光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2018年12月31日月曜日
追憶 2276
意思が行為を司(つかさど)るように、霊が肉を決めている。
人生の原因が霊であるということを知らなければならないだろう。
霊を磨かなければ、肉が磨かれず、肉が磨かれなければ、人生は輝かないのである。
しかしながら、多くの人にはこのことが分からない。
多くの人は、人生を輝かせるために、懸命に肉を磨いているのである。
目の前の快楽や欲望や苦悩に執着するのは、肉の性質である。
それは、豊かな生を求める性質が歪んだものに過ぎないだろう。
2018年12月30日日曜日
追憶 2275
価値があるのは、肉ではなく霊であるということだ。
しかしながら、多くの人は、電源よりも機械の方に価値を見出している。
霊よりも、肉体に価値を見出しているのである。
肉体に価値を見出している人は、肉に従って行動する。
肉の目的は生存である。
肉は、生存することを求めるのだ。
それは、霊の目的とは異なる。
完全に異なる訳ではないが、最終的な目的は異なっている。
肉は豊かな生を求め、霊は豊かな死を求めるのである。
肉は豊かに生きるために存在し、霊は豊かに死ぬために存在しているのだ。
2018年12月29日土曜日
追憶 2274
どのように優れた機械も、電源が無ければ動かない。
動かない機械は、鉄の塊(かたまり)に過ぎない。
それでは、優れてるとは言えないのである。
肉体は、霊を失えば肉の塊である。
多くの人が口にしているのは、牛や豚や魚の霊が抜けた肉であるのだ。
霊が抜けた肉体は、肉の塊以上でも、以下でもない。
しかしながら、肉の塊に霊が宿れば、それは愛する存在になるのである。
屍(しかばね)と共に暮らしたいと思う人は少数派であるだろう。
大抵の人は、屍に価値を見出さない。
なぜなら、そこに霊が存在しないからである。
2018年12月28日金曜日
追憶 2273
多くの人は、脳が肉体を動かしていると考えているだろうが、脳を動かしているのは何か?ということを考えなければならないだろう。
肉体は、やがて機能を停止する。
それは、命を失ったからである。
命とは、霊のことであろう。
命という目には見えない何かが、肉体を動かしているのは否定することの出来ない事実であるように思える。
やがて機能を停止するのであれば、元は機能が停止していたはずだ。
機械は、電源を必要とするが、命と繋がらなければ肉体は動かないのである。
乾電池で動く機械のようなイメージであろうか?
機械が電源を必要とせずに動くことがないように、肉体も命(霊)がなければ動かないのだ。
2018年12月27日木曜日
追憶 2272
恐らく、それは意識という目には見えないものであるだろう。
意識とは、霊であると思える。
霊とは、肉体の原動力であるだろう。
それは、肉体が母親を離れる時までに、どこかからやって来て肉体と融合する。
そして、肉体という乗り物で人生を旅するのである。
肉体は、霊の働きが無ければ動かない。
肉体は、霊に従っていると考えた方が自然であるだろう。
肉体は、人の意思に関係の無い挙動を見せる。
手足は思い通りに動くように思ってはいるが、思い通りに動かないから失敗する。
思い通りに動かないから、練習に多くの時間と労力を費やさなければならないのである。
2018年12月26日水曜日
追憶 2271
黒い大蛇は、白蛇が老女の吐き出す不平不満や泣き言を食べて歪んだ姿である。
人生というものを考える時には、霊的な働きが重要だ。
人のすべての言動は、霊的な働きから生じている。
わたし達の思考は、霊的な働きであることを理解しなければならないだろう。
多くの人は、思考を当たり前のものとして考えているために、それが何であるか?を考えない。
多くの人は、脳が思考していると考えているが、脳という肉の塊(かたまり)は、どうやって思考しているのだろう?
わたしには、脳というものが自発的に働いているとは思えないのである。
何かが、脳を使っているというか、脳が何かに動かされているように思えて仕方ないのだ。
2018年12月25日火曜日
追憶 2270
不平不満を吐くことや何かに縋(すが)ることによって自分の気は晴れたとしても、霊的な存在がその苦しみを引き受けているに過ぎない。
霊的な存在は、矢面に立って人を守る。
霊的な存在が限界を迎えるまでは、不平不満を吐いたり、何かに縋ることは実害にはならないだろう。
しかしながら、霊的な存在が限界を迎えてしまえば、鉄砲水のように、大きな実害が生じてしまうのである。
それは、急に目の前に現れるために、本人にとっては驚愕(きょうがく)の事態であるに違いない。
しかしながら、それは、当然の結果であることを知らなければならないのである。
2018年12月24日月曜日
追憶 2269
自己を正当化するのであれば、破滅的な意識に対して恍惚(こうこつ)な表情を浮かべている黒蛇のように、苦しみであるはずのものを喜んでしまうようになってしまうのである。
自らを磨き、成長するために始めた信仰が、利得を求め、損失を恐れる守銭奴(しゅせんど)のような価値観に変わるのは簡単なことであるだろう。
多くの人が、幸福を求めながらも、実際には不幸を選択している。
豊かさを求めながらも、乏しさを選択しているのである。
不平不満を吐いたり、何かに縋(すが)ることは、幸福や豊かさの道ではないだろう。
幸福や豊かさを実現するためには、不平不満を吐かず、何かに縋ることなく歩まなければならないのである。
2018年12月23日日曜日
追憶 2268
しかしながら、宗教に縋ることでは、問題は解決しないだろう。
なぜなら、お互いの傷を舐め合う集団だからである。
慰め合うことは、偏見と誤解を強化してしまうのだ。
人は、自分に都合の良い集団に縋る。
それは、自分の願いを叶えてもらおうと考えるからである。
自分の思想に近く、居心地の良い集団を好むのだ。
それが悪いということではないが、自己を正当化するのには都合の良い条件が整ってしまうために、歪みは強くなってしまうのである。
宗教に縋る人の多くは、自己を磨いていると思っているだろうが、実際には自我を強化しているのである。
2018年12月22日土曜日
追憶 2267
残念ながら、因果は都合に関係なく実現する。
どちらかと言えば、都合の悪い時に実現することの方が多いだろう。
一つ問題が生じれば、次々に問題が生じるものである。
それは、一度嘔吐(おうと)すれば、続けて二度三度と嘔吐するのと同じであるだろう。
泣き言や不平不満を吐いている人は、その行いに相応しく、苦しみが連鎖(れんさ)してしまう。
それに耐えることが出来ない多くの人は、宗教に縋(すが)るのである。
多くの人が宗教に縋るのは、自らを磨き、成長するためではない。
苦しみから逃れるために、縋っているのである。
2018年12月21日金曜日
追憶 2266
しかしながら、吐き続けることの苦しみを忘れてはならないだろう。
吐くことで心地好いのは一時のことである。
苦しみは直ぐに襲ってくるのだ。
それに、吐いたものは自分で片付けなければならない。
それも、苦しみなのである。
多くの人が、泣き言や不平不満を吐くことを軽んじている。
目の前の快楽に逃げることの恐ろしさを知らないのである。
この世界には、因果の仕組みが存在していることを忘れてはならないだろう。
泣き言や不平不満を吐く程に、人生は汚れ、悪化してしまうのである。
多くの人は、そのことを忘れて泣き言や不平不満を吐き続けている。
代償は、忘れた頃に請求されるのである。
2018年12月20日木曜日
追憶 2265
老女も弱い心を抱えている。
弱い心を抱えているために、破滅的な意識に魅了されてしまうのだ。
老女が泣き言を並べるのは、破滅的な意識に魅了されているからである。
わたしも、以前には老女と同じように、不平不満を吐いていた。
それは、弱い心を好きにさせていたからである。
弱い心を制御することが出来ず、破滅的な意識に魅了され、翻弄(ほんろう)されることは苦しい。
泣き言を並べ、不平不満を吐くことは、とても辛いことなのである。
胃の中身を吐き出す時には、苦しみから解放されるような心地好さを感じられる。
不平不満を吐くことを喜んでいる人達というのは、この段階にある。
2018年12月19日水曜日
追憶 2264
破滅的な意識には魔力がある。
それは、不思議な魅力である。
誰もがその魔力に魅了(みりょう)されてしまう。
多くの人は、破滅的な感情を心地好く感じている。
多くの人は、不平不満が好きだし、過ぎたことをいつまでも悲しみ嘆(なげ)くことを好んでいる。
集まれば誰かや何かの悪口を言い、自分達の中で誰かや何かを蔑(さげす)むことで、情け無い自分を慰(なぐさ)めているのだ。
そうやって、弱い自分を守ろうとしているのである。
弱い心は、破滅的な感情を必要としている。
そのため、弱い心は、破滅的な意識に魅了されてしまうのである。
2018年12月18日火曜日
追憶 2263
白蛇が食べたのは、老女が生み出す破滅的な意識であるだろう。
白蛇は、この土地と老女を守っていたはずである。
霊的な存在にとって守るというのは、美しく保つということだ。
それは、わたし達が道具が錆び付かないように磨くのと同じことであろう。
霊的な存在は、そこに住む人が汚れないように努めているのである。
白蛇は、老女の心が汚れないように、老女の生み出す破滅的な意識を食べていたのだろう。
甘いお菓子や酒やタバコ、そして、麻薬などには依存性がある。
それ等が身体に悪いことを知っていながら、簡単にはやめられないのだ。
黒い大蛇が恍惚(こうこつ)な表情を浮かべていたのは、人が甘いお菓子や酒やタバコ、そして、麻薬などによってもたらされる快楽と同じようなものを得ていたからであろう。
2018年12月17日月曜日
追憶 2262
随分(ずいぶん)と太ったものだ。
あの白蛇は、破滅的な意識を食べてここまで太ったのであろう。
破滅的な意識とは、ネガティブな意識のことである。
それは、歪んだ意識であり、わたしには、黒い煙のようなものとして認識されるものであった。
破滅的な意識を取り込んだ霊体は、黒く歪んでしまう。
それは、破滅的な意識を取り込んだ心が歪んでしまうのと同じことである。
真っ白な半紙も、墨を垂(た)らせば黒く染まってしまう。
白蛇は、破滅的な意識を食べたことによって、黒く大きく歪んでしまったのであろう。
2018年12月16日日曜日
追憶 2261
黒い大蛇は、恍惚(こうこつ)な表情を浮かべていた。
何かに満足しているようであった。
しかしながら、わたしには、その表情が気持ちの悪いものとして認識された。
鳥肌が襲い、身体が冷えた。
身震いしたその時、黒い大蛇がわたしに気が付いたようであった。
重そうな鎌首をゆっくりとわたしに向けた。
わたしは、この蛇を知っている。
この蛇は、以前、老女のところにいた白蛇である。
姿は全く違うが、そうとしか思えないのである。
2018年12月15日土曜日
追憶 2260
瞼(まぶた)を閉じて心を静める。
すると、黒い煙のようなものが胸の中に入り込んで来るような感覚を得て気分が悪くなった。
原理は分からないが、内側に入り込んだ黒い煙のようなものは、ゲップによって光の粒に変えられた。
何等かの作用の結果、肉体レベルではゲップとして表現されるのかも知れない。
エンジンでいうところの、排気ガスのようなものであるのかも知れない。
わたしの意思に反して、止めどなくゲップが出ている。
黒い煙のようなものが光の粒となって、高い所で輝いている大きな光に向かって上昇する光景は、いつ見ても美しいと感じるものであった。
ゲップが治ると、水墨画のように滲(にじ)んでいた黒い影が輪郭(りんかく)を得ていた。
それは、黒い肌の大蛇であった。
それが、天井付近で身体を絡ませる様にして存在しているのである。
2018年12月14日金曜日
追憶 2259
そのために、わたしは老女の考え方を否定しなければならなかったのである。
しかしながら、わたしは自分勝手に否定するのではない。
天使や霊的な存在達からの言葉を伝えると、結果的には否定しているということなのである。
わたしが老女に対して言葉を伝えていると、老女の後方の天井付近に、黒い影のようなものが見えた気がした。
しかしながら、確信はなかったので、何事もなかったように話を続けた。
しばらく問答をしていると、やはり視界の隅、老女の後方の天井付近に黒い影のようなものが動いているように見える。
わたしは老女に断って、黒い影のようなものに対峙してみることにした。
2018年12月13日木曜日
追憶 2258
老女が求めているのは、共感と同情だろう。
老女は、哀(あわ)れんで欲しいのではないだろうか?
