このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2012年10月31日水曜日

追憶 253

疑問が解決する時、そこには何らかの行動が伴う。
どのような疑問も考えるだけでは解決することはないのである。
疑問が解決に向かうためには、状況が少しでも動くことがなければならない。
幸いなことに、わたしの体内に白い鳥の翼が存在しているという疑問は、自分自身の動きによってすぐに解決することができた。
その時突然に、わたしは目の前にうずくまるわたしの背中に吸い込まれるような感覚に陥った。
考える間もなく、わたしは目の前にうずくまっていたもう一人のわたしの中に入り込んでいた。
しかし、不思議なことにそれを俯瞰する自分の意識も残っているのである。
主体となる意識はうずくまる自分の中にあるが、そんな自分自身を俯瞰している客体となる意識にも繋がっているという不思議な感覚であった。
自分自身の視点を持ちながら、それを客観する視点も持っているという状態である。

2012年10月30日火曜日

追憶 252

不思議なことに何の混乱も無かった。

「あぁ…これは自分だ…」

そう思うだけであった。
しかしながら、わたしはその背中から視線を離すことができなかった。
それは、うずくまるわたしの背中が透けているように見えたからである。
背中だけが半透明に色を薄め、その内部には白い何かを確認することができた。
わたしは体内にある白い何かがとても気になり、その存在が何であるのかを確かめる必要があると感じるのであった。
凝視するような感覚で背中の中に存在している何かに対して意識を集中すると、カメラのピントが合うようにしてそのディテールがはっきりとしてくる。
わたしにはそれが白い鳥の翼にしか見えなかった。
それが濡れた状態で体内に無理矢理収まっているように見えるのである。
わたしはそこで初めて違和感を覚えて、疑問を持った。
何故にわたしは自らを俯瞰(ふかん)しているのか?
何故わたしの体内に白い鳥の翼があるのか?
わたしの中にはこの状況に対する疑問が溢れていた。

2012年10月29日月曜日

追憶 251

何百、何千もの光が一点を目指すと、わたしの視界には真っ白な光が溢れた。
そこには一筋の暗闇も残ってはいない。
ただ、汚れの無い純白だけが視界を覆い尽くすのであった。
わたしは何気なく真っ白な世界を進んだ。
何かに導かれるようにして足(意思)が向かうのである。
そして、しばらく進んだところでわたしは足を止めた。
それは、目の前に人の背中があったからである。
視線の先に一人の男が全裸で膝(ひざ)を抱えるようにして座っている。
男は背中を丸め、膝を抱える腕に頭を伏せていた。
わたしはぼんやりとした頭で男に近付き、声をかけようとしたところであることに気が付いた。
それは、わたしの目の前で膝を抱えて座っている男がわたし自身であるということであった。

2012年10月28日日曜日

追憶 250

物事がうまくいく時、それはいつもスマートで無駄がない。
物事がうまくいく時には、一連の流れが美しいのである。
この時のわたしは、まるで見えない何かに導かれているかのように思考の群れをすり抜けていた。
先へと進むほどに音が消えていく。
それと同時に景色も薄れていく。
やがて、わたしの周りには何も無くなった。
暗闇だけがわたしを包み込み、孤独の中に投げ出される。
この時、わたしの意識は輪郭を失い、まるで夢を見ているかのようにぼんやりと世界を眺める。
目の前に広がっているのはただの暗闇ではあるが、それが陽炎(かげろう)のように揺らめいているように思えていた。
わたしはただぼんやりと目の前の闇の先を眺めていた。
すると、そこにどこからとも無く白い一筋の光が飛んできて、暗闇を引き裂いた。
それにつられるようにして、一筋の光が何本も飛んできては目の前の一点を目指した。
わたしはその光景をただぼんやりと眺めていた。

