓋骨の中に手を差し入れた。
そのまま奥の方を手探りすると、何か硬いものに触れる。
それを掴むと、妙に手に馴染んだ。
不思議な感覚である。
それを引き抜くのは簡単ではない。
出してくれと言いながら、出るのを拒絶するのである。


2015年10月19日月曜日

追憶 1134

唸り声と共に吐き出される黒い煙を眺めていると、何かが内側から外側へと出たいのではないかと強く感じるようになった。
頭痛は、内側に存在する何かが、わたしに気付いて欲しいためのサインなのではないだろうか?
それは、まるで扉を叩くようである。
わたしの深層に存在している潜在(無)意識が、表層の顕在意識に対して応答を求めている。
わたしにはそのような意思を感じるのである。
黒い煙はずっと上昇し、その果ては光の先に消えている。
頭痛と吐き気などの体調不良を抱えながらも、わたしはその光景に見惚れていた。
そのため、これを苦痛だとは思わなかった。
寧(むし)ろ、何か良いことが起きるような予感を得ていたのである。

2015年10月18日日曜日

追憶 1133

わたしが前世の記憶を彼女に話して聞かせた時、強烈な頭痛が起きた。
それは、頭蓋骨の内側から金槌(かなづち)によって打たれているような感覚である。
頭の中から何かネガティブなものが出てきているのではないかと思った。
わたしの瞼は強制的に閉じた。
頭痛と共に込み上げる感情がある。
それは、肉体を通じて大きな唸(うな)り声のような形として表現される。
意識ははっきりとしていて、内側(精神)と外側(肉体)の感覚はどちらもはっきりしている。
大きく開けた口を天に向けると、わたしは自分自身を黒い煙を吐き出す焼却炉の煙突の様だと思った。

2015年10月17日土曜日

追憶 1132

わたしにできることは何一つない。
しかし、彼女の力になりたいと強く感じる。
わたしにできることがあるとすれば、それは天使や高次元の存在達が教えてくれる知恵を伝えるだけである。
それも、わたしという通訳を通しているために完全なものにはならない。
しかし、不完全な知恵であっても、何かしらの役には立つはずである。
身振り手振りの情報でも無いよりはましであるだろう。

意を決して瞼(まぶた)を開いた。
わたしは正直に体験したことを告げた。
彼女も忘れていたので、わたしの感謝と謝罪に対しては何の実感も得られないようであった。
(しかし、このヴィジョンが事実かどうかは分からない)
無理もないだろう。
わたしも何かを期待して話した訳ではない。
だから、彼女の反応など気にしてはいないのである。
この場合、大切なのはわたしの気持ちであるだろう。
なぜなら、これはわたしのカルマの解消と、彼女とわたしの意識改革(霊的、意識的な世界への興味と気付き)のための学びなのだから。

2015年10月16日金曜日

追憶 1131

結論から言えば、わたしは
今夜
前世の恩返しをしているのである。
前世において、前世のわたしは前世の彼女に助けられている。
その因果が時代を経て、今結ばれるのであろう。
今回の人生において、彼女は様々な無知と誤解を所有し、それによって心を曇らせている。
何かしらの苦しみを抱えているからこそ、わたしを訪ねたはずだ。
彼女にとっては、その心の状態が難しかったのだろう。
それは、前世のわたしにとって、追手が迫ったあの状況が難しかったのと同じである。

2015年10月15日木曜日

追憶 1130

ここまで、前世の記憶だと断定的に書いたが、それを検証することはできない。
脳が生まれた後の体験(実体験、映画や小説、想像など)における様々な記憶の中から適当な情報を一瞬で紡ぎ出し、そこに感情移入することによって前世の記憶と思わせるということもあるのかも知れない。
しかし、それでは夢のように脈絡が希薄な物語になってもおかしくはないように思えてならない。
今回の体験は、断片的な場面を切り取って見せられた(見た)が、わたしにはその前後の状況を既に知っているように思えるのだ。
脳が一瞬で物語の背景をも制作するということもあるのかも知れないので、どうしても検証は難しいだろう。
感情論ではあるが、これは前世の記憶であり、過去の体験であるように思えるのである。


2015年10月14日水曜日

追憶 1129

それは、わたしが自らに課した約束を忘れていたからである。
わたしが見たヴィジョンは、わたしの体験である。
追手から逃げている男はわたしの前世の記憶であり、そこで男を逃がしたのは今日わたしを訪ねた彼女の前世である。
なぜなら、彼女の顔と、白人女性の顔が重なって見えたからだ。
わたしには白人女性が彼女にしか見えなかった。
顔の作りで見れば、二人は全くの別人であると言えるが、中身は同一人物であるとしか思えないのでだ。
不思議なことではあるが、そのように強く思ってしまう。

2015年10月13日火曜日

追憶 1128

一番は、彼女が危険に晒(さら)される可能性が高いことである。
仲間と見なされてしまえば、彼女も無事では済まないだろう。
男は直ぐに立ち去ることを告げた。
彼女は何も言わずに裏口へと向かい、静かに扉を開けてくれた。
小さな声で礼を言って、男は再び月夜を駆けた。
男は彼女への恩を決して忘れないと心に決めた。

瞼(まぶた)の裏を見詰めると、わたしは居た堪(たま)れない気持ちになった。
わたしは瞼を開くのが恥ずかしかったのである。

2015年10月12日月曜日

追憶 1127

周囲を見渡して、誰にも見られていないことを確認する。
扉に肩を擦るようにして家内に飛び込んだ。
扉の閉まる音で、追手の声と足音がこの世から消えてしまったのではないかと思えるほど、家内には穏やかな空気が流れていた。
男は自分が天国に辿り着いたと思った。
しかし、それは一瞬のことであり、自らの荒々しい呼吸が目の前に生と死とを計りにかける天秤を見せたのであった。
振り返ると、先ほどの女性が緊迫の表情で扉に耳を当てていた。
男は脳裏に過(よぎ)る追手のことが気になり、急いでここから出て行かなければならないと思い至った。

2015年10月11日日曜日

追憶 1126

その時、真横に位置する住宅の木製の扉が音もなく開いた。
それは、警戒心を以て外の様子を伺(うかが)う行為であるだろう。
男は扉の軋(きし)む微かな音と、中に潜む警戒心に気が付き、無意識の内に闇夜よりも更に暗い隙間を見た。
男の激しい息遣いと、もうすぐ近くに聞こえる追手の罵声(ばせい)にも似た声と足音が場を繋いでいた。
その時、扉が少しだけ開くと、日に焼けた白髪混じりの白人の女性が、顔を月明かりに映すことを嫌うようにして男を呼んだ。

「…中へ」

彼女のその言葉だけで、男はすべてを察した。



2015年10月10日土曜日

追憶 1125

男の焦りは、体力の消費に力を貸していた。
ある程度走ると心臓が悲鳴を上げたので、膝(ひざ)に手をついて休む他無かった。
追手の息遣いまで聞こえそうである。
頭の中に弱音が聞こえてくる。
それは、諦めて楽になれと言うのである。
しかし、今の苦しみから逃れることはできても、後にはそれよりも大きな苦しみが待ち構えていることを男は知っているのだ。
そのために、目の前の苦しみから逃れる訳にはいかなかった。
心臓が許せば再び走り出そう。
男はそう決意した。

2015年10月9日金曜日

追憶 1124

革の靴(サンダル)は走るのには適さない。
石畳がそれを助長させていた。
男は暗がりの街を懸命に逃げている。
月明かりに照らし出されるのは、石で建築された街並みであった。
小さな石の住宅が狭い通りに所狭しと並んでいる。
男にはそれが迷路のように思えた。
自身の心臓の高鳴りと激しい息遣いに混じって、遠くから切迫した男達の声が届く。
これは、追手によるものだろう。
身体が鈍くなるのと、声が近くなるのが比例している。
このままでは、追手の毒牙にかかるのも時間の問題であるだろう。


2015年10月8日木曜日

追憶 1123

彼女と会話をしながら、頭の中に別のヴィジョンが映し出されていた。
わたしの意識は、彼女との会話よりもそちらのヴィジョンに対して比重を起き始めた。
わたしにはそれを止めることはできない。
そのため、彼女に断りを入れて、頭の中の別のヴィジョンに向かうことにした。

暗がりの中を息を切らせながら走る。
男は焦っていた。
それは、追い手があったからである。
男は捕まる訳にはいかなかった。
それは、目的を達成しなければならないからである。
ここで死ぬ訳にはいかないのだ。
捕まれば死罪は免れないだろう。
心臓が軋(きし)むことを気にしているような余裕は無かった。

2015年10月7日水曜日

追憶 1122

気が付くと、わたしは彼女の背中を眺めていた。
”仕事”に区切りがついたのであろう。
わたしは心を整えて、天の意思を待った。
天の意思は、わたしの内側からやって来る。
それに従って、わたしは彼女の中で体験したことを話して聞かせた。
相槌(あいづち)を打つ彼女には思い当たる部分があるようであった。
話している間も、わたしにはもう一つの働き掛けがあった。
わたしと彼女の会話に割り込むようにして、第三者が話し掛けてくるような感覚である。
それは、わたしの中で徐々に大きさを増していくのであった。

2015年10月6日火曜日

追憶 1121

彼女の意識の状態、人生における学びがわたしを導き、これまでの古い価値観や生き方を手放す必要を迫っているのであろう。
彼女にとっては当たり前の生き方も、これからは変えなければならない。
それは、人生の深い意味に気付き、誰かや常識に決められた人生ではなく、自分自身の人生を生きるためであるだろう。
自分自身の人生を発見し、それを生きることができなければ、本当の意味での幸福を実現することはできないのである。
人それぞれに人生の意味は異なるが、それに気が付かなければならないのだ。
そのための一つの出来事がわたしとの出会いであるだろう。

2015年10月5日月曜日

追憶 1120

彼女も、そんな常識の中に生きている。
わたしも同じような教育を受けて来た。
この時代に生きている大抵の人が、この時代の常識という集合的な思考体系の中に人生を築くのである。
それがわたしたちの心に対して、ネガティブな影響を与えている。
しかし、それが悪いという訳ではない。
それは、心の中に抱えている毒(自我)を吐き出すための必要悪というものであるだろう。
肉体が嘔吐(おうと)を求めている時に、喉の奥に指を差し込むのと同じようなものなのではないだろうか?
彼女がわたしを訪ねたのは、毒を吐き出すためであるだろう。
ある意味において、わたしは彼女が常識的な生き方を手放すためのお手伝いをしているのである。

2015年10月4日日曜日

追憶 1119

天使や仏や守護霊といった存在は、熱心なサポーターのような役割なのではないだろうか?
サポーターが選手の代わりはできないのと同じであるだろう。

現代社会を生きることは、様々なストレスと共に生きることである。
勿論、人間が愚かであり、弱い存在である以上、どの時代にもストレスはあっただろう。
しかし、現代の経済優先型の社会構造は、人の精神を過度に緊張させているように思える。
現代における”普通”の人達は、ストレスを抱え、常に緊張状態を生きているだろう。
不安や心配、怒りや争いによって、目には映らない影響を受けているのである。


2015年10月3日土曜日

追憶 1118

天使や仏や守護霊などの意識的な存在が人間を介するのは、彼等が精神としての状態しか持たないからだろう。
精神によってネガティブな力に触れるなら、すぐに汚れてしまう。
彼等にとって、それは得策ではない。
宗教を信仰している人達は神が助けてくれると思っているが、肉体を持たない存在が直接的に介入することはリスクが高いのである。
彼等は愛情によってそのように働くかも知れないが、汚れてしまえば助けるどころか重荷となってしまうのである。
守護霊程度の存在ならば、簡単に黒く汚れてしまう。
これは、経験上の意見である。
神や意識的な存在が助けてくれるなどということには期待しない方が良い。
所謂(いわゆる)他力本願としての奇跡を信じたところで、それが実現することなどないのである。

2015年10月2日金曜日

追憶 1117

精神的なわたしと肉体的なわたしが協力することによって、結果的に目の前の黒い女を苦しみから解放することができるのである。
肉体とはネガティブな性質を持っているような気がする。
それは、ネガティブなエネルギーの専門家であるだろう。
肉体はネガティブなエネルギーに強いのではないだろうか?
そのため、ネガティブなエネルギーに対応することができるように思える。
精神は、ネガティブなエネルギーに弱い。
彼女の心の中に存在している黒い女は、ネガティブなエネルギーを受けていたが、既に”健康”を失っていたのである。
しかし、肉体的な彼女としては、そのことを認識してはいないだろう。
精神はポジティブな性質を持っているような気がする。
精神はポジティブなエネルギーに強く、肉体はネガティブなエネルギーに強いという性質を理解すれば、選択肢も変わってくるのではないだろうか?
精神力だけでも足りないし、体力だけでも足りないのである。
身体ではなく、心体こそが人間なのだろう。

