光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2019年12月31日火曜日
追憶 2641
目の前に導かれる状況は、受け入れ難いものばかりであるかも知れない。
しかしながら、それを否定し、放置しているのであれば、いつまでも目の前の状況の形を変えることは出来ない。
形が変わらなければ、苦しみはいつまでも苦しいままなのである。
逃げたとしても、逃げた先で同じ状況が導かれる。
苦しみは解決しなければならない。
なぜなら、人は苦しむために生まれてはいないからである。
2019年12月30日月曜日
追憶 2640
目の前の状況は、それがどのようなものであったとしても宿命である。
それは、避けられないことだからだ。
すべての状況を受け入れる必要がある。
ただし、それは、一時的に受け入れるという意味である。
受け入れた状況をそのままにしておくということではなく、後に形を変えるのだ。
しかしながら、形を変えるためには、一旦(いったん)受け入れなければならない。
会計の終わっていない品物を好き勝手にしてはいけないのである。
2019年12月29日日曜日
追憶 2639
道具が道具として機能するためには、謙虚(けんきょ)でなければならない。
謙虚であるということは、素直であるということである。
道具は、素直でなければ使い勝手が悪いのだ。
使い手の思うままに反応してくれる道具こそが至高であるだろう。
“神”という存在は、宿命という形でわたし達を使う。
宿命に対して謙虚であることが、“神”の道具としての生き方なのである。
2019年12月28日土曜日
追憶 2638
鋼は、“道具”に成ることを求められている。
“道具”に成ることを宿命付けられて生まれた鋼も存在するのである。
鋼は、“道具”に成ることでこの世に生まれた目的に近付くのだ。
人も、“道具”と成るために生まれてくる。
すべての人は、“道具”に成ることを宿命付けられているのだ。
それは、“神”の道具としての宿命なのである。
2019年12月27日金曜日
追憶 2637
心にとっての鍛治(かじ)とは、目の前の状況であり、他者であり、自分自身である。
人生におけるすべてのものが、心を鍛える鍛治と成るのだ。
人生は、心を鍛える鍛冶屋のようなものであろう。
人生は、思い通りにならないことばかりである。
多くの人がそれを嫌うが、思い通りにならないことが心を鍛えるということを忘れてはならないだろう。
2019年12月26日木曜日
追憶 2636
どのような子どもも、他者(親)に期待するだろう。
それが悪いということではない。
人は、誰もが弱い存在だ。
他者に期待するのは当然のことである。
それは、仕方の無いことであろう。
しかし、いつまでも弱いままではならないのである。
わたしは今でも他者に期待してしまうところがある。
わたしの心も弱いのである。
そのため、心を鍛(きた)える余地(よち)は十分にあるのだ。
鋼(はがね)は、鍛治(かじ)に鍛えられることを求めている。
それは、鍛治に鍛えられることによって、鋼は、役に立つ"道具"に生まれ変わることが出来るからだ。
2019年12月25日水曜日
追憶 2635
心を鍛(きた)えるとは、他者に対して期待しないということである。
他者に対して期待することなく、目の前の現実を受け入れ、そこから力強く歩むことだ。
心を鍛えることによって、自力が備わるのである。
幼い子どもの心は、鍛えられてはいない。
それは、不純物を含(ふく)む鋼(はがね)のようなものだ。
そのままでは役に立たない。
それは、他者(親)に期待しているだけだからである。
幼い子どもには自力が備わってはいないのだ。
2019年12月24日火曜日
追憶 2634
それは、鋼(はがね)を鍛(きた)えるのと同じことであろう。
鋼は、熱して叩くことで不純物を取り除く。
熱することもなく、叩くこともなければ、不純物を取り除くことは出来ないし、それではただの鉄の塊(かたまり)である。
鋼は、叩くことで形を変え、役に立つのだ。
人を叩くということではないが、人の心は打たなければならないだろう。
人の心を手付かずのままに放置していれば、不純物が取り除かれることはなく、鍛えられることも、形を変えることもないのだ。
鍛えなければ、鋼も心も役に立たないのである。
2019年12月23日月曜日
追憶 2633
自分を満たすためには、自分でなんとかするしかない。
愛情というものが、自分の内側にしか存在しないということに気が付く必要があるのだ。
例えば、愛情を伝えるために厳しく対応しなければならないことがある。
甘やかすことが愛情であるのならば、精神の育成は容易(たやす)いであろう。
しかしながら、実際にはそのように簡単にはいかない。
甘やかされた人間は、愛情から離れてしまう。
甘やかされた人間は、思惑(おもわく)も虚(むな)しく傲慢(ごうまん)に陥(おちい)ってしまうのである。
2019年12月22日日曜日
追憶 2632
他者に対して、愛情を期待しても無駄である。
誰も、あなたの期待に応えてはくれないのである。
誰も、あなたの期待する愛情を持ってはいない。
そして、誰も、あなたの期待する愛情を与えることは出来ない。
誰も、あなたを満たすことは出来ないのである。
どれだけ努めても、他者を満たすことは出来ない。
どれだけ努めても、他者の期待に応えることは出来ないのである。
2019年12月21日土曜日
追憶 2631
しかしながら、それでも満たされないのである。
なぜなら、親を含めた他者からの愛情というものは、幻想に過ぎないからだ。
多くの人は、愛情を誰かや何かからもらえるものだと考えている。
多くの人は、愛情が外に存在すると思い込んでいるのだ。
残念ながら、愛情というものは外には存在しない。
愛情というものは、自分の内にしか存在しないのである。
それは、自分自身が愛情を認めるか認めないかということなのである。
2019年12月20日金曜日
追憶 2630
親に振り向いてもらえない子どもは、その対象を他人に移す。
無意識の内に、親に対する欲求を他人に対して要求しているのである。
傲慢(ごうまん)に振る舞う人は、愛情を欲している。
それが、親からの愛情ではなかったとしても求めているのである。
本当に欲しているのは親からの愛情であるだろう。
しかしながら、それが得られないために他人からの愛情で代用しようとするのである。
2019年12月19日木曜日
追憶 2629
注目され、愛情を実感している子どもは、振り返ることもなく遊ぶ。
それは、愛情を実感していることによって、見捨てられる心配が無いからである。
愛情を実感している子どもは、遊びに集中することが出来るのだ。
しかしながら、愛情を実感することが出来ない子どもは、親を振り返る。
そして、自分に注目してもらおうと大袈裟(おおげさ)に振る舞う。
しかし、それでも愛情を実感することが出来なければ、我儘(わがまま)に振る舞う。
それは、困らせることによって振り向いてもらおうとしているのである。
2019年12月18日水曜日
追憶 2628
傲慢(ごうまん)に生きる人は、利己的であり、偉そうである。
しかしながら、その原因が恐怖であることを理解すれば、傲慢に生きる人に対して、必要以上に恐れを抱くことはないだろう。
恐れを抱いていることを悟られないために、強がって利己的となり、偉そうに振る舞っているということを理解すれば、傲慢に生きる人も可愛く見えてくるだろう。
それは、一生懸命に虚勢(きょせい)を張る子どものように見えてくるのだ。
子どもが一生懸命に虚勢を張るのは、自分に注目して欲しいからである。
2019年12月17日火曜日
追憶 2627
気が弱そうで、優しそうに見える彼が腰を痛めた原因が、恐怖から生じた傲慢(ごうまん)であると考えれば合点(がてん)がいく。
彼は、何かしらの恐怖を抱えながら生きているのではないだろうか?
多くの人は傲慢に生きている。
大抵の場合、それは怒りの感情として現れる。
そのため、傲慢に生きる人に対しては、恐れの感情を抱くことが多いだろう。
しかしながら、そのような人たちの抱えているものの正体は恐怖なのである。
2019年12月16日月曜日
追憶 2626
恐れは、怒りを誘発(ゆうはつ)する。
恐れを抱く犬が牙(きば)を剥(む)いて威嚇(いかく)することや、今流行りの煽(あお)り運転をするような人たちも、心の奥底に恐怖を抱えているのである。
恐ろしいから防御しなければならず、防御は攻撃として現れるのだ。
それが傲慢(ごうまん)の成り立ちなのである。
恐らくは、彼も傲慢に振る舞った結果として腰を痛めたのであろう。
彼は何かしらの怒りを抱えているであろうが、それよりも先に恐怖を抱えていたということを念頭(ねんとう)に置いておかなければならないだろう。
2019年12月15日日曜日
追憶 2625
それは、見えないもの、理解することが出来ないものを恐れることと同じようなものであろう。
恐れることと、怒ることは同じようなことである。
テレビ番組で、箱の中に手を入れて中身を当てるというゲームがある。
中に入っているものは、何の変哲も無い無害なものであるが、それを当てる人は恐ろしさの余りに悲鳴を上げる。
中身を知っている人たちは、何の変哲も無い無害なものに対して悲鳴を上げる回答者の反応を見て笑う。
見えないものや理解することの出来ないものに対して、大抵の人は恐れを抱くことになるのだ。
2019年12月14日土曜日
追憶 2624
感謝することがなければ、心は歪んでしまう。
心を歪めないためには、感謝するしか方法はないのである。
目の前の現象に対して感謝するためには、その意味を探らなければならない。
意味を理解することがなければ、感謝にまで辿り着かないのだ。
意味が分からないものに対して、人は誤解を抱えることになる。
誤解は、例えば、その心に不平不満を生み出してしまうのである。
2019年12月13日金曜日
追憶 2623
傲慢(ごうまん)によって歪んだ心は、謙虚(けんきょ)によって戻さなければならない。
謙虚とは、弱気のことではない。
感謝することである。
目の前の現象に対して、不平不満を吐くことを傲慢という。
目の前の現象に対して、感謝することを謙虚というのである。
大抵の人は、傲慢である。
大抵の人は、目の前の現象に対して、不平不満を吐く。
それを言葉にしないとしても、心の中で吐いているのだ。
言葉にして吐いたものと、思いとして吐いたものは同じものである。
それは、どちらも心を歪めてしまうからである。
2019年12月12日木曜日
追憶 2622
毎日、少しずつ心を歪めた結果、動けない程の腰の痛みとして現れたのである。
偶然や急に現象が現れることなどないのだ。
例え、水面下であったとしても、そうなるように組み立てられたのである。
違う現象を引き起こすためには、違う材料と方法が必要であるだろう。
少しずつ歪めたのであれば、少しずつ戻さなければならない。
歪みを取り除くためには、同じだけ戻さなければならないのである。
2019年12月11日水曜日
追憶 2621
心は、思考の積み重ねでしか変えることが出来ない。
わたし達は、出来る限り頻繁(ひんぱん)に思考を意識して観察し、改める努力をしなければならないのである。
少しずつでも歪み続けるのであれば、やがては千切(ちぎ)れてしまうのだ。
それは、様々な問題や病であると理解しなければならないだろう。
彼の腰は偶然に痛んだのであろうか?
