このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2016年12月31日土曜日

追憶 1573

人間はそれ等を別々なものとして信じている。
過去は過去であり現在は現在、そして、未来は未来なのである。
そのために、人は現在という場所に存在しながら、過去を嘆(なげ)き、未来を切望する。
もしくは、過去を賛美して、未来の訪れを拒むだろう。
それは、世界に否定を持ち込んだ結果である。
否定的な感情は時間を分断し、同時に世界を分断する。
そのために人は苦しんでいるのかも知れない。
受け入れるという行為は、過去、現在、未来を同時に認識することなのではないだろうか?

2016年12月30日金曜日

追憶 1572

子どもが燃料の残量やわたしの結末を知っていたのかは分からないが、わたしが子どもによって助けられたことは疑うことは出来ないだろう。
考えても分からないが、霊的な存在は人間とは違う時間感覚で存在しているのかも知れない。
例えば、人間の感覚では未来という状態が霊的な存在にとっては未来という状態ではないのかも知れない。
時間軸を移動する訳ではないのかも知れないが、すべての時間軸に存在しているのかも知れない。
例えば、樹木には過去と現在と未来が同時に存在している。
黄色く色褪(いろあ)せた葉や、地に落ちて朽(く)ちる葉は過去であり、緑に茂る葉は現在、そして、小さく控える芽は未来である。
人間はそれ等を別々に認識しているが、霊的な存在はそれ等を同一視しているのではないだろうか?

2016年12月29日木曜日

追憶 1571

わたしの感謝の言葉に、老女は穏やかに返した。
燃料の満ちたバイクは、以前よりも力強く感じた。
快調な排気音は、気力に満ちていた。
それはわたしの心配事が消え去ったからであろうか?
バイクも心も軽かった。

帰り道で、わたしは山で出会った子どもを思い返していた。
彼は人間ではないだろう。
恐らく、山の神様か精霊なのではないだろうか?
彼がわたしを通さなかったのは、バイクの燃料が不足していることを知っていたからではないだろうか?
わたしが自分の思う通りに奥へ進んでいたなら、すぐに燃料が尽きていただろう。
そうすれば、民家もあるかどうかも分からない山道で困り果てていたはずである。
あの時に引き返したことで、わたしは麓のガソリンスタンドまで無事に辿り着くことができたに違いない。

2016年12月28日水曜日

追憶 1570

ガソリンスタンドは無人であり、照明すら灯っていない。
周囲に人の気配はなく、わたしは新たな課題を得た。
わたしはこの状況から導き出せる最善の選択を思案していた。
すると、室内の壁に建設会社の名前を見付けたが、その文字を道を挟んだ建物に見付けた。
どうやら、このガソリンスタンドは、建設会社が運営しているようである。
そこでわたしは、建設会社に向かったが、日曜日であるために無人であった。
そこで、隣接している自宅と思われる建物に伺(うかが)った。
玄関のチャイムを鳴らすと、しばらくして老女が現れた。
彼女は初めて見るわたしを不思議そうに眺めた後、穏やかに話を聞く姿勢を整えた。
そこでわたしは挨拶をして、ここに至る経緯を話した。
事情を汲(く)んでくれた彼女は、快(こころよ)くガソリンを分けてくれた。

2016年12月27日火曜日

追憶 1569

わたしは何も気にしてはいなかった。
わたしには何の問題も生じていないのである。
ただ事実を受け入れ、そこから導き出せる最善だと思える選択をするだけだ。
今はリザーブタンクの燃料があるから、それを使って走れるところまで走る。
燃料が尽きれば、尽きた時に導き出せる選択をすれば良いのである。
”燃料が尽きたらどうしよう”
などということは考えなかった。
思考は反射的に不安を考えていたかも知れないが、気にしてはいなかったのだろう。
聞こえていたように思うが聞こえていなかったのかも知れない。
わたしに出来ることは残された燃料で走行することだけである。
他に出来ることがないのだから、他のことを考える必要はないのだろう。
ダムを過ぎ、わたしはいつの間にかに麓のガソリンスタンドに到着していた。

2016年12月26日月曜日

追憶 1568

わたしはフューエルコックをリザーブに切り替えた。
故障でなければ、これで多少の距離を走行することができるはずである。
セルモーターを回すと、エンジンは快調に始動した。
ギアをローに入れアクセルを開くと同時にクラッチを接続する。
すると、何の問題もなく走行を始めた。
ギアを上げても問題はなかった。
ガス欠が原因だったのであろう。
桜並木が心に触れることはなかった。
わたしは麓(ふもと)の地区に小さなガソリンスタンドがあったことを思い出していたのだ。
営業している様子はなかったが、そこまで辿り着けば何とかなるだろうという算段なのである。

2016年12月25日日曜日

追憶 1567

不思議に思ったが答えが見付からなかったので、再び走り出そうとした時、エンジンが沈黙した。
わたしはガス欠を疑い、車体を左右に振ってみた。
すると、タンクの中ではガソリンの揺れる音がしている。
念のため、給油口を開いて中を覗いてみた。
多少の燃料は残っているようであったが、ほぼ空の状態であった。
わたしはやっと、リザーブ(予備)タンクの存在を思い出した。
バイクの燃料タンクは、メインタンクとリザーブタンクの二重構造になっている。
メインタンクの燃料が空になったとしても、リザーブタンクの燃料を使って少しだけ走行することができるのだ。
ガス欠のための保険である。

2016年12月24日土曜日

追憶 1566

わたしは集落を過ぎ、再び桜並木に差し掛かった。
すると、急にバイクの速度が落ちた。
不思議に思い、アクセルを開ける。
すると、更に速度が落ちる。
心地好く鳴いていた排気音は乱れ、明らかに弱っていた。
そして、エンジンが止まってしまった。
バイクは残りの運動エネルギーを消費して沈黙した。
鳥の囀(さえず)りがヘルメットの向こう側で聞こえている。
わたしは周囲を見渡した。
それは、子どもの言動に対する答えがあるのではないか?と考えたからである。
しかしながら、めぼしいものは見付からなかった。
そこで、バイクの不調を疑い、もう一度エンジンを点火してみた。
すると、軽快な排気音と共にエンジンが始動した。

2016年12月23日金曜日

追憶 1565

考えても分からないことは考えても仕方が無い。
だからわたしは子どもの言葉に対する答えを自分の中に探すことをやめた。
どちらにしても、答えは後から分かるのである。
今のわたしには分からないことも、後のわたしには分かるのだ。
人生はいつもこのパターンである。
わたしは事あるごとに、後に答えを受け取っていた。
今回も同じことだろう。
わたしは子どもとの体験を既に手放していた。
それは、置き去りにした過去であり、わたしは”今”バイクで走っているのだ。

2016年12月22日木曜日

追憶 1564

沈黙する子どもを見つめていると、不快感に襲われた。
それは、他人から拒否されていると感じる感覚である。

”帰れ”

言葉は強くなっていた。
わたしは子どもに対して、何か不快なことをしたのであろう。
わたしにはその理由が分からないが、子どもはわたしを拒絶しているということは、子どもが嫌がる何かをしたのであろう。
わたしは子どもを傷付けてしまったのかも知れない。
わたしはこれ以上ここにはいられなかった。
わたしは申し訳なく思い、ヘルメットの中で別れの挨拶をした。
そして、バイクを反転させて帰路に着いた。

2016年12月21日水曜日

追憶 1563

それから子どもは沈黙した。
わたしは自我意識の反発心と向き合っていた。

”先へ進もう。そこにはきっと新しい発見があり、成長することができるよ”

自我意識は、わたしの欲求を知っている。
それは、詐欺師のように味方を装う。
その手法は巧妙(こうみょう)であり、疑わなければ気が付かない。
詐欺師は詐欺師だと認識されないから詐欺師なのである。
”普通”の人たちには、自我意識という詐欺師の存在にすら気が付かない。
自我意識に誘導されているにもかかわらず、自分で選択していると思い込んでいる。
多くの人が、宣伝や広告に誘導されて、自分には必要のないものや、本当は欲しくないものを購入しているが、それは自我意識の誘導による結果なのだ。
自我意識は本当に必要なものを否定(反発)する。
そして、本当は必要のないものに執着させようとするのである。
わたしが抱えている先へ進みたいという欲求は、本当は必要のない選択であるが、自我意識にとっては必要な選択なのであろう。

2016年12月20日火曜日

追憶 1562

わたしは無音の中で、離れた子どもと向き合っていた。

”帰った方が良い”

子どもの声だった。
それは穏やかな声色であったが、強い意志を感じさせる。
子どもはわたしをこれ以上先には進ませたくないようであった。
わたしが子どもの声に思考する時には、排気音が耳を揺らしていた。
わたしの自我意識は先へ進みたいと切望していた。
先に何があるのかを見たいのである。
自我意識は状況に対して反発する性質を持っている。
子どもに否定されたことに対して反発しているのである。
わたしは必ずしも先へ進む必要はないのだが、自我意識が反発しているために先へ進みたいという欲求に執着してしまう。
自我意識は、子どもに対して”自分の邪魔をするな”と言っているのである。

2016年12月19日月曜日

追憶 1561

それは、7、8歳くらいの男の子であろうか?
杉が作り出す影によって断言することが出来ない。
しかしながら、その子どもが着物を着ていることは理解することが出来た。
着物からは素足が伸びていた。
何も履いていないようだ。
子どもは道を塞ぐように仁王立ちをしている。
まるでわたしを通さないようにしているようであった。
それにしても、いつの間に現れたのであろうか?
この先に民家があるのだろうか?
近くで遊んでいて、知らない人間を観察しようとして出てきたのだろうか?
なぜ着物を着ているのだろうか?
わたしの頭の中では、様々な憶測が飛び交っていた。
耳を揺らす排気音が次第に小さくなっていった。

2016年12月18日日曜日

追憶 1560

休憩に満足したわたしは、この後どうするか迷っていた。
このまま奥へと進むのか?それとも引き返すのか?ということである。
奥へと続くのは、杉が覆う真っ直ぐな道である。
少し先で曲がっているために、わたしは好奇心を刺激された。
日も高いし、予定がある訳でもない。
このまま帰宅するのも面白くない。
わたしは道を進むことに決めてバイクに跨(また)がった。
小さくエンジン音を立てながら、奥へと続く道を正面に置いた。
心の準備をして走り出そうとした時、少し先の道を塞ぐようにして子どもが立っているのが見えた。

2016年12月17日土曜日

追憶 1559

わたしはそこにいなかった。
しかし、有ったのだ。
川の流れに戯(たわむ)れる気泡も、木々を揺らす春風も、そのすべてには隔たりが無く、一つであった。
わたしがそこにいたのであれば、わたしは自分という個体であっただろう。
わたしは全体としてそこに有ったのである。
わたしはすべてを眺めていたが、何も眺めてはいなかった。
個体の視界は狭い。
そのため、情報の不足は必至である。
無知には必ず独自の解釈が導かれ、全体を歪んで認識する。
そこには何の理解も導かれないであろう。
自我意識を抱える多くの人が誤解を生きるのはそのためである。
全体として存在するのであれば、運命論的な立場を取るであろう。
すべての事柄が予(あらかじ)め決められているのかは分からないが、目の前に導かれる状況を受け入れることは出来るのである。


2016年12月16日金曜日

追憶 1558

わたしはぼんやりと川の流れを眺めていた。
聞こえてくるのは自然の音だけである。
わたしは何を眺めていたのであろう?
何を聞いていたのか?
わたしは水の中の気泡を眺めていたが、それを眺めてはいなかった。
あらゆる自然の音を聞いていたが、それを聞いてはいなかったであろう。
わたしは何をしていたのだろうか?
それはわたしにも分からない。
きっと、わたしはそこに有ったのだろう。
わたしは何もしていない。
橋の上にわたしはおらず、そこには誰もいなかった。

2016年12月15日木曜日

追憶 1557

見渡しても人の姿が見えない。
生活の痕跡(こんせき)は見て取れるが、人の気配を感じないのである。
人が住んでいないように見える民家もあるが、洗濯物が干してある民家もあった。
住民は仕事にでも出ているのだろうか?
余所者(よそもの)のわたしにとっては住民に怪しまれないことを嬉しいと思う反面、何処と無く寂しくもあった。
わたしは心の中で”お邪魔します”と呟きながらバイクを走らせた。
集落を抜けると大きな橋があった。
橋のたもとにバイクを停めて、しばらく休憩することに決めた。
それは、橋からの眺めがとても美しかったからである。

2016年12月14日水曜日

追憶 1556

畑が増え、田んぼが目に入る頃には、人の生活に触れていた。
そこにはどこか懐かしい風景が広がっていた。
わたしの幼い頃の空気がそこにはあったのだ。
木製の電柱は、背の低いものが道端に一本だけ残っており、今でもクレオソートの黒さを残している佇(たたず)まいは、わたしを幼心へと回帰させるようであった。
わたしは再びバイクを停め、恐らくは20数年振りの再会に自分勝手に酔い痴れていた。
感慨(かんがい)に浸り終えると、わたしは再びバイクで走り始めた。
すると、道に覆い被さるように民家の屋根が現れた。
狭い土地柄なのか、道路と民家の距離が近いのである。
一段高い場所に建てられた民家であるが、道から窓を開けられそうな程の距離であった。
わたしにとっては、そんなことが新鮮であり、楽しかった。

2016年12月13日火曜日

追憶 1555

何度もカーブを曲がった。
川に沿うように道が作られている。
この川がダムへと続いているのだろう。
アスファルトの道には杉葉によって綺麗な轍(わだち)が形作られていた。
これは、日常的に車が通る証拠である。
杉葉は5cmほどは降り積もっているであろう。
そこに湿った黒いアスファルトが顔を出している。
わたしは左のタイヤが通った跡に従って慎重に道を進んだ。
すると、小さな橋の先に石垣の畑が見えた。
手入れされた畑が人の存在を知らせた。
わたしは、もう少しで集落に到着するという期待に胸を躍らせた。

2016年12月12日月曜日

追憶 1554

するとまた走りたくなった。
バイクに跨(またが)り、わたしは桜に誘われるように道を奥へと進んだ。
桜並木を抜けると、一層細い道に入った。
それは、軽自動車同士でもすれ違うことが難しいのではないかと思えるような道である。
樹々は鬱蒼(うっそう)と茂り、空を覆い隠している。
肌寒さが太陽の存在を忘れさせようとしていたが、木漏れ日が辛うじてそれを引き止めていた。
桜の賑(にぎ)わいに比べると、ここはとても淋しい場所であった。
わたしの心の中では、自我意識が不安を生み出し始めている。
バイクを操作しながら、自我意識を宥(なだ)める。
その一方では、真(本当の自分)が好奇心を生み出していた。
わたしは真に従いたいのである。
この先には集落が存在しているはずだ。
わたしはそれを見たいのだ。

2016年12月11日日曜日

追憶 1553

しばらく休んでいると、わたしは自分が山と同化するような感覚を得た。
わたしという生命体が、山という生命体に受け入れられたように感じたのである。
そこでわたしは心の中で山に挨拶をして、今日の目的を伝えた。
すると、バイクで走りたくなったので、目的の桜を探しに向かった。
走り出してすぐに目的の桜並木に到着した。
バイクを停めてエンジンを切ると、再び静寂が訪れた。
淡いピンク色が青空に映えていた。
八分咲き程度の桜の並木は壮大な眺めである。
時折、風が桜の花を揺らす。
それは冬を凌(しの)ぎ、春に咲き誇る生命の喜びを教えてくれているようであった。
わたしは桜の樹を褒(ほ)めて、感謝の気持ちを伝えた。

2016年12月10日土曜日

追憶 1552

澄み渡る青空は、宇宙空間に存在する星々の概念を忘れさせた。
春の日差しは世界を鮮明に映し出す。
少し肌寒く感じる風と淡々と耳に届くバイクの排気音、そして、コーナーを走る時の遠心力が心地好かった。
わたしは自然と人工を堪能していた。
目的の桜が霞(かす)む程に、ただバイクで走ることが楽しかったのである。

ダムに到着すると、わたしはバイクを停めて一休みすることにした。
遠くから鳥の囀(さえず)りが聞こえてくる。
時折、風が枝葉を揺らす音がするが、他に音は無かった。
わたしにとってはこれだけでも価値がある。
人間活動が生み出す騒音に囲まれた日常は、わたしにとっては苦悩でしかない。
森の中には耳が痛くなる程の静寂が存在している。
森の中で独りでいる時には、自分の足音が五月蝿(うるさ)く感じてしまう。
自分の鼻を通過する空気の音が気に障ったことがあるだろうか?
森の中では心臓の鼓動でさえ聞こえてくるようである。

2016年12月9日金曜日

追憶 1551

冬が終わりを告げる季節になると、人は桜に焦(こ)がれるものだ。
毎年見る桜も、それに飽きることはない。
桜の季節が近付くと、わたしはどうしても出掛けたくなる。
今年はバイクという相棒がいるためにその気持ちは一層強いものであった。
わたしは桜並木の道をバイクで走りたかったのである。
20kmも走らずにダムがある。
ダムの奥には小さな集落があり、何世帯かの人達が暮らしていた。
普段は住民以外は訪れないような立地のその集落は、今だに木製の電柱が残るノスタルジックな雰囲気の場所である。
わたしは幼い頃に一度だけ何かの用事で訪れたことがあるが、それからは集落の存在さえ忘れていた。
わたしがその集落を思い出したのは、ダムの奥の道に桜並木があることを思い出したことがきっかけであった。
そこでわたしは、お花見がてらにその集落を訪問してみようと思い立った。

2016年12月8日木曜日

追憶 1550

事故はわたしに多くの豊かさを導いてくれた。
事故はわたしの抱える自我意識を取り除き、身軽にしてくれた。
どのような”不幸”にも自我意識を取り除き、人を真(本当の自分)へと近付ける力があるだろう。
あなたが何かの問題を抱えたとしても、それは自我意識を取り除くための作業だということを忘れないでいて欲しい。
わたしたちは誰もが歪んだ存在である。
その歪みを矯正するために人生があるのだ。
すべての状況には大切な意味があると理解するのであれば、心を汚さずに済むだろう。
あなたがどのような問題を抱えていようとも、それに負けないで欲しい。
克己(こっき)によって、無意識の責任転嫁に対応するのである。
そうすれば、どのような問題も問題と成ることはなく、どのような不幸も不幸には成り得ないだろう。

