このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2020年12月31日木曜日

追憶 3006

それは、目の前に導かれる状況がどのようなものであれ最善であるからだ。
最善に対して不平不満を吐くことは間違っている。
都合で考えるのであれば、最善を理解することは出来ない。
頭や心では、人生の意図(いと)は読み解けないのだ。
多くの人は、頭や心を信じて、自分の都合を生きている。
自分の都合で生きているから、思い通りにならない人生に対して苦しみを抱えなければならないのである。

2020年12月30日水曜日

追憶 3005

苦しみを抱えている霊は多い。
彼等は、生前の問題である心の汚れや歪みを、死後に直しているのである。
美しく磨かれるまでは、先へ進むことは出来ない。
不平不満などの歪んだ感情を抱えているから、霊になってまで苦しまなければならないのだ。
人生に対して、誰かや何かに対して不平不満を抱くことは間違っている。

2020年12月29日火曜日

追憶 3004

歳を取ると、心が美しく磨かれるのが自然である。
人は、死に向かう程に美しく成るのである。
そして、美しい心で死に至(いた)り、天国(中間生)に帰る。
美しい心でなければ、天国に入ることは出来ない。
心が汚れた状態であれば、成仏することが出来ないのである。
心が汚れた状態で死に至った人は、霊の状態で苦しまなければならない。
霊の状態で苦しむことによって、汚れを取り除くのである。

2020年12月28日月曜日

追憶 3003

心を美しく保つことが出来れば、病などの問題に苦しむこともないだろう。
それは、心が美しくあれば、不平不満などの歪んだ感情を選択することがないからだ。
歪んだ感情を選択しなければ、苦しむことはないのである。
目の前の問題を喜ぶことが出来れば、苦しむ必要はない。
苦しみに蹟(つまず)かず、豊かに生きるためには、健(すこ)やかで美しい心が必要であるだろう。
人生経験を積んでいくと、この仕組みに気が付くことが出来る人も増えてくる。

2020年12月27日日曜日

追憶 3002

弱く汚れた心が病などの問題を引き起こす。
そして、病などの問題が、結果的に弱く汚れた心を直すのである。
人の世から病が消えることはないだろう。
それは、人の心はいつの時代も弱く汚れているからである。
世の中から病を一つ取り除いても、新たな病が生じてしまう。
人類の歴史は、病の歴史とも言えるだろう。
病を解決するためには、心を美しく保たなければならないのである。

2020年12月26日土曜日

追憶 3001

本心をいちいち曝(さら)け出していては、人間関係というものは円滑(えんかつ)に回らない。
それは、すべての人が自尊心やら弱みやら、傷付く心を抱えているからである。
偽りで保護しなければ、簡単に怒りや悲しみを抱えてしまうのだ。
偽りで保護しなければならない程に、人の心は弱いのである。
わたしには、この世では、弱く汚れた心が互いを慰(なぐさ)め合っているように見える。
強く美しい心も存在するだろうが、世の中には圧倒的に弱く汚れた心が多いように思えるのだ。

2020年12月25日金曜日

追憶 3000

相手に喜んでもらうためや稼(かせ)ぐためには、頑張って笑顔を見せなければならないし、様々な気遣(きづか)いをしなければならないだろう。
ぶっきらぼうな態度で気遣いもしなければ、大抵の相手は喜ばないし、取引をしようとは思わないだろう。
大抵の人は、印象の良い、偽る努力をする方と取引を成立させるのである。
世の中を上手に渡るためには、本性を隠さなければならないだろう。

2020年12月24日木曜日

追憶 2999

人間は、苦しい時に本性(ほんしょう)を現すだろう。
穏やかな時の姿というのは、偽りの姿なのである。
穏やかな時には、誰もが思いやりのある優しい人格を演じることが出来る。
大抵の人は、思いやりのある優しい人格を演じながら他者との調和を保っている。
世の中には、偽りが溢れているのである。
例えば、経済というものは、基本的に偽りを抜きにしては成り立たないだろう。
お金を稼ぐためには、偽らなければならないのである。

2020年12月23日水曜日

追憶 2998

汚れていることを知って初めて、掃除することが出来るのである。
心が汚れていることを教えるのが問題の役割であり、苦しみの仕事なのだ。
人は、問題によって自らの心の状態を知るのである。
問題が無ければ、沈殿(ちんでん)している泥に気が付かずに、水が澄んでいるから美しいと思い込んでしまうのである。
問題こそが、人に自分自身のありのままの姿を教えてくれるだろう。
問題を前にした時に、その人の本質が見えるのである。

2020年12月22日火曜日

追憶 2997

汚れを取り除くためには、汚れていることを認識しなければならない。
澄んでいるからといって、その水が美しい訳ではない。
水は澄んでいたとしても、泥(どろ)が沈殿(ちんでん)しているのであれば泥水なのである。
大切なのは、心の中には様々な破滅的な感情が潜在しているということを知ることだ。
あなたは決して、自らの心が美しいなどと考えてはならない。
美しく見える心も、揺さぶられると濁(にご)ってしまうのである。

2020年12月21日月曜日

追憶 2996

病があろうがなかろうが、破滅的な感情は潜在しているのである。
澄んでいるように見える水溜りも、足を踏み入れると泥水に変わってしまう。
多くの人は、平常時には穏やかな心持ちでいられるが、病などの問題が生じた時には穏やかな心を保つことは出来ない。
多くの人は、問題が生じた時には心を乱し、苦しんでしまうのである。
破滅的な感情は、どのような人物の心の中にも潜在している。
すべての人は、その汚れを取り除くために苦しむのである。

2020年12月20日日曜日

追憶 2995

病は、多くの人にとって悪いことである。
多くの人がそこから得るのは、怒りや悲しみや苦しみといった破滅的な感情であるだろう。
病が破滅的な感情の原因ではないが、多くの人はそのように考えてしまう。
それは、病によって自らの抱える破滅的な感情が引き出されたのであるが、そのようには思えないところに誤解の原因があるだろう。
多くの人は、病が生じなければ、破滅的な感情に苦しむ必要は無かったと考える。
しかしながら、それは自らを正当化しているに過ぎないのだ。


2020年12月19日土曜日

追憶 2994

それは、様々な経験を通じて少なからず成長しているからだ。
何も知らない時よりは、何かを知っているのだ。
何かを知ることは、何も知らないことよりも優れているのである。
それが、どのような知識や知恵であれ、それを知った者を本質へと近付ける。
例えば、それが“悪いこと”であったとしても、知らないよりは知っている方が良いのである。

2020年12月18日金曜日

追憶 2993

小学生の幸福と、中学生の幸福は異なる。
多くの人は、過去の幸福に対して思いを馳(は)せるが、残念ながら、過去に幸福というものは存在しない。
なぜなら、過去の幸福というものは、幼稚(ようち)な幸福感に過ぎないからである。
幼稚な幸福感を幸福と思うのは、成長の過程に問題が生じていると考えなければならないだろう。
過去に幸福を見出すことは、不自然な行為なのである。
冷静に考えてみると、現状がどのように悲惨(ひさん)なものであれ、過去よりはましなのである。

2020年12月17日木曜日

追憶 2992

中学生に対して、小学生の価値観や常識は通用しない。
それは、学びが異なるからだ。
人は、学びに従って自らの価値観や常識を改めなければならないのである。
環境や文化や時代などの、外的な要因に対して、自らを順応させる必要があるのだ。
病に対抗することは、病が促(うなが)して“くれている”変化を否定することになる。
それでは、病から得られるはずの大切な学びを得ることが出来ないのだ。

2020年12月16日水曜日

追憶 2991

すべての人は、成長を実現する。
すべての人は、ゆっくりとでも確実に成長してしまうのである。
それは、生きている以上、経験を避けることは出来ないからだ。
どのような選択も経験に繋がってしまう。
経験を有していない状況というものは存在しないのである。
そのため、すべての人が成長しなければならない。
成長すれば、これまでの価値観は価値を失う。
成長すれば、これまでの常識は通用しないのである。

2020年12月15日火曜日

追憶 2990

病が悪いものだと聞かされて育った人間は、病を悪とするのが普通であるだろう。
幼い子どもは素直であるのが普通だから、大抵の人間は教育のままに価値観を形成するのである。
白は白だし、黒は黒なのだ。
大抵の人間は、当たり前の価値観を疑うことをしない。
そこでは、その価値観で上手くいっているからである。
一部の範囲では、歪んだ価値観でも上手くいく。
しかしながら、そこから出た途端(とたん)に、その価値観では問題を引き起こしてしまうのである。

2020年12月14日月曜日

追憶 2989

病を悪とするのが一般的な価値観であるだろう。
大抵の人が病を悪だと考えている。
大抵の人は、災難と思えることを悪だとしか思えないのだ。
なぜなら、周囲の人がそのように考えていたし、そのように対応していたからである。
大抵の人は、周囲の人がしていたように対応する。
大抵の人の対応は、教育の結果なのである。
教育が異なれば、対応も変わるだろう。
家庭や地域、言語圏や文化圏によって、価値観は違うものなのである。

2020年12月13日日曜日

追憶 2988

しかしながら、自由に動けないことによって、自分自身と向き合う時間を与えられたことに気が付いた。
腰痛は、わたしに内省(ないせい)することの重要性を教えてくれたのである。
腰痛によって強制的に休むことがなければ、わたしは外ばかりに目を向けていただろう。
それでは、霊的な道に進むことは出来なかったのである。
わたしは、腰痛のおかげで霊的な道を始めることが出来た。
腰痛という苦しみがなければ、わたしは霊的な道に進んではいないかも知れないし、ここに文章を記していないかも知れないのである。

2020年12月12日土曜日

追憶 2987

わたしの抱える傲慢(ごうまん)さは、心の奥深くにまで根を伸ばしており、上物(うわもの)を切り倒したくらいではすぐに復活してしまうのである。
恐らくは、わたしと同じように、多くの人も根深い傲慢さを抱えているのではないだろうか?
そして、わたしと同じように苦しんでいるのではないだろうか?
わたしは何度も腰痛によって動けなくなった。
症状(しょうじょう)が重い時には、一カ月以上も寝て過ごすという生活をしていた。
それは、労働を善と思っていたわたしにとっては、とても辛いことだったのである。

2020年12月11日金曜日

追憶 2986

わたしはずっと腰痛に悩まされてきたから、毎日のように腰痛について考えていた。
腰痛の意味や原因を考え続けて、その原因が傲慢(ごうまん)にあると思い至(いた)ったのである。
それからは、出来る限り傲慢さに陥らないように努めた。
しかしながら、それは決して簡単なことではない。
謙虚(けんきょ)である時には、腰痛は和(やわ)らぐ。
痛みが消えて暫(しばら)くは謙虚さを保つことが出来た。
しかしながら、痛みがないことが通常となると、いつの間にかに傲慢さが芽を出し、いつの間にかに蔓延(はびこ)っているのである。