多くの人は、そのように期待している。
気持ちは分かるが、そうすることは出来ないのである。
残念ながら、天使がわたしに共感し、同情してくれたことはない。
わたしの考えは、天使によって否定されるのである。
しかしながら、わたしはそれで良いと思っている。
なぜなら、自分の考えよりも、天使の考えの方が本質的であると思うからだ。
共感されるのであれば、わたしは自分の考えに自信を持ち、自らを正当化してしまうだろう。
それでは、偏見や誤解が強まってしまうのである。
2018年12月12日水曜日
追憶 2257
そのために、わたしは老女の話を聞いているのだが、ある程度のところで、それを否定しなければならなかった。
わたしは老女の考え方を否定したくはない。
すべてを肯定(こうてい)することが出来れば、どれだけ気楽だろう。
頷(うなず)くだけで良いのならば、辛くはないだろう。
しかしながら、それでは老女の誤解を促(うなが)してしまうのである。
わたしは、老女を暗闇の中に閉じ込めるために来たのではない。
わたしは、老女を光へと導くために来たのだ。
そのためには、老女の考え方を否定し、新たな考え方を提案しなければならないのである。
2018年12月11日火曜日
追憶 2256
老女の精神も、ネガティブなものに耐えられないために、わたしにそれを吐き出しているのである。
他者に対してネガティブなものを吐き出さなければならない程に、ネガティブなものを吸収しているのだ。
それは、コップから溢れ出る水のようなものであり、コップには溢れ出た水を掃除する能力が無いのである。
コップから溢れ出た水を掃除するのは、台拭きの仕事である。
わたしの役割は、台拭きであるだろう。
台拭きの仕事は、溢れ出た水の掃除と、水が溢れ出ないような方法を提案することだ。
提案というのは、口煩(くちうるさ)く指導することではない。
溢れ出た水を掃除することを続ける姿を見せることによって、より良い方法を考える手助けをするということである。
2018年12月10日月曜日
追憶 2255
お茶を飲みながら、わたしは何度も聞いた老女の追憶と、それに関する愚痴(ぐち)と、現状における弱音を聞いた。
老女は、止めどなく言葉を吐いている。
これは、老人に特有のものなのか?この世代の人達に共通しているものなのかは分からないが、自分の話に集中してしまい、相手を放置しがちになってしまう。
わたしの目的は、老女の考え方を改善することである。
そのために、先ずは老女の話を聞くことに専念するが、その内容が昔話と愚痴と弱音であるために、いつまでも聞き続けることが出来ないのだ。
建設的であり、生産的な話であれば、いくらでも聞くことが出来るだろう。
しかしながら、破滅的であり、非生産的な話を聞くには限度がある。
人の精神は、ネガティブなものに耐えられないのだ。
2018年12月9日日曜日
追憶 2254
居間に通されて適当に腰を下ろす。
老女は、わたしにお茶を飲ませようとして、急須にお湯を注いでいる。
ポットから急須に注がれるお湯の音が、部屋の中に響いて聞こえている。
やはり、この家は老人の一人暮らしには広過ぎる。
それに、新築の今風の作りが、一人暮らしの老女とのバランスを欠いていて、それがわたしにいつも不思議な感覚を与えた。
お茶を淹(い)れるのも大変そうに見える。
わたしはいつも断るのだが、老女には世話をするのが喜びであるようだった。
わたしは、感謝の言葉を支払い、温かな湯呑みを受け取った。
2018年12月8日土曜日
追憶 2253
漸(ようや)く、わたしの前に老女が現れた。
わたしの顔を見て、老女は驚きの表情を浮かべた後に、旧友に会った時のような嬉しそうな笑顔を作った。
突然の訪問にも関わらず、老女はいつもわたしを喜んでくれる。
そして、必要以上にわたしを持て成そうと構えている。
わたしはいつも気持ちだけを受け取るのであった。
老女に促(うなが)されて、家に上がった。
老女は一人暮らしであったが、家の中はいつも片付いている。
足が不自由なので、散らかっていても良さそうだが、性分がそれを許さないのであろう。
わたしは良い気分で老女の後に続いた。
2018年12月7日金曜日
追憶 2252
しかしながら、それは、取り返しがつかないということではない。
必要な結果を受け取れば、済む話である。
新たな原因によって、新たな結果を導けば良いのだ。
その時に、恐怖や期待に左右されるような選択ではなく、思いやりに根差した選択をすれば良いだろう。
そうすることによって、真(まこと)へと近付き、愛による導きを得ることが出来るのである。
愛の導きによって、人は輪廻を外れることが出来るのである。
愛は、どこにでも存在している。
どのような道にも、愛が存在しているということを理解しなければならないだろう。
どのような道を進んでも、愛による導きを得ることが出来れば、真へと近付き、輪廻を外れることが出来るのである。
2018年12月6日木曜日
追憶 2251
相手の顔色を伺(うかが)うことなく、相手に対して思いやりを以(もっ)て、相手の必要を満たすことが霊的な仕事である。
恐怖心や過度な期待を抱かせて、利を貪(むさぼ)ることは恥であり、罪なのだ。
この罪を犯した者は、相応の報いを受けなければならないのである。
どのような人物も、因果を避けることは出来ない。
すべての人は、自らが足を差し出した場所を踏み締めなければならないのである。
そこが泥濘(ぬかる)みだったとしても、崩れ易い岩の上であったとしても、一度差し出した足を引っ込めることは出来ないのである。
2018年12月5日水曜日
追憶 2250
輪廻を外れるためには、心を磨き、魂を純粋へと近付けなければならない。
そのためには、偽りの段階から、真(まこと)の段階へと移行する必要があるだろう。
真の段階に至るためには、自我による支配を超越(ちょうえつ)し、愛による導きを得なければならないのである。
愛による導きとは、相手のためを思う行為のことである。
それは、恐怖ではなく、勇気を動機とした選択なのだ。
相手のことを思うのであれば、相手の顔色を伺(うかが)う必要はない。
相手の気持ちに配慮(はいりょ)することはあっても、相手にどう思われるか?ということは気にしないのである。
2018年12月4日火曜日
追憶 2249
光と闇が接しているように、建設的な霊体と破滅的な霊体は同じ世界に存在しているのだろう。
天国と地獄が存在しているかは分からないが、ビルのように一つの建物の中の階層によって隔てられているような感覚と言えば良いのだろうか?別物ではなく、一つの世界のものに思えるのである。
そのため、天国へ至ったとしても、完全に地獄を避けることは出来ず、地獄へ至ったとしても天国を避けることは出来ないと思えるのだ。
地獄や終末を避けるというのは、それを手放すことではなく、そこから少しだけ離れたに過ぎないだろう。
地獄や終末があるのかは分からないが、それを手放すためには、インド思想でいうところの輪廻(りんね)を外れなければならないのではないだろうか?
