わたしがNを守るということの本質は、Nが様々な体験をすることを幇助(ほうじょ)するということなのだろう。
わたしがNを守るためには、Nの行く道を邪魔しないことなのだろう。
わたしはNの協力者であって、邪魔者であってはならないのである。
それが今は、Nの行く道を邪魔する存在となっているのかも知れない。
無意識ではあるが、Nの可能性を妨げているのではないか?
このような考えが生じた。
わたしは、わたし達が進むべき道を知っていた。
”愛することに疲れたみたい。嫌いになった訳じゃない”
ということである。
わたし達は、偽物の愛に戯(たわむ)れていてはならないのであろう。
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