2015年10月1日木曜日

追憶 1116

光の十字架は黒い女の胸に突き刺さった。
仰(の)け反るように天を仰(あお)いだ女は、口であろう場所から呻(うめ)き声のような低音と、自身よりも更に黒い煙のようなものを吐き出している。
黒い煙が頭上に広がると、女は抜け殻のように沈黙した。
わたしは強烈な気分の悪さを感じ、嘔吐(おうと)しそうになるのを堪(こら)えた。
すると、わたしの肉体が黒い女がそうしたように、呻き声と黒い煙のようなものを吐き出し始めたのである。
肉体を通した時、呻き声は叫び声のようになり、黒い煙はゲップとなる。
肉体を通した時にそれ等は黒い状態を離れて、光の粒になるのだ。
それは軽く、天に輝く光へと吸い込まれるようにして昇っていくのであった。

2015年9月30日水曜日

追憶 1115

推測と同時に身体(この場合、意識的な身体)が動くのはいつものことである。
これは、高次の存在から受け取った情報をわたしが認識、理解するのに時間が掛かるためだ。
わたしの魂は何をするべきであるのかを知っているが、わたし(顕在意識)は知らないのである。
右手が人差し指と中指を使って空中に十字を描いた。
光の十字架は金色の美しい光を放っている。
それは、黒い女の姿を一層暗いものとした。
光の十字架を掴むと、そこから意思が流れ込んでくる。
その意思によって、わたしの推測は確信へと変わった。
わたしは深く息を吐いて、光の十字架を黒い女に投じた。

2015年9月29日火曜日

追憶 1114

怒りと不安に歪む表情の女は、彼女自身の心の一部であるだろう。
それは、やがて一つの人格として心の中に形成される。
一卵性の良く似た双子であっても、環境や経験の違いによって違う顔(容姿)になるだろう。
それは、心の状態によって後天的な違いが生じるからではないだろうか?
彼女の心の中に怒りや不安などの感情が固結し、やがて一つの人格と成れば、それが身体的な特徴に影響を与えることも、人生に対しての決定権を持つことも考えられるのである。
人生とは、心の選択であるだろう。
一般的には脳みそで生み出されていると解釈されている思考でさえ、突き詰めれば心(精神)の選択なのである。
そのため、この黒い女をこのままの状態にしておくのであれば、彼女の人生設計に対して何等かのネガティブな影響を持ち込むことが予想される。
わたしに”これ”を見せたのは、この状態を解決する必要があるためであると推測することができる。

2015年9月28日月曜日

追憶 1113

彼女が自らの感情をどのように認識していたのかは分からないが、それが過剰に反応することによって、ある種の障害になるということがあるのだろう。
わたしには分からないことも、天使たち高次の存在には分かるのであろう。
彼女の中の不安は、次に怒りとなった。
怒りは争いを導き、やがて拒絶となった。
わたしがそこまで理解した時、コールタールのような黒いものが人の形を成した。
それは、怒りの表情を浮かべた女性である。
この女性は彼女の心の一部であると感じたが、彼女とは似ても似つかぬ姿をしていた。

2015年9月27日日曜日

追憶 1112

彼女が当たり前に飲み込んでいるものは”薬”なのだろうか?
わたしたちは、怒りや悲しみなどの感情を当たり前のこととしている。
それ等の感情を批判しているのではない。
それ等の感情がバランスを崩せば危険であるということを言いたいのである。
ネガティブな感情は、ポジティブな感情と対になって心の安定を実現させている。
怒りや悲しみの感情を抱くことによって、心はストレスを逃がしているのだろう。
心にとっては、怒りや悲しみの感情は免疫(めんえき)としての役割を持っていると言えるのではないだろうか?
そのネガティブな感情が強過ぎれば、自己免疫疾患(じこめんえきしっかん)と同じ状態を得ることになり、却(かえ)って自らを損なうことになってしまうのであろう。

2015年9月26日土曜日

追憶 1111

毒が身体を損なうことは誰であっても知っている。
赤子であっても、毒は吐き出すのである。
しかし、それは身体の持つ生存本能の成せる技であり、人の意思ではない。
人には、それが毒であるのか、薬であるのかを判断することは難しいのである。
その証拠に、既に心の中には様々な”毒”を飲み込んでしまっている。
それを”毒”とも思わずに。
多くの人は自分自身を中心とした世界観の中に生きている。
正義は自らにあり、自分自身を正当化するのである。
正当化することによって”毒”であるそれを”毒”と認めない。
そうやって、心の中には”毒”が蓄積されていく。

2015年9月25日金曜日

追憶 1110

彼女の心の中には、様々な感情が溢れていたが、その中で最も強く感じられたものは不安であった。
彼女は不安を抱えながら生きている。
それは、何から生み出されるのであろうか?
わたしは彼女の心の中に入り込み、コールタールのようなものに触れた。
すると、次の瞬間には様々な声がわたしに突き刺さった。
それは、聞くに耐えない罵(ののし)り言葉であった。
罵詈雑言(ばりぞうごん)を聞いていると、それがわたしに向けられたものではなくても気が滅入(めい)る。
彼女はこのような”毒”を心の中に抱えながら生きているのである。

2015年9月24日木曜日

追憶 1109

部屋の中央には虎柄の座布団を置いてある。
光の仕事での来訪者にはここに座ってもらう。
彼女の誤解と緊張が少しだけほぐれたところで、座布団へ導いた。
それは、そのようにとの指示があったからである。
彼女の背中は平凡なものであったが、わたしにはとても懐かしく思えた。
不思議な感覚である。
彼女には気楽にしてもらうように告げて、わたしは静かに目を閉じた。

すぐに気持ち悪くなって嘔吐(おうと)しそうになった。
これはいつものことである。
彼女の心の中や、身体の周りに立ち込めている黒い煙のようなものがそうさせるのだ。
これは、破滅的な意識である。
怒りや悲しみ、不安などによって生み出されるのか、引き寄せているのかは分からないが、それ等の感情が結果的にそのような状態を導くのである。

2015年9月23日水曜日

追憶 1108

霊能力とは、ただの感覚である。
それは、五感の延長でしかない。
これを特殊能力と呼ぶのは無理があるだろう。
実際に、霊能力というものを扱ってみれば分かるが、霊や他人の心が見えるからといって、それだけでわたしが特別な変化を得たという事実はないのである。
それは、今までには興味の無かったことを知るようなものだ。
今までには興味がなく、聴いたことのない音楽を嗜(たしな)む程度のことなのである。
しかし、聴いたことのない音楽は、既に存在していた。
それ以上でも、それ以下でもない。
それだけのことで特別扱いなどしてはならないのである。
他人よりも少しだけ歌が上手い、走りが早い、絵が上手い、腕力がある・・・
これ等と霊能力が扱えるには、何の変わりもないのだ。

2015年9月22日火曜日

追憶 1107

だから、わたしを尊敬してはならない。
わたしを信仰してはならないのである。
わたしは誰とも平等であり、誰よりも優れ、誰よりも劣っているのである。
わたしたちは礼儀を以て友情で結ばれなければならないのだ。
わたしはどのような人も対等に扱うし、対等に扱って欲しい。
わたしは友達でありたいのである。
そのため、わたしは光の仕事の時には大抵の場合、友達口調で進める。
(相手の状態(自尊心)を見て判断する)
その方が心にまとった余計な力みや隔(へだ)たりが取れるような気がして仕事が捗(はかど)るのである。
相手の心と向き合う時には、余計な力みや隔たりは邪魔なのだ。
それは、電波障害を引き起こす。

2015年9月21日月曜日

追憶 1106

わたしは誰かに尊敬されたいとは思わない。
誰かを従えようとか、集団の中にいようとも思わない。
わたしが”人間”であった頃ならば、そのように思ったであろうが、霊的な世界に触れることによって”魂”に近付いたわたしは、そのようには思えなくなった。
だから、彼女がわたしに抱く勝手なイメージと対応は間違っているのである。
これは、わたしだけに当てはまることではない。
霊能力が少し扱えるからといって、ただそれだけの理由で特別視するのは危険である。
霊能力が扱えなくても尊敬に値する素晴らしい人はたくさんいる。
霊能力者、宗教家を自称し、尊敬する要素がどこにも見当たらない人はたくさんいるのである。

2015年9月20日日曜日

追憶 1105

世間一般で言われている霊能力者という人たちは宗教観が強く、その枠組みの中で生きている。
正義感というものが強過ぎて、敵と味方を作り出しているのである。
敵を作り出すことによってそれと戦う(争う)姿は、客観的に捉えると大したことをしているように見える。
そして、「これはあなたを守るためです」などと言われると、純粋な人ならば感動を覚えるものである。
大抵の場合は、そこに尊敬の気持ちが生まれる。
しかし、それは大抵の場合歪んでいるのである。
わたしは宗教に属していない。
だから、特別な宗教観も持たない。
個人的には、宗教の始まりは歴史を伝える文化であり、聖書や経典は歴史書であると考えている。
もう一つの側面(こちらが本質だと思っているが)は、宇宙人種族による教育である。
それが、様々な人の思惑(おもわく)が入り込んだせいで大きく歪み、それに属している人たちの思想も同じように歪み、本来の目的を見失っているのが現状であると考えている。

2015年9月19日土曜日

追憶 1104

部屋に通し、楽に座ってもらった。
気さくに話し掛けると、彼女の抱えている緊張が少しだけ和らぐのが見て取れた。
彼女はわたしのことを特別な人間だと誤解しているところがあるようだ。
それは、世間には権威(けんい)に対する信仰が存在し、一般で言うところの霊能力者というものに対しても、一目置くような感覚がある。
わたしのことを一般的には霊能力者と呼び、その立場や人物を特別視する傾向は根強く残っている。
彼女はわたしのことを知らないので、そのような認識を当てはめているのであろう。
わたしは残念ながら、所謂(いわゆる)霊能力者ではない。
と思っている。
わたしは”ファンタジー”に対して興味がないのである。
どちらかと言えば現実主義であり、説明することができない事象に対して疑惑と嫌悪を抱く。
そんなわたしは科学が大好きである。

2015年9月18日金曜日

追憶 1103

わたしは以前にどこかで彼女と会っている。
そのような考えが膨大な記憶の図書館の中から、目の前の彼女に関する情報を探す。
しかし、見付からなかった。
わたしは複雑な思いを押し殺して、初対面を装った。
彼女はそれに何の抵抗も示さず、初対面のわたしに対して緊張感を抱えているようであった。
これは、記憶違いであろうか?
わたしの思考が記憶を複雑に繋ぎ合わせ、目の前の彼女に似せた人物を作り出し、その想像上の人物と混同して彼女を見ている?
考えても分からないので、わたしは彼女とは初対面だという状況的な事実を受け入れ、目の前の仕事に専念することにした。

2015年9月17日木曜日

追憶 1102

ある日、わたしを一人の女性が訪ねた。
その頃には、わたしの噂(うわさ)は自分自身が想像しているよりも広範囲に伝わっていた。
知らない人からの連絡が増えていたのである。
その日、わたしを訪ねた女性も、口づての噂を聞いて興味を抱いてくれたようだった。
玄関で出迎えた時、わたしは彼女と始めて会ったが、初見であるとは思えなかった。
わたしは目の前の中年の女性を知らない。
電話で一度だけ話しただけである。
しかし、わたしは彼女を知っている…
心の中で様々な憶測が火花を散らした。

2015年9月16日水曜日

追憶 1101

20歳の頃には、唯物的な生き方には
限界を覚えた。
自分なりに懸命に、常識的な生き方に慣れようとしたが、どうしても満足することができなかった。
どうしても、このような生き方をするために生まれたのでも、生きているのでもないという思いが生じ、現状の自分に対しては強い違和感を感じていたのである。
わたしにとっては、”普通”という状態こそが苦痛であった。
その苦痛から逃れるために、わたしは心が魅(ひ)かれる対象を強く求めた。
それが霊的な世界だったのである。
霊的な世界に対する研究は、大いににわたしの心を刺激した。
霊的な世界と触れることによって、わたしは人生を通じて始めて、本当の意味での満足に出会えたのである。