残念ながら、そのようなことはない。
彼の腰は急に痛んだのであろうか?
残念ながら、そのようなことはないのである。
2019年12月10日火曜日
追憶 2620
この世界においては、実際に行動し、動かしたものしか動かない。
懸命に念じたところで、塵(ちり)一つ動かすことが出来ないのである。
奇跡を願っても、奇跡など起きはしない。
なぜなら、奇跡というものは存在しないからだ。
この世界におけるすべての結果には、必ず原因が存在している。
原因が存在するのに、奇跡など存在するはずがないのだ。
車が曲がったのであれば、曲げたのである。
心が変わったのであれば、変えたのである。
2019年12月9日月曜日
追憶 2619
心を変えるためには、多くの時間と労力が必要である。
心は簡単には変わらない。
誰も、心を簡単に変えることは出来ないのである。
少しずつ時間と労力を掛けて変えていかなければならない。
心の方向を修正するのは、大掛かりな仕事なのである。
何かを成すためには、辛抱強(しんぼうづよ)くなければならないだろう。
多くの人は、一攫千金(いっかくせんきん)を夢見ているだろうが、それは現実的な方法ではないだろう。
速い速度で走行する車を曲げるのに、奇跡を願ってハンドルを切ってはならない。
道の形状や路面の状態を確認し、しっかりと減速し、荷重移動を考慮し、タイヤの接地を気にしながら、ゆっくりとハンドルを切らなければならないのだ。
2019年12月8日日曜日
追憶 2618
考え方を改めるためには、冷静でなければならない。
あれこれと思考を忙しく働かせるのではなく、穏やかに考えるようにするべきなのである。
考え方を再構築するためには、考える時間が必要だ。
そして、考え方を再構築するためには、これまでとは異なる思考が必要なのである。
真っ直ぐに走っているだけなら、何の変更も必要ないだろう。
しかしながら、曲がるためには様々に考えなければならないのだ。
様々に考えなければ、安全に曲がることは出来ないのである。
2019年12月7日土曜日
追憶 2617
心の方向を修正するためには、考え方を改めなければならない。
心は、直接的に改めることが出来ないのである。
人に改めることが出来るのは思考だけだ。
思考も、改めることは容易(ようい)ではないが、それ以外に方法が無いのである。
思考を一気に改めることは出来ない。
急ハンドルを切っても、車は曲がらないのである。
横滑りをして、事故を起こすのが結末であろう。
車を安全に曲げるためには、十分に減速してから、余裕を持ってハンドルを切らなければならないのである。
2019年12月6日金曜日
追憶 2616
心が自我意識に支配されないためには、心の管理が必要である。
心の管理とは、心を気にして生活することだ。
ただ、それだけのことではあるが、それだけのことが大切なのである。
心は、人生という長い旅路を進んで行く。
心は、目的地を目指しているのだが、その歩みは不安定なものである。
酔っ払いの人のようによろめきながら進んで行く。
心というものは、迷いの中に存在しているのだ。
何か問題が起きれば、簡単に揺さぶられてしまうのである。
心を目的地に向けて進ませるためには、こまめに方向を修正してやる必要があるのだ。
2019年12月5日木曜日
追憶 2615
刃物は、錆(さ)びないように管理しなければならない。
使ったらすぐに水気を拭き取り、錆びないように気を付けなければならないのである。
そして、切れ味が落ちれば、研がなければならない。
放っておいても良いことはないのだ。
心の管理も、刃物と同じように気を付けなければならない。
自我意識は、刃物の錆と同じように内側から生じる。
心の中には、自我意識が存在しているのである。
どれだけ鍛錬(たんれん)された刃物も、放っておけば錆に覆(おお)われてしまう。
同じように、どれだけ美しい心も、放っておけば自我意識に支配されてしまうのである。
2019年12月4日水曜日
追憶 2614
自我意識は、小さなひび割れからでも侵入する。
大抵の場合、それは、少しずつ染み込んで来るので気が付くことは難しい。
気が付いた時には罪の虜(とりこ)に成っているのである。
小さな錆(さび)も放っておけば、やがて全体を覆(おお)う。
錆で覆われたら、切れ味の良い刃物も役には立たない。
錆で覆われた刃物に価値を見出すことは難しい。
錆で覆われた刃物は、古鉄として処分されてしまうだろう。
あなたが、どれだけ美しい心を持って生まれても、自我意識によって汚れてしまえば、役に立つことは難しいのである。
2019年12月3日火曜日
追憶 2613
小学6年生のわたしは、ガムを食べることに対して、背徳感や罪悪感を覚えた。
しかしながら、同じようにしている仲間がいると、背徳感や罪悪感は直ぐに消え去った。
自分一人が罪を犯している訳ではない。
仲間がいることによって、自分を正当化するのである。
背徳感や罪悪感を軽んじてはならない。
それは、どのように大きな船も、船底に小さな穴が開けば、やがては沈没してしまうのと同じことだからである。
2019年12月2日月曜日
追憶 2612
大抵の人は、罪の誘惑(ゆうわく)である、悪魔(自我意識)の導きに従ってしまう。
それは、背徳感(はいとくかん)を得るためである。
自我意識は、背徳感や罪悪感を好む。
それは、自我意識が支配するための侵入口のようなものであろう。
自我意識は、背徳感や罪悪感から侵入してくる。
人は、罪の誘惑に対して、初めは困惑(こんわく)する。
そして、背徳感や罪悪感を味わうことになる。
しかしながら、背徳感や罪悪感を乗り越えて開き直ると、直ぐに解放感のような清々しい感覚を得るのだ。
2019年12月1日日曜日
追憶 2611
罪の誘惑(ゆうわく)は、心にとってとても魅力的だ。
それは、それを自我意識が好んでいるからである。
小説や映像作品の表現に、自分の中の天使と悪魔が現れて葛藤(かっとう)するというものがある。
天使は客観的に良い方法を提示し、悪魔は主観的に良い方法を提示する。
客観的に良い方法とは、利他的な選択であり、主観的に良い方法とは、利己的な選択のことだ。
天使とは、非我意識(ひがいしき)のことであろう。
そして、悪魔とは、自我意識のことなのではないだろうか?
2019年11月30日土曜日
追憶 2610
なぜなら、それが楽しかったからだ。
小学六年生のわたしには、学校でガムを食べることは悪いことだと分かっていた。
恐らくは、誰もがそのことを知っていたであろう。
なぜなら、誰もが教師に隠れてガムを食べていたからである。
後ろめたい気持ちがなければ、隠れて食べる必要など無いのだ。
しかしながら、わたし達は隠れてガムを食べた。
そこには、罪悪感と緊張感との葛藤(かっとう)があった。
そのような刺激は、人の心を魅了するのである。
2019年11月29日金曜日
追憶 2609
人は、長くその状態にいると、それがどのようなものであろうとも、親近感を覚えてしまうものである。
嫌悪から入ったとしても、いつの間にかに愛着に変わっていたりするのだ。
ブラック企業や歪んだ宗教から抜け出すことが出来ないように、万引きや飲酒運転や痴漢(ちかん)などの犯罪を繰り返してしまうように、それが悪いことだと知っていても、繰り返してしまうのである。
わたしは、小学生の頃に、友人達と校則を破って学校や登下校中にガムを食べるという行為をしたことがある。
わたしが始めたことではなかったし、それが悪いことだと知ってもいた。
しかしながら、表立って問題になるまでは、それを続けていたのである。
2019年11月28日木曜日
追憶 2608
人生における辛い状態というのは、人と自我意識を強制的に切り離すための状況なのである。
強制的に切り離すことをしなければ、人はそれを手放しはしない。
家庭内暴力の被害を受けているのに、相手と別れようとしない哀(あわ)れな人に似ている。
薬物に苦しんでいるのに、それを手放すことが出来ない哀れな人にも似ているのである。
多くの人は、自我意識に従(したが)って現状を維持しようとする。
自我意識の支配によって、いつの間にかにそれが良いと思い込んでしまうのである。
2019年11月27日水曜日
追憶 2607
もちろん、それは身体だけに限ったことではない。
自分自身や他者や、他の生命や道具に対しても、配慮(はいりょ)が足らなかった結果であるだろう。
優しさや思いやりを欠いた結果が、彼の場合は腰を痛めるという状態として現れたのであろう。
今回、彼が腰を痛めたのは、それが今の彼にとって最も辛いことだからではないだろうか?
