純粋であり、愛情深い人間が宗教に携わる。
	
	ただし、それは信者に限る。
	教祖となる者には、宗教の構造上その性格は当てはまらないであろう。
	宗教の本質は、ニーチェで言うところのルサンチマン(奴隷道徳)にあると思うからだ。
	宗教の教義とは、純粋で愛情深い人間を弱い立場である信者に仕立て上げる目的を持っている。
	宗教とは、多数の信者が少数の”幹部”を支えることによって成り立っている。
	信者は弱い立場でなければならないのだ。
	宗教に携わるということは、その時点において弱い人間となることが確定するのである。
	宗教は、教義を信じることによって救われると解く。
	しかしながら、すべての宗教の教義は、例外なく弱者を生産するためのプログラムなのだ。
	信者は教義に従う。
	それは、学校教育と同じように、暗記することに専念するために、自分で考えることを否定することになる。
	所謂(いわゆる)、思考停止に陥るのだ。
	宗教に携わっていれば、自然と自分で考える力が奪われてしまうのである。
	宗教に携わる者は必ず無知に陥ることになるだろう。
	それは、無知であったから宗教に携わることになったのか?
	宗教に携わることで無知に陥ったのか?
	それは、鶏と卵の議論である。
	
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