このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2021年12月31日金曜日

追憶 3371

それは、ソロモン王の遺した伝道者の書を読めば分かることである。
ソロモン王は、知恵と富と権力など、人の欲するもののすべてを手に入れた人物である。
彼以上に、富に愛された人物もいないだろう。
ソロモン王は、富の極みに到達したが、彼はそれを空しいと語った。
ソロモン王は、“神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってのすべてである”と遺したのである。

2021年12月30日木曜日

追憶 3370

しかしながら、この世界は、すべての人が意識の山を登るように仕組まれている。
富を信仰(しんこう)する人も、富を信仰し続けることは出来ない。
なぜなら、富には限界があるからだ。
欲望に対して忠実に生きて、有り余る富を手に入れたとしても、富が貯まっていくだけのことである。
ある時からは、富が嵩張(かさば)っていくのを眺めるだけなのである。

2021年12月29日水曜日

追憶 3369

命は大切なものである。
しかしながら、“神”の意思よりは容易(たやす)いものである。
それは、“神”が愛を以(もっ)て指示されるからだ。
愛と命はどちらに価値があるだろう?
答えは、信仰(しんこう)の対象によって変わる。
富を信仰している者には、命の方が価値がある。
“神”を信仰している者には、愛の方が価値があるのだ。

2021年12月28日火曜日

追憶 3368

富を信仰(しんこう)している者は、この世の富に執着(しゅうちゃく)する。
金の為に自ら命を絶つ者もいるが、それは少数派の過激派である。
大抵の場合、この世の富に執着するために、命にも執着する。
それは、命がなければ富を蓄(たくわ)えていても意味がないからだ。

2021年12月27日月曜日

追憶 3367

ニコデモが最も理解し難かったのは、イエスの命に対する執着(しゅうちゃく)の弱さであろう。
イエスは、自ら処刑されることを望んでいたのである。
それは、宿命であったからだ。
イエスも、処刑されることには抵抗があったに違いないが、“神”への信仰(しんこう)が自らの命よりも宿命を優先させたのであろう。

2021年12月26日日曜日

追憶 3366

ニコデモがイエスの言葉の意味を理解することが出来ないのは、イエスからかけ離れているからである。
彼がイエスの言葉を理解するためには、何度も生まれ変わる必要がある。
恐らく彼は、イエスの言動に対して何度もショックを受けたのだろう。
地位や名誉や財産に執着(しゅうちゃく)しているニコデモにとっては、イエスの言動が簡単には受け入れられないのである。
何度もショックを受けることで何度も生まれ変わり、彼は少しずつイエスの言葉に理解を深めたのではないだろうか?

2021年12月25日土曜日

追憶 3365

金持ちが地位や名誉や財産に執着(しゅうちゃく)していないということには無理がある。
なぜなら、執着していなければ、そのような立場にないからだ。
ニコデモは、富を信仰(しんこう)していた。
そのため、“神”を信仰しているイエスの言葉の意味が分からないのである。
それは、山頂からの景色と、麓(ふもと)からの景色は全く違うものだからだ。

2021年12月24日金曜日

追憶 3364

ニコデモは、イエスの言葉の意味が分からなかった。
彼は、イエスが抵抗することなく処刑を受け入れる姿を見て、更なるショックを受けたはずである。
なぜなら、彼はイエス程には受け入れられなかったはずだからだ。
恐らく、ニコデモは地位や名誉や財産に執着(しゅうちゃく)していただろう。
なぜなら、そのようなもの(富)に執着していなければ、そのような立場にはないからである。

2021年12月23日木曜日

追憶 3363

それは、彼の現状の信仰(しんこう)体系の死であり、新たな信仰体系の誕生を促(うなが)すショックであったのだろう。
後にニコデモは、イエスを弁護し、処刑の後では埋葬(まいそう)を手伝っているようだ。
それは、彼の富に対する信仰が死に、“神”に対する信仰が生まれたからではないだろうか?
ニコデモは、新たに生まれたのである。

2021年12月22日水曜日

追憶 3362

そこでイエスは、ニコデモに対して、“あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことが分からないのですか?”と言った。
イエスの言葉を受けたニコデモの反応は記されていないが、ある程度の地位や財産を得ていた彼にとっては、様々な意味でショックを受けるものだったのではないだろうか?

2021年12月21日火曜日

追憶 3361

しかしながら、イエスから得た言葉は、“生まれ変われ”というものであった。
残念ながら、ニコデモにはイエスの言葉の意味が分からなかった。
ニコデモは、生まれ変わりをもう一度、母の胎に入って生まれるという物質的な捉え方をしたのである。
如何(いか)にも、富を信仰(しんこう)する人が考えそうなことである。

2021年12月20日月曜日

追憶 3360

ニコデモは、ある程度の地位や財産を得た時点でイエスに会い、富に対する信仰(しんこう)の違和感に気が付いたのだろう。
ニコデモはイエスに会い、自分が信仰すべきは現状の信仰(富)ではないということに気が付いたのである。
しかしながら、彼は“神”を知らなかったから、イエスに会えば何を信仰するべきか?を教えてもらえると思ったのだろう。

2021年12月19日日曜日

追憶 3359

ニコデモは、イエスに会って、自分が富に仕(つか)えていることを知ったのだろう。
彼は、自分が“神”を信仰(しんこう)していたと思い込んでいたのかも知れない。
イエスとの出会いが、彼に本質的な気付きを与えたのだろう。
そのため、イエスは、ニコデモに対して現状の信仰を手放し、新たな信仰に目覚めるように言ったのだ。
それは、現状の信仰の死と、新たな信仰の誕生を促(うなが)す言葉なのである。

2021年12月18日土曜日

追憶 3358

“新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない”とは、ニコデモが人目を忍んでイエスに会いに来て言われた言葉である。
ニコデモは、イエスの言葉や振る舞いを見て、自分自身やその立場に疑問を持ったのだろう。
そして、イエスに会って、その疑問の真意を確かめようとしたのではないだろうか?
イエスは彼の抱えるものを理解していたために、“新たに生まれよ”と言ったのだろう。
これは、ニコデモの抱えるものに対する答えである。

2021年12月17日金曜日

追憶 3357

滅びなければ、生まれることは出来ない。
すべては輪廻(りんね)の中に存在しているのである。
残念ながら、滅びなければ変わることが出来ない。
イエスは福音書の中で、ニコデモというファリサイ派の議員に対して、“新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない”と言っている。
ニコデモは、地位や名誉や財産を所有している所謂(いわゆる)エリートである。
彼は、イエスとは対立する立場にある人物である。

2021年12月16日木曜日

追憶 3356

経済的な発展の定義を変えるのであれば、発展することは出来るだろう。
しかしながら、それも現在の経済的な発展の定義が滅びた後のことである。
どちらにしても、生まれたものは死ななければならない。
それは変わらない理(ことわり)である。
生じたものは発展し、やがては滅びなければならないのだ。

2021年12月15日水曜日

追憶 3355

先進国と呼ばれる大国は、経済的な発展と自然環境の保護という矛盾(むじゅん)を目標に掲げている。
経済的な発展と自然環境の保護を両立することは難しいだろう。
なぜなら、経済的な発展は、自然環境の資源を投入しなければ達成することが出来ないからだ。
恐らく、自然環境を地球のキャパシティを超えて発展させることは出来ない。
そのため、経済的な発展にも限界が存在するのである。

2021年12月14日火曜日

追憶 3354

どのような商売にも限界がある。
国や文明さえ滅亡するのに、どうして商売が継続するのだろうか?
どのような商売も、発展を続ければ、資源を取り尽くして終わりである。
継続するためには、資源を取り尽くさないことである。
そのためには、商売の抑制(よくせい)しか方法はないだろう。
経済的な発展を目指すのであれば、資源(豊かな自然環境)は必ず失われるのである。

2021年12月13日月曜日

追憶 3353

しかしながら、この世には限界というものが存在する。
例えば、経済的な成長を無限に続けることは出来ない。
なぜなら、経済を成り立たせるためには、地球の資源が必要であるからだ。
地球の資源が枯渇(こかつ)したら、経済は成り立たない。
経済は、自然環境が成り立たせているのである。

2021年12月12日日曜日

追憶 3352

富を信仰(しんこう)する人には、この理(ことわり)を理解することが出来ない。
なぜなら、富の教えは、無限の向上や増大であるからだ。
富を信仰する人は、限界が存在しないと信じている。
無限に向上し、増大することが出来ると信じているのである。

2021年12月11日土曜日

追憶 3351

すべては、栄枯盛衰(えいこせいすい)を繰り返す。
それは、生命の一生と同じことである。
生まれてからは成長を続け、成長の限界に達した後は衰退(すいたい)に向かい、やがては死に辿り着く。
規模が違うだけで、すべては同じ道を辿るのである。
どれだけ努めても、この世界では、成長し続け、栄え続けることは出来ないのだ。

2021年12月10日金曜日

追憶 3350

しかしながら、富の教えに従(したが)った向上や増大を続けることは出来ない。
向上や増大を続けることが出来るのであれば、巨大な文明や国が滅びることはなかったのである。
この世には、多くの文明や国が栄えたが、すべて滅んでしまった。
それは、この世では向上や増大を続けることが出来ないからである。

2021年12月9日木曜日

追憶 3349

そのため、富を信仰(しんこう)する人は、向上や増大を追求して、より大きな価値や富を手に入れようとする。
それは、それが正しい道であり、満足や幸せを得る唯一の方法だと信じているからである。
それとは逆に、停滞や後退や減少は間違った道であり、不満や不幸を得ることになると信じているのだ。
富への信仰は、停滞や後退や減少を許さないのである。

2021年12月8日水曜日

追憶 3348

多くの人は、大きなものに満足や幸せを感じるように教えられている。
例えば、小さな富よりも大きな富の方が価値があると教わるのである。
富を信仰(しんこう)するための教えは、向上や増大である。
富を信仰する教えは、より大きな価値を褒(ほ)める。
より大きな富に価値を見出すことが美徳とされるのである。

2021年12月7日火曜日

追憶 3347

多くの人は、麓(ふもと)の暮らしが最高のものだと信じている。
多くの人は、安定していて、尚且(なおか)つ贅沢(ぜいたく)な暮らしに憧れる。
多くの人は、それを幸せだと信じているために、それを手放すことが出来ない。
麓にいると、安定していた方が良いと思えるし、贅沢な暮らしの方が良いように思える。
それは、そのように仕組まれているからだろう。

2021年12月6日月曜日

追憶 3346

意識の山を登るためには、現状を手放さなければならない。
そして、苦しみを受け入れなければならないのである。
現状や安心に執着している内は、多くの人と同じように恐怖を背負い、偽りの幸福を喜ぶ。
多くの人は、“信じる者は救われる”という言葉に希望を見出すのである。

2021年12月5日日曜日

追憶 3345

そして、恐怖が重たくて、意識の山を登ることが出来ないのである。
重たい荷物を背負っていては、多くの人が、その場にとどまった方が良いのではないかと思ってしまう。
それは、恐怖を抱えているために、手放したり、苦しみを受け入れることが出来ないからだ。

2021年12月4日土曜日

追憶 3344

意識の山の低いところにいる多くの人は、恐怖を動機とする。
多くの人は、恐怖によって動いているのだ。
顧客や信者を得ようとする時に最も簡単な方法は、恐怖を煽(あお)ることである。
地獄に堕ちるとか、神に見放されるとか、先祖が祟(たた)っているとか、運気や方角や時期が悪いとか、このままでは大変なことになるとか、方法は様々である。
多くの人は、恐怖を煽る言葉によって、簡単に顧客や信者となる。