2016年12月7日水曜日

追憶 1549

構造と理論をある程度理解すれば、後は組み立てるだけである。
見た目には複雑に見える機械も、その仕組みは単純なものである。
わたしはバイクを自力で修理し、再び走れるようにした。
これで、いつバイクが故障したとしても、ある程度は対応することができるだろう。
知っていることと知らないことには大きな違いがある。
バイクの構造をある程度知ったことによって、わたしは不安を取り除くことができたし、幾つもの新たな発見をしたのであった。
これはわたしにとっては大切なことだ。
どのような知識であっても、知っていることには価値がある。
世の中には知識の価値を知らず、それを必要としない人達がいるが、その人達は多くの問題を抱えることになるだろう。
知っていれば問題にならないことであっても、知らなければ問題として成り立つのである。

2016年12月6日火曜日

追憶 1548

わたしには問題がもう一つ残っていた。
それは壊れたバイクである。
バイクを修理しなければならないのだ。
安易に考えれば、バイク屋に持ち込んでしまえば良い。
お金を払えば簡単に解決する。
しかしながら、それでは何の学びにもならないのである。
わたしは自分で何かを学ぶために事故に遭ったのであって、誰かに学びを委託(いたく)するためではないのだ。
そこでわたしは、何の知識も技術も無かった”ので”、自分で修理しようと思い立った。
そこでわたしは、バイクの構造を学び、必要な部品を取り寄せた。

2016年12月5日月曜日

追憶 1547

黒い男のことは、彼には黙っていた。
それは、彼には黒い男の存在を知る必要がなかったからである。
学びとは、それぞれに独自のものである。
わたしが黒い男を体験したからといって、彼にもそれが共通する訳ではない。
彼に黒い男の話をしたところで、そのアプローチの方法では理解し難いのである。
それぞれの理解し易い方法によって学べば良いだろう。
文字が良ければ文章で良い。
数字が良ければ数式で良いのだ。
人生はそれぞれの学びなのである。
それに、彼にとっての必要は、既に光の仕事によって満たしている。
これ以上の情報は必要ないだろう。
わたしは独りで、彼への光の仕事が終わったことを喜んだ。

2016年12月4日日曜日

追憶 1546

わたしが黒い男を認識することができたのは、心を汚さなかったからであろう。
心が澄んでいたから、見極めることができたのではないだろうか?
心を汚すということは、ネガティブな感情によって思い悩むということである。
心の中に多くの感情を抱えているのであれば、視界は悪くなるのだ。
雨の日には、雨粒や靄(もや)によって視界が奪われるのと同じである。
雲一つ無い晴天であれば、視界は開かれる。
心の中も、自然界も違いはない。
それは、意識的な方法も、物質的な方法も違いがないということなのである。
どちらの方法からアプローチしても構わない。
どちらにしても辿り着くところは同じである。
数学、物理学、哲学、文学、経済学、医学、生物学、天体学、心理学、形而上学(けいじじょうがく)…
どのような学問であっても、すべてが真理に向かって続く道なのである。

2016年12月3日土曜日

追憶 1545

霊的な方法に拘(こだわ)る必要はない。
唯物的な方法であっても、十分に真理を得られるのである。
人生を考えてみると、霊的な現象(自らの意識に触れる状況)は稀(まれ)である。
大抵の状況において、わたし達は霊的な現象を認識することはできない。
ほとんどの状況を唯物的であり、表面的な認識によって生きているのである。
わたしは黒い男によって霊的な現象を体験することができたが、大抵は彼のように霊的な現象を体験することなく学びを得るのである。
霊的な現象を体験しようとするまいと、そこで心を汚すことなく有れば良い。
心を汚すことなく有ることは、霊的な現象も能力も必要ではないのである。

2016年12月2日金曜日

追憶 1544

独りになると、この時点において、彼への光の仕事がようやく終わったことを理解した。
彼が持ち込んだ仕事は、わたしも彼と同じように体験し、しかし、別の結果を導くということで解決するものであったのだ。
それは、実際に状況を変えるということを見せる必要があったのである。
光の仕事とは、宗教や占いのような机上の空論であってはならない。
それは、実践的な作業によって自らを改めていくことなのである。
実体験を通じて導かれる言葉や行為でなければ意味がない。
教えられたこと、暗記したことをただ伝えることには価値がないのだ。
そのため、どのような道であっても、それをより深く進もうと考えているのであれば、実体験の重要性を理解しなければならない。
日常の中にこそ、道が存在しているのだ。

2016年12月1日木曜日

追憶 1543

男を引き寄せて抱き締めると、それが自分自身であることに気が付いた。
男はわたしではないが、わたしなのである。
人は選択の違いによって状況(状態)を分かつ。
男はわたしとは真逆の選択をした。
わたしと彼は、選択によって道を分岐するまでは同じ線上にあったはずだ。
もちろん、これは意識の状態のことである。
男が苦しみを選択しなければ、わたしと同じ喜びの道を歩んでいたはずだ。
そのため、男はわたしなのである。
今、男は喜びの線上に存在しているだろう。
穏やかな表情を見れば分かる。
男とわたしは再び一つになったのである。
天から射す光が、わたしに時間を告げた。
わたしは男を手放した。
すると、死神が男を抱きかかえ、ゆっくりと上昇を始めた。
死神はやはり敵対する存在ではない。
わたしたちは同じ仕事をしているのだ。
死神からは強大な慈愛のようなものさえ感じる。
天が閉じると、わたしは部屋で独りになった。

2016年11月30日水曜日

追憶 1542

光の十字架は美しい光の残像を残して飛んだ。
光の十字架は黒い男の胸に突き刺さったが、男が抵抗する様子はなかった。
男が見上げて口を大きく開くと、そこから黒い煙のようなものが大量に吐き出された。
頭上の浮かぶ黒い煙は、男の抱える自我意識であるだろう。
男もまた、わたしと彼と同じ学びを所有していたのである。
わたしたち三人は、同じ学びを経験した。
そして、それぞれの方法によって、それを解決することができたのであろう。
頭上に浮かぶ黒い煙に光の十字架を投じ、それを光に帰した。
男は瞼(まぶた)を閉じて沈黙していた。

2016年11月29日火曜日

追憶 1541

事故とは、黒い男そのものであり、黒い男とは自我意識である。
わたしと彼の所有する歪んだ心が黒い男の正体であるのだ。
わたしは事故によって汚れなかった。
そのため、わたしは黒い男を光に帰すことができるであろう。
それは、わたしに必要ではないからである。
必要の無いものを所有することはできない。
黒い男はこれ以上、わたしと共に存在することはできないのである。
黒い男を光に帰すことは、自我意識の解放である。
事故に対して何の不満も抱かなかったわたしには、その種の自我意識は関係無いのだ。
宙空に十字を描くと、光の十字架が現れた。
わたしはそれを掴み取ると、黒い男に投じた。

2016年11月28日月曜日

追憶 1540

それは、黒い男から発せられた言葉であった。
どうやら、黒い男の計画は頓挫(とんざ)したようである。
男の計画とは、わたしを事故に遭わせることではなかったのか?
黒い男の表情と言葉から推測するに、わたしの考えが間違っているようである。
黒い男の計画とは、わたしが事故に遭うことではなく、苦しみに浸ることだったのであろう。
わたしが”普通”でない選択をしたとすれば、事故を喜んだことくらいである。
他にめぼしいことはない。
男の計画とは、彼が苦しみに浸ったように、わたしにも同じ状態を導くことであったに違いない。
しかしながら、わたしは彼のようにはならなかった。
わたしは事故を気にしなかったのである。
男の発言はそのためであろう。
そして、彼の時には姿を現さなかった黒い男が現れたのは、わたしが黒い男を打ち負かしたからであろう。

2016年11月27日日曜日

追憶 1539

黒い男はわたしを事故に遭わせることに成功した。
わたしは事故を経験した。
わたしが事故を起こしたということは、事故を起こしたい男の勝利であり、事故を避けたいわたしの敗北なのではないのか?
今回の事故は黒い男の功績なのではないのか?
男は喜んでいるはずではなかったのか?
そう言えば、彼が事故を起こしてわたしを訪れた時のことをフラッシュバックによって見た時、黒い男は不吉な笑みを浮かべていたではないか。
しかしながら、今は悲しみの表情を浮かべている。
そこを不思議に思ったのである。

”こんなはずではなかった…”

わたしの頭の中に小さく声が響いた。

2016年11月26日土曜日

追憶 1538

彼は心を汚してしまった。
そのために不安になり、不幸に陥ってしまったのだ。
そして、その苦しみを解決するためにわたしを訪れたのである。
彼は本来、不幸ではなかった。
なぜなら、わたしは彼のようには心を汚さなかったからだ。
わたしは事故によって多くの学びを得た。
そして、現在の自分の器を知った。
それはわたしにとっての幸福なのである。
わたしにも不幸になる可能性はあったが、わたしはそれを選ばなかったのである。
そのため、予(あらかじ)め不幸が導かれる段取りではなかったのだ。
事故に遭った後に、彼がそれを不幸として確立しただけのことである。
そのようなことを考えていると、黒い男が悲しみのような表情を浮かべているのに気が付いた。
わたしはそれを不思議に思った。

2016年11月25日金曜日

追憶 1537

もちろん、わたしが事故を起こしたのも自業自得である。
霊的な存在には、人を事故に遭(あ)わせることは出来ない。
先述したように、自業自得であるからだ。
自らの意思選択によって原因が設定され、設定によって結果が導き出されるのである。
霊的な存在は人生の道具に過ぎない。
それは、鋸(のこぎり)や金槌(かなづち)と変わらない。
道具は目的の手助けにはなっても、自らが目的の達成に尽力することはないのだ。
そのため、世間における霊的な存在に対する浅はかな知識のように、霊が人を呪うことによって不幸になるなどということは有り得ないのである。
わたしと彼が同じように事故を起こしたのは(因みに、彼も右半身を負傷していた)、共通する学びを所有していたからであろう。
わたしと彼は、事故を起こすことによって、同じように学ばなければならないことがあったのである。
それはきっと、事故という状況にあっても、心を汚さない(不幸に陥らない)という学びであるだろう。

2016年11月24日木曜日

追憶 1536

すると、わたしの脳裏にイメージの波が押し寄せた。
それは、以前に交通事故によってわたしを訪れた彼との一連のやり取りであった。
彼がわたしに連絡をよこし、わたしを訪れ、光の仕事を行い、解散し、バイクで事故を起こし、それに感謝し、出荷作業と地産地消カフェでの仕事を乗り越え、湯船に浸かり、パソコンの前に座る…
ここまでの人生がフラッシュバックするのを見た。
そこでわたしは、この死神と男が彼のところから来たことを理解した。
彼が事故を起こしたのは自業自得であるが、この死神と男がそれに絡んでいたのであろう。
そして、光の仕事によってわたしに移動し、わたしが事故を起こすことに絡んだ。
ということなのであろう。

2016年11月23日水曜日

追憶 1535

無意識の内に緊張が走るのを感じた。
精神が張り詰め、身体は力んでいた。
黒い塊からはネガティブな印象を受ける。
わたしの中の自我意識がそれに反応し、無意識の内に防衛反応を示していた。
わたしは自我意識をたしなめると、緊張と力みを手放した。
すると、黒い塊はその影を弱め、次第に姿を現し始めた。
一心に見つめれば、それが西洋の死神の姿をしているのを理解した。
死神は黒いローブを頭から被り、青白い骸骨のような顔だけが浮かんでいるように見える。
鎌は持っていなかったように思うが、その出で立ちからは破滅的な力を連想させた。
しかしながら、わたしは過去に死神とは何度か共に”仕事”をしている。
この死神が死神としての役割を担っているかは分からないが、ネガティブな印象が死神から来ているようには思えなかったのである。
他に原因があるように感じていた。
すると、暗くて見えなかったが、死神の腹の位置に中年の男がいるのが見えた。
男は青白く痩せ細り、今にも死んでしまいそうな雰囲気をまとっている。
わたしはこの男がネガティブな印象の原因であることを理解した。

2016年11月22日火曜日

追憶 1534

その日の晩、わたしは湯船に浸かり、疲れた身体を少しでも癒そうと考えた。
身体は芯から温まり、疲れも痛みも緩和されるようであった。
風呂から上がると、光の天秤の記事を書こうと自室のパソコンの前に座った。
間接照明の薄暗い明かりが心を落ち着かせるようである。
心も身体も緊張から解放されて、少しの力みも所有してはいなかっただろう。
しかしながら、次の瞬間にわたしは急速に背筋が冷めるのを理解した。
風呂上がりの火照りは一瞬の内に寒気へと変わる。
反射的に振り返ると、薄暗い部屋の隅に何かがいるのを認識した。
それは、天井まで届く程の黒くて大きな塊であった。
それが寒気の原因であることは、状況的に間違いないであろう。

2016年11月21日月曜日

追憶 1533

予想通り、お店は大盛況であった。
50食分(?)のランチはすぐに売り切れ、米粉パンや惣菜などの加工品も飛ぶように売れた。
わたしは時間と身体の痛みを忘れて働いた。
達成感を感じた後に身体の痛みと重さを思い出したが、それが強くなっていることを理解した。
それは、地産地消カフェを訪れてくれた多くの人達の抱える自我意識の影響であるだろう。
これは、わたしの役割が担う仕事である。
わたしは出会う人の自我意識の抱える重さ(ネガティブな感情、黒い煙のような見え方をするもの)を代わりに浄化しなければならなかった。
それは、相手の意思に関係なく進められる。
そのため、感覚の鋭い人は、わたしに会ったり、電話やメールなどで関係を持っただけで、自我意識の抱える重さが軽くなったことを認識することができた。
わたしは自分自身の自我意識であっても、他人の自我意識であっても、それを浄化するのが好きだ。
自我意識が解放されて、本来の自分を取り戻していく過程は楽しいものである。
そのため、その楽しみを与えてくれる自我意識の重さも好きなのである。

2016年11月20日日曜日

追憶 1532

出荷場に到着すると、多くの人からの心配の声が届いた。
彼等の心配はわたしを重たくさせた。
それはわたしの自我意識に蓄積(ちくせき)され、心を重くする。
それが肩の痛みを増大させ、次第に全身に鈍く広がっていた。
わたしは肩の痛みと全身の重みを抱えたままで、なんとか出荷作業を終えた。
わたしは早々に壊れたバイクを自宅まで”歩かせた”。
わたしが早く帰らなければならないのは、先週に地産地消カフェがテレビで紹介されたことで、日曜日の今日はとても忙しくなることが予想されたからである。
肩は痛み、全身は重たかったがお店を手伝わずにはいられなかった。
わたしは素早く着替えて、地産地消カフェに向かった。

2016年11月19日土曜日

追憶 1531

彼にはわたしが強がっているように思えただろうか?
わたしは事故を楽しんでいたのだが、彼には理解することが出来なかったであろう。
わたしは自力で何とか出来ることを伝え、彼を見送った。
問題は、バイクが走るのか?ということである。
元々のハンドルは9時3時の位置であったが、事故の衝撃で8時2時の位置に歪んでいた。
タイヤが進行方向に対して真っ直ぐになるためには、8時2時の位置で運転しなければならなかったのである。
フロントフォークからはオイルが染み出していたが、何とか走行は可能なようである。
わたしはどうしようかと考えたが、出荷作業を優先させた。
わたしはそこで、皆に事故を起こしても汚れなかった心を見せようとしていたのかも知れない。
それが彼等の役に立つかも知れないと考えたのかも知れない。
とにかく、皆に笑って欲しいのと、仕事への責任感によって、歪んだバイクに火を入れて、壊れた肩を気に掛けながら、バイクを”歩かせた”。

2016年11月18日金曜日

追憶 1530

彼にとっては、それは普通の行為であるに違いない。
彼の自我意識は、わたしの状況を自分に同一視することによって不安を生み出す。
そして、その不安を共有したいと考えているのだ。
それは、自我意識が成長するためである。
人生の目的が成長にある以上、自我意識の成長も避けられない。
それは、いつの間にかに庭に生える野草や樹木のようなものである。
頼んでもいないのに野原は森となる。
それが自然の理である。
自我意識も頼んでもいないのに肥え太る。
目の前に何等かの悲劇が存在すれば、それを栄養とするのだ。
彼の抱える自我意識にとっては、事故を起こしたわたしの状況は格好の食事であったに違いない。
そして、わたしの抱える自我意識も、彼の抱える自我意識と同調したいと考えている。
彼のわたしに対する心配に、わたしの自我意識が弱音を提案するのを断った。

2016年11月17日木曜日

追憶 1529

わたしは意識的な問題を解決することには成功したが、物質的な問題は山積みのままである。
わたしは横たわるバイクに歩み寄った。
ハンドルが変な方向を向いているのに気が付いた。
ミッション車であるためにエンジンは止まっていた。
横倒しになっているためにタンクからは少しずつガソリンが流れ出ており、それがアスファルトに模様を作り始めていた。
肩の痛みに耐えながら、わたしは何とかバイクを起こした。
スタンドを立てて、キーをOFFにすると、背後で車が止まる音がした。
振り返ると、知人が驚いた様子でわたしを見ていた。
彼はわたしが事故を起こしたことを悟り、気遣ってくれた。
しかしながら、彼の心配はわたしにとっては重たいものであった。
それは、わたしが既に意識的な問題を解決していたからである。
彼の気遣いは有難いが、それは彼の自我意識が行う同調圧力なのだ。
彼の自我意識は、わたしに不安を抱かせることによって、再び重たい檻の中にわたしを押し込めようというのである。

2016年11月16日水曜日

追憶 1528

わたしに自らの自我意識を認識させたのは事故という経験である。
この事故という経験を与えてくれたのはワゴン車の運転手である。
わたしにとってワゴン車の運転手は、わたしを成長させてくれる”道具”と成り得た訳だ。
自分一人では気付くことができなかったであろう内的矛盾を指摘してくれたワゴン車の運転手は、わたしの協力者であって敵ではない。
即(すなわ)ち、ワゴン車の運転手に敵意を向けるのは間違っているのである。
もちろん、わたしにワゴン車の運転手にも感謝の気持ちを贈った。
彼の功績はわたしに事故をプレゼントしてくれたことであり、わたしの功績は自らの内的矛盾を発見し、自我意識の欲する恨みに溺れなかったことである。
わたしにとって、事故は過ぎ去ったものとなり、終わったことである。
わたしが感謝しているということは、それを受け入れ、消化したということであろう。

