ヘルメットの中で反響する声に愚の骨頂(こっちょう)を見た。
	そこでわたしは少しでも死を感じたことに喜んでいることを理解した。
	わたしはこの感覚を求めていたのである。
	死を感じるということは、その相対に存在する生を感じるということでもある。
	生とは自由の中に存在しているものだと考えるが、わたしは日常に対して不自由さを感じていたのである。
	それはきっと、Nを失った虚無感にも似た感情があったからに違いない。
	多分、わたしの中の男性性が、Nという女性性に別れを告げられたことによって自尊心を保てなくなっていたのではないだろうか?
	その腐った感情(ルサンチマン)が、不自由さを感じさせ、不自由さによって生を感じることができなくなっていたのであろう。
	心が死んでいたのである。
	今回の交通事故は、わたしの男性性の中の腐った感情を引っ叩いたのであろう。
	それを男性性を超えた”わたし”が喜んでいるのである。
	
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