しかしながら、わたしはもう一度思考を練らなければならなかった。
それは、”人生は自分自身との対峙である”という(わたしの中の)鉄則があったからだ。
彼女達は未熟な価値観の中に生きている。
それは善と悪、”神”と悪魔、愛と争い、味方と敵…
相対的な価値観の中に世界を築いているのである。
しかしながら、わたしは相対的な価値観の中に世界を築いている彼女達の価値観に憤(いきどお)りを感じている。
わたしの感じている怒りは、自分自身の感情であり、彼女達のものではない。
わたしは、”すべては一つ”であるという感覚に焦り、いつの間にかに相対的な価値観に溺れていたのであろう。
わたしはどこかで彼女達とは違うと思っていたが、その根底にあるものは同じである。
私たちは、同じ学びを違う段階で行っているのである。
彼女達がわたしを訪れるのは、彼女達がわたしに相応しいからであり、わたしが彼女達に会うのは、わたしが彼女達に相応しいからであろう。
わたし達は一つの学びの中にいて、相対的な立ち位置に置かれているのである。
これは、”神”からの皮肉であるのかも知れない。
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