2020年12月10日木曜日

追憶 2985

彼や彼の家族は、腰痛を喜ぶことが出来ない。
彼等は、腰痛を悪いことだと考えているのだ。
残念ながら、喜ばなければいつまで経っても苦しいのである。
腰痛の原因は傲慢(ごうまん)さであるから、腰痛を治すには謙虚(けんきょ)でなければならない。
腰痛に対する謙虚さとは、与えられた腰痛を喜ぶことである。
腰痛を喜ぶことが出来れば、回復に向かうということを理解しなければならないだろう。
わたしも10代の後半頃から腰痛には悩まされてきたが、腰痛を喜ぶことによって悩まされることは無くなった。
それに気が付くのに6、7年は掛かっている。

2020年12月9日水曜日

追憶 2984

精神的な苦しみも、肉体的な苦しみも、誤解を手放すことで消え去っていくのである。
誤解を手放すことが出来れば、苦しみも手放すことが出来る。
例えば、技術や体力や精神力の向上を理由にしている人は、過酷(かこく)な環境を喜ぶ。
しかしながら、そのような理由を持たない人にとって、そのような環境は苦しみ以外の何でもないだろう。
病を喜ぶ人にとって、それは苦しみではない。
病を苦しむ人にとってのみ、それは苦しみなのである。

2020年12月8日火曜日

追憶 2983

幼い頃には感じていた精神的な苦しみも、成長に伴(ともな)って薄れていく。
若い頃の精神的な苦しみも、歳を重ねる程に消え去ってしまうだろう。
悩みや苦しみも、慣(な)れや練習によって大半が無くなってしまうのである。
半年前に悩んでいたことを今でも同じように悩んでいるだろうか?
一年後はどうだろうか?
五年後には、そのような悩みがあったことさえ忘れているかも知れないだろう。

2020年12月7日月曜日

追憶 2982

経験を積んでいく内に肉体や精神が鍛(きた)えられ、苦しみに耐(た)えることが出来るようになっていくのである。
中国の少林寺の修行僧が、尋常(じんじょう)ではない肉体の強靭(きょうじん)さを示すのを見れば、苦しみが思い込みであるということを理解することが出来るだろう。
喉(のど)に槍(やり)を突き立てて、そのまま槍を折ってしまうというような、通常では考えられないようなことをやってのけるのだ。
経験を積めば、それ程までに強くなるということであろう。

2020年12月6日日曜日

追憶 2981

苦しいことも、それを経験し続けると楽しくなる。
もちろん、虐待(ぎゃくたい)などのように、短時間で度を超えるような苦しみは例外である。
少しずつ慣らしていけば、やがては楽しみとも成るということである。
始めた頃は苦しいと思っていたことも、続けているといつの間にかに楽しみとなっているものだ。
例えば、マラソンを趣味にしている人は、始めから楽しく走っていた訳ではないだろう。
始めた頃は、長い距離を走ることは苦しいものである。

2020年12月5日土曜日

追憶 2980

どのように難しいものであっても、向き合い続けると理解は深まる。
どのように理解の遅い者であっても、向き合い続けると理解することが出来るのである。
理解が浅いと、難しく苦しいことも、理解が深まれば簡単であり、楽しいのだ。
分からない時には詰(つ)まらなくても、分かってくると楽しくなるものである。
多くの人は、人生における様々な問題に対して苦しむ。
それは、楽しめる程に理解が深まってはいないからである。

2020年12月4日金曜日

追憶 2979

慣(な)れによって、苦しみが薄まるのは、理解が深まってくるからだ。
何度も向き合っていると、程度の差はあるが、どのようなものに対しても順応する。
何度も向き合っていると、どのようなものにも理解が深まり、偏見(へんけん)や誤解も薄れてくる。
多くの場合、苦しみというのは偏見や誤解によって引き起こされる。
偏見や誤解は、無知によって引き起こされるのである。
無知を手放すためには、向き合わなければならないのである。


2020年12月3日木曜日

追憶 2978

人生に同じような問題や苦しみが続くのは、その問題や苦しみを喜び、平和を実現することが出来ていないからである。
その問題や苦しみを喜び、平和を実現することが出来れば、それを問題や苦しみとは思わないだろう。
それを問題や苦しみと思わなければ、それは問題や苦しみではないのである。
どのようなものに対しても、それと何度も向き合っている内に嫌悪感は薄まる。
それは、何度も向き合っていると、少しずつではあるが理解が深まるからである。

2020年12月2日水曜日

追憶 2977

正しい回答とは、否定しないということである。
どのような状況にも意味や価値を見出し、喜びと平和を実現することだ。
目の前の状況に対して意味や価値を見失い、嫌って争うのは正解ではないのである。
それでは、試験に合格することが出来ないだろう。
試験に合格することが出来なければ、追試験を受けなければならない。
追試験で合格するために、再びテスト範囲を勉強しなければならないのである。
それは、あなたが合格するまで続けられるのだ。

2020年12月1日火曜日

追憶 2976

人が病などの様々な問題や苦しみによって深めるべきなのは、自分自身やこの世の理(ことわり)に対する理解である。
人は、自分自身や理を理解するために様々な問題や苦しみを経験しているのだ。
自分自身や理に対する理解不足が、問題や苦しみの本質なのである。
これは、試験と同じようなものであろう。
試験には様々な問題が出題される。
そこには決められた正解が存在し、あなたは正しく回答しなければならない。

2020年11月30日月曜日

追憶 2975

病に対して争っているのであれば、病が治ることはない。
自分が直らないのだから、病も治らないのである。
元々は、自分が不足したり、歪んだり、間違えているから病んだのである。
病は、人を助けるために与えられるのだ。
病を得るということは、決して不幸ではない。
寧(むし)ろ、喜ぶべきことなのである。
病を喜び、平和を実現すれば、病を所有する必要はないのである。

2020年11月29日日曜日

追憶 2974

病は、人の身体や心を痛めるが、人格は磨かれる。
病によって最終的に得られるのは、人格の成長なのである。
残念ながら、多くの人はそのことに気が付かない。
なぜなら、病に対して否定的な考えを持っているからだ。
多くの人は、病を喜ばないし、病に対して平和を実現することもない。
多くの人は、病を嫌うし、病に対して争ってしまうのである。
それが“普通”なのである。

2020年11月28日土曜日

追憶 2973

病を問題や苦しみだと思わないことが悟りなのである。
悟りを得ると、病が問題や苦しみでないことが分かるのだ。
そうなれば、病を心配することもなければ、不安に思うこともなく、憤慨(ふんがい)することもなければ、悲しみの果てに絶望することもないだろう。
悟りを得た人は、病に対して感謝と平和を実現するのである。

2020年11月27日金曜日

追憶 2972

愛さない方に傾(かたむ)いたのであれば、愛する方にバランスを取らなければならないのだ。
そして、最終的には、愛することも愛さないこともなくなることが求められているのである。
愛することも愛さないこともなくなれば、そこには喜びと平和が訪(おとず)れる。
病に対して喜び、そこに平和を実現するのであれば、病が問題であることも、苦しみであることもなくなるのである。

2020年11月26日木曜日

追憶 2971

彼は、自らの抱えている腰痛を愛さなかった。
それは、家族も一緒である。
彼等は、彼の腰痛を愛さなかったから、わたしを訪(たず)ねたのである。
わたしに、彼の腰痛を何とかして欲しいと思いやって来たのだ。
愛さないのであれば、愛するように仕向けられる。
愛することのない者は、愛することを学ばなければならないのだ。
彼は、腰痛を愛さなければならない。
腰痛を愛さなければ、腰痛は治らないのである。

2020年11月25日水曜日

追憶 2970

すべての人は、悟りを得るまで苦しみ続けなければならないだろう。
愛したり、愛さなかったりを繰り返し、苦しまなければならないのである。
愛することも、愛さないことも傲慢(ごうまん)である。
元々は一つのものを、自分の都合で二つに分断しているのだから傲慢なのである。
多くの人は、病を愛さない。
それは、健康を愛しているからである。
健康を愛しているから、病を愛さないのである。

2020年11月24日火曜日

追憶 2969

愛したり、愛さなかったりすることを繰り返すことで、人は、いつか真(まこと)の喜びに気が付き、平和を実現することが出来る。
都合の良いことと悪いことを合わせなければ、真の喜びは得られないということを知らなければならないのである。
愛すること(味方)と愛さないこと(敵)を一つにすることが平和なのだ。
それに気が付いた時に悟りを得るのである。

2020年11月23日月曜日

追憶 2968

悟りを得るためには、すべてを一つに統合しなければならない。
すべてを一つに統合するためには、すべてと繋がらなければならないだろう。
すべてとは、すべての感情のことである。
わたし達は、様々な経験を通じて自らの内に様々な感情を発見する。
わたし達は、外に内を見るのだ。
すべての感情を発見するためには、自分が想像するよりも多種多様な経験をしなければならないだろう。
そして、発見した感情を認識し、理解するまでは、それを何度も繰り返し経験しなければならないのだ。

2020年11月22日日曜日

追憶 2967

恐らくは、平和の先には“悟り”が存在する。
悟りとは、“すべては一つ”という究極の理(ことわり)に至(いた)ることである。
悟りの状態に至ると、区別は無くなるのではないだろうか?
すべてを一つとして捕らえることが悟りであるからだ。
すべての人は、悟りを目指しているように思える。
わたし達は皆、悟りを得るために人生を経験しているのであろう。

2020年11月21日土曜日

追憶 2966

愛の土壌(どじょう)に実るのは、喜びや平和などであろう。
世の中には、様々な段階の喜びや平和が存在するが、真(まこと)の喜びや平和というものは、愛を基礎(きそ)として成り立つのである。
愛の無い喜びは喜びではないし、愛の無い平和は平和ではないのだ。
真の喜びには、陰陽(いんよう)の区別は薄くなっているのではないだろうか?
良きと悪しきの区別なく喜べることが、真の喜びである。
平和は、喜びにも増して陰陽の区別が薄くなっているように思える。
それは、善悪の隔(へだ)たりを取り除いたところに平和が存在するからである。

2020年11月20日金曜日

追憶 2965

愛には矛盾(むじゅん)が存在する。
愛には、陰と陽の二つの側面が存在しているのである。
愛することも愛であるし、愛さないこともまた愛である。
しかしながら、愛は至高(しこう)の価値観ではないということを理解する必要があるだろう。
恐らく、愛とは、土壌(どじょう)のようなものであるだろう。
それが痩(や)せていたら作物は実らないが、肥(こ)えていれば作物は豊かに実るのである。

2020年11月19日木曜日

追憶 2964

愛することを謳(うた)う宗教こそが、争いの歴史を持っている。
今日(こんにち)の平和(に見える)な世の中であっても、他の宗教や宗派を否定しては争っているのである。
それは、愛することを教えているから、意図(いと)せずに、同時に愛さないことも教えなければならないのだ。
愛していると口にする恋人同士は争っている。
愛することが無ければ、争うことも無いであろう。
愛するからこそ、愛さないのである。

2020年11月18日水曜日

追憶 2963

宗教などでは、愛することが最も価値のある行為のように吹聴(ふいちょう)している。
愛することすら出来ない多くの人にとって、それはとても魅力的な教えのように思うだろう。
愛することが出来ない者は、愛することが出来る方が良いのかも知れない。
段階的にしか進むことが出来ないのであれば、愛することを学ぶ必要があるだろう。
しかしながら、愛するためには、愛さない必要がある。
愛することを学べば、愛することの矛盾(むじゅん)に気が付くことになるだろう。

2020年11月16日月曜日

追憶 2962

それは、気にしないということである。
相手との様々な違いを気にしないということは、愛することよりも上等な手段のように思えるのだ。
人は、自分自身に対しても、自分以外の存在に対しても、様々な確執(かくしつ)を抱える。
それは、違いを気にしているからであろう。
多くの人は、一方を愛して他方を愛さないのである。
それでは、確執が生じることは当然の結果なのだ。

2020年11月15日日曜日

追憶 2961

愛することは良いことのように思うが、愛するためには、愛さないという対比(たいひ)が必要である。
この世界においては、何かを成り立たせるためには、釣り合いを取る必要があるのだ。
愛さないという対象があるからこそ愛することが出来るのである。
愛することだけでは、愛することに気が付くことは出来ないのだ。
愛さないという行為があるからこそ、愛するという行為が成り立つのである。
仲間としての関係性が成り立つのは、敵が存在するからである。
敵が存在しなければ、無関心という行為を選択するのではないだろうか?

