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自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2016年10月13日木曜日

追憶 1494

彼女達は宗教の教えに没頭することによって”神”に逃避している。
しかしながら、私たちがしなければならないのは、(苦しい)現実との対峙なのである。
それは、忙しいからといって子どもに食事を作らない母親(父親)の態度に似ている。
”神”という”妄想”を愛せば、現実の苦悩を愛することができなくなってしまうのである。
だから、彼女達は殺人犯を愛することができない。
悪魔を許すことができないのである。
”神”の愛を謳(うた)っているのであれば、殺人犯も悪魔も愛することができるはずである。
しかしながら、殺人犯や悪魔という現実を否定しているために、愛することができないのだ。
忙しいからといって子どもに食事を作らないことは、子どもを愛していると言えるのだろうか?
それでも親は愛していると主張するだろう。
忙しかったから仕方が無いと自己を正当化するかも知れない。
しかしながら、子どもが同じように親を愛するだろうか?
もちろん、食事だけが愛情の形ではない。
しかしながら、親に食事を作ってもらえなかった子どもが親になった時には、その子どもにも同じことをする可能性は高まる。
わたしには正しい愛情の形というものは分からないが、それが歪な形をしているように思えるのである。

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