2021年12月3日金曜日

追憶 3343

それは、手放さないからである。
正確には、手放せないのだろう。
信じていることを手放すことは至難(しなん)である。
しかも、宗教は、信じる気持ちが強化されるように仕組まれている。
それは、富に対する信仰(しんこう)や、無知なカウンセラーや占い師や霊能者でも同じことである。
意識の山の低いところにいる人達は、顧客(信者)を獲得すること、集団を大きくすることを目指す。

2021年12月2日木曜日

追憶 3342

しかしながら、宗教に携わっている人達は、宗教(の神や救世主)によって統一が実現すると思い込んでいる。
それぞれの宗教は、形が違うにしても、それぞれが統一するために争っている。
わたしには、彼等が統一したいのか分離したいのか分からない。
統一するために争うというのは矛盾している。
しかしながら、彼等はそれ程の矛盾に何千年も気が付くことがないのだ。

2021年12月1日水曜日

追憶 3341

わたし達が調和するためには、山頂を目指さなければならないだろう。
頂(いただき)からの視点を得なければ、“すべては一つ”ということは分からないのである。
麓(ふもと)の整備された道で“神”を教える宗教団体には、“すべては一つ”という理(ことわり)を理解するのは不可能なのである。
それは、彼等が分離の段階に存在しているからだ。
そのため、宗教によって調和することは不可能なのである。

2021年11月30日火曜日

追憶 3340

“神”の視点からでは、違いというものは存在しない。
“神”は、分離を生み出してはいないのだ。
違っているように見えても調和している。
頭と手と足は違うように見えるが、一つの肉体である。
自分の肉体の頭と手が違う存在であったり、分離していると考える人はいないだろう。
見た目や役割は違うが、それ等は一つの肉体として調和しているのである。

2021年11月29日月曜日

追憶 3339

“神”は、わたし達を調和するように作ったのである。
“神”の視点と人の視点は異なる。
それは、山頂からの景色と街並み程に違う。
“神”の考える調和と、人の考える調和は異なるのだ。
人が見たら不調和に思えることも、“神”が見ると調和しているのである。

2021年11月28日日曜日

追憶 3338

多くの人と同じ考え方や生き方では、麓(ふもと)を離れられない。
頂(いただき)を目指すためには、独特な考え方や生き方が必要なのである。
多くの人は、独特な考え方や生き方を嫌う。
それは、調和を乱すと考えるからだ。
彼等の考える調和とは、全体の中の小さな一部分の調和のことである。
しかしながら、彼等はそのことに気が付かない。
“神”とは、“すべては一つ”という調和そのものである。

2021年11月27日土曜日

追憶 3337

自分自身を目指すことと、頂(いただき)を目指すことは同じである。
頂に近付く程に、自分自身に近付くのである。
誰かや何かと同調している時には、自分自身を知る機会を失う。
自分自身を知らなければ、“神”を知ることは出来ないだろう。
なぜなら、頂に辿り着かなければ、そこに存在する“神”を知る機会はないからである。
頂に辿り着く過程において、人は自分自身を知ることになるのだ。
“神”を知ることと、自分自身を知ることは同じなのである。

2021年11月26日金曜日

追憶 3336

すべての意識は、孤高を目指さなければならないだろう。
それは、特別を目指すということである。
特別というのは、自分のことである。
人は、それぞれに異なる。
それが自然である。
この世界には、一人として同じ人はいない。
人は、それぞれに個性的であり、特別なのである。
人は、自分を目指す時、自然と特別を目指すのである。

2021年11月25日木曜日

追憶 3335

“神”に会うためには、山頂(さんちょう)へ辿り着かなければならない。
多くの人と一緒にいては、山頂へと向かうことすら出来ないのである。
山頂へ辿り着くためには、孤独を覚悟しなければならないだろう。
独りでも登頂するという強い意思がなければ、山頂に辿り着くことは出来ない。
残念ながら、多くの人と一緒に山頂に辿り着くことは出来ないだろう。
人は、人数が増える程に、その場にとどまろうとするからである。

2021年11月24日水曜日

追憶 3334

彼等は、親である“神”を信仰(しんこう)しようとして、子である富を崇(あが)めているのだ。
信仰の対象が違えば、辿り着く場所は異なる。
“神”に会うためには、多くの人と同じように崇めてはならない。
多くの人と同じようにすれば、多くの人と同じ場所にとどまることになる。
多くの人は“神”に会わない。
多くの人と同じ場所にいても、“神”には会えないのである。

2021年11月23日火曜日

追憶 3333

そのため、富を崇(あが)めたとしても、“神”を信仰(しんこう)することにはならない。
巨大な像や豪華絢爛(ごうかけんらん)な建物、古い書物や教師などを崇めても仕方がないのである。
“神”を信仰するためには、そういった簡単で複雑なものを手放さなければならないのだ。
皆と同じように崇めていても、“神”に会うことは出来ない。
なぜなら、彼等は意識の山を登ってはいないからだ。
多くの人は、麓(ふもと)の街から整地された山道を少しだけ登ったところで、巨大な像や豪華絢爛な建物や、古い書物や教師を崇めている。

2021年11月22日月曜日

追憶 3332

残念ながら、実体と虚像(きょぞう)はかなり異なる。
多くの人が崇(あが)めている富と、僅(わず)かな人が信仰(しんこう)している“神”は少しも似つかない。
なぜなら、富とは“神”が生み出した一つの概念(がいねん)に過ぎないからだ。
富は、海や空や風などの概念に等しいのである。
親と子は似ているように見えるが、中身は全くの別物である。

2021年11月21日日曜日

追憶 3331

本質的に生きることは、難しいのである。
そのため、多くの人は表面的に生きる。
麓(ふもと)の街で簡単に複雑に生きているのに、本質を知ったつもりの人が多い。
“神”に会ったこともないのに、本質を知ったつもりでいる人が多いのである。
彼等の言葉は虚言(きょげん)に過ぎない。
山頂で生活したこともないのに、山頂の暮らしを語るのである。

2021年11月20日土曜日

追憶 3330

基本的には、難しい程に本質的である。
難しいと複雑は異なる。
本質的なものは、単純で難しいのである。
多くの人は、簡単なものを欲する。
そして、複雑なものを受け入れる。
多くの人は、簡単で複雑な世界観を生きているのである。
山頂で生きることは難しい。
それは、山頂には何も無く単純だからである。
対照的に、麓(ふもと)の街で生きることは簡単である。
麓の街には、多くの人工物が混在し、複雑だからである。

2021年11月19日金曜日

追憶 3329

有名なカウンセラーや霊能者や占い師を疑う人は少ないだろう。
大抵の人は、有名だから信用するのである。
それは、多くの人が信用しているのだから大丈夫という何の根拠もない理由である。
何度も先述(せんじゅつ)しているが、有名だから良いというのであれば、某(ぼう)ファーストフードが最良の食事になってしまうのである。
大抵の人は、某ファーストフードを最良の食事とは思わないだろう。

2021年11月18日木曜日

追憶 3328

ほぼ全てのカウンセラーや霊能者や占い師は、敵が存在すると信じているし、争いや金が必要だと信じている。
大抵のカウンセラーや霊能者や占い師は、存在すると信じている敵や争いに対して、また、必要だと信じている金に対して真剣に向き合う。
中には、騙(だま)そうとしている者もいるだろう。
しかしながら、大抵のカウンセラーや霊能者や占い師は無知で真剣なのである。
そのため、大抵の人は、カウンセラーや霊能者や占い師が無知であろうとも、その真剣な姿勢に信用する。
どの世界にも質というものがあるのに、看板や態度を見て無条件に信用するのである。

2021年11月17日水曜日

追憶 3327

それは、高い程、辿り着くのが難しいからだ。
都合の悪い人物を否定し、霊を悪霊と呼んで争い、悪運や悪い気や悪い方角があると言っているカウンセラーや霊能者や占い師という人達も、低い意識の段階にいる。
それは、彼等が“すべては一つ”という“神”から遠く離れているからだ。
彼等は、“神”を信仰(しんこう)していると見せ掛けて、富を信仰している。
彼等は、争いが存在すると見せ掛けることで依頼者の心に不安を植え付ける。
不安を抱えた人は、どうにかしてそれを取り除きたいと思うだろう。
不安を解決するためには、金が必要だと言われたら、不安を植え付けられた人は請求に対して素直に応じるのである。

2021年11月16日火曜日

追憶 3326

宇宙から地球を見ると、何の区別もなく一つの星である。
視点が低い程に分離し、視点が高い程に統合する。
そのため、“神”への信仰(しんこう)を謳(うた)いながら争っている宗教は、とても低い意識の段階にあるということである。
宗教に多くの人が群がるのは、麓(ふもと)の街から近い場所であるからだ。
頂(いただき)に近付く程に、人は少なくなるのである。

2021年11月15日月曜日

追憶 3325

“神”は、頂(いただき)に辿り着いた時に見える景色や心境のことである。
頂に辿り着いた時に見える景色や心境とは、“すべては一つ”というものだ。
麓(ふもと)の街では視点が低く、それぞれが分離しているように思える。
しかしながら、頂からの視点は、空と山と街と海が一つに見えるのである。
街の中では、それぞれの家や人物が個性的に見えていたが、頂から見ると区別が付かず、一つの街にしか見えないのだ。

2021年11月14日日曜日

追憶 3324

登山は、一歩一歩の積み重ねである。
一歩一歩を積み重ねなければ、頂(いただき)に辿り着くことは出来ない。
一歩を踏み出せば、その分だけ苦しみが増す。
山は登る程に険(けわ)しく、厳(きび)しいのである。
頂に辿り着くためには、苦しみを繰り返さなければならない。
苦しみを繰り返さなければ、“神”に会うことは出来ないのである。

2021年11月13日土曜日

追憶 3323

また、自己批判(じこひはん)や自己憐憫(じこれんびん)に陥(おちい)り、鬱(うつ)を抱えていたり、自殺を試みるような人も、人生経験が浅く幼い。
彼等には、問題や苦しみの意味や価値が分からない。
そのために、受け入れることが出来ずに抵抗するのである。
意味や価値が分からなければ、それが分かるまで繰り返す必要がある。
それは、繰り返していれば、いつかはその意味や価値が分かる時が来るからだ。

2021年11月12日金曜日

追憶 3322

それは、問題や苦しみを繰り返すことである。
山を登るということは、問題や苦しみを繰り返し経験するということなのだ。
例えば、人生経験の浅い人は、問題や苦しみを悪いものだと信じている。
精神年齢の幼い人は、問題や苦しみを頑(かたく)なに拒(こば)む。
クレーマーと呼ばれる人や煽(あお)り運転をするような人は人生経験が浅く、聞き分けのない子どものように幼いのである。

2021年11月11日木曜日

追憶 3321

麓(ふもと)の街(富への信仰(しんこう))から来た人達には、山の歩き方が分からない。
頂(いただき)には何もないということを知れば、登ることをやめるだろう。
登る程に苦しいと聞けば尚更(なおさら)である。
彼等には、“神”への信仰がどのようなものか分からない。
しかしながら、それは仕方のないことである。
“神”への信仰がどのようなものであるかは、少しずつ登る過程において、それぞれが学ばなければならないことなのである。