2018年12月3日月曜日
追憶 2248
地獄の概念や終末論がそれに当たるだろう。
わたしは、地獄というものを見たことがない。
地獄というのは、東西問わず宗教画に描かれている地獄のことである。
多くの罪人が、鬼や悪魔などによって様々な責めを負う場所のことだ。
天国のようなものは何度か見たことがある。
天国のようなものがあるのだから、地獄のようなものもあるのかも知れない。
例えば、悪霊と呼ばれる黒く破滅的な霊体が存在するが、わたしには、彼等が地獄ではなく、この世界の別の次元?にいるような感覚を得る。
幸せな心と不幸な心が一つの肉体?の中に共存しているように、悪霊と呼ばれる破滅的な霊体も地獄ではなく、この世界に存在しているように思えるのである。
もちろん、仏や天使もこの世界に存在しているように思えるのだ。
2018年12月2日日曜日
追憶 2247
相手のために、相手に嫌われる可能性のある言葉を伝える時には、そこに自我は存在しない。
そこには、愛が存在しているのである。
愛とは、恐らくは、相手を思いやる気持ちのことだろう。
自分のための気持ちは、愛ではないと思うのである。
愛を以(もっ)て仕事をしなければ、霊的な仕事は完成しない。
宗教は、人々を脅(おど)している。
そのような自覚は無いのかも知れないが、宗教に携わる人達は皆、恐怖によって繋がれているのである。
宗教は、信者を確保するために、自分達に有利で耳障りの良い言葉を用いるだろう。
そうしなければ、信者はいなくなってしまうからだ。
2018年12月1日土曜日
追憶 2246
霊能者の仕事とは、霊的な存在と人間との仲介である。
それ以上のことは、霊能者の仕事ではない。
自らの意思で意見する必要も、相手に何かを信じさせる必要も無い。
相手は、自分の好きなように考え、自分の信じたものを信じれば良い。
霊的な必要をどのように扱うかは、霊能者の決めることではなく、相手が決めることなのである。
そのため、霊能者は、相手が信じようと信じまいと、霊的な必要を伝えなければならない。
それが、相手を傷付け、相手に嫌われる可能性がある言葉であったとしても、相手のために伝えなければならないのである。
2018年11月30日金曜日
追憶 2245
相手を喜ばせることが出来れば、それが良いだろう。
しかしながら、霊的な仕事は相手を喜ばせば良いというような単純なものではない。
なぜなら、大抵の場合、相手の理想や要望と、霊的な必要が異なるからだ。
相手の理想や要望の実現に努めるのであれば、霊的な仕事としては失敗である。
結果として、理想や要望が実現することもあるが、大抵の場合はそれとは異なる形で必要が導かれるのだ。
多くの人は、理想や要望を欲しているために、必要に対して抵抗を示す。
霊的な仕事において重要なのは、相手にとって受け入れ難い必要を少しでも受け入れることが出来るように、出来るだけ丁寧に説明することなのである。
2018年11月29日木曜日
追憶 2244
しかしながら、老女が期待するのは、苦しみと、その原因だと思い込んでいる霊的な存在を退けてくれることであった。
それは、天使の意向とは反している。
わたしは、人間の意向に従うことは出来ない。
なぜなら、人間であるわたしが、自分がいつも間違えていることを嫌という程見せられているからだ。
人間の判断よりも、天使の判断の方が優れているように思えるのであった。
そのため、大抵の場合、人間の意向に従うことが出来ないのである。
この仕事の難しさがそこにある。
2018年11月28日水曜日
追憶 2243
天使は、苦しみの避け方を教えるのではない。
その乗り越え方を教えてくれるのである。
だから、わたしには老女の愚痴(ぐち)に賛同することは出来なかった。
それは、老女がどうにかして、苦しみから逃れようとしていたからである。
天使は、わたし達の思考回路を組み替えることを目的としているように思えるのだ。
そのため、わたしは老女の愚痴に対して否定的になってしまう。
老女を否定するのではなく、その考え方を否定するのだ。
わたしの仕事は、老女が現状を受け入れ、人生に対して感謝することの出来る心境を築くことである。
霊や神を"処理"するのは、そのついでだと考えるべきだろう。
2018年11月27日火曜日
追憶 2242
わたしには、老女の足の痛みは良いことのように思える。
それは、何も知らずに傲慢に生きるよりも、何か一つでも知って謙虚に生きる方が良いと思うからである。
足の痛みは、老女に様々なことを教えてくれるだろう。
不平不満を吐くのは傲慢の現れである。
謙虚さとは、受け入れることであるだろう。
人は、それぞれに避けることの出来ない学びを抱えて生まれてくる。
例えば、わたしは男の身体に生まれたが、それは男の学びを避けることが出来ないということである。
わたしは無知に生まれ、無能を生きている。
それは、わたしに避けることの出来ない学びを導く。
すべては、自らの抱えている傲慢さを正すために必要なことなのである。
2018年11月26日月曜日
追憶 2241
足の痛みによって、動作は鈍くなる。
彼女が自力によって出迎えてくれるまで、わたしは待つことにした。
老女の足は、恐らくは若い時に働き過ぎたために歪んでいる。
多くの苦労があったようだ。
しかしながら、霊的に見れば、老女の足が歪んでいるのは傲慢(ごうまん)の結果である。
傲慢を正すために、様々な苦労を重ねなければならなかったのだ。
その一つが、足の痛みであった。
老女は、足の痛みに対して"恨み"を抱いているが、足の痛みによってわたし達は引き合わされたのである。
そして、人生について、自分自身について、理(ことわり)について、互いに学ぶことが出来ているのである。
足の痛みが無ければ、老女がわたしと会うことも、話を聞くことも無かっただろう。
"普通"の暮らしをしていたに違いない。
もちろん、それが悪いというのではない。
老女の人生の目的は、自らの傲慢を正すことだ。
そのための準備が、これまでの苦労であり、足の痛みであったということを理解しなければならないだろう。
2018年11月25日日曜日
追憶 2240
後日
、わたしは老女からの連絡を受けた。
それは、いつも通りの泣き言である。
老女は、足を悪くしているのだが、その痛みや不自由が辛くて堪らないというのである。
わたしも、毎回老女のリクエストに応えて会いに行ける訳ではない。
今は、電話越しに慰(なぐさ)め、心の在り方を説く他なかった。
時間が許せば顔を見せることを告げて電話を終えた。
後日
、わたしは老女を訪ねた。
わたしはいつも老女に対して事前に連絡をすることもなく、自分勝手に訪ねる。
それで良いと思っている。
玄関のチャイムを鳴らし、勝手に扉を開けて老女の名前を叫んだ。
すると、奥から返事が聞こえ、ゆっくりと足音が聞こえた。
2018年11月24日土曜日
追憶 2239
残念ながら、宗教を信仰している人達は、このことに気が付かない。
宗教を信仰することによって、”神”を信仰していると思い込んでいるのである。
神の国(天国や浄土)があるとして、そこに入るためには、”神”への信仰が必要であるだろう。
”神”を信仰すれば、”神”へと向かう。
宗教を信仰すれば、宗教へと向かうのだ。
残念ながら、宗教を信仰したところで、神の国には辿り着けない。
宗教を信仰している老女は不幸を感じており、宗教を信仰していないわたしは幸福を感じているのである。
わたしを勧誘した彼女達も、和尚達も、幸せそうには見えなかった。
わたしがこれまでに会ってきた宗教を信仰している人達は、誰もが多くの闇を抱えていたのである。
2018年11月23日金曜日
追憶 2238
宗教への信仰と、”神”への信仰は異なる。
わたしのいう”神”とは、例えば、心臓を動かす不思議な力のことである。
この世界には、不思議なことが多い。
そこに意図のようなものを感じるのである。
その源に”神”という存在がいるように思えて仕方ないのである。
宗教と”神”は別物である。
宗教を信仰したところで、”神”を信仰したことにはならない。
”神”を信仰するのであれば、”神”を信仰しなければならないのである。
この違いに気が付く必要があるだろう。
2018年11月22日木曜日
追憶 2237
人は、画一的な経験を得るために生まれたのではないだろう。
人は、それぞれに異なる人生を生き、異なる結果を残さなければならないのである。
誰かの真似をして懸命に生きても、本当の意味での満足を得ることは出来ないであろう。
人生に満足している人がどれだけいるだろうか?