最も辛い状態に陥(おちい)ることがなければ、人は自分を改めることがないであろう。
余裕がある状態では、同じことを続けようとするのが自我意識の働きというものなのである。
2019年11月26日火曜日
追憶 2606
彼の陥(おちい)っている傲慢(ごうまん)も、低い意識帯に属する状態であるだろう。
傲慢さには、優しさや思いやりは存在しない。
寧(むし)ろ、優しさや思いやりを欠いた状態こそが傲慢なのである。
優しさや思いやりを欠けば、どのようなものも傷んでしまう。
彼は、無意識の内に傲慢によって身体を痛めたのであろう。
身体に対して、優しさや思いやりが十分であれば、彼が腰を痛めることもなかったように思える。
2019年11月25日月曜日
追憶 2605
わたしが彼に伝えた言葉は、わたしのものではない。
わたしの心や頭から生み出され、口を使って出た言葉ではないのである。
それは、"天"からの言葉なのである。
"天"とは、高い意識のことだと理解すれば良いだろう。
高い意識とは、優しさや思いやりなどの温かいと感じる意識のことである。
残念ながら、多くの人は、どちらかといえば低い意識帯を生きているのではないかと思う。
優しさや思いやりを感じることは多々あるが、それよりも怒りや不安や心配の方が勝っているように思えるのである。
2019年11月24日日曜日
追憶 2604
完全な純粋ではないわたしには、誰かを救う力などない。
手助けをすることで精一杯である。
彼は、自分の選択によって自分を救わなければならないのだ。
彼だけが、唯一彼を救うことが出来るのである。
しかしながら、自分の考えだけでは自分を救うことは出来ない。
なぜなら、自分の考えによって選択した結果、現状に至(いた)ったからである。
腰を痛めたのは、自分の考えの結果である。
違う考えであれば、違う結果を得ていたはずなのだ。
2019年11月23日土曜日
追憶 2603
わたしを通して出る言葉のすべてを信用するのは危険なことだ。
なぜなら、わたしも未熟な存在であるからだ。
すべての人が未熟なのである。
他者を無条件に受け入れてはならない。
必ず、疑いを以(もっ)て信用しなければならないのである。
変な表現になってしまったが、人を通じて出る時点において、完全な純粋ではない。
どれだけ努めても、人を通してしまえば、完全な純粋を出すことは出来ないのである。
必ず不純物が混ざってしまう。
そのことは理解しなければならないのである。
2019年11月22日金曜日
追憶 2602
霊的な存在からの言葉を使って、自らの抱える傲慢(ごうまん)を手放すのも、保持するのも、彼の自由なのだ。
わたしには他者の人生を決める力は無い。
これは、仕方の無いことなのである。
わたしには、見守ることしか出来ない。
彼以外の誰も、彼を救うことは出来ないのである。
彼の反応を見ていると、霊的な存在からの言葉は響いていないように思える。
彼は、わたしを通して出た霊的な存在からの言葉を信用していないのではないだろうか?
2019年11月21日木曜日
追憶 2601
彼は相変わらず、第二匍匐(ほふく)のような体勢で座っている。
痛々しい姿に同情したが、わたしには仕事が残っていた。
わたしは、もう一度、彼等に霊的な存在からの言葉を伝えた。
霊的な判断によって、わたしはもう一度、霊的な存在からの言葉を伝えなければならなかったのである。
両親からは、大袈裟な程の相槌(あいづち)や返事が得られた。
しかし、彼からは、やはり薄い反応しか得られなかったように思える。
わたしの仕事は、霊的な存在からの言葉を伝えることだ。
彼を説得することや、彼を救うことはわたしの仕事ではない。
わたしには、そのような権限は与えられてはいないのである。
霊的な存在からの言葉をどうするか?は、それを受け取った本人の判断なのだ。
2019年11月20日水曜日
追憶 2600
天からの光は、わたしの手元に真っ直ぐに届き、刀を黄金色に照らしている。
わたしが彼に必要な言葉を伝えたことで、この刀の役目は終わったのであろう。
刀が軽くなった気がしたので手を離すと、刀がふわりと浮いて光に導かれるように高く昇っていった。
そして、刀が光の先に見えなくなった時に、天が閉じて一切の光が失われた。
わたしは暗闇に取り囲まれたような気分であったが、瞼(まぶた)の裏を見ていることに気が付いて、それを持ち上げた。
2019年11月19日火曜日
追憶 2599
わたしは、彼の腰から抜いた刀を持ったままで、彼の背中に淡々と語り掛けた。
彼の反応はとても薄いものであったが、気にせずに必要な言葉を伝えた。
そして、彼が病に陥(おちい)ってしまったのは彼の責任ではあるが、再び病に陥らないためには周囲の協力も必要であるということを両親にも伝えた。
人は、良いことを知っていても、良いことは出来ないものである。
知っていることと、出来ることは全く異なるということを理解しなければならないのだ。
彼に必要な言葉を伝え終えると、天から一筋の光が射した。
2019年11月18日月曜日
追憶 2598
人生は、あなたを成長させるためのアドバイスを授(さず)け続けている。
それを受け取るかどうかは、自分次第なのだ。
人生は、常にあなたに"謙虚(けんきょ)であれ"と伝え続けている。
わたし達は、傲慢(ごうまん)を手放し、謙虚さを手に入れなければならないのだ。
謙虚でなければ、人生からのアドバイスを聞き入れることは出来ない。
耳を澄まして聞こうとしない者には、山中の湧き水で喉(のど)の渇きを潤すことは出来ないのである。
謙虚な姿勢で人生を受け入れない者には、豊かさで心を満たすことが出来ないのである。
2019年11月17日日曜日
追憶 2597
山の中の湧き水は、常に音を響かせている。
そして、その音は耳の聞こえるすべての人に聞かされているのである。
問題は、それを認識することが出来るかどうか?ということであろう。
頭に眼鏡を乗せている人が、眼鏡を探すという古典的な笑いがあるが、人は、目の前に存在するものでも、それを見失ってしまうものなのだ。
山の中の湧き水の音は、誰にでも聞こえているが、それを認識することの出来る人は限られているのである。
2019年11月16日土曜日
追憶 2596
人生が直接的に何かを伝えることはない。
人生は、間接的にメッセージを伝えるのである。
そのため、人生からのアドバイスを受けられるかどうかは、人によって異なるのである。
人生からのアドバイスを受けようと思い、そのメッセージを悟ろうとしている人には、そのメッセージが届くだろう。
例えば、山の中で水の湧き出る音が聞こえたとしても、それを探そうとしない者には、見付けられない。
そして、実際に探さない者が水を飲むことはないのである。
2019年11月15日金曜日
追憶 2595
ただでさえ、多くの人は他者からの助言や忠告を受け入れることは出来ない。
他者がどれ程その人のことを思っていたとしても、それを受け入れることは難しいのである。
多くの人は、他者からの助言や忠告よりも、傲慢(ごうまん)を愛しているのだ。
目の前の相手が、理解することの出来るように分かり易く砕いた言葉さえ受け入れることが出来ないのである。
人生からのアドバイスは、自らが悟らなければならないものなのだ。
他者のように優しく教えてくれるようなことはないのである。
2019年11月14日木曜日
追憶 2594
当然ながら、人生は言葉を持たない。
人生が言葉で話し掛けてくることはない。
人生の言葉とは、現状である。
人生は、現状によってあなたにメッセージを伝えているのだ。
人生からのアドバイスを受けるためには、現状を素直に受け入れなければならない。
現状を素直に受け入れることが出来ない者には、人生からのアドバイスを得ることは出来ないのである。
現状を受け入れることは容易(ようい)ではない。
誰にとっても、現状を受け入れることは難しいのである。
2019年11月13日水曜日
追憶 2593
人生は、信用に値する。
それは、人生だけがあなたの生まれた理由を知っているからである。
人生だけが、あなたの果たすべき目的を知っている。
人生に教えてもらわなければ、あなたが果たすべき目的を理解することは出来ないのだ。
人生に教えてもらうためには、人生を信用していなければならない。
人は、信用していない相手の話を聞き入れることをしないのである。
人生を信用していない者には、人生からのアドバイスを受け入れることは出来ないということを理解しなければならないだろう。
2019年11月12日火曜日
追憶 2592
だから、問題に対して本気で悲しみ、怒り、絶望し、恨(うら)むのである。
もしも、問題が傲慢(ごうまん)を砕くために導かれているということを理解していれば、そのようなことにはならないのである。
人生のシステムである、問題が導かれる目的を理解するのであれば、問題に対しては感謝の気持ちが芽生えるはずなのだ。
問題に対して、感謝の気持ちを抱くことが出来ないということは、問題が導かれる理由を理解することが出来ていないということである。
そして、人生を信用することが出来ていないということなのである。
2019年11月11日月曜日
追憶 2591
それは、岩を波で砕くようなものである。
岩を波で砕くことは、容易(ようい)なことではない。
それがとても大変であることは、誰にでも想像することが出来るだろう。
傲慢(ごうまん)を問題によって砕くことも、岩を波で砕く程に大変なことなのである。
しかしながら、多くの人はそのことを知らない。
問題が傲慢を砕くために導かれていることすら知らないでいる。
多くの人は、問題は自分を苦しめ、自分を不幸にすると本気で思っているのである。
2019年11月10日日曜日
追憶 2590
人生は、あなたに目的を果たさせようとする。
あなたは、人生において、目的を果たさなければならない。
しかしながら、あなたは傲慢(ごうまん)によって、人生の目的を否定するのである。
そこで、あなたには、軌道修正のための補助(ほじょ)が与えられるのだ。
それが、人生における様々な問題であり、苦しみなのである。
そうでもしなければ、軌道修正は実現しないのだ。
人の抱える傲慢とは、とても硬いものなのである。
2019年11月9日土曜日
追憶 2589
傲慢(ごうまん)であれば否定する。
傲慢であれば、受け入れることは出来ない。
傲慢であれば、感謝することは出来ないのである。
傲慢な者が、人生の目的を果たすという現状へと辿り着くことは出来ない。
人生が思い通りに展開するということは有り得ないが、傲慢な者は人生を自分の思い通りに展開しようとする。
自分の思い通りに展開させたところで、人生の目的を果たすことは出来ない。
自分の思い通りにすれば、人生の目的からは遠ざかっていくばかりなのである。
2019年11月8日金曜日
追憶 2588
それは、人生の目的を果たすためには、人生の目的を果たすという現状へと辿り着かなければならないからである。
人生の目的を果たすという現状へと辿り着くためには、プラスの状態を実現しなければならない。
プラスの状態とは、感謝の状態である。
人は、感謝することによって成長を実現する。
人は、成長することによって、人生の目的を果たすという現状へと近付くことが出来るのだ。
否定を続けるのであれば、マイナスの状態によって成長を実現することは出来ない。
感謝というプラスの状態でなければ、成長を実現し、人生の目的を果たすという現状へと辿り着くことは出来ないのである。
2019年11月7日木曜日
追憶 2587
受容(じゅよう)を無理なく行うことが出来るようになれば、感謝を行うことが出来るようになるだろう。
それは、受容というゼロの状態から、感謝というプラスの状態への移行である。
感謝を行うことによって、人は豊かさを得ることが出来る。
感謝することが出来なければ、豊かさは得られないのだ。
人生には、果たさなければならない目的というものが存在する。
人生の目的を果たすためには、感謝する必要があるのだ。
2019年11月6日水曜日
追憶 2586
人は、難しいことを遠ざける。
多くの人は、現状に問題を抱え、不満と共に生きている。
不満は文句となり、心に汚れを蓄積するのだ。
心の在り方を改善しなければ、現状の問題が解決することはない。
心の在り方を改善するためには、先ずは文句を吐くことをやめなければならない。
文句を吐くことをやめることが出来なければ、不満から逃れることは出来ないのである。
不満から逃れなければ、心の在り方を改善することは出来ないのだ。
例えば、不満を受容(じゅよう)に改めることである。
不満とは、否定の形である。
受容とは、不満とは真逆の行為であるだろう。
それは、不満というマイナスの状態から、受容というゼロの状態に現状を移行させるということである。
2019年11月5日火曜日
追憶 2585
嫌なことを続けていては、心の在り方を改善することは出来ないだろう。
同じことを続けていたとしても、思考や感情の選択を変えれば良いのである。
楽しいことを始めるか、楽しむことを始めることが大切であるだろう。
それが努力なのである。
問題を解決するためには、問題を引き起こした思考や感情を手放さなければならない。
それ等とは別の思考や感情を用いなければ、問題が解決することは無いと考えなければならないだろう。
多くの人は、嫌なことを続けている。
それは、惰性(だせい)であったり、恐れであったりする。
新しく思考や感情を取り入れ、それを用いるのは、想像以上に難しいことなのである。
2019年11月4日月曜日
追憶 2584
努力とは、積み重ねのことである。
無理を強いることは努力とは呼べないだろう。
多くの人は、苦行によって成果が現れると思っているが、苦しんだからといって成果が現れるという訳ではないだろう。
"好きこそ物の上手なれ"という言葉がある。
嫌なことを無理して行うよりも、ただ好きなことをする方が、よっぽど良い結果を得られるということであろう。
好きなことや楽しいことには、自然と熱中して、無理なく勉強や工夫を続けることが出来る。
それが努力なのである。
2019年11月3日日曜日
追憶 2583
覚えておかなければならないのは、投げ入れた石の数だけ取り出さなければならず、取り出した石の数だけ投げ入れなければならないということである。
多くの人は、心の在り方が簡単に変わると考えるかも知れない。
しかしながら、人は長い年月を掛けて、心の在り方を築いてきたのである。
長い年月を掛けて築いたものを簡単に取り壊し、再建することが出来るだろうか?