2021年11月10日水曜日

追憶 3320

“神”を信仰(しんこう)することは、問題や苦しみを受け入れるということである。
麓(ふもと)の街から来た人達は、問題や苦しみを遠ざけるために“神”を信仰する。
宗教に携わっている人達は、“神”が問題や苦しみを遠ざけてくれると思い込んでいるだろう。
しかしながら、実際には逆である。
“神”は、問題や苦しみを受け入れる強さを与えるのだ。

2021年11月9日火曜日

追憶 3319

意識の山は、登る程に不便さを増す。
そこには、気楽さなど皆無(かいむ)である。
快楽や欲望を貪(むさぼ)ることなど出来ない。
頂(いただき)に近付く程に、気楽さからは遠ざかってしまうのだ。
意識の山は、登る程に大変なのである。
問題や苦しみを受け入れなければ、意識の山を登ることは出来ない。
問題や苦しみを受け入れなければ、“神”を信仰(しんこう)することは出来ないのである。

2021年11月8日月曜日

追憶 3318

“神”を必要としない人は、富と共に気楽に暮らす。
彼等は、富によって目の前の快楽や欲望を貪(むさぼ)ることを喜ぶのである。
彼等は、問題や苦しみが嫌いである。
それは、気楽を損うからだ。
彼等は、問題や苦しみの存在しない世界に幸福を見出す。
問題や苦しみの存在しない気楽さを幸せだと思い込んでいるのである。

2021年11月7日日曜日

追憶 3317

頂(いただき)に近付く程に、道は険しく環境は悪くなる。
これは、信仰(しんこう)と同じことである。
気楽な人は、“神”を信じないし認めない。
それは、“神”などいなくても気楽だからである。
気楽な人は、麓(ふもと)の街で宴(うたげ)に酔い痴(し)れるような人達である。
彼等には、“神”は必要ない。
“神”を信仰していると、快楽や欲望を貪(むさぼ)ることが出来ないからだ。
彼等は富を信仰し、“神”を必要とはしない。
同じように、“神”も彼等を必要とはしないのである。

2021年11月6日土曜日

追憶 3316

麓(ふもと)にいる人に頂(いただき)の話をしても理解することが出来ない。
暖かい麓にいる人に、頂には雪が積もっていることを伝えても信じないのである。
また、頂には木が生えていないことを伝えても信じないのだ。
そのため、宗教に熱心な人に“神”のことを伝えても、それを信じることが出来ない。
彼等は、宗教の教義や教師の話は信じても、例えば、他の宗教の教義や教師の話は受け入れることすらない。
他の宗教も同じ場所にいるのだが、それでも受け入れることが出来ないのである。
彼等は、麓(低い場所)にいるために視野が狭く、多くのことを受け入れられないし、信じることが出来ないのである。

2021年11月5日金曜日

追憶 3315

余計な荷物を背負っている人は、その重さに耐え兼ねて滑落(かつらく)してしまう。
意識の山を下ることは、“神”から遠ざかるということである。
“神”から遠ざかる程に、“神”への確信からは遠ざかる。
富を信仰(しんこう)している人は、“神”を信じていない。
それは、山に登ったことがないからだ。
宗教に熱心な人も、“神”を信じてはいない。
山の麓(ふもと)と頂(いただき)では、全く違う場所なのである。

2021年11月4日木曜日

追憶 3314

それは、山頂に近付く程に、道は険しいからである。
山は、頂(いただき)に近付く程に道が険しくなる。
なだらかな道を進む時には、大きな荷物、余計な荷物を背負っていても良いだろう。
なだらかな道では余裕があるのだ。
しかしながら、険しい道では大きくて余計な荷物は命取りである。
崖(がけ)を登らなければならないような道を進もうとする時に、大きな荷物を背負っていれば風に煽(あお)られてしまう。
そして、余計な荷物を背負っていると、その重量が仇(あだ)となるのである。

2021年11月3日水曜日

追憶 3313

イエスが、“金持ちは天の国に入ることは出来ない。金持ちが天の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が容易い。”と言ったのはそういう意味なのである。
わたし達は、様々な重荷を背負ったままで意識の山を登ることは出来ない。
ある程度までなら大きなバックパックが必要だが、登頂する時には小さなアタックザックを使う。
それは、重荷は危険だからである。
登頂を実現するためには、余計な荷物は持ち運べないのである。

2021年11月2日火曜日

追憶 3312

金を追い求める人は欲深く、傲慢(ごうまん)である。
富に価値を置く人は、様々な重荷を背負って肥大(ひだい)している。
整地された綺麗な道を進むのであればそれでも良いが、自然の中を進もうとするには無理がある。
重荷を背負って肥大した状態では、険しくて樹々が覆(おお)い茂る山道を進むことは出来ない。
進もうとしても体力が続かないか、樹々に引っ掛かって進めないのである。

2021年11月1日月曜日

追憶 3311

しかしながら、“神”が個人的な願望や欲望の実現を売ることはない。
どれだけの金額を提示しても、“神”と経済的な取引を実現することは出来ないのである。
金持ち程、問題を金で解決しようとするが、残念ながら、“神”には金など必要ないのである。
金で買えるのは本質以外のものであるが、“神”が求めるものがあるとするなら、それは本質的なものであろう。
そのため、“神”に対して金を交渉材料に使っても仕方ないのである。

2021年10月31日日曜日

追憶 3310

宗教とは、意識の山頂に辿り着こうとして整備された“綺麗な”道である。
それは、広くてなだらかな道であるために、誰でも気軽に歩み始めることが出来る。
多くの人が“綺麗な”道に押し寄せて、渋滞(じゅうたい)しているのだ。
それは、正月に神社に参拝する人の波のようなものである。
彼等は、個人的な願望や欲望を満たすために方々(ほうぼう)から押し寄せる。
彼等は、小銭で願望や欲望を買おうとしているのである。

2021年10月30日土曜日

追憶 3309

しかしながら、“神”を信仰(しんこう)し始めた者にはそのことが分からないだろう。
それは、麓(ふもと)の街に近いからである。
街から来た人達は、登り易(やす)くするために、木を倒し、岩を掘って道を作る。
そこには、立派で“綺麗な”道路が出来上がるのだ。
街から来た者は、立派で“綺麗な”道路を誇(ほこ)る。
そして、後から来た者はそれが正しい道程(どうてい)だと思い、列を成すのである。

2021年10月29日金曜日

追憶 3308

富への信仰(しんこう)が抜け切っていない人は、拡大や発展を成功と思い込んでいる。
熱狂的な信者が集まる宗教程、大きくて有名である。
それは、“神”を信仰しているつもりで、富を信仰しているからだ。
実際、大きくて有名な宗教程、多くの財産を抱えている。
そのような仕組みなのである。
大きくて有名な宗教程、“神”からは遠いのである。

2021年10月28日木曜日

追憶 3307

“神”への信仰(しんこう)は、富への信仰とは方法が異なる。
富は受け取る程に豊かになるが、“神”は与える程に豊かになるのである。
富への信仰は集めることで完成し、“神”への信仰は与えることで完成する。
そのため、富への信仰を完成し、“神”への信仰を始めた人は間違えてしまうのである。
熱狂的な信仰心を抱く人は、仲間である信者や道具や環境など、様々なものを集めようとする。

2021年10月27日水曜日

追憶 3306

熱狂的な信仰心を抱える人達は、麓(ふもと)の町(唯物主義、富への信仰)から来て、登山を始めたばかりである。
依然として、彼等には富への信仰が強く残っている。
彼等は、富への信仰の癖(くせ)が抜けていない。
富は、熱狂的な人にこそ微笑む。
誰よりも富を求める人に、富は与えられるのである。
そのため、山を登り始めたばかりの人は、熱狂的に“神”を信仰するのである。
それは、熱狂的に求める程、多くを与えられると思い込んでいるからだ。

2021年10月26日火曜日

追憶 3305

信仰(しんこう)が極まる程に、信仰に対する意識は小さくなっていくのだろう。
例えば、宗教活動に熱心な“神”を信仰している信者の信仰は、とても大きく熱狂的である。
彼等は、“神”のために争うし、“神”のために人生や命を捧げる程である。
それは、信仰が大きく、持て余しているからだ。
彼等は、信仰心に翻弄(ほんろう)されているのである。
信仰心が熱狂的である程、山の麓(ふもと)であるということなのである。

2021年10月25日月曜日

追憶 3304

信仰(しんこう)は、それがどのようなものであれ、偏(かたよ)らなければ成立しない。
“神”を信仰するためには、“神”に偏らなければならないし、富を信仰するためには、富に偏らなければならないのである。
わたし達が信仰という山を登るのは、信仰を手放すためなのかも知れない。
頂上に近付く程に、面積が小さくなるのは、信仰の大きさを示唆(しさ)しているのだろう。

2021年10月24日日曜日

追憶 3303

わたしは、“神”を信仰(しんこう)しているが、やがてはそれもなくなるのかも知れない。
なぜなら、“神”とか富とかいう信仰の対象は、偏ったものであるからだ。
何かに対する信仰を失い、“すべては一つ”という状態に辿り着いたのであれば、“神”や富といった小競り合いを回避することが出来るだろう。

2021年10月23日土曜日

追憶 3302

腐り、干からびたものに信仰心(しんこうしん)を持ち続ける人はいないだろう。
大抵の人はそれを手放すのである。
富を信仰している人に対して、それを手放した方が良いと言っても鼻で笑われるだけである。
それは、“神”を信仰する人に対して、それを手放した方が良いと言っても聞き入れないのと同じことである。
わたしは、“神”を信仰しているが、盲信(もうしん)してはいない。
それは、信仰の果実が青くはないからだろう。
しばらくすると、“神”への信仰心も熟して落ちるのかも知れない。

2021年10月22日金曜日

追憶 3301

つまりは、人が考えや価値観を改めるためには、信仰(しんこう)に対する成熟を待たなければならないのである。
本人がその信仰に満足しなければ、考えや価値観を改めることは出来ないのだ。
果実は、成熟を待てば簡単に枝から離れる。
成熟した果実は、自ずから枝を離れるのだ。
枝が望んでも、成熟した果実は自重によって枝を離れてしまう。
それでも、繋ぎ止めようとすると、そのままの状態で腐り、干からびてしまうのである。

2021年10月21日木曜日

追憶 3300

それは、誰もが自分の信じるものが正しいと信じているからだ。
信じるものに対して、それが正しいかどうか?という問いは力を持たない。
大抵の場合、信じているものは正しいという考えが勝る。
それは、枝にぶら下がる青い果実のように、揺らしても引っ張っても取れないものなのである。
青い果実を引き千切ることは出来るが、それでは、苦(にが)さを得なければならない。
甘味(かんみ)を得るためには、実が熟するまで待たなければならないのである。

2021年10月20日水曜日

追憶 3299

わたし達は、教わったことは正しいと信じてしまう。
それは、純粋である幼い内から教育されているからだ。
幼い頃から教育されているのであれば、それが“普通”だと信じてしまうだろう。
教育は、やがて信念を形成する。
そして、信念が人を導くのである。
正しさというものは見方や立ち位置に過ぎない。
人は、別々の立ち位置で正しさを主張している。
それは、それぞれの立ち位置から正しいと見えるからだ。
そのため、何が正しく、何が間違っているか?ということを議論しても意味のないことである。

2021年10月19日火曜日

追憶 3298

すべての人は、他者からの影響を受けている。
誰一人として、他者からの影響を受けずには生きられない。
あなたの考えや思いは、残念ながら、あなたのものではない。
それは、独自のもののように思えるが、他者からの影響によって築かれたものなのである。
姦淫(かんいん)をしたからといって、それが罪であるとは限らない。
姦淫を必要としている人には最善の選択なのである。
最善を罪として訴(うった)え、石で打つのは、誰かにそう教わったからである。