2012年10月27日土曜日

追憶 249

騒がしい思考が通り過ぎる時間は、その時の瞑想によって違う。
比較的早くすり抜けられる時もあれば、全く以ってすり抜けられない時もある。
自分自身の心境が影響しているようには思うが、それは日常の中で調整するものであるだろう。
しかしながら、今のわたしには目の前のことをがむしゃらにこなすだけで精一杯であり、心境を整えながら生きられるほどの余裕はなかったのである。
日々の生活の中で乱れる心を整えることは、口で言うほど簡単なことではなかった。
だから、毎回の瞑想で思考をすり抜けられる訳ではなかった。
うまくいく時もあれば、断念することもあったのである。
今回はうまくいくような気がしていた。
ざわつく思考の中にあっても、心は比較的穏やかであったし、集中力が持続しているように感じていた。

2012年10月26日金曜日

追憶 248

ある日の夕刻、わたしは自らの心と向き合うために一人部屋のベッドの上で瞑想に励んでいた。
カーテンを閉めて照明を落とし、できる限り集中することができるであろう環境を整える。
わたしは静かにまぶたを閉じた。

心の中に入ると、騒がしい思考の群れが現れる。
群衆のざわめきの中に入るような感覚である。
わたしはそれらを無視する。
思考は意識の表面に存在している。
所謂、顕在意識と呼ばれる場所である。
思考に対して意識を合わせと、顕在意識に 捕らわれてしまう。
それでは自らの心の中に入ることはできない。
顕在意識にとどまってしまっては、自らの心と向き合うことはできないのである。
瞑想において大切なことは、顕在意識を通り越して潜在意識にまで到達するということなのである。
わたしは思考の群れが通り過ぎるのをただひたすらに待った。



2012年10月25日木曜日

追憶 247

わたしには将来の夢というものがなかった。
就きたいと思う職業もなかったし、やりたいことも無かった。
わたしが心からやりたいと思えることは求人誌には載っていなかったのである。
成りたい自分がわたしの周りにはいなかったのである。
もちろん、尊敬する人はたくさんいたが、その人たちの生き方には憧れなかった。
わたしはきっと変わっている。
「ヘンテコ」である。
自分でそう思う。
だけど、そこが自分で愛おしく思えることもある。
長い物には巻かれたくないし、好き勝手に自由に生きていたい。
人が決めたことは大嫌いである。
社会には不適合だと思う。
しかし、そんなわたしでも何らかの形で社会や誰かの役に立ちたいと思う気持ちを強く持っている。
それは、うまいこと社会に潜り込んでいる人たちよりも強いであろう。
それは、幼い頃からたくさんの悪さをして、たくさんの人たちに迷惑を掛けてしまったという過去が負い目となっている
のもある。
しかしながら、今は負い目よりも、人としてまともに成りたいと思う気持ちが強いように思える。
わたしの中には社会や誰かに貢献することこそが「まとも」であるという価値観が、何時の間にかに備わっていたのであった。

2012年10月24日水曜日

追憶 246

そのような心境の中で見付けた道が意識的な存在との交流であったり、その問題を解決したいと思う気持ちだったのである。
わたしには何ができるのか分からないが、自分にしかできないこと、自分だったらできることを探し、それを追求していくことが必要であると強く信じていたのである。
わたしにとっては意識的な観点こそが「それ」であるように感じるのであった。
わたしが進むべき道はこの道である。
まだ歩き始めたばかりで何の景色も見えないが、努めて歩き続けていれば必ず何らかの景色が見えてくるはずである。
これは、わたしが生きる道を作る闘いでもある。
この世界において、唯一意地になってしがみ付くことができることなのではないかと思える。
この道だけは逃げ出したり、諦めたりしない自信がどこからとも無く溢れてくる。
わたしの人生においてはとても大切なものであると感じるのだ。
世の中にはわたしのやりたい仕事はない。
それは、わたしの見識が狭く、能力が乏しいこともあるだろうが、意識的な存在や感覚に勝る快感は存在してはいないのである。
あの恐怖や危機感がたまらなくわたしを感じさせるのである。

