“裸”に成る以外には、自分自身や人生を理解することは出来ない。
今日の宗教は、弱者の救済を謳(うた)ってはいるものの、武具としての役割を果たしているようにも思える。
弱者が宗教という拠(よ)り所で武装し、目の前の問題と向き合っているように思えるのだ。
武装しているのだから、争うのは当然である。
住職が傲慢(ごうまん)に陥(おちい)り、他者を恫喝(どうかつ)するのは、彼が弱者であることと、宗教によって武装しているためであろう。
弱者は恐れている。
“裸”に成ることは、不利を得ることだと思い込んでいるのだ。
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