2020年11月14日土曜日

追憶 2960

しかしながら、多くの人は当然のように物事の善し悪しを判断している。
そして、その判断に従って喜んだり、悲しんだり、愛し合ったり、争ったりしているのだ。
愛することは傲慢(ごうまん)である。
しかしながら、多くの人はそのことを理解することが出来ないであろう。
なぜなら、多くの人は、愛することを尊(とうと)い行為だと信じているからである。

2020年11月13日金曜日

追憶 2959

傲慢(ごうまん)な者は善悪を判断する。
理解することが難しいかも知れないが、善悪を判断することが傲慢なのである。
なぜなら、それは、目の前の状況や、人生や“神”を否定する行為であるからだ。
残念ながら、すべての人は知らない。
すべての人は、無知なのである。
自分が何か?ということも分からない者に、どうして物事の善し悪しを判断することが出来るだろう?
本来ならば、判断すること自体が出来ないはずなのである。

2020年11月12日木曜日

追憶 2958

“良いもの”を悪いものとして認識し、思考するのであれば、破滅的な感情に至(いた)るのは当たり前のことである。
多くの人は、破滅的な感情を生きているのだ。
破滅的な感情とは、感謝することが出来ない考え方のことだと理解すれば良いだろう。
多くの人は、目の前に導かれる状況に対して感謝することが出来ない。
それは、目の前の状況に対して、善悪を判断しているからである。

2020年11月11日水曜日

追憶 2957

目の前に導かれる“良いもの”によって、わたし達の浅はかな思考は否定される。
すべての人が、人生に挫折(ざせつ)や絶望を経験しているだろう。
人生は、決して思い通りにはならない。
人生が思い通りになってはおかしいのである。
残念ながら、人には、目の前の“良いもの”を良いものとして認識する力はない。
大抵の人は、目の前の“良いもの”を悪いものとして認識し、思考してしまう。
それが、“普通”なのである。

2020年11月10日火曜日

追憶 2956

悪いものがこれ程までに導かれるというのは考え難(にく)い。
人生を深く考察すると、良いものだけが導かれているのである。
もちろん、自分の都合で考えてはならない。
都合で考えてしまうと、視野が著(いちじる)しく狭まってしまうからだ。
目の前に導かれるものの中には、何一つ無駄や無意味なものは存在しない。
すべてに価値があり、意味があるということを理解することが出来る。
若い頃には分からなかったことも、経験を重ねると分かってくるものだ。
以前のわたしは、目の前に悪いものが導かれると思っていたが、残念ながら、そのようなことはなかった。
目の前には、良いものだけが導かれていたのである。

2020年11月9日月曜日

追憶 2955

人生には問題が導かれ続ける。
一つの問題を解決すれば、しばらくして別の問題が導かれるのである。
どのような人物も、問題を避けることは出来ないし、導かれた問題をそのままにしておくことも出来ない。
人は、強制的に問題と向き合わなければならないのである。
人生における問題とは、“神”からの贈り物であるということを理解しなければならないだろう。
問題は、決して悪いものではないのだ。

2020年11月8日日曜日

追憶 2954

人間は、“神”の道具のようなものであろう。
誤解してはならないが、“神”は道具を人間のように粗雑(そざつ)に扱うことは決してない。
“神”は、道具を大切に扱い、使い易いように育てるのである。
新品の道具は、残念ながら良い道具とは言えないだろう。
それは、手に馴染(なじ)まないからである。
道具は、手に馴染むまで大切に鍛(きた)えられる。
それは、使い手の要求に応えられるまで続くのである。

2020年11月7日土曜日

追憶 2953

その調整こそが、目の前の問題なのである。
目の前の問題は、多くの人が忘れている大切なものを思い出させる。
それは、貢献(こうけん)するということだ。
人は、誰かや何かに対して貢献するために調整される。
曲がったものを真っ直ぐにするためには、叩(たた)かなければならない。
あなたは、曲がった物に対しては、叩くか反対方向に曲げるだろう。
曲げる方はそれを最善と思うが、曲げられる方はそれを苦しみと思うのである。

2020年11月6日金曜日

追憶 2952

すべての人は、貢献(こうけん)のために生まれる。
誰一人として、自分勝手に生まれることはないのである。
人は、誰かや何かのために生まれるのだ。
しかしながら、そのことを覚えている人は少ない。
大抵の人は、恐れや欲に負けて、自分のために生きるようになる。
それが傲慢(ごうまん)であるということなのだ。
自分のために生きても、人生の目的である貢献を果たすことは出来ない。
貢献することが出来なければ、それが出来るように調整されるのである。

2020年11月5日木曜日

追憶 2951

宿命が命ずるのは、誰かや何かのためにである。
決して、自分自身(あなた)のために命ずることはないのである。
宿命は、自分自身にとっては都合の悪いことを命ずる。
しかしながら、それは、誰かや何かにとっては都合の良いことなのだ。
あなたは、自分自身のために既存(きぞん)を否定することは出来ないが、誰かや何かのためであれば、既存を否定することが許されるのである。

2020年11月4日水曜日

追憶 2950

ただし、宿命に従って生きるというのは、既存(きぞん)のものをそのまま受け入れるということではない。
宿命が変化を命じるのであれば、既存を前向きに否定しなければならないのである。
自分のために生きる時には、不平不満を選択してしまうだろう。
しかしながら、宿命に従って生きる時には、改善点に対して不平不満を選択することはないのだ。
宿命に従って生きる時には、問題を前向きに改善しようとするため、不平不満を吐かずに建設的な選択が行えるのである。

2020年11月3日火曜日

追憶 2949

真(まこと)を生きなければ、真を得ることは出来ない。
偽りを生きるのであれば、偽りを得なければならないのである。
残念ながら、多くの人は偽りの自分を生きている。
傲慢(ごうまん)である時点で、それは真ではないのだ。
真とは、宿命に従って生きることである。
目の前の問題に不平不満を吐いているのであれば、宿命に逆らって生きているということなのである。

2020年11月2日月曜日

追憶 2948

残念ながら、多くの人は、真(まこと)の幸福を手に入れられないということを知らない。
多くの人は、理想を実現すれば、真の幸福を手に入れることが出来ると信じているだろう。
しかしながら、傲慢(ごうまん)に生きて、理想を実現したとしても、真の幸福を手に入れることは出来ないのである。
なぜなら、前提(ぜんてい)として、どのような理想も実現することは出来ないというのもあるが、
傲慢に生きるということは、真を生きられないということだからである。

2020年11月1日日曜日

追憶 2947

傲慢(ごうまん)によって手に入れられるのは、本質的“以外”の価値である。
残念ながら、傲慢によっては、本質的な価値を手に入れることは出来ないのだ。
傲慢によって何をどれだけ手に入れたとしても、真(まこと)の幸福(魂の充足)だけは手に入れることが出来ないのである。
貪欲(どんよく)に追い求めても、本当に手に入れたいものが手に入れられないというのは皮肉(ひにく)であるだろう。

2020年10月31日土曜日

追憶 2946

傲慢(ごうまん)である時には、好きなだけ快楽や富を貪(むさぼ)ることが出来る。
傲慢であれば、快楽や富に対する欲求は満たされるのである。
傲慢に陥(おちい)っている者には、それが幸福だと思えるのだ。
傲慢によって手に入れた権力や財力によって、大抵の欲求が満たされるのだから、それを幸福だと“勘違い”してしまうのは仕方のないことであろう。


2020年10月30日金曜日

追憶 2945

多くの人は、傲慢(ごうまん)という名の檻(おり)に捕らわれる。
それは、一度捕らわれると、容易(ようい)に抜け出すことは出来ない。
しかも、快楽や富を貪(むさぼ)っている間は、自分が捕らわれているということにすら気が付かないのである。
快楽や富を貪ることに夢中になっていることで、視野が狭まっているのだ。
多くの人は、自分が傲慢に捕らわれていることを知らない。
多くの人は、自分が幸福とさえ思っている程なのである。

2020年10月29日木曜日

追憶 2944

多くの人は、快楽や富を貪(むさぼ)ろうとして、檻(おり)の中に入る。
そして、そこにぶら下がっている快楽や富に手を出し、傲慢(ごうまん)という頑丈な檻に閉じ込められてしまう。
強靭(きょうじん)な肉体を持つ野生動物がどんなに足掻(あが)いても、鉄製の檻を破ることは出来ない。
一度罠に掛かってしまえば、そこから抜け出すことは困難なのである。

2020年10月28日水曜日

追憶 2943

人は、欲望という弱さによって、快楽や富という餌(えさ)に釣られる。
多くの人は、快楽や富の誘惑(ゆうわく)に周りが見えなくなってしまうのだ。
それは、目の前の餌によって鉄製の檻(おり)を見失ってしまう野生動物のようにである。
重要なのは、餌ではなく鉄製の檻の方である。
周りが見えなくなってしまうと罠に引っ掛かり、自由や命などの大切なものを失ってしまうのだ。

2020年10月27日火曜日

追憶 2942

多くの人が、この罠(わな)に引っ掛かってしまう。
それは、動物が人間の仕掛けた“分かり易い”罠に引っ掛かってしまうのと同じようなことであろう。
人間は、どう考えても不自然な罠を仕掛ける。
箱罠(はこわな)が良い例であるだろう。
箱罠とは、鉄製の檻(おり)で作られた罠のことである。
あれは、どう考えても不自然な代物だが、動物は簡単に引っ掛かってしまう。
それは、目の前の餌(えさ)に気を取られて、箱の存在を見失ってしまうからである。

