仏の道とは、解脱(げだつ)の道であるだろう。
解脱とは、作為から無為(むい)へ、不自然から自然へと到達した姿であると思える。
作為や不自然を手放した状態こそが解脱なのではないだろうか?
ミカン畑は、人の手を離れて荒れている。
それは、必要とされていないということである。
住職は、恐らく、寺の敷地とミカン畑を隔てる溝の石垣までも崩され、自分が被害を受けることを恐れているのだろう。
人生においては、自分が損失を得ることなど当たり前のことである。
自分のお金が減ることを恐れているのであれば、他者の商品を盗む以外に方法はないだろう。
それが不自然な行為であることは、周知の事実である。
自分が損失を得ることは、自然なことだ。
それは、誰かや何かに利益を得させることだからである。
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