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自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2016年10月6日木曜日

追憶 1487

それは別に、宗教に限ったことではない。
わたしはすべてを肯定し、すべてを否定すれば良いと考えている。
例えば、殺人犯は殺人を犯すことによって、殺人の持つ意味に触れるのである。
殺人犯にとっては、殺人を犯すことでしか学べないのだ。
そして、被害者は殺されることによって、殺されることの持つ意味に触れる。
被害者にとっては、殺されることによってしか学べないのである。
殺人犯が悪であり、被害者が善だとする感情論からは離れて考えて欲しい。
被害者となった者が、殺人犯となった者を虐(しいた)げていたとすれば、善悪は逆転するのではないだろうか?
強姦されている女性が、自身の人格を守るために男を殺したとして、どちらが善であり悪なのだろう?
何の罪もなく、善良だと思われる人が殺されたとしても、殺されるということは、それを学ばなければならないのだ。
理不尽に聞こえるのは、物事を表面的にしか捉えていないからである。
結果はすべて正しいだろう。
結果が出ているにもかかわらず、それを否定するのはやはり現実逃避なのである。
わたしには善悪の判断が出来ない。
わたしに下せる判断は、”すべてが必要な学びではないのか?”という推測だけである。
わたしの信じる”神”というものは、そのように矛盾を抱えない存在であり、宗教でいう敵を作り出し、自分の都合で多くの人を迫害するようなルサンチマンを抱えている存在ではないということだ。

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