2021年10月18日月曜日

追憶 3297

姦淫(かんいん)の罪で捕らえられた女を訴(うった)えたのは、法律学者やパリサイ人(びと)である。
彼等は、それが正しいことだと信じているのだ。
正しいと信じない限り、人を石で打ち殺そうなどとは思わないだろう。
しかしながら、彼等も、生まれた時から姦淫が罪であり、その罰が石打ちなどとは知らなかった。
彼等は、そのように教えられたから、信じて行っているのである。
教えられなければ、信じることもないのである。

2021年10月17日日曜日

追憶 3296

すると、イエスの言葉を受けた人達は固まり、年寄りから順にすべての人が去り、その場には女とイエスだけが残った。
そこで、イエスが女に問いかけた。

「皆はどこへ行ったのですか?あなたの罪を罰する人はいなかったのですか?」

すると女は答えた。

「誰もいませんでした」

イエスは女に言った。

「わたしもあなたを罰しません。家に帰りなさい。もう罪を犯してはいけない」

2021年10月16日土曜日

追憶 3295

大抵の人は、欲望の渦(うず)に巻かれている。
多くの人は、欲望に翻弄(ほんろう)されてしまうのだ。
ヨハネの福音書の記述には、法律学者やパリサイ人(ひと)達が、姦淫(かんいん)の罪で捕らえた女をイエスの前に連れて来て、皆で石で打ち殺そうとする場面が描かれている。
それは、当時の法律でそう決められていたからである。
これは、イエスを訴(うった)える口実を得るためであった。
そこでイエスは、「あなた方の中で罪の無い者が、この女に石を投げなさい」と言った。

2021年10月15日金曜日

追憶 3294

自分自身の欲望ならば、何とか制御することが出来るだろう。
それでも、容易(ようい)なことではない。
しかしながら、多くの人の欲望が集まれば、それを制御することは不可能である。
それは、大きな渦(うず)となって襲うのである。
人は、そこに浮かぶ小舟であり、一本の櫂(かい)を持っているに過ぎない。
欲望の嵐の中では、簡単に翻弄(ほんろう)され、どうすることも出来ないのである。

2021年10月14日木曜日

追憶 3293

“神”を信仰(しんこう)する人は、金持ちにはなれない。
それは、思い通りや愛情を優先するからである。
思い通りや愛情を優先する人は金持ちにはなれないのだ。
それは、富とは離れたところにいるからである。
そのため、多くの信者を抱える大きな宗教組織程、“神”への信仰からは遠ざかってしまう。
人が集まるところには金も集まる。
それは、人が集まるところには欲望が生じるからである。

2021年10月13日水曜日

追憶 3292

富を信仰(しんこう)する人は、豪華な建物を建てることが良いと信じている。
彼等は、文明は経済を中心に発展すれば良いと信じているのである。
例え、それが自然環境を犠牲にしたとしても、発展するためには仕方のないことだと考えているだろう。
なぜなら、彼等は富を信仰しているのであり、“神”を信仰している訳ではないからだ。
彼等にとって優先すべきは“神”ではない。
“神”への信仰である思いやりや愛情を優先していると、富への信仰である金儲けや発展が疎(おろそ)かになるために、彼等はそれを軽んじるのである。

2021年10月12日火曜日

追憶 3291

土台を崩すのであれば、どのような建物も傾いてしまう。
贅沢を尽くした建物も、土台が傾けば崩れてしまう。
どのように文明が発展しても、自然という土台を顧みない文明は滅びてしまうのである。
白蟻のように柱を貪(むさぼ)るのであれば、どのように大きな柱も意味を成さない。
見た目は良くても、価値は無いのである。

2021年10月11日月曜日

追憶 3290

自然環境の悪化なのか、争いの結果なのか、他の星への移住なのかは分からないが、文明の発展が不自然な方向に進むと、結果的には滅びてしまうのである。
わたし達の文明も、自然環境を蔑(ないがし)ろにして、傲慢(ごうまん)に強欲にいつまでも不自然さを追い求めるのであれば、文明を維持していくことは出来ないだろう。
どのような文明も、自然環境の上に成り立っているのである。
どのような文明も、自然を克服することは出来ないのである。

2021年10月10日日曜日

追憶 3289

その後に、恐らくは人為的に現人類が“置かれた”のだろう。
恐らくは、昔にピラミッドなどの巨石を扱う人類か何かがいたが、文明の発展と共に滅びてしまったのではないだろうか?
自然環境を保つような文明なら、滅びてはいないだろう。
現存していないということは、恐らくは自然環境を破壊してしまった結果、住めなくなってしまったのだろう。

2021年10月9日土曜日

追憶 3288

しかしながら、ピラミッドを建設する程のレベルの文明でも、庶民(しょみん)の暮らしは豊かなものではなかったようである。
それは、ピラミッドを建設したのが、現状の人類とは別の人類か何かであったからなのかも知れない。
現状の人類は、恐らくピラミッドを建設してはいない。
ピラミッドを建設した人類か何かは、文明の発展によって自然環境を破壊し、環境の悪化によって住めなくなって移住したか?、滅びてしまったのではないだろうか?

2021年10月8日金曜日

追憶 3287

ピラミッドを建設することが出来る程の優れた文明だから、人々の暮らしも豊かなものであっただろう。
しかしながら、当時の庶民の暮らしは豊かなものではなかったようだ。
ピラミッドを建設することが出来る程の優れた文明が、庶民に貧しい暮らしを強いるだろうか?
今日(こんにち)の日本でも格差は大きいが、社会保障は充実しているように思う。
大勢の不平不満を吐く人はいるが、日本で生活している以上、簡単に死ぬようなことはない。
今日の日本“程度”の文明であっても、国民は豊かに暮らしているのである。

2021年10月7日木曜日

追憶 3286

ピラミッドを建設することが出来る程の優れた文明も、巨大な建造物と謎を残して消えた。
彼等が滅びたのか、違う星にでも移住したのか、文明を放棄(ほうき)して狩猟や農耕からやり直したのか?は分からない。
しかしながら、ピラミッドを建設する程に発展した文明が継続されることはなかった。
彼等が繁栄(はんえい)していたのかは分からないが、恐らくは、ピラミッドだけを建設した訳ではないだろう。
今は砂漠の中にあるピラミッドも、当時は今とは異なる環境であったのではないだろうか?

2021年10月6日水曜日

追憶 3285

彼等は、何千年も前にピラミッドを建設した人達である。
彼等は、野蛮(やばん)でもなければ、猿でもないのである。
彼等には、わたし達が知らない技術力と知識があったはずである。
そうでなければ、石だけの巨大な建造物を築くはずがないだろう。
そこには、文明規模か地球規模の理由があるはずである。
あれは、気まぐれで作れるようなものではないのだ。

2021年10月5日火曜日

追憶 3284

しかしながら、わたし達の文明に巨石の文化はない。
わたし達の文明は、鉄と石油である。
ピラミッドを残して消えた文明とは異なる発展をした。
それは、恐らく、彼等とわたし達が違う人類や文明であるからだろう。
彼等は、ピラミッドを建設する程に発展した文明である。
しかしながら、滅びてしまった。
それは、彼等も恐らくは富を信仰(しんこう)したからであろう。

2021年10月4日月曜日

追憶 3283

恐らく、昔の人は、ピラミッドを建設する程に優れていた。
シュメール文明のように、太陽系の惑星配列のことまで知っていた文明もある程である。
彼等がわたし達の文明よりも劣っているとは思えない。
彼等がわたし達と同じ人類なのかは分からないが、彼等の文明が大きく発展していたことは間違いないだろう。
しかしながら、彼等もピラミッドや遺跡を残して消えてしまった。
わたし達が彼等の子孫なら、何かしらの技術力や知識は継承(けいしょう)されているはずである。

2021年10月3日日曜日

追憶 3282

わたし達には、エジプトに住んでいた過去の人類が、どこからどうやって巨石を切り出して運び、どうやって積み上げたのかも分からない。
それに、何のためにピラミッドを建設したのかさえ分からないのである。
わたしには、昔の人類が野蛮(やばん)で劣(おと)っているとは考えられない。
ピラミッドを建設したのが人類であるのならば、彼等が優れた技術力と知識を持っていたことは否定することの出来ない事実であるだろう。

2021年10月2日土曜日

追憶 3281

人間が猿から進化し、今の方が上等であるのならば、何千年も前の技術や知識を容易(たやす)く凌駕(りょうが)していなければならないだろう。
しかしながら、現状の人類には、巨石文明のような技術力も、シュメール文明のような知識もないように思える。
現状の人類は、過去の人類よりも劣(おと)っているのではないだろうか?
何千年前か分からないが、彼等の方が野蛮(やばん)で劣っているのであれば、技術力や知識に謎は存在しないはずである。
わたし達にとって、何百年か前の人類の技術力や知識を謎とは思わないだろう。
しかし、それよりも古い人類の技術力や知識は謎なのである。

2021年10月1日金曜日

追憶 3280

真実は分からないが、恐らく学校で教わることは間違っているだろう。
ピラミッドや巨石群、インカの石垣などの巨石建造物の技術レベルや、シュメール文明などの知識レベルをどう説明するのだろう?
過去の人類が、本当に野蛮(やばん)で劣っていると言えるのだろうか?
現代の技術力や知識を人類が一丸となって費やせば、例えば、クフ王のピラミッドを建設することが出来るだろうか?
出来るかも知れないが、恐らくは難しいだろう。
しかしながら、何千年か前の人類(その地域の人達)は、それを達成したのである。

2021年9月30日木曜日

追憶 3279

富を信仰(しんこう)する人は、自然から離れることで上等な人間性と豊かな人生が得られると思っている。
それは、昔の人間が野蛮(やばん)だと思い込んでいるからであろう。
それは、学校でそのように教わるからである。
人間は猿から進化して村を作り、マンモスを狩り、壺(つぼ)を焼いて木の実や貝を食べ、原始的な生活を営んでいた。
このように教わるのである。

2021年9月29日水曜日

追憶 3278

富を信仰(しんこう)する人が増えると、自然環境は悪化する。
経済活動が活性化する程、自然界からの搾取(さくしゅ)は大きくなる。
今日(こんにち)の中国がそうであり、かつての日本がそうであったように、経済発展に比例して自然環境は悪化するのだ。
また、自然から離れる程に肉体的、精神的な病気も増える。
それは、自然から離れるからである。
人は、自然から離れて健全な人生を築くことは出来ないのである。

2021年9月28日火曜日

追憶 3277

文明人に成りたがる人達は、自然を否定する。
彼等は、自然から離れ、不自然になる程に上等な人間だと思い込んでいるのである。
そのような不自然な人間が、他者を奴隷(どれい)として扱ったり、争いによって領土や財産を奪ったり、政治を利用してすべてを支配したがるのである。
高い建造物に住んで満足しているのも不自然である。
不自然さは、富への信仰(しんこう)へと繋がるし、富への信仰は不自然を実現するのである。
富を信仰する人は、必ず自然を壊すのである。

2021年9月27日月曜日

追憶 3276

残念ながら、人は不自然な存在である。
人間らしさとは、自然から離れる程にそれらしくなるものである。
文明の発展は、人を自然から遠ざける。
人は、文明の発展に比例して人間らしくなるのである。
人間らしさとは、不自然なものであるだろう。
そのため、文明人は原住民を野蛮(やばん)に思うだろう。
それは、原住民が自然に近いからである。