2020年10月26日月曜日

追憶 2941

人生というものは、自分の結果である。
人生の原因とは、自分自身なのだ。
それ以外の原因は存在しないのである。
努力して、誰かや何かのせいにしても、目の前の問題が解決することはない。
それは、原因が自分自身に存在するからだ。
問題を誰かや何かのせいにしても、残念ながら、自分の中の不平不満が解消されることはない。
寧(むし)ろ、誰かや何かのせいにすることによって、不平不満は増大してしまうのである。

2020年10月25日日曜日

追憶 2940

多くの人は、不平不満を抱えて生きている。
それは、自分という分際を理解しないからだ。
自分という分際を理解しないから、余計なものが欲しくなるし、溢れて腐敗(ふはい)しているものに対して苛立(いらだ)ちを覚えているのである。
言っておくが、人は誰かや何かに苛立っているのではない。
自分自身の矛盾(むじゅん)や不自然さに苛立っているのである。
残念ながら、そのことに気が付いている人はほとんどいないだろう。
大抵の人は、自分が正しいと思っているし、自らの傲慢(ごうまん)さや愚(おろ)かさを正当化する程である。

2020年10月24日土曜日

追憶 2939

わたし達は、社会という生態系を円形に保たなければならない。
社会という生態系を円形に保つためには、自分の役割を果たすことである。
自らの分際を弁(わきま)え、その器に相応(ふさわ)しく生きるのだ。
強欲に生きてはならない。
それは、器に入り切らない程の富を得ようとする生き方であるからだ。
器に入るものは益となるが、器から溢れたものは害となるということを覚えておかなければならないだろう。

2020年10月23日金曜日

追憶 2938

草食獣にとっても、肉食獣の存在は必要不可欠なのである。
様々な立場の生物が、互いに補い合って支え合うことによって、生態系の輪が保たれているのであろう。
人間には、社会という生態系が存在する。
それは、三角形に思えるが、本当は円形なのである。
社会の生態系を三角形として認識するのは、自らの内に社会や自分自身に対する不平不満を抱えているからではないだろうか?

2020年10月22日木曜日

追憶 2937

生態系は、円の形をしているのではないだろうか?
それぞれが、それぞれの立場で互いを補い合っているというのが、生態系の本来の姿であるだろう。
すべての生命が肉食獣として生きることは出来ない。
そんなことになれば、共食いによってすぐに全滅してしまうだろう。
肉食獣が生存するためには、草食獣の存在が不可欠である。
草食獣だけでは、草木を食い尽くしてしまってやはり全滅してしまうであろう。

2020年10月21日水曜日

追憶 2936

自然界には生態系というパワーバランスが存在する。
良く三角形で表されるが、あれは数を表しているだけであろう。
生態系の頂点に近い程に数が少なく、生態系の底辺に近い程に数が多いということである。
三角形で表されているから、頂点に近い程に強いと思ってしまうが、決してそのようなことはないだろう。
数の力というものがあるのだ。
生態系の底辺に近い程に数は多い。
それは、繁栄しているということである。
それは、強いということであるだろう。

2020年10月20日火曜日

追憶 2935

すべての人が、都会のような暮らしをすることは出来ないだろう。
それは、不自然な生活様式である。
都会には都会の役割があり、それに相応しい生活様式が存在する。
田舎にも同様である。
都会が無ければ田舎は存続しないし、田舎が無ければ都会は存続しないのではないだろうか?
都会や田舎の形を存続させたいとは思わないが、現状では多様な生活様式が必要であるように思える。
都会が良いからといっても、すべてを都会にすることは出来ないし、そのような生活様式を取り入れることも出来ない。
大切なのはバランスであるだろう。

2020年10月19日月曜日

追憶 2934

発展のために淘汰(とうた)されていくのは良いことなのかも知れない。
しかしながら、多様性を犠牲にすると、後々に問題が生じてしまうだろう。
例えば、日本の生活水準をすべての国で行うことは出来るだろうか?
恐らくは出来ないのではないだろうか?
エネルギーや食料や資源の問題が生じてしまうであろう。
核心的な技術が発見されない限りは、様々な問題を解決し、すべての国と人が日本の生活水準を得ることは出来ないのではないだろうか?

2020年10月18日日曜日

追憶 2933

しかしながら、いつまでも便利な暮らしが続いていくとは思えない。
なぜなら、便利な暮らしの裏には、何かしらの犠牲(ぎせい)が存在するはずだからだ。
白色人種が栄えた側面には、多くの有色人種の犠牲があったということを忘れてはならないだろう。
有色人種の犠牲があってこその繁栄(はんえい)であったに違いない。
今は、経済的に同じようなことが行われているだろう。
今の世の中では、誰かが儲(もう)けたら、誰かが損をするのである。
誰かが儲けるために、誰かを犠牲にしているのである。

2020年10月17日土曜日

追憶 2932

今日(こんにち)の日本は、特に明治維新以降、一神教圏の影響を強く受けている。
特に、経済活動に価値を置く考え方は、一神教圏の影響を受けているように思えるのだ。
もちろん、ただ日本人が欲望に対して素直になっただけであるのかも知れないが、そこにも一神教圏の影響が大きいように思える。
悪いとは思わないが、良いとも思えない。
おかげで便利な世の中になったし、高い水準(すいじゅん)の清潔で不自由の無い暮らしを営むことが出来ている。
ある意味で、傲慢(ごうまん)さが今の便利な暮らしを実現したのであろう。


2020年10月16日金曜日

追憶 2931

恐らく、人類は自然環境との関係を良好に築いて来たが、いつの頃から人類は傲慢(ごうまん)に陥(おちい)り、関係性を悪化させてしまった。
恐らく、アニミズム(精霊崇拝)の時代は、人類は自然環境との良好な関係を築いていただろう。
しかしながら、一神教系の宗教の獲得と共に、人類は謙虚(けんきょ)さを手放してしまったのではないだろうか?
白色人種は、恐らくは、“作り出された”時から傲慢であったのだろう。
それは、後天的なものかも知れないが、白色人種を作った何者かが、傲慢であったからではないだろうか?
彼等の文化や宗教には、傲慢さが刻み込まれている。
世界を争いの炎で焼き尽くし、自然環境を壊したのは、白色人種の文化や宗教なのである。

2020年10月15日木曜日

追憶 2930

仕事で関係している時には、そこに利益が発生するために、ある意味で良好な人間関係が築かれる。
それは、利益を得るために相手を利用している関係性である。
意識してはいなくても、多くの人が利益を得るために人間関係を構築(こうちく)するのだ。
利益が得られないと分かると、そのような関係性はいとも簡単に消滅してしまうだろう。
仕事の立場上、多くの人に持て囃(もてはや)されていた人も、仕事から離れると相手にされないのである。

2020年10月14日水曜日

追憶 2929

しかしながら、わたし達は自分にとって有益な相手とだけ付き合うということは出来ない。
利益のために付き合うことは協力ではない。
傲慢(ごうまん)に利益を貪(むさぼ)る者は、結び付いている相手からも利益を得ようと企(たくら)んでいるのである。
それは、やがては共食いや共倒れという状態に陥(おちい)ってしまうだろう。
仲間と思っている相手も、利益が得られないと分かると簡単に離れてしまう。
傲慢(ごうまん)な人間とは、そのようなものなのである。

2020年10月13日火曜日

追憶 2928

傲慢(ごうまん)な人間は、何かしらの利益を求めて他者と付き合っている。
傲慢な人間は利益の生じない相手とは付き合わないのである。
給料を支払わない会社で働き続ける人は滅多(めった)にはいないだろう。
大抵の人は、給料を得るために働いているのである。
それは、昨日の友は今日の敵というような危(あや)うい関係性であるだろう。
利益だけを考えるのであれば、利益の生じない相手とは関わるべきではない。
自分にとって有益な相手とだけ付き合うことが合理的な方法である。

2020年10月12日月曜日

追憶 2927

傲慢(ごうまん)は協力を否定する。
謙虚(けんきょ)でなければ、協力を肯定(こうてい)することはないのだ。
傲慢な者は協力はしない。
利益のために相手を利用しているに過ぎないのである。
利益が傲慢な者達を結び付けているが、そこに利益が発生しなければ離れてしまうだろう。
多くの人は、傲慢に生きている。
多くの人は、利益が発生しなければ付き合わないだろう。

2020年10月11日日曜日

追憶 2926

文明の発展のためには、傲慢(ごうまん)さは必要ではない。
戦争によって技術が向上したという意見があるが、向上心さえあれば、争わなくても技術は向上するのである。
予算の話をするかも知れないが、予算を注ぎ込めば向上するというものでもないだろう。
争いによって向上するよりも、協力によって向上する方が容易(たやす)いのである。

2020年10月10日土曜日

追憶 2925

自分として生きるためには、与えられている分際(ぶんざい)を弁(わきま)えなければならない。
自分を否定する生き方では、分際に収まることが出来ないのである。
傲慢(ごうまん)に生きるということは、分際を否定するということだ。
傲慢に、強欲に生きても、決して幸せにはなれない。
傲慢や強欲さに従って文明を発展させ、自然界や他者からの搾取(さくしゅ)によって豊かで便利な暮らしを手に入れた人類は、自然災害や病気などの様々な問題を抱え込むことになった。
文明を発展させると、それに従って新たな問題が生じてしまうのである。

2020年10月9日金曜日

追憶 2924

自分ではない何者かに成ることでは、豊かさを得ることは出来ない。
すべての人は、自分として生まれたのである。
自分として生まれたのであれば、自分として生きなければならない。
それが豊かさを得る方法である。
自分として生まれたことには意味がある。
自分は、この世界に一人しか存在しないのだ。
あなたの代わりになる人は、この世界には他に存在しないのである。

2020年10月8日木曜日

追憶 2923

内からの憧れや外からの圧力によって、人は自分ではない何者かに成ろうとしている。
本当は、社会的な成功になど興味がないのに、成功者を目指す。
好きでもない相手と交際したり、したくもない結婚をする。
それが、自分の本心からの願いではなくても、それを叶えようとするのだ。
そうさせたのは、様々な形で与え続けられている情報や教育であるだろう。
すべての人は、自分ではない何者かに成るように教育されているのである。

2020年10月7日水曜日

追憶 2922

菫(すみれ)は桜には成れないし、鯛(たい)は鶚(みさご)には成れない。
自分を否定して、他の何かに成ることは出来ないのである。
多くの人は、自分を否定し、他の何かに成ろうと試みるが、残念ながら失敗に終わる。
菫は、足元に可憐(かれん)に咲くことが美しく素晴らしい。
桜は、頭上に絢爛(けんらん)に咲くことが美しく素晴らしい。
鯛は、海底を悠然(ゆうぜん)と泳ぐことが美しく素晴らしく、鶚は優雅に大空を舞うことが美しいのである。
この世の存在が、与えられた自分以外に成ることは出来ないのだ。

2020年10月6日火曜日

追憶 2921

傲慢(ごうまん)であることは、生命力が盛んであるように思えるし、夢や目標を持って生きているように見えて羨(うらや)ましく思える時がある。
しかしながら、わたしにはそのような生き方が出来ない。
憧(あこが)れはあるが、成り切れないのである。
わたしの進むべき道は、そのようなものではないと思えて仕方がない。
欲望に従って生きて行ければ、きっと今よりも生きることは楽だろうと思う。
しかしながら、どうしてもそのようには成れないのである。