真似をしなければ、満足することも出来た人生である。
大通りも良いが、それだけでは、その街の持つ、本当の魅力には気が付かない。
人生の魅力というものは、誰かに教えてもらうものではなく、脇道へ逸(そ)れて、自らの足で路地を探検してみなければ分からないものである。
2018年11月21日水曜日
追憶 2236
順路が決められていなければ、寄り道をすることも出来る。
気になる道を気の済むまで歩むことが出来るのだ。
人生には、寄り道が魅力的である。
大通りから見える路地は、とても魅力的なのである。
宗教の示す道は、大通りのように整備された道のようなものであるだろう。
それは、とても広く、美しく見える。
きっと、多くの人が手を繋いで、安全に歩むことが出来るだろう。
しかしながら、その道は"観光名所"に繋がっているだけである。
それでは、画一的な経験を得るのが関の山だろう。
2018年11月20日火曜日
追憶 2235
他者と違うことをするのは簡単なことではない。
そのためには、自ら発想し、考え、行わなければならないからだ。
敷かれたレールの上を行くことは気楽である。
そこには、何の不安もないだろう。
行けば辿り着くのである。
それは、良いことのように思える。
しかし、それは退屈な旅路に違いないだろう。
順路が決められていなければ、大きな不安を抱いてしまう。
下手をすれば、辿り着けないかも知れないのである。
しかしながら、それはとても楽しい旅路となるだろう。
2018年11月19日月曜日
追憶 2234
しかしながら、人生を考察すれば、教科書通りにはならないことを理解することが出来る。
なぜなら、わたし達の人生というものは、それぞれの特注品だからである。
人生は、一つとして同じものは存在しない。
それは、一人として同じ人物が存在しないからである。
人は、それぞれに異なっているのに、人生やその生き方が同じであるはずがない。
宗教のように皆が同じことをしても、人生を果たすことなど出来ないのである。
誰かの真似をしたところで、あなたが満足を得ることはない。
誰かの真似をすれば、不満を抱えることになってしまうのだ。
宗教に携わっている多くの人が、いつまでも不満を抱えて生きているのは、自分の人生を生きてはいないからなのである。
2018年11月18日日曜日
追憶 2233
宗教は、人の最善の生き方を否定しているように思えて仕方がない。
思考停止に陥(おちい)っているように見えて仕方ないのである。
宗教とは、哲学的でなければならないと思う。
大抵の宗教は、偉大な人物の偉大な言葉が教典となっているが、それを教科書として丸暗記するだけでは、裏に隠されている真意に気が付くことが出来ないのである。
大切なのは解釈であり、”大声”ではないのだ。
世の中には、声がやたらと大きい者がいる。
そのような者は、図々(ずうずう)しく、態度も大きい。
彼等は、教科書が正しいと思い込んでいるような人物である。
そのため、根拠のない自信を抱くことが出来るのだ。
教科書という多くの人を"納得"させる道具があるために、図々しく、声も大きくなってしまうのである。
2018年11月17日土曜日
追憶 2232
何度も言うが、わたしは宗教を否定している訳ではない。
宗教は歪んでいるものだと思うし、小さな世界だとは思うが、それを必要とする人もいるのである。
わたしが言いたいのは、当たり前の風習に疑問を抱き、より本質的に、より自由になって欲しいということなのである。
より良い方法は、小さな世界の外に幾らでも存在しているだろう。
どのようなことでも、人類は(ある意味で)より良くして来たのである。
新しい発見は絶えることがない。
究極を実現しても、そこからは新たな究極が見えてしまう。
世界には制限が無く、終わりも存在しないように思えるのだ。
風習や伝統を守り、停滞することは最善ではないと思えて仕方がない。
広げるか、深めることが最善なのではないかと、わたしには思えるのである。
2018年11月16日金曜日
追憶 2231
しかしながら、破滅的な状態にある霊体は、お経のような声?を発する。
お経ではないが、お経のように聞こえるのだ。
それは、葬儀の時の和尚達のお経と同じように、わたしには寒気のするものであった。
天使や仏や自然の神々に会う時には、いつも心が洗われるような、清々しい気分になる。
山頂で深呼吸をする時のような良い気分なのだ。
しかしながら、宗教に携わっている人達に会うと、自然と鳥肌が立ち、気分が悪くなってしまうのである。
良いものであれば、このような反応は得られない。
歪んだものであるから、このような反応が得られるのだとわたしは思うのである。
2018年11月15日木曜日
追憶 2230
それは、この世界に歪んだ霊体が存在するからである。
もしも、宗教儀式に霊体や心を浄化する力があるのであれば、歪んだ霊体も歪んだ宗教家も存在しないはずである。
しかしながら、宗教に携わっている人の多くが、大きく歪んでいるように思えて仕方がないのだ。
わたしは、天使が大層な祈りの言葉を並べるのを知らない。
仏がお経を発したことを聞いたことがない。
わたしは天使にも仏にも会うが、彼等は”普通”の言葉で話し掛けてくる。
古臭い言い回しや、難解な言葉で話し掛けられたことは一度もない。
彼等は、わたしに理解し易い言葉でしか話し掛けてはこないのである。
2018年11月14日水曜日
追憶 2229
葬儀には必要性を感じることは出来ても、そこに宗教が入り込む必要性は感じられないのだ。
皆が、故人や遺族を思う気持ちがあれば、それで良いのだと思える。
それ以上に大切なものなど存在しないはずだ。
堕落し、腐敗した宗教家に、形ばかりの長い祈りをされ、その上、非常識な報酬を支払ったところで、故人も遺族も浮かばれないだろう。
葬儀の中で、お経を聞いている時程、苦痛な時間はない。
今日の宗教儀式が正しいというのであれば、故人が和尚達に対して怒りを露(あら)わにすることはなく、感謝するに違いない。
残念ながら、宗教儀式によって霊体が安らぎを得ることはないだろう。
2018年11月13日火曜日
追憶 2228
故人の怒りを無視して、お経は続けられる。
皮肉なことに、故人の怒りに比例するようにしてお経は激しさを増した。
残念ながら、故人の怒りは和尚達には届かない。
例え届いていたとしても、仕事だからやめることは出来ないだろう。
そして、お経によって故人の怒りを静めることが出来るなどと本気で考えてそうである。
葬儀とは本来、故人の冥府(めいふく)を祈る儀式であるだろう。
それと、遺族の気持ちの切り替えのための儀式でもあるのだと思う。
わたしは故人の怒り方を見て、故人と遺族を納得させるために、今日の宗教儀式は必要ないのではないかと思えて仕方ないのである。
2018年11月12日月曜日
追憶 2227
彼は、参列者に挨拶でもしているかのように、にこやかに皆を見渡していた。
その時、司会者の紹介によって、三人の和尚が入場して来た。
彼等は相変わらず豪華な着物に身を包み、背後には黒い煙を引き連れながら、わたしの傍(かたわ)らを通り過ぎて行った。
わたしは、気分が悪くなるのを感じる。
豪華な椅子に重たい身体を預け、彼等はいつものように、誰が作ったかも分からない形ばかりの長く愚(おろ)かな祈りを始めた。
すると、故人の顔色が急激に変化するのが分かった。
目は釣り上がり、口をへの字に結び、顔は真っ赤に燃えていた。
彼は、和尚達のお経を聴き始めた時から、烈火の如(ごと)く怒り始めたのである。
2018年11月11日日曜日
追憶 2226
それは、生前の姿のままで、取るに足らない話をしている時のいつもの穏やかな表情であった。
半透明で後ろの景色が透けて見えていた。
恐らくは、誰も気が付いてはいないだろう。
これは、わたしだけが見ている幻覚なのだろうか?
しかしながら、そのような妄想(もうそう)を思い描いたつもりはない。
そのような願望も持ち合わせてはいないはずである。
わたしは霊的なことを何も期待せず、何も考えずに、故人の生前の写真をただ楽しく観覧していただけなのである。
わたしにとっては、半透明な故人が現れることは想定の範囲外の出来事であった。
そのため、遺影の前の半透明な故人が、わたしの妄想が見せる幻ではないと思うのである。
2018年11月10日土曜日
追憶 2225
もう一つ例を挙げよう。
これは、わたしが知人の葬儀に参列した時の話である。
故人は、わたしの父親の同級生であり、同じように海の仕事をしていた。
わたしも度々、彼に雇われて仕事を手伝ったものである。
彼は癌(がん)によって、50代で亡くなった。
早く感じてしまうが、これも寿命なので仕方ないだろう。
葬儀には、多くの人が参列していたが、わたしは会場の中程に座った。
それは、若かりし頃の写真による故人の紹介が前方のスクリーンで行われた後だった。
穏やかな表情をした故人が、遺影の前に現れたのである。
2018年11月9日金曜日
追憶 2224
実際、宗教に携わっている人達は、その状態に対して疑いを持たない。
仲間がいることによって団結力が生まれ、寧(むし)ろ歪みが強化されるという状態に陥っているとも思える。
残念ながら、宗教に携わっている人達の考えは歪んだままで固まっている。
それは、世界が狭いためだ。
本来ならば、皆が良いというものなど、この世界には存在しないはずである。
それは、多様性こそが、この世界の在り方だからだ。
宗教は、多様性を認めない。
それは、統制が取れなくなってしまうからである。
皆が同じ考えによって、同じことをしなければ、宗教という集団を維持することが出来ないのである。
2018年11月8日木曜日
追憶 2223
皆が良いというものが、必ずしも良いとは限らない。
多くの人には良いことも、自分には良くないかも知れないのである。
人生は、多数決で決められるようなものではない。
それは、人生の目的がそれぞれに異なっているからである。
皆と同じように生きることでは、人生の目的を果たすのは難しいだろう。
それは、自分は右に進まなければならないのに、皆と一緒に左に進むようなものだからだ。
宗教を含めた同調圧力を有する集団の中にいれば、自分の人生を歩もうとしても、否定されるのである。
寧(むし)ろ、自分の人生を歩もうなどと思うこともないかも知れない。
依存することや脱退することが出来ないことによって集団に属すれば、自分の人生を失ってしまうのである。
2018年11月7日水曜日
追憶 2222
それは、無知と未熟と弱さによってである。
無知とは、偏見のことである。
未熟とは、誤解のことだ。
そして、弱さとは、恐怖のことなのである。
多くの人は、偏見と誤解と恐怖を抱えて生きている。
それは、悪いことではない。
それは、仕方の無いことなのである。
多くの人は、年齢を重ねる程に幼心を忘れてしまった。
好奇心に従って世界を冒険することよりも、安全な部屋の中で書籍を読み漁ることを選んだのである。
多くの人が、流れに沿って生きている。
揉め事を嫌い、民主主義的であるだろう。
2018年11月6日火曜日
追憶 2221
そのことが、多くの人には理解することが出来ない。
多くの人は、権威(けんい)に対して主導権を明け渡す。
自分で考えることをせず、誰かや何かに従うのである。
それは、”それ”が一般的に良いとされているからだ。
一般的に良いとされていることに従うことによっては、他者と同じという何の根拠も無い安心感を得ることが出来る。
誰が言い出したかも、やり出したかも分からない方法によって、自らの愚かさを慰(なぐさ)めているのである。
葬儀(そうぎ)で、立派な衣装に身を包み、上等な道具を用い、大衆には理解することの出来ないお経を”合唱”し、煩(うるさ)く太鼓やシンバルを鳴らす・・・
そして、多額の金銭を要求する。
それを行っているのは、邪心(じゃしん)に塗(まみ)れた歪んだ人間である。
ただ、死者を弔(とむら)うだけのことが、このように複雑に歪んだ状態になったのはなぜだろう?