2015年9月15日火曜日

追憶 1100

人は何のために生まれたのであろうか?
わたしたちはこの人生において、何をしているのだろう?
わたしは20歳の頃からこのような疑問を抱き始めた。
それまでは、このような疑問を覚えたこともなかった。
ただ、楽しく、ただ、興奮することができる刺激を求めて生きていた。
人間社会における20年という歳月がわたしに唯物的(例えば資本主義)な価値観を植え付け、わたし自身もそれで良いのだと思っていたし、それ以外の生き方を知ら(教わら)なかった。
そのような価値観では、自分が何のために生まれたのか?人生が何のためにあるのか?そこで何をしているのか?どこへ向かうべきなのか?という人生の本質の部分には関心すら抱けなかったのである。
今にしてみれば、わたしは刹那的(せつなてき)な日々を過ごしていた。
当時のわたしの意識のレベルでは、そのような生き方しかできなかったのである。

2015年9月14日月曜日

追憶 1099

わたしは経験を通じて、霊と心には共通点が多いように感じている。
心というものは意識体であるから、霊に近いものでもあるだろう。
そして、原子の働きも、霊や心の働きに近いものを感じる。
何処と無く似ているように思えるのである。
そのため、量子力学への理解が深まることによって、霊や心に対する理解も深まるのではないかと期待するのである。
量子の世界、心の世界、霊の世界…
これ等の様々な世界への理解によって、わたしたちは自分自身を知り、人生というものを知るのではないだろうか?
わたしはそのように期待しているのである。
わたしは毎日自らの心(意識)と向き合っている。
その不思議な働きを自分なりに研究することが、わたしにできる人生に対する理解を深める方法であるだろう。
これを読んでいるあなたにも、是非自分自身の心の働きを通じて、人生というものを研究して欲しいと願う。


2015年9月13日日曜日

追憶 1098

唯心的な見方をしなければ、納得することができない事象というものは多いだろう。
しかし、この物質世界において、物質以外の物体が存在しているか?と言えば難しいところであるだろう。
アインシュタインは古典物理学において「神はサイコロを振らない」と言ったし、ボーアなどの量子力学者は通常は知覚することができない領域(原子、素粒子など)の物質の存在とその働きを追求している。
そのため、現時点においては説明することができない事象であっても、人類の理解と意識レベルの上昇によって、これ等を説明することができるようになるのかも知れない。
アインシュタインは古典物理学を用いては説明することができなかったが、量子力学や素粒子物理学(高エネルギー物理学)などがそれを説明するかも知れない。
霊が瞬間移動することや、同時に存在することや、物質を貫通することや、次元間を移動することなども説明することができるかも知れない。

2015年9月12日土曜日

追憶 1097

”自分”という存在を理解することができれば、この世界のことも少しは分かるかも知れない。
唯物的な生き方(α波、β波)の中に答えを求めても、最終的には半分の答えを得るだけなのではないだろうか?
唯心的な生き方や世界(θ波、δ波)への理解と合わせる必要があるように思える。
唯心的な生き方に対しての理解が浅いために、頭(唯物論)では理解することのできない事象に対して心を閉ざしてしまうのではないだろうか?
唯物論者にとっては、わたしの体験が信じられないかも知れない。
わたしもそれを説明することはできないが、人知を超えた情報や状況が存在していることは確かなのではないだろうか?

2015年9月11日金曜日

追憶 1096

わたしには答えを導き出すことはできないが、その経緯は事実である。
他人がわたしと同じような経験をするかは分からないが、忘れているか認識することができないだけで、振り返ってみると同じような経験があるかも知れない。
意識の世界は、現在のわたしには広くて果てしない。
”自分”という存在を証明するためには、この世界に対する研究が不可欠であるだろう。
意識の世界に対する研究が進めば、直感や”神の思(おぼ)し召(め)し”という意識の働きに対する見解も核心に迫ることができるはずである。
そこには、五感を超える感覚(もしくは、五感を拡張した感覚)の理解と応用も存在しているのではないだろうか?

2015年9月10日木曜日

追憶 1095

約八ヶ月という歳月をかけて「プリウス」という言葉が実現した。
これは、わたしの意思によって導かれた未来ではない。
しかし、これはわたしの選択した未来である。
少しだけ話が逸れるが、これは未来からの情報であると言えるだろう。
「プリウス」という言葉がなければ、わたしは”ここ”にいないのである。
それが違う言葉であれば、わたしは違う未来に存在したのではないだろうか?
話を戻そう。
意識というものは不思議である。
この未来が誰によって導かれたのか?それはわたしには分からない。
”神”の意思かも知れないし、天使や宇宙人などなのかも知れない。
自分自身の潜在意識や無意識による働きかも知れないし、未来の自分自身かも知れない。

2015年9月9日水曜日

追憶 1094

ディーラーの方の話によるとプリウスは受注生産であるらしく、注文が確定してからの生産になるということだった。
メーカーとしては客を待たせることになるが、無駄が無いシステムではあるだろう。
しかし、発売されたばかりのプリウスは、低燃費を売りにしており、地球温暖化”ゲーム”とエコカーブームというマスコミの煽(あお)りを受けて、注文が殺到しているということであった。
わたしが注文したのは、発売日の約三ヶ月後であったが、そこから実際に手元に届くまでは約八ヶ月という期間を待たされることになった。

2015年9月8日火曜日

追憶 1093

翌日、先日の知人がトヨタのディーラーに知り合いがいるとのことで、プリウスを持って来させるので見に来いという話があった。
わたしは早速出向き、実際にプリウスを目の当たりにした。
わたしはその姿が気に入り、その場で購入することを決めた。
これは、そこまで車に対して興味が無かったので、他の車と比較する必要が無かったことと、やはりあの”言葉”に従うべきなのではないかと思ったからである。
元々、何かを悩んで決断する性格ではないために、わたしにとっては違和感のない選択ではあったが、知人とディーラーの方は多少なりとも驚いているように見えた。


2015年9月7日月曜日

追憶 1092

プリウスというものをわたしは知らなかった。
努めてはみたものの想像すら付かなかった。
そこで後日、会話の途中でプリウスという単語を思い出したので、何の気なしに知り合いに聞いてみると、それが発売されたばかり新型車(30型プリウス)であるということが分かった。
インターネットで調べた姿を見て、なぜだかわたしは親近感のような感情を覚えたのである。

日に日にプリウスに対する意識が大きくなるのを感じていた。
それを育てようなどとは考えてはいなかった。
それは自然の流れであり、わたしの知るところではなかった。
それを不思議に感じていた。




2015年9月6日日曜日

追憶 1091

移動にはトラックを使った。
仕事で使うためのトラックが余っているのである。
ある時、わたしがトラックを運転していると、急に頭の中に声が響いた。

「プリウス」

頭の中に響いた声は確かにそう言った。
それは、明確な言葉であり、力強い意思であるように感じた。
わたしは驚いて周囲の状況を確認したが、オーディオはつけていなかったし、一人で運転していたのである。
外部からの音にしては異常なまでに鮮明であるし、経験上このような体験は初めてであった。

2015年9月5日土曜日

追憶 1090

”自分”というものを構成しているのは様々な意識の領域であり、わたしにはそのすべてを認識することはできない。
大まかなことしか分からないために、”自分”という存在を考察する時には途方も無い感覚を得るのである。

先日の事故によって、愛車のハイラックスサーフは廃車となった。
わたしは車に乗る気にはならなかったが、今日の車社会においてそれを否定することは難しく、車を購入することと、それを否定する考えを天秤にかけていた。
実生活が投げ掛ける必要性と反省から導かれる思想が葛藤するのであった。
免許停止の期間が過ぎても、車についてはあまり考えられなかった。

2015年9月4日金曜日

追憶 1089

また、”自分”という存在を考察する時、わたしは高揚を覚える。
”自分”という存在は、様々な意識の領域によって構成されているように感じるからだ。
それは、脳波として置き換えても良いだろう。
α(アルファー)波、β(ベータ)波、θ(シータ)波、δ(デルタ)波…
それぞれの領域で、働きが違うようである。
その体系がわたしには面白いものに思えるのである。
思考とは、最も扱い易い意識である。
それは、殆(ほとん)どの領域を制御することができるだろう。
それに比べて、感情というものは制御が難しい。
それは、半分は制御することができても、半分は制御することができない。
多くの人は、日々自らの内に存在している感情に手を焼いているのではないだろうか?
無意識は認識の及ばない領域である。
人がそれを認識するとすれば、事が起こった後のことである。
事が起こったとしても、認識の及ばないこともある。
これは意識の領域でも扱うことは困難である。

2015年9月3日木曜日

追憶 1088

”自分”という存在を考察する時、わたしは密林の中を彷徨(さまよ)うような気分になる。
それは、霊的な存在を認識するまでは思い付きもしなかった疑問である。
”自分”という目的地は、今(当時)のわたしにとっては途方も無い旅路であったことは明確な事実だ。
霊的な存在は、肉体を持たずに存在している。
それも、わたしの存在する時空と重なるようにして。
認識することができない人には、彼等を理解することができない。
わたしは20歳の頃に自らの意思によって霊的な世界を探求することによって、霊的な存在とのコンタクトが成功した。
しかし、これは想像することによって作り出した幻想ではないことは、実体験の中で、他人との認識の符合によって証明することができるだろう。
わたしは、自分勝手に霊的な存在を主張
しているのではなく、他人との共通認識を通して主張しているのである。

2015年9月2日水曜日

追憶 1087

霊的な存在達(霊や天使、自然の神々)と共に生きるということは、既成概念が崩壊するということである。
霊的な存在達と共に生きる中で、わたしの考え方や生き方は大きく変わった。
その中でも最も大きな変化というのは、

”人生というものは自分勝手に生きるべきではない”

と考えるようになったことだろう。
20歳を迎えるまでのわたしは、幼心に輪をかけて自分勝手に生きていた。
すべてを自分で選び、理想通りに事が運ばなければ不満を覚えた。
当時のわたしには当たり前だったその生き方は、今のわたしには多少なりとも不自然に思える。
とはいえ、自己中心的な考え方や生き方が消えた訳ではない。
現時点においては、それ等は少しだけ改善された程度である。

2015年9月1日火曜日

追憶 1086

それからしばらくして、男性が無事に退院したことを保険会社の担当者を通じて聞かされた。
それを聞いて、わたしは胸を撫で下ろした。
男性が無事であって本当に良かったと、心の底から思ったのである。
これから、男性がどのような人生を歩んでいくかは分からない。
しかし、学びの中で様々な経験を得ることは確かであろう。
今回の事故のように、人生には様々な学びが待っている。
それ等はすべて、自らを顧みるための大切な学びなのである。
わたしもこの学びを通じて様々なことを学び、少しだけ成長したような気がする。
わたしでさえそう思うのだから、男性も何かの実感を得たのではないだろうか?
わたしたちの学びはきっと終わりである。
だから、今後わたしが男性と会うことはないだろう。
わたしが言うのはおこがましいが、強く生きて欲しいと願う。

2015年8月31日月曜日

追憶 1085

この世界で生きるということは、この世界のルールに従わなければならないということだ。
それは、郷に入っては郷に従えということである。
わたしは社会的な責任を負わなければならない。
これは、当たり前のことである。
わたしは事故の加害者として書類送検された。
略式起訴となり、結果として不起訴処分となった。
行政処分としては、二ヶ月間の免許停止、そして、ガードレールの破損請求として30万円の賠償命令が下された。

2015年8月30日日曜日

追憶 1084

それから、わたしは警察署に出向き、調書を作成するために事情聴取を受けた。
女のことは話さなかった。
霊が人を苦しめるというのは、霊的な世界の理(ことわり)を知らない人が流したデマである。
霊が人を左右するということはない。
霊は他人である。
その他人が人の人生の原因になることはないのだ。
わたしが今回、事故を起こしたのは女の責任ではない。
これはすべて、わたしに責任があることなのである。
そこに霊が関わっていたとしても、脇役に過ぎないのだ。
その事実を受け入れることの出来ない人が、物事を他人の責任にしたいのである。

2015年8月29日土曜日

追憶 1083

しかし、楽しむという状態に至ることは簡単ではない。
実際、わたしは男性に対して、事故に関わった人たちに対して、そして、自分自身に対しての強い罪悪感を抱えることになったからである。
理論的には知っていても、それを実践して体験に結び付けることは難しいのだ。
分かってはいるけど出来ないのである。
それは、人が実際には感情の生き物であるが、自分自身を生理的な生き物であると位置付けているために、普段は心などの目には映らない存在や状態のことに対する意識は薄い。
そのため、意識と物質を併せ持つ自分自身という存在を上手く扱うことができないのである。