残念ながら、それは難しいことなのである。
心の在り方を変えるためには、想像を超えた努力が必要であるということを理解しなければならないだろう。
2019年11月2日土曜日
追憶 2582
わたし達は、籠の中にどのような石を投げ入れるかを決めることが出来る。
小さな石を入れることも、大きな石を入れることも出来るし、土に塗(まみ)れた石を入れる
ことも出来るし、美しく輝く石を入れることも出来る。
目の前の状況に対して、どのように考え、どのように思うかは、自分次第なのだ。
思考や感情をある程度操作することは出来ても、心の在り方を操作することは出来ない。
わたし達に出来ることは、既(すで)に投げ入れてある籠の中の石を取り出し、他の石を
投げ入れることだけだ。
あなたが天の国の近くに住みたければ、例えば、傲慢(ごうまん)を取り出し、謙虚(けんきょ)を投げ入れなければならないだろう。
2019年11月1日金曜日
追憶 2581
心の在り方とは、思考や感情の累積(るいせき)の結果である。
わたし達は、小石を動かすことは出来るが、それを大きな籠(かご)に入れたものを動かすことは出来ない。
思考や感情は小石のようなものである。
そして、心は籠のようなものと考えれば良いであろう。
わたし達は、日々心の籠に思考や感情の小石を投げ入れている。
石の大きさは、思考や感情の大きさによってまちまちである。
しかし、毎日それを投げ入れているのだ。
2019年10月31日木曜日
追憶 2580
同じ家に生まれても、全く異なる思想を以(もっ)て生きることになる。
わたしは兄弟達と同じように育てられたはずだが、兄と弟のどちらとも似ていない。
兄と弟も異なる思想を以て生きている。
この世には、憎み合い、殺し合う血の繋がりも存在するのだ。
人は、それぞれが別の場所に生きていると考えるのが自然であるだろう。
人がどこに住むかは、心の在り方によって決まる。
わたし達は、どこに住んでも良いのである。
天の国の近くに住んでも良いし、地獄に近いところに住んでも良いだろう。
しかしながら、自らの意思によって住む場所を決めることは出来ない。
心の在り方が住む場所を決めるのである。
2019年10月30日水曜日
追憶 2579
この世は天の国と地獄の狭間(はざま)である。
この世の上には天の国が存在し、この世の下には地獄が存在しているのである。
この上下とは、感覚的な表現であり、比喩(ひゆ)である。
宇宙に天の国があり、地下に地獄があるなどということはない。
所謂(いわゆる)、意識の"向き"のことである。
この世を生きる人は、天の国に近付くことも出来るし、地獄に近付くことも出来る。
自らの心の在り方によって、人は住む場所を決めることが出来るのだ。
この世では、天の国に近いところに住む人もいれば、地獄に近いところに住む人もいる。
同じところに住んでいるように思えるが、全く違うところに住んでいるのである。
例えば、家が違えば家訓は異なる。
隣同士の家でも、その内情は大きく異なるのだ。
2019年10月29日火曜日
追憶 2578
多くの人は、自我意識に導かれて行く。
それは、非我(ひが)の導きとは異なる方向である。
自我意識は、人をこの世にとどめようとする。
なぜなら、自我意識は、この世でしか存在することが出来ないからだ。
天の国に自我意識は存在しない。
なぜなら、調和の中に自我意識が存在することは出来ないからである。
自我意識が存在することが出来るのは、この世と地獄(じごく)だけなのだ。
2019年10月28日月曜日
追憶 2577
多くの人は、導かれることに安心を覚える。
決められたことをこなす方が、創造することよりも楽であり、責任も少ないからだ。
自我意識は、様々な誘惑(ゆうわく)を使って人を導く。
目の前の快楽や欲望こそが、自我意識による誘惑である。
傲慢(ごうまん)な人は、目の前の快楽や欲望に従(したが)う。
自我意識に対しては素直であるが、非我(ひが)である人生の目的に対しては傲慢であるということだ。
わたしは、非我の立場で話しているのである。
2019年10月27日日曜日
追憶 2576
人生の価値を高めるためには、謙虚(けんきょ)な姿勢によって、目の前の現実を受け入れることである。
現実とは、最善のことである。
すべての現実は、それがどのようなものであれ、自分にとって相応しいものなのだ。
多くの人は、傲慢(ごうまん)を所有し、それに舵(かじ)を任せているために、現実を受け入れることが出来ない。
傲慢は、自我意識の所有であるが、自我意識は自分の権力が奪われることを恐れて、決して現実を受け入れようとはしないものなのである。
2019年10月26日土曜日
追憶 2575
人は、目の前に導かれた状況と向き合わなければならない。
そして、そこから学ばなければならないのである。
傲慢(ごうまん)を所有していれば、学びを得ることは出来ない。
傲慢は、学びに反発してしまうのである。
わたしが目の前に導かれた状況と向き合いたくないのは、傲慢を所有しているからである。
わたし達は皆、傲慢を手放すために人生を経験しているのだ。
傲慢を手放すことが出来なければ、人生の価値は薄まってしまうだろう。
2019年10月25日金曜日
追憶 2574
それが難しいことは、十分に分かっている。
導かれた状況を否定し、無かったことに出来れば、それ程都合の良いことはないだろう。
しかしながら、どれだけ否定しても、導かれた状況はどこへも行かないし、消えて無くなることもない。
何をしても、それは目の前に存在し続けているのである。
わたしにも、向き合いたくない状況は存在している。
しかしながら、それを消し去ることは出来ない。
わたしには、生きていることそのものが手放したい状況であるが、生まれたからにはそれを手放す訳にはいかないのである。
2019年10月24日木曜日
追憶 2573
目の前に導かれた状況を否定し、拒絶することは出来ない。
目の前に導かれた状況は、仕方の無いことなのである。
例えば、大雨によって家が流されたとしても、その事実を変えることは出来ない。
わたし達に許(ゆる)されていることは、事実に対する解釈(かいしゃく)と、次の行為に対する選択なのである。
導かれた状況を変えようとしても意味がない。
事実は事実として、そのままの形で受け入れなければならないのである。
2019年10月23日水曜日
追憶 2572
人は、因果の仕組みによって一つの状況を与えられる。
それは、因果の導きであるために、変えることの出来ない状況だ。
しかしながら、その状況に対する認識には、無数の選択肢が与えられている。
わたし達は、どう認識するか?ということは自由に許(ゆる)されているのである。
どう認識するか?ということは、自分次第であるということを理解しなければならないだろう。
建造物を岩の上に建てるのも、それを砂の上に建てるのも、個人の自由だということを理解しなければならないのである。
2019年10月22日火曜日
追憶 2571
わたしが最も大切だと思うのは、心の美しさである。
人生において、心の美しさ以上の価値は存在しないのではないかと思うのだ。
それは、人生は心によって築かれていると感じるからである。
人生は、心を通じて出現する。
そして、人生は、心を通して認識すると思えるのだ。
心とは、人生の土台である。
どのように立派な建造物も、砂の上に建ててしまえば、簡単に崩れてしまう。
小さな小屋であっても、岩の上に建てるのであれば、嵐をも乗り越えるのである。
2019年10月21日月曜日
追憶 2570
傲慢(ごうまん)に陥(おちい)ることは、心の自由と命を失うことだ。
心は、素直でなければ自由と命を保つことは出来ないのである。
人が、人生に満足を得るためには、心の自由と命を保つ必要がある。
心の自由と命を失っては、人生に満足を得ることは出来ないのだ。
わたし達は、贅沢(ぜいたく)に暮らすために生まれたのではない。
贅沢な暮らしも、それを続けていれば飽きてしまうのである。
暮らしの質自体には、人生の目的は存在しない。
人生の目的は、暮らしの質には関係しないものなのである。
どのような暮らしをしていても、その暮らしの中で、心が自由であり、命を保つことが出来ているかどうか?ということが大切なのである。
2019年10月20日日曜日
追憶 2569
多くの人は、傲慢(ごうまん)が噛み付いていることに気が付かない。
そして、その毒が心の自由と命を奪うことを知らないのである。
残念ながら、多くの人は心の自由と命を失っている。
多くの人は、心の自由と命を犠牲にして生きているのだ。
しかしながら、それを責めることは出来ない。
なぜなら、それ以外に方法が無かったからである。
どのような現状も、それ以外に方法が無かったのだ。
どうしようも無かったのである。
それを責めることは出来ないであろう。
2019年10月19日土曜日
追憶 2568
傲慢(ごうまん)は賢(かしこ)く、巧妙(こうみょう)に振る舞う。
多くの人は、傲慢がそこに潜んでいることに気が付かない。
それは、藪(やぶ)に毒蛇が潜んでいることに気が付かないようなものである。
藪の中の毒蛇に気が付くのは、毒蛇が牙(きば)を剥(む)いて足首に噛み付いた後のことだ。
あなたは、強烈な痛みに何が起こったのか分からない。
急いで足首を見た時に、そこに毒蛇が噛み付いているのを認める。
そこで急いで毒蛇を取り除くが、その時には既に毒が体内に侵入しており、簡単に身体の自由と命を奪うのである。
2019年10月18日金曜日
追憶 2567
大切なのは、自分自身を変えることだ。
それは、最も簡単な事であるが、最も難しいことでもある。
自分以外を変えることは不可能である。
誰も、自分以外を変えることは出来ない。
どのような方法を用いても不可能なことなのである。
人は、自分を変えることしか出来ないが、傲慢(ごうまん)がそれを許すことはないであろう。
すべての人は、傲慢と共に生きている。
傲慢は、心の中に存在し、多くの人はその存在にすら気が付かないのである。
2019年10月17日木曜日
追憶 2566
傲慢(ごうまん)に、外の世界を変えようとしても満たされはしないのである。
自分以外を変えようと努めることは、人生を変えるためには無駄な行為だと理解する必要があるだろう。