2018年11月5日月曜日
追憶 2220
気持ちがあれば、決められた方法など必要ないのである。
決められた方法を用いても、気持ちが無ければ価値はないだろう。
霊とは、心である。
霊に届くのは方法ではない。
霊には、気持ちが届くのである。
特別な方法で供養しても、そこに気持ちが伴(ともな)わなければ供養にはならない。
特別な方法で供養することが出来たというのであれば、そこに気持ちがこもっていたことによる効果だと理解しなければならないだろう。
霊を供養するのに必要なのは気持ちだけであり、特別な方法を用いる必要はないということなのである。
2018年11月4日日曜日
追憶 2219
今日の宗教というものは、正義感の塊(かたまり)である。
一神教において、正義感は顕著(けんちょ)であるが、多神教においても、隠されてはいるが同じことなのだ。
例えば、死者を弔(とむら)う方法などは、個人の好きにすれば良いはずだが、今日の宗教はそれを許さないだろう。
決められた方法を消化しなければならないのである。
それが、どのように滑稽(こっけい)で無意味なことであってもだ。
実際、今日の宗教が行なっているすべてが、無意味だとは言わないが滑稽である。
なぜなら、死者を弔うために必要なのは、死者を弔う気持ちだけだからである。
2018年11月3日土曜日
追憶 2218
人は、この世界を構成する一つの部品である。
人は、それぞれがこの世界を構成し、可動させるための大切な部品なのだ。
部品は、それぞれに連動する構造をしている。
自らの働きが、他者の働きへと伝達する。
そのため、動きの悪い部品によっては、全体を機能させることは出来ないのだ。
この世界は本来、もっと豊かであり、平和であるはずだ。
しかしながら、多くの人は、詰まらないことで争っている。
残念ながら、詰まらない正義感によって争うのである。
2018年11月2日金曜日
追憶 2217
錆び付いたネジは、主人に対して反抗する。
主人とは、”神”と呼ばれる存在であるかも知れないし、人生というものであるかも知れない。
社会であるかも知れないし、家族であるかも知れないし、他者であるかも知れないし、自分自身であるかも知れないのである。
自分自身というのは、生まれた後に虚像として作られた自我のことではなく、生まれる前から実像として所有している真我(しんが)のことである。
残念ながら、多くの人は、自らの本分を忘れ、主人に反抗している。
利己的に生きることは、人の生きるべき道ではないのである。
2018年11月1日木曜日
追憶 2216
わたし達人間が、ネジを道具として扱うように、例えば、”神”と呼ばれる存在は人間を道具として扱うだろう。
わたしには、そう思えるのである。
人間は、”神”の道具だと思えて仕方がない。
エンジンが、燃料を使い果たすか、故障して動かなるまで働き続けているように、人間も命を使い果たすまで生き続けている。
”神”の目的は分からないが、道具は、道具として貢献する必要があることは理解することが出来るのである。
自分が”ネジ”であるにもかかわらず、それを理解することが出来ない者は、本分(ほんぶん)を見失って錆び付いてしまう。
それでは、空しいのである。
2018年10月31日水曜日
追憶 2215
住職も、いつかは変化の時を迎え入れなければならないだろう。
それは、いつか必ず訪れるが、その時には大きな苦しみを必要とするに違いない。
なぜなら、人生の大半の時間を小さな世界に停滞することへと費やしてきたからである。
その反動は大きいだろう。
錆(さ)び付いたネジを回すには、大きな力と代償(だいしょう)を必要とする。
ネジは定期的に回さなければ、錆び付いて固着してしまうのである。
それでは、仕事を果たすことは出来ないだろう。
ネジは、固定することも仕事であるが、取り外せることも大切な仕事なのである。
錆び付いたネジには価値が無い。
人はそれを捨ててしまうのである。
2018年10月30日火曜日
追憶 2214
わたし達は、嫌でも変化を受け入れなければならない。
変化を食い止める術はない。
それは、人が無力であるからだ。
変化を否定し続けるのであれば、強制的に変化が行われるのである。
強制的な変化が行われるのは望ましくない。
なぜなら、その時には強い感情の揺らぎを経験しなければならないからだ。
強制的な変化の時には、怒りや悲しみが渦巻き、心は苦しみに支配されてしまうだろう。
閉ざされた心は、無理に開かれるのである。
変化を否定し続けた人の心は、強制的な変化に対応することが出来ないのである。
2018年10月29日月曜日
追憶 2213
猪が石垣を崩すのは、住職にとっては一つの失敗であり、変化であるだろう。
駐車場に車を止められるのも同じことである。
どちらも、住職にとっては気分の悪いことであり、受け入れ難いことなのである。
そのために、駐車場にバリケードを張り、みかん畑に向かってラジオを四六時中聞かせ続けているのである。
住職にとって、それ等を受け入れることは現状を否定し、変化を受け入れることなのだ。
住職は変化を嫌っている。
自分自身の欲に従って、失敗することも、気分を害することもない、安全な場所にいたいのである。
気持ちは分からなくもないが、それでは世界が狭まってしまうだろう。
つまりは、成長を否定することなのである。
2018年10月28日日曜日
追憶 2212
人が失敗するためには、未知に対して挑戦しなければならない。
なぜなら、既知(きち)に対して失敗することは難しいからである。
失敗をしない方が気分は良い。
しかしながら、それでは、停滞するだけなのだ。
成長とは、変化することである。
変化するためには、失敗しなければならないのである。
失敗は、気分を悪くする。
本能が反射的に失敗を拒絶するが、理性によって受け入れなければならないだろう。
本能は停滞を求めるが、わたし達は、理性によって変化を実現しなければならないのである。
2018年10月27日土曜日
追憶 2211
例えば、机の上で勉強ばかりを続けた人間の価値観や考え方は偏ってしまう。
様々な知識を所有したとしても、それは、成長ではないのだ。
成長を実現するためには、机から離れた遊びから学ぶことも必要なのである。
知識だけでは成長を実現することは出来ない。
成長を実現するためには、知識の支えとなる経験が必要なのだ。
経験とは、実践のことである。
様々な実践を経験しなければならないだろう。
宗教というのは、戒律(かいりつ)によって行動を制限する。
行動を制限することが、“良い”人を育むという考え方なのだ。
悪いことをしない方が、良い人を育てるためには近道であるように思える。
しかしながら、成長というものはそう単純なものではない。
成長への近道は、悪いことをして失敗したり、苦渋(くじゅう)を得なければならないのである。
2018年10月26日金曜日
追憶 2210
幼子にとって大切なのは、親から離れることである。
親から離れる時に、幼子は大きな世界を得るのだ。
幼子が成長を願うのであれば、親から離れることが必要である。
人が、成長するためには、小さな世界(価値観や考え方)を離れなければならない。
小さな世界では成長は限られてしまう。
それは、鉢の中で育つ樹木と同じである。
根が鉢の中で詰まれば、それ以上の成長は出来ないのだ。
鉢の中で育つ樹木は、小さいのである。
宗教に携わっている人が成長するためには、宗教から離れなければならないのである。
離れてみなければ、自由を得ることは出来ないだろう。
根を伸ばして様々な価値観や考え方に触れなければ、成長を実現することは出来ないのである。
2018年10月25日木曜日
追憶 2209
善悪の対立を受け入れなければ、宗教という集団を維持することは出来ない。
敵がいるから一致団結することが出来るのであるが、それは、弱い者の捻(ひね)くれた根性であると思えて仕方がないのである。
敵がいなければ、それぞれが自由に行動することが出来るだろう。
人見知りをしない子どもは、親を離れてどこへでも行ってしまう。
そこには、恐怖心に勝る好奇心が存在しているのである。
敵がいれば、子どもは親を離れることが出来ない。
それと同じことが、宗教という環境で行われると、信者は宗教の教義や集団を離れることが出来ないのである。
2018年10月24日水曜日
追憶 2208
争いの無い島に争いが持ち込まれたのである。
宗教観は、純粋な人の心に善悪を植え付けてしまう。
本来の宗教観とは真逆なのだが、今日の宗教は世界を善悪に分断することによって、集団を維持しているのである。
善の世界に住みながら、悪の世界を否定する。
世の中には、特定の宗教観とは異なる価値観の方が多いために、必然的に宗教の主張する善というものは小さな世界観になってしまうのだ。
袈裟(けさ)を身に付け、経を唱え、寺に籠(こ)もり、戒律(かいりつ)に縛られて生きている人が、どのくらいの割合でいるだろうか?
