このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2012年6月1日金曜日

追憶 101

心の扉は鉄同士が鈍くきしむような音を立てながらぎこちなく少しだけ開いてみせた。
そこはわたしが関知していない部分であったために、いつの間にかにその扉は錆び付いてしまったようだった。
記憶とは何とも感情に左右される。
自分自身にとって都合の悪い記憶は心の奥底に追いやり、その扉を固く閉ざしてしまう。
そして、時が過ぎ去るのと共に本人ですらその存在を忘れてしまう。
「嘘も貫き通せば真実になる」と言ったのはヒットラーである。
わたしは自らに不利な記憶を心の奥底に追いやり、それを忘れることによって偽りの真実を味わっていたのである。
しかも、その作業を幼いながらにもやっていたことになる。
わたしの心の奥底には確かに悲しみの記憶、そして感情が眠っていたのである。
わたしは自らの心の扉を開いてみて、ようやくそのことに気が付くことができた。
当時のわたしは確かに悲しかったのである。
それは親から受け取るはずの愛情の欠落であった。
しかしながら、誤解してはいけないのが、親の立場からの感覚と子どもの立場からの感覚では多少なりとも食い違いが存在しているということであろう。
親がわたしに対してどれ程の愛情を注いでいたかというのは、わたしの中の想像でしか計り知ることができないことである。
今になって思えば、十分過ぎる程の愛情を受け取っていたと認識することができるが、当時それをどのように感じていたのかまでは覚えていなかったのである。
しかしながら、心の中に悲しみが存在しているということは、親からの愛情に対する認識や実感が足りていなかったということになる。

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