自分以外を変えるためには、自分を変えなければならない。
自分が変わることによって、自分以外が変わるのである。
自分の価値観を変えずに、自分の考え方は変わらない。
自分の考え方を変えずに、自分の行為は変わらない。
自分の行為を変えずに、自分の状況は変わらない。
自分の状況を変えずに、自分の環境は変わらない。
自分の環境を変えずに、自分の人生は変わらないのである。
2019年10月16日水曜日
追憶 2565
わたしの心の中には、幼い頃から空しさがあった。
幼い頃のわたしは、それに気が付いていなかったが、何をしても満たされないと思っていた。
空しさは、心の真ん中に存在し、そこから決して動くことはなかった。
わたしは、様々な物や事で空しさを覆(おお)い隠そうと努めたが、それはすぐに剥(は)がれ落ちてしまうのである。
どのように素敵な場所で、どのように美味しい食事を味わっても、5時間後には既(すで)に腹が減っている。
どれだけ食べても満たされるのは一瞬の間だけなのである。
2019年10月15日火曜日
追憶 2564
多くの人は、自分自身を変えようとはしない。
多くの人は、環境や他者を変えようとするのである。
自分以外が変わることによって、人生が変わると思い込んでいる。
残念ながら、そのようなことは有り得ない。
わたしも、以前は自分以外を変えることによって人生が変わると思い込んでいた。
そのため、環境や他者を変えようと努めたものである。
わたしの努力の結果として、環境や他者が変わった(ように思った)が、人生は変わらなかった。
環境や他者が変わった(ように思えた)としても、自分の心は何一つ変わってはいなかったのである。
2019年10月14日月曜日
追憶 2563
扉が開かないのを錠(じょう)のせいにする人はいないだろう。
誰もが鍵が間違っているせいだと思うのである。
錠に合わせて鍵を作らなければならない。
そんなことは、分かりきったことなのである。
しかしながら、それを人生と自分に当てはめると難しくなってしまう。
人生という扉を開くためには、自分という鍵を変えなければならない。
しかしながら、傲慢(ごうまん)がそれを許さないのだ。
多くの人は、錠に合わない鍵で錠を開けようと苦心惨憺(くしんさんたん)するのである。
2019年10月13日日曜日
追憶 2562
病などの苦しみは、人の目を外から内に向けるための助けなのである。
外を探し続けても、何も見付かりはしない。
外には様々なものが存在し、探し物は何でも見付かるようにも思えるが、何も見付けることは出来ないのである。
外を探して見付けることが出来るのは、問題を解決してくれそうではあるが、問題を解決することの出来ないものだけなのだ。
それは、良く似ている鍵ではあるが、扉を開くことは出来ない鍵なのである。
多くの人は、自らの所有している鍵ではなく、扉(錠(じょう))が間違っていると考えているのだ。
2019年10月12日土曜日
追憶 2561
人生は、常に人を助けようとしているが、無条件に助けられる訳ではない。
それは、この世界には、因果の仕組みが存在しているからだ。
助けられる原因を所有していなければ、助けられることはないのである。
人は、苦しみに会うと、自らの考え方や生き方を顧(かえり)みる。
もちろん、最初は自分以外の誰かや何かに苦しみの原因を探して歩き回る。
しかしながら、どこを探しても苦しみの原因は見付からない。
そこで、自らの内側を探すのである。
その時になって、苦しみの原因を所有していたことに気が付くのだ。
2019年10月11日金曜日
追憶 2560
捕らわれた野生動物は、助けてくれる人間に牙(きば)を剥(む)く。
わたしは、釣り糸に絡まって溺れているカモメを助けたことがあるが、足に絡み付いた釣り糸を取り除こうとするわたしの手は、何度もくちばしで刺されたものである。
カモメがわたしの意図を理解しないように、人は人生の意図を理解しない。
この世界では、同じことが違う形で行われているのである。
わたしが行うことは、わたしにも行われるのだ。
わたしがカモメを助けるように、人生はわたしを助けてくれるのである。
2019年10月10日木曜日
追憶 2559
多くの人は、人生の自分に対する役割を知らない。
多くの人は、人生が自分を磨こうと努め、幸福をもたらそうとしていることを理解しないのである。
多くの人は、人生に悲観している。
人生を憎(にく)んでいる人までいるのだ。
それは、人生の意図(いと)を理解しないからである。
人生は、あなたを良くしようとしている。
病などの問題を与えることによって、あなたを良くしようとしているのである。
わたし達は、人生が味方であることを理解しなければならない。
人生は、わたし達を助けようとしているのである。
2019年10月9日水曜日
追憶 2558
傲慢(ごうまん)に生きる者は、外側は実に丁寧に飾(かざ)り立てるが、内側は疎(おろそ)かにしている。
わたし達は、心が美しいということが重要であるだろう。
人生を終える時に、心が美しいかどうか?ということが試されているのである。
傲慢であることは、心の歪(ゆが)みであり、汚れである。
人生は、心を美しく磨く時間であるだろう。
すべての心は、人生において心を磨かれるのだ。
その時に使われるのが、病などの問題や苦しみなのである。
2019年10月8日火曜日
追憶 2557
"人生とは何か?"、"自分とは何か?"この二つの大黒柱を無視すれば、どのように飾(かざ)られた家も簡単に倒壊(とうかい)してしまう。
家は、壁や装飾(そうしょく)も大切だが、柱が最も重要なのである。
わたし達は、人生という名の家を建てなければならない。
飾ることも大切ではあるが、嵐や地震によって倒壊しないことが優先であるだろう。
この世で忙しく働き、金持ちに成るのも良いし、傲慢(ごうまん)に生きるのも悪くはない。
しかしながら、生まれた本来の目的を見失って生きるのであれば、どのように飾られた家も、必ずやって来る嵐や地震によって倒壊してしまうのである。
2019年10月7日月曜日
追憶 2556
嵐や地震を乗り越えるためには、頑丈な柱が必要である。
人が、人生において幸福を得るためには、本質的な価値を得なければならないだろう。
それは、"人生とは何か?"、"自分とは何か?"という問いに対する答えであると理解しなければならない。
この世の富を追い求める生活は忙しい。
忙しく日々を過ごしていれば、人生や自分について考えることを紛らわせることが出来る。
忙しく日々を過ごしている人にとっては、人生や自分について考えることは煩(わずら)わしいことなのである。
2019年10月6日日曜日
追憶 2555
この世の富で幸福を実現しようとするのは、白蟻に食い荒らされた柱の家に住むようなものなのである。
家に住むことに幸福を感じていたとしても、柱が機能を果たすことがなければ、その幸福は簡単に奪われてしまうのだ。
家を建てれば、嵐や地震の被害は避けられない。
嵐や地震の被害を免(まぬが)れる家は存在しない。
この世界においては、どのような幸福も、必ず脅(おびや)かされるのである。
問題を乗り越えることこそが幸福であるだろう。
問題を乗り越えられなければ、幸福が実現することはないのである。
幸福を実現するためには、問題を乗り越えなければならないのだ。
2019年10月5日土曜日
追憶 2554
それは、この世の富は本質ではないからだ。
この世の富は、本質では有り得ない。
地位、名誉(めいよ)、権力、財産、技術…
残念ながら、それ等は本質ではないだろう。
それ等がどれだけ優れていても、それでは満たされないのである。
多くの人の考える幸福とは、本質以外によって実現する"張りぼて"のようなものであるだろう。
本質が組み込まれなければ、本当の幸福を手に入れることは出来ないのである。
白蟻に食い荒らされた柱では、家は倒壊してしまうのである。
2019年10月4日金曜日
追憶 2553
多くの富を集めたとしても、それによって満たされないのであれば空しいのである。
わたしは、生まれてこの方満たされたことがない。
もちろん、一時(いっとき)は満たされる。
わたしは生まれてから人並みに様々なものを手に入れた。
しかしながら、満たされはしなかったのである。
どのようなものを手に入れても、やがては空しさが襲う。
何かを手に入れることによって、空しさを置き去りにしたと思っても、すぐに空しさが追い付いてくる。
この世の富を集めたとしても、わたしが満たされることはないだろう。
この世の富では、わたしは満たされないのである。
2019年10月3日木曜日
追憶 2552
傲慢(ごうまん)に生きる人は、この世の富の大部分を手に入れることが出来るが、本質だけはどうしても手に入れることは出来ない。
全財産を注ぎ込んだとしても、本質だけは得られないのである。
わたしは、宗教を信仰している訳ではないが、新約聖書の中で、イエスは"金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が易しい"と述(の)べた。
神の国とは本質のことだとわたしは思っている。
どれだけの富を手に入れても、本質を手に入れることが出来なければ空しいということだ。
どれだけの高級な食事をしても、愛情の入っていない食事では満たされないのである。
本質を得られない人は可哀想(かわいそう)だ。
2019年10月2日水曜日
追憶 2551
"世の中は金"という信仰(しんこう)を以(もっ)て生きている人達は、味気ない食事で腹を満たしている。
一流のレストランで購入することが出来る最高級の料理も、自分のことを愛してくれている人の作る不恰好(ぶかっこう)な料理には及ばない。
どれだけのお金を払っても、本質は買えないのである。
寧(むし)ろ、お金を払う程に愛情は得られないだろう。
"お金を払うからわたしのことを愛して欲しい"と頼めば、相手は幻滅(げんめつ)し、愛は冷めてしまうのである。
その代わりに、そこには金による無機質な契約(けいやく)が生じるのだ。
2019年10月1日火曜日
追憶 2550
例えば、”世の中は金”という考え方が存在している。
恐らくは、これが世界で最も信仰(しんこう)されている宗教ではないだろうか?
