このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2012年7月31日火曜日

追憶 161

わたしの中には自然と感謝の気持ちが溢れていた。
それは喜びが感謝の気持ちを導いていたからであろう。
建設的な意識(思考、感情、存在)は建設的なものを導き出す。
生み出すと言っても良いだろう。
建設的な者に触れていることはとても心地がよかった。
できるなら、この感覚をずっと味わっておきたいと感じるのであった。

次に気が付いた時には、わたしはまぶたを開いていた。
少し夢心地である。
感覚的に「ふんわり」としている。
心地はいい。
その時、わたしは狐たちのことを思い出した。
視野を意識に切り替える(心で感じるようにする)と、肩に乗っている二匹を認識することができた。
わたしはなぜか少し安心した。
狐たちからはとても無邪気な印象を受ける。
二匹は嬉しそうにわたしの頬にその頬を擦り寄せてくる。
言うなれば、狐にサンドイッチされているようであった。
少し邪魔だとは感じたが、まあ何かに支障をきたすということもなかったし、何より嬉しかったので放っておいた。

2012年7月30日月曜日

追憶 160

わたしの返事に対して、狐はとても喜んでいるように見えた。
ぴょんぴょんと身軽に何度も繰り返し飛び跳ねる様は、ウサギが喜んで飛び跳ねている光景に重なるところがあった。
飛び跳ねていた狐たちは同時にわたしを目視し、一つ地面を蹴って高く舞った。
頭より少し上、見上げる高さまで舞い上がった狐たちは落下するようにわたしに向かってきた。
そして、わたしの肩に着地するようにしてそれぞれが乗っかったのである。
狐たちが肩に乗ると、えも言われぬ力が湧いてくるようであった。
例えるなら、長年会いたいと願っていた人に再会できた時のような喜びと興奮が胸に迫るのである。
わたしはそれをとても嬉しく思った。
心の底から力が湧いてくるのが分かる。
感動して涙が溢れてきそうになるのを理性が止めた。
建設的な状態の意識的な存在と繋がるというのが、こんなに素晴らしいものだということにわたしは初めて気が付いたのだった。

2012年7月29日日曜日

追憶 159

霊などの意識的な存在とコミュニケーションを取る時に必要なのが、この意思疎通である。
心や意識という媒体をどれだけ自在に扱うことができるのかによって、霊などの意識的な存在とのコミュニケーションの質が変わってくる。
心や意識を自在に扱うことができるほど、彼らとのやり取りはスムーズになり、その深みは増していくであろう。
わたしが狐の意思を認識することのできるレベルで受け取ることができているのも、毎日の瞑想や意識的な存在への興味が成せる産物なのではないだろうか?
それまでは、霊の意思を具体的になど認識することはできなかった。
以前のわたしならば、その意思を言葉にも似た形で受け取ることなどできなかったのである。
やはり、これは瞑想によって自らの心や意識に触れる時間が増えたために開かれた扉であり、引き出された力であるだろう。
わたしの当初の目的と今の状況は一致している。
わたしは意識的な力を強めたいと考えていたのである。
狐がわたしのところにいて、守護者として力を貸してくれるというのであれば、単純に考えて霊力?が増すのではないだろうか。
わたしは狐の申し出を快く引き受けた。

2012年7月28日土曜日

追憶 158

すると二匹の狐はいつの間にかにその姿を消していた。
わたしが呆気にとられていると、足首に何かの感触を得た。
目線を下ろすと二匹の狐がわたしの足首に絡み付くようにしていた。
わたしはそれを嬉しく思った。
その時、二匹は同時にわたしを見上げた。
そしてその場から消えたかと思うと、わたしの肩にそれぞれが乗っていたのである。
わたしは少し驚いたが、何とも言えない温かな気持ちに心が和むのであった。
感覚的には「ありがとう」と伝わってくるように思える。
わたしはその感覚に対して「気にすることはないよ」と答えた。
すると、右肩に乗っている狐が「これから一緒にいてもいい?」という意思を伝えてくるのが分かった。