2015年8月28日金曜日

追憶 1082

学び(問題)を上手く渡り終えるためには、この基本を忘れてはならないだろう。
基本が間違っているのであれば、結果は思うようなものにはならないのである。
わたしたちは人生において、その学びにどのような真理が含まれているのかを理解する必要がある。
真理を理解することによって、人は人生の目的である成長を実現することができるのではないだろうか?
謙虚さがなければ、決して理解することは出来ない。
それは、学ぼうとはしないからである。
人生を豊かなものにするためには、自分よりも大きな存在を意識すること。
謙虚な気持ちによって目の前の状況を受け入れること。
自分自身を反省して工夫すること。
そして、楽しむことである。

2015年8月27日木曜日

追憶 1081

目の前の状況は、成長するための大切な学びである。
そのため、どのような状況であろうとも、既に目の前に存在しているのであれば、受け入れる他ないであろう。
目に見える富を追う者には、目の前の状況を受け入れることが難しいかも知れない。
なぜなら、直接的に(物質的な)利益に繋がることよりも、そうでないことの方が圧倒的に多いからである。
わたしの老人や女や男性に対する行為によって、その内の誰かから利益を受け取ることがあるだろうか?
残念ながら、そのようなことはない。
これは、唯物論で考えればボランティアなのである。
”神”に仕える仕事というのは、基本的に奉仕であるだろう。
そのため、多くの物質的な富を求める宗教(家)というのは、”神”に仕えてはいないと言えるのではないだろうか。





2015年8月26日水曜日

追憶 1080

そのため、男性に理解される必要もなければ、感謝される必要もないのである。
わたしは自らの行為に対して口を閉ざし、誰にも知られずに与えられた仕事を行うだけだ。
わたしは自分自身の手柄を求めてはいない。
以前は有名になりたいとか、裕福になりたいとか、自分を認めさせてやるとか言う類(たぐ)いの欲求を所有していたが、今のわたしは別の欲求に突き動かされているのである。
霊的な道を進めば、それで良いように思える。
目に見える富よりも、目では見えない富を得る方が有意義であるように感じるのだ。

2015年8月25日火曜日

追憶 1079

わたしは全体主義を賞賛(しょうさん)する訳でも、個人主義を批判する訳でもない。
全体(外)と個人(内)の両方を大切にしなければならないと思うのだ。
そのためには、大きな存在に対する意識というものが必要なのではないかと考えるのである。
わたしは他人に褒められたいとは思わない。
褒められれば嬉しいが、それを目当てに行動することなどないのである。
もしも、わたしが自分から褒められたいと思うことがあるとするなら、それは”神”と呼ばれる崇高な存在からの純粋な賛美だけであるだろう。

2015年8月24日月曜日

追憶 1078

”神”の抑止を失った人間は傲慢(ごうまん)に至るだろう。
自分が偉いのだと思い込み、自分勝手に振る舞うようになる。
そこには、”神”のためだとか、全体のためだとか、国のためだとかいう意識は薄れる。
仲間のためだとか、家族のためだとか、自分の大切に思える対象に対しては善いように振る舞うが、そうではない対象には容赦(ようしゃ)が無くなる。
それは争いに発展するのだ。
”神”への畏怖や尊敬があれば、人は自分勝手に振る舞うことはなくなる。
勿論、それが”神”という対象でなくても良い。
わたしは宗教家ではない。
何でも良いのだ。
とにかく、自分自身よりも大きな存在を意識する心の状態が重要なのである。

2015年8月23日日曜日

追憶 1077

人生というものを観察してみると、多くの人が基準としている常識というものが、如何に浅はかなものか分かる。
わたしは二十一歳頃まで、常識が示す価値観に従って生きてきた。
それは、唯物論を基盤とした物質主義的な価値観である。
明治維新の頃から(本格的に)、どうも日本は西洋の物質主義的な価値観を植え付けられたのではないだろうか?
その基盤が盤石となった1983年の日本にわたしは生まれた。
唯心論と唯物論は互いに共存しているように見えるが、時間の経過と共に唯物論が幅を利かせているように思える。
そして、日本人でさえも物質主義に走るようになり、お金や地位のために働くようになってしまったのである。
そして、日本人(勿論、全員ではないが)でさえ、自然界への畏怖(いふ)と、”神”への敬意を忘れてしまったように思える。

2015年8月22日土曜日

追憶 1076

わたしを見ている”神”が、わたしよりも遥かに進んだ生身(もしくは意識体)の生命体なのか、宇宙空間を含めたすべての時空を創造した”神”なのかは分からない。
次元が階層になっていて、そこに存在している意識は、より高次の存在を”神”と認識するのかも知れない。
 わたしを指導している大天使ミカエルや様々な天使、所謂、宗教観によって定められた”神”の使者(御使い)は、生身の生命体であるかも知れないし、意識体としての生命体であるのかも知れない。
天使たちよりも更に高次に存在している好意的な何者かを、天使たちは”神”と理解しているのだろう。
考えても分からないが、とにかくわたしは遥かに進んだ存在である”神”に見られているのである。

2015年8月21日金曜日

追憶 1075

振り返ってみると、わたしにはいつも客観性が連れ添っていた。
これは、自分自身を客観視することとは少し違っているように思える。
なぜなら、自分自身を客観視することを理解した上で話しているからである。
わたしの中には自分自身に対する客観視とは異なる他者の視点のようなものが存在しているのだ。
”お天道様が見ている”と幼いわたしに祖母が教えてくれたが、あれは古代の太陽(神)信仰(天皇(すめらみこと))から由来している言葉だと推測するが、より本質的な”神”もしくは真理を現した言葉なのではないかと思うようになった。
古代文明における神とは、真理を司る”神”のことではない。
神話や伝承、粘土版や聖書などを読んでみると分かるが、古代人の崇めた神とは生身の生命体(宇宙種族)の物語であることが分かる。



2015年8月20日木曜日

追憶 1074

当時のわたしには、誰に褒(ほ)められた訳でもないのに心が晴れ渡ることを理解することはできなかったが、今のわたしには何と無くそれが分かる気がする。
わたしは”神”に褒められたのだと思うのである。
”神”という存在が何であるのかは分からないが、わたしよりも高次な存在であることは確実である。
ある宗教が伝えるように”父”のような存在であるのかも知れない。
この世界を観察すれば、すべての瞬間に知性を感じることができる。
これは”神”が存在する照明であるとわたしは考える。
そして、わたしの所有するすべての瞬間を、わたしと同じように観察しているのではないかと思うのだ。

2015年8月19日水曜日

追憶 1073

他人に理解されなくても、仕事によって役に立てば良いのである。
わたしは高校生の夏休みに、部活のために部室を訪れたが、その前のゴミ箱が倒れて中身が散乱していたことがあった。
周囲には人がいなかったが、わたしはそれを片付けたいと強く感じて、一人で清掃作業を始めた。
元通り綺麗な状態にした時、わたしは心が晴れ渡るのを感じたのである。
終始、わたしは誰にも会わなかった。
わたしが清掃作業をしたことなど誰も知らないであろう。
しかし、わたしは心からの満足を得たのである。
誰かに認められること、評価され称(たた)えられることは重要ではないことに気が付いたのだ。

2015年8月18日火曜日

追憶 1072

それから、男性は二週間近く入院することになった。
わたしは何度か彼を見舞い、出来る限りのことはしたつもりである。
老人と女の話はしなかった。
彼には知る必要のないことだと感じたのだ。
それに、彼は信じないであろう。
変人扱いされるのは慣れたが、話が拗(こじ)れそうで面倒だったのである。
老人と女のことを話さなくても、その心には何かしらの変化が自然と起きるはずである。
それは、霊的な捩(ねじ)れを解消したからだ。
霊的な世界は心(精神世界)に繋がっている。
霊的な世界の問題を解決すれば、それが心の状態を改善し、状況に反映されるのである。
そのことを経験上理解しているので、わたしは無理に話をしようなどとは思わない。
わたしの仕事は、他人に理解されなくても良いのである。


2015年8月17日月曜日

追憶 1071

次の日、わたしは保険会社の担当者から連絡を受けた。
それは、男性が緊急入院したというものであった。
彼は、夜中に激しい腹痛によって自ら救急に連絡し、そのまま緊急入院となったようである。
精密検査の結果、肋骨にひびが入っていることと、腸が裂けていることが判明したようであった。
彼は恐らくシートベルトだけで事故の衝撃を受けたのである。
普通に考えて、無傷なはずがない。
外傷は無いにしても、内臓が損傷していることは明らかであり、そのために入院をすすめたのだが、母親のこともあって帰宅した。
今のところ命に別条は無く、状態も安定しているということで、わたしはひとまず胸を撫で下ろすのであった。

2015年8月16日日曜日

追憶 1070

女と老人は、死後にも苦悩を引き摺(ず)ることになった。
それは、生前に学ぶことができず、反省して改めることができなかったからであろう。
学びを成長に結び付けるかどうかは、当人次第である。
目の前の苦悩に対して心を開き、素直に受け入れることが大切であるだろう。
目の前の苦悩に対して心を開くことがなく、それを拒絶するのであれば、女と老人のような結果に辿り着くのではないだろうか?
成長することによって選択肢は変わる。
この体験を得たわたしが、再び誰かを恨むことがあるだろうか?
未来のことはどうなるか分からないが、きっとそのような未来へは辿り着かないだろう。

2015年8月15日土曜日

追憶 1069

瞼を開いた時、わたしは全身を襲っていた気怠(けだる)さがなくなっていることに気が付いた。
それは、女の恨みの感情が消え去ったからに違いない。
わたしは、また一つ学べたことに感謝した。

わたしが事故を起こしたのは、わたしの中に存在している無知を少しでも解消するためである。
事故を起こしたことで、わたしは多くのことを学ぶことができた。
そして、少しではあるが、成長することができたのではないかと思っている。
事故を起こしたことでわたしは多くの苦悩を覚えた。
相手の男性にはもちろん、男性の家族や、NやNの家族、わたしの家族や事故に携わった多くの人たちに多大なる迷惑をかけたのである。
幼い頃の悪行を猛反省しているわたしには、他人に迷惑をかけたことは大きな苦悩として受け取らなければならないのだ。

2015年8月14日金曜日

追憶 1068

白い空間の中にあっても、男性は膝(ひざ)を抱えて俯(うつむ)いたままであった。
これは、男性に対する直接的な仕事ではなく、老人と女の間の問題を解決するための仕事である。
そのため、意識的な状態にあっても、男性の状態は変わらないのであろう。
しかし、女の恨みが去り、老人は前向きに変わり、空間が白くなったことを考えれば、間接的に影響を受ける男性の状態も徐々に改善されるはずである。
最後に老人はわたしに感謝を述べた。
そして、一礼して振り返り、男性の肩を抱くようにしゃがみ込んだ。
その光景を見終わる前に、わたしは”こちら”の世界に戻っていた。

2015年8月13日木曜日

追憶 1067

この無知が苦悩の原因である。
生きている人間は、人生(状況)を心が築くということを信用しなければならない。
選択肢があるので選択するのである。
心に恨みの存在する余地がなければ、それを選択することはないのだ。
心を大切に生きていくのであれば、その状態は整えられる。
整えられた心が破滅的な感情を選択するはずがないのである。
選択肢がなければ、選択の仕様が無いだろう。
女が再び転生するのであれば、この学びを次の人生へと生かすだろう。
老人はこれからも息子である男性の守護を続けると言った。
老人はこの学びを生かし、男性に気付きを与えるはずである。

2015年8月12日水曜日

追憶 1066

先程の黒い空間は、女の恨みと老人の苦悩である破滅的な感情を現した世界であるだろう。
そこから離れることができたので、今は真っ白な別世界が広がっているのである。
物質的な世界においては、ここまで瞬間的に変化することはない。
それは、徐々に変わっていく。
意識が物質を形成するということは、原子が多く集まるということである。
それは、植物の成長のようにゆっくりと行われる。
心の状態が変わっても、人生(状況)は簡単には変わらない。
その時間差によって、人は心が世界を築いているということを信用することができないのだ。
そして、信心が失われて、破滅的な感情によって壊してしまうのである。

2015年8月11日火曜日

追憶 1065

水蒸気という大きな物質でさえ、感知することが難しいのだから、それよりも小さな霊体を感じることは困難を極める。
そのため、多くの人は霊的な世界を受け入れようとはしない。
テレビ(バラエティー番組)に出演している(レベルの)科学者は、霊的な現象と物理現象を別のものとして誤解している。
もちろん、テレビにはスポンサーがいて、情報操作の目的もあるために、台本通りに進行と編集がおこなれているということもあるために、すべてを真に受けることはできないが、科学者が”神”という言葉を使うこと(ができない)をしないのは、学会が学問としての形に拘(こだわ)り過ぎているためか、霊的な現象と物理現象を別のものとして考えているかのどちらかかのではないだろうか?
感覚的に霊的な現象を信じている人であっても、それを具体的に認識することは難しい。
心(霊的な現象)と人生(物理現象)を別のものとして考えるのである。
そして、半信半疑という状態を取る。
そのため、自らの心が世界を築いているということにも気が付かないのである。
そうして、老人や女のように誤解の中で苦悩を受けることになるのだ。