世の中の大抵の問題は、金銭によって解決することが出来るだろう。
幸福というものも、本質を抜きにするなら金で買える。
家も、仕事も、家族も、友人も、欲求に対する満足も、”愛”も、本質を抜きにするなら金で買えるのである。
それは、出汁(だし)の入っていない料理のようなものであるだろう。
味に”深み”を求めなければ、悪くないものである。
出汁の入っていない料理でも、腹に入れば同じである。
2019年9月30日月曜日
追憶 2549
この世では、傲慢(ごうまん)が美徳とされている。
いつの世にも、傲慢な者が幅を利かせているのである。
この世で成功を収めたければ、傲慢さに付き従(したが)えば良いだろう。
傲慢に身を委(ゆだ)ねれば、欲しいものは何でも手に入るだろう。
しかしながら、傲慢によって得られるもののリストの中に本質は存在しない。
傲慢に従えば、本質以外のものなら何でも手に入れることが出来るのである。
2019年9月29日日曜日
追憶 2548
人は、学びを得るために生きている。
人が自らの傲慢(ごうまん)さによって苦しむのは、それが学びだからである。
病も、大切な学びであるということを理解しなければならないのだ。
学びは避けられない。
どのような方法を用いても、人は学びの中に存在するのだ。
人は、どのような状況においても、学ばなければならないのである。
学びの目的は、謙虚(けんきょ)さを身に付けるためである。
すべての人は、謙虚さを身に付けなければならないのだ。
2019年9月28日土曜日
追憶 2547
傲慢(ごうまん)を手放すことは、認めることであり、受け入れることであり、許(ゆる)すことであり、愛することであり、喜ぶことであるだろう。
理想とは異なる目の前の現状を認め、受け入れ、許し、愛し、喜ぶことが出来れば、傲慢を手放すことが出来るだろう。
多くの人にはそれが出来ない。
多くの人は、現状を否定し、理想を追い求めるのである。
それが正しいことだと信じているのだろう。
しかしながら、現状を否定することは最善ではないと思える。
なぜなら、現状を否定すれば、現状から得られる大切な学びを放棄(ほうき)することになってしまうからである。
2019年9月27日金曜日
追憶 2546
傲慢(ごうまん)を手放すことは、あなたが想像するよりも遥(はる)かに難しいことである。
その証拠(しょうこ)に、大抵の人は傲慢を手放そうともしていないのだ。
多くの人は、自分を正当化する。
多くの人は、自分が間違っているとしても、自分が正しいと思いたいのである。
多くの人は、自分を美化している。
実際よりも良く見せようとするのだ。
多くの人は見栄を張る。
多くの人は、誇張(こちょう)するのである。
それは、傲慢の現れなのだ。
2019年9月26日木曜日
追憶 2545
理想を手放す時、傲慢(ごうまん)を手放すことが出来る。
理想の実現を掲(かか)げている内は、人生に最善が実現することはないであろう。
現状をあるがままに受け入れることが出来なければ、最善が実現することはないのである。
病は理想とは掛け離れた状態である。
大抵の人は病を嫌っているのだ。
しかしながら、訳あって病は存在している。
無意味に病が訪(おとず)れることはないのである。
2019年9月25日水曜日
追憶 2544
残念ながら、理想は最善ではない。
なぜなら、すべての人が未熟であるからだ。
未熟者の理想が最善であるはずがないのである。
理想とは幻想である。
そして、それは誤解なのだ。
どちらかと言えば、理想は実現しない方が良い。
未熟者の誤解である理想が実現すれば、世界には多くの問題が引き起こされてしまうからである。
2019年9月24日火曜日
追憶 2543
多くの人は理想を追い求める。
世間では、それが良いことだと認識されているだろう。
それは、この世には傲慢(ごうまん)な人が多いからである。
理想を追い求めることは傲慢である。
しかしながら、多くの人はそうは思わないだろう。
それは、正義を振りかざすことが良いことだと信じているエゴイストと同じである。
多くの人にとって、理想を実現することは良いことであり、それは幸福のために必要不可欠なことである。
理想を実現することが幸福を実現することだと信じているのだ。
2019年9月23日月曜日
追憶 2542
傲慢(ごうまん)に従(したが)うということは、与えられた能力を拒(こば)むということである。
人は、自らの能力を生かさなければならない。
与えられた能力によって、どのような状況を得るかは分からないが、それを拒むことは本当の人生を拒むことになるのである。
自然とは、そのままの自分ということだ。
能力に従う条件として、傲慢は手放さなければならない。
それは、理想を手放すということなのである。
2019年9月22日日曜日
追憶 2541
すべての人には、最高の能力が与えられている。
しかしながら、それに気が付いていないのである。
多くの人は、大空を飛べるにも関わらず、小さな鳥籠(とりかご)の中で与えられる餌(えさ)に満足し、空しく歌っているのである。
多くの人は、能力を封(ふう)じられていることに気が付かない。
しかも、多くの人は、自らに与えられた能力に目覚めることを恐れているのである。
長く鳥籠の中にいれば、衰(おとろ)えた翼で空を自由に飛ぶことは出来ないかも知れない。
何よりも、外には危険が待ち構えている。
鳥籠の中にいれば餌に不自由することはないし、安全は確保される。
翼を手放せば、平和と安心が手に入るのである。
そして、偽りの幸福で自らを慰(なぐさ)め続けていれば、波のように押し寄せる空しさを忘れることが出来る。
そうやって一生を終えることが出来れば良いと考えるのである。
2019年9月21日土曜日
追憶 2540
最高の贈り物を受け取っても、中身を見なければ受け取ったことにはならないだろう。
多くの人が人生に空しさを感じるのは、最高の贈り物である自らの能力を理解してはいないからだ。
鳥は、空を行くために翼を与えられた。
鳥にとって翼は、最高の能力であり、最高の贈り物なのである。
鳥籠(とりかご)の中で一生を終える鳥は、空しさを感じるのではないだろうか?
それを幸福だと思う鳥もいるかも知れないが、籠を開けていれば大抵の鳥は飛び立って行くだろう。
それは、鳥が自らの能力を選んだということなのである。
2019年9月20日金曜日
追憶 2539
残念ながら、多くの人は、”神”からの贈り物の中身を見ずに生涯を終える。
多くの人は、自分という存在の能力や役割を理解することなく死を迎えるのだ。
多くの人は、人生に対して空しさを覚えるだろう。
残念ながら、満足のいく人生を生きることの出来る人は少ない。
多くの人が、人生に不満を抱かなければならないのである。
多くの人にとって、人生は空しい。
それが”普通”なのである。
2019年9月19日木曜日
追憶 2538
自分という存在に何が出来るかは分からない。
しかしながら、何かを果たすために生まれて来ているのである。
自分を身体だと思い、傲慢(ごうまん)に振る舞っている内は、自分という存在が何によって世界に貢献(こうけん)することが出来るかを知ることは出来ないだろう。
大切なのは、身体から離れて、自分という存在と向き合うことである。
自分という存在の能力や役割というものは、自分という存在と向き合わなければ理解することは出来ないのだ。
身体が重なっていると、包装されている贈り物のように、大切な中身が見えないのである。
2019年9月18日水曜日
追憶 2537
歳を重ねると、身体は言うことを聞かなくなってしまう。
そこで、多くの人は漸(ようや)く自分が身体でなかったことに気が付くのである。
そこからが、本当の人生であるだろう。
人は、自分が身体でないことを理解して初めて、本当の人生に向き合うことが出来るのである。
年老いてまで、身体のために人生を捧げてはならない。
これは、身体ではなく、自分の人生であることを理解しなければならないのだ。
そして、身体ではない自分という存在が、この世界に貢献(こうけん)することが出来るようにしなければならないのである。
2019年9月17日火曜日
追憶 2536
人は、成長するに従って、自分を放棄(ほうき)しなければならないだろう。
自分のことに夢中なのは、幼い子どもだけなのである。
生まれた後は自分を気にする。
物心がつけば他者を気にする。
思春期に至(いた)れば異性を気にする。
社会に出れば世間を気にする。
成熟すれば、人生を気にするのである。
成長するに従って、自分を中心とする利己から離れていくことが自然であるだろう。
2019年9月16日月曜日
追憶 2535
身体は、老化によって機能が衰(おとろ)える。
すべての人には、いつか身体を労(いたわ)らなければならない時が来る。
これは自然の成り行きであるが、身体は、いつまでも治癒力を維持することが出来ない。
人は、いつまでも、自分勝手に生きることは出来ないのである。
自分勝手に生きることが出来るのは、子どもの時だけであるということを理解しなければならないだろう。
成長するに従(したが)って、人は利他的(りたてき)に生きなければならないのである。
身体は、治癒力を弱めることによって、精神を突き放す。
それは、身体が精神を自立させようとしているのである。
2019年9月15日日曜日
追憶 2534
身体が若い時には、治癒力に優れている。
子どもが親に頼るように、体調管理は身体に頼っていれば良いだろう。
しかしながら、身体が老いてくれば、体調管理を身体に任せておく訳にはいかない。
親が老いれば、次第に子どもの面倒を見ることが出来なくなってくる。
同じように、身体もあなたの面倒を見ることが出来なくなってしまうのである。
わたし達は、身体が老いるに従って、身体の面倒を見なければならない。
それは、子が親の面倒を見ることと同じことであるだろう。
2019年9月14日土曜日
追憶 2533
子どもが、いつまでも親に頼りきっているのであれば、いつまでも子どものままであろう。
子どもは、親に頼ることが当たり前である。
子どもは、親に頼れば良いと思う。
しかしながら、いつまでも親を頼っていれば、子どもという意識状態からは抜け出すことが出来ないのである。
わたし達は、変化、成長していかなければならないだろう。
そのためには、当たり前を当たり前とする価値観や考えを手放さなければならない。
わたし達は、当たり前が当たり前ではないことを理解しなければならないのである。
2019年9月13日金曜日
追憶 2532
飲み食いせずに働いてくれる身体があるだろうか?