2020年10月5日月曜日

追憶 2920

わたしは、生きることに興味がない。
世の中を変えたいとか、財産を築きたいとか、夢を叶えたいとか、理想を実現したいとか、そういったものがないのである。
わたしは傍観者(ぼうかんしゃ)のようである。
わたしは謙虚(けんきょ)であるのか、無気力であるのか、生命力が薄弱(はくじゃく)であるのか分からない。
わたしには、多くの人のようにあれがしたい、これが欲しいという思いが少ないように思えるのだ。
この世との繋がりのようなものが薄いのかも知れない。

2020年10月4日日曜日

追憶 2919

わたしの分際(ぶんざい)は、“成功者”には相応(ふさわ)しくないだろう。
わたしの器は、そのような形をしてはいないのだと思える。
わたしは、多くの人のように、この世のことに熱意を持つことが出来ない。
どうしても、この世が空しく思えてしまうのである。
楽しくない訳ではないが、何を得て、何を手放しても、根本には空しさが存在しているのだ。
わたしには、この世が幻想のように思えてしまうのである。

2020年10月3日土曜日

追憶 2918

残念ながら、わたしは“成功者”に成ったことがない。
わたしには、多くの人の生活を支える仕事も有り余る富も無いのである。
わたしに“成功者”に成り得る度量があるかは分からないが、恐らくは無いだろう。
わたしには、“成功者”に成ろうとする野心や、競争に勝とうとする傲慢(ごうまん)さが足りないのである。
わたしは、多くの人が志(こころざ)す“成功者”の道に対して、多くの人のように情熱を抱くことが出来ないのである。

2020年10月2日金曜日

追憶 2917

“成功者”を目指し、それに達することは悪いことではない。
成功者は、仕事を作り、お金を作り、世を作る。
そして、直接的、間接的に多くの人の生活を支えているのだ。
お金は、人を動かし、世の中を回す血流のようなものである。
多くの人は、お金に仕(つか)えるよりも、お金で仕えさせたいと思うし、お金で自由を買いたいとも思っているだろう。
お金によって、世の中に存在する大抵の物や幸福は手に入るのである。
多くの人は、“成功者”が大抵の物や幸福を手に入れていると思っている。
だから、“成功者”に憧れ、それを目指すのであろう。

2020年10月1日木曜日

追憶 2916

しかしながら、わたしはそれを恥ずかしいとは思っていなかった。
わたしが未熟であったのもあるが、周囲の人もそのように生きていたように思えたし、テレビでは、“成功者”の暮らしを宣伝していたのである。
幼いわたしが傲慢(ごうまん)に生きることは、ある意味で当然のことなのではないだろうか?
多くの人が傲慢に生きるのも、様々な形で成功者を目指すことを教育されているからだと思える。
多くの人は素直である。
素直な人達は、教育に従(したが)って生きるだろう。

2020年9月30日水曜日

追憶 2915

わたしは、霊的な生き方に出会うまでは、傲慢(ごうまん)に生きてきた。
それは、今よりも浅はかであったからである。
今でも知恵には乏しいが、霊的な生き方を始める前は比較にならない程に愚(おろ)かな生き方をしていたのである。
わたしは、悪知恵に従って、傲慢に、強欲に、強情に生きてきたのだ。
振り返ると恥ずかしく思ってしまう。
取るに足らないことに価値を見出して、それに執着(しゅうちゃく)して生きていたのである。

2020年9月29日火曜日

追憶 2914

それには、人間に与えられた特徴(とくちょう)が深く関係しているのだろう。
鳥が翼を与えられ、魚が鰓(えら)を与えられ、獣が牙を与えられたように、人間には知恵が与えられた。
知恵には、深さが存在する。
知恵は知恵でも、それが浅はかなものであれば悪知恵である。
悪知恵は、人を傲慢(ごうまん)に陥(おちい)らせるのだ。
多くの人が傲慢に陥っているのは、知恵が浅いからである。
人間は、未熟から始めなければならない。
すべての人は、未熟に生まれるのである。


2020年9月28日月曜日

追憶 2913

人は、生まれ変わって今の自分に成っている。
大抵の人が、生まれ変わりを経験しているだろう。
魂かどうかは分からないが、何かしら本質的なものが、様々な肉体に宿(やど)り、様々な人生を経験するのである。
あなたは、様々な経験を積んで今に至(いた)っているのだ。
恐らく、人間は人間に生まれ変わることが多いだろう。
恐らくは、動物などにも生まれ変わるであろうが、人間は人間に生まれ変わることが多いと思われる。
人間であるということは、傲慢(ごうまん)に陥(おちい)り易いということを理解しなければならないだろう。

2020年9月27日日曜日

追憶 2912

大切なのは、魂が理解することである。
魂が理解するには、魂に刻み込まなければならない。
魂に刻み込むためには、脳や心に深く刻み込まなければならないのだ。
脳や心に繰り返し刻み込み、そこに違和感がなくなれば成功である。
魂に刻み込めば、それを無意識に行うようになる。
逆を言えば、傲慢(ごうまん)が魂に刻み込まれているために、そのように行うということなのである。

2020年9月26日土曜日

追憶 2911

残念ながら、わたし達は物分かりの良い方ではないだろう。
未熟であるために、何度も同じような失敗を重ね、何度も同じような問題に陥(おちい)り、何度も同じような苦しみに遭(あ)うのだ。
種を見ても、それが何かを理解することは難しいのである。
なぜなら、その種は、随分(ずいぶん)と前に蒔(ま)かれたものであるからだ。
種を見ても、忘れてしまっているのである。
人は、忘れる。
脳や心は、都合の良いように解釈(かいしゃく)しているように思える。
頭や心で分かっているような状態では、再び同じ状態を繰り返すのである。


2020年9月25日金曜日

追憶 2910

それは、学びの樹である。
学びは、様々な工程を用いて学びを導く。
例えば、傲慢(ごうまん)を教えるために腰痛を導くようにである。
彼にとって、腰痛は果実であったのではないだろうか?
そして、わたしがそこから種を取り出して彼に手渡す。
そこで、彼は自らの傲慢さに気が付いて改める。
このような段取りの学びであるだろう。

2020年9月24日木曜日

追憶 2909

一粒の種が、根を出す。
そして、芽を出す。
やがて、枝を伸ばしてたくさんの葉を茂(しげ)らせる。
時が来て花を咲かせ、時が来て実を付ける。
実が熟し、種を露(あら)わにした時に初めて、あの種がこの樹であったことを知るのである。
種が実を付けるには、長い時間を必要とするが、その間、あなたはその樹を育て続けなければならないのだ。

2020年9月23日水曜日

追憶 2908

視野の広い人ならば、“神”を恨(うら)むかも知れないのである。
天に唾(つば)を吐けば、必ず自分に返ってくる。
“神”や人生や他者や肉体や問題に不平不満を吐けば、それは必ず自分に返ってくるのだ。
それは、すぐには返らず、時間をかけて返ってくるので、自分の吐いた不平不満であるとは気が付かない。
それは、様々な工程を経るために、形が変わっているからだ。
傲慢(ごうまん)さが、腰痛として返ってくるなどとは、彼には想像も出来ないことであろう。

2020年9月22日火曜日

追憶 2907

彼は、傲慢(ごうまん)という自らの汚れによって、ギックリ腰という問題と、腰痛や不自由という苦しみを得た。
それによって、恐らく、彼は不平不満を腹の中に溜め込んでいるだろう。
痛みが強過ぎてそれどころではないかも知れないが、不平不満を吐くのは時間の問題である。
傲慢によって腰を折られた者は、腰痛や現状に対して必ず争うのだ。
自分から自由を奪った腰痛に対して、恨み(うらみ)の感情を抱くのである。

2020年9月21日月曜日

追憶 2906

残念ながら、人生の学びは大抵の場合、あなたにとって都合の悪いものである。
理不尽(りふじん)な体験や苦しい問題などが、人生の学びのほとんどであるということを理解しなければならないだろう。
それは、毎回、あなたの心を傷付け、汚すのである。
多くの人は、その汚れをそのままにしておく。
それは、掃除の仕方が分からないということが大きな要因なのではないだろうか?
それは、フライパンの掃除と同じように単純で簡単なことであるが、対象が心であると分からなくなってしまうのであろう。

2020年9月20日日曜日

追憶 2905

それを調理しているのは自分自身であり、自分自身の管理しているフライパンであるということを理解しなければならないだろう。
汚れたままで放置するのか?毎回綺麗にするか?は、自分次第なのである。
確実に言えることは、毎回汚れるということだ。
大抵の人は、食事をしなければならない。
一日に一食の人もいれば、三食以上の人もいるだろう。
人生における学びの調理は、外食のように誰かに頼むことは出来ない。
誰かに頼むことが出来れば、自分のフライパンは汚れないし、焦げ付くこともないだろう。
しかしながら、人生の学びは、毎回、自分自身の心で受け止め、自分自身で処理しなければならないのである。

2020年9月19日土曜日

追憶 2904

多くの人は、傲慢(ごうまん)によって目の前の状況を判断している。
それは、どのような状況からも苦しみを得るということなのである。
多くの人が苦しんでいるのは、自分自身が原因であるということを理解しなければならないだろう。
自らの抱える傲慢さが、人生を苦しいものにしているのだ。
誰や何かが自分のことを苦しめているのではない。
目の前に導かれる状況は、それがどのようなものであれ、新鮮で美味しい食材なのである。

2020年9月18日金曜日

追憶 2903

傲慢(ごうまん)は、心の汚れの中でも最も頑固なものである。
それは、フライパンの焦げ付きのように、簡単に落とすことの出来ない汚れなのだ。
傲慢の炎で熱する程に、汚れは頑丈に焦げ付く。
多くの人は、焦げ付いたフライパンで調理をしているようなものだ。
焦げ付いたフライパンで調理をすれば、どのように新鮮で美味しいはずの食材も、焦げの味をまとってしまうのである。
それは、食材の本来の味を殺し、口にも心にも苦いのである。

2020年9月17日木曜日

追憶 2902

人間に感情が与えられているのは、未知の体験を通じて必要な感情を働かせ、自分というものへの理解を深める必要があるからであろう。
未来を知っているのであれば、希望や不安などの感情の働きは必要ではないのだ。
これから目の前に展開することを知っていれば、感情は働かないのである。
知らないからこそ、感情は働く。
感情が働くことによって、心は大きく揺さぶられる。
それは、自分に付着(ふちゃく)している汚れを振り落とすようなことなのである。

2020年9月16日水曜日

追憶 2901

それは、人生が自分の思惑(おもわく)ではなく、何かしらの目的のために展開(てんかい)しているからであるだろう。
人生が自分の思惑を目的としているのであれば、思い通りになることの方が多いのではないだろうか?
多くの人は、これから人生に起こることを知らない。
自らの未来を知っている人はいないのだ。
人生が自分の思惑によって展開するのであれば、未来を知ることは簡単である。
しかしながら、未来を知ることは出来ないだろう。
未来を知っているのであれば、様々な感情は必要ないのである。

