それも当たり前と言えば当たり前のことなのかもしれない。
幼い子どもが自らの行動に疑問を持つことなど、よっぽどのことがない限りはないだろう。
わたしの行動がどのように愚かなものであっても、わたし自身はそれには気が付いていなかったのである。
そのため、わたしは当時の記憶を思い出しながら話を進めていく必要があった。
当時(保育園児)のわたしは自分の置かれている状況に対して疑問を持ったことはなかった。
幼いわたしにとってはすべてのことが日常であり、当たり前なことであったからである。
わたしが起こす愚行に対しても、何の疑問も持つことはなかった。
今になってみると不思議なことである。
しかしながら、子どもは皆そうなのかもしれない。
しかしながら、そこに悲しみの感情があったかと言えばそうとも言えなかった。
ただ、自分自身がその感情と原因を忘れているという可能性も否定することはできなかった。
わたしは悲しみの感情の出所が自分自身のどこにあるのかを確かめる必要があった。
自らの記憶の中にあるであろう悲しみの原因を探すために、わたしは心の扉を押さえる力をそっと緩めた。
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