2016年11月15日火曜日

追憶 1527

今回の事故は、言わば叱咤激励(しったげきれい)であるように思える。
わたしの中の腐った感情がいつの間にかに作り上げた檻の中で、無意識の内に不自由さに捕らわれていたわたしに発破をかけたのである。
この事故によって、わたしを捕らえていた不自由の檻の一部が破壊された。
そして、檻の存在を認識することができたのである。
この時点において、事故がわたしにとって有利に働くことは理解した。
わたしは既に、この事故に対して感謝していたのである。
そして、肩の痛みがわたしを打つ度に、肉体を通じて命を感じることができた。
それは、命がわたしに生きろと訴えているようであった。
生きるということは学べるということである。
それ以上の幸福があるだろうか?
それ以上に求めることがあるだろうか?
肩の痛みよりも、既に命の訴えへの喜びが勝っていた。
肩の痛みに対しても、わたしは既に感謝していたのである。

2016年11月14日月曜日

追憶 1526

ヘルメットの中で反響する声に愚の骨頂(こっちょう)を見た。
そこでわたしは少しでも死を感じたことに喜んでいることを理解した。
わたしはこの感覚を求めていたのである。
死を感じるということは、その相対に存在する生を感じるということでもある。
生とは自由の中に存在しているものだと考えるが、わたしは日常に対して不自由さを感じていたのである。
それはきっと、Nを失った虚無感にも似た感情があったからに違いない。
多分、わたしの中の男性性が、Nという女性性に別れを告げられたことによって自尊心を保てなくなっていたのではないだろうか?
その腐った感情(ルサンチマン)が、不自由さを感じさせ、不自由さによって生を感じることができなくなっていたのであろう。
心が死んでいたのである。
今回の交通事故は、わたしの男性性の中の腐った感情を引っ叩いたのであろう。
それを男性性を超えた”わたし”が喜んでいるのである。

2016年11月13日日曜日

追憶 1525

わたしは一瞬の間だけではあったが、死を考えた。
しかしながら、アスファルトやガソリンの匂いがわたしに生を伝えている。
わたしは死ななかったのである。
鼓動が高鳴り、それを五月蝿(うるさ)く感じた。
わたしは身体を動かさずに、どこか壊れている場所はないかと探した。
外傷は無いようである。
指先が動くのを理解し、身体を起こした。
すると、右肩に激痛が走った。
わたしは短く罵(ののし)った。
それは、右肩の痛みと、少し先に横たわるバイクと、走り去ったワゴン車の運転手にである。
わたしの短い罵りは、それだけでわたしの中からネガティブな感情を取り除いた。
すると、わたしは急にこの状況がおかしくなり、仰向けに寝転がって笑い声を上げた。

2016年11月12日土曜日

追憶 1524

砂利にタイヤが取られ、滑るようにして車体の右側がアスファルトに叩き付けられたのである。
わたしは右肩からアスファルトに叩き付けられ、同時に右の側頭部打ち、横隔膜が圧迫されて呼吸が強制的に止まるのを感じた。
車体が路面を滑る音が罵声(ばせい)のように、アスファルトに投げ出された無力な肉の人形に浴びせられた。
わたしは全身を強く打ったが、何一つとして抵抗らしいことは出来なかった。
視界の隅では、ワゴン車が走り去るのが見えた。
運転手はわたしが転倒したことに気が付いてはいないのだろうか?
残されたのは、アスファルトに横たわる壊れたバイクと、言うことを聞かない肉の塊に押し潰された人の精神だけであった。

2016年11月11日金曜日

追憶 1523

アスファルトから突き出たコンクリートの先には畑があったが、そこにはガードレールはなく、畑の先には海があった。
そして、道路と畑の間には、どういう訳か舗装していない砂利の部分がある。
その砂利がアスファルトに散乱していた。
わたしには幾つもの問題がのしかかっていたのである。
しかも、それを解決するために与えられた時間は一瞬であり、2秒間にも満たないであろう。
左に倒した身体を右に倒そうと直感した時には、前輪がアスファルトを踏んでいた。
そこで多少のバランスが崩れる。
そのすぐ先には砂利が散乱している。
砂利を越えれば畑である。
わたしの脳は一瞬の内に様々な情報を与えたが、それがバイクに伝わることはなかった。
前輪が滑り、視界が引き伸ばされ、右半身に衝撃を感じた。

2016年11月10日木曜日

追憶 1522

しかも、それに加えて運転手は携帯電話を操作していた。
ワゴン車はカーブを膨らみ、何の警戒心もなくわたしのいる狭い道に侵入して来た。
ワゴン車を運転する中年の男性は、すれ違う直前にわたしに気が付き、驚きの表情を向けたが、それがハンドル操作に影響することはなかった。
わたしは正面から衝突すると思い、咄嗟(とっさ)に身体を左に倒してワゴン車を何とか交わした。
そして、ワゴン車を交わした速度のまま広い道に侵入した。
そこまでは良かった。
広い道は元々は畑であったところを埋め立てて作られている。
どういう訳か、元々は畑と道路を隔てていたコンクリートの一部が、埋め立てられることもなくアスファルトから顔を出していた。
それは路面に1〜2cm程の段差を作っていた。
車であれば何の問題もない段差である。
しかしながら、バイクにとっては例え1〜2cm程の段差であろうとも危険に繋がる可能性があるのだ。
わたしの現状こそが、その危険に繋がる可能性であったのである。

2016年11月9日水曜日

追憶 1521

少し先に、軽自動車同士でもすれ違うことが難しい程の区間がある。
その先は片側一車線の広い道路になっている。
狭い道から広い道に掛けて右に大きくカーブしているが、山肌に沿うように作られた道は視界を不自由なものにさせた。
狭い道から見ると、対向車が急に現れるように感じるのである。
狭い道を走るわたしからは、広い道の状況はカーブミラーの情報に頼る以外に方法はなかった。
わたしは何時ものように多少の警戒をしつつ、狭い道に差し掛かった。
そして、狭い道を抜けようという時に対向車が現れた。
それは、灰色の大型のワゴン車であった。
カーブミラーによる確認が難しかったのは、ワゴン車の色によるところもあったが、第一の原因はその速度にあったと思える。
ワゴン車は広い道から狭い道に向かって走行しているために、スピードに乗っていたのである。

2016年11月8日火曜日

追憶 1520

彼と別れて数日が経過していた。
わたしは真鯛の出荷作業のためにバイクで現場に向かっていた。
夏の六時過ぎは明るい。
日の出の前の冷たい空気が心地好かった。
バイクは快調にアスファルトを蹴った。
ゆったりとバイクで走る夏の朝ほど快(こころよ)いものもないだろう。
わたしはリラックスして、一定のリズムを刻む単気筒エンジンの排気音を楽しんでいた。
わたしの住んでいる北灘(きたなだ)という場所は、山と海に挟まれた海岸線に家が並ぶ漁師町である。
大抵の道は対向車線もない細い道であるが、そこに大型のバスや活魚車も走る。
北灘街道を通り抜けるためには、途中で何度も道の譲り合いをしなければならなかった。
そして、道が狭い割には交通量が多い。
また、地元の住民は道に慣れているために怠慢な運転をする者も多かった。
わたしはバイクという立場であるために、日頃から安全運転を心掛けていたのである。

2016年11月7日月曜日

追憶 1519

しかしながら、事故を起こしたのは自分自身の自我意識が原因である。
例えば、”悪霊”が事故を引き起こすことなどない。
”悪霊”などという存在はいない。
それは、善悪は自分自身の小さな価値観の中にしか存在していないからである。
霊的な存在を守護者や”悪霊”などと決め付ける思考があるに過ぎないのである。
そのため、彼が事故の原因を”外”に探しても、それは決して見付からない。
取り越し苦労という結果を手にするだけである。
そのために、大天使ミカエルや彼の守護者は彼の頑固さを見せたのだろう。
改善するべきは自分自身であるということを理解したい。

2016年11月6日日曜日

追憶 1518

これ以上、わたしが彼に出来ることはなかった。
わたしに出来ることは、霊的な存在達の考える最善であり、わたしや彼の考える最善ではない。
わたしは仕事を切り上げて、お茶を出すことにした。
そこで彼はここへ来た経緯を話してくれた。

彼がわたしを訪ねたのは、数日前に事故を起こしたことが原因であった。
彼は車の運転中に余所見をしていて、停止している車列に追突したようである。
前の二台を巻き込む事故であり、幸いなことに誰にも大きな怪我はなかったようだ。
彼にとって、それは悲劇であったに違いない。
彼としては、その悲劇の原因を”外”に探すことで、罪悪感を小さくしたいと考えたのだろう。

2016年11月5日土曜日

追憶 1517

わたしは彼の頭の中に存在している黒い岩のようなものに光の十字架を投じ、それを後頭部から引き出した。
黒い岩のようなものの中からは、黒い液体が溢れた。
頑固さとは停滞した思考である。
それは新鮮さを失い、腐るのであろう。
腐った思考は役に立たないどころか邪魔になる。
大切に抱えていても良いことはないのだ。
ゲップと共に黒い岩と液体を光に帰し、彼には柔軟性を重んじるように伝えた。
どのような事柄に関しても、思考が停止している状態は好ましくない。
それは、信じて疑わないという状態を導く。
信じて疑わないことは良いことのように思うかも知れないが、それは向上の否定なのである。
彼の場合は、自分が正しいという正当性を主張したいのかも知れないが、自分が正しいというのは幻想に過ぎない。
残念ながら、自分が正しいという状態は存在しないのだ。
誰もが、過去の自分に恥じ入る。
それは、自分が正しくないことの証明なのである。

2016年11月4日金曜日

追憶 1516

わたしは彼の(自我意識の抱える)期待には応えられそうにもなかった。
つまり、わたしは”復讐”には手を貸せないのである。
彼の考える理想を否定し、本来の心の在り方を伝えなければならないのである。
それは、どのような問題や苦悩を抱えていても関係ない。
問題や苦悩に対応することではなく、自らの心に向き合うだけのことである。
だから、彼の問題や苦悩の原因を知る必要はない。
大切なのは自分がどうあるか?ということなのだ。
何をするか?ということに集中すれば、疑似餌に釣り上げられる魚のように、苦悩を増すのである。
彼が何に対して苦悩しているかは分からないが、今の段階では感情を自分自身の未熟さに向けるのが最善であろう。
自己反省こそが、今の彼を救う唯一の方法なのである。
それは、彼を見ても、黒い煙のようなネガティブな感情以外には何も確認することができなかったからだ。
わたしは大天使ミカエルや彼の霊的な守護者からのアドバイスを伝え、彼等の示す心の在り方を教えた。
彼が納得することは簡単ではないだろうが、少しずつそこに近付いていくはずである。

2016年11月3日木曜日

追憶 1515

彼が克服しなければならないのは、自らの抱える頑固さである。
それは、”真っ直ぐに物事を見ない”ということを受け入れることであろう。
柔軟性が求められているのである。
彼は強過ぎる正義感によって、物事を真っ直ぐに見過ぎている。
彼は、自分の思い通りの状況を求めているのだろう。
気持ちは分かるが、思い通りの状況を求めているのは自我意識でしかない。
人生を俯瞰(ふかん)すれば、思い通りにいかなくても良いということを理解することができるが、物事を真っ直ぐに見過ぎている今の彼には、そのことは理解することができないのである。
彼は何かが思い通りにいかないためにわたしを訪ねたはずだ。
それは、人(自我意識)は思い通りにいかないことを苦悩するからである。
わたしを訪ねたのは、思い通りにいかないことを霊的な力によって理想に近付けるためだと思える。
彼は心の在り方を学びに来たに違いないが、根底には自我意識の抱える理想への願望を抱えているのである。

2016年11月2日水曜日

追憶 1514

わたしは彼を以前から知っている。
彼には良く言えば強い信念があり、悪く言えば気が短いところがあった。
正義感が強いのである。
自分の気に入らないことに関しては譲ることをせず、争ってしまうような性格の持ち主であった。
その性格のために、以前に勤めていた会社の上司との間でいざこざを起こし、上司を殴って裁判にまで発展するという過去を持っていた。
彼の行為は褒められたものではないが、彼の名誉のために言うと、彼は善意の人である。
しかしながら、その強過ぎる正義感から社会(資本主義)の抱える矛盾や、人間の抱える汚れ(ルサンチマン)に耐えられない不器用さを抱えていた。
それが内的な矛盾として苦悩を生むのである。
それが、彼の頭の中に存在している黒い岩なのであろう。

2016年11月1日火曜日

追憶 1513

瞼(まぶた)が開くと、わたしは肉体に帰ったのだと実感した。
すると、頭痛と同時に頭に重さを感じた。
視線を送ると、彼の頭の中に大きな黒い岩のようなものが見えた。
それは、物質的な視点と意識的な視点が同時に映るような感覚である。
透けて見える訳では無い。
彼の後頭部と、頭の中の黒い岩が同じ視点で見えるのである。
それは、書籍の文字を目で追いながら、同時に物語の風景を思い浮かべているような感覚である。
黒い岩が頭を締め付け、痛みを与えるのであろう。
これは、多くの人が所有している頑固さである。
わたしが対峙する多くの人の頭の中には、この黒い岩のようなものが存在しているのだ。
これは、思考が凝り固まったものではないかと思える。
頑固な人を石頭と表現するが、この言葉を編み出した人には同じようなものが見えていたのかも知れない。
彼は頑固さを抱えているのだろう。
具体的には分からないが、彼の抱えている苦しみの原因がここにあるのではないかと思えた。

2016年10月31日月曜日

追憶 1512

わたしは精神としての彼の話を聞く必要はなかったのだろう。
右の人差し指と中指が空中に十字を描くと、暗闇を切り裂くようにして光の十字架が現れた。
それを彼に投じると、それは胸に突き刺さって輝きを増した。
彼の大きく開かれた口からは大量の黒い煙のようなものが吐き出された。
それは、頭上で蛇のように絡まっていた。
わたしは吐き気を覚えたが、再び光の十字架を創造し、黒い煙のようなものに投じた。
すると、ゲップと共にそれは”天”へと消えた。
黒い煙のようなものを吐き出した彼は沈黙して立ちすくんでいる。
わたしは近寄って彼を抱擁(ほうよう)した。
すると、彼の頬を流れ星のように涙が走った。
それを見て、わたしは安心した。
精神としての彼の抱えている苦しみは取り除くことができたのだろう。
浮かび上がり、”天”へと吸い込まれていく彼を見送りながら、わたしは思いを馳(は)せていた。

2016年10月30日日曜日

追憶 1511

精神としてのわたしと、肉体としてのわたしが黒い煙のようなものを吐き出すと、人影の姿が少しずつ明るくなっていくように感じた。
続けていくと、人影の姿が明るみになった。
それは、肩を落とし、悲しみに打ち拉(ひし)がれて立ちすくむ彼そのものであった。
これは、彼の精神であろう。
何か辛いことがあって、心を暗くしているに違いない。
わたしに出来ることは、目の前の彼の精神を苦しみから解放することであろう。
彼の精神を苦しみから解放することによって、何等かの展開が期待できるのである。

2016年10月29日土曜日

追憶 1510

人影に向き合うと吐き気に襲われた。
それを引き金として、わたしは黒い煙のようなものを吐き出した。
精神と繋がっている肉体には、それはゲップとして現れる。
精神としてのわたしが吐き出した黒い煙のようなものは、更に肉体を通して浄化される。
これは、精神と肉体との二つのフィルターによる作用であると考えられる。
人には意識レベルのフィルターと、物質レベルのフィルターが備わり、二つのフィルターを通さなければ浄化されないものと対峙しているのだろう。
それは、精神の抱えるストレスと、肉体の抱えるストレスの大きく分けて二種類のストレス(破滅的な意識)が存在しているからだと推測する。
それは、人が精神と肉体という二つの性質を所有しているからだろう。

2016年10月28日金曜日

追憶 1509

内容の分からない三行の天使文字を書き終えると、それを直線で囲った。
すると、文字が金色の光を放つ。
それに両手で触れると、彼の背中に押し込まれるように消えた。

わたしの目の前には暗く何も無い空間があった。
それは手を伸ばせば届くような狭い空間にも思えたが、果てし無く広いようにも思えた。
わたしは目の前の暗い空間を虚無(感)だと感じた。
これは、彼の心であり、彼の抱えている虚無感なのではないか?
わたしにはそう思えるのである。
わたしは虚しさを感じていた。
それは、この空間に共感しているからだろう。
何もかもが虚しく思えた時、目の前に人影が現れた。
それは始めからそこにいたのかも知れないし、今出現したのかも知れない。
人影は暗い空間よりも少しだけ濃い暗さをまとっていた。


2016年10月27日木曜日

追憶 1508

瞼(まぶた)を閉じて心を静めると、彼の全身を黒い煙のようなものが覆っているのが見えた。
黒い煙は顔を覆い隠すように、頭上に集中して停滞していた。
この黒い煙からは破滅的な力を感じる。
彼の”不幸”の正体は、この黒い煙なのだろうか?
この黒い煙を理解して解消するのであれば、彼の抱えている”不幸”も解消されるだろうか?
様々な思考がわたしを通り抜けた。
その時、わたしは時が満ちたのを知って瞼を開き、彼を目の前に導いた。
背中を向けて腰を下ろすように頼むと、目の前には”不幸”をまとった鉛が鎮座(ちんざ)した。
わたしは彼の”不幸”に触れる必要を感じた。
すると、右手が彼の背中に伸びて、人差し指と中指を使って文字を記し始めた。
これは、天使の言葉?であるだろう。
わたしには解読することができないが、彼に必要な言葉であるに違いない。

2016年10月26日水曜日

追憶 1507

バイクの楽しさを思い出した頃、わたしを一人の男性が訪ねた。
彼は30代の既婚者である。
出迎えると、黒くて重苦しい雰囲気をまとい、何かしらの悩みを抱えているのが傍目(はため)にも明らかであった。
彼は明らかに”不幸”を抱えていたのである。
部屋に案内して、互いに腰を下ろした。
彼は鉛(なまり)のように存在したが、それが肌にまとわりつく湿気のようで不快であった。
心の輝きは失われ、脆弱(ぜいじゃく)な精神は風前の灯(ともしび)というところであろう。
わたしの仕事は、彼の抱えている悩みの原因を解明することである。
わたしには彼の抱えている”誤解”を取り除く必要があるのだ。
彼の抱えている悩みがどのような状況によって導かれたのかを知る必要はない。
なぜなら、すべての悩みが感情問題に過ぎず、それは内的矛盾に他ならないからである。
わたしは彼の抱えている内的矛盾を解けば良いのである。