2020年9月15日火曜日

追憶 2900

それは、目の前の現実を受け入れるということだ。
反発や否定の感情はどうしても生じてしまう。
人生には、受け入れたくない現実ばかりなのだ。
わたしの人生は、何一つ思い通りになったことはないし、都合の悪いことや、苦しいことの方が多いのである。
それは、誰もが同じように思っているのではないだろうか?
残念ながら、人生は、自分の思い通りにはやらせてくれないし、都合の良いことや、楽しいことは少ないのである。

2020年9月14日月曜日

追憶 2899

現在の37歳のわたしも、やはり何も知らないが、自分が傲慢(ごうまん)であることには辛うじて気が付いている。
時々、忘れることもあるが、以前のように忘れたままということはないのだ。
わたしは、自分が正しいとは思わなくなった。
ただし、自分が間違っているとも思ってはいない。
判断の決定権を自分から人生へと移行することを覚えたのである。
わたしは、出来る限り自分では判断をしないように心掛けている。
判断は人生に委(ゆだ)ねているのだ。



2020年9月13日日曜日

追憶 2898

それは、様々な苦しみの経験を積んだことによって、いくらかは傲慢(ごうまん)を取り除くことが出来たからであろう。
霊的な感覚を得る前のわたしは、思い通りにならないことを受け入れることが出来ずに、不平不満に陥(おちい)っていた。
そして、悲しみに従(したが)って、絶望へと辿り着いていたのである。
わたしは22歳頃までは、何も知らずに傲慢に生きていた。
わたしの22年間の普通の人生は、不幸だったのである。

2020年9月12日土曜日

追憶 2897

人生を思い通りに生きることの出来る人はいない。
人生には、“流れ”のようなものがあり、それに逆らうことは出来ないのである。
逆らう努力は可能ではあるが、流れに勝ることは出来ないのだ。
わたしは、現在の人生を想像してはいなかった。
人生は、想像とは全く異なる形で展開している。
人生がこのようになるとは思っていなかったのである。
昔のわたしであれば、これを不幸と呼んだかも知れない。
しかしながら、わたしは現状を不幸だとは思わないのである。

2020年9月11日金曜日

追憶 2896

人が傲慢(ごうまん)に陥(おちい)ると、問題や苦しみに遭(あ)うのは、人生には何かしらの意味や目的が存在しているからであろう。
人生に意味や目的が存在していなければ、好き勝手に生きれば良いのである。
しかしながら、好き勝手に生き続けられる人はいない。
必ず、何かしらの問題や苦しみが立ちはだかり、好き勝手にはさせないのである。
どのような人物も、人生を好き勝手には生きられないのだ。

2020年9月10日木曜日

追憶 2895

すべての人は、本質へと近付かなければならない。
それは、わたし達が人生に目的を以(もっ)て生まれたからである。
人生に何の目的も無く生まれたのであれば、本質へと近付く必要はない。
しかしながら、どう考えても、人生には何かしらの意味と目的が存在するとしか思えない。
何の意味も無く、このように大掛かりな体験をする必要があるだろうか?
無意味な体験にしては、手が凝り過ぎているのである。

2020年9月9日水曜日

追憶 2894

多くの人は、既存(きぞん)の価値や価値観に執着(しゅうちゃく)する。
新しい価値や価値観を受け入れるのは難しいのである。
今あるものを大切にするのは良いことであると思うが、失わなければならない時には手放さなければならないだろう。
それは、とても悲しく、とても辛いことであるが、仕方のないことなのだ。
それは、本質へと近付くためである。

2020年9月8日火曜日

追憶 2893

自然災害は、人災であるだろう。
元より、自然環境から見れば、自然災害は災害ではない。
人間が自然災害と呼ぶものは、自然環境に対して必要なものである。
人間にとっても必要なことではあるが、財産という概念(がいねん)を持ってしまった人間には、それを奪われることは災害なのである。
災害は、既存(きぞん)の価値や価値観を破壊する。
重要なのは、それをどう捉(とら)えるか?ということである。
執着(しゅうちゃく)する者にとっては害であり、変化を受け入れる者にとっては益である。

2020年9月7日月曜日

追憶 2892

それは、人間が自然界の外の存在であることを示しているだろう。
自然界の生物は、自然環境を安定、持続させるために存在する。
自然環境を破壊するのは、外部からの圧力なのである。
自然界の生物が、自然環境を破壊するはずがない。
そのような生物は存在しないのである。
人間が原因で自然環境が破壊されたことは多々あっても、自然界の生物が原因で自然環境が破壊されたことはないだろう。
文明の発展に従って、自然災害も発展しているように思えるのである。

2020年9月6日日曜日

追憶 2891

自然界の猛獣は、傲慢(ごうまん)ではないだろう。
彼等は、絶滅の危機に晒(さら)される程に謙虚(けんきょ)なのではないだろうか?
猛獣が生態系を崩すことがないのは、彼等が謙虚であるからだろう。
恐らく、人間はバランスの取れた生態系に外部から侵入した部外者である。
それも、特別な部外者だ。
人間には、自然環境を左右する程の力を与えられているのである。

2020年9月5日土曜日

追憶 2890

生態系の頂点に君臨(くんりん)する猛獣は、傲慢(ごうまん)に見える。
しかしながら、彼等は決して傲慢ではない。
自然界の猛獣が、取り過ぎることはないのだ。
生態系の頂点に君臨する猛獣が絶滅の危機にあっても、生態系を支える草食動物や小動物が絶滅の危機に晒(さら)されることはない。
もしも、自然界の猛獣が傲慢であるのならば、人間と同じように取り尽くしてしまうだろう。
しかしながら、そのようなことはないのだ。
人間だけが、生態系のピラミッドの形を変えてしまうのである。

2020年9月4日金曜日

追憶 2889

猛獣を飼い慣(な)らすというのは、仲良くなるということである。
猛獣も、仲良くなれば危険ではない。
寧(むし)ろ、頼もしい仲間である。
仲良くなれば、互いに傷付け合うことはないだろう。
元々は、必要があって存在しているのである。
猛獣が危険だからといって排除(はいじょ)すれば、自然環境は悪化してしまうのだ。
自然環境のバランスを保つためには、猛獣の存在が必要だということを理解しなければならない。
猛獣がいなければ、自然環境はバランスを崩してしまうのである。

2020年9月3日木曜日

追憶 2888

傲慢(ごうまん)とは猛獣のようなものである。
多くの人は、猛獣と一つ屋根の下で生活しているようなものだ。
当然のことながら、猛獣と一つ屋根の下で生活することは危険である。
それは、危機的な状況なのだ。
猛獣をそのままにしておいてはいけない。
猛獣を飼い慣らさなければならないのである。
猛獣の爪や牙(きば)を取り除き、鞭(むち)で打って従わせるのも良いが、それではいつか牙を向くのである。
大人しく従っているからといって安心していると、ひどい目に遭(あ)うのだ。

2020年9月2日水曜日

追憶 2887

人は、同じ過(あやま)ちを繰り返す。
何度も同じ問題によって苦しむが、懲(こ)りるまでは続けなければならないのである。
傲慢(ごうまん)の木が枯れるまでは、枝を落とし続けなければならないのだ。
それは、根気のいる作業である。
多くの傲慢な人は、初め、問題に対して横柄(おうへい)な態度を取る。
それは、すべての問題の原因が自分にあり、自分が悪いということに気が付かないからだ。
しかしながら、初めは横柄な態度を取っていたとしても、何度も同じ過ちを繰り返し、苦しみを受け続けていると、やがては気力を失ってしまう。
それは、猛獣が人間に鞭(むち)で打たれ続けると、牙(きば)を抜かれるのと同じようなことである。

2020年9月1日火曜日

追憶 2886

どのような人物の、どのような人生にも問題が生じる。
それは、どのような人物も傲慢(ごうまん)を抱えているからだ。
傲慢は確実に問題を引き起こす。
問題が生じれば、方法を変えるのは当然のことである。
傲慢によって生じた問題は、謙虚(けんきょ)によって修正する必要があるだろう。
反省して改めない限りは、問題によって苦しまなければならないのである。
それも、同じ問題によって苦しみ続けることになるのだ。

2020年8月31日月曜日

追憶 2885

大きく育ってしまった傲慢(ごうまん)は、簡単には取り除くことが出来ない。
表面的に取り除いたとしても、根が深くに残っていて、忘れた頃に再び芽吹(めぶ)くのである。
人は再び、知らず識(し)らずに傲慢に陥(おちい)ってしまうのだ。
根を掘ることは難しい。
それは、見えないからである。
わたし達に出来ることは、芽を欠くことである。
傲慢に陥る度に反省し、改善していくことである。

2020年8月30日日曜日

追憶 2884

傲慢(ごうまん)を取り除くことも、解決すべき課題の一つである。
しかしながら、傲慢を取り除くことは容易(ようい)ではない。
それは、とても深く心の中に根を張っているのである。
すべての人の心に傲慢の種が存在する。
それは少しずつ根を伸ばし、少しずつ枝を広げ、少しずつ成長していくのである。
傲慢は、歳を重ねる程に取り除くことが困難になる。
自然界の樹木と同じように、少しずつ強固になっていくのだ。

2020年8月29日土曜日

追憶 2883

人は、幅を与えられている。
それは、選択肢や可能性を与えられたということだ。
選択肢や可能性がなければ、人生の目的を果たすことは出来ない。
人間の人生における目的は、複雑怪奇(ふくざつかいき)なものなのである。
人間は、自然界の生物のように単純明快(たんじゅんめいかい)な作りをしてはいない。
人間は、様々な課題を抱えているのである。
それを果たすためには、選択肢や可能性が必要なのだ。
当たり前に生存を続けるだけでは、様々な課題を解決することは出来ないのである。

2020年8月28日金曜日

追憶 2882

残念ながら、人間だけが自分を知らない。
人間だけが、不自然なのである。
人間だけが、自分について考える必要がある。
それは、人間だけが、傲慢(ごうまん)と謙虚という幅を与えられているからだ。
自然な状態にある存在は、限定的に生きている。
決められた範囲でしか活動することが出来ないのである。
自然な状態にある存在は、決められた範囲のことしか考えることが出来ない。
また、決められた範囲の選択肢しかないのである。

2020年8月27日木曜日

追憶 2881

桜は、自然に存在している。
恐らく、桜は“自分とは何か?”ということを考えないだろう。
それは、既(すで)に自分であるからだ。
既に自分であるのに、自分について考える必要はないのである。
人間以外の存在は、自分について考えないだろう。
人間以外の存在は、自分について考える必要がないのである。
なぜなら、彼等は既に自然であるからだ。