2012年10月23日火曜日

追憶 245

今までの人生において、わたしは嫌なことから逃げ続けてきた。
気に食わないことは投げ出し、難しいことは諦めていた。
努力や辛抱という言葉が嫌いで、何一つ積み上げてきたものがなかった。
その結果、わたしにはこれと言って誇れるようなところなどないのである。
わたしは自らの現状に絶望していた。
仕事はあるが、それはわたしが極めたいと思える道ではなかった。
そもそも、養殖の仕事は自分のために始めた訳ではない。
それは、家族を支えるためであった。
その仕事を除いてわたしには何もない…
わたしの兄も親友と呼べる友も、自らの道を求め、一心不乱に歩んでいる。
わたしにはそれが、己の人生の道を開拓しようと努めているように映るのであった。
わたしもそう成りたかった。
ところがわたしには歩むべき道がない。
養殖の仕事には真剣に取り組んではいても、それにはわたしの心を満たすほどの力はなかった。
どこを目指して歩むべきなのか?
このままで良いのか?
考える時期でもあったのである。

2012年10月22日月曜日

追憶 244

わたしたちの中に心があり、思考があり、感情があり、意思が存在しているのは、極自然なことなのである。
信じる信じないではなく、当たり前に「それ」なのである。
素直さを取り戻すことができれば、目には映らないものや姿や形が無いものを否定する気持ちなど生まれることはないのである。
自らの心の中に闇の部分が存在していることをここへ来て改めて認識することが許されたわたしは、それを何とかして解きほぐし、純粋で清らかなものに戻したいという思いがあった。
今までの人生では多くの人に多大な迷惑をかけてきた。
わたしの心の中には幼い頃からずっと闇が存在していたのである。
これからの人生において、わたしはその闇を克服しなければならない。
変に折れ曲がり、複雑に絡まり合う感情を正しく導かなければならない。
一つでも、小さくても誰かや何かの役に立ちたい。
誰かや何かから必要とされる唯一無二の存在になりたい。
自らの心の闇に触れて初めて、わたしはこのままではいけない、変わらなければならない。
それも、建設的な方向に…
そう考えるのであった。

2012年10月21日日曜日

追憶 243

霊や神が存在するのも、自身の心や感情が存在しているのも物質的な観点からは証明することができない。
科学が万能ならば、心理学など必要ではないだろう。
心や感情が臓器によるものならば医学で十分である。
わたしたちは姿や形を持たないけれど、確実に存在している存在とも、世界を共有しているのである。
わたしの場合は自ら望んで意識的な存在を認識するようになった。
それだけなら、ただの妄想や幻覚として片付けることもできる。
しかしながら、そこに肉体の反応が加わればどうであろうか?
それは単なる妄想や幻覚とは意味合いが違ってくるのではないだろうか?
それに、幼い頃から意識的な存在を認識して生きている人も数え切れないほどいるだろう。
霊や神などの意識的な存在の存在を信じるかどうか?ということは問題ではない。
宗教ではないため、信じる信じないの世界ではないのである。
自然の中の自然な感覚として、物質的な存在と意識的な存在とは共存しているということを理解して欲しいのである。



2012年10月20日土曜日

追憶 242

心や意識を持っているからこそ、人は何かを認識することができるのである。
脳や心臓などの臓器を人工的に生かしても、何かを認識することはできないであろう。
わたしたちの生きる世界には、物質的な存在と意識的な存在とが共存している。
物質的な存在と意識的な存在とが共存することによってのみ、世界は成り立っているのである。
わたしたちは思考や感情を無視することはできない。
自らの心も否定することはできない。
姿や形はないかもしれないが、それはわたしたちの中に確実に存在しているものなのである。
科学では心を証明することはできないであろう。
それは、科学は物質的な姿や形として存在しているもの以外には及ばないからである。
科学は姿や形として存在しているものにしか触れることができないのである。
科学を根拠にし、意識的な存在を否定する人も自らの中に意識的な心が存在していることを認めなければならないだろう。
物質的な観点から物事を見るのは楽である。
目の前の認識することのできる事象だけを批評していれば良いだけだから。
しかしながら、わたしたちの生きる世界は物質的な観点から自身が認識することができる事象だけで成り立っている訳ではないのである。