2016年10月25日火曜日

追憶 1506

久しぶりに運転するバイクは、喜びよりも恐怖の方が勝っていた。
昔は、一瞬だとは思うが居眠りしながら運転していてもそこに恐怖を感じることはなかった。
それは、慣れていたからに違いないが、今のわたしには緩やかなカーブを走るのにもぎこちないのである。
しかしながら、慣れとは凄いもので、すぐに恐怖心を失わせた。
必要以上にスピードを出して危険な運転をするようなことはしないが、既に運転することの喜びが勝っていた。
しかしながら、わたしが自分の運転技術を過信することはない。
それは、過去にバイクで事故に会ったことが二回もあるからである。
どちらも、わたしが直接的な原因の事故ではないが、一つは急に左折した車に巻き込まれて5m程飛ばされて民家に激突したこともあった。
そのような体験から、わたしはバイクの危険性を承知しているのである。

2016年10月24日月曜日

追憶 1505

わたしが求めていたのは自由であり、それは、危険と放任によって実現すると考える。
バイクは危険な乗り物であるだろう。
フレームに守られることも、シートベルトに固定されることもない。
曲がるには体重移動を必要とし、風雨の影響をまともに受ける。
夏は暑く、冬は寒い。
そして、死と隣り合わせである。
これは、誇張(こちょう)ではない。
バイクに乗っているのであれば、簡単に死ぬことができるだろう。
それ程に危険な乗り物である。
しかしながら、それ等の条件を逆手に取れば、季節や”風”、マシンの駆動力や遠心力、そして、命を感じることが出来る。
それがわたしに自由を与えてくれるのだ。
自動車にはそれが出来ない。
バイクとは決定的な違いがあるのである。
それがわたしを魅了(みりょう)するのだ。

2016年10月23日日曜日

追憶 1504

わたしが不自由さを感じていたのは、今だにNのことを引き摺(ず)っていたからに違いない。
地産地消カフェをオープンしたくらいでは切り離せなかったのだ。
わたしは自身の抱えるルサンチマンに不自由さを感じていたのである。
それが不快で仕方なかった。
感覚としては、檻(おり)の中に閉じ込められた鳥、鎖で繋がれた犬、蛹(さなぎ)の中で羽化を待つ蝶のようであった。
わたしはきっかけが欲しかったのかも知れない。
できることから少しずつ変えていこうというのである。

安易な発想としては、車で移動することに不自由さを感じていた。
それは、フレームやエアバッグ、シートベルトや様々な安全装置に守られているからである。
天候にも左右されることもなく、ナビゲーションシステムやエアコンやオーディオなど、至れり尽くせりである。
車は比較的には安全な乗り物であり、利便性に長けてはいるが、それ等と引き換えに自由な感覚を失うように感じるのである。
車は、過保護な親のようなものであり、わたしには煩(わずら)わしく思えたのであった。

2016年10月22日土曜日

追憶 1503

ある日、わたしの中には新たな思いが湧き起こった。
それは、バイクに乗りたいというものであった。
この感情の原因は、自らの心が抱える不自由さにあるだろう。
心が抱える不自由さをバイクに乗ることによって少しでも解消しようとしているのだと客観した。
感情問題の解決を、バイクやその状況に求めているのであろう。
東京で暮らしていた時にはバイクを所有していた。
東京から愛媛までバイクで帰ってくる程に好きで乗っていたが、愛媛で暮らすようになってからは乗る機会も減ったこともあり、知人が必要としていたので譲った。
それから何年もバイクには乗っていなかった。
乗りたいとも思わなかった。
しかしながら、今はバイクを求める気持ちが強く、海岸に打ち付ける波のように何度も何度もせがむのである。
そこでわたしは某オークションでバイクを落札することにした。
思い立ったが吉日である。
数日後、バイクが届いた。




2016年10月21日金曜日

追憶 1502

それは創造力を失わせるに違いない。
”退屈”な環境で育った人間の創造力は、退屈を継続させる程度のものであろう。
様々な造形や色彩、感性や価値観の中で育った人間には、新たな価値観を生み出すこともできるかも知れない。
宗教であっても、大量生産型の社会であっても、それは見えない制限を強要しているように思えるのである。
それは、わたしにとっては不自由であり、息苦しさを感じる。
自由を得る必要があると思うのだ。
決められた規則の中だけでものを動かすのであれば、何も変わりはしない。
そこには進化が導かれないのである。
創造力によって、そこに存在しないものを出現させることが求められているように思えるのだ。

2016年10月20日木曜日

追憶 1501

今日の日本人からは強力な生命力を感じない。
ある種の平和的な時代やある程度の飽和(ほうわ)した経済状況の影響もあるかも知れないが、薄弱な精神には志(こころざし)さえ失われたように感じる。
余分を求める必要はないかも知れないが、何かをより良くしなければならないと思える。
何かをより良くするためには、強靭(きょうじん)な精神と志が必要なのではなかろうか?
触れるものが画一化し、多様な形を得る機会が失われるということは、感動を失うということに繋がるだろう。
例えば、同じ景色のトンネル内を車で走っている時には発見が少なく、感動も生まれない。
これと同じように、画一的な食事や生活は、人から生命力を奪うのではないかと思えるのである。

2016年10月19日水曜日

追憶 1500

世の中も変わった。
わたしが幼い頃には、季節を感じる手作りの弁当を持ってピクニックに出掛けたものである。
しかしながら、今日のわたし達は利便性を求めているのか、それに甘えているのか、時間に追われているのか、精神的な余裕がないのか、風雅(ふうが)を感じる力が失われたのか、は分からないが、作られた商品をポリ(ポリエチレン)袋に抱えて出掛ける。
そして、ポリプロピレン製の包装を”雑音”を立てて剥(は)ぎ、誰もが同じものを口に運んでいる。
手作りが主流であった頃には、弁当にも個性があった。
それに、良い意味で泥臭い雰囲気があったものである。
しかしながら、今日の日本は悪い意味でスマートになってしまったように思える。
この間は、山にアケビを採りに行ったが、それは決して美味しいものではない。
しかしながら、そこにはコンビニなどで売られている甘いお菓子よりも、多くの喜びと感動とエネルギーがあるのだ。
わたしはそこに風雅を感じるのである。

2016年10月18日火曜日

追憶 1499

話が長くなったが、要はそれぞれの学びの段階に相応しい場所が必要なのである。
コンビニなどの工場による添加物を使って大量生産で作られた食物が必要な人がいる。
その一方で、個人店舗で添加物を使わずに一つ一つに手間を掛けて作られた食物が必要な人がいるのである。
わたしはコンビニなどの食物は基本的には食べたくない。
それは、見た目は美しいが、内存しているエネルギー(生命力とでも言うのだろうか?)が感じられないからである。
添加物による何かしらの副作用を懸念してもいるが、栄養や”心”がこもってはいないように感じるのだ。
味付けや見た目も大切かも知れないが、わたしにはそれ以上に重視するものがあるのである。
味が口に合わなくても、誰かが一生懸命に作ってくれた食物の方が力を感じるのである。

2016年10月17日月曜日

追憶 1498

わたし達が学んでいるのは、自分自身に他ならないだろう。
わたしは彼女達を通じて自分自身を学び、彼女達はわたしという存在を通じて自分自身を学んでいるのである。
多くの人が陥るのは、”他人に教えてやろう”というエゴイズムである。
世の中はこれによって回っている。
彼女達はわたしに自分達の宗教を教えようとし、わたしは彼女達に自らの価値観を教えようとしているのである。
違いがあるとすれば、その”固さ”だけであろう。
恐らく、彼女達のエゴイズムはわたしのよりも固い。
しかしながら、わたしも彼女達の教えに従わず、自らの信念を貫き通そうというのだからなかなかに固いであろう。
金属と石を叩き付ければ火花が生じる。
それがわたしの感じている怒りの感情なのである。
わたしは彼女達を肯定しつつも否定している。
彼女達はわたしを否定する。
彼女達のせいにする訳ではないが、振り上げた金槌(かなづち)を手放さない限りは、誰に会っても火花を散らすことになるだろう。
小さな火種が家屋を全焼させることを、彼女達は知らないのである。

2016年10月16日日曜日

追憶 1497

しかしながら、わたしはもう一度思考を練らなければならなかった。
それは、”人生は自分自身との対峙である”という(わたしの中の)鉄則があったからだ。
彼女達は未熟な価値観の中に生きている。
それは善と悪、”神”と悪魔、愛と争い、味方と敵…
相対的な価値観の中に世界を築いているのである。
しかしながら、わたしは相対的な価値観の中に世界を築いている彼女達の価値観に憤(いきどお)りを感じている。
わたしの感じている怒りは、自分自身の感情であり、彼女達のものではない。
わたしは、”すべては一つ”であるという感覚に焦り、いつの間にかに相対的な価値観に溺れていたのであろう。
わたしはどこかで彼女達とは違うと思っていたが、その根底にあるものは同じである。
私たちは、同じ学びを違う段階で行っているのである。
彼女達がわたしを訪れるのは、彼女達がわたしに相応しいからであり、わたしが彼女達に会うのは、わたしが彼女達に相応しいからであろう。
わたし達は一つの学びの中にいて、相対的な立ち位置に置かれているのである。
これは、”神”からの皮肉であるのかも知れない。

2016年10月15日土曜日

追憶 1496

わたしは内心腹を立てていた。
不毛な議論に費やしている時間はないのである。
なぜなら、この後にも人に合わなければならなかったからだ。
わたしは彼女達を説得しようとは思わなかった。
それは、彼女達の信念が余りにも育ち過ぎていて、わたしにはどうすることもできなかったからである。
その時、わたしは自身の抱える怒りの感情に違和感を覚えた。
初めは、彼女達の頑固さや無駄な時間を過ごさなければならないというもどかしさから生じた感情だと思っていたが、そこに違和感を感じるのである。
これは、わたしの感情ではないと思えるのだ。
そうすると合点がいった。
わたしの感じる怒りの感情は、彼女達の抱える感情であるだろう。
宗教とは、敵を必要としている人の信仰である。
敵が存在しなければ、宗教は成り立たないのだ。
彼女達は、彼女達の主張する悪魔や争いに対して怒っている。
その感情を認識しているのであろう。

2016年10月14日金曜日

追憶 1495

今の彼女達には、このことは受け入れられないだろう。
だから、わたしは彼女達の同じ内容の話を遮(さえぎ)って、帰ってもらった。
彼女達と分かれた後、わたしは彼女達から引き受けた破滅的な感情を綺麗にして光へと帰した。
彼女達は幾らか軽くなったはずである。

愚かなことに、彼女達は一週間後にもわたしを訪ねた。
もちろん、わたしを勧誘するためである。
しかしながら、年配の方の女性は別の人であった。
それは、以前の女性よりも自信に溢れ、より教義に精通しているような印象であった。
前回、わたしに言い包められたことを受けて、この女はより実力のある者を従えて来たのである。
彼女達の魂胆(こんたん)を見透かして、わたしは呆れた。
50も過ぎているであろう年配の女性は、偽善という愛を以てわたしを救おうとしている。
その歪んだ熱意が恩着せがましく鬱陶(うっとう)しいのだ。
50年以上も生きて、そんなことも分からないのであろうか?
わたしは彼女の愛など必要とはしていない。
彼女達の背後には、前回と同様、黒い人影が蠢(うごめ)いていた。
自分のことも救えないのである。
なんと自分本位な人達なのだろう。
わたしは心の中に怒りの感情が生まれたのを感じた。

2016年10月13日木曜日

追憶 1494

彼女達は宗教の教えに没頭することによって”神”に逃避している。
しかしながら、私たちがしなければならないのは、(苦しい)現実との対峙なのである。
それは、忙しいからといって子どもに食事を作らない母親(父親)の態度に似ている。
”神”という”妄想”を愛せば、現実の苦悩を愛することができなくなってしまうのである。
だから、彼女達は殺人犯を愛することができない。
悪魔を許すことができないのである。
”神”の愛を謳(うた)っているのであれば、殺人犯も悪魔も愛することができるはずである。
しかしながら、殺人犯や悪魔という現実を否定しているために、愛することができないのだ。
忙しいからといって子どもに食事を作らないことは、子どもを愛していると言えるのだろうか?
それでも親は愛していると主張するだろう。
忙しかったから仕方が無いと自己を正当化するかも知れない。
しかしながら、子どもが同じように親を愛するだろうか?
もちろん、食事だけが愛情の形ではない。
しかしながら、親に食事を作ってもらえなかった子どもが親になった時には、その子どもにも同じことをする可能性は高まる。
わたしには正しい愛情の形というものは分からないが、それが歪な形をしているように思えるのである。

2016年10月12日水曜日

追憶 1493

そのためには、良い教育と良い生活が必要である。
良い教育とは、実践から得られる真理に対する知識である。
それは宗教に対立する。
良い生活とは、自然と調和した生き方のことである。
それは添加物に対立する。
人が目指すべきは、良い人生であるが、そのためには良い教育と良い生活が欠かせないのだ。
良い教育のためにわたしは光の仕事に邁進し、良い生活のために地産地消カフェで学ぶのである。
そして、それによって一人でも多くの人の良い人生の手助けができれば良いと思っているのである。
添加物の多く入った不自然な食事を続けていれば、良い生活を実現することはできないであろう。
教育にも生活にも、様々な段階があるのだ。
それを必要としている人には必要である。
そのため、添加物の多く入った食事を悪だとは考えない。
わたしがやりたいのは、添加物の少ない食事を、それを必要としている人に提供することである。
地産地消カフェのコンセプトは、”地域の味を残したい”というものであった。
添加物の多く入った出来合いの食事ではなく、口に入れるものは食材から調理したものにしたいという気持ちがあるのだ。
若い母親(父親でも良いが)に料理を作って欲しいのである。
それは、”母の味”として家族と子どもとの絆を強くする。
良い食事は良い生活、良い生活は良い人生となると期待するのである。

2016年10月11日火曜日

追憶 1492

自由に生きて、自由に学ぶためには、やはり自力(唯物論)が必要である。
自分の幸福は、神頼み(唯心論)だけでは実現しない。
”神”は、困難に向き合う人は助けるが、困難から逃避する人は助けないのではないだろうか?
それは、助け方の違いであるように思える。
困難に向き合う人には後押しが必要であり、困難から逃避する人には放任が必要であるだろう。
”神”は、その人に相応しい手助けをする。
そのため、神頼みは成功しない。
多くの人にとって、神頼みとは相応以上の要求だからである。
やはり、唯心論と唯物論の両方を強化する必要があるのではないだろうか?
健やかな心と健やかな肉体を育むのである。

2016年10月10日月曜日

追憶 1491

時間は既に予定を大幅に超えていた。
わたしはこの後、人と会わなければならなかったのだ。
わたしは多少の焦りを感じていた。
わたしが正しい訳ではないが、わたしから見ても彼女達は小さな価値観の檻(おり)に閉じ込められているように思える。
わたしの役割とは、彼女達に檻の外の世界を気付かせるくらいのことであった。
しかしながら、今の彼女達には、何を言っても通じないであろう。
彼女達は彼女達の信じる場所で学べば良いのである。
わたしには、他人を”引き摺(ず)って”歩く程の情熱はない。
そういう意味においては、宗教もパワフルである。
他人は他人の道を行けば良いし、自分は自分の道を行けば良いと思えるのだ。
どのように生きようとも、それは自由なのだと思える。
自由に生きて、自由に学ぶことが人生の意義なのではないだろうか?

2016年10月9日日曜日

追憶 1490

彼女達は再び沈黙した。
それは、彼女達が普段から自分で考える習慣を持たないからである。
これは、彼女達が、”神”に従い、教義に従い、教祖に従う中身の無い傀儡(かいらい)であることの証明である。
宗教の問題点がここにあるのだ。
わたしは好きなものを信仰すれば良いと思う。
しかしながら、自力を失うような信仰には警戒している。
わたしたちは、ニーチェの言うルサンチマンを克服し、奴隷道徳に陥らない人間でなければならないと思うからだ。
ニーチェの言う超人に拘(こだわ)る必要はないとは思うが、自力を失うことは人生の放棄に他ならないと思うのである。
人は自由な心で生きるべきである。
彼女達は何かしらのトラウマによって、今の宗教に拘っているように思える。
彼女達の必死な姿を見ていると悲しくなるのだ。
彼女達にとっては、今の信仰こそが自分を保つ唯一の手段なのではないかと思えるのである。
本当に良いものであれば、相手から求めるものだと思うが、彼女達にはそのことが分からないのであろうか?
彼女達が再び沈黙を破ったのは、わたしの質問に対する答えによってではなかった。
彼女達は厚かましくも、再びわたしを勧誘してきたのである。
ここまで反発するわたしを、これ以上苦しめようというのである。

2016年10月8日土曜日

追憶 1489

彼女達はわたしが冗談でそのようなことを言っているのだと高を括(くく)っているようである。
それは、現代の日本において、目の前の人に命を脅かされるということは滅多にあるものではないからだろう。
わたしは余裕を見せる彼女達に対して、今度は深刻な顔で同じ問い掛けをした。
すると、彼女達は明らかな動揺の表情を浮かべた。

”あなたはそんなことをしません”

若い方の女性が捻(ひね)り出した言葉は、暗闇を恐れる少女の強がりのような弱々しいものであった。
彼女達は自分達が信仰する”神”が救ってくれるなどと本気で思っているのだろうか?
彼女達の命は、わたしの手の中にあるのではないのか?
わたしが彼女達を殺さない保証など、どこにあると言うのだろう?
わたしは彼女達の信仰する”神”の言うことなど聞き入れはしないだろう。
結果的にわたしが彼女達を殺さないとすれば、彼女達は自分達の信仰する”神”の力によって守られたと解釈するに違いない。
それは、彼女達の信仰する”神”の力なのだろうか?
彼女達は結果論を持論にこじつけているに過ぎないように思える。
自分に都合の良いことは”神”の力とし、自分に都合の悪いことは悪魔の力とするのである。
その矛盾が彼女達の宗教の限界であると、わたしには思えるのだ。

2016年10月7日金曜日

追憶 1488

彼女達の信じる宗教の書物によれば、”神”がある街やそこに住む人達を殺せと命じたと記されている。
”神”の意に沿わない人達は殺しても良いというのである。
彼女達の信仰する”神”は、余りにも人間的(生物的、感情的)なのではないだろうか?
”神”がそのような個人的な主張をするだろうか?
わたしには疑問である。
別にすべての人が仲良くする必要などは無いと思うが、意に沿わない人を虐げたり、殺す必要などないと考えるのである。

わたしは黙り込む彼女達から答えを得る前に次の質問をした。

”わたしが今ここであなた達を殺したらどうしますか?”