2020年8月26日水曜日

追憶 2880

余計な意識を手放し、無意識に所有している状態が自然なのである。
当たり前過ぎて忘れていることが自然なのだ。
愛の状態にある人は、愛のことを気にしない。
愛とはどうあるべきか?ということを気にすることはないのだ。
桜が、自分は何の木だろう?などと考えるだろうか?
恐らくは考えないだろう。
なぜなら、桜は自然であるからだ。

2020年8月25日火曜日

追憶 2879

ありのまま、あるがままという状態は、あなたと真逆の状態である。
すべての人が、ありのまま、あるがままに存在してはいない。
すべての人が自然ではなく、すべての人が自分ではないのだ。
そのため、愛を知らない。
多くの人は、愛が何か分からないのである。
愛の状態にある人は、愛について考えたり、
努力したり、期待したり、喜んだり、悩んだり、苦しんだりはしないだろう。
もちろん、愛から遠く離れ過ぎている人も、そのようなことはしないのである。

2020年8月24日月曜日

追憶 2878

愛とは、自然なものである。
愛として考えたり、努力したり、期待したり、喜んだり、悩んだり、苦しんだりするのであれば、それは愛ではないのだ。
自然とは、認識すら出来ないものである。
多くの人の愛には、考えたり、努力したり、期待したり、喜んだり、悩んだり、苦しんだりすることが当然である。
それは、その愛が不自然であるということを意味しているのだ。
自然とは、あるがまま、ありのままなのである。

2020年8月23日日曜日

追憶 2877

多くの人が愛と呼ぶものが、愛ではないことは明白である。
残念ながら、多くの人は愛に到達してはいない。
大抵の愛が歪んでいるのだ。
歪んだ何かを愛と呼んでいるのである。
それは、とても哀(あわ)れなことである。
多くの人は、愛ではない何かを得て喜び、そして、苦しむ。
しかしながら、それが愛だと思い込んだままで生きているのである。

2020年8月22日土曜日

追憶 2876

すべての人は苦しむ。
人生において、苦しみを避けて通ることの出来る人はいないのである。
それは、理解に乏しいからだ。
理解に乏しいために、何事に関しても大切に扱うことが出来ない。
人は、軽んじるのである。
本人は大切に扱っていると思い込んでいるかも知れないが、それは、本人の思い込みに過ぎないだろう。
二つの悪いものから、程度の軽い悪いものを選ぶ時には、それが良いものに思えるものである。
“一方よりは”良いという考えが、やがて良いということに摩り替わってしまうのだ。
大切に扱っていると思い込んではいても、その水準は低いのである。

2020年8月21日金曜日

追憶 2875

問い掛け続け、歩み続ける程に本質へと近くなる。
何かに対して、時間と労力を費やした分だけ理解は深まるのだ。
理解が深まる程、自然である。
理解が深まる程、傲慢(ごうまん)を手放すことが出来る。
理解が深まる程、何事も大切に扱うようになる。
理解が深まる程、思いやりや愛情を抱くことが出来るのだ。
理解が深まる程、問題や苦しみは縮小するのである。
理解から遠い程に、問題や苦しみは大きいのである。

2020年8月20日木曜日

追憶 2874

“自分とは何か?”という問いの答えを得るためには、その問いを自分に問い続けなければならない。
問い掛けを中断すれば、答えを得ることは出来ないだろう。
それは、目的地に向かって歩き続けているようなものなのである。
目的地に辿り着かなければ、答えを得ることは出来ない。
答えは、目的地に存在しているのだ。
問い掛けとは、歩みのことである。
問い掛け続けることは、歩み続けるということだ。
歩み続けなければ、目的地に辿り着くことは出来ない。
目的地に辿り着くためには、辿り着くまで歩み続けなければならないのである。

2020年8月19日水曜日

追憶 2873

自然とは、“自分とは何か?”という問いの答えである。
真(まこと)の自分こそが自然なのだ。
“自分とは何か?”という問いに淀(よど)みなく答えることが出来れば、それが自然な状態なのである。
真の自分、自然な状態に至(いた)ることは難しい。
“自分とは何か?”という問いに淀みなく答えることが出来る人などいないのである。

2020年8月18日火曜日

追憶 2872

人は、金儲(かねもう)けのために生まれたのではない。
もしも、そのような人がいるのであれば、悲しいことである。
人は、自然環境を破壊するために生まれた訳でもないのだ。
そのような人生は空しい。
人は、自然に近付き、思いやりや愛情を習得し、悟りを得るために生まれたのである。
“自分とは何か?”ということを悟ることが出来れば、人生は終了である。
“自分とは何か?”という問いの答えを得るためには、傲慢(ごうまん)や不自然を手放さなければならない。
本質とは、自然なものだと理解する必要があるだろう。


2020年8月17日月曜日

追憶 2871

傲慢(ごうまん)や不自然に陥(おちい)ると、何かしらの問題や苦しみが生じる。
それは、あなたの辿り着くべき目的地とは異なる。
問題や苦しみは、それがどのようなものであれ、途中に過ぎないのだ。
傲慢や不自然に陥っている人は、道の途中にある問題や苦しみに立ち止まっているようなものである。
歩むことは疲れるものである。
疲れた人は、途中で道草を食うことに喜びを感じるだろう。
それは、進行を遅くするが、いつまでも進まないでいると、いつの間にかに当初の目的がすり替わってしまうのである。

2020年8月16日日曜日

追憶 2870

人が、自然に目覚めるためには、不自然に陥(おちい)る必要がある。
不自然に陥らなければ、自然の大切さを理解することは出来ないのである。
失うまでは、その有り難みが分からないものだ。
傲慢(ごうまん)で不自然な者は、傲慢や不自然がもたらす結果を経験する必要がある。
残念ながら、人は、失敗からしか学ぶことが出来ない。
程度の悪いものから始めなければならないのである。
初めから良いものを得ることは出来ないのだ。

2020年8月15日土曜日

追憶 2869

傲慢(ごうまん)に陥(おちい)り、物質主義(資本主義)を信仰(しんこう)し、不自然に生きる人達の生き方も許されている。
自然環境を保全するという経験を得るためには、自然環境を破壊するという経験を得る人が必要である。
この世界には、陰陽(いんよう)の仕組みが存在する。
それは、すべてが相対的(そうたいてき)であるということだ。
光を生み出すためには、闇を生み出す必要がある。
闇を生み出すためには、光を生み出す必要があるのだ。

2020年8月14日金曜日

追憶 2868

幸せの形は、人それぞれに存在する。
本人が幸せと思えば、それが幸せなのである。
そのため、他者の幸せを否定することは出来ない。
どのような思想の人も存在を許(ゆる)され、この世界に必要であるから存在するのである。
この世界に不要なものは、存在することを許されないのだ。
存在するということは、必要なのである。
それがどのようなものであれ、必要なのである。

2020年8月13日木曜日

追憶 2867

 残念ながら、人類は強欲と傲慢(ごうまん)に陥(おちい)っているのが現状だ。

現文明は不自然を好み 、自然環境を破壊している。
自然環境を破壊して得られる“強奪品”を集めて飾(かざ)り、苦しみで汚れた空気を呼吸し、苦しみで汚れた土の上に贅沢(ぜいたく)に暮らし、苦しみで汚れた水で祝杯をあげる。
強欲な者達は、それを幸せだと思っているのである。

2020年8月12日水曜日

追憶 2866

 それは、人が自然を愛するように仕向けるためであるだろう。

愛情を深くするためには、苦しみの助けが必要である。
不自然な状態に陥らなければ、自然な状態を理解することは出来ないのだ。
人間は、他の生命とは異なり、自然環境を左右する程の力を与えられている。
人間が不自然に近付けば自然環境を破壊するし、自然に近付けば自然環境を保護するだろう。
自然環境の保全は、人間の人生における目的の一つである。
自然環境を保全しながら、豊かに暮らすことが人生の課題の一つなのである。

2020年8月11日火曜日

追憶 2865

 人間以外の存在は、自然であることに努めている。

それは、有りの儘(まま)であるということである。
人間は、不自然であることに努める。
それは、我が儘であるということである。
自然は、調和することが自然であり、不調和という状態は不自然である。
人間は、自然界の調和を崩す唯一の存在だ。
自然界に負の影響を与えるのは、人間だけなのである。

2020年8月10日月曜日

追憶 2864

 人間は、生まれながらに欲深いのか、状況が欲深くさせるのかは分からないが、大抵の人は欲深くなる。

それは、物質的に最も合理的で“優れている”からである。
人は、他の生き物が欲深くないことを良いことに、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に振る舞う。
人間以外の生き物は、自然から必要以上に奪い取ることをしない。
より多くを集めて、より多くを貯(た)めて、より拡大し、より膨張(ぼうちょう)することはしないのである。

2020年8月9日日曜日

追憶 2863

 人間の身体構造と、植物の身体構造が異なるのは、活動内容と役割が異なるからである。

異なっているために、異なった役割を果たすことが出来るのだ。

身体構造が異なっているように、精神構造も異なっている。

人間は、他のどの存在とも精神構造が異なっている。
それが自然だ。
そして、残念ながら、物質的な世界観においては、人間の身体構造や精神構造が最も合理的で“優れている”ように思える。
そのため、人は自分を特別な存在だと思い込み、傲慢(ごうまん)に陥(おちい)ってしまったのである。

2020年8月8日土曜日

追憶 2862

風も水も石も活動している。

それは、そこに命が存在するということである。植物や動物、太陽や風などは、人と同じ命を持っている。

同じ命を持っているが、精神的な活動は異なっている。

人間とその他の存在では、役割が異なっているのだ。

役割が異なれば、活動内容や範囲も異なるのである。
人は人として存在しなければならない。
植物は植物として、太陽は太陽として存在しなければならないのである。

2020年8月7日金曜日

追憶 2861

 意識が潜在していなければ、物質は存在することが出来ない。

すべての物質には意識が潜在しているのである。

無機物でさえ、意識を潜在する物質である。

石や水や風にも意識が潜在するということである。

太陽という物質は、熱を放って輝いている。
これは、意識の活動である。
意識が活動することによって、物質は活動する。
それは、命を宿しているということであろう。
意識の活動が命である。
それは、太陽も生きているということなのである。

2020年8月6日木曜日

追憶 2860

植物には、知性が与えられている。
少なくとも、わたしが会話した皐月には知性があった。
植物は生きているから知性や意識を持つことも不思議ではないだろう。
それでは、太陽には知性や意識があるだろうか?
わたしは太陽と会話をしたことがないが、そこには知性や意識が存在するように思えてならない。
太陽が熱を放って輝いているのは、そこに知性や意識が存在するからであろう。
太陽が無駄に熱を放って輝いているとは思えない。
太陽は、地球の自然環境にとって、生物にとって、わたし達人間にとって都合が良過ぎるのである。