2012年10月19日金曜日

追憶 241

破滅的な闇が体内や心境や思考に溜まると、わたしの判断以外の判断がそれを実行するのであった。
それが何の判断であるのかは分からなかった。
一種の防衛本能かもしれないし、わたしを守る意識的な存在の働きかけなのかもしれない。
原因は分からなかったが、この時の瞑想以来わたしは「自動闇排出能力」?を得たのであった。

意識的な存在と、物質的な存在は絆のようなもので結ばれている。
二つは連動している。
わたしたちの心と肉体が結ばれているようにである。
例えば、何かショックな出来事で心を痛めるとする。
その時あなたは胸が痛くなる感覚に襲われるであろう。
胸に物理的なダメージなんてありはしないにもかかわらず、心が痛めば胸も痛くなるのである。
恋をした時、胸が締め付けられる感覚を経験したことがあるだろう。
脳と心臓が働いてそのような痛みを得るという考えもあるであろうが、脳や心臓などの臓器が恋をするであろうか?
脳と心臓がショックな出来事を認識するだろうか?
それは、意識という心が成せる業なのである。
心の表現を具現化しているのが、肉体なのである。

2012年10月18日木曜日

追憶 240

わたしが自らの内に存在している闇をそう解釈した時、胸に込み上げる不愉快さを感じた。
すると、わたしは一つ小さなゲップをしていた。
ゲップと共に黒い煙のようなものが口から飛び出して頭上に溜まる。
黒い煙のようなものを吐き出す度に、わたしは少しずつ不愉快さを消化することができた。
わたしは小さなゲップを何度も繰り返し、胸の中の闇を少しずつ吐き出した。
すると、わたしは何時の間にかに闇の中から脱出していた。
わたしの意識は肉体(普段の感覚)に戻っていたのである。
小さなゲップは普通のゲップとは感覚が違っていた。
普通のゲップは胃に溜まったガスを排出するものであるが、小さなゲップは胸に溜まる闇を排出するような感覚のものである。
意識的なもので、破滅的な闇を体外に排出しているようである。
わざと空気を飲み込むとゲップを出すことができるが、あれに近い感覚である。
しかしながら、自らの意思によってそれをコントロールすることはできなかった。


2012年10月17日水曜日

追憶 239

思い返してみると、自らの弱さと真剣に向き合えたのはこれが初めてであるかもしれない。
大抵の場合は、向き合うことを拒絶していたり、はぐらかして逃げていたものである。
自らの弱さと強制的にでも向き合えたことは、わたしにとって良いことであるだろう。
それがどのような結果をわたしに導くかは、今のところ分からない。
しかしながら、今のわたしにも理解することができることがあった。
それは、自らの弱さ(コンプレックスやトラウマ)を否定しながら生きてはならない、ということである。
弱さも自分自身である。
自分自身の一部であり、大切なものであるということであろう。
人の気質は変えられない。
性格くらいは変えられるが、元々持っている気質を変えることはきっとできないだろう。
闇の中にいると、「自らの気質と共に生きろ!」と言われているような気がするのである。
弱い自分も受け入れ、力に変えていく。
それが大切なことであるように伝えているようであった。