これらの会話は感覚的なものである。
それは言葉でも声でもなく、意思というダイレクトな形で伝わってくる。
意思疎通というのが正しいのかもしれない。
仕事でもスポーツでも何かの作業をしている時、言葉を投げ掛けなくても相手の気持ちや欲しているものが何となく理解でき、それに従った行動を起こすことがある。
言葉以外のツールが伝達手段となるのである。

2012年7月27日金曜日

追憶 157

抱き締める力に比例するように、わたしの中には愛情が膨れ上がっていた。
わたしの気持ちが大きくなるほどに、狐の中の鼓動は大きくなるようであった。
そして、その鼓動が大きく広がり、この場を包み込んだ時、それは少しずつ小さくなり、狐の中に収まっていった。
鼓動が穏やかに収まった時、狐はゆっくりとその目を開いたのである。
目を開いた狐はとても穏やかであり、既に自らの状況を悟っているようであった。
その表情は凛と引き締まり、とても美しかった。
その時、もう一匹の狐がわたしの腕に擦り寄るように近付いてきた。
それに気が付いた腕の中の狐はわたしの腕を飛び出した。
それを追うようにしてもう一匹の狐も跳ねた。
わたしから少し離れた場所で二匹は久しぶりの再会を喜んでいるように身体を擦り合せていた。
二匹はとても幸せそうである。
わたしはその光景をとても嬉しく思い、時間の許す限りその光景を見つめているのであった。

2012年7月26日木曜日

追憶 156

重たい身体を何とか運び、わたしは倒れて動くことのない狐の元へと辿り着いた。
倒れている狐はぐったりとして動くことはなかった。
わたしはその場に膝(ひざ)を着き、倒れている狐を抱え上げた。
そして、そのまま抱き締めた。
その時、わたしは狐の中に何やら温かいものを感じた。
それは心臓が脈打ち、体内に血液を送り出すような感覚である。
命の鼓動とでもいうのだろうか?
狐の中に小さな力を感じる。
どのような表現が適切なのかは分からない。
それはまるで、何も無い大地に一つの芽が出たような感覚である。
わたしはそれをとても嬉しく感じ、心は躍動した。
いつの間にかに疲労感は消え去っていた。
わたしはそれに気分を良くし、狐を抱き締める力を一層強めるのであった。

2012年7月25日水曜日

追憶 155

わたしのゲップに合わせて、狐は大量の黒いものを吐き出した。
それがどのくらい続いたのかは分からなかったが、いつの間にかにゲップも吐き出す黒いものも止まっていた。
わたしは酷い疲労感に襲われていた。
膝(ひざ)をついた状態から動けなかった。
狐も地面に伏せるようにしてピクリとも動かなかった。
わたしはこのままで疲労の回復を待つことにした。
酷い疲労感のせいで、少しも動くことができなかったからである。
その時、元気な方の狐が跳ねた。
軽い身の熟(こな)しは美しい放物線を描いた。
その放物線は倒れている狐とわたしを結んだ。
そして狐はわたしの身体にその身を擦り寄せてきた。
不思議なことに、狐がその身を擦り寄せると少しではあるけれど疲労感が取れて楽になったような気がする。
狐は何度も放物線を描いてわたしと倒れ込む狐の間を往復した。
少しずつではあるものの、狐のおかげでわたしは疲労感から何とか脱することができた。
多少は動けるようになった身体を引き摺り、未だに倒れ込んで動くことのできない狐の元へと向かった。
わたしが移動する間も、狐はわたしと倒れ込む狐の間を何度も往復しながら励ましてくれていた。