2015年8月10日月曜日

追憶 1064

人生とは、心の世界である。
心が反映されたものが状況という名の時空であると、わたしは思っている。
量子力学には、観察者効果という現象がある。
電子の動きは、観察者の意思によって変化するというものである。
わたしは、霊的な世界と心(精神)の世界と量子の世界には共通点があるのだと思っている。
素粒子よりも小さな物質(それを物質と呼ぶのかは分からない)が霊であり、心であると思うのだ。
そのため、わたしは霊を物理的に掴むことができるのだろう。
触れることができるのだから、それは物質である。
水蒸気は比較的大きな物質である。
それは、視覚で捉えることができるし、触れることもできる。
しかし、それに触れる感覚は得られない。


2015年8月9日日曜日

追憶 1063

上昇する女の姿が光に溶けるのを見送り、わたしは悦(えつ)に入った。
なんと素晴らしい時間なのだろう。
光と触れる時には、無条件にわたしの心は満たされる。
あの光の先には必ず”良いもの”があると確信する。
それが分かるから、わたしはこの仕事が楽しいのだ。
それは、利害を想定したものではない。
純粋な気持ちが”良いもの”を求めるのである。
天が閉じ、光が届かなくなることに心配はいらなかった。
それは、老人が愛に気が付き、女が恨みを捨てて光の先へと向かったこの空間は、先程までの暗闇が嘘のように、真っ白に輝く空間へと変化していたからである。

2015年8月8日土曜日

追憶 1062

大切なのはイメージを持つことである。
自分自身が思いやりや愛情を持つイメージであり、豊かで幸福な状況に対するイメージである。
老人と女には、このイメージを持つことができなかったのであろう。
山頂に辿り着くイメージを持たない人が、どうして山頂に辿り着くことができるだろうか?
相手に対して、状況に対して愛のイメージを持たない人には、それが与えられないのである。
わたしがここに来た時に始めて、老人は客観性を抱くことができたのではないだろうか?
第三者であるわたしが仲介したことで、冷静さを取り戻し、わたしの持つ愛によって、老人の中にも愛のイメージが沸き起こったのだと推測する。
感情の縺(もつ)れを解消することは単純な作業である。
しかし、互いが協力しなければ達成されないものだ。
わたしが仲介したのは、両者が協力することがなかったからである。
両者が協力するのであれば、第三者のわたしが仲介する必要など、どこにもないのである。

2015年8月7日金曜日

追憶 1061

老人と女は、苦悩を超えた景色を見たのだろう。
光(天国?別次元?)に向かうためには、その苦悩を超えなければならないのである。
苦悩に執着しているのであれば、それは道の途中である。
執着を離れた時に山頂へと辿り着き、山頂に辿り着いた時に執着を離れるのだ。
そのため、人は一つの思いにとどまってはいけないのである。
それがどのようなものであろうとも、できるだけ素早く離れる必要があるだろう。
そのことに気が付くことができれば、人が苦悩を受けることはない。

2015年8月6日木曜日

追憶 1060

しかし、恨みの感情を乗り越えた先には、大きな喜びがある。
苦難を乗り越えた先にこそ感動があるとわたしは思う。
苦労して山を登った者でなければ、山頂からの景色に感動を覚えるのは難しい。
乗り物を使って辿り着いた山頂は、”ただの”山頂からの景色なのである。
同じものを見ても内容が違えば、得られるものには随分な差があると言えるだろう。
恨みのままでは苦悩を得るが、それを学び終えた時、人は成長と幸福を得るのである。

「ありがとう」

という感謝の気持ちが現れたのは、その学びを終えたからである。
これは、苦労して山頂に辿り着き、景色を眺めて感動した状態と同じであるだろう。

2015年8月5日水曜日

追憶 1059

その時、女の頬を一筋の光が走った。
それは、流れ星のように見えた美しい涙であった。
女は恨みの感情を手放したのであろう。
そうでなければ、このように美しい涙が頬を伝うことなどないはずである。
天から降る光は、涙に呼応(こおう)して光量を増した。
天が近くなっているのだろう。
女の身体に重さが感じられなくなり、ゆっくりとわたしの腕を離れる。
天からの光に吸い寄せられるように浮かぶ女の姿は、海中から見上げたクラゲが日光を浴びて輝く光景を思い出させた。

「ありがとう」

素直な気持ちが言葉となる。
女は恨みの感情によって老人と男性を苦しめたに違いない。
それは、女にとっても苦悩であっただろう。
この苦しみによって得をした者などいない。
恨みの感情は喜びを導かないのである。

2015年8月4日火曜日

追憶 1058

持て余した荷物は、一度全部を捨ててしまうのが良いのかも知れない。
すべてをリセットすることがなければ、新たに始めることは難しいだろう。
少しでも残っていれば、そこには執着が導かれるからである。
光の十字架を受けて、女は”死んだ”。
それは、感情のリセットであり、道のリセットでもある。
間違っているものは、いつか終わらせなくてはならない。
長く続けるほど、それは複雑に絡み付いてしまう。
そうなれば、再びそこから抜け出し、幸福に出会うことは難しいのだ。
だから、わたしは霊を”殺す”のかも知れない。

2015年8月3日月曜日

追憶 1057

わたしが女を抱き締めたのは、哀れみと歓喜を含んだ愛情によるものである。
これで女は恨みの感情から解放されるはずである。
老人も、男性も、そして、わたしも…
女を抱き締めたままで右手を頭上に掲げ、指を鳴らした。
すると、天が開け、そこから金色の光がスポットライトのように降った。
暖かな光は、わたしと女を包み込んだ。
とても穏やかな気分である。
怒りの無くなった空間とは、なんと気持ちの良いものであろう。
人は、どのようなものであろうとも、抱え切れない感情を所有するべきではない。
それは苦しみとなる。
女は自らの怒りを持て余した。
そのために、それは恨みの感情となり、自分自身でも制御することができないものとなってしまったのである。

2015年8月2日日曜日

追憶 1056

黒い顔が完全に消滅すると、女はその場に崩れ落ちて動かなくなった。
老人はその光景に驚きを隠せないようである。
わたしが人差し指と中指を使って目の前の空間に円を二度描くと、そこには光の扉が現れた。
それは、わたしと女を繋ぐ時空のトンネルとでも言えば良いのか?とにかく、わたしはそこに手を差し込み、女の身体を掴んだ。
そして、力一杯にこちらに引き寄せる。
光の扉を通り、女はわたしの腕の中に収まった。
そこには安らかな表情があり、安心して眠っている子どものようだと思ったものである。
わたしが女を引き抜くと、光の扉は自動的に閉じて、消えた。

2015年8月1日土曜日

追憶 1055

恨みの感情が薄れていくのは、いつ体験しても嬉しいものである。
わたしは強烈な吐き気と共に黒い煙のようなものを吐き出していたが、その苦しみも嬉しいのだ。
何かが好転する時の苦しみは、苦しみという仮面を被った喜びなのではないかと思える。
わたしはこの喜びを味わうために光の仕事をしていると言っても過言ではないだろう。
それほど、わたしにはこの瞬間が愛おしかったのである。
わたしが吐き出す黒い煙のようなものは、天に向かう途中で光の粒となった。
そして、そのまま眩(まばゆ)い光の中へと消えていく。
それに比例して、黒い顔は小さくなっていくのである。

2015年7月31日金曜日

追憶 1054

わたしは女の生み出した恨みの感情に感謝した。
すると、右手が宙に十字を描く。
わたしはこれから、光の十字架を投じるのだ。
女と老人と、そして、男性をこの苦しみから解放する。
それが、わたしの仕事である。
迷いなく飛んだ光の十字架は、黒い顔の額から内部に埋まった。
すると、内部から徐々に光が広がって、やがて全体を包んだ。
それは柔らかな光であり、そこからは優しさが感じられた。
大きな悲鳴と共に、黒い顔はその形を崩していく。
輪郭(りんかく)の曖昧(あいまい)さに比例して、恨みの感情も薄れていくような気がした。

2015年7月30日木曜日

追憶 1053

これが女の抱えている恨みの姿であろう。
恨みの感情は自制心よりも巨大に育ち、自分自身をも飲み込んでしまうのだ。
女は自分自身でさえ、恨みの感情をコントロールすることができない状態であったのではないかと推測する。
きっと苦しかったはずだ。
恨みの感情が排出されると、女はその場に倒れて動かなくなった。
女を動かしていたものは、恨みの感情であったのだろう。
今や本体は恨みの感情の方である。
しかし、”これ”を育てたのは女の弱さである。
女は、自らの弱さを理解するために恨みの感情に飲み込まれ、苦しみを体験することができたのだと思う。
そのため、わたしは女の恨みの感情に対して感謝の気持ちを以て接することができる。
すべてに意味を見出せば、この世界には”悪いもの”などなくなるのである。

2015年7月29日水曜日

追憶 1052

光の十字架は迷いなく飛び、女の額に突き刺さった。
場を揺らすような大きな悲鳴と共に、女の目と口からは黒い煙のようなものが吐き出される。
それは、女の頭上に塊(かたまり)を形成していた。
わたしは再び、光の十字架を作り出して女に投じた。
胸に突き刺さると、全身から黒い煙のようなものが排出される。
それも頭上の塊へと飲み込まれた。
黒い煙の塊は忽(たちま)ちに見上げる大きさとなった。
それはやがて、苦悩に満ちた一つの顔となったのである。

2015年7月28日火曜日

追憶 1051

ここにいる人達は愛情という大切な視点を失っていたのだ。
老人はそのことに気が付いたが、それは長い苦悩の末に勝ち取った宝物である。
女はどうであろうか?
この中で最も憎しみに近いのが女である。
ここまで来ると、最早自力で立ち戻ることは難しい。
女は恨みの感情に浸かり過ぎているのだ。
例えるならば、首まで地面に埋まっているようなものである。
その状態から自力によって抜け出すことは困難である。
わたしが光の十字架を持たされたのも、女が自力では立ち戻ることができないことを理解しての選択であると推測される。
そうなれば、これからわたしが取るべき行為も見えてくる。
わたしは女に対して、光の十字架を投じるだろう。
そして、女を恨みの感情から引き上げるのである。

2015年7月27日月曜日

追憶 1050

女は歯を剥き出しにした怒りに満ちた表情を見せた。
しかし、そこに眼球は無かった。
眼球があったであろう場所は真っ黒に塗り潰されているようである。
女は恨みの感情によって、きっと大切なものを見失ってしまったのだ。
霊は眼球や脳を使ってものを認識している訳ではないので、眼球を失ったからといって視界を失う訳ではない。
正しい視界を失ってしまった表現として、眼球が失われてしまったのである。
大切なのは、愛情に根差した視点である。
愛情に根差した視点を失ってしまえば、どのような人物の視界も光を失ってしまう。
光を失った視界を生きる人が得るものは苦悩である。
そして、それはそこから抜け出さない限りは持続していくものなのだ。

2015年7月26日日曜日

追憶 1049

老人と女の間に生じた争いの根源は、愛情の不足にあるのだと思う。
愛情の不足さえなければ、人の心が争いを求めることなどないのだ。
老人はそれを、ここで気が付いたのであろう。
わたしは自らの右手が宙に十字を描くのを見た。
それは辺りの暗闇を遠ざけ、金色に輝く光の十字架となった。
それは太陽のように明るく、そして、暖かくこの場を包み込んだ。
それに気が付いたのか、女が髪を振り乱して振り向く。
そこには、車の中で見た紅い唇(くちびる)があった。

2015年7月25日土曜日

追憶 1048

多くの人は生きている内に、自分自身に対しても、自分以外の存在に対しても、愛情を見失っていく。
すべての存在が”神”によって等しく、一つであったことを忘れてしまうのだ。
物質世界においては、それぞれが別々の状態を以て存在している。
そのため、いつの間にかに、自分自身が独りであると考えてしまうのであろう。
自分自身が独りだとする考えの元で、寂しさが生まれる。
そして、寂しさが依存を生み出し、複雑に絡み付く関係性を導く。
または、そこには怒りが生まれる。
そして、怒りが争いを生み出し、同じように複雑に絡み付く関係性を導くのである。

