今日の宗教というものは、正義感の塊(かたまり)である。
一神教において、正義感は顕著(けんちょ)であるが、多神教においても、隠されてはいるが同じことなのだ。
例えば、死者を弔(とむら)う方法などは、個人の好きにすれば良いはずだが、今日の宗教はそれを許さないだろう。
決められた方法を消化しなければならないのである。
それが、どのように滑稽(こっけい)で無意味なことであってもだ。
実際、今日の宗教が行なっているすべてが、無意味だとは言わないが滑稽である。
なぜなら、死者を弔うために必要なのは、死者を弔う気持ちだけだからである。
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