2021年9月26日日曜日

追憶 3275

富は人を非道にさせる。
富を信仰(しんこう)する人は、富のために心無いことも出来る。
富を信仰する人の選択の動機は、“それが金になるか?”というものである。
利益が得られるならやるし、損失を出してしまうならやらないのだ。
それが世の中にとって良いことであろうとも、金にならないならやらないし、それが世の中にとって悪いことであっても、金になるならやるのである。

2021年9月25日土曜日

追憶 3274

それは、富によって満たされると思い込んでいるからである。
わたしは、貧乏が良いとか、金持ちが悪いと言っているのではない。
人生というものは、富のために費やされるべきではないと言っているのである。
“神”のいない人生は空しいのだ。
それは、心の無い世界だからである。

2021年9月24日金曜日

追憶 3273

富に対する信仰心(しんこうしん)はとても強く根深い。
それは、桑の木のように大きく育ち、多くの恵みを与えてくれる。
多くの恵みを与えてくれる大樹を取り除くことは難しい。
それは、物理的にも精神的にも難しいことなのである。
金持ちが財産を手放すことは難しい。
権力者が権限を手放すことは難しい。
著名人(ちょめいじん)が名声を手放すことは難しい。
富を信仰する人が、信仰心を手放すことは難しいのである。

2021年9月23日木曜日

追憶 3272

厳密(げんみつ)には、金銭欲にも限界はあるが、他の欲求に比べて衰(おとろ)えるのに時間がかかるのである。
多くの人は、死ぬ寸前まで金のことを心配しているかも知れない。
しかしながら、死を前にした時には、食欲や睡眠欲や性欲のことは考えないだろう。
死を前にしても強く残るのが金銭欲なのである。
それ程に強い欲求であることを知らなければならないだろう。

2021年9月22日水曜日

追憶 3271

金は幾らあっても、増える度に喜ぶことが出来る。
しかしながら、その喜びも束(つか)の間のことである。
今まで以上に金を貯めても、より多く欲しくなってしまうのだ。
百万円貯めれば、五百万円貯めたくなるし、五百万円貯めれば、一千万円貯めたくなる。
一千万円貯めれば、一億円貯めたくなるのである。
どれだけ美味しいものを食べても、やはり腹は減る。
腹が減れば、より美味しいものを食べたくなるのである。
食欲には限りがあるかも知れないが、金銭欲には限りがないだろう。

2021年9月21日火曜日

追憶 3270

どれだけの金や物を手に入れても、後からより魅力的な商品が現れる。
より魅力的な商品は、より高価なものである。
富を信仰(しんこう)する人は、安価なものには魅力を感じないだろう。
そのため、より魅力的な商品を手に入れてるためには、より多くの金が必要になる。
より魅力的なものを手に入れようとすれば、金は幾らあっても足らないのである。
富を信仰(しんこう)する人は、金は多ければ多い程良いと考えるだろう。
少なければ困るが、多い分には困らないと考えるのである。

2021年9月20日月曜日

追憶 3269

すべての富を手に入れたとしても、満たされることはないだろう。
それは、どのように美味しいものを食べても、やがては腹が減るのと同じことである。
満たされるためには、食べなければならない。
食べなければ満たされないが、やがて腹は減るのである。
腹が減ることからは逃れられない。
渇きは無くならないのである。

2021年9月19日日曜日

追憶 3268

金のために命をかけられる人は少ないだろう。
金を欲するのは、大抵の場合、誰かのためである。
自分自身のために金を稼(かせ)いでも、金が貯まっていくだけである。
初めの頃は、金が貯まっていくことに喜びを覚えるかも知れない。
しかしながら、ただ金が貯まっていくだけである。
金によって様々な商品を手に入れたとしても、資産が増えていくだけのことである。

2021年9月18日土曜日

追憶 3267

多くの人は、死を前にして金や商品や富のことを考えないだろう。
富への信仰(しんこう)が強い人は、富のために自ら命を絶ったりもする。
しかしながら、そのような人は少数派である。
多くの人は、富と“神”を天秤(てんびん)にかけた時には、“神”の方が重たいと判断するだろう。
先の大戦で戦った日本人は、金のために命をかけたのだろうか?
恐らく、金のために命をかけて戦った日本人はいないだろう。
日本人は、金では買えない家族や大切なものを守るために、命をかけて戦ったのである。

2021年9月17日金曜日

追憶 3266

欲しいものには限界がある。
どのように強欲な人も、肉体と精神の衰(おとろ)えに比例して、欲しいものは減っていく。
金で買って満たせる欲求には限界があるのだ。
肉体や精神が衰えてまで、金で買える商品に拘(こだわ)り、他者と競り合うだろうか?
例えば、病気によって死を意識している時にまで、金で買える商品のことを考えているだろうか?
恐らくは、そのような人は稀(まれ)である。

2021年9月16日木曜日

追憶 3265

多くの富を所有して、買いたいだけの物を手に入れたら、後は空しさとの闘いになる。
企業は、努力して魅力的に“見える”商品を発売する。
限定品にしたり、価格を釣り上げたりして購買意欲を煽(あお)る。
会社でも、株券でも、不動産でも、美術品でも、工業製品でも、装飾品でも、次から次へと販売される。
しかしながら、その本質は、“前とは少しだけ変わった物が目の前に現れる”という程度のものである。

2021年9月15日水曜日

追憶 3264

金よりも価値のある本質は、金によって取引することは出来ないのである。
富に対する信仰(しんこう)には限界があることが分かるだろう。
しかしながら、そのことに気が付くのは、富に対する信仰が極まった後かも知れない。
多くの富を所有することで、富によって得られるものの限界が見えてくるのである。

2021年9月14日火曜日

追憶 3263

しかしながら、本質以外のすべてを買える金も、本質だけは買うことが出来ない。
本質とは、命であったり、本心であったり、運命であったり、魂などである。
これ等の本質は、この世の富をどれだけ積んでも買うことが出来ない。
もちろん、売ることも出来ないのである。
それは、それ等の本質が、金よりも価値のあるものだからだ。
金で取引することが出来るのは、金と同等の価値のあるものか、金よりも価値の低いものである。
金と同等か、それよりも価値が低いから取引が成立するのである。

2021年9月13日月曜日

追憶 3262

目に見える世界を生きているのだから、金が優れていると思い込むのも無理はない。
金は、本質以外のすべてを買える。
金に本質以外の不可能はないだろう。
金は、本質以外の問題をすべて解決してくれる。
金には力があり、価値があると思い込むのも無理はないのである。
実際に、本質以外に対しては力があり、価値があるのだ。
多くの人が金を追い求めるのは“普通”のことであるだろう。

2021年9月12日日曜日

追憶 3261

格差が広がったことによって、人は自分と他者を比較するようになった。
比較は、人の心に優越感や劣等感を植え付けた。
そして、優越感を抱えた人も、劣等感を抱えた人も、同じように金に対する欲求が高まった。
なぜなら、金によって優劣を比較しているからだ。
そして、世の中には金持ちが優れ、貧乏は劣っているという風潮(ふうちょう)が育った。

2021年9月11日土曜日

追憶 3260

当時の日本人は金持ちだったように思える。
平均的にお金を持っていた印象である。
お金に余裕があり、経済的な不安が少なく、仕事や遊びを楽しんでいるように思えた。
当時の大人は、今に比べて夢や希望を抱えている人が多かったかも知れない。
しかしながら、いつまでも派手な暮らしは続かなかった。
多くの人はお金を失い、格差が広がったように思える。

2021年9月10日金曜日

追憶 3259

わたし達は、富が信仰(しんこう)に値(あたい)するのか?ということを熟考しなければならないだろう。
当たり前に生きているのであれば、富に対する信仰に疑問を抱くことはない。
疑問を抱くことがなければ、当たり前を続けていくのである。
日本に生まれると当たり前のことも、外国では非常識であったりする。
わたしは、富を信仰する世の中に生まれた。
わたしの生まれた80年代は、既に富に対する信仰が蔓延(はびこ)っていたように思える。

2021年9月9日木曜日

追憶 3258

しかしながら、それは、人生の目的として相応(ふさわ)しいのだろうか?
わたし達は、この世を贅沢(ぜいたく)に生きるために生まれて来たのだろうか?
多くの人は、我欲が疼(うず)き、富を追い求めなければならないのだろう。
しかしながら、富は命に相当するものなのだろうか?
富のために命を費やしても良いのだろうか?
命を掛けて得られるものが富で良いのだろうか?

2021年9月8日水曜日

追憶 3257

利己的な者は、地の国に執着(しゅうちゃく)する。
利己的な者は、地の国の富を手放すことが出来ないのである。
利己的な者にとっては、地の国での繁栄(はんえい)こそがすべてである。
地の国での繁栄こそが豊かさなのである。
確かに、地の国の富は魅力的に見える。
多くの人が、それを欲するのは仕方のないことだろう。

2021年9月7日火曜日

追憶 3256

富を信仰(しんこう)するということは、自分(自我)を大きくしていくことである。
金持ち程、天の国からは遠ざかってしまうのだ。
金持ち程、傲慢(ごうまん)であり、自己顕示欲(じこけんじよく)が強く、利己的である。
そのような者が天の国に入ることは出来ないだろう。
なぜなら、天の国には利他的な者しかいないからだ。
利他的な者の中に利己的な者が入っても、居た堪(たま)れない気持ちになって、そこから逃げ出すだろう。
利己的な者は、利己的な者が集まる地の国に生まれるのである。

2021年9月6日月曜日

追憶 3255

イエスは、“金持ちが天の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が易(やさ)しい”と言った。
それは、自分を小さくしない者には、“神”への信仰(しんこう)は有り得ないということであろう。
自分のために生きる者には、他者を理解することが出来ない。
自分のために生きる者には、世界の半分くらいしか理解することが出来ないのである。
“神”を信仰し、他者のために生きて理解を深めなければ、人生の目的や魂の役割といった本質的な部分を理解することは出来ないのである。

2021年9月5日日曜日

追憶 3254

他者を理解するためには、他者のために生きなければならない。
他者のために生きるためには、富への信仰(しんこう)は手放さなければならないのである。
なぜなら、富への信仰は、自分のために生きる姿勢だからだ。
他者のために生きるためには、“神”への信仰を抱かなければならない。
人は、“神”を信仰することによって、自分のために生きる姿勢を手放すことが出来るのである。

2021年9月4日土曜日

追憶 3253

自分を理解するためには、他者を理解しなければならない。
他者という半分を無視するのであれば、理解は深まらないのである。
自分のためだけに生きたとしても、物事に対する理解が深まることはなく、悟ることも幸せになることも出来ないということを知らなければならないだろう。
富への信仰(しんこう)を強めたとしても、それだけでは悟ることも幸せになることも出来ないのである。

2021年9月3日金曜日

追憶 3252

利己的に生きたとしても、理解することが出来るのは小さな世界観である。
自分自身のために生きたとしても、物事の本質を見極める力は育たない。
自分自身が救われるために修行を続けても、悟りは得られないのである。
それは、自分には、相対的に他者が存在するからである。
自分自身のために生きたとしても、分かることは半分以下であるだろう。
視野の狭い人には、分かることが少ないのだ。

2021年9月2日木曜日

追憶 3251

そのため、多くの人は富を信仰(しんこう)する。
それは、小乗仏教(しょうじょうぶっきょう)のような信仰観であるだろう。
小乗仏教とは、自分自身の幸せを優先するような価値観である。
自らの修行を優先し、自分自身が悟ることや幸せに到達しなければ、他者を悟らせたり幸せすることは出来ないという考え方だ。
確かに、自分自身の修行が完成しなければ、他者を導くことは出来ないだろう。
しかしながら、利己的に生きたとしても、悟ることや幸せを得ることは出来ないのである。