そのような価値観に従わない人の方が多いのは、それが最善の道ではないと判断した人が多いということなのである。
2018年10月23日火曜日
追憶 2207
人が争わずに生きるためには、すべての主張を許容する価値観が必要なのである。
しかし、残念ながら、そのような価値観を現状の人類は見出してはいない。
争いが続いているのは、価値観の規模が小さいからに他ならないのだ。
宗教の歴史は、ある意味争いの歴史である。
人は、宗教が無くても争っていただろうが、宗教によって争いが激化したことは事実であるだろう。
肉食獣のいない島の動物には警戒心が”無い”。
それは、草食動物が基本的には互いに干渉しないからである。
そのため、人間が肉食動物を持ち込むと、その島の動物は簡単に全滅してしまう。
2018年10月22日月曜日
追憶 2206
今日の宗教は、敵から身を守るために仲間を増やしているように見える。
そして、相手の主張を認めず、自分達の主張を受け入れさせることが最善だと考え、世界(観)は広げないままに、人を押し込めようとしているのである。
特定の宗教に収まり切る程、人の主張は小さなものではない。
特定の世界観に収まり切らないために、争いが生じているのだ。
人類が、争い続けているのは、小さな価値観の中で生きているからである。
普段は穏やかに昼寝をしている野良猫も、小さな檻(おり)に捕らえると暴れ狂う。
それは、人間にも同じことが言えるのである。
2018年10月21日日曜日
追憶 2205
武装することは、不自由になるということである。
弱い者は、武装することで身を守ったつもりでいるが、それは誤解なのだ。
身を守るというのは、争うことではなく、共存することなのである。
争っているのであれば、身がもたない。
敵が存在しないのであれば、身を守る必要もないのである。
仲間によって守られるということもあるのだ。
世の中には、違う考え方の人達がいる。
彼等は決して敵では無い。
人は分かり合えないかも知れないが、分け合うことは出来るのである。
小さな世界の中の小さな価値観を生きていれば、分け合うことが出来ずに、奪い合ってしまうだろう。
残念ながら、今日の宗教はそのような価値観を育んでいるようにも思えるのである。
2018年10月20日土曜日
追憶 2204
“裸”に成る以外には、自分自身や人生を理解することは出来ない。
今日の宗教は、弱者の救済を謳(うた)ってはいるものの、武具としての役割を果たしているようにも思える。
弱者が宗教という拠(よ)り所で武装し、目の前の問題と向き合っているように思えるのだ。
武装しているのだから、争うのは当然である。
住職が傲慢(ごうまん)に陥(おちい)り、他者を恫喝(どうかつ)するのは、彼が弱者であることと、宗教によって武装しているためであろう。
弱者は恐れている。
“裸”に成ることは、不利を得ることだと思い込んでいるのだ。
2018年10月19日金曜日
追憶 2203
宗教の矛盾がそこにある。
もちろん、個人の資質によるだろうが、在家者が出来て、出家者が出来ないというのであれば、宗教などは害悪(がいあく)でしかないだろう。
動機はどうであれ、住職は少なからず仏の道を志(こころざ)した人物である。
仏の道とは、解脱(げだつ)の道であるだろう。
しかしながら、住職は、誰よりも俗物(ぞくぶつ)であるように思えて仕方がない。
残念ながら、今日の宗教の在り方では、人を解脱させることは出来ないだろう。
それは、”詰まらない”規則に縛られているからだ。
しかも、その規則が理(り)に叶ってはいない。
宗教の規則というものは、不自然なことばかりなのである。
念仏を唱(とな)えたからといって、人生を理解することが出来るだろうか?
滝に打たれたからといって、髪を剃ったからといって、袈裟(けさ)を身に付けたからといって、自分を知ることが出来るだろうか?
2018年10月18日木曜日
追憶 2202
住職は、寺(宗教)から離れなければ、世界の広さを知ることは出来ない。
寺を離れ、個人として存在しなければ、悟りを得ることは出来ないのである。
寺に所属し、住職という立場を貪(むさぼ)っているのであれば、これ以上の成長を実現することは不可能であろう。
赤子が立ち上がるのは、赤子にとっては難しいことではあるが、人の一生に照らしてみれば簡単なことである。
住職が成長することは、住職にとっては難しいことではあるだろうが、それは、取るに足らないことなのだ。
不正を働かず、思い遣りに根差して生きることは、在家者(ざいけしゃ)でも行うことの出来る簡単なことなのである。
それこそ、赤子が立ち上がるくらいのことなのだ。
2018年10月17日水曜日
追憶 2201
青虫は、成長して蝶になり、羽ばたいて大空に飛び立つことによって初めて、世界の広さを知る。
青虫が生きているのは、自分にとっては巨大ではあるが、世界にとっては小さな植物の枝の先の、更に小さな葉の上なのである。
枝を離れなければ、世界の広さを知ることは出来ない。
羽を持ち、大空に羽ばたいて初めて、青虫は世界の広さを知るのである。
青虫として足元の葉を貪(むさぼ)っている間は、世界の広さを知ることもなければ、自分が取るに足らない小さな存在であることも知ることは無いだろう。
2018年10月16日火曜日
追憶 2200
残念ながら、今回の人生において、住職が悟ることは無いだろう。
住職は、宗教という小さな世界を生きたことで、誰よりも盲目(もうもく)になってしまったのである。
本来ならば、盲目的に生きている人を導かなければならない立場にある人物である。
しかしながら、現実は、檀家の人達の足を引っ張っる存在へと成り下がってしまっているのだ。
残念ながら、宗教というのは、その程度のものである。
宗教という小さな世界の中に生きている間は、決して悟ることは出来ない。
それは、小さな葉の上に生み落とされた青虫と変わらないからである。
2018年10月15日月曜日
追憶 2199
そのような人間が、悟ることは出来ないだろう。
何かに対して理解を深めることも、何かを完成させることも出来ないだろう。
残念なことに、そのような人間程、声や態度が大きいのである。
“弱い犬程よく吠える”という言葉があるが、住職はそれを体現している人物なのではないだろうか?
小さな世界を生きていると、他者との関わり方を見失ってしまう。
他者とは、別の意見を生きる人のことである。
人は、異なる意見を生きるのが自然だ。
それを認めることが悟りであるだろう。
2018年10月14日日曜日
追憶 2198
傲慢(ごうまん)に陥った老人が、自分を改めることは難しい。
それは、そのような方法によって、これまでを生き延びることが出来たからだ。
生き延びることが出来るということは、その生き方が正しいという誤解を生じさせるのである。
住職は決して、人の意見を受け入れないだろう。
それは、自分が正しいと思い込んでいるからである。
これは、厄介(やっかい)な病だ。
我が儘(まま)に育てられ、視野の狭い人間を、更生することは難しい。
それは、これまでに物事が思い通りに進むという体験を繰り返して来たからだ。
そのような人間は、騒げば主張が通ると思い込んでいるのである。
2018年10月13日土曜日
追憶 2197
わたしは、住職を哀れに思う。
それは、彼が井の中の蛙(かわず)に思えるからだ。
小さな世界で威張(いば)り散らしても、空しいだけなのである。
井の中で傲慢(ごうまん)に生きるよりも、大海(たいかい)で謙虚に生きる方が、人格としては優れているだろう。
人は人格を高めるために生きていると思うのである。
そのためには、“無知の知”を知ることが求められるのだ。
自分が何かを知っていると思い込み、傲慢に陥(おちい)るのであれば、それ以上の成長は見込めないのである。
残念ながら、住職はそのような状態に陥っているだろう。
年齢を考えると、彼が謙虚さを身に付け、これ以上に人格を高めることは難しいだろう。
2018年10月12日金曜日
追憶 2196
組織に所属していても、思慮深く、尊敬に値する人は数多くいるだろう。
個人的に活動している人であっても、思慮が浅く、軽蔑の対象となる人は数多くいるのである。
結局は、自分自身がどうするか?ということであろう。
今日の宗教の教義は、偏見と誤解に満ちたものであるだろう。
そのために、世界が限定される。
住職の過去は知らないが、父親も住職をしていたために、若くして後を継いだのではないだろうか?
他の職業や、様々な立場を経験していれば、あそこまで傲慢(ごうまん)に陥らずに済んだのではないだろうか?
檀家(だんか)の年寄り連中は、住職ということで無条件に祭り上げる。
様々な条件が重なって、勘違いを発症してしまったのであろう。
2018年10月11日木曜日
追憶 2195
組織が、末端の人間を完全に管理することなど不可能である。
末端どころか、幹部であっても管理することは出来ないだろう。
そのため、住職の振る舞いを許している本寺にも責任があるだろうが、やはり、住職の個人的な責任が大きいと思うのである。
その組織に所属するすべての人間は、その組織の看板を背負っている。
それは、個人としての名前を失うことが、組織に所属するということだからだ。
ジブリ映画に、少女が温泉宿の主人に名前を奪われるという作品があったが、組織に所属するということは、ある意味では滅私奉公(めっしぼうこう)の契約(けいやく)なのである。
住職は一個人ではあるが、その宗派の一員である。
自分勝手に振る舞いたければ、組織を離れ、個人的に責任を負って行わなければならないだろう。
2018年10月10日水曜日
追憶 2194
宗教家は、無知や臆病な人の不安を煽(あお)る。
それは、顧客にするためだ。
現代の宗教において、信者は顧客に過ぎないだろう。
顧客という表現は優しいかも知れない。
なぜなら、一般的な企業は顧客を丁重に扱うからだ。
しかしながら、宗教家は信者を丁重に扱ってはいないだろう。
少なくても地元の寺には、そのような態度は確認することが出来ない。
普通に考えれば、寺を利用する人に駐車場を開放するはずである。
しかしながら、地元の寺では、入口の段差も大きく、元は畑であった舗装もされていない草だらけの空き地に駐車させるのだ。
そして、普通の人ならば気にならないことや、感謝するべきことにも腹を立て、気に食わないことがあれば所構わずに怒鳴り付け、更なる不安で脅(おど)すのである。
地元の寺の住職は特例であると信じたいが、それを許している のはこの寺の本寺(ほんじ)なのである。
2018年10月9日火曜日
追憶 2193
言葉は、価値を持たない。
価値は、行為によって示されるのである。
住職の行為は、誰が見ても外道であるだろう。
ここでは書くことの出来ない行為が幾つもあるのだ。
しかしながら、寺の掲示板に書かれた言葉はとても美しい。
言葉は美しさを語り、行為は醜態(しゅうたい)を晒(さら)しているのである。
言葉と行為のどちらを信じれば良いだろう?
詐欺師の言葉と行為のどちらを信用するだろうか?