睡眠を与えずに働き続けられる身体はないだろう。
身体は、食事や睡眠のために働く。
食事や睡眠という見返りがあるからこそ、身体は懸命に働いてくれるのである。
そのことを理解しなければならないだろう。
それは、当たり前であり、改めて認識することは難しい。
しかしながら、当たり前が当たり前ではないことを認識しなければならないのである。
当たり前を当たり前と思っているのであれば、その状態を抜け出すことは出来ないだろう。
それは、停滞を受け入れるということなのである。
2019年9月12日木曜日
追憶 2531
勝手に調整しているからといって、蔑(ないがし)ろにして良いというものではない。
蔑ろにすることによって、働きは弱まり、やがては働かなくなってしまうからだ。
感謝の気持ちもなく、厚かましい態度の者のために努力したり協力しようとする者はいないだろう。
多くのものを欲することはなくても、感謝の気持ちくらいは欲しているのである。
見返りもなく努力や協力を行う人はいない。
見返りが無ければ、努力や協力を行うことは出来ないのだ。
この世界は、取引によって成り立っている。
見返りが無ければ、努力や協力をしようと思っても出来ないのである。
2019年9月11日水曜日
追憶 2530
被災地から帰ると、当たり前の生活がどれ程満たされていたものであったのかを理解することが出来る。
当たり前は、当たり前には存在しない。
多くの人の努力や協力によって、当たり前を支えているのである。
身体が健康であることは、決して当たり前のことではない。
身体の内側では、自然治癒力や様々な細菌や微生物が働き続けているのである。
多くの人は、身体を自分だと思い込み、自分勝手に扱っているが、自分自身の意識では何もしていないのが現実であるだろう。
身体は、自分自身の意思に反して、勝手に調整してくれているのである。
2019年9月10日火曜日
追憶 2529
わたし達は、満たされていることが当たり前となっている。
不足している状態に陥(おちい)ることは滅多(めった)にないであろう。
今日(こんにち)の日本では、豪雨や地震による自然災害が目立っているように思う。
災害によって命を失ったり、住む場所や生活を失う人も多い。
わたしもボランティアで被災地に出向いたことがあるが、そこでは、当たり前が当たり前ではなかった。
電気も水道も使えないのが当たり前なのである。
便利に慣れてしまった現代人にとって、それは大変な状況なのである。
2019年9月9日月曜日
追憶 2528
当たり前を当たり前と誤解すれば、自動車が目的地へと辿り着くことは出来ないだろう。
メンテナンスを怠(おこた)れば、故障や事故などの問題によって、停滞しなければならないのである。
日本で暮らすわたし達の生活はとても便利なものとなった。
不足していることは何も無いと思える。
贅沢(ぜいたく)を追求すればきりがないかも知れないが、生きていくための不足というものは存在しないだろう。
わたし達の生活は、生きていくための不足が存在しない状態が当たり前となったのである。
2019年9月8日日曜日
追憶 2527
病の苦しみが存在しなければ、健康の喜びが存在することを知ることは出来ないだろう。
病を体験したことのない者には、健康の有難さを理解することは出来ないのである。
健康は、多くの人にとっては当たり前のことである。
そのため、健康の有難さを理解している人は少ない。
多くの人は、健康の有難さを理解することなく、利己的な生き方を選択してしまうのである。
当たり前という安定した状態というものは、当たり前には存在しない。
例えば、自動車が安全に目的地へと辿り着くためには、日頃のメンテナンスが必要であり、重要なのである。
2019年9月7日土曜日
追憶 2526
苦しみを苦しいと感じるのは、喜びが存在するからである。
暑さがなければ寒さを感じることは出来ないだろう。
夜空の闇が存在しなければ、星々の繊細(せんさい)な瞬(またた)きを見ることは出来ないのである。
逆を考えれば、喜びが存在するからこそ苦しみが存在すると言えるだろう。
苦しみと喜びは共に存在するということを理解しなければならないだろう。
星空の美しさを喜ぶためには、夜の闇を迎えなければならないのである。
2019年9月6日金曜日
追憶 2525
苦しみこそが人を動かす。
やる気が無くても、苦しければ動かなければならないだろう。
苦しみは心強い味方であり、追い風のようなものなのである。
追い風は原動力と成り得る。
しかしながら、それを上手く扱わなければ足止めを食らうことにもなり兼(か)ねないのだ。
残念ながら、多くの人は、苦しみを敵や足枷(あしかせ)のように扱っている。
それを上手く利用しようとは考えず、否定を続けているのである。
2019年9月5日木曜日
追憶 2524
人は、いつまでもその場に立ち止まっている訳にはいかない。
いつかは、その苦しみに耐(た)えられなくなってしまうのである。
一歩を踏み出すということは、悔い改めるということだ。
人は、後悔しなければ、これまでの考え方や生き方を捨てることは出来ないであろう。
苦しみ悔やむまでは、そこを立ち去ることは出来ないのである。
苦しみは、決してわたし達の敵では無い。
後悔は、わたし達の足枷(あしかせ)では無いのである。
2019年9月4日水曜日
追憶 2523
苦しみは、人を強制的に歩かせる。
苦しみが存在しなければ、歩かない人が多いのだ。
例えば、部屋の中に閉じ籠(こも)り、他者に触れないことは快適である。
部屋の中で独りでいれば、嫌なことを言われることも無いし、傷付けられることも無い。
嫌なことを言うことも無いし、人を傷付けることも無いのである。
それは、とても気楽であり、心地好い空間なのだ。
しかしながら、それも初めの内だけである。
しばらくすると、孤独や自己批判や自己憐憫(じこれんびん)などに襲われる。
それは、耐(た)え難い苦しみなのである。
2019年9月3日火曜日
追憶 2522
この世界には、退屈から逃れる方法がたくさん用意されている。
その一つが病なのである。
人が退屈から逃れるためには、苦しみの手助けを必要とする。
苦しみは、人を退屈にはさせない。
苦しみの中で退屈を感じている人は、恐らくはいないだろう。
誰もが、苦しみの中で忙(せわ)しなく考え、忙しなく行動しているのではないだろうか?
絶望感を味わっていたとしても、退屈には陥(おちい)っていないのである。
2019年9月2日月曜日
追憶 2521
この世界には、多くの問題が存在している。
すべてが問題と言っても過言ではないだろう。
この世界は、問題が存在してこそ自然である。
問題が存在しなければ、この世界には価値が無い。
なぜなら、わたし達は、問題を経験するために生まれたからだ。
天国には、恐らく問題は存在しないだろう。
天国に問題が存在するのならば、それは退屈(たいくつ)だけなのではないだろうか?
わたし達は、退屈から逃れるために生まれるのである。
2019年9月1日日曜日
追憶 2520
病は、人生を楽しくするための演出なのである。
悪役が一人もおらず、何の問題も起きない映画は、それを観ている人は退屈で眠ってしまうだろう。
わたし達は、皆”天国”からやって来たが、それは天国が退屈であったからではないだろうか?
天国には、恐らく悪人はいない。
そして、恐らくは何の問題もないであろう。
すべてが満たされているのが天国なのではないだろうか?
それは、とても素晴らしいことのように思うが、もしも、満たされていることが最善であるのならば、わたし達はわざわざこの問題だらけの世界には生まれて来ないだろう。
2019年8月31日土曜日
追憶 2519
病とは、一種の趣(おもむき)である。
夏が暑いことと、病を患(わずら)っていることは、ある意味では同じことだ。
身体にとっては、病の時期なのである。
それは、我慢を強いられる状況であるが、我慢も楽しめば良いのである。
それは、あなたを苦しめるために導かれているのではない。
同じことを続けていれば、誰だって退屈(たいくつ)を覚えてしまう。
自由だけでも退屈するのが人間なのである。
自由が楽しくあるのは、我慢がそれを支えているということを理解しなければならないだろう。
2019年8月30日金曜日
追憶 2518
豊かに生きるためには、冷静でいなければならない。
心が乱れている者が、豊かに生きられるはずがないのである。
身体を自分だと思い込んでしまえば、豊かに生きることは出来ないのだ。
冷静さとは、客観によって実現するものなのである。
夏は暑いものである。
夏が暑いからといって、それを不快(ふかい)に思ってしまえば、その時間を苦しまなければならない。
夏は暑いが、それを趣(おもむき)として客観すれば、夏の暑さを活用して、その時間を楽しむことが出来るのである。
”心頭、火を滅却(めっきゃく)すれば、また涼(すず)し”ということなのである。
2019年8月29日木曜日
追憶 2517
大切なのは、身体をパートナーや器として捉(とら)え大切に扱うことである。
大切に扱えば長持ちするものの寿命をわざわざ短くする必要はないだろう。
人は、生きることによって学ぶことが出来る。
生きること自体が目的ではないが、生きなければ目的を果たすことは出来ないであろう。
それも、豊かに生きることが求められるのである。
乏しく生きることも悪くはないが、豊かに生きる方が目的を果たすためには良いであろう。
2019年8月28日水曜日
追憶 2516
病を恐れることがなければ、人は身体を軽んじた生活を営(いとな)んでしまうだろう。
それは、寝不足、運動不足、過労、暴飲暴食、”毒”の摂取(せっしゅ)、自傷行為、他者や他の生命に対する横暴など、生き延びることが難しい状況を作り出してしまうのである。
人は、生き延びなければならない。
何をするにしても、何をしないにしても、生き延びなければ、何一つ実現することは出来ないからだ。
わたし達は、何かしらの目的を以(もっ)て生まれて来たのである。
それを果たすことが、生まれた者の責任なのではないだろうか?