2021年9月1日水曜日

追憶 3250

そのため、人生の目的や魂の役割といった本質的な部分を共有することは出来ないのである。
人が共有することが出来るのは、頭や心で認識することの出来る部分だけだ。
それは、自我意識の領域(りょういき)である。
富への信仰(しんこう)は、自我意識の領域で行われる。
そして、それは共有することが出来るものである。
富への信仰は、頭や心で理解することが出来るし、その価値観を共有することは容易(たやす)いのである。

2021年8月31日火曜日

追憶 3249

それは、本質的な部分が異なっているからである。
もちろん、“すべては一つ”である。
ここでいう異なった部分とは、人生の目的や魂としての役割のことである。
人生の目的や魂の役割というものは、それぞれに異なっているのが自然である。
残念ながら、人は、同じ目的や役割を担(にな)って生まれることは出来ない。
人は、それぞれの目的や役割のために生まれるのである。

2021年8月30日月曜日

追憶 3248

すべての価値観は歪(ゆが)んでいる。
それは、そのような教育や影響を受けたからである。
意識的な教育や影響もあるし、無意識的なものもあるだろう。
どちらにしても、人が自分独りで価値観を作り上げることは不可能なのである。
どのような人物も、他者と触れ合わずに生きることなど出来ないのである。
人が共有することが出来るのは、表面的な部分である。
残念ながら、人は本質的なものを共有することは出来ない。

2021年8月29日日曜日

追憶 3247

わたし達の価値観というものは、自力で確立したものではない。
それは、周囲の人達の影響によっていつの間にかに形作られたものなのである。
文化や民族、国や地域、人間関係や家族によって価値観は似通(にかよ)う。
それは、互いの価値観を共有し、共感するからである。
人は、自分独りで価値観を形成することは出来ない。

2021年8月28日土曜日

追憶 3246

多くの人が、人生に対して不平不満や心配を抱えている。
それは、決して幸せな状態ではない。
しかしながら、多くの人がそうしている。
それは、多くの人がそうしているからだ。
多くの人が、某社(ぼうしゃ)のハンバーガーが美味しいとか、コストパフォーマンスが良いとか、行列が出来ているとか、コマーシャルで見掛けたとか、様々な理由で口にする。
しかしながら、本心からそれを口にしたいと思っているのだろうか?
本心からそれを口にしたいと思っていたとしても、それが自らの本心から出たものかは分からないのである。

2021年8月27日金曜日

追憶 3245

心や頭に従(したが)うと、“普通”の価値観で生きなければならない。
多くの人は、心や頭に従って生きている。
多くの人が選ぶ方法が良いものだと思っている人がいるが、それでは、地球で最も優れた食べ物は某社(ぼうしゃ)のハンバーガーということになってしまうのである。
残念ながら、そのようなことはないだろう。
どちらかと言えば、それは不健康な食べ物なのである。
多くの人が従っている心や頭というものは、不健康なものなのかも知れない。

2021年8月26日木曜日

追憶 3244

この世の富に価値を見出すことは、決して悪いことではない。
それは、富によって学ぶことがたくさんあるからだ。
しかしながら、富に執着(しゅうちゃく)することには注意しなければならない。
なぜなら、富に執着することによって、世界観や価値観をこの世という小さなものにとどめてしまうからだ。
それは、あなたを心や頭という物質的な視点に限定してしまうという問題も引き起こしてしまうのである。

2021年8月25日水曜日

追憶 3243

魂は、この世のものに価値を見出さない。
魂は、富に価値を見出さないのである。
それは、魂には、この世が一時的なものであり、何一つ所有することが出来ないことや、何一つ所有する必要がないことを知っているからである。
しかしながら、心や頭(脳や肉体)にとってはこの世がすべてである。
心や頭では、この世以外の世界観や価値観を認識することが出来ないのだ。
そのため、この世のものを集めたくもなるし、所有したくもなるのである。

2021年8月24日火曜日

追憶 3242

頭で考える時、人は与えることが出来ない。
頭は合理的に考えるために、集めることは出来ても、与えることは出来ないのである。
与えるためには、頭で考えることを手放さなければならない。
与えるためには、魂に従わなければならないのである。
それは、魂には、損得勘定というものがないからである。

2021年8月23日月曜日

追憶 3241

頭(自我意識)は、自力で生きようとする。
そのため、自力で集めようとしたり、自力で成り立たせようとするのである。
頭で考える人は自力に頼る。
自力だけが信用に値(あたい)し、自力に頼ることですべてが上手くいくと思っているのだ。
そのため、富を信仰(しんこう)し、頭に頼って生きている人が利己的に成るのは仕方のないことなのである。

2021年8月22日日曜日

追憶 3240

魂に従(したが)って生きている人は、利他的である。
そのような人は、頭が考えているような損得勘定には従わない。
損得勘定がなければ、受け取ることは考えずに与えるのである。
頭で考える利己的な人は、報酬(ほうしゅう)を考えてから与える。
そして、報酬に釣り合わないことはしない。
彼等の行なっているのは取引(商売)であり、慈善活動ではないのである。
富を信仰(しんこう)している人は、必ず報酬を考える。
それは、報酬を考えなければ、仕事や会社や金儲(かねもう)けや贅沢(ぜいたく)な暮らしが成り立たないからである。

2021年8月21日土曜日

追憶 3239

利他的な人が金持ちになれるだろうか?
残念ながら、利他的な人が金持ちになることはない。
なぜなら、与えるからである。
金を集めるから金持ちなのだ。
金を与える人は金持ちにはなれない。
頭で考える人は、利己的に集める。
損得勘定は、頭で考えるものなのである。

2021年8月20日金曜日

追憶 3238

傲慢さや狡猾さが増せば、人は頭だけで考えるようになる。
それは、利己的になるということなのだ。
人は、頭で考えると自分を中心とした本能や自我意識に従ってしまうのである。
富を信仰(しんこう)する人は、頭や本能や自我意識に従うために利己的になってしまう。
どのように利他的な人物を演じたとしても、利己的であることを否定することは出来ないのである。

2021年8月19日木曜日

追憶 3237

多くの人が、生きることに懸命である。
生き残るためには、傲慢(ごうまん)に、狡猾(こうかつ)に立ち振る舞わなければならないだろう。
ルールを守っているような者は生き残ることが出来ない。
ルールを新たに作るような者が、図太(ずぶと)く生き残るのである。
生きることに懸命になる程に、人は傲慢さや狡猾さを増すのである。

2021年8月18日水曜日

追憶 3236

多くの人は、どうやったら金を稼(かせ)ぎ、富を蓄(たくわ)えられるかを考えている。
多くの人の頭や心の中は、富のことで埋め尽くされているのである。
そのため、多くの人は、人生の目的について考えることが出来ない。
富のことで手一杯であり、人生の意味や意義(いぎ)について考える余裕がないのである。

2021年8月17日火曜日

追憶 3235

今日(こんにち)の日本人の多くが、西洋形の価値観を中心として生きている。
ここでいう西洋形の価値観とは、富を信仰(しんこう)する合理的、科学的な価値観のことである。
今日の日本人は、“神”よりも富を信仰する人の割合が多いだろう。
それが、生き辛さの正体である。
多くの人は、金を求め、金に動かされ、金によって争い、金に一喜一憂し、金に人生を決められる。

2021年8月16日月曜日

追憶 3234

財産の量を競ったところで、それがどうなるというのだろう?
誰かよりも何かを多くを持っているとか、誰かよりも何かが少ないとか、それが何になるというのか?
財産の量を競っている彼等は、結局のところ富という鎖(くさり)に繋がれた富の奴隷(どれい)に過ぎないのである。
日本には、確かに“神”への信仰(しんこう)が根付いていた。
しかしながら、現在では、富への信仰が優っているように思える。

2021年8月15日日曜日

追憶 3233

奴隷は、自分を縛(しば)り、自由を奪う憎(にく)むべき鎖(くさり)に愛着を抱き、その自慢さえ始めてしまうそうだ。
慣(な)れとはそういうものである。
続けてきた習慣を手放すのは断腸(だんちょう)の思いであるかも知れない。
しかしながら、それを続けることには大きなリスクがある。
奴隷が鎖を自慢し続けたとしてどうなるというのだろう?
奴隷同士で優劣を競ったとしてどうなるのか?
富を信仰(しんこう)する人達は、財産という鎖を自慢しているのである。

2021年8月14日土曜日

追憶 3232

多くの人は、例え重荷であったとしても、それが無くなることに不安を覚える。
多くの人は、今まで通りにしたいのである。
重荷を背負って歩くことに慣(な)れた人は、重荷によってバランスを取っている。
それは、“奴隷の鎖(くさり)自慢”のような感覚であるだろう。
わたしは、奴隷船で運ばれる黒人男性としての前世を持つ。
しかしながら、わたしは誰かに鎖を自慢するようなことはしなかった。
わたしは、奴隷としての生活に慣れる前に、重荷を手放すために鎖を付けたままで海に飛び込んで死んだのである。

2021年8月13日金曜日

追憶 3231

面白いもので、人間はそれが重荷であると分かっていたとしても、それを手放すことが出来ない。
手放せば楽になるにもかかわらず、手放すことを恐れるのだ。
それは、習慣としての愛着があるからだろう。
多くの人は、無益な愛着に固執(こしゅう)する。
傲慢(ごうまん)や強欲(ごうよく)などの重荷など、手放せば良いのだ。
しかしながら、今まで頼りにして来た所有物を手放すことは難しいのである。

2021年8月12日木曜日

追憶 3230

人生の問題や苦しみは、それを手放させるために導かれるのだ。
重たい荷物をいつまでも抱えておくことは出来ないだろう。
重たい荷物は、手放さなければならない時がやってくるのである。
傲慢(ごうまん)という荷物は、わたし達が抱えるには大き過ぎるし、重た過ぎる。
人間には、傲慢という荷物は重荷なのである。

2021年8月11日水曜日

追憶 3229

わたし達は、余りにも多くの問題や苦しみを抱えている。
それは、それ程に大きな傲慢(ごうまん)を抱えているからだ。
わたし達には、そのように大きな荷物を抱えることは出来ない。
抱え切れないから、それが人生に対して問題や苦しみとして現れるのである。

2021年8月10日火曜日

追憶 3228

傲慢(ごうまん)を手放すことで、恵みを受け取ることが出来る。
人生における問題や苦しみは、わたし達が傲慢を手放すために導かれるのだ。
富への信仰(しんこう)を手放し、“神”へと近付くためには、問題や苦しみによって傲慢を手放さなければならない。
どうすることも出来ない問題や苦しみに会った時には、傲慢は手放さなければならないのである。
傲慢に執着している間は、問題や苦しみは決して解決しないのである。

2021年8月9日月曜日

追憶 3227

わたし達は、叱(しか)られることで助けられているのだ。
わたし達が叱られる時、相手は自分のことを考えているかも知れないし、相手のことを考えているかも知れない。
どちらにしても、叱られた方は新たな視点や考え方を得るだろう。
それは、結果的に叱った相手を助けるのである。
問題や苦しみは、人生がわたし達を助けるために与える恵みなのである。

