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自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2016年12月17日土曜日

追憶 1559

わたしはそこにいなかった。
しかし、有ったのだ。
川の流れに戯(たわむ)れる気泡も、木々を揺らす春風も、そのすべてには隔たりが無く、一つであった。
わたしがそこにいたのであれば、わたしは自分という個体であっただろう。
わたしは全体としてそこに有ったのである。
わたしはすべてを眺めていたが、何も眺めてはいなかった。
個体の視界は狭い。
そのため、情報の不足は必至である。
無知には必ず独自の解釈が導かれ、全体を歪んで認識する。
そこには何の理解も導かれないであろう。
自我意識を抱える多くの人が誤解を生きるのはそのためである。
全体として存在するのであれば、運命論的な立場を取るであろう。
すべての事柄が予(あらかじ)め決められているのかは分からないが、目の前に導かれる状況を受け入れることは出来るのである。


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