答えは明白である。
残念ながら、言葉には価値がない。
価値があるのは行為なのである。
その人のことを知りたければ、言葉ではなく、行為を見ることである。
2018年10月8日月曜日
追憶 2192
自分勝手に判断することは悟りではない。
それは、”神”への信仰でもなければ、仏の道でもないのである。
これは、後に聞いた話ではあるが、駐車場は寺の土地ではなく、住職の所有する土地であるそうだ。
自分の土地をどうしようが住職の勝手だが、寺に訪れる人の車を小一時間停めさせることくらいのことはしても良いだろう。
檀家(だんか)制度がなければ、寺など成り立たないのだから、それは当然のことだと思うのである。
住職は、欲深い人物であると思える。
自分の欲望に従い、善悪を定めているが、それが常識を逸脱(いつだつ)しているのである。
仏の道を歩んでいるはずの住職が、仏の教えの反対を行なっているのは皮肉である。
2018年10月7日日曜日
追憶 2191
それは、”神”も悟りも特定の場所に停滞することがないからだ。
”神”や悟りというものは、”すべて”であるだろう。
木製や銅製の像も”神”や悟りの一部であるのかも知れないが、猪や崩れた石垣も”神”や悟りであると思えるのである。
わたしには、”すべて”を冷静に観察することが出来る状態こそが悟りであると思える。
物事に優劣を決め付けないことこそが重要であるだろう。
なぜなら、わたし達には判断することが出来ないからだ。
猪が石垣を崩すことの是非(ぜひ)は、誰にも判断することが出来ないのである。
猪が石垣を崩すことによって、住職には理解することの出来ない別の問題を回避していたかも知れないのである。
2018年10月6日土曜日
追憶 2190
崩れた石垣を眺めていると、後から来た家族がわたしに追い付いた。
そこからは、一緒に坂道を登り、四角い石に形だけの参拝をした。
先祖のことは大切に思うが、わたしの中では先祖と墓石が繋がらないのである。
祖父が生前に愛用していたものに面影を見ることはあっても、墓石からは何も思い浮かばないのだ。
それなのに、どういう訳か皆は墓石を祖父のように考えているようである。
どこにも祖父の姿は見えないのに…
物を大切にする気持ちは大切だとは思うが、それぞれを区別する必要があるだろう。
例えば、木製や銅製の像を一心不乱に拝んだところで、悟りを得ることなど出来るはずがないのだ。
2018年10月5日金曜日
追憶 2189
猪が石垣を崩すのは、自然の成り行きである。
放置された畑よりも、山である方が豊かであるだろう。
人が自分の都合で見なければ理解することが出来るはずである。
人は、人間以外の生命に支えられて生きている。
人間だけが利益を得ようと考えれば、人間以外の生命が損失を得るだろう。
もとより、わたし達は自然環境から土地を借りているに過ぎない。
借りている土地を、自分のものだと居直(いなお)っているのだ。
その傲慢(ごうまん)な態度が、愚かさであることに気が付かないのである。
2018年10月4日木曜日
追憶 2188
人は、支え合って自然である。
なぜなら、その時に心の平安がもたらされるからだ。
互いに協力し、補(おぎな)い合うことによってのみ、人の心は満たされる。
自分勝手には、心を満たすことは出来ないのだ。
人は、自然の中を生きている。
人は、自然環境に対して協力しなければならないのだ。
自然環境に対する協力を拒絶し、自分勝手に振る舞うことは、自らの足場を崩すことである。
それは、自然環境の状態が、そのまま自分自身の状態であるからだ。
人は、自分以外の何かとの関係性の中に生きている。
そのバランスが保たれている時が豊かさなのである。
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2018年10月3日水曜日
追憶 2187
仏の道とは、解脱(げだつ)の道であるだろう。
解脱とは、作為から無為(むい)へ、不自然から自然へと到達した姿であると思える。
作為や不自然を手放した状態こそが解脱なのではないだろうか?
ミカン畑は、人の手を離れて荒れている。
それは、必要とされていないということである。
住職は、恐らく、寺の敷地とミカン畑を隔てる溝の石垣までも崩され、自分が被害を受けることを恐れているのだろう。
人生においては、自分が損失を得ることなど当たり前のことである。
自分のお金が減ることを恐れているのであれば、他者の商品を盗む以外に方法はないだろう。
それが不自然な行為であることは、周知の事実である。
自分が損失を得ることは、自然なことだ。
それは、誰かや何かに利益を得させることだからである。
2018年10月2日火曜日
追憶 2186
荒れたミカン畑と、石垣に関係する人にとっては、猪は厄介な存在であるだろう。
それは、猪に石垣を崩されることは都合が悪いからである。
崩れた石垣を修理するのは、とても骨の折れる仕事であるのだ。
しかしながら、それは、一方的な見方であると思えて仕方がない。
猪や自然からすれば、恐らくは、ミカン畑というものは都合の悪いものであろう。
ミカン畑もやがては自然に帰ることを見れば明らかである。
猪や自然にとっては、周囲の森と同じような環境である方が都合が良いと推測するのである。
2018年10月1日月曜日
追憶 2185
"普通"の人の行為ならば、わたしは何の疑問も持たなかっただろう。
わたしが疑問を抱いたのは、これが仏の道を志す人の行為だったからである。
"枯れ木も山の賑(にぎ)わい"という言葉がある。
少し解釈は異なっているかも知れないが、この世界には自分にとって都合の良いことばかりが実現する訳ではない。
どちらかといえば、自分にとって都合の悪いことの方が多く実現するようにさえ思える。
この世界には、都合の良いことと、都合の悪いことの両方が存在して自然であり、それが豊かさを成り立たせているように思えるのである。
自分の都合で見れば、世界は歪んでしまう。
枯れ木を許さなければ、山は豊かさを成り立たせることが出来ないのである。
2018年9月30日日曜日
追憶 2184
現在、寺には住職しか住んでいない。
恐らくは、ミカン畑に対してラジオを聞かせているのは住職であろう。
わたしは疑問を抱えながらも、お墓へと通じる坂道を進むことにした。
すると、住職の"奇行"の原因だと思われるものを見付けた。
それは、所々が崩れた畑の石垣であった。
これは、猪による被害であるだろう。
良く見ると、畑も耕されたように全体的に土が盛り上がっている。
ミミズでも探したのであろうか、草が根ごとひっくり返っているのである。
恐らくは、猪除けのためにラジオをつけているのだろう。
2018年9月29日土曜日
追憶 2183
建物の死角で、誰かが会話しているのだろうか?
歩を進めるにつれて、会話がラジオから流れる音であることに気が付いた。
誰かが聴いているのだろうと思って建物を曲がってみたが、そこには誰の姿もなかった。
不思議に思い音源を追ってみると、見上げた先の窓が開いており、そこにラジオが外向きで置かれているのが見えた。
ラジオは部屋の中ではなく、外に向けられているのである。
わたしは不思議に思って、音の向かう先を見るが、そこには山の斜面を切り開いて作られたミカン畑の残骸が確認出来るだけである。
それは、人の手を離れて何年も経過したような荒れた畑である。
ミカンの木は大半が枯れ、ちらほらとぶら下がるオレンジ色の果実はとても小さく、痩せて今にも干からびそうであった。
ラジオは、ミカン畑の有り様とは対照的に、明るい話題を振り撒いていた。
2018年9月28日金曜日
追憶 2182
住職の読経(どきょう)が終わった。
その瞬間に、わたしは一人席を外し、急いで外へ向かった。
それは、深呼吸がしたかったからである。
廊下に出て、胸一杯に外の新鮮な空気を吸い込んだ。
そして、肺の中の"スモッグ"を力一杯に吐き出した。
そのせいか、少しだけ気分が良くなった気がした。
後ろでは、祖母が住職と話す声が聞こえる。
わたしはそれを無視して靴を履いた。
この後に、寺の裏山にある祖父の墓に参ることを知っていたからである。
わたしは皆よりも一足早く、一人で祖父の墓に向かうことにした。
鐘を横目に、本堂に隣接する住職の住宅を抜けて、墓へと通じる坂道へと近付いた。
すると、どこからともなく、人の話す声が聞こえてきた。
耳を澄ますと、建物の陰になっている墓へと通じる坂道から聞こえてくるようである。
2018年9月27日木曜日
追憶 2181
それは、所有によっては満たされることはなく、それが苦しみを生み出すことを知ったからであろう。
ゴータマのように生きることは容易ではない。
彼のように生きろとも言うつもりはない。
しかしながら、人は、自分のことだけではなく、相手のことも考える必要があると思うのである。
欲に根差して生きることは、決して幸福をもたらさない。
なぜなら、欲の原因は恐怖だからである。
住職は、外道であるだろうが、彼を外道としたのは、自らの抱えている乗り越えることの出来ない恐怖心であったに違いないだろう。
住職は、自らの抱える恐怖心に敗北し、それの言い成りになっていると思えるのである。
2018年9月26日水曜日
追憶 2180
駐車場に三角コーンを置くことには、思いやりを感じることが出来ない。
明確な理由を知らないために、すべては推測であり、偏見と誤解を脱することは出来ないが、駐車場内に車庫を設けていることで、どうしても住職の所有欲のようなものを感じて仕方がないのである。
所有欲から来る縄張り意識のようなものだと思うのだ。
そうでなければ、駐車場を使わせない理由が見当たらないのである。
ゴータマもイエスも、所有よりも与えることを好んだように思える。
ゴータマは釈迦族の王子であり、何不自由ない生活を与えられていただろうが、それでは満たされないことを知った人である。
ゴータマは必要以上を所有することを約束されていたが、彼は自らの意志によってその立場を手放したのである。
2018年9月25日火曜日
追憶 2179
今日の宗教における実力というものは、もしかすると、人の不安を煽(あお)り、恐怖心を植え付け、権威(けんい)や教義に従うことに従順な人を集めたり、育てたりする力になっているのではないだろうか?