わたしが目の前のか弱い女性を殺すことなど容易い。
誰にも気付かれずに二人の息の根を止めることも出来るだろう。
もちろん、わたしは彼女達を殺したいとは思わない。
これは、極論による例え話なのである。
しかしながら、わたしでない他の人物であれば、その可能性は十分に考えられる。
彼女達はそんな可能性など考えてはいないだろうから、見ず知らずの男を何の躊躇(ちゅうちょ)もなく訪ねるのである。

2016年10月6日木曜日

追憶 1487

それは別に、宗教に限ったことではない。
わたしはすべてを肯定し、すべてを否定すれば良いと考えている。
例えば、殺人犯は殺人を犯すことによって、殺人の持つ意味に触れるのである。
殺人犯にとっては、殺人を犯すことでしか学べないのだ。
そして、被害者は殺されることによって、殺されることの持つ意味に触れる。
被害者にとっては、殺されることによってしか学べないのである。
殺人犯が悪であり、被害者が善だとする感情論からは離れて考えて欲しい。
被害者となった者が、殺人犯となった者を虐(しいた)げていたとすれば、善悪は逆転するのではないだろうか?
強姦されている女性が、自身の人格を守るために男を殺したとして、どちらが善であり悪なのだろう?
何の罪もなく、善良だと思われる人が殺されたとしても、殺されるということは、それを学ばなければならないのだ。
理不尽に聞こえるのは、物事を表面的にしか捉えていないからである。
結果はすべて正しいだろう。
結果が出ているにもかかわらず、それを否定するのはやはり現実逃避なのである。
わたしには善悪の判断が出来ない。
わたしに下せる判断は、”すべてが必要な学びではないのか?”という推測だけである。
わたしの信じる”神”というものは、そのように矛盾を抱えない存在であり、宗教でいう敵を作り出し、自分の都合で多くの人を迫害するようなルサンチマンを抱えている存在ではないということだ。

2016年10月5日水曜日

追憶 1486

わたしは宗教も彼女達の生き方も肯定(こうてい)するが、それを否定もするのである。
矛盾しているように聞こえるかも知れないが、わたしは矛盾していないと考えている。
それは、現状を一旦肯定しなければ、それを改めることができず、現状を改めるということは、現状を否定するということでもあるからだ。
誰もが幸福を求めている。
それは、現状よりもより良い形の状況があると信じているからであろう。
そのためには、肯定し、否定するというプロセスが必要なのである。
それは、地面を蹴らなければ先に進むことが出来ないのと同じだ。
人は地面を踏むという肯定によって前傾姿勢を手にし、地面を蹴るという否定によって前進するのである。
彼女達は自分達の信じる宗教を肯定している。
それは、宗教という地面を踏んでいるということだ。
わたしが促しているのは、その地面を蹴って前進しようということなのである。

2016年10月4日火曜日

追憶 1485

宗教というものは、それを学ぶ段階の人達にとっては必要なものである。
そのため、宗教そのものの存在を否定はしない。
それを必要としている人達には、大切な学びの場所なのである。
この世界においては、様々な段階の魂が、様々な段階の学びを得ることができるのだ。
わたしは前世において、宗教の布教活動のようなものをしていた記憶がある。
その時の人生において、宗教というものを学び、その本質に触れたのかも知れない。
そのために、わたしは今回の人生においては、宗教に属し、それを学ぶ必要がないのだと思える。
そのため、わたしが彼女達の期待に応えることは出来なかった。
今回、彼女達がわたしを尋ねたのは、彼女達にとっては仲間(のようなもの)を増やす目的があったのだろうが、より深い目的はわたしに会うことによって可能性を垣間見るためなのではないだろうか?
そのためには、わたしはある意味否定的な立場を取らなければならなかったのである。

2016年10月3日月曜日

追憶 1484

現実を生きることは苦しい。
誰もが顔を背けたくなる辛い経験を抱えているだろう。
しかしながら、人はそれに向き合わなければならないのである。
逃げる程に苦しみは増す。
どちらにしても、やがて逃げられなくなるのだ。
現実逃避の道は尻すぼみである。
それは、鰻漁の”じごく(鰻カゴ)”のように、一度入ったら抜け出すことが難しいものであろう。
宗教には、同じような苦悩を抱え、同じような希望を欲する仲間(のようなもの)が集まる。
彼女達にとって、そこは心地の好い場所であるに違いない。
そこでは、互いの傷を舐め合うことができるからだ。
その状態こそがルサンチマンなのではないかと思うのである。
彼女達は自分自身を正当化するために、わたしを引き込もうとしているのである。
わたしが賛同することによって、また少し自分が間違っていないと思えるのである。
そうやって現実逃避を加速させ、抜け出すことが難しい”じごく”の奥へと向かうのだ。
しかしながら、彼女達はそのことを理解してはいない。
きっと、彼女達は純粋にわたしを助けようとしているのである。

2016年10月2日日曜日

追憶 1483

しばらく待っても、彼女達から明確な答えが得られなかった。
二人共黙り込んでしまったからである。
それは、彼女達が信仰し、わたしにお勧(すす)めする宗教が、この程度の例題で破綻する教えであるということなのだ。
残念ながら、彼女達の”神”は彼女達を救うことなどできない。
わたし程度の者を前にして、彼女達は既に苦悩しているからである。
わたしが苦しめているのではない。
彼女達が勝手に苦しんでいるのである。
それは、彼女達の大切に思う人が車で人を轢(ひ)き殺すことは、今すぐにでも実現するかも知れない可能性であり、現実的な話であるからだ。
その現実的な話から背を向けて、空想の中で生きようとしてきたのである。
推測ではあるが、彼女達の現実には顔を背けたい辛い経験があるのだろう。
彼女達が”神”を見て、”神”と共に生きることは空想に過ぎないだろう。
残念ながら、彼女達は”神”に会うことは出来ない。
彼女達が会えるとすれば、背後にうごめく黒い影達である。
現実に立ち向かう勇気の無い者には、空想の中で生きる以外に道はないのである。

2016年10月1日土曜日

追憶 1482

純粋であり、愛情深い人間が宗教に携わる。
ただし、それは信者に限る。
教祖となる者には、宗教の構造上その性格は当てはまらないであろう。
宗教の本質は、ニーチェで言うところのルサンチマン(奴隷道徳)にあると思うからだ。
宗教の教義とは、純粋で愛情深い人間を弱い立場である信者に仕立て上げる目的を持っている。
宗教とは、多数の信者が少数の”幹部”を支えることによって成り立っている。
信者は弱い立場でなければならないのだ。
宗教に携わるということは、その時点において弱い人間となることが確定するのである。
宗教は、教義を信じることによって救われると解く。
しかしながら、すべての宗教の教義は、例外なく弱者を生産するためのプログラムなのだ。
信者は教義に従う。
それは、学校教育と同じように、暗記することに専念するために、自分で考えることを否定することになる。
所謂(いわゆる)、思考停止に陥るのだ。
宗教に携わっていれば、自然と自分で考える力が奪われてしまうのである。
宗教に携わる者は必ず無知に陥ることになるだろう。
それは、無知であったから宗教に携わることになったのか?
宗教に携わることで無知に陥ったのか?
それは、鶏と卵の議論である。

2016年9月30日金曜日

追憶 1481

年配の女性は黙り込んでしまった。
それは、現実から目を背けるような感覚である。
彼女はいたたまれない気持ちに苛(さいな)まれていただろう。
彼女は、自分の抱える矛盾に気が付いたが、信仰を手放したくはなく、過去の自分を否定することが許せなかったのではないだろうか?
心の中には、わたしの言葉と宗教の教義が戦っているに違いない。
その葛藤が彼女を襲っているのであった。
年配の女性が黙り込んでしまったので、若い方の女性には、それが親や兄弟であればどうか?と同じ質問をした。
若い方の女性も返答に困っていた。
彼女達の信仰する宗教が正しいというのであれば、何も迷うことはないのである。
息子(加害者)を悪魔とすれば良いだけだ。
しかしながら、彼女達にはそんなことは出来ないだろう。
それは、彼女達が愛情深く、純粋であるということをわたしは知っているからである。


2016年9月29日木曜日

追憶 1480

わたしは二人に結婚はしているのかと尋ねた。
若い方の女性は結婚していないという。
年配の女性は結婚していると言った。
そこでわたしは、結婚していると言った年配の女性に子どもがいるかを尋ねた。
すると、年配の女性は一人息子がいるという。
息子は既に成人しており、営業の仕事をしているのだという。
そこで、わたしは彼女達に車の例え話をした。
車を運転するということは、人を殺す確率は五分である。
いつ人を殺すか分からないのである。
それは、車を運転するすべての人に共通することであろう。

「あなたは悪魔や殺人犯、暴力や争いが悪いと言いましたが、あなたの息子が車で人を殺したらどうしますか?明日にでも、あなたの息子が人を殺すかも知れませんよ?相手が急に飛び出してくるかも知れません。その時に、それを悪魔のせいにしますか?殺人犯だとして息子と縁を切りますか?車で人を殺すことは暴力ではありませんか?後に遺族と争うことになりますよ?遺族に対して、”悪魔のせいであなたの家族は死にました”と伝えるのですか?あなたは人殺しの息子を愛することをやめますか?もしも、このような状況に陥ってしまったらどうしますか?」

わたしの言葉に対して、彼女達は明らかに動揺していた。


2016年9月28日水曜日

追憶 1479

わたしの言葉を聞いて、彼女達は心の内に明らかな不快感を抱いた。
しかしながら、表情には穏やかな笑みを浮かべていた。
それは、わたしが無知で愚かな人物であるために、救いの手を伸ばさなければならないという彼女達なりの愛の形を現したからであろう。
彼女達はわたしを哀れんでいたように思う。
迷える子羊を導いてやろうと考えていたに違いない。
彼女達は、わたしの言葉に反発し、自分達の宗教の教典を取り出し、その一節を紹介しながら悪魔や争いが諸悪の根源であるという主張を押し付けた。
その時、全身が泡立ち、寒気と吐き気に襲われた。
見ると、彼女達の背後に大きな暗闇が浮かんでいた。
その中には、数え切れない程の炭のように黒い人達がいて、それぞれが呻(うめ)き声を上げながら絡み合っていた。
彼女達の主張がどのような可能性を導くのかは、それによって明らかになった。
そこでわたしは例えを以て話さなければならくなった。

2016年9月27日火曜日

追憶 1478

「悪魔も殺人鬼もいて良いと思うし、暴力も争いもあって良いと思います。それを必要としている人がいるから、それ等の存在がこの世界に許されているとは思いませんか?わたしが神様だったらそうしますよ。あなた達は神様を信じていないのですか?」

わたしは彼女達が信仰している宗教や”神”を否定したいのではない。
彼女達の意識レベルは、小さな範囲にとどまっていたのである。
そのために、善悪を分ける西洋的な宗教観を信仰しているのである。
西洋の歴史を少しでも勉強したのであれば、西洋的な思想がどのような結果を導いたのかが分かるだろう。
わたしが信仰しているのは、名前を持つような小さな存在ではない。
名前を持つのであれば”神”などではないのである。
名前を持っているのは、個々に分けられた存在である。
名前とは、似た別の存在との区別のために付けられるからだ。
わたしが信仰しているのは、すべてに共通する存在としての”神”である。
わたしの信仰する”神”は、善悪も一つに束ねている。
それは、”すべては一つ”という根源的な教えを導く存在のことだ。
呼び方は何でも良いだろう。
”か”でも”み”でも、”A”でも”B”でも良いのである。
なぜなら、”すべては一つ”ということは、すべてであるからだ。
そのため、呼び方など何でも良いのである。
本当は、名前など持たないであろう。

2016年9月26日月曜日

追憶 1477

わたしには、売るほどの失敗談はあっても、不幸話というものはない。
それは、わたしが不幸ではないからである。
そのため、彼女達の期待には応えられそうにもなかった。
そこでわたしは、彼女達に

「悪魔も殺人鬼もいて良いと思いますよ」

と伝えた。
すると、彼女達はわたしの言葉に耳を疑ったのであろう。
予想外の出来事に遭遇し、自分の思惑(おもわく)や計画が完全に破綻した人の表情を見るのは慣れている。
光の仕事で天使や相手の守護者の言葉を伝える時には、誰もが同じ表情になるからだ。
わたしはまた吹き出しそうになったが、懸命に自分を抑えた。
彼女達はしばらくの間、唖然としていた。
それは、五秒くらいだったかも知らないが、彼女達にとっては長い時間だったかもしれない。
わたしの先制パンチが見事に彼女達を撃ち抜いたのである。
この”試合”の勝敗は既に決まった。
わたしの勝ちである。
対人の勝敗は、初めに驚かせた方が勝ち、驚いた方が負けると相場が決まっているのである。

2016年9月25日日曜日

追憶 1476

世の中には、様々なレベルのものがあって良いと思う。
宗教は善悪を分けるが、わたしは悪魔がいても良いと思うし、殺人鬼がいても良いと思うのだ。
それは、蜂や熊や猪や百足(むかで)や鮫や蝮(まむし)がいて良いことと同じである。
もちろん、殺人鬼は極論ではあるが、例えば車を運転している時点において、すべての運転手が殺人を犯す可能性は五分であろう。
車を運転するという行為は、人を殺すか、殺さないかの二者択一である。

ある宗教の勧誘で二人の女性がわたしを何の約束もなく訪ねたことがあった。
彼女達は自分達の名前も身分も明かさない失礼な態度であった。
その時点で、彼女達の状態や目的がどのレベルにあるのかを察したが、なんだか面白そうだったので、時間は余り無かったが五分くらいを彼女達にあてることにした。
彼女達の主張を要約すると、世の中には悪魔が存在しているというものであった。
争いや暴力や戦争などが、悪魔の仕業であり、わたし達は身を守らなければならないというのだ。
わたしは吹き出しそうになったが、必死で堪えて真剣に話を聞いた。
彼女達は自分達の宗教の経典を読み、集会に参加することによってわたしを救おうとしてくれているようであった。
とても親切で愛情深い人達である。
彼女達はわたしに世の中が暗闇で覆われていることを訴え、わたしに不安を与えたいようであった。
そして、わたしの不幸話を聞きたいようであった。

2016年9月24日土曜日

追憶 1475

わたしは調理の専門家ではないため、彼女たちの力は大いに役立つ。
わたしは光の仕事によって人の心を手助けし、地産地消カフェによって肉体を手助けしたいと考えたのである。
人が人生を豊かに生きるためには、心と肉体が健やかでなければならない。
心だけの健全化に努めることは、脆弱(ぜいじゃく)な価値観の手助けとなってしまう。
それは、唯心論に傾倒する生き方になってしまい、幻想に逃避し易くなってしまう。
所謂(いわゆる)、”お花畑”状態となり、現実逃避を喜ぶようになるのだ。
それは、チャネリングなどの超自然的な体験に没頭し、地から足が離れてしまう可能性が高くなる。
肉体だけの健全化に努めることも同じである。
それは、唯物論に傾倒する生き方を導き、現実主義を主張し始める。
科学は未知の可能性を追求する学問であるが、顕在化(けんざいか)した物証だけを信じ、潜在化している可能性を見失う。
”お金で買えないものはない”、”人は脳や心臓であり、死んだら何も無い”というような価値観に生きるようになるのである。
唯心論と唯物論、心と身体の両方の質を高める必要があるのだ。

2016年9月23日金曜日

追憶 1474

わたしが地産地消カフェに参加したのは、質の良い食事によって肉体の健康を保つ手助けができるのではないかと考えたからである。
質の良い食事とは、添加物の入っていない食事のことである。
確証は無いが、病気に対する唯物的な要因として添加物が関係しているのではないかと思える。
わたしは添加物に対して多少のアレルギーがあるのではないかと思う。
それは、添加物が入った食品(特に菓子)を食べると吹き出物ができるからだ。
小、中学生の時には毎日のように添加物入りの菓子を食べていた。
その結果として体重は増え、ニキビに悩まされた。
思春期のことだと思っていたが、今になって思うことは、添加物へのアレルギーであったのではないかということだ。
成人してからは基本的にニキビができることはなくなったが、添加物入りの菓子を食べた翌日にはニキビができる。
このことから、わたしにとっての吹き出物は添加物に対するアレルギー反応ではないかと思えるのである。
現代病と言われている肥満や癌(がん)やアレルギーなどの様々な疾患(しっかん)との因果関係も、個人的には疑っているのである。

2016年9月22日木曜日

追憶 1473

既に最善の仕事をしてくれている相手に求めることは、相手の最善の仕事にケチを付けるようなものなのである。
そのため、神仏に祈るという行為は、神仏に対して文句を吐く行為であるということなのだ。
人生にはどうすることもできないことがある。
わたしはNと一緒にいたかったが、それはどうすることもできなかった。
どうすることもできないことは、どうもしなくて良いということなのだろう。
人生の決定が覆(くつがえ)ることはない。
何とか延命しようとしても、その道は尻窄(しりつぼ)みなのである。
燃料を補給し続けたとしても、各部品の寿命がくれば車は走ることができないのである。 
どうすることもできないことは諦めて、別の方法や道を、努力によって進んで行くことの方が良いのではないかと思えるのだ。
神仏に求めることをやめ、自力に求め、世界のために働くのであれば、(最低条件を満たした)夢は実現するだろう。

2016年9月21日水曜日

追憶 1472

わたしが彼女に振られたのは、この条件のほとんどを満たしてはいなかったからであろう。
彼女にとって、わたしは魅力がなかったのである。
条件を満たしていれば、印象はいくらかは変わっていたのではないかと思える。
この世界は現実的であることを忘れてはならないだろう。
多くの人は夢が実現しないと考えているか、願えば叶うなどと考えている。
神社仏閣に人が群がる光景を見れば、彼等が如何(いか)に神仏を頼りにしているのかが分かるだろう。
神仏に助けを求める人であっても、懸命に努力している人はいるだろう。
しかしながら、神仏に求めるのであれば、やはり詰めが甘いのである。
人間は、自らの条件を整えることに専念する必要があるのだ。
神仏に求める時間を努力に費やす方が現実的である。
しかしながら、神仏を否定しているのではない。
わたしは天使や仏に会い、共に仕事をする仲である。
しかしながら、わたしは一度も神仏に求めたことはない。
それは、必要なことは既に行ってくれているからである。

