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自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2018年10月7日日曜日

追憶 2191

それは、”神”も悟りも特定の場所に停滞することがないからだ。
”神”や悟りというものは、”すべて”であるだろう。
木製や銅製の像も”神”や悟りの一部であるのかも知れないが、猪や崩れた石垣も”神”や悟りであると思えるのである。
わたしには、”すべて”を冷静に観察することが出来る状態こそが悟りであると思える。
物事に優劣を決め付けないことこそが重要であるだろう。
なぜなら、わたし達には判断することが出来ないからだ。
猪が石垣を崩すことの是非(ぜひ)は、誰にも判断することが出来ないのである。
猪が石垣を崩すことによって、住職には理解することの出来ない別の問題を回避していたかも知れないのである。




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