わたしはそこにいなかった。
	しかし、有ったのだ。
	川の流れに戯(たわむ)れる気泡も、木々を揺らす春風も、そのすべてには隔たりが無く、一つであった。
	わたしがそこにいたのであれば、わたしは自分という個体であっただろう。
	わたしは全体としてそこに有ったのである。
	わたしはすべてを眺めていたが、何も眺めてはいなかった。
	個体の視界は狭い。
	そのため、情報の不足は必至である。
	無知には必ず独自の解釈が導かれ、全体を歪んで認識する。
	そこには何の理解も導かれないであろう。
	自我意識を抱える多くの人が誤解を生きるのはそのためである。
	全体として存在するのであれば、運命論的な立場を取るであろう。
	すべての事柄が予(あらかじ)め決められているのかは分からないが、目の前に導かれる状況を受け入れることは出来るのである。
	
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