2012年10月16日火曜日

追憶 238

この中にいると、自分のダメな部分を否応なしに見せ付けられる。
それは、わたしが回避したいことであった。
わたしは自分自身の弱さと向き合うことが嫌で仕方がなかった。
弱さが心を支配すると自分が自分でなくなり、わたしという人格はどこかへ放り出されるようであった。
自分自身がまるで知らない人であるかのように感じてしまう。
よそよそしくて、不安になる。
そうなると落ち着かないし、楽しむことなどできなかった。
自分でも、なぜそのような状態に陥るのかは分からなかったが、わたしの中には陽気な自分と陰気な自分がいて、その二つの気質が主人格を争っているようであった。
コンプレックスやトラウマという言葉が当てはまるのかもしれない。
自らの容姿や性格…
自分自身にコンプレックスやトラウマが存在しているのであろう。
もしかしたら、前世の生き方にもその原因があるのかもしれない。
わたしは暗闇の中で自分自身と向き合えた気がした。

2012年10月15日月曜日

追憶 237

思い返してみると、わたしの中にはいつも劣等感があった。
何に対してなのかは分からなかったが、自分自身に自信が持てなかったり、罪悪感を感じることも頻繁にあった。
それは、自分自身の力の無さや悪さをしたことへの贖罪(しょくざい)の気持ちもあったであろうが、それはもっと深い闇であるように感じる。
それはわたしの中に、わたしが物心つく前から、もしかしたら、生まれる前からあったのではないだろうか?
それは、表面的な何かではない。
何かもっと核心的であり、わたしの気質のような感覚である。
そこには、そう感じさせる何かがあった。

2012年10月14日日曜日

追憶 236

それはどこまでも深い闇であった。
浮いているのか、沈んでいるのかは分からなかったが、その闇の中にいるとわたしは自分自身を感じずにはいられなかった。
それはまるで自分自身との対話である。
自分自身のネガティブと対面しているようであった。
この感情をわたしは幼い頃から知っている。
いつもわたしの胸の中でわたしを痛め付け、心に傷を残そうとする。
しかし、わたしが傷付くと決まって精一杯に擁護(ようご)したりもする。
信用ならない奴である。
しかしながら、わたしはどこかでこの「信用ならない奴」を頼りにしていたのである。
弱い自分をかばってくれるのが劣等感であったからだ。
傷付けられることよりも、擁護してくれることを自分の中で強く印象付け、劣等感の行為を正当化してしまう。
その度にわたしは心を歪ませた。
この感情は常にわたしを困らせていた。
わたしが沈んだ闇、それはいつの頃からか心に芽生えた「劣等感」そのものであった。

2012年10月13日土曜日

追憶 235

胸の中のモヤモヤに意識を合わせると、そこにはコールタールのような黒い物体が存在しているのが見えた。
黒い物体はとても陰湿で、感覚的には「重たい」という表現が合致しているだろう。
それはとても破滅的な臭い?を放っており、わたしは近付きたくないと思った。
しかしながら、わたしはそれを異物として認識している。
どうにかして、体外へと排出しなければならないのだ。
わたしは意を決して、その黒い物体に手を延ばし掴んでみた。
すると、わたしは全身が総毛立つのを感じ、強烈な吐き気と嫌悪感を感じずにはいられなかった。
黒い物体にわたしは沈みそうになる。
黒い物体はわたしを飲み込もうとしているように、心を侵食してくる。
わたしは深い闇に沈んでしまうような感覚に陥り、その中で意識が遠のいていくのを感じていた。

「まずい…」

そう思ったが、わたしは方向感覚を失い、暗闇に身を任せるしかなかった。

2012年10月12日金曜日

追憶 234

ゆらゆらと揺れる身体を感じることは、とても不思議な気持ちであった。

ある日の瞑想時、わたしは胸に何かがつっかえるような感覚に襲われていた。
微かな吐き気が胸を締め付けているようである。
そのモヤモヤとしたものをわたしはどういう訳か異物であるように思ったし、それをどうにか体外へ排出しなければならないと感じていた。
吐き気を感じているから異物だと思ったのもあるが、吐き気以外の直感的な感覚がそれを異物であると認識させるようだった。
わたしはどうにかしてそのモヤモヤを体外へ排出しようとしたが、その方法が分からなかったので、できそうもなかった。
車酔いの時のように吐き気が続くのは苦痛であったが、今のわたしにはそれをどうすることもできなかった。
こんなわたしにもできることと言えば、胸につっかえているモヤモヤが何であるのかを自分なりに探ることくらいである。
わたしは吐き気を我慢しながら、胸につっかえるモヤモヤに対して意識を合わせるように努めた。