2016年9月20日火曜日

追憶 1471

もちろん、願って叶うものではない。
”神”に祈って与えられるものでもない。
実現する夢には条件があると考えられる。
利他的であること。
自分自身に関係していること。
成長のためになること。
努力していること。
ある程度のレベルで夢が実現していることが想像できること。
恐れよりも喜びの感情の方が強いこと。
など、その他にも様々な条件があるだろう。
しかしながら、ここに列挙した条件が夢を実現させるための最低条件であるように思える。
最低条件が揃(そろ)わなければ夢が実現することはないだろう。
利己的であること。
自分自身に無関係なこと。
成長のためにならず、堕落を助けること。
努力してはいないこと。
実現することを全く想像することができないこと。
喜ぶどころではなく、恐れていること。
夢に対してこのような条件を揃えて、それが実現すると思うだろうか?
余程の捻(ひね)くれ者でない限り、この条件で夢が実現することがないことは認めるだろう。

2016年9月19日月曜日

追憶 1470

わたしが手にしなければならないものは、真の価値である。
飾られた偽りの価値を手にすることは、人生の目的に反しているのだ。
わたしが真の価値を手にするためには、利己的な欲求を追い求めてはならないだろう。
例えば、寂しいという理由によって、他人に依存するのは偽りの価値を導いてしまう。
それは、自分のための欲求に過ぎないからだ。
”相手の手助けがしたい”、”相手を喜ばせたい”、このように利他的な欲求こそが、真の価値を導いてくれるのである。
それこそが、夢の実現であるように思えるのだ。
多くの人が夢が実現しないと考えている原因は、それが利己的な欲求であったために実現してもすぐに崩壊したという過去からのトラウマにあるのではないだろうか?
利己的に求めることをやめ、誰かや何かのために求めるのであれば、真の価値が実現するはずである。
それは、客観的に考えて、この世界の理にかなっているように思えるからである。

2016年9月18日日曜日

追憶 1469

厳密に言えば、自分のための欲求(夢)も実現する。
しかしながら、それは”張りぼて”に過ぎない。
実質の無い実現であると言えるのである。
それは、遺産相続や宝くじによって得た不労所得のようなものだ。
どれだけの不労所得を得たとしても、因果の仕組みが働いて、相応しい形に調整されてしまう。
経済力に乏しければどれだけの所得を得たとしても、簡単に破産してしまう。
何かを得たとしても、その人の”徳”の量に比例した結果を受けることになるのである。
そのため、自分のための欲求が実現したとしても、それがその人に相応しい形に調整されるのだから、実現していないのと同じなのである。
もしも、わたしが彼女と交際することができたとしても、間も無く何かしらの理由によって破局していたはずである。
実質の無いものにどれだけ入れ込んでも、残念ながら価値がないと言えるだろう。

2016年9月17日土曜日

追憶 1468

今回の”実験”は、自分のための欲求が実現するのか?ということである。
実験は、わたしの推測を見事に証明した。
もちろん、実験というものは何度も試みた結果によって結論に至るものであろうが、わたしにとって都合の良い結果がすぐに出たということで、わたしはそれを結論としたのである。
この実験によって、自分のための欲求が実現しないことを学習した。
今後、わたしは人間関係に対して、自分のための欲求は持ち込まないであろう。
人生に対しても、自分のための欲求は持ち込まないはずである。
わたしは今回の実験によって、自らの愚かさを再認識することになった。
わたしはいつものように、愚かな失敗を繰り返したのである。
しかしながら、この失敗がわたしに成功の方法を教えてくれる。
成功の方法とは、愚かな失敗と反対のことをすれば良いのである。
実に簡単なことなのだ。
しかしながら、多くの人は失敗することを恐れている。
自分の愚かさに向き合いたくはないのである。
そのため、成功の方法が分からない。
その結果として、夢が実現しないと決め付けたり、諦めたりするのである。

2016年9月16日金曜日

追憶 1467

わたしは気を紛らせたかったのかも知れない。
弱い心と好奇心が混じり合う感情によって、わたしは答えを探した。
わたしはある女性を食事に誘い、何度か友人として楽しい時間を過ごした。
わたしは彼女に対しての恋愛感情というものは無かった。
彼女は端正(たんせい)な顔立ちをしており、明るくて気さくな性格の持ち主である。
一般的に見れば、魅力的な女性であることは間違いないであろう。
見た目と表面的な性格が良いということで、彼女に答えを求めたのである。
何度か食事をして、わたしは交際を求めた。
結果として、わたしは見事に振られた。
良い答えをもらえたと思っている。
わたしは振られたことに満足していた。
初めから、このような結果を求めていたのかも知れない。
振られたことには満足していたが、彼女に迷惑を掛けたような気がして申し訳なく思い、自分の愚かさに虚しくなった。

2016年9月15日木曜日

追憶 1466

世の中には、恋愛というものを軽く考えている人もいるだろう。
他人との関係性を気楽に考え、短絡的な快楽を求めるとでも言うのか?拘(こだわ)りが無いとでも言うのだろうか?恐れを紛らわすためなのか?コミニュケーションの一環として楽しんでいるのか?わたしの中には無い価値観というものがある。
わたしは恋愛感情も無しに、交際が実現するのか?実現すればどのような展開になるのか?を知りたかったのである。
わたしは過去に一度だけ、相手に求められて交際させてもらったことがあったが、わたしには相手に対する恋愛感情が薄かった。
そのため、恋愛関係はすぐに破綻(はたん)し、相手に対しては申し訳ない気持ちを残す苦い体験をしたことがある。
しかしながら、恋愛関係も無く、恋愛関係を求めるという馬鹿げたことを経験したことは無かった。
そのため、わたしはそれに挑戦してみたくなったのだ。
相手に対して、失礼であることは理解している。
しかしながら、その答えが無ければ先へ進むことが出来ないと思っていた。
当時はNに振られた傷心も手伝っていたのではないかと思うが、そのような心境でなければ行うことが出来ない実験であったことは間違いないであろう。

2016年9月14日水曜日

追憶 1465

誰かや何かに貢献するためには、様々な経験をしなければならない。
それは、経験値こそが物事の本質へと導くからである。
比較対象を得なければ道理は見えてこない。
そのために、偏りの無い経験を得ることが理想なのである。
これまでのわたしは、恋人に対しては恋心のようなものが必要だと考えていた。
恋愛は自分の中では軽々しいものではなく、真剣に向き合わなければならないと考えていたのである。
そのため、心が動かなければ行動してはならないと考えていた。
誰かを恋愛対象として好きになり、その気持ちが抑え切れない程に熱を持った時に行動を起こすものだと考えていたのである。
とはいえ、Nとの交際は異例ではあった。
しかしながら、わたし個人としては、他人との交際(恋愛関係)を重たく考えていたのである。

2016年9月13日火曜日

追憶 1464

多くの人は、夢が実現しないものとして決め付けている。
多くの人は夢を諦めて生きているだろう。
生活のためや家族のためだという理由によって、妥協(だきょう)や諦めを受け入れているのである。
それが悪いと言いたいのではない。
他人のために生きることは素晴らしいと思う。
しかしながら、他人のために自分を犠牲にしているのには違和感を覚えるのである。
わたしは自分に出来ることで、出来る限り多くの人を手助けしたいと考えたが、結果的に全国から多くの人がわざわざわたしを訪ねてくれる。
これも、思い描いたことの実現である。
ただ、誤解してはならないのが、実現したことは利他的な欲求を主体とした夢であったということだ。
喫茶店を経営したいと思い描いた動機は、人の相談を聞き、癒しを与えたかったからである。
光の仕事を思い描いた動機も、霊や他人のためであった。
利己的な夢の実現は難しいであろう。
寧(むし)ろ、それは実現しない方が良いのではないかとも思える。
次にわたしが記すのは、利己的な欲求による失敗例である。

2016年9月12日月曜日

追憶 1463

思い描いたことは、案外簡単に実現する。
思い返せば、光の仕事でもそうであった。
わたしは霊に会いたいと思い、会うことができた。
霊を助けたいと思うと天使が現れて、結果的に霊を助けることができた。
自分自身を変えたいと思い変われた。
(しかしながら、これにはゴールはないと思える)
霊的な観点から人の手助けがしたいと思い、(恐らくではあるが)手助けすることができた。
人生を変えたいと思い、大きく変わったのである。
変わることを感知して思い描いたのか、思い描いたので変わったのかは分からない。
状況が思い描いた通りに変わることはないが、思い描いた方向性の状況は実現するのである。
多くの人は夢は叶わないと言うが、本当にそうだろうか?
もちろん、叶わない夢もあるだろう。
それは、自分自身に対して何の関連性もない戯言(たわごと)を夢としている場合であろう。
例えば、何の知識も経験も無いのに、何かの専門家に成りたいというようなものである。
現実(現状)離れした夢は、空想に過ぎないのである。
わたしの場合は、霊的な世界に対して猛烈な興味があり、それを楽しむ気持ちが人一倍強かった。
それは、わたしの現状であり、夢の実現に大いに関連していると言えるだろう。
そう考えれば、実現する夢というものは、その種(原因)を所有している可能性が高い。
それは、学びに起源しているのからであろう。
わたしには、霊的な世界との交流や”喫茶店”を経験するという必要があったのだと思える。

2016年9月11日日曜日

追憶 1462

わたしは出来る限りの協力を約束していたので、力不足ではあるが了承(りょうしょう)した。
彼女達は、以前からパン屋で働いていたので、調理やメニューには何の問題もなかった。
わたしは彼女達の傍(かたわ)らで、事業の立ち上げを見学しているようなものであった。
一緒に事業のコンセプトを練り、物件を下見し、約半年後にはお店がオープンすることになった。
わたしもエプロンを腰に巻いてお店に立った。
料理を運び、珈琲を淹(い)れる。
そこでわたしは気が付いた。
わたしの将来の可能性は、既に実現していたのである。
何十年も先のことだと思っていた。
しかしながら、実際には半年後のことだったのである。
もちろん、わたしが経営している訳ではないが、それに近い形での実現であった。

2016年9月10日土曜日

追憶 1461

わたしは二人に対して光の仕事を施し、現状における心の問題点と、その改善方法を伝え、出来ることは行った。
わたしは二人に出来る限りの協力を約束し、母と助け合うように頼んだ。
その日、二人は喜んで帰っていった。

後日、二人が再びわたしを訪ねた。
それは、光の仕事を目的としてのことであったが、わたしに対して別の形での協力を要請(ようせい)するためでもあった。
彼女達は、米粉パンを主体とした地産地消カフェを計画していた。
所謂(いわゆる)、六次産業化というものである。
そのために、事業形態を法人化し、その理事の一人として参加して欲しいということであった。

2016年9月9日金曜日

追憶 1460

それから、わたしは喫茶店の経営について調べ始めた。
それは、将来への布石(ふせき)であった。
わたしは喫茶店を経営するという可能性の種を蒔いたのである。
それは、何年か、何十年後かに実を付けるかも知れない。
どちらにしても、知らないことを勉強することは楽しかった。
それに、人生が少しでも変わっていくようで心地好かった。

ある日、わたしを二人の女性が訪ねた。
この二人は以前に母親と共に働いていた人達であり、わたしも面識があり、友達のような関係である。
二人には高校生になる子どももいて、仕事と主婦業を兼業する努力家である。
そんな二人がわたしを訪ねたのには理由があった。
それは、二人が母親と一緒に飲食業を始めるということで、その報告と霊的な示唆(しさ)を得ようと考えたからであった。

2016年9月8日木曜日

追憶 1459

わたしの頭の中には一つの青写真があった。
それは、Nと離れることによって生じた初めの変化であった。
それは、将来、わたしが喫茶店を経営し、そこで珈琲(コーヒー)を入れながら人の相談を聞いているというものである。
そのビジョンは、わたしの構想ではなかった。
ただの妄想である。
遠い未来の可能性の一つに過ぎなかったのかも知れない。
わたしが見た(想像した)のか、見せられたのかは分からなかった。
しかしながら、それがわたしの一つの可能性であることには違いないであろう。
わたしは可能性を探していた。
現状が褒められた訳ではないが、それでも新しいことを始めなければ心が停滞する気がした。
わたしは、新しい刺激によってNが去ることによって生じた心の穴を埋めようとしたのであろう。
そして、見返してやろうとする気持ちが後押しをしていたように思う。


2016年9月7日水曜日

追憶 1458

しかしながら、今回取り除かれた歪んだ感情は、全体の一部である。
もしくは、一段階であったように思える。
なぜなら、次に沸き起こった感情とは、”Nを見返してやろう”という意欲だったからである。
感情の形は変わったものの、Nに対する感情が消えた訳ではなかった。
しかしながら、ネガティブな意味で見返してやろうなどとは考えていない。
より成長し、立派な男になった姿を見せたいと考えていたのである。
わたしの中での立派な男とは、より良い仕事をし、可能性を途絶えさせない男のことであった。
わたしはより良い仕事をし、可能性に向き合い続ける生き方をしようと心掛けた。
そのためには、今やっていることをより良いものにしなければならない。
思考や生活を精錬(せいれん)し、仕事を研磨(けんま)しなければならなかった。
わたしは自分のやるべきことに対して、出来る限りの力で向き合った。
Nに使っていた時間や労力が無くなった分、それを惜しみ無く注ぎ込んだ。
気が付けば、わたしは仕事漬けの毎日を送っていた。

2016年9月6日火曜日

追憶 1457

生きるということは、恥ずかしいことなのではないかと思う。
自らの恥とは、自らの弱さと汚れに起源するからである。
わたしはいつも恥ずかしい生き方をしているように思える。
わたしはいつも自分の至らなさを見せ付けられ、その度に苦しんだ。
しかしながら、恥を得なければ成長することがないことも理解することができる。
そのため、恥を得ることは良いことだと思うが、その度に受けるショックは毎回のように苦しみとなるのであった。
今回も自らの恥に教訓を得させてもらえた。
この苦しみを以て、感情の問題も終わりである。
わたしはNに対する歪んだ感情が、吐瀉物(としゃぶつ)のように吐き出され、気分が晴れるのを認識した。

2016年9月5日月曜日

追憶 1456

わたしは自分のすべきことを知っている。
しかしながら、それは簡単なことではなかった。
自分自身の弱さと肉体が、それを許してくれなかったからだ。
わたしは、Nのことが心や頭に過(よぎ)る度に、弱さと肉体を説得し続けた。

何ヶ月か経って、わたしはNと会う機会があった。
思い返すと、これが一つの試験であったように思える。
わたしのNに対する感情を試したのだろう。
そこでわたしは見事に”赤点”を取り、落第したのであった。
わたしにとって、それは大きな失敗であった。
思い出したくも無い程に恥ずかしく、情けない。
しかしながら、その失敗によってわたしの感情に変化が起きた。
それは、Nに対する執着なのか依存心なのか分からないが、それが剥(は)がれ落ちたのである。
わたしはいつも、失敗することによって成長しているように思える。
振り返ると、わたしは常に失敗し続けて来た。
失敗によっていたたまれない気持ちに追い込まれた時に初めて、心の底からの反省をすることができるようである。

2016年9月4日日曜日

追憶 1455


「分かった」

しばらくの沈黙の後、Nは言葉を投げた。
それは、穏やかな水面に投げられた石のようであり、小さな波紋を作った。
その波紋がやがて大きなうねりとなって襲うことを、今のわたしは知らないでいた。
その後の会話は覚えていないが、陳腐(ちんぷ)な別れの挨拶であったように思える。
六年近い付き合いの呆気ない幕切れに、わたしは泣きながら笑っていた。

それから、わたしはNに対する思いに苦しんだ。
これは、初恋以降いつの間にかに忘れていた苦しみである。
Nの投げた石の波紋が、何度も何度もわたしを襲う。
耐え切れなくなり、何度かNに連絡したが、Nの冷たい態度にわたしは自分自身を情けなく思い、そして蔑(さげす)んだ。

2016年9月3日土曜日

追憶 1454

自分自身の弱さと肉体に対する感情は、やがて怒りへと変わっていった。
子どものわがままに業を煮やした母親のような心境であったと思う。
わたしは弱さと肉体に対して”もう良いだろ”と心を荒げた。
すると、弱さと肉体は大人しくなり、小さくなった。
そこでわたしは、Nに別れを告げた。
Nは急な展開に驚いていたようで、別れ話をしているのではないと主張した。
しかしながら、わたしはNを手放さなければならない。
それ以外に道は無いのである。
Nの話を遮(さえぎ)って、わたしは再び別れを告げた。
わたしはNの気の強さを知っている。
わたしの提案が承諾(しょうだく)されることも知っている。
これで良いのだ。
嫌だけれど、これで良いのである。

2016年9月2日金曜日

追憶 1453

次の日、わたしたちは再び電話で話をした。
わたしの弱さと肉体は最後まで抵抗を続け、わたしは強い葛藤(かっとう)と闘わなければならなかった。
わたしはNを手放さなければならない。
それがNにとっての最善であろうが、弱さと肉体が簡単には許さなかった。
わたしは冷静であり、自分自身を客観視もしていた。
冷静というよりは、冷めていたのかもしれない。
それは、自分自身の中の弱さと肉体のくだらなさにである。
本当?のわたしは、弱さと肉体のパフォーマンスに呆れていた。
涙さえ流す始末である。
別に格好付けて自分を正当化しているのではない。
もしも、格好付けているのであれば、こんなことは書く必要がないからである。
わたしは自分自身に冷めていた。
しかしながら、わたしは自分自身の弱さと肉体を説得しなければならなかった。
弱さと肉体は、わたしの側面である。
それを否定し、争うのであれば、次に同じ問題を引き起こすことは明らかであったからだ。
そのため、弱さと肉体を説得するのに、わたしは多くの時間と労力を必要としたのである。

2016年9月1日木曜日

追憶 1452

自分のこと(精神的な安堵)、肉体のことだけを考えるのであれば、Nの提案に甘んじることで自分を慰めることができるだろう。
しかしながら、わたしが考えなければならないのは自分や肉体のことではないのである。
重要視しなければならないのはNのことであると、わたしは信じていた。
受話器の向こうからNの声がぼんやりと聞こえている。
内容は確か、距離を置くことはわたしを傷付けるためではないという思いやりであったように思える。
わたしはNと共に生きていたいと思ったが、それは許されないと強く感じた。
わたしはNと交際関係を解消し、会わないようにしなければならない。
それが、わたし達にとっての最善の道なのだと直感していた。
しかしながら、簡単に決断することが出来なかった。
それは、今までの思い出が、わたしの弱さや肉体と共謀(きょうぼう)するからである。
わたしはNに時間を求めて、通話を終えた。

