わたしが不自由さを感じていたのは、今だにNのことを引き摺(ず)っていたからに違いない。
地産地消カフェをオープンしたくらいでは切り離せなかったのだ。
わたしは自身の抱えるルサンチマンに不自由さを感じていたのである。
それが不快で仕方なかった。
感覚としては、檻(おり)の中に閉じ込められた鳥、鎖で繋がれた犬、蛹(さなぎ)の中で羽化を待つ蝶のようであった。
わたしはきっかけが欲しかったのかも知れない。
できることから少しずつ変えていこうというのである。
安易な発想としては、車で移動することに不自由さを感じていた。
それは、フレームやエアバッグ、シートベルトや様々な安全装置に守られているからである。
天候にも左右されることもなく、ナビゲーションシステムやエアコンやオーディオなど、至れり尽くせりである。
車は比較的には安全な乗り物であり、利便性に長けてはいるが、それ等と引き換えに自由な感覚を失うように感じるのである。
車は、過保護な親のようなものであり、わたしには煩(わずら)わしく思えたのであった。
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