2021年8月8日日曜日

追憶 3226

すべての人は叱(しか)られなければならない。
なぜなら、すべての人は未熟であり、無知であるからだ。
叱られなければ、気が付くことは出来ない。
わたし達は、叱られなければ大切なことに気が付かないのである。
人生は、わたし達の未熟さを叱る。
それは、様々な問題や苦しみによって叱るのである。
しかしながら、それは、わたし達を助けるために行われるのである。

2021年8月7日土曜日

追憶 3225

何をしても叱(しか)られたり、怒られたりしなければ、それが正しいと勘違いをしたまま悪化してしまうだろう。
無関心は、歪(ゆが)みを助長してしまうのである。
報いを受けることが出来るということは、やり直せるチャンスなのである。
しかしながら、傲慢(ごうまん)な者には、そのことが分からないだろう。
傲慢な者は、自分に向けられる批判(ひはん)を嫌うのである。

2021年8月6日金曜日

追憶 3224

それは破滅の道である。
天秤(てんびん)自体が重さに耐え兼ねて倒れてしまえば、それ以上は計ることも出来ない。
叱(しか)られたり、怒られているうちが花である。
なぜなら、報(むく)いがあるうちは改めることが出来るからだ。
報いすら受け取ることが出来なくなってしまえば、改めることも出来ないのである。

2021年8月5日木曜日

追憶 3223

傲慢(ごうまん)に生きた者は、その報(むく)いを受けなければならない。
もちろん、謙虚(けんきょ)に生きた者も報いを受けるが、その内容は異なるものである。
富に仕(つか)えた者は富を得て死に、“神”に仕えた者は“神”と共に生きるだろう。
報いは、調和を保つための必要である。
報いによってバランスが保たれるのだ。
報いを受けなければ、バランスが崩れたとしても、そのまま一方に重きを起き続けることになるだろう。

2021年8月4日水曜日

追憶 3222

人は、自らの蒔(ま)いた種から生じた実りを収穫しなければならない。
それが、自然の法則であり、この世の理(ことわり)なのだ。
遊びたい気持ちを抑(おさ)え、宿題をすることは苦しみである。
しかしながら、遊びを我慢するという苦しみに耐(た)えて、夏休みの間に宿題を終わらせた者は、休み時間や放課後に友達と遊ぶ権利を与えられる。
すべての人は、自らの行いによる報(むく)いを受けているのである。

2021年8月3日火曜日

追憶 3221

それは、天秤(てんびん)のようなものである。
都合の良いことをすれば、都合の悪いことが起こる。
夏休みの宿題を放置して遊んでいれば、学校の再開と共に先生に叱(しか)られ、通常の宿題に加えて夏休みの宿題もこなさなければならないのである。
先生が、夏休みの宿題を免除(めんじょ)してくれるだろうか?
残念ながら、そのようなことはない。
休み時間や放課後にも、夏休みの宿題をしなければならないのである。

2021年8月2日月曜日

追憶 3220

自然災害が起きるのは、富を信仰(しんこう)する人達が自然環境から様々な利益を抜き取ったからである。
自然は、良いものを抜き取られたことで生じたバランスの乱れを、悪いものを放出することで取り戻そうとしているのである。
バランスを保つためには、崩れた方とは逆の動きをしなければならない。
良いものを取れば、悪いものを取らなければならないのである。

2021年8月1日日曜日

追憶 3219

傲慢(ごうまん)な人は、人生に特別な体験が存在すると思っている。
そのため、強欲な人は、自分にとって都合の良い特別な体験だけを抜き取ろうとするのである。
しかしながら、本来ならば、都合の良いことと都合の悪いことは一つの“和”の中に存在する。
特別な体験など、どこにも存在しないのである。
それが自然である。
しかしながら、富を信仰(しんこう)する人達は、そこから良いものだけを得ようと努めているのだ。
そのため、人生には様々な問題や苦しみが引き起こされる。
それは、人生が調和を保つためなのである。

2021年7月31日土曜日

追憶 3218

この世界や人生における様々な問題や苦しみは、強欲によって引き起こされる。
強欲が傲慢(ごうまん)を生む。
そして、傲慢が“和”を壊すのである。
調和が保たれていれば、問題や苦しみが生じることはない。
それは、問題や苦しみと思い込んでいるものも、本来ならば、調和の中に存在するからである。
強欲で傲慢な人は、調和の中から自分にとって都合の良いものを抜き出した。
そのため、問題や苦しみも撒(ま)き散らされたのである。

2021年7月30日金曜日

追憶 3217

富を信仰(しんこう)する人達は、自分の蔵に富を貯(たくわ)えるためなら何でもする。
そのためなら、他者のことや自然環境のことなど気にしない。
彼等は、自分の蔵に富が貯えられるならそれで良いのである。
しかしながら、それが様々な病気や災害を引き起こしていることは知らないだろう。
もしかすると、知ってはいるが、富に目が眩(くら)んで黙認しているのかも知れない。
彼等は、病気や災害の原因が、自分達の強欲にあることを認めないだろう。

2021年7月29日木曜日

追憶 3216

同じように、富を信仰(しんこう)する人達は、互いに争うことや自然環境を破壊することの意味を分かってはいない。
彼等は、自分の蔵(くら)に富を貯(たくわ)えることしか考えていないのである。
すべては、私腹(しふく)を肥(こ)やすためである。
様々な偽善行為は、誰かや何かのために行われるのではない。
富を信仰している人達は、自分のために生きているのである。
しかしながら、彼等はそれがどのような結果を引き起こすかを知らないのである。

2021年7月28日水曜日

追憶 3215

イエスを処刑した人達は、それが正しいことだと思っていただろう。
そして、自分達が殺したイエスを利用して宗教を立ち上げることも正しいと思っていただろう。
イエスを利用した宗教によって、他国や他民族や他文化を侵略(しんりゃく)し、そこにある様々な財産を奪い取ることも正しいと思っていただろう。
そして、入信する人達は、それを正しいと思い、その活動を支持しているのだろう。
彼等は、盲信(もうしん)している宗教が何をしていて、自分が何をしているか分からないのである。

2021年7月27日火曜日

追憶 3214

弱い立場の人間を虐(いじ)めている時にも、何かしらの不正を働く時にも、その人は自分が正しいと思っているし、誰かや何かが悪いと思い込んでいるのだ。
愚行(ぐこう)を働いている時、本人はそれを愚行だとは思っていない。
寧(むし)ろ、自らを正当化し、美化しているのである。
愚行を働いている本人は、それを愚行だと理解することは出来ない。
それは、欲に目が眩(くら)んでいるからである。

2021年7月26日月曜日

追憶 3213

欲は、人の目を眩(くら)ませる。
欲に目が眩んだ人は、自分が何をしているか分からない程に利己的な状態に陥(おちい)ってしまう。
小さなプライドや僅(わず)かな金を得るために人を殺したり、一瞬の快楽のために女性を犯(おか)す。
人の世には、このようなことは日常茶飯(にちじょうさはんじ)である。
大抵の人は、自らの愚行(ぐこう)に後悔するだろう。
しかしながら、それを行なっている時には、自分が正しいと思い込んでいるのである。

2021年7月25日日曜日

追憶 3212

傲慢(ごうまん)な人は、自分が何をしているか分かっていない。
それは、富を盲信(もうしん)しているからだ。
傲慢に陥(おちい)っている時、人は自分が何をしているか分からない。
自分が正しいと思い上がっている時には、俯瞰(ふかん)することは出来ないのである。
富を信仰(しんこう)する人は、富を得ようとして欲深くなる。
富を信仰する人は、富を得るために偽善や企(たくら)みによって人を騙(だま)すことも厭(いと)わない。
キリスト教を利用した人達が、イエスを使った偽善や企みによって、無垢(むく)な人や、苦しみを抱えている人を騙しているようにである。

2021年7月24日土曜日

追憶 3211

キリスト教は、形式と偽善と強欲を体現している宗教である。
これ等の行いは、イエスとは正反対のものなのである。
聖書を読めば、キリスト教とイエスが無関係なのが分かる。
しかしながら、信者にはそのことが分からないのだろう。
イエスは、十字架にかけられた時に“父よ、彼等をお赦(ゆる)しください。彼等は、自分が何をしているか分からないのです。”と述(の)べている。
“彼等”は、昔も今も自分が何をしているか分からないのである。

2021年7月23日金曜日

追憶 3210

しかしながら、富を信仰(しんこう)する人達は、敵であるイエスも自分達が富を得るために利用した。
それがキリスト教である。
キリスト教は、イエスが立ち上げた宗教ではない。
イエスの教えとは正反対のことを教え、行っているのがキリスト教である。
残念ながら、多くの信者はそのことを知らないだろう。
彼等は、盲信(もうしん)するだけなのである。
“信じる者は救われる”ということである。
キリスト教は、今も昔も、富を信仰する人達の宗教であるということを理解しなければならないだろう。

2021年7月22日木曜日

追憶 3209

そのような人達にとって、イエスは邪魔であり、敵だったのである。
富を信仰(しんこう)する人は、富を得るための障害を排除(はいじょ)しようと努める。
それは、彼等が損得勘定で考えるからだ。
富を信仰する人は、白か黒か?、得か損か?という極端な選択肢に至(いた)る。
それは、富という利益を求めているからだ。
“神”への信仰を訴(うった)えたイエスは、彼等の富に対する信仰の妨げであったのである。

2021年7月21日水曜日

追憶 3208

富を信仰(しんこう)すると傲慢(ごうまん)さが強化される。
富を信仰する人は、意見の違いによって争う。
争いの原因は、いつの時代も形式や偽善や強欲なのである。
富を信仰する人は、いつの時代も形式や偽善や強欲に拘(こだわ)り、それによって争ってきたのだ。
“神”を信仰する人は、互いに思いやり、愛し合うことが出来るだろう。
イエスを殺したのは、富を信仰する形式的な偽善者であり、強欲で傲慢な人達であったのである。

2021年7月20日火曜日

追憶 3207

それは、イエスが富ではなく、“神”を信仰(しんこう)していたことを証(あかし)している。
イエスが富を信仰していたのであれば、罪人や病人と共にはいなかったであろう。
イエスが富を信仰していたのであれば、権力者や金持ちと共にいて、パリサイ派の教師のように、形式と偽善と強欲に陥(おちい)っていたことだろう。
しかしながら、イエスはそれとは真逆の生き方をして富を信仰する人達の恨(うら)みを買い、殺されてしまったのである。

2021年7月19日月曜日

追憶 3206

大切なのは、困っている人を助けることである。
富を信仰(しんこう)する人は、自分を助けている。
自分自身の利益のために働いているのである。
イエスは、福音書の中で、“健康な人に医者はいらない。医者を必要としているのは病人だ。わたしは、正しい人を導くために来たのではなく、罪人(つみびと)を神に立ち返らせるために来たのだ。”と言ったのである。
イエスは、罪人を助けるために生まれた。
富に囲まれて贅沢(ぜいたく)に暮らすため生まれたのではないのである。
イエスは、自分の利益のためには生きなかったのである。

2021年7月18日日曜日

追憶 3205

大抵の人は、富(利益)によって繋がっている。
それが“普通”なのである。
人々は、無償(むしょう)の愛で繋がることは出来ない。
無償の愛で繋がれる程の“神”に対する信仰心(しんこうしん)は持っていないのである。
人々は富を信仰し、利益によってのみ繋がる。
多くの人は、損失や害を切り捨てるのだ。
多くの人は、ただ働きや損を嫌う。
それは、仕方のないことである。
残念ながら、人々は無償の関係性を築くことは難しいのである。

2021年7月17日土曜日

追憶 3204

富を信仰(しんこう)する人には、同じように富を信仰する人達が集まる。
それは、富(利益)によって繋がる関係性なのである。
富(利益)に対して集まっているだけで、その人のために集まっているのではない。
その人が富を失えば、そのような人達は簡単に離れていくだろう。
その人と繋がっていれば、富(利益)を得られる可能性があるから繋がっているだけなのである。

2021年7月16日金曜日

追憶 3203

自然に生きれば、富に対する信仰(しんこう)は小さくなっていくものである。
正しく成長すれば、物質的な価値観や生き方には無理があることを悟るのである。
しかしながら、不自然に生きているのであれば、物質的な価値観や生き方にこそ救いがあると信じてしまうのだ。
自分自身や他者の肉体的な欲求の減少や、他者の死を体験すれば、富に救いが無いことを理解することが出来るだろう。
豪華な葬式に、煌(きら)びやかな衣装の坊主の高価なお経と戒名(かいみょう)、多くの仕事関係の人間を集め、遺産を巡って争う親族を見ても、幸せな生涯だったと思えるだろうか?