2016年8月31日水曜日

追憶 1451

わたしの頭は、Nの提案を受け入れることによって、既存のルートを進むように計らった。
頭が考えるには、それが最善である。
それは、頭がNという遺伝子を失いたくないからであろう。
頭とは脳のことであり、肉体であり、遺伝子のことである。
肉体は異性との時間を喜ぶ。
会話をしても、皮膚に触れても、脳はドーパミンを放出し興奮する。
肉体にとってはそれが目的なのであろう。
そして、遺伝子には子孫を残すという最大の目的があるため、Nを失う訳にはいかないのだ。
そのため、Nと離れるという選択肢は導かない。
あの夜、わたしにNの身体を求めさせたのも遺伝子であろう。
もちろん、それに従い、惨めな気持ちを得たのはわたしの弱さである。
ここでNの提案を受け入れることは、肉体にとっては都合が良く、わたしは中途半端な苦しみと喜びを味わうことになるだろう。
それでは、何も変わらないのである。

2016年8月30日火曜日

追憶 1450

それは唐突にわたしの心に突き刺さった。
それは、Nの”距離を置きたい”という言葉である。
一度離れて、体制を立て直そうという提案であった。
わたしには、Nの気持ちが手に取るように分かる。
わたしがNに対してしなければならない返答も分かっている。
それは、Nの提案を受け入れて距離を置き、灰がやがて土となり、再び燃ゆる炎の媒体となる樹木を育てるのを待つというものであろう。
しかしながら、これは人情の範囲での判断であることをわたしは知っていた。
わたしがしなければならないことは、大切なものを手放すことなのだろう。
中途半端なことをすれば、自分自身にもNにも中途半端な結果が導かれるに違いない。
わたしたちの魂は、そんなものは要求してはいないように感じる。
中途半端な段階から、中途半端に始めることなど求めてはいないのである。


2016年8月29日月曜日

追憶 1449

外には、何ら変わらない日常があった。
少し肌寒く感じる朝の空気が頬に当たる。
遠くに車の走る音が聞こえる。
雀(すずめ)が朝の挨拶を交わしている。
そのどれもがいつもの風景であった。
しかしながら、わたしの心だけがそれに取り残されているような気がした。
重たい空気をNの部屋に残して、わたしは振り返らずに帰路についた。

次の日、Nからの着信がわたしの鼓動を早めた。
この緊張感は”人の思い”だ。
所謂(いわゆる)、生き霊というやつである。
Nがわたしに対して何かしらの強い感情を送っているのだろう。
わたしは深く息を吐いて、携帯電話を耳に当てた。

2016年8月28日日曜日

追憶 1448

重たい朝が来た。
時間は何の配慮もなくわたしを訪ねる。
わたしは帰らなければならない。
一睡も出来なかった身体は、やはり鉛のように重かった。
しかしながら、この重みが睡眠不足によるものだとする確信は無かった。
わたし達は互いを気遣っていただろうが、言葉はほとんど無かった。
愛することに疲れたのだろう。
灰が燃えることは無い。
わたしは、Nに対する罪悪感から、出来るだけ早くここを離れたかった。
それは、今のわたしはNにとって迷惑だと感じたからである。
わたしは早々に荷物をまとめ、帰ることにした。

「ごめん…」

「うん」

「ありがとう」

「うん」

「じゃあ」

「気を付けてね…」

「うん」

Nの表情には憐れみがあった。
わたしは、重たい扉を開けた。

2016年8月27日土曜日

追憶 1447

わたしは自分自身の愚かさを恥じた。
最低の人間だと思った。
Nが独りで泣いているのを見ても、わたしは重たい身体を動かすことが出来なかった。

どのくらい経ったのかは分からないが、沈黙の中にNの呼ぶ声が聞こえた。
わたしは重たい身体を持ち上げてNの傍(かたわ)らに腰を下ろした。
その時、わたしの頬を涙が流れ、落ちた涙が微かに保っていた炭の形を壊したように感じた。
わたし達はもう終わりだ。
そう悟った。

「一緒に寝よう」

Nの思いやりにわたしは心が抉(えぐ)られるのを感じた。
Nの隣に身体を離して仰向けになり、様々な思考が頭を掻き乱し、胸を引き裂くのを許した。
わたしは自分が嫌になった。
こんな結末のためにこれまでの時間、Nと一緒にいたのか?
これで良いのか?
道は無いのか?
どうしてこうなった?
様々な思考が巡る。
その時、Nがわたしの腕に身を寄せた。

”これで良い”

天から届く言葉は、わたしにはとても辛いものであった。

2016年8月26日金曜日

追憶 1446

それから、わたし達の仲は険悪なものとなっていった。
細かなすれ違いが増え、静かな喧嘩を導いた。
わたし達の絆はもう限界だろう。
あとは時間の問題である。
焼けた炭が中身の無い姿を保っているのと同じである。
指先で触れるだけで、脆(もろ)くも崩れ去ってしまうだろう。
後には燃えることのない白い灰(はい)の粉が虚しく残るだけである。
わたし達の炎は既に消え、もはや余熱を弄(もてあそ)ぶだけとなっていった。
わたしはNを抱いた。
それは、燃える炎に執着していたからかも知れない。
しかしながら、そこには渇いた灰が、まるで人形のように横たわるだけであった。
暗闇の中で、Nの頬を静かに涙が走った。

「ごめん…」

わたしは咄嗟(とっさ)にNから離れ、ソファーに身体を預けた。
それは鉛(なまり)のように沈み込み、そのまま海の藻屑(もくず)と消えたかった。
わたしは自分自身を汚ないものだと思った。

2016年8月25日木曜日

追憶 1445

Nが自らの使命を見出すためには、わたしの存在は邪魔なのであろう。
わたしのNに対する役割は終わったのかも知れない。
わたしのNに対する役割の一つの側面としては、多感な思春期に歪まないためのサポートであったように思える。
その役割は果たせたのではないかと思えるが、Nに聞いていないので分からない。
Nは既に自分の人生(道)を形成する時期にあるのかも知れない。
やはり人は、自分自身の道を進み、それぞれに与えられた使命を果たさなければならないのだろう。
人は孤独に歩まなければならないのである。
わたしの方法がNの方法の妨げになる可能性もあるのだろう。
人は独りになり、自分自身を見詰め、自分自身を理解することにより、自分の道を進む必要があるのだ。


2016年8月24日水曜日

追憶 1444

それは、わたし達が自らの使命を果たすためである。
わたしもNも、この世界の霊的な誤解を解くために生きている。
そのために、わたし達は様々な霊体験をしてきたのだ。
先述した、お経やお札、除霊やお祓いなどの方法は、それを必要とする魂の段階を得ている者達には必要なのであろうが、それよりも高度な霊的知識を必要としている人達もいる。
そのような人達が、上記の方法によって歪んでしまうことを阻止しなければならないように感じるのである。
わたしの場合は、光の仕事や光の天秤による啓発活動に辿り着いた。
Nがどのような形で霊的な仕事に携わるのかは分からないが、それを見出す必要があるのだろう。
今回の学びは、そのためのNによる社会経験なのだと思える。

2016年8月23日火曜日

追憶 1443

わたしがNを守るということの本質は、Nが様々な体験をすることを幇助(ほうじょ)するということなのだろう。
わたしがNを守るためには、Nの行く道を邪魔しないことなのだろう。
わたしはNの協力者であって、邪魔者であってはならないのである。
それが今は、Nの行く道を邪魔する存在となっているのかも知れない。
無意識ではあるが、Nの可能性を妨げているのではないか?
このような考えが生じた。
わたしは、わたし達が進むべき道を知っていた。

”愛することに疲れたみたい。嫌いになった訳じゃない”

ということである。
わたし達は、偽物の愛に戯(たわむ)れていてはならないのであろう。

2016年8月22日月曜日

追憶 1442

Nにも解決しなければならない沢山の問題があるだろう。
それを解決するためには、様々な経験を通じて心を広げ、歪みを取り除かなければならない。
実社会において多くの人の心に触れ、良い悪いに関係なく、不足を補わなければならないのである。
そうでなければ、Nは自分を救うことは出来ないだろう。
そして、Nが大切に思うものを守ることは出来ないのである。
このことを考えると、わたしがNを守るというのも歪みであることに気が付く。
わたしにはNを守ることは出来ない。
Nを守るのは、N自身なのである。
大天使ミカエルがわたしにNを守るように言ったのは、このことを教えるためだったのではないだろうか?
わたしの理解力が浅く、解釈を間違えていたのだろう。
わたしは、Nを常識的な価値観から守ろうとしていた。
それは、常識的な価値観が酷く歪んでいるように見えたからである。
それは、わたしのトラウマが導き出す歪んだ考え方なのであろう。
冷静に考えてみれば、歪みを経験するからこそ、その対極に位置するものを理解することができるのである。

2016年8月21日日曜日

追憶 1441

除霊やお祓い、お経やお札、どの方角に何を置くとか、どこへ行くとか…
そのような方法で問題が解決するのであれば、人が精神的に成長する必要などないのである。
すべての人のすべての問題が心に原因を持つ。
歪んだ心が問題を引き起こしているだけである。
その考え方や捉え方が歪んでいるに過ぎない。
そのため、心の歪みを取り除けば、すべての問題は解決するのである。
心の歪みを取り除くためには、目の前の状況に対して真摯(しんし)に向き合い、懸命に学べば良いのである。
明言しておくが、残念ながら、上記の方法など何の役にも立たない。
修行だと”言い訳”して寺にこもるのも同じである。
多くの人が抱える問題は、心を通じて実社会の中に存在している。
実社会の現実的な方法でなければ、何の問題も解決することはない。
そのため、霊能者と自称する者が実社会から離れてはならないのである。
離れた途端に腐り始めるだろう。

2016年8月20日土曜日

追憶 1440

わたしが光の仕事をしながらも養殖業をしているのは、一般的な経済感と経済力を失わないためである。
他人のことは分からないが、霊的な仕事を本業として生活している人がいる。
霊的な仕事は、社会に対しては間接的に関わっているように思える。
物を生産して販売するという普通の仕事形態ではないからだ。
そのため、霊的な仕事を本業として生活している人は、普通の経済感から離れていくであろう。
普通の生活や感覚から離れることによって、普通の生活や感覚によって生活している人の気持ちを理解することができなくなる。
そのため、多くの霊能者と呼ばれている人達は、除霊やお祓(おはら)い、お経やお札などと、”訳の分からないこと”に精を出しているのである。

2016年8月19日金曜日

追憶 1439


”私にはスタートだったの。あなたにはゴールでも”

わたしの頭の中には、再びこの歌詞が流れていた。
振り解きたかったが無駄であった。
わたしは資本主義的な考え方に活路を見出すことができなかった。
わたしの中では、資本主義的な考え方を中心とした生き方はゴールを迎えたのである。
しかしながら、Nにとってはここからがスタートなのであろう。
これから、社会に携わることによって資本主義的な考え方を学び、様々な経験を通じて人間としての成長を実現しなければならないのであろう。
それは、現代の資本主義社会において生きる術を身に付けるためには必要な考え方なのかも知れない。
多くのお金は必要ないだろうが、多少のお金は必要である。
それは、国に生きる以上は、法律によって税金を収めなければならないからである。
そのため、戸籍を持つ以上は、お金から完全に切り離された生き方を得ることは不可能なのではないだろうか?
どのような人生を生きるにしても、まずこの国の法律の中で生きる術を身に付けなければならない。
目の前に資本主義が広がっているのであれば、最低限の経済力を身に付けていなければ、選択肢を得ることも出来ないのである。

2016年8月18日木曜日

追憶 1438

すべての人は自らの学びに従って生きる。
わたしがどれだけ良いと思えるものを施(ほどこ)しても、それがNにとっての良いと思えるものでなければならないのである。
今のNが求めているのは、実社会の中に幅を利かせている考え方(常識)なのであろう。
わたしは生まれてからの約20年間の暮らしで、常識に対して嫌気が差している。
わたしは、この数年間をわたしの中の革新的な考え方や価値観を手にするために生きてきた。
自殺を考え直したあの日から、わたしは自分自身の生きる道を探し続けて来たのである。
わたしが常識的な人生(生き方)に戻ることはない。
あの道は苦しいのである。
わたしとNの求める道は、正反対と言っても過言ではないだろう。
そのため、わたしたちが離れていくのは当然の結果なのである。

2016年8月17日水曜日

追憶 1437

時間の力は強力である。
Nの心(考え方や価値観)が次第にわたしから遠ざかるのを感じる。
少しずつ、常識に犯されていく。
それは、わたしとの時間が減り、常識を信仰する人達との時間が増えたからである。
わたしが正しいということを言っているのではない。
すべての価値観が正しく、すべての価値観が間違っているのである。
わたしの立場としては、Nには常識に染まって欲しくない。
それは、常識に染まったわたしは、21歳くらいの頃に自殺を考えたこともあるからだ。
わたしにとって、常識的な考え方や価値観は苦痛に違いないのである。
その経験から、わたしはNをその道へ進ませたくはないのだ。
しかし、これはわがままであろう。
わたしは常識的な考え方や価値観に触れてみて、それがどのようなものであるのかを学んだ。
Nはまだ、それを学んでいないのである。
そのため、学ぶ必要があるのだ。
それを学ぶためには、わたしの考え方や価値観からは離れなければならないだろう。

2016年8月16日火曜日

追憶 1436

Nの育てようとしている種は、苦い実を結ぶものであると感じてしまう。
それがNの学びであるのならば、それを避けることはできない。
お金に対する様々な価値観や考え方に触れ、その本質を理解する必要があるのだろう。
わたしはお金に対する興味関心が薄い。
恐怖や不安など感じない。
それでは、Nが必要としている学びを与えることができないのだろう。
わたしでは与えられないものは、他人から受け取る以外に方法はない。
Nはわたしの所有しないお金に対する価値観を、奥さんから教えてもらわなければならないのである。
それは、良いことだと思えた。
そのため、わたしは奥さんから学ぶように伝えた。
しかしながら、その価値観がネガティブな性質を持つものであることも伝えた。
しかしながら、今のNには奥さんから教えてもらう価値観や考え方に魅力を感じているだろう。
バランスを崩し、突き進むことが頭に過(よぎ)るのであった。

2016年8月15日月曜日

追憶 1435

お金に対する欲求が悪いというのではない。
わたしには多くのお金が必要ないというだけである。
わたしには、必要な分だけあれば良いのだ。
しかしながら、多くの人はそのようには感じず、多く所有する方が安心するようである。
実際にはNの話す奥さんに会ったことが無いため、すべては推測の域を脱しない。
そのため、わたしがここで話している内容は一般的にはとても失礼なものであることは自覚している。
しかしながら、このように書かなければならないのは、Nの思想がわたしの思想からは離れてしまった事実が存在しているからなのである。
Nは価値観の中にお金に対する種を蒔(ま)いた。
それは、奥さんからもらった種であろう。
わたしはNとの価値観の違いに戸惑った。
わたしには、今のNが世俗的な普通の人に見え、純粋さを失っていくように思えた。
一人暮らしを始めてから、Nが世間の汚れに汚されていくように思えたのである。

2016年8月14日日曜日

追憶 1434

Nがバイトに慣れ始めた頃、バイト先の経営者の奥さんの話をするようになった。
Nは奥さんのことを尊敬しているような話しぶりである。
その頃から、Nの考え方が奥さんの価値観に傾倒しているように感じられた。
わたしはNから奥さんの話を聞いた時に寒気を感じた。
それは、黒い靄(もや)に覆われているような感覚であり、お金に対する欲求のようなものを強く感じたのである。
世間には良くいるタイプの人間であろう。
しかしながら、わたしとは正反対のタイプである。
お金に対する不安やトラウマを感じさせた。
わたしは生まれてこのかたお金に困ったことがない。
必要としなかったのもあるだろうが、とにかくお金を拾うのである。
どこに行ってもお金が落ちている。
財布を拾うことも度々あるが、それは近くの目立つ場所に置いておく。
本当はいけないことだが、現金だけが落ちており、周囲に落とし主がいない場合は使っている。
つい先日も川の上流からお金が流れてきた。
わたしには、お金の価値が理解できない。
それを求める気持ちが小さいのである。

2016年8月13日土曜日

追憶 1433

Nがバイトを始めてから、わたしたちの絆に生じたひび割れが加速した。
それは、音を立てて走るようであった。
Nはとても疲れているように見えた。
肉体的にも疲れているだろうが、精神的な疲れを感じるのである。
これは、Nが初めて触れる経済という名の世界を生きることによって生じる疲れなのではないかと思える。
これまでは、経済活動とは無縁の人生を生きてきた。
それに加え、他人との社会生活というものに触れたのも初めてだろう。
これまでの人生で接することがあった他人というものは、間接的な知人であることが多かったであろう。
親を知っている他人や、共通の知人を持つ他人などの小さなコミュニティの中で生きていたのである。
何の関わりも無い様々な人の考え方や価値観に触れ、自身の考え方や価値観にも変化が生じたのであろう。


2016年8月12日金曜日

追憶 1432

わたしに会うことによって、変化に支障をきたすこともあるのだろう。
新しいものを得るためには、古いものを手放さなければならないのである。
Nにとっての古いものが、わたしなのであろう。

新生活に落ち着きを得た頃、Nはバイトを始めた。
Nは日曜日にバイトを休み、わたしのために時間を用意してくれた。
バイト先でも様々な出会いがあったのだろう。
わたしはNの微妙な心境の変化に気付いていた。
そして、以前にも増してNの身体や心には、黒い粘着質のものがまとわりついていることにも気が付いていた。
目の下の隈(くま)が色白の肌に目立っていた。

2016年8月11日木曜日

追憶 1431

ある時、Nがわたしに言った。

”疲れてるだろうから、毎週会いに来なくても良いよ”

それはNなりのわたしに対する気遣いであったのかも知れない。
それは、独りの時間や友人との時間が欲しいという訴えであったのかも知れない。
わたしはNの言葉について自分なりに懸命に考えて、次の週末は会いに行くことを辞めた。
わたしの心の中には、Nと一つに成りたいという思いがあった。
思い付く方法は、共に時間を過ごすことによって、理解を深め合うというものであった。
そのため、わたしがNに会いたいという気持ちを抑えることは簡単なことではなかった。
Nの心は変化の中にあったが、わたしを否定するものではなかった。
新しい状況や環境に対して、一生懸命に順応しようとしているように思える。
それに力を使っているために、わたしに対しては以前のように力を使えないでいるように感じる。
Nは”大人”に成りつつあるのだろう。