人生においては、生きていることが前提であるということを理解しなければならないだろう。
2019年8月27日火曜日
追憶 2515
そこには、自分の本質である真(まこと)との繋がりを認識することが難しいという現状があるからだ。
すべての人は、本来の自分を隠して生きている。
それは、隠されていると表現した方が良いだろう。
すべての人は、身体を自分だと思い込まされているのだ。
それは、この世界で生きるためである。
身体を自分だと思い込まなければ、人は生き延びることが出来ない。
病に怯(おび)え、身体を大切にする気持ちが無ければ、すぐに命を失ってしまうのである。
2019年8月26日月曜日
追憶 2514
身体に対して、強くのめり込めば、病を患(わずら)うことを恐れたり、病を患うことで苦しんでしまう。
それでは、病の目的と存在価値を見失ってしまうのである。
身体は、病に反応して、様々な対策を講(こう)じる。
それが痛みや吐き気や重たさなどの様々な苦痛として現れる。
病に反応しているのは身体に過ぎない。
しかしながら、わたし達は心を通じて身体と繋がっている。
それは、一部の繋がりに過ぎず、決して全体が繋がっている訳ではない。
しかし、人はそれでも自分が身体であると思い込んでしまうのである。
2019年8月25日日曜日
追憶 2513
残念ながら、わたし達の本質は身体ではない。
身体はとても大切な存在ではあるが、乗り物のようなものである。
多くの人は、自身が所有する自動車や自転車を大切に扱うだろう。
傷が付けば、我が事のようにショックを受ける。
身体は、自動車や自転車のような大切な乗り物だと考えれば、少しは冷静に判断することが出来るだろう。
もちろん、身体は掛け替えのない存在であるため、自動車や自転車などの製品などとは価値が違う。
しかしながら、価値が違うだけで、本質的には同じ解釈(かいしゃく)で良いと思うのである。
2019年8月24日土曜日
追憶 2512
病に対して建設的に向き合うためには、客観的な視点が必要である。
例えば、どのような問題も、それが他人事だとある程度は冷静でいられる。
それは、客観的な視点によって問題と向き合うことが出来るからだ。
離れて見れば小さなものも、近くで見れば大きいのである。
そこには、視点の差が存在するだけだ。
距離によって、それが問題になったり、喜びになったりするのである。
ただそれだけのことに翻弄(ほんろう)されているということを理解しなければならないだろう。
2019年8月23日金曜日
追憶 2511
身体が自分であれば、病を患(わずら)う必要などないのである。
しかしながら、身体は確実に病に犯されてしまう。
それは、身体が自分ではないからだ。
そして、病から学ぶ必要があるからである。
わたし達は、身体と病を通じて学ばなければならない。
身体を自分だと思い込むことによって、真剣に向き合うようにしているのだろう。
しかしながら、向き合い方を間違えてしまえば、苦しんでしまう。
人は、病に対して建設的に向き合わなければならないのである。
2019年8月22日木曜日
追憶 2510
残念ながら、多くの人は自分が身体だと思い込んでいる。
手足すら思い通りに動かすことが出来ないにもかかわらず、それでも身体を自分だと思うのである。
心臓は勝手に動いているし、内臓も神経も自動である。
思考を食い止めることは出来ないし、それをコントロールすることも出来ない。
そして、睡眠欲や食欲、そして、性欲などの欲求の命令に従っているに過ぎない。
身体に関することは、何一つ自由にはならないと言っても過言ではないだろう。
それなのに、身体を自分だと思い込んでいるのは不思議である。
自分が身体であるのならば、嫌っている病を退(しりぞ)けられるはずであるが、実際にはすべての人が病と共に生きている。
2019年8月21日水曜日
追憶 2509
人は、病と共に生きている。
人類史において、病の存在しないことがあっただろうか?
病を知らずに死を迎えることが出来る人など存在しないのである。
蜂が間接的に人類のために存在しているように、病も間接的に人類のために存在している。
残念ながら、多くの人には理解することが出来ないだろう。
多くの人にとって、蜂や病は厄介(やっかい)な存在であるという認識だからだ。
病は、身体を痛め付ける。
そのため、身体を自分自身だと思い込んでいる人にとっては、病は厄介な存在に違いないのである。
2019年8月20日火曜日
追憶 2508
蜂が平和に暮らすことは、人の暮らしの利益に繋がる。
蜂もただ存在するのではなく、自然界において必要な役割を担っているのだ。
蜂を敵と見做(みな)している者には、蜂の有益性を理解することは出来ないだろう。
人間と蜂は、同じ自然界に存在している。
それは、互いに依存(いそん)し合う関係にあるということである。
人間は、間接的に蜂のために生きているし、蜂は、間接的に人間のために生きているのだ。
同じ自然界に生きているということは、共存しなければならないということなのである。
2019年8月19日月曜日
追憶 2507
病を許(ゆる)すことは、自分自身の歪んだ考えや心を許すということでもある。
何事においても、それを癒(いや)し、治めるためには、許す以外に方法はないであろう。
怒りや否定などに執着しているのであれば、そのような状態が続いていくのである。
蜂を静めるためには、巣から離れ、共存を選ぶことだ。
蜂の生存を許さなければ、争わなければならないのである。
蜂が好んで人を襲うことはない。
近付かなければ、蜂は平和に暮らしているのである。
2019年8月18日日曜日
追憶 2506
病に対して、争いの気持ちを抱くことは間違いである。
なぜなら、争いの気持ちによって病が治(おさ)まることはないからだ。
争いの気持ちは、病を活性化させ、広げてしまう。
蜂(はち)を敵と見做(みな)して争えば、巣からは次々に蜂が現れるのである。
一匹でも厄介(やっかい)な蜂が、群れを成して現れたら、勝ち目は無いであろう。
病と争っても、残念ながら勝ち目は無いのである。
病を治めたければ、争わないことだ。
争いの気持ちを治めるのである。
病を治めるためには、病を受け入れて、許(ゆる)すことだと理解しなければならないだろう。
2019年8月17日土曜日
追憶 2505
蜂を敵と思えば、報復(ほうふく)が心を支配してしまう。
刺されたのは、蜂のせいだと思い込めば、その矛盾(むじゅん)から争わなければならないのだ。
蜂と戦えば、更に刺されてしまう。
争いは、心の状態を悪化させてしまうのである。
心の状態が悪化すれば、豊かさを保つことなど出来ない。
それでは、辛いだけなのである。
蜂に刺されたのは、自分の責任であると考える人は、それ以上に争いを展開することがない。
人生の責任を負うことの出来る人は、争いを自分の内で完結することが出来るのである。
争いを終わらせることの出来る人は、争いによって心の状態を悪化させることがないのである。
2019年8月16日金曜日
追憶 2504
巣に近付いたのはわたしである。
蜂(はち)がわたしに近付いたのではない。
蜂がわたしに攻撃したのではない。
わたしが蜂に攻撃させたのである。
多くの人は、外に原因を探す。
しかしながら、原因は内に存在している。
そのため、そこには矛盾(むじゅん)が生じる。
矛盾は、争いを実現するのである。
2019年8月15日木曜日
追憶 2503
多くの人は、病によって心の豊かさを手放してしまう。
病を前にして冷静でいられることは難しい。
それは、大きな蜂(はち)が肩に止まった時に、冷静でいられる人が少ないのと同じであるだろう。
それは、多くの人が蜂は刺すものだと考えているからだ。
確かに蜂は刺すが、それは、巣を脅(おびや)かした時や、危害を加えた時だけである。
単体で飛んでいる蜂が刺すことはない。
恐らくは、蜂は人間に興味を持たないだろう。
人間を攻撃しようなどとは考えていないはずである。
わたしは過去に何度も蜂に刺されたことがあるが、その時には必ず近くに巣があった。
巣は、わたしが通り掛かるよりも前からそこにあったのである。
2019年8月14日水曜日
追憶 2502
病を前にして、自らの考えや心を改めないのは、陽に焼かれて干からびる蚯蚓(みみず)のようなものである。
病に対して自らを改めないのは、”命”を失う行為であるということを理解しなければならないだろう。
命とは、心の豊かさである。
病を前にして、心の豊かさを保つことの出来る人は、幸いにも命を保つことが出来るだろう。
わたし達は、人生を終える時まで、命を保たなければならない。
人生を終える前に、命を失ってはならないのである。
2019年8月13日火曜日
追憶 2501
自らを改めることがなければ、救われることもない。
例えば、陽に焼かれるのが嫌であれば、その場を離れて日陰へと移動する必要がある。
陽が陰るのを待つのも良いが、その前に干からびてしまうだろう。
“神”の救いを待っていられる程、わたし達に力はないのである。
努力しない者が救われることはないだろう。
泳ぐ意思のない者は、沈まなければならないのである。
2019年8月12日月曜日
追憶 2500
矛盾(むじゅん)とは、人間側の誤解であり、本来ならば存在しないものなのかも知れない。
しかしながら、矛盾という現象や認識、そして、言葉が存在するのは事実である。
“神”は矛盾という状態を創り出したであろうが、“神”がそれに陥(おちい)るとは考えられない。
“神”とは理(ことわり)であり、そこに矛盾は存在しないと考えられる。
そのため、“神”が無条件に人を救うことは無いと思えるのだ。
この世界においては、自らを改めるという条件を満たす者だけが、救われるのではないだろうか?
2019年8月11日日曜日
追憶 2499
わたし達が許(ゆる)されるためには、自らの考えや心を改めなければならない。
無条件に許されるということはないのである。
それは、この世界には因果の仕組みが存在しているからだ。
恐らくは、“神”であっても因果の仕組みに逆らうことは出来ないだろう。
それは、人が法律に逆らうことが出来ないのと同じだ。
“神”が理(ことわり)に反するのであれば、矛盾(むじゅん)が生じてしまうだろう。
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