宗教の在り方が歪んだ以上、実力の測り方も歪んでいるはずである。
今日の宗教は、実力が増す程に地位や財産を増していく。
それは、ゴータマやイエスが否定したことであるが、宗教の実力者である程にその傾向が強まるように思えて仕方がないのである。
わたしには、宗教というものが、悪魔の管理下にあるように思えるのだ。
今日の宗教が行なっていることは、理の対極であるだろう。
2018年9月24日月曜日
追憶 2178
今日における宗教の目的は、その集団に属する一部の人達が贅沢な暮らしをするためであるだろう。
どの世界でも同じであるだろうが、人の作る集団というものは、大抵が序列(じょれつ)を形成する。
集団に序列は仕方のないことだとは思うが、全体が支え合う体系であれば良いが、一部がその他の大部分から搾取(さくしゅ)するという体系は良い結果を導かないだろう。
しかしながら、今日の宗教はそのように働いているのである。
今日の宗教は、恐らくは純粋な目的を見失い、死を得ているように思えて仕方がない。
それは、まるで死体が食べ物を貪(むさぼ)っているようにしか思えないのである。
2018年9月23日日曜日
追憶 2177
それは、宗教という特殊な世界においては、実力を測(はか)ることが難しいからだ。
スポーツの世界においては、実力を測り易いだろう。
何を以(もっ)て実力とするかは難しいところではあるが、競技における能力、得られる年俸や副収入、協会に対する貢献度、社会に対する影響力など、実力というものは多岐(たき)に渡っているが、比較的分かり易い世界なのではないかと思う。
しかしながら、宗教における実力というものを理解することは難しいだろう。
恐らくは、盲目(もうもく)な人に道を示し、理(ことわり)を示すことが宗教の本来の目的なのではないだろうか?
しかしながら、今日の宗教は本来の在り方ではない。
寧(むし)ろ、本来の目的に反抗しているように思えて仕方がないのである。
2018年9月22日土曜日
追憶 2176
住職に限らず、宗教に携わっている人達の動機は様々なものであるに違いない。
しかしながら、その道を歩み始めた頃には備わっていたであろう純粋な動機は消え失せてしまう。
神仏のために宗教の道を歩み始めることは無いとしても、誰かのために歩み始めることはあるだろう。
しかしながら、そのような純粋な気持ちも、経年劣化してしまうのである。
純粋な動機を保ち続けることは難しい。
それは、誘惑が襲うからだ。
どのような道においても、金銭や名声や地位などという誘惑が寄り添うようになる。
宗教という特殊な集団においては、それが顕著(けんちょ)なものとなるだろう。
2018年9月21日金曜日
追憶 2175
残念ながら、住職は詐欺師に当たるだろう。
それは、外見と中身が一致していないからである。
大切なのは、その人が何を言っているか?ということではなく、何を行なっているか?ということなのだ。
口では偉そうなことを吐いても、実際に行うことが出来なければ嘘吐きである。
口を固く閉ざしていても、何かを行うことが出来る人は信用に値するのだ。
世の中には、嘘吐きが多過ぎる。
それは、弱さに溺れている人が多いからである。
座禅を組み、滝に打たれ、写経を続け、読経を繰り返し、托鉢(たくはつ)をしたところで、弱さを克服することが出来なければ意味がない。
修行を終えて、資格を手に入れたとしても、嘘吐きでは価値がないのである。
2018年9月20日木曜日
追憶 2174
わたしが未熟だからかも知れないが、住職のお経に価値を見出すことは出来なかった。
寧(むし)ろ、時間の価値が損なわれるとさえ思ってしまうのである。
徳の低い人の難しいお経よりも、徳の高い人の簡単な言葉の方に価値を感じるのだ。
徳の低い人が何を言ってもわたしには響かない。
徳の高い人は、何も言わなくてもわたしには響くのである。
反面教師としての価値は十分にある。
間違えてはならない。
価値の変換が必要なのだ。
素直に見てはいけないだろう。
立場や服装に騙されてはならないのである。
詐欺師は、見た目を飾ることは出来るが、中身は飾ることが出来ないのである。
2018年9月19日水曜日
追憶 2173
音程も、声色も、情緒に比べると重要ではないだろう。
大切なのは、本質的なものであって、表面的なものではないのである。
音程が少々外れていても、声色が気に入らなくても、そこに心がこもっていれば、良いものとして認識することが出来るのだ。
それを理解しているから、有名な歌手は楽譜を無視して歌うのである。
大人が様々な技術を駆使して、金のために描いた美しい絵画よりも、子どもが感性を使って、相手のために描いた不格好(ぶかっこう)な"落書き"の方が価値があるのだ。
それが、自然であるだろう。
しかしながら、多くの人は、その価値観を失っている。
常識的な価値に重きを置いてしまい、本当に価値のあるものを見失っているのである。
そのため、徳の低い住職のお経を有難がり、お金を払ってまで聞いているのである。
2018年9月18日火曜日
追憶 2172
住職のお経は、低音の声によって定評があるようだ。
多くの人が、お経"は"良いと言っているのを聞く。
しかしながら、わたしには、そのお経が不快なものでしかなかった。
わたしには、それが雑音にしか聞こえない。
今すぐにでもお経をやめて欲しいとさえ思ってしまうのである。
多くの人は、恐らく、耳(周波数)でお経を聞いているのだろう。
低音で、張りのある声をしているので、多くの人は聞き惚れてしまうのだろう。
それは、カラオケで高得点を取る人の歌を上手いというのと同じであるだろう。
音程を外さずに歌い、声色(こわいろ)も良ければ、多くの人はそれを上手いと思うだろう。
しかしながら、わたしには、そうは思えなかった。
そこには、情緒(じょうちょ)が乏しいからである。
2018年9月17日月曜日
追憶 2171
本堂の中は埃(ほこり)っぽく、靴下越しの畳にはザラザラとした塵(ちり)を感じた。
陽の光の挿し込む部屋は全体的に暗く、襖(ふすま)を開け広げてあっても、空気が淀(よど)んでいるように思えた。
まるで、黒い霧のようなものが立ち込めているようである。
住職からは、黒い煙のようなものが立ち上り、それが本堂の空気を汚しているのだろう。
わたしは、一刻も早く新鮮な空気を吸いたかったが、何か面白いものが見えるかも知れないと思い、もうしばらく様子を見ることにして耐えた。
わたしには、車通りの激しいトンネルの中を歩いているような感覚なのである。
出来れば、この部屋の空気は僅(わず)かでも吸いたくないのだ。
2018年9月16日日曜日
追憶 2170
わたしには、この状況の意味が理解出来なかった。
しかしながら、少なからず祖母には価値のある時間であったに違いない。
わたし以外の人達は、皆"真面目"であるために、何かしらの意味を見出しているのかも知れない。
親戚が集まれる機会と捕らえれば意味も価値もあるだろう。
祖先を大切に思う気持ちを育むのであれば、宗教儀式は必要ではない。
残念ながら、住職は徳の低い人物であるだろう。
なぜなら、徳の高い人物は、わたしには輝いて見えるからである。
住職には、それとは正反対の状態が実現しているのだ。
徳の低い人のお経を聞くことで、霊にも人にも、何か良い作用があるのだろうか?
わたしは母親の横に座ったが、早くも気分が悪くなるのを感じていた。
2018年9月15日土曜日
追憶 2169
境内には、お経と木魚の音が響いていた。
わたしが、その音に引き寄せられるように歩を進めると、本堂の前に見覚えのある靴が並んでいるのが見えた。
わたしも同じように靴を脱いで並べ、本堂へと上り込んだ。
住職の小さく傾いた背中が、木魚の音と連動して動いていた。
それは、住職が片足を痛めているからである。
彼は、普段片足を引き摺(ず)りながら歩いている。
そのため、正座や座禅で座ることが出来ないのであろう。
視線を滑らせると、祖母と両親、そして、叔父一家が並んで座り、神妙(しんみょう)な面持ちでお経を聞いていた。
わたしには、この光景がシュールなものに思えて面白かった。
わたしは客観的にこの光景を見ているのである。
"何のために、この人達はこんなことをしているのだろう?"
わたしの中では、このような言葉が飛び交っていた。
2018年9月14日金曜日
追憶 2168
改めて駐車場を見渡しても、何の問題もないように思える。
法事の時間は指定されているのだから、わたし達が来ることは分かっているはずである。
何か理由があるのだろうが、わたしには分からなかった。
急な石段を登っている時に、石垣の一部が崩れているのを見て、猪の仕業であると以前に聞いたことを思い出した。
頑丈に積まれてある石を鼻で掘り出すのだから、大したものである。
わたしは猪の力強さに感心しながら、太ももの張りに日頃の運動不足を感じ、猪とは対照的な自身の非力さを笑った。
子どもの頃は、駆け上がっていた石段が、30歳を超えたわたしには荒仕事であった。
太ももは悲鳴を上げていたが、それでも、何とか休むことなく石段を登り終えた。
2018年9月13日木曜日
追憶 2167
そこでわたしは、寺の階段の正面に、道を塞ぐ形で車を停めることにした。
滅多に車が通るような場所ではないので、人の迷惑にはならないだろうとの利己的な考えである。
車を降りると、階段の横に掲示板があり、そこには達筆に"自分の身から出たものが、自分を作る"というような住職からの有り難い言葉が書かれていた。
詳しくは覚えていないのだが、おおよそ、そのような内容であった。
わたしは、住職が自分に向けてこの言葉を書いたのだと思ったことを記憶している。
恐らくは、住職に何かを気付かせるために、何者かが住職を使って、でかでかと掲示板に書かせたのだろう。
なぜなら、この言葉を最も目にするのは、他でもない住職本人だからである。
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