2015年7月24日金曜日

追憶 1047

しばらくの間、わたしは沈黙に遊んだ。
急がば回れという言葉があるが、その通りだと思う。
わたしは急いでいるのだ。
急いでいるから待つのである。
この辛抱に価値があると思っている。
霊的な世界に時間の感覚はないが、長く彼等を見ていたように思える。
すると、老人が何かに気が付いたように顔を上げた。
その表情は満足を抱えているように見えた。
老人の表情を見ていると、わたしは老人が愛情を悟ったのだと気が付いた。
女との間にどのような因縁があるのかは未(いま)だに分からないが、相手がどのような人物であろうとも、愛情を以て接するのが最善である。
人間関係とは、心の付き合いだ。
愛情を以て接することがなければ、それは複雑に絡み付いてしまうのである。

2015年7月23日木曜日

追憶 1046

そんなわたしを見て、老人は困り果てていた。
そして、沈黙し、何かを思い巡らせるように瞼(まぶた)を閉じた。
老人は自分自身の生前の在り方について考えているに違いない。
その考え方や価値観や行為が、今の状況を導いたのだ。
それを悔いているのかも知れない。
自分自身の非力さを嘆き、後に謙虚さを得るだろう。
すべての状況には、自らを正すヒントが隠されている。
大抵の人は困難を嫌うが、人生の目的が成長にある以上は、これを否定する訳にはいかないのだ。
困難を受け入れ、自分自身の無知を知り、反省して改めることによって初めて、この学び、この苦悩は終わるのである。
老人は正に今、学びを終わらせようとして、この状況に対する考え方と自身の在り方を改めているのであろう。

2015年7月22日水曜日

追憶 1045

老人はわたしに懇願(こんがん)した。
老人の力ではこの状況をどうすることもできなかったのであろう。
そうでなければ、男性が幾度も事故に合うこともなかったのかも知れない。
しかし、わたしが自分勝手に動くことはできない。
大天使ミカエルの指示がなければ、わたしは何もできないのである。
今のわたしには、助けを懇願する哀れな老人と、力無く項垂れる男性と、それを呪う女を眺める以外には方法がないのだ。
助けたい気持ちはあっても、わたしには何が最善であるのかも分からないし、力も使えないのである。
安易に手を貸すことだけが助けではないと、わたしは経験上学んでいる。
だから、この待機している時間にも大切な意味があるということを知っているのだ。
わたしは焦らない。
必要が満たされるまでは何もしないのである。

2015年7月21日火曜日

追憶 1044

恨みの感情によって、老人と女はこの世とあの世の間に束縛されているのである。
それは、中途半端な立ち位置であり、ここに長くとどまると人格が損なわれ、やがて黒い煙のようになってしまう。
狭い空間に閉じ込められると、やがて精神の崩壊が起こるのと同じようなものではないだろうか?
わたしがゲップや叫び声によって吐き出す破滅的な意識である黒い煙は、破滅的な思想と霊体の集合体ではないかと推測するのである。
このままの状態であれば、いつか男性も引き入れられ、その苦しみが増すことによって更に闇が深まる可能性があるのだ。
わたしにはそれを避けなければならない理由がある。
わたしの目的は少しでも多くの人や霊を苦しみの中から助け出すことである。
そのために、ここにいるのだ。


2015年7月20日月曜日

追憶 1043

それこそが、女の恨みがもたらす最大の呪いなのかも知れない。
老人には我が子に対する思い入れがある。
それは、単なる思い込みに過ぎないが、今の老人にとっては重要なことなのだ。
死後にも生前の関係性が持続するのか?という質問には、わたしの認識する光(天国?高次元?)に帰るまでの世界(幽界?霊界?)であれば持続する。
霊体となった人間は、肉体を持たずして生前の人格を保つのである。
光に帰れば、生前の関係性から離れて、純粋な絆によって結ばれるのである。
例えば、生前には親子関係であっても、光の先では親子関係などは持たない。
魂というレベルであっては、”すべては一つ”なのである。
そのため、現代の仏教(一括りにしてはいけないだろうが)が先祖供養として様々な儀式を執(と)り行っているのは、自分達が仕事をしていないということを公言しているものであると、わたしは経験上考えているのである。


2015年7月19日日曜日

追憶 1042

どういった経緯でこのような状況に陥ったのかは分からないが、この老人と女との間に生じた問題であるらしい。
女は老人の息子である男性を恨んでいるように見える。
わたしはそこが解せなかった。
疑問を結ぶために、その理由を尋(たず)ねた。
それは、老人が死んだからだと教えてくれた。
女の恨みは始め老人へと向けられていた。
女の恨みが影響しているのかは分からないが、老人は死を以て人生を離れた。
女が老人の息子である男性を呪っているということは、老人の死因に女の恨みは直接的な関係を持たないのかも知れない。
しかし、死後にも女と離れることはできなかった。
それは、女が息子に対して恨みの感情をぶつけ始めたからである。


2015年7月18日土曜日

追憶 1041

わたしにはここにいる人たちが自分勝手に見えたし、同時に子どものようにも見えた。
この人たちがやっていることはとても幼稚なのである。
言い方が悪いが、獣のようなものであろう。
こう言うと、動物に失礼かも知れない。
動物の方がよっぽど高次の感情の中に生きているだろう。
ここには相手を思いやる礼節が一切なく、わたしは様々な感情を通り越して呆(あき)れてしまうのであった。

老人がわたしに気付いた。
老人は皺(しわ)を掴んだ顔を目一杯に動かし、わたしに対して懸命に助けを求めた。

2015年7月17日金曜日

追憶 1040

以前のわたしはここにいた。
ここまで深くはなかったであろうが、同じようなものである。
多くの人が怒りを抱え、その中の何割かは恨みを武器としている。
これは、周知の事実である。
多くの人がそれを”普通”だと思っているのだ。
それは、自己を正当化することによって引き起こされる状態であるが、これは自分が正しいという自惚れから始まるものであろう。
この女と、老人と、彼の間にどのような過去があるのかは分からないが、それぞれが自分が正しいという自惚れと、自己を正当化する気持ちがあったのではないだろうか?
このような行為がある内は、世界は暗黒に包まれるのである。

2015年7月16日木曜日

追憶 1039

老人を見ていると、事故の被害者である男性のことが頭に浮かんできた。
わたしには老人と彼が何かしらの関係性を所有していると感じた。
すると、女の前に彼の姿が浮かび上がった。
彼は全体的に暗い影のような姿であり、背中を丸めて座り込んでいる。
弱々しく項垂(うなだ)れる彼に対して、女は恨みの感情をぶつけているようだ。
その光景を老人が見つめているのである。
わたしは悲しい気持ちになった。
ここはなんて虚しい世界なのだろうと思ったのだ。
恨みの感情が充満し、それに浸る人たち。
わたしにはこれがとても低次の世界の出来事であると見えていたのである。

2015年7月15日水曜日

追憶 1038

謙虚な姿勢と学ぶ気持ちを以て向き合うのであれば、初見とは違う視点を得ることが出来る。
わたしは女を哀(あわ)れに思った。
これは、いつも抱く思いではあるが、心を乱すということは、それだけ苦しんでいるということである。
これを哀れに思わずして、どう思うというのであろうか?
わたしには女を思いやる気持ちがある。
それに従えば、哀れみが導かれるのだ。
そのように見ると、女の向こうに老人の姿が浮かんだ。
老人はやけに歳をとって見えた。
それは、彼の表情が疲れ切っているように見えたからだろう。
老人は、苦悩に満ちた表情と絶望を宿した瞳で女を見つめていた。

2015年7月14日火曜日

追憶 1037

ただし、わたし自身が完璧にできているなどとは言えない。
わたしも未熟であり、十分に歪んでいる。
それを解消するための人生なのである。
わたしは出来る限り謙虚でありたいし、常に学び続けていきたいと思っているのだ。
そのため、この女に対しても謙虚な姿勢と、そこから学ぶ気持ちは忘れないように努めている。

わたしは改めて女の背中に対峙した。
今度は穏やかに客観することが出来るような気がする。
謙虚な姿勢で偏見を用いず、学ぶ気持ちで向き合うのだ。
そうすれば、何かの糸口を得ることが出来るのである。

2015年7月13日月曜日

追憶 1036

女の声にわたしの良心が反応した。
それは拒絶を以て、わたしの頬をぶったように思えた。
わたしは無意識の内に女の感情に引き込まれ、利用されようとしていたのである。
わたしが恨みの感情に引き込まれて女の首を締めていたのならば、わたしには女と向き合う資格は無かったであろう。
これは人間も変わりないが、霊的な存在は自己を正当化している。
そして、それを理解して欲しいと思っているのだ。
そのため、感情の操作によって自らの仲間に引き込もうとするのである。
これに引き込まれてしまう者は、苦悩の中に彷徨(さまよ)うことになるのだ。
そのため、人に対しても霊的な存在に対しても、自己を律(りっ)して強く保つことができなければならないのである。
話は逸れるが、今日のテレビに出演している自称霊能者や占い師は大抵が肥満体系である。
これが意味しているところにも注目しなければならないだろう。

2015年7月12日日曜日

追憶 1035


「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね…」

聞くに耐えなかった。
女は聞き分けのない子どものようである。
恨みの感情が全体を侵食し、まるで黒い影のような姿であった。
わたしは女の感情に引き込まれ、女を殺したいと思った。
わたしたちは一つに繋がっている。
共感性とでも言うのだろうか?
互いに惹(ひ)かれ合い、いつの間にかに同化する。
意識的にも無意識的にも、それは行われるのである。
わたしは女に近付くと、背後から首を締めようと考えていた。
わたしの中には女に対する殺意が溢れていた。

「殺せ」

その時、わたしの中に女の声が響いた。

2015年7月11日土曜日

追憶 1034

それが正しい文明の在り方なのかと、わたしは常日頃から疑問に思っているのである。
苦しんでいる人は、そのもどかしい気持ちから怒りを発することは良くあることであるが、自分自身もそうであることを大抵の人が忘れている。
そのため、ネガティブな状態の霊を悪霊などと卑下(ひげ)したり、見当違いに恐るのである。
相手を助けたいと思う気持ちはおかしいのであろうか?
わたしたちは今一度、自分自身に問い掛けなければならないだろう。

暗闇の中を進むと、やがて景色が赤みを帯びてきた。
怒りの感情がわたしの肌に刺さるようである。
わたしは気にせずに進む。
すると、髪を振り乱して狂乱しているような女の後ろ姿に辿り着いた。

2015年7月10日金曜日

追憶 1033

純粋な気持ちは、わたしを利他的にさせた。
これは、誰もが同じなのではないかと思う。
特に日本人(遺伝子、文化、歴史的に見て)であれば、そのようになると思える。
わたしたちの純粋な気持ちの中には、相手を思いやる愛情が備わっているのである。
純粋な気持ちであれば、わたしは相手を助けたいと感じるのだ。
そのような視点で眺めた時には、状況に対する印象は違ったものになってくる。
恨みの感情をぶつけてくる相手であろうとも、愛おしく思えてくるのである。
これは、不思議な感覚ではあるが、純粋な気持ちによって思い出されるのだから、こちらがわたしたちの本質なのではないかと思えるのだ。
今日の資本主義、利益追求型の(劣等)社会においては、相手を思いやる気持ちは優遇されず、相手から多くを奪うことに比重を置いているような印象を受ける。

2015年7月9日木曜日

追憶 1032

その時、脳裏には再び不敵に笑う女の赤い口が浮かんだ。
重たい身体を気合いで持ち上げ、その場に胡座(あぐら)をかいた。
瞼(まぶた)を閉じると、そこには部屋よりも深い暗がりがあったが、それは歪みながら揺れていた。
引いては返す波のように襲う吐き気に堪えながら、わたしは意識を整える。
純粋な気持ちであれば、わたしは静寂の中に入り込めた。
恐れがあってはならない。
わたしは純粋に女の(幸福の)ために働くのである。
この心地悪い状況から、女を救い出すのだ。
そのような気持ちで向かうのである。

2015年7月8日水曜日

追憶 1031

事故の意味を考えていると、胸がただれるように熱くなるのを感じた。
恨みの感情が沸き起こり、汚い言葉を罵(ののし)りたくなる。
わたしは深い溜め息を吐いてその感情を鎮(しず)めようとしたが、強烈な吐き気がそれを阻止していた。