2012年10月11日木曜日

追憶 233

瞑想の度に、身体の意思に任せることを習慣付けていると、その動きは次第に滑らかになっていくのが分かる。
その動きはぎこちなさを離れ、とても自然的だった。
それは、瞑想の時間を離れて日常生活の中にも入り込んできた。
何気なく座っているだけであるのに、上半身がゆらゆらと揺れたりする。
意識してその動きを止めるも、やはり揺れている方が心地好かった。
ハクとコンがわたしの両手を使って自らを表現するが、それの身体バージョン?なんて考えていた。
身体には常識では推し量ることのできない意思や力が潜在されているのかもしれない。
そして、その声は普段わたしたちの耳には届いていないのかもしれない。
常識離れした身のこなしをする人は、もしかしたらその声を聞いているのかもしれない。
人は自らの身体の声を聞くことによって、自らや世間の常識を超えることができるのかもしれない。

2012年10月10日水曜日

追憶 232

それから、瞑想の度に身体はわたしの意思を離れて自由に動いた。
とは言っても、あぐらをかいた状態で前後左右に揺れたり、尾てい骨を基準にして駒のように回ることがほとんどだった。
わたしは自らの意思以外の力によって自らの身体が動くこの不思議な感覚の虜になっていて、まるで中毒のようにはまっていたのである。
ふわふわと重力から解放されるような感覚というものは、わたしの心を強く掴んで離そうとはしなかった。
興奮状態とは違うが、心は高揚しているように思える。
その高揚感は心地良く、わたしを虜にしてしまう。
わたしは実験的に何度も意識的に身体の動きを止めてみたが、しばらくするとどうしても勝手に動き始めるのであった。
そして、身体の動きを無理矢理に止めると、吐き気にも似た違和感が襲ってくるような気がするのであった。
それは、この不思議な心地良さを知ってしまったからであろう。
重力からの解放?物質的世界から意識的世界への移行?
何とも表現することが難しいのだが、今までのわたしの常識を覆す出来事であったには違いない。

2012年10月9日火曜日

追憶 231

そう思うと、何だか申し訳ない気持ちが溢れてきた。
今までのわたしは傲慢(ごうまん)であったに違いない。
好き勝手に身体を使ってきた。
心を満たすために必要な欲求を、身体のことを何も考えずに実行してきたのである。
わたしは、自らの身体には別の人格(身体の意思)が備わっていることを知ることができて良かった。
これからのわたしはきっと、自らの身体と協力しながら人生を築いていくことができるはずである。
身体が独自の意思を持っていることを知らなければ、心の欲求を満たすために身体を傷付けていたに違いない。
これからのわたしは、身体のことを気遣いながら生きていくことだろう。

あぐらをかいて座る身体は、尾てい骨を支点にしてクルクルと回っている。
もう既に身体はわたしの意思を上回ってはいるが、「動きたい…任せろ…」という意思に対してすべてを完全に任せてみることにした。
何の抵抗もせずに、何も考えない。
すべてを身体に任せ、預ける。
そうする必要があると感じていた。