2021年7月15日木曜日

追憶 3202

富を信仰(しんこう)する人にとって、富の減少は不安でしかない。
彼等は、増やすことや貯(たくわ)えることでしか安心することが出来ないのである。
しかしながら、肉体的な欲求というものは減少していくのが自然である。
食欲も睡眠欲も、性欲も物欲も顕示欲(けんじよく)も、普通は減少するのである。

2021年7月14日水曜日

追憶 3201

意識の山を登るためには、俗的(ぞくてき)な欲を捨てなければならない。
意識の山を登るためには、俗的な視点からすれば禁欲や貧しさを受け入れなければならないのである。
“神”を信仰(しんこう)することは、貧しい暮らしをするということではない。
それは、多くの富を所有していなくても、豊かさを実感することの出来る暮らしのことなのである。
富を信仰する人は、有り余る富を所有していなければ不安であり、不幸なのである。

2021年7月13日火曜日

追憶 3200

それは、富を信仰(しんこう)している人の救いや幸福というものが欲に根差しているからである。
富を信仰している人にとっては、欲望を実現することが幸福であり、豊かさなのだ。
富を信仰している人にとっては、自らの欲望を妨げるものが困難であり、災(わざわ)いなのである。
富を信仰している人は、禁欲や貧しさというものから救われることを願うのである。

2021年7月12日月曜日

追憶 3199

多くの人は、富を信仰(しんこう)している。
金持ちに成りたいという信仰の形もあれば、お金に対する不安による信仰の形もある。
ポジティブでもネガティブでも、信仰には変わりがないのだ。
多くの人は、富を崇拝(すうはい)する宗教に属しているのである。
多くの人は、富に縋(すが)っているのである。
富が困難から自分を救い、幸せや豊かさを与えてくれると信じているのである。

2021年7月11日日曜日

追憶 3198

しかしながら、そのことには気が付いていない人も多い。
それが企みであるということにすら気が付いていない人もいる。
見返りのあるものが愛だと主張する人もいるし、居直(いなお)って自己を正当化している人もいる。
自らの企(たくら)みを崇高(すうこう)なものだと考えている人もいるのである。
世の中には、偽善が溢れている。
富を信仰(しんこう)している者の施(ほどこ)しなど、偽善以外のなにものでもないのである。

2021年7月10日土曜日

追憶 3197

多くの人は、愛というものを誤解している。
多くの人は、愛に条件を付けているのである。
多くの人の考える愛には、何等かの利益を得ることが条件付けられているのだ。
多くの人は、何等かの利益が得られなければ、与えることをしない。
無償(むしょう)や損をしてまで与えようとは思わないのである。
多くの人の施(ほどこ)しには、何等かの利益を得るための企(たくら)みが潜んでいるのだ。

2021年7月9日金曜日

追憶 3196

残念ながら、愛を富で手に入れることは出来ない。
寧(むし)ろ、富は愛の障害になってしまうのである。
富によって、愛は純粋さを失う。
富が干渉(かんしょう)すれば、それは愛ではないのである。
世間では、お金や財産がなければ愛も成り立たないというが、お金や財産が無くても成り立つのが愛なのである。
そのため、お金や財産によって成り立っていたのは、愛ではない他の何かなのである。

2021年7月8日木曜日

追憶 3195

富を信仰(しんこう)すれば、どうしても争わなければならない。
富を信仰しているのに、“神”の信仰の結果である愛を手に入れることは出来ないのである。
富を信仰しながら、真(まこと)の愛を手に入れることは出来ないだろう。
それは、富は有償(ゆうしょう)だからである。
有償の愛などというものは存在しない。
愛というものは無償(むしょう)なのである。

2021年7月7日水曜日

追憶 3194

利他的な者は愛することが出来るが、利己的な者は争わなければならない。
愛することと争うことなら、愛することの方が幸せである。
大抵の人は、どちらかを選べと言われたら愛することを選ぶだろう。
それは、幸せを求めているからである。
人は、愛することでしか幸せにはなれない。
争いでは、幸せにはなれないのである。
そのため、富に対する信仰では幸せにはなれないのだ。

2021年7月6日火曜日

追憶 3193

“神”に対する信仰(しんこう)は、利他的なものである。
富を信仰する人は、富を所有しようと利己的になる。
しかしながら、“神”を信仰する人で、“神”を所有しようとする人はいないのである。
富への信仰は、自分が何かを得ようとするが、“神”への信仰は、他者に何かを与えようとするのである。
それは、性質の異なる信仰なのだ。

2021年7月5日月曜日

追憶 3192

争いは、富に対する信仰(しんこう)から始まる。
傲慢(ごうまん)、強欲、嫉妬(しっと)、執着(しゅうちゃく)、独占(どくせん)、優越、僻(ひが)み、憤怒(ふんぬ)、怨恨(えんこん)、悲観、恥辱(ちじょく)、羨望(せんぼう)、軽蔑(けいべつ)、差別…
このような心の働きは、富に対する信仰によって引き起こされるのだ。
“神”を信仰する人の心には、このような疚(やま)しい企(たくら)みは生じないのである。

2021年7月4日日曜日

追憶 3191

しかしながら、多くの人が刹那的(せつなてき)に生きればどうなるだろう?
人生が一度切りだとか、死後の世界など存在しないとして、自分勝手に生きれば、思いやりや優しさ、許(ゆる)しや愛情は育たないだろう。
それでは、弱肉強食の殺伐(さつばつ)とした世界が実現するのである。
富を信仰(しんこう)する傲慢(ごうまん)な人は、弱肉強食の世界を生きている。
富のあるところに争いは絶えないのである。

2021年7月3日土曜日

追憶 3190

死後の世界や前世というものがあると信じている人は、傲慢(ごうまん)に、自分勝手に生きることは出来ないだろう。
死ねば終わりだと思っているから、好き勝手に生きられるのである。
どのように生きようと、その人の自由であるだろう。
誰にも、他人の生き方を批判(ひはん)する権限は与えられていないのだ。

2021年7月2日金曜日

追憶 3189

アリは冬が来るのを知っていたし、冬の過ごし方も知っていた。
そのため、冬のために懸命(賢明)に生きたのである。
ここでいう冬とは、死後のことである。
富を信仰(しんこう)する人達は、人生が一度切りだと信じている。
彼等は、死後の世界など認めない。
死後や前世や中間生の記憶を持っている人が多くいるにもかかわらず、それを認めることはないのである。
そのため、公(おおやけ)に知られることがなければ、何をやっても良いと考えているだろう。
富を信仰する人達は、法律や道徳よりも富に対する信仰を優先する。
彼等にとっては、何よりも金を儲(もう)けること、利己的な快楽や欲望を満たすことが大事なのだ。

2021年7月1日木曜日

追憶 3188

すべての人が、いつかは死に辿り着くことを知っている。
恐らくは、死を克服(こくふく)した人はいないだろう。
どのような人物も、必ず死ぬのである。
死は避けられないのだ。
すべての人は、自分も例外なく死ぬことを知っているだろう。
しかしながら、死後のことは知らないのである。
富を信仰(しんこう)する傲慢(ごうまん)な人の多くは、死後の世界など存在しないと考えている。
“無”に成るというのも矛盾(むじゅん)しているが、傲慢な人は死ぬと“無”に成ると考えているのだ。
それでは、人生を生きる意味がなくなってしまうという大きな矛盾を抱えてしまうが、刹那的(せつなてき)に生きている人はそう考えている。

2021年6月30日水曜日

追憶 3187

傲慢(ごうまん)な人は、いつか失わなければならない財産のために生きている。
それは、イソップ寓話(ぐうわ)の“アリとキリギリス”のキリギリスのような生き方なのである。
アリは、冬が来ることを知っていた。
そのため、冬が来た時のために働き続けていたのである。
キリギリスは、冬が来ることを知らなかったのであろう。
そのため、春と夏と秋を遊んで暮らしたのである。
キリギリスは、今が良ければ良いという刹那的(せつなてき)な生き方をしたのであった。

2021年6月29日火曜日

追憶 3186

この世で財産を貯(たくわ)えたとしても、あの世に宝を貯えることにはならない。
あの世に宝を貯えるためには、思いやりや優しさ、許(ゆる)しや愛情によって貢献(こうけん)しなければならない。
思いやりや優しさ、許しや愛情によって施(ほどこ)せば、あの世に宝を積むことが出来るのである。
この世の財産はいつかは必ず失わなければならないが、あの世の宝はどうやっても失うことは出来ないのである。
それは、誰も奪うことの出来ない宝なのだ。

2021年6月28日月曜日

追憶 3185

物質的な富を信仰(しんこう)している人は、嵐の海で船に助けを求めているようなものである。
船が沈みそうな時に、沈みそうな船に助けを求めるだろうか?
恐らく、多くの人は、船よりも“大きなもの”に助けを求めるだろう。
困った時の神頼みということである。
死を前にすれば、富への信仰など消え去ってしまう。
この世の財産をあの世で使おうという人はいないだろう。
それに、この世の財産をあの世に持っていった人など、恐らくはいないだろう。
この世の財産など、あの世では何の役にも立たないのである。

2021年6月27日日曜日

追憶 3184

富は大切なものに違いはない。
しかしながら、それは手段であって目的ではないだろう。
わたし達は、富を得るために生まれたのではないのだ。
富は、信仰(しんこう)の対象にはならないだろう。
それは、嵐の海で船に助けを求めるようなものだからである。
嵐の海で、今にも沈みそうな小さな船に助けを求めるだろうか?

2021年6月26日土曜日

追憶 3183

それは、以前にわたしも富を信仰していたからだ。
わたしは元来、富への信仰は持っていなかったが、高校生くらいから霊的な生き方に出会うまでは、富への信仰を持っていたように思う。
その信仰は、特別大きなものではなかったように思うが、富への信仰は抱いていた。
それは、“神”を知らなかったからである。
“神”への信仰というものがあることを知らなかったから、周りの人たちが行っている富への信仰をしていたのだ。

2021年6月25日金曜日

追憶 3182

誰かや何かのせいにするというのは、傲慢(ごうまん)である。
傲慢とは、恥(はじ)なのである。
しかしながら、多くの人はそのことに気が付かない。
富を信仰することは恥であるが、多くの人は富を崇(あが)める。
多くの人は、恥を恥とも思っていないのだ。
寧(むし)ろ、それを誇(ほこ)っている。
傲慢な人が横柄(おうへい)に振舞っているのを見ると、見ているこっちが恥ずかしくなってしまう。