「憎い憎い憎い憎い憎い…」

わたしの心の中を暴言が占領していく。
罵詈雑言(ばりぞうごん)が飛び交い、わたしはどうにも嫌な気分になった。

「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す…」

その時、明らかにわたしのものではない女の声が心の中に響いた。

2015年7月7日火曜日

追憶 1030

しかし、わたしが睡魔に襲われることがなかったのは、吐き気がわたしを襲っていたからである。
わたしは改めて事故のことを思い出していた。
考えてみると、道の駅の辺りから様子が違っていたのだと思う。
あの時、わたしは気怠さに付き纏(まと)われて休む他なかった。
あの時、休まなければわたしは映画館に向かっていたはずである。
その後の父からの電話。
そして、帰路での事故…
わたしはあの場所で、あの男性と事故に会うことが計画されていたのではないかと思えるほど、すべての状況がそこへ繋がってしまうのである。
わたしたちは事故に導かれたのであろうか?
起きたことは避けられないにしても、その意味を理解する必要があることは分かっているつもりだ。
事故に会うという”不運”があって終わりということではないのである。

2015年7月6日月曜日

追憶 1029

悶々(もんもん)とした気持ちと吐き気を抱えて帰ることにした。
Nの両親にも電話で事実を伝え、日を改めて謝罪するようにした。
Nを送り届け、帰宅すると父がいたので、事故のことを簡単に報告した。
父は心配していたが、仕事のことは話さなかった。
きっと、被害はなかったのであろう。
母に礼を伝え、独り自室にこもる。
カーテンを閉めると、暗闇がわたしを包んだ。
暗闇がのしかかるように急激に身体が重くなり、わたしは倒れるようにしてカーペットにうつ伏せた。
わたしの精神的な疲労は、限度を超えていたのだろう。

2015年7月5日日曜日

追憶 1028

Nの検査を待つ間も、わたしは彼のことを気に掛けていた。
しかし、わたしには彼を止められるはずもなく、自分の非力さを嘆(なげ)くのであった。
Nが診察室から出てきた。
検査の結果は何も問題はないようであった。
それを聞いてわたしは安心した。
そして、わたしも一応検査を受けることになった。
身体のことが心配だった訳ではない。
母がそのように頼むのである。
わたしは自分の身体のことなど心配している場合ではなかった。
彼の身体のことで手一杯であったのだ。
そのため、医者の話を上の空で聞き流していた。
医者がわたしの身体の何を検査したのかは分からないが、医者が言うには何も異常はないようであった。
わたしは医者の話を信じてはいなが、空(から)の返事を置いて診察室を後にした。

2015年7月4日土曜日

追憶 1027

「家に目の見えない母親がいるんでね…」

彼は母親と二人暮らしであるようだ。
そして、その母親は目が不自由なようである。
それを聞いて、わたしは躊躇(ちゅうちょ)したが、やはり彼をこのまま返す訳にはいかないと思った。
医者はしっかりと検査したのであろうか?
医者の権限によって引き止めることはできないのか?
どのように強靭な人であろうとも、あの軽自動車で事故の衝撃を受けながら無事な訳がないのだ。
素人のわたしであっても、そんなことは明白である。
わたしは一日だけでも入院してくれるように頼んだが、彼は母親のことが心配だと言って帰るの一点張りであった。
話が平行線を辿るので、わたしが折れるしかなかった。
そこで、母が彼を自宅に送り届けることになって、わたしたちは別れた。
それは、Nを検査してもらうためであった。

2015年7月3日金曜日

追憶 1026

彼は、自分がなぜ何度も同じ目に遭うのかを不思議がっているようである。
様々な人的要因はあるにしても、それでもその回数が多いのだと言う。
わたしにはその原因がある程度予測出来た。
あの女が関わっているに違いないと思うのである。
しかし、そんなことは彼に伝えられるはずもなく、わたしは話を聞くことに専念した。
彼は一通り話し終えると、立ち上がって出口に向かって歩き始めた。
そこでわたしは驚いた。

「待って下さい。帰れるんですか?」

わたしは彼が入院するものだと思っていたのである。

2015年7月2日木曜日

追憶 1025

わたしには謝ることしかできなかった。
それを彼が制するが、わたしは他に言葉が見付からずに押し黙るしかなかった。
しばらく、沈黙が続き、わたしは足元の床を見つめる以外には、この時間を埋める手段を見付けられずにいたのである。
不意に彼が話し始めた。

「いつもこうだ…」

彼は絞り出すように話してくれた。
彼が事故に遭遇するのはこれが初めてではないと言う。
今回は被害者という立場ではあるが、加害者としての立場を得たこともあり、それを何度も繰り返しているというのだ。
そのために、先述の言葉がこぼれるのである。

2015年7月1日水曜日

追憶 1024

吐き気の波が襲った。
もう、一言も話したくはなかった。
口を開くと嘔吐してしまいそうだったからである。
わたしは瞼を閉じて、ただ車の揺れに耐えた。

20分程で病院に到着した。
わたしたちは救急の待合室で彼を待つことにした。
しばらくして、彼が胸を押さえるようにして、診察室から出てくるのを確認する。
わたしは駆け寄ってお詫びした。
彼は怒りを現しつつも冷静であったように思える。
わたしたちは近くにあった長椅子に腰を下ろして座った。
事故による怪我か、精神的なショックによってか、彼はとても弱々しく映った。

2015年6月30日火曜日

追憶 1023

取り乱す母親を制しながら、わたしたちは後部座席に並んで座った。
わたしは視界が歪むのと強烈な吐き気によって、瞼(まぶた)を開けておくことさえ出来なかった。
しばらく沈黙した後に、Nの体調を伺った。
やはり、Nも気分が優れないと言う。
それに続けてNが呟(つぶや)いた。

「女の人がいた…」

Nは確かにそう言った。
Nの話によれば、車が衝突する直前に軽自動車の後部座席に運転手を覗き込むような姿勢の女の姿が見えたのだと言う。
しかし、事故の直後に確認したが、軽自動車には運転手の男性以外には誰も乗ってはいなかった。
それは、救急隊員も確認している。
わたしはNが嘘を吐いているとは思えない。
なぜなら、瞼の裏には真紅の口紅で飾った女の口元が、ゆっくりと引き伸ばされて笑みを作るのを見たからである。

2015年6月29日月曜日

追憶 1022

思わず掌(てのひら)で口を覆った。
これは、事故による症状の一部であろうか?
緊張した時に吐き気に襲われることがあるが、それであろうか?
不意にNが吐き気を訴えた。
それを聞くと同時に、わたしは更なる吐き気に襲われるのであった。
これは、”普通”の吐き気ではないと感じた。
先程から頭が割れるように痛いのは、事故の時に頭を打っていたからではないのか?
これも、”普通”の痛みではないというのだろうか?
思案したが、何も分からなかった。

しばらくして、母親が現場に到着した。
母親が連絡していたらしい保険の担当者も到着し、レッカー車も到着した。
慌ただしくなった現場にいては迷惑になると思い、わたしたちは母親の運転する車で、被害者の男性が運び込まれた病院へと向かった。

2015年6月28日日曜日

追憶 1021

救急車を見送り、警察官に事情を出来る限り詳細に説明した。
警察官への説明が終わり、わたしはNとガードレールにもたれ掛かって、しばらく放心していた。
警察官は、わたしたちを助けてくれた若い男性たちにも事情を聞いているようである。
わたしは事故に対しては何も恐れてはいなかった。
しかし、相手の男性に危害を及ぼしたこと、Nに怖い思いをさせたこと、そして、多くの人に迷惑をかけたことが恐ろしかったのだと思う。
それに加えて、肉体は普段使わない力を引き出した。
その反動によって、力が抜けてしまうのかも知れない。
様々なことが頭に浮かんだが、わたしにはそれ等を一つ一つ検証する余裕などなかったのである。
その時、わたしは猛烈な吐き気に襲われていることに気が付いた。

2015年6月27日土曜日

追憶 1020

救急車が到着するまでは20分くらいであろうか、わたしにはそれが何時間にも感じられた。
その間にNの様子を伺(うかが)い、両親に連絡した。
わたしにできることはそれくらいであったからだ。
しばらくして、けたたましいサイレンを引き連れた救急車が現場に到着した。
わたしは出来る限りの情報を隊員の方に伝え、一刻も早く彼が病院へ運び届けられるように祈った。
それと同じくして警察車両も到着し、事故の処理と現場検証が始まった。
緊張の糸が切れたのか、Nが泣いたので、わたしは謝りながら抱き締めた。
その時、わたしは身体が震えて力が入らないことに気が付いたのである。

2015年6月26日金曜日

追憶 1019

彼は60代に見えた。
この年齢での事故による衝撃が与える影響は、わたしには簡単に想像できた。
それは、相当身体にこたえているはずである。
小さく唸り声を漏らしながら、表情を歪めて再びシートにもたれ掛かった。
 胸を押さえている姿からは、そこを強く打ったのだと推測できる。
シートベルトによる圧迫だろうと思った。

その時、一台の車が停まり、そこから30代くらいの若い四人の男性が降りてきた。
彼等は、この状況を心配して立ち寄ってくれたのである。

「救急車は呼んだ!?」

先輩格の男性がわたしに尋ねた。
そこで、わたしは自分が冷静さを欠いており、何もしていないことに気が付いた。
すぐさま携帯電話を取り出し、救急に連絡した。
すぐに救急車を向かわせるということだったので、わたしは彼等に礼を述べつつも、シートに横たわる男性に声を掛け続けた。
その間、四人の男性たちは交通整理をしてくれていたが、わたしは彼等に対して感謝の気持ちが絶えなかった。

2015年6月25日木曜日

追憶 1018

前部が大破した軽自動車に駆け寄る。
フロントガラスからは運転手がシートにもたれ掛かるように横を向いているのが見えた。
運転席側のドアは簡単に開いた。
焦げ臭いような臭いが鼻を突いた。
見ると、男が一人小さな唸り声を上げている。
わたしは彼が生きていることに一先ずは安心した。

「大丈夫ですか!?」

わたしの問い掛けに彼は答えた。

「大丈夫な訳があるか!」

彼は怒りの感情を精一杯に叫んだ。

2015年6月24日水曜日

追憶 1017

エアバッグがゆっくりと開くのを見終わると、白い煙が視界を塞いだ。
これは、エアバッグから出るものであろうか?
わたしは動揺していたと思う。
しかし、思考は現状の把握に努めていた。
わたしが初めに確認したのはNの安否であった。
助手席のNを見ると、表情は硬いものの外傷は無い。
安否を問えば、大丈夫だとの返事があったので、一先ずは安心した。
次に軽自動車の運転手である。
わたしは軽自動車の運転手は最悪の場合、死んでいるのではないかと思った。
軽自動車は古い型のものであり、わたしの車はSUVのハイラックスサーフである。
二回りも大きいような車に衝突されたのだから、それは想像を絶する衝撃であったに違いない。
ドアはすんなりと開き、わたしを追って煙が降りた。

2015年6月23日火曜日

追憶 1016

しかし、わたしの期待は簡単に打ち砕かれた。
軽自動車はあたかもそれが当然のように目前に迫っていた。
わたしは衝突することに覚悟した。
そして、次の瞬間には鼓膜を引き裂くような音が骨にまで響いのである。
身体が前方へ投げ出されるのを、シートベルトが防ぐのを認識する。
胸部に強い圧迫感を覚えて、それと同時にピラーに右の額をぶつけた。
そして、ボンネットが盛り上がるのと、フロントガラスにひびが入るのと、エアバッグが飛び出してくるのがほぼ同時であった。
タイヤが金切り声を上げ、わたしたちは後部からガードレールに突き刺さった。

2015年6月22日月曜日

追憶 1015

それは、この先のトンネルから現れたのであろう。
わたしたちはその軽自動車に向かっていた。
やはり、ハンドルは言うことを効かない。
軽自動車は構わず前進してくる。
流れる景色の中で、このままだと衝突すると思った。
そのため、どうにか軽自動車が避けてくれることを願った。
実際にはどうだったのかは分からないが、速度は余り出ていないように感じていた。
これは、危機的な状況下に置かれたわたしの脳が、情報処理能力を高めた結果として時間感覚を加速させ、それと同時に記憶の形成が詳細となり、まるでスローモーションのように状況を認識させた…ということなのかも知れないが、この速度であれば軽自動車はわたしたちを回避することができるだろうと考えていた。