2012年10月8日月曜日

追憶 230

しかしながら、意思の伝達はそれを発する側の力量と、それを受け取る側の力量というものが大きく関わってくる。
相手にとって分かりやすく伝える方法を選択しなければならないし、相手の意思をできる限り詳細に汲み取らなければならないのである。
互いの力量が高い程に、意思疎通は高質なものになる。
身体から伝わる声(意思)は、今までに聞いたこともなかった内容のものだった。
しかしながら、それはとても抽象的な形であったために、何となくの感覚でしか理解することができなかったが、身体はわたしのとは異なる独自の意思を持っており、「こう動きたい…任せろ…」そんな内容の意思を伝えてくるのである。
今までのわたしの常識では、身体はわたしのものであり、わたし自身でしかなかった。
それが「別物」なんて考えたこともなかった。
しかしながら、今わたしが感じている感覚は、身体には別の人格?が備わっているということである。
20数年間の常識が覆(くつがえ)され、新たな常識が入り込んでくるのは不思議なことである。
しかしながら、そこには大した違和感は感じなかった。
きっとわたしは、認識の届かない深い部分では身体という別人格のことを知っていて、これまで互いに協力し合って生きてきたのであろう。
わたしが知らなかっただけである。

2012年10月7日日曜日

追憶 229

頭をなるべく空っぽに近付け、できる限りを身体に任せると、わたしは自らの身体から発せられる声?を聞いた。
それは、霊や神が伝える声と同じであった。
何の干渉もなく直接的に頭の中に流れ込んでくる意思。
それが意識的な存在の声である。
わたしたち肉体を所有する存在は肉体(声帯)の力に依存し、それが当たり前だと思っているので意思の伝達は音が主力になってしまう。
自然(三次元空間)の中で生きているわたしたちにとっては、それが手っ取り早くて簡単である。
しかしながら、意識的な世界に存在している者たちに肉体は無い。
わたしたち肉体を持つ生命体からすれば、より高度な手段によって意思の伝達をしなければならない。
それが、意思を直接的に相手に届けるという手法である。
(本当は気持ちを言葉で伝える方が難しいが…)
意思を意思の形のままで伝達するのである。
肉体を持つわたしたちも、ある程度の関係性の中ではそれを使っているが、そこには視覚などの五感の助力や推測などの想像力を駆使した結果、確率の低い意思疎通をしているに過ぎない。
意識的な存在間の意思伝達は、余計な干渉が無い分スムーズで確実なものだろう。
肉体を介した意思伝達との差は歴然であるに違いない。

2012年10月6日土曜日

追憶 228

それは、恐怖という感情でもない。
強いて言うなら「不思議」である。
この頃のわたしは、瞑想をしている時には身体が自分自身の意思に反して動くようになっていたが、日を追うごとにそれはエスカレートしているように思えた。
初めは小さな横揺れだった動きが、今では身体がまるで駒のように尾骨を支点にして回転しているのである。
わたしの頭の中にはクエスチョンマークが列を成していたが、何となくではあるけれどそこにはわたしには理解することのできない深い意味があるような気がしていたので、抵抗することなく身体にすべてを委ねてみることにした。
この先に何があるのか?という好奇心が先頭に立ったことが一番の理由であるだろう。
余計なことは考えず、わたしはとにかく頭の中を空っぽにするように努めるのであった。

2012年10月5日金曜日

追憶 227

揺れている身体に違和感を覚えてそれを止めても、しばらくしたらやはり動き始める。
わたしは身体が勝手に動くことを不思議に思ったが、心地良かったので任せることにした。

瞑想をしている時には感覚というものが通常の状態よりも研ぎ澄まされるようである。
視覚などの外から入ってくる情報が少ないのと、自らの生み出す考えなどの内からの情報が少ないことで、総合的な感覚はきっとシンプルなものになるのであろう。
それで普段は気が付かないものにも気が付くことができるようになる、という訳である。
瞑想中には様々なモノが寄ってくる。
ある日、わたしはいつものように瞑想をしていた。
いつもと同じような感覚の中に静かに座ることができた。
わたしは安心し、自らの内側に向かうことを楽しみにしていたと思う。
しかしながら、その日は楽しい瞑想ではなかった。