2016年8月10日水曜日

追憶 1430

”箱”を壊すということは、現状を壊すということでもある。
現状とは、現状の心境が作り出した心地好い場所なのだ。
自らのトラウマと向き合わないようにしてようやく手に入れた安定なのである。
Nがわたしに心の安定をもたらしたことは事実である。
わたしはNに救われている。
それは大切な心の支えであり、重りでもある。
現状のわたしは、Nの協力を得て安定していると言えるだろう。
それを取り除くということは、心の安定を手放すということであり、簡単なことではないのである。
わたしはNとのフィーリングの中に自分自身を見ていた。
前世の記憶では、わたしはNと同じ時代に生きていた。
そこで、様々な立場を経験し、様々な感情を知った。
わたしはNを自分であるかのように思っているのである。
漠然とではあれ、Nの魂とわたしの魂は元は同じものであったような感覚がわたしの中には存在しているのである。

2016年8月9日火曜日

追憶 1429

今のわたしにとっての最大の苦しみは、Nを失うことであろう。
それ以外の苦しみというものは想像することができない。
わたしに内在する”箱”を壊し、その中身をぶち撒けるためには、そのくらいのショックを必要としているのであろう。
しかしながら、誰にとってもこの”箱”には触れたくないという思いがある。
それは、その中身が苦しみそのものだからである。
そこには、過去のトラウマの原因である自分自身の汚れが収められているのだ。
これに向き合うには大きな勇気が必要である。
それには、最愛のNを手放すに等しい勇気が必要なのである。

2016年8月8日月曜日

追憶 1428

わたしはNと別離することによって、過去のトラウマと弱さを克服しなければならないのであろう。
それによって、わたしは自分自身を成長させることができるのである。
人が成長するためには大切に思うものを失い、苦悩を受けることによって自らと向き合い、それを乗り越えていく必要があるのだ。
苦しみに会わなければ成長することはできないのである。
それは、”毒素”を取り除くためには深くに存在している”箱”を壊さなければならないからである。
この”箱”は簡単には開かない。
これは、強烈な苦しみによってのみ開くのである。

2016年8月7日日曜日

追憶 1427

それは、過去のトラウマから導かれる無意識の拘りであるだろう。
わたしが10代後半から20代前半までの約4年間の交際をした女性がいた。
その女性とも、東京と愛媛という遠距離の末に離別した。
基本的には、いつもわたしが別れを告げられる。
当時のわたしは交際相手の女性に対して、自分自身では愛情だと思う感情を向けていた。
それがいつの間にかに依存心や保守的な考え方などの心の弱さを育んでいたのであろう。
別れを告げられた時、わたしは世界が崩れ去るような絶望感に襲われたのである。
その経験がわたしのトラウマとして心のどこかに残っていても不思議ではない。
今回の学びは、そのトラウマを克服することにあるのではないだろうか?
その女性と離別した後に、何人かの女性と縁があって交際したが、どれも長続きしなかった。
それは、その女性達に少しずつわたしの”毒素”を取り除いてもらうためではなかったか?と今では考えている。
もちろん、この考えはわたしの立場からの視点であり、彼女達にも何等かの学びや”利益”があったと信じたい。

2016年8月6日土曜日

追憶 1426

わたしは、近い将来にNと別離すると悟った。
しかしながら、5年半という過去の時間が、わたしにそれを受け入れさせなかった。
わたしは心に葛藤を抱いていた。
それは、大天使ミカエルとの約束を守ることができないことへの不甲斐なさにである。
わたしはNを一生守るという青い約束をした。
そのような気持ちで自分なりには向き合ってきたつもりである。
しかしながら、至らないことは承知していることであり、懸命に努めても足らないことは理解している。
わたしは大天使ミカエルの言葉を誤解しているのだろうか?
Nを一生守るという形への制約は無かった。
大天使ミカエルはわたしに、Nを一生守れと言っただけである。
その言葉はどのようにも解釈することができるのである。
わたしが勝手な解釈によって、例えば、恋人や夫婦という既成概念に捕らわれているだけなのではないか?
わたしは、自分自身の過去に拘(こだわ)っているのではないのか?
そのような考えが頭をもたげた。

2016年8月5日金曜日

追憶 1425

それは、Nの愛情であったのかも知れないし、霊的な存在からの愛情であったのかも知れない。
わたしには理解することができない形の愛情が存在し、それがわたしとNの関係に見た目はともあれ建設的な変化を与えようとしているのであろう。
ここまで見せられると、鈍感なわたしにも理解することができる。
わたしはNとの交際を解消しなければならない。
それが、これからのわたしとNの進むべき方向性なのだろう。
このまま一緒にいれば、成長が阻害されるはずである。
一緒にいることによって、意図的ではないにしても、依存心や保守的な考え方などが芽生え(てい)る可能性があり、その弱さがわたしたちを苦しめるのであろう。
それは、人生の目的に反している。
人が誰かと共にいる理由は、高め合うことで成長するためなのである。
それ以外の理由によっては、誰かと共にいるべきではないと、知らせているのではないだろうか?

2016年8月4日木曜日

追憶 1424

この時点において、Nはわたしのことを愛してはいないだろう。
愛の形にもよるし、男女の間に愛が存在するかは初めから疑問ではあるが、Nの中ではわたしとの恋愛という形での興味は枯渇(こかつ)していたか、枯渇する寸前であったのではないかと思える。
一般論を用いれば、失礼なNの言葉に対して、わたしは怒るべきなのかも知れない。
しかしながら、そのような考えは全く起きなかった。
わたしの男としての小さなプライドは傷付いたが、そんなわたしにも、Nの言葉がNから出たものではないということを知っていたからである。
それは、Nの口を介して出た言葉ではあるが、それが霊的な存在からのものであることをすぐに理解したのである。

2016年8月3日水曜日

追憶 1423

ここ最近、頭から離れない。
わたしは二つの楽曲をよく口ずさんでいた。
Nに聞かせたが、その歌詞に凄く共感しているようであった。
少しずつ、ひび割れは進行していた。

ある日、わたしはNを乗せて車を走らせていた。
その時、Nが何気無く放った言葉は絆を強く叩き、ひび割れを進行させるものであった。

”いろんな人と付き合ってみたい”

Nは話の流れの中で、ごく自然にまるで友達に話すように、そう言ったのである。
それは、Nの心の中に存在している真実であり、成長のために必要としている学びなのであろう。
わたしは自分のことを考えて一瞬だけショックを受けたが、Nのことを考えるとそれが最善であると思えた。
Nは様々なことを学ばなければならないのである。
ひび割れは、隠し切れないものだと悟った。

2016年8月2日火曜日

追憶 1422

ある日、わたしは頭の中に音楽が流れていることに気が付いた。
それは、松山千春という歌手の恋という楽曲と、THE JAYWALKという歌手の何も言えなくて・・・夏という楽曲のフレーズが交互に再生されているのである。
わたしはどちらの楽曲も一部を知っているだけで詳しくはなかった。
子どもの頃にテレビか何かで聞いて耳に残っていたのだろう。
有名な楽曲であることは知っていたが、気になったので調べてみた。

”愛することに疲れたみたい。嫌いになった訳じゃない”

”私にはスタートだったの。あなたにはゴールでも”

わたしの頭の中に繰り返し再生されるフレーズである。
わたしは二つの楽曲が気に入ったので、スマートフォンにダウンロードして毎日のように繰り返しては聞いていた。

2016年8月1日月曜日

追憶 1421

ポテトは、白の毛並みをしたホーランドロップイヤーという種類のウサギである。
掌(てのひら)に収まる程の大きさであり、とても愛らしかった。
わたしたちはポテトによって癒しを与えられたことで喜び合った。
わたしはNの寂しさを紛らわすためにポテトを買い与えた。
そのため、ポテトの世話はNがするものだと思っていたが、一人暮らしであるために話し合いの結果、わたしが世話をして、土曜日に連れて会いにいくことに決めたのである。
ポテトはわたしたちの疲れを癒し、ひび割れも目立たなくなったように思えた。
しかしながら、ひび割れは目に見えない形で進行していたのである。

2016年7月31日日曜日

追憶 1420

週を増す毎に、わたしたちは小さなひび割れを認識した。
それを、上から修繕(しゅうぜん)するのが習慣と成りつつあった。
Nは学校生活とバイト生活の疲れを抱え、わたしは仕事と運転の疲れを抱えていた。
そして、互いに霊的な存在からのアプローチに対する疲れを抱えていたのである。
わたしたちは、次第に会うことに疲れ始めていた。

ある日、Nがウサギを飼いたいと言った。
それは以前、大久野島というウサギが野放しになっている島に遊びに行ったこともあり、癒しを求めていたのかも知れない。
そこで、ペットショップやホームセンターを回り、気に入ったウサギを購入した。
Nはそのウサギをポテトと名付けた。

2016年7月30日土曜日

追憶 1419

わたしの性格上、始めたことは飽きるまで続けてしまう。
ゴミ拾いも毎日続けているし、光の天秤も毎日書き続けている。(どちらも10年を超えた)
わたしは一度始めたことは、自分なりに納得が得られるまではとことん続ける性分なのである。
わたしは毎週Nに会いに行ったが、その行為が自分自身とNを少しずつ疲弊(ひへい)させていくことになるとは、この時のわたしには気が付かないことであった。
それよりも、喜びの方が大きいと感じていたからであろう。
帰り道の高速道路を半分眠りながら運転していたこともあった。
わたしたちは、次第に疲れていった。
微妙に二人の歯車がずれていることに、わたしたちは気付き始めていたのかも知れない。
それでも、関係を良くしていこうと互いに努めていたに違いない。

2016年7月29日金曜日

追憶 1418

わたしは土曜日の夜の、光の仕事を終えた後にNに会いに行った。
それは、夜中に出発することもあったが、わたしは毎回楽しく思っていた。
Nも快く迎えてくれた。
土曜日の夜に二人で寝て、日曜日の夕食までの時間を共に過ごす。
わたしはその短い時間に、些細な幸せを感じていた。
しかしながら、やはり眠れなかった。
毎回、様々な霊的な存在が訪ねて来ては、わたしとNにしがみ付いてくる。
わたしはそれを楽しいとは感じていたが、Nとの時間や体力が削かれるのを危惧(きぐ)しているところもあった。
それは、Nとの時間を邪魔されたくないという自分勝手な考えが育っていたことと、車の運転をしなければならなかったからである。

2016年7月28日木曜日

追憶 1417

Nにはもう一つの課題があった。
それは、霊的な存在との関係である。
Nが一人暮らしを始めた土地とアパートに初めて出向いた時、わたしは居心地の悪さを感じた。
その土地にもアパートにも、黒い靄(もや)がかかっているように感じて、どうにも落ち着くことができないのである。
全体的に世知辛いような印象であった。
その日、わたしはNのアパートに宿泊させてもらったが、ほとんど眠れなかった。
Nの目の下に大きな隈(くま)ができているのも納得することができた。
わたしはこの土地での一人暮らしが、Nの精神を少しずつ削り取っていくだろうと感じた。
しかし、わたしはそれで良いと思えた。
それは、Nが成長するためには必要な過程であるということを感じていたからである。

2016年7月27日水曜日

追憶 1416

Nの一人暮らしが始まり、わたしたちは離れ離れとなった。
初めての土地、初めての一人暮らし、初めての学校生活、初めてのバイト、初めての人間関係…
Nにとっては何もかもが新鮮であり、喜びを感じる一方で不安を感じていただろう。
わたしはNと離れて、一緒に過ごしていた時間を人生や自分を探求するための時間として使い、週末に会いに行くことにした。
わたしはNが一人暮らしを心細く思っているのではないかと思っていたし、わたしが会いたいという気持ちもあり、毎週末会いに出向いた。
それが何かの支えになるのではないかと思ったからである。

2016年7月26日火曜日

追憶 1415

大天使ミカエルは、わたしがNと交際する時に”一生Nを守りなさい”と言った。
わたしは自分なりに一生懸命その言葉を守っていた。
初めは約束を守ることに一生懸命であったが、すぐに自発的にそう思うようになった。
至らないところは多々あるにしても、わたしはいつも一生懸命である。
そのため、Nとの距離が離れても、わたしはやっていけると思った。
たった100kmの距離である。
(確か)3度の遠距離の交際を経験したわたしには、100kmくらいの物理的な距離など何の問題でもないと思えたのだ。
離れることによって、成長することができる良い機会だとも思えた。
Nも一人暮らしを始めて様々な問題と向き合い、苦しみながら成長するだろう。
わたしは様々な期待に胸を踊らせていたのである。

2016年7月25日月曜日

追憶 1414

わたしは今までに何度か遠距離の交際をしたことがある。
始めから遠距離の交際ではなく、交際後に離れるという具合である。
愛媛と東京もあったが、最も遠いのは東京とカナダであった。
わたしの場合、遠距離の交際は長続きしなかった。
近くにいても同じではあろうが、少しずつ心が離れていくのである。
男女にとっては、共有する時間が重要なのかも知れない。
ただ、本質的な理由としは、互いの学びが終わったからだと思っている。
わたしは交際相手と離れなければならないのであろう。
Nと離れることに、わたしは”繰り返し”がやって来たのだと思った。
Nと交際を始めた時、わたしは思春期の恋愛感情を改修するための学びだと思ったが、今回も、遠距離の恋愛感情を改修するための学びだと直感したのである。

2016年7月24日日曜日

追憶 1413

わたしは時が迫っていることを知っていた。
しかし、それを受け入れられずに愚かに足掻(あが)いていた。
受け入れなければならないことは分かっていたのだ。
しかしながら、わたしの過去がそれを拒んでいる。
わたしはどうして良いのか分からずに、下流へと流されていく落ち葉のように、流れに翻弄(ほんろう)されるだけであった。
話はここから半年前に遡(さかのぼ)る。

わたしたちの交際は5年を過ぎていた。
Nは高校を卒業し、春から専門学校で学ぶために松山市で一人暮らしを始めていた。
わたしたちは2kmの距離を100kmとしたのである。

2016年7月23日土曜日

追憶 1412

以前のわたしは、人生に対して文句ばかりを吐いていた。
物事の因果関係を理解することができず、思い通りにいかないもどかしさに怒りを露(あら)わにしていた。
これはとても恥ずかしいことであり、自らの未熟さを剥き出しにしていたことに今では反省している。
人生には必要な学びが存在し、それを修了しなければ先へ進むことはできない。
先へ進んだと思っても、それは形を変えた繰り返しの中なのである。
試験に合格しなければ、追試を受ける。
この世(物質世界)に起こることは、あの世(意識世界)にも起こるのである。
わたしたちは一つの学びをクリアするまで、何度も何度も向き合わなければならないのである。
わたしがNと出会い、交際を始めた理由の一つとしては、自分自身の試験であったに違いない。
この学びは、わたしの中の異性に対する価値観を向上させるための経験であるように感じるのである。

2016年7月22日金曜日

追憶 1411

人生というものは、常にわたしたちの成長のために存在している。
20歳までのわたしには理解することができなかったことではあるが、20代も半ばを過ぎれば考え方は大きく変わっているものである。
わたしは霊と出会い、狐や龍などの自然の神と出会い、天使と出会い、光の仕事に出会った。
そして、多くの人に出会ったのである。
その経験が、わたしに人生というものの形を変えさせた。
今のわたしは、人生に起こることは意味のあることだと思っている。
わたしには理解することができないことではあるが、後に理解することができるものだとも思うのである。
人生には無駄は存在しない。
すべてが必然であり、最善なのである。

2016年7月21日木曜日

追憶 1410

Rは不貞腐れて景色を眺めた。
その姿がとても愛らしかったので笑うと、Rが不思議そうな顔を返した。

「お前にも、いつか分かるよ」

Rは腑に落ちない顔で考えていたが、子ども独特の切り替えの早さによって思考が断たれた。
わたしはRに調子を合わせながら、空中散歩を終えた。

一泊二日の小旅行ではあったが、Rと過ごした時間では最長となった。
わたしにはとても刺激的な体験であったし、Rも何か良い経験ができたのではないかと思える。
これから、わたしとRがどのような関わり合いの中で生きていくかは分からないが、機会がある度に成長のために協力することができれば良いと思っている。
Rの成長が楽しみである。
もちろん、自分自身の成長が最も楽しみである。

2016年7月20日水曜日

追憶 1409

そのためには、今は我慢することも学ばなければならないだろう。
勇気を出して諦めることをしなければ、新たな選択肢は得られないのである。
習慣には可能性を生み出す力が無い。
習慣を新たな形へと移行することによって、可能性が生み出されるということを理解したい。
今のRには、わたしの考えは理解することができないだろう。
そのため、わたしが意地悪な人物として映るかもしれない。
しかしながら、他人に何かを理解してもらうためには、誤解や嫌われることを恐れてはならないのである。
わたしはRに嫌われても良いと思っている。
それは、Rのことを考えているからだ。
中には、他人に嫌われまいと行動する人がいる。
このような人は、他人を思いやっているように見える。
しかしながら、その本意には、他人に嫌われまいとする浅はかさがあるのだ。
他人を気遣っているようでも、自分を守っているのである。

2016年7月19日火曜日

追憶 1408

人体に有害なものは”極力”摂取しない方が良いに決まっている。
しかしながら、現実にはそうもいかない。
農薬や除草剤、化学薬品や食品添加物などは、インスタントな方法であるからだ。
現代社会は、これ等を土台として形成された。
現代人にとって、これ等の”不自然”は、切り離せない要素となっているだろう。
それ程、便利なのである。
個人的には、現代社会は非常に歪んでいると思う。
気に入らないことは山のようにある。
しかしながら、それを必要としている人の方が多いのも事実である。
現代社会はわたしの所有物ではない。
現代社会は、それを生きるすべての人の所有物なのである。
だから、個人的な感情で文句を付けようとは思わない。
歪んでいるとは思うが、それはそれで良いのである。
しかしながら、その歪み、その不自然さに気が付いたのであれば、個々人ができる範囲の改善を試みる必要はあるだろう。
わたしがRに対して働き掛けている小さな活動は、これからのRの生き方や人生に対する選択肢を増やすためなのである。