2015年6月21日日曜日

追憶 1014

車全体が鋭く揺れた。
それと同時に、身体が浮かび上がる感覚を得た。
車は左前輪を擁壁に乗り上げ、弾かれるようにして方向を変えた。
わたしたちは再び道路を正面に捉えることとなる。
弾かれた先には追い越しの登り車線があり、下りの一車線と合わせて三車線の道路である。
わたしたちの進行方向は下りの一車線であったが、登りは追い越しの二車線となっていたのである。
そのことを知っていたので、この道端を使って車を停車させることができるのではないかと、淡い期待を抱いた。
もしくは、何処かに衝突したとしても、何等かの形で停まれば良いと思ったのである。
流れる景色の中で、対向車がいないことを確認した。
一瞬の安堵(あんど)を覚えたが、次の瞬間に一台の軽自動車が近付いているのに気が付いた。

2015年6月20日土曜日

追憶 1013

車の後部が微かに左右に振られ、それから大きく振れた。
そして、大きく蛇行した挙句(あげく)、車体が進行方向に右の側面を見せた。
車道の左側には、見上げる程のコンクリートの擁壁(ようへき)があったが、今ではそれが正面に見えている。
わたしにはなす術が無かった。
車体を立て直そうとしたが、ハンドルは重たくて動かすことができない。
車はそのまま擁壁に向かって進んでいく。
どうしようも無かった。
わたしはNのことを守ろうとしたが、遠心力と緊張によってか、身体がシートから離れそうもない。
次の瞬間、大きな衝撃と共に車は擁壁に激突した。

2015年6月19日金曜日

追憶 1012

瞳が収縮するのを感じながらトンネルを飛び出した。
すると、そこは別世界であった。
雨粒は雨の線となり、アスファルトに繋がっている。
地面は気泡で真っ白に見えた。
まるで川のようである。
そこから道は右に緩やかに弧(こ)を描いている。
予想だにしない光景に多少驚いたが、それが胸の鼓動を高めて、集中力を発揮させた。
しかし、次の瞬間にわたしは車の異常に気が付いた。
左後部のタイヤが空転したように思えたのである。
嫌な振動がハンドルから伝わった。
次の瞬間、車は制御を失っていたのである。

2015年6月18日木曜日

追憶 1011

黒い口の中に飛び込むと、雨がわたしたちから離れていった。
スノーノイズは存在感を増し、まるで車内を支配しているようである。
見渡しても、わたしたち以外の車両を確認することはできなかった。
トンネル内を淡く映し出すオレンジ色の照明の連なりを無意識に眺めながら、わたしは真っ直ぐに運転していた。
一瞬、思考が輪郭を失い、オレンジ色の光が一つに繋がる。
それを振りほどくことで意識的に運転を続けた。
わたしとNをスノーノイズが繋げていたが、わたしたちにはそれ以外の接点は得られなかった。
やがて、オレンジ色の光が増し、その先に白い口が開いているのが見える。
それは、わたしにとっては何の変哲もないただの出口に違い無かった。
この時までは。

2015年6月17日水曜日

追憶 1010

やがて、法華津(ほけつ)峠に差し掛かった。
しばらく走ると1320mという長さの法華津トンネルが口を開いている。
それを抜けると、そこから長短九つものトンネルを通過しなければならなかった。
法華津トンネルは雨を垂らして暗く淀(よど)んで見えた。
わたしにはそれが、よだれを垂らす大きな口のようにも感じられた。
TVの電波はここまでは届いていない。
カーナビの画面には砂嵐が映し出され、車内には不快なスノーノイズが響いていた。
しかし、わたしはそれを気にも掛けなかった。
Nがどう思っていたのかは分からないが、それを指摘することもなかった。
わたしたちは沈黙の中にスノーノイズを聞きながら、黒い口を開ける法華津トンネルへと侵入した。

2015年6月16日火曜日

追憶 1009

わたしはせっかくのデートが台無しになったことに絶望感を覚えた。

「分かった。すぐに戻る」

簡単に応え、電話を切った。
わたしはNに対して事情を説明した。
Nの家も同じ養殖業を営んでいたので、それがどのようなことなのかは簡単に想像することができただろう。
残念そうにはしていたが、納得していたようであった。

車を反転させて、来た道を戻る。
ワンセグ放送で映し出されるアナログTVの中の笑顔と、騒がしい笑い声だけが車内に響いていた。
わたしたちは沈黙したままで、同じ道を重たい身体と気持ちを乗せて走ったのである。

2015年6月15日月曜日

追憶 1008

車を走らせてしばらくすると、携帯電話がけたたましく着信を知らせた。
画面を見ると、それは父親からのものである。
車を路肩に停めて、五月蝿(うるさ)く鳴り続ける着信に応じた。
父親が連絡してくるのは、何かしらの業務連絡である。
わたしたちは、日常会話を楽しむために電話を用いることはなかった。
連絡が着た時点において、わたしはその内容をある程度予測することができた。
受話器越しの父親は落ち着いてはいたが、その言葉は緊急を伝えるものであった。
それは、大雨と山財ダムの放流によって、岩松川から大量の葦が北灘湾に流れ込んでいるので、今すぐに戻れということであった。



2015年6月14日日曜日

追憶 1007

Nは心配しながらもわたしに続いた。
空を見上げると、大粒の雨が頬を叩くのを感じた。
それは生温い雫であったが、今のわたしにはそれが心地良いものとして感じられる。
車に乗り込むと、わたしは大きく息を吐いた。
それは、重たい体を引きずってここまで来たことに疲れたからである。
わたしは体調の変化に自分でも驚いていた。
しかし、原因は分からなかった。
わたしは自力で何か霊的な問題が生じているのではないかと探りを入れてはみたが、得られるものは何もなかったのである。
仕方がないので、映画館に向けて車を走らせることにした。

2015年6月13日土曜日

追憶 1006

目を閉じると、暗闇が捻転(ねんてん)しているような感覚を得た。
それは、まるで目を回した時に目を閉じると見える世界のようであったのである。
決して気分の良いものではなかった。
しかし、目を開けてはいられない程に全身は何かの重みに耐えていたのである。
Nはわたしのことを心配していた。
しかし、どうすることもできないので、わたしを気遣いながら側にいてくれた。
わたしたちは何の会話もないまま、ただ黙って座っていたのである。
しばらく休んでいると、せっかちな性格がわたしを促していることに気が付いた。
わたしは動かなければならない。
そのように感じて、重たい身体をソファーから持ち上げた。

2015年6月12日金曜日

追憶 1005

上映時間まではかなりの余裕があった。
そのため、途中の町にある道の駅に立ち寄ることにした。
そこで少し休憩し、時間を合わせようと考えていたのである。
トイレを済ませ、即売所を物色する。
めぼしいものはなかった。
窓の外に映る雨は、強くなっているように感じる。
空には厚い雲が増しているようにも思えた。
それと比例するようにして、わたしは身体が重たくなったように感じていた。
思考は輪郭を失い、ぼやけた像を見せている。
わたしは立っていられず、Nに断ってロビーに置いてあるソファーに身体を沈めた。

2015年6月11日木曜日

追憶 1004




これは数年前の写真である。
この時は大したことはなかった。
しかし、網に詰まった葦は強固であるために、網を筏の中央に寄せて空間を作り、葦の枯れ枝を筏の外に掻き出そうとしているところである。

濁流の中に葦の枯れ枝を確認することはなかった。
そのため、わたしは余計な心配はやめて、Nとの楽しい時間を大切にすることに決めた。
しかし、わたしは自分自身の中に何かしらの違和感が存在していることに気が付いていた。
それは、遠くから嵐が迫ってきているような小さな胸騒ぎであった。
しかし、そこには何の確信もない。
自らが感じている違和感にさえ確信が持てないような状態であったのだ。
それに、微かに身体が重たくも感じる。
これは、雨の時に感じるいつもの感覚であろうか?
そんなことを考えながら、わたしはアクセルを踏んだ。

2015年6月10日水曜日

追憶 1003

葦の枯れ枝が問題であった。
岩松川の中流には、葦が群生しているが、その枯れ枝は大量である。
山財ダムの放流によって流された大量の葦は、その勢いのままに養殖用の筏にぶつかる。
養殖用の筏には、真鯛を飼育しているために目の細かい網が張ってあるのだ。
そこに葦の枯れ枝が引っ掛かる。
次々に押し寄せる葦によって、網がそのまま持ち上げられて浮かされてしまうのである。
そうすると、泳ぐ場所を奪われた真鯛は剣山のようになった葦の枯れ枝で傷付き、浅い部分の真水によって死んでしまうのである。
実際にこれで、毎年のように被害にあっていた。
その対策として、近年では網を箱状に縫い合わせて、そのまま海中に沈めるという対策を行うようにはなっていた。


2015年6月9日火曜日

追憶 1002

国道56号線を岩松川に沿って走る。
前日からの雨の影響で、川には濁流(だくりゅう)が渦を巻いていたが、水位はそれ程のものではなかった。
わたしには一つ気掛かりがあった。
それは、岩松川の上流には山財(さんざい)ダムがあり、大雨や台風の時には放流するのである。
その放流量が90tを超える辺りから、川原に群生している葦(あし)を根こそぎ押し流すことがあったのだ。
時には、杉の大木がそのまま流れてくるということもあった。
その他に、猪などの動物も流れてくるし、不法に投機された冷蔵庫や洗濯機などの粗大ゴミまで流れてくる始末である。
その時には、北灘湾は激流となった。
それは、小さな船外機では沖に浮かべてある養殖用の筏(いかだ)に船が着けられない程である。

2015年6月8日月曜日

追憶 1001

Nの家の前に着くと、それを見越してかNが雨を避けるようにして車に駆け寄った。
わたしはその当たり前の光景をドラマチックだと感じ、雨も良いものだと思った。
Nの明るい挨拶の声にわたしの心は晴れた。
Nと楽しい雰囲気を乗せて、わたしは映画館に向けて車を走らせた。

激しい雨がアスファルトを叩いていた。
途中には岩松川という二級河川がある。
これは、横吹渓谷より津島町を縦断し、わたしの住む北灘湾に注いでいる。
以前には、愛媛県の天然記念物にも指定された大鰻(おおうなぎ)も生息していたが、環境の悪化によって今ではその姿を見なくなった。
冬期には白魚漁やアオサ漁が盛んに行われている。
しかし、これも今日では以前の勢いは失われている。




2015年6月7日日曜日

追憶 1000

空は相変わらず太陽を嫌っていた。
わたしは雨も好きである。
水面に広がる波紋は芸術的であるし、雨音は穏やかな気持ちにさせてくれる。
しかし、気圧のせいなのか身体が重たく感じるのは、どちらかと言えば好きではなかった。
別段、気に掛けることでもないのではあるが…

時折ルーフ打ち付ける雨音が、わたしに雨粒の大きさを教えた。
わたしはハイラックスサーフという四輪駆動の比較的大きな車でNを迎えに走っていた。
自宅からNの家までは約1.5kmというところである。
2〜3分もあれば到着する。
わたしはいつもNを迎えに行った。
それが楽しみでもあったのである。

2015年6月6日土曜日

追憶 999

その日は、前日の雨雲を引き摺(ず)った天候であった。
分厚い雲に覆われた空は、時折大きな雨粒を降らしている。
それでも、わたしたちには貴重な時間であったので、このような天候であっても遊べる場所を探していた。
その時は、映画でも観るかということになり、車を一時間程走らせた場所にある映画館に向かっていた。
宇和島市には映画館が無かったのである。
わたしが知っているのは、東映とシネマサンシャインという二つの映画館である。
中学生の頃に東映が潰れ、高校生の時にシネマサンシャインが潰れた。
少子化とインターネットの普及、そして、景気の悪化により、映画館の必要性が無くなったのであろう。
採算が取れなければ撤退するのが資本主義の掟(おきて)である。
そのため、映画を観るだけで、宇和島市の人達は車を一時間程も走らせなければならないのであった。

2015年6月5日金曜日

追憶 998

日曜日は、Nとのデートの日である。
学校が休みなので、Nに予定がなければいろいろと連れ出していた。
わたしは出来る限りNを連れ出し、いろいろな場所に行きたかったし、そこで何かしらの経験ができれば良いと思っていた。
高校生では簡単に体験することができないことを、わたしなりに出来るだけさせてあげたいと思っていたのである。
わたしたちは10歳の年の差があったので、車を所有しているわたしはある程度自由に移動することができた。
わたしが住んでいる宇和島市は、市ではあっても田舎である。
車がなければ買い物も簡単ではないような環境であった。
高校生の移動手段の基本は自転車かバスである。
わたしはこの環境が長閑(のどか)で好きだが、若者はこれを不便と感じ、また変化の少ない生活を退屈であるとも思うだろう。
東京の生活に比べれば、やはり愛媛の生活は退屈なものである。
そのために、出来る限り様々な場所に出向いては、埋め合わせをするのであった。