2012年10月4日木曜日

追憶 226

瞑想は習慣化し、わたしにとっては日常の一コマに過ぎなかった。
しかしながら、わたしにとってはとても大切な時間であった。
毎日瞑想する中で、わたしはある変化に気付くようになる。
瞑想の時はあぐらをかく姿勢でただゆったりと座る。
背筋は伸ばすようにはしているが、できるだけリラックスして全身の力を抜くように努めている。
その時、わたしは自らの身体が小さく揺れていることに気が付いた。
もちろん、わたしはただ座っているだけである。
しかしながら、微かな揺れを身体に感じる。
わたしの中に小さなメトロノームがあり、それがカチカチとリズムを刻むようである。
本当に微かな揺れではあるものの、それはわたしの意思ではない別の力が働いているような気がしてならなかった。
しかし、そこに嫌悪感は感じない。
むしろ、心地の良さを感じていた。

2012年10月3日水曜日

追憶 225

わたしはその雲を携帯電話のカメラによって写真に収めた。
(画像は違う日に撮影した白龍神の雲)
その時、わたしは自らの心の中に白龍神の意思が流れ込んでくる感覚を覚えて嬉しかった。
その時の意思はとても暖かく、父親が見守ってくれているような力強くも優しい安心感を得ることができた。
姿を見たのは瞑想の時以来ではあるが、白龍神はわたしのことを今でも大切に思ってくれていることを確認することができて良かった。
それだけで、わたしは幸せな気分だった。
わたしの幸せな気分につられたのか、ハクとコン(狐)もわたしの手を使って出てきた。
ハンドルを握る左手(コン)は人差し指と小指がピンと伸び、右手(ハク)はわたしの顔の前でやはり人差し指と小指を立てて狐の形を作り、わたしに何かを話し掛けるように中指と薬指を激しく動かしている。
ハクとコンが出てきたことも重なって、わたしには更に嬉しい帰路となった。

2012年10月2日火曜日

追憶 224

ある夏の正午。
空を掴むかのような巨大な入道雲に囲まれた北灘湾には、太陽の熱が容赦なく降り注ぎ、熱で焼かれた水面にはキラキラと光の粒が弾けていた。
わたしは額の汗を袖口で拭い、最後の餌を鯛の生簀(いけす)に放り込んだ。
その時、北灘湾には正午を知らせるサイレンがこだましていた。
わたしは作業を終えて帰路についた。
小さな船外機船がわたしを海に浮かべる唯一の相棒である。
小さな船外機に火を入れ、わたしは焼ける水面を割いた。
ある程度走ると、何気なく背後の南の空が気になった。
それは、いつも感じていた意思であった。

「白龍神⁉」

わたしはそう感じて振り返った。
すると、そこには南の空を覆い尽くすように巨大な白い鱗(うろこ)が輝いていた。
一瞬だけ龍の姿に見えて、それはすぐに雲に変わった。


2012年10月1日月曜日

追憶 223

「神」を初めとして、意識的な存在を意識していなければこのような感情は生まれてはこなかったであろう。
怠惰(たいだ)で惰性的な考え方が我が物顔で心の中にはびこっていたかもしれない。
わたしは長い間忘れていた畏怖(いふ)や畏敬(いけい)の気持ちを、意識的な存在と出会うことで思い出すことができた。
それは、わたしがこれから人生を生きていく上でとても大切なことである。
人は自分自身でも知らず知らずの内に傲慢になっていることがある。
謙虚さを見失ってしまった時、人はいろんな意味での「光」を失ってしまうのではないだろうか?
意識的な存在を感じれば、わたしは自分自身の存在がとても小さなものに思える。
自然の中に無数に存在している小さな命の中の一つに過ぎないと感じる。
わたしが人間の中で人間の感覚でいたのなら、このように感じることはなかったであろう。
何と言うか、意識的な存在を感じれば価値観が変わる。
白龍神に出会ってから、わたしの価値観は少しずつではあるが確実に変わってきていたのである。