2020年8月5日水曜日

追憶 2859

樹木には、過去の記憶がある。
少なくとも、わたしと話をした皐月(さつき)は、過去のことを覚えていた。
そして、感情や思考や意志もある。
天使や仏や霊と話している時と同じような感覚で会話をすることが出来るのだ。
多くの人は、物言わない植物を軽んじる。
動物でさえ軽んじている人もいる。
それは、彼等が人間が理解する言葉を使わないからであろう。
植物が話をするのだから、動物なら尚更(なおさら)のことである。
動物が人間の言葉を話したら、動物を軽んじる人は減るだろう。
他人を軽んじる人もいるのだから、すべての人が軽んじることをやめる訳ではないだろうが、動物が人間と同じ感情や思考や意志を持っていることを知れば、対応は大きく変わるはずなのである。

2020年8月4日火曜日

追憶 2858

なぜなら、少し前に剪定(せんてい)した他の皐月(さつき)の木は泣き叫んでいたからである。
話を聞くと、わたしに訴(うった)えている皐月は、元々が長い間盆栽として仕立てられていた過去があり、わたしの祖父が知人から貰(もら)い受けて庭に植えたという経歴があったのだ。
皐月は、枝葉を整えて欲しいと懇願(こんがん)を続けた。
それは、過去にこの皐月を盆栽として愛(め)でていた人が喜んでいたからだそうだ。
この皐月は、人が喜ぶ姿を見ることが嬉しいのである。

2020年8月3日月曜日

追憶 2857

ある日、日課の盆栽への水遣(みずや)りのために皐月(さつき)の横を通り過ぎた時に声が聞こえた。
それは、鳥のさえずりのような、水のせせらぎのような、そよ風に揺れる木の葉のような、透き通る声であった。
わたしは呼び止められたのである。
声の方に向くと、皐月が話し掛けているのが分かった。
わたしが理由を尋(たず)ねると、皐月は剪定(せんてい)をせがんできたのである。
しかしながら、わたしは皐月の要求に戸惑(とまど)った。

2020年8月2日日曜日

追憶 2856

そこには、自然界を計画して運用する知性のようなものがあると思えるのだ。
植物が自分で考え、進化したとは思えない。
とはいえ、植物自体にも知性はある。
なぜなら、わたしは、以前に庭木の剪定(せんてい)をしている時に、彼等と会話をしたことがあるからだ。
家の庭には、元々は盆栽(ぼんさい)として仕立てられたが、後に庭に地植えにされた皐月(さつき)の古木があった。
時期は、枝が四方八方に伸びている頃である。
わたしは、庭木の剪定をしなければならないと考えながら、忙(いそが)しさを理由に実行することが出来ないでいた。
 

2020年8月1日土曜日

追憶 2855

学問では、進化の過程でそのようになったという説明がされるが、どうやって植物が昆虫に似せて花を作るのだろう。
昆虫が仲間や異性と見間違う程に精巧(せいこう)な作りの花なのである。
偶然に突然変異した個体があり、偶然に瓜二つの昆虫がいて、偶然にそのような結果になったのであろうか?
苦しい説である。
植物には目がない。
耳も鼻も口もない。
もちろん、脳もないのである。
どのように認識して、どのように工夫して、どのように実行して、どのように実現したのであろう?

2020年7月31日金曜日

追憶 2854

思考や感情などの意識には形の無い形がある。
この世に存在するあらゆるものが、人の思考や感情、欲望や意欲が生み出した物である。
何一つとして、意識の潜在しない物質は存在しないだろう。
無意識に思える太陽や水や風も、計画的に設計され、運用されているように思える。
偶然というには、辻褄(つじつま)が合うように思えるのだ。
植物の中には、昆虫に似せた花を咲かせるものがある。
それは、昆虫を騙(だま)して受粉するためである。

2020年7月30日木曜日

追憶 2853

物質は、本質への入り口である。
この世界において、意識は物質として具現化(ぐげんか)する。
思考や願望などの意識が、状況や製品としての形を取る。
どのような物質も、その中身は意識なのである。
意識なくして物質は存在することが出来ないのだ。
形として現れている物質は、形として現れない意識を原因としている。
意識にも形はあるが、それは物質的な形ではなく、形の無い形なのである。

2020年7月29日水曜日

追憶 2852

人は、それぞれの課題を以(もっ)て生まれる。
物質的な価値観を課題として生まれた者は、物質的な価値を追い求めなければならない。
物質的な価値を課題として生まれた者は、物質的な価値を追求することによって、物質的な価値を手に入れる。
もしくは、それを失うだろう。
どちらにせよ、物質的な価値に翻弄(ほんろう)されることになるのだ。
物質的な価値によって、喜怒哀楽のすべての感情が刺激される。
すべての感情が刺激され終わると、心は満足するのである。
満足すれば、その課題は修了である。

2020年7月28日火曜日

追憶 2851

富を信仰している人は、人助けという発想にはならない。
富を信仰している人は、金儲(かねもう)けという発想に至(いた)るのである。
相手のことよりも、自分のことを考える比率が高い。
富を信仰している人が無益に施(ほどこ)すことはない。
都会の人程、損得を気にするのは、意識的な価値観が田舎程は発展してはいないからである。
田舎は、”神”への信仰によって築かれた村である。
”神”への信仰の結果、村という田舎が生じたのである。

2020年7月27日月曜日

追憶 2850

田舎(いなか)である程、意識的な価値が高く、都会である程に物質的な価値が高いだろう。
人には、それぞれに学ばなければならない課題がある。
そして、解消しなければならない課題があるのだ。
そのために必要な場所で生活する必要がある。
田舎も都会も、人の抱える課題に応じて必要である。
どちらが良くて、どちらが悪いということではない。
金儲(かねもう)けが必要な人もいれば、人助けが必要な人もいるのだ。

2020年7月26日日曜日

追憶 2849

“神”を本当に信仰している人は、金儲(かねもう)けという発想にはならない。
“神”を信仰している人は、人助けという発想に至(いた)るのである。
自分のためよりも相手のことを考える比率が高い。
“神”を信仰している人は、報酬(ほうしゅう)を気にせずに施(ほどこ)すだろう。
田舎(いなか)の人程、損得を気にせずに与えるのは、物質的な価値観が都会程は発展してはいないからである。
都会は、富への信仰によって築かれた街である。
富への信仰の結果、都会という街が生じたのである。



2020年7月25日土曜日

追憶 2848

残念ながら、わたし達は二人の主人に同時に仕えることは出来ない。
イエスは、「誰も、二人の主人に兼(か)ね仕えることは出来ない。神と富とに兼ね仕えることは出来ない」と言ったのである。
恐らく、イエスの言う神とは、意識的な価値のことであるだろう。
そして、富とは物質的な価値のことだと思う。
わたし達は、“神”を信仰しながら金儲(かねもう)けは出来ないということだ。
金儲けをしながら“神”を信仰することは出来ないということである。

2020年7月24日金曜日

追憶 2847

多くの人は、お金を理由として結婚する。
それは、物質的な価値を優先した結果であるだろう。
お金を理由とした結婚が悪いということはない。
どのような理由でも構わなのである。
お金を理由に結婚すれば、お金に不自由しない生活を手に入れることが出来るだろう。
それを豊かさと考えている人にとっては、最善の選択である。
しかしながら、物質的な価値を優先すれば、相対的(そうたいてき)に意識的な価値は蔑(ないがし)ろにしなければならない。

2020年7月23日木曜日

追憶 2846

意識的なものには価値が定められてはいない。
意識的なものを共通の価値観で取引することは出来ないのだ。
意識的なものには値段を付けることが出来ない。
意識は、お金では買えないのである。
“気持ち”を物やお金で代替(だいたい)してはいるが、本来ならば、交換することが出来ないものであろう。
例えば、物やお金を支払わなくても愛情を得ることが出来る。
しかし、物やお金をどれだけ支払っても愛情は得られないものである。
それは、愛情が意識的なものであり、物質的である物やお金では取引することが出来ないからだ。

2020年7月22日水曜日

追憶 2845

より良いものとは、難解なものである。
既存(きぞん)の価値観で理解することが出来ないものこそが良いのである。
既存の価値観で理解することが出来るものには価値が残っていない。
価値とは、理解することで失われていくものなのである。
理解することが出来ないことが価値なのだ。
多くの人は、容易(たやす)いことに価値を見出す。
お金という価値を理解することは容易い。
それは、大抵のものに値段が決められているからである。

2020年7月21日火曜日

追憶 2844

今日(こんにち)の世の中では、意識的な価値を求める人は少ない。
形の無い深いものを受け入れる度量(どりょう)が育ってはいないのである。
今も昔も割合は変わっていないのかも知れないが、世の中は合理的な価値観が支配している。
すべての宗教は金儲けの道具に成り下がった。
金儲けの為に、意味の無い儀式を売っている。
芸術は、感性を追求する道ではなくなり、金儲けの手段となった。
売れる絵しか描くことが出来ないのである。
文学も同じで、理解させることしか書けない。
それがどのように優れた芸術であったとしても、売れなければ価値が無いのである。
売るためには、無知な人達が理解することが出来る形として提供しなければならない。

2020年7月20日月曜日

追憶 2843

物質的な価値観を信仰する人にとって、形の無いものに価値を見出すことは難しいだろう。
どうしても、形のあるものに価値を見出してしまうのである。
花より団子という言葉があるが、花は形の無い美しさを心に与えてくれるが、団子は形のある満腹感を腹に与えてくれる。
花は意識的な価値を提供し、団子は物質的な価値を提供する。
多くの人は、物質的な価値を優先するだろう。
武士は食わねど高楊枝(たかようじ)というある意味での高尚(こうしょう)な精神は薄れてしまったのである。

2020年7月19日日曜日

追憶 2842

恐怖を取り除くことは難しい。
それは、心の中に存在するが、どこにどのような形で存在するかを知る人は少ないだろう。
取り除こうとすれば、多くの時間と労力を必要とする。
それは、何年もかかるかも知れないし、何十年とかかるかも知れない。
多くの人は、心に対してそこまでの時間と労力を費やすことはしないだろう。
それは、心には形が無く、見えないからだ。
物質的な価値観を信仰する人にとっては、形の無いものに費やす時間も労力もないのである。

2020年7月18日土曜日

追憶 2841

多くの人は恐怖に怯(おび)え、それを否定しようと努める。
そして、欲望に従って快楽を貪(むさぼ)ることで恐怖を忘れることが出来ることを発見するのである。
それは、一時的なものに過ぎないが、一時的にも忘れることが出来ればそれで良いのだ。
わたし達は、恐怖(痛みや恥など)を一時的にでも忘れることが出来る方法があれば、それを選択するだろう。
多くの人が酒やギャンブルや買い物などに依存(いそん)するのは、一時的にでも恐怖を忘れることが出来るからである。

2020年7月17日金曜日

追憶 2840

どのように純粋な人間も汚れてしまう。
真っ直ぐに歩んでいるつもりでも、曲がっているのである。
残念ながら、この世界においては、純粋を保つことは出来ない。
純粋を保つには、この世界は汚れ過ぎているのである。
世界を汚しているのは欲望である。
欲望の本質は恐怖だ。
すべての人が恐怖を抱えている。
恐怖を退(しりぞ)けるために、欲望が必要なのである。
それは、欲望を貪(むさぼ)ることで、僅(わず)かの時間恐怖を忘れることが出来るからだ。