2012年7月24日火曜日

追憶 154

叫び声が遠くに聞こえる。
それは、眠りに落ちる寸前の周りの音のように、ぼんやりとわたしを包んでいるのであった。
わたしの肉体が叫ぶのと同じように、威嚇を続けていた狐も苦しみ、叫び始めた。
もう一方の狐はそれでも身体を優しく擦り寄せている。
すると、苦しみ叫ぶ狐の動きが止まった。
俯(うつむ)き加減でピクリともしない。
わたしの肉体も叫ぶことをやめている。
その時、胸の奥に強烈な吐き気を感じた。
それは、乗り物酔いを更に酷くしたような感覚である。
そしてその感覚は胸から徐々に上がってきているように思えた。
嘔吐しそうな感覚に襲われた時、わたしは大きなゲップをしていることに気が付いた。
それと同時に狐が黒くドブドブした何か禍々しいものをその口から吐き出した。
それは生のレバーを黒くしたようなもので、感覚としてはとても気持ちが悪かった。
それを見た瞬間にまた吐き気を感じ、わたしはゲップを繰り返すのであった。

2012年7月23日月曜日

追憶 153

わたしは狐に対してでき得る限りの同情をした。
しかしながら、それは人為的な行為ではなかった。
ごく自然に溢れる感情である。
それは「愛」であるだろう。
どうにか狐の力になってやりたいと思ったが、未熟なわたしには何をどうしてやればいいのか分からなかった。
今のわたしにできることは狐の苦しみに同情し、見守ることだけであった。
狐の抱える苦しみをでき得る限り自分の中で想像することくらいであった。
後は威嚇を続ける狐をなだめるようにしている狐を信じることだけである。
わたしが狐の苦しみを同情した時、わたしは遠くに自らの肉体が叫び声を上げていることに気が付いた。
それはわたしの意思ではなかった。
意思に反して勝手に肉体は叫んでいるのであった。
わたしは黒い犬のことを思い出していた。
わたしの心の中にいた黒い犬の時と同じように、肉体は勝手に叫んでいたのである。
これは狐の苦しみを肉体が表現したものに違いないと思うのであった。

2012年7月22日日曜日

追憶 152

わたしたち人間も、いつかはその命や肉体を手放さなければならない時がやってくる。
所謂、死ぬということである。
命ある者は必ず死を迎える。
人は死ぬと肉体からその心(意識、魂、感情、意思)だけが取り出され、残される。
心・・・それが人の本質である。
霊というものが人の本当の姿なのである。
もしも、人の本質が心になければ、この世界に苦しみは存在しないだろう。
心が存在しなければ、苦しみを感じるという感覚さえも存在しないのである。
もちろん、喜びを感じる感覚も。
世界というものは意識(心)によって築かれているのである。
そこに存在する意識の性質によって、その場所がどのような場所になるのかが決まってしまうであろう。
その意識がどのような性質を持つのかは、そこに存在する命が決めることである。
それも、自然に対して大きな影響力を持っている人間が決めることなのである。
人間が何かを苦しめたり、自分自身で苦しんだりすると、その場所には多くの苦しみが生み出され、蓄積してしまうのである。
それによって傷付き苦しんでいたのが狐であったという訳である。

2012年7月21日土曜日

追憶 151

破滅的な感情に支配されたら苦しい。
怒りや悲しみの感情に縛られると、誰もがその状態を苦しみとして認識してしまうだろう。
それは人間だけに限ったことではなかった。
霊や神と呼ばれる意識的な存在であっても例外ではないのである。
感情という意識が作用するのが意識に対してであるため、心という意識を持つ人間、意識自体として存在している霊や神と呼ばれる意識的な存在たちに与える影響はとても大きいのである。
人も霊も神と呼ばれる存在も、触れる意識の状態によって左右されるのである。
狐が影響を受けたのは、自然や命の中に生み出された苦しみの感情であった。
それは破滅的な感情であり、重たく、苦しい。
破滅的な感情の前に、人がひとたまりもないように、それが霊であっても神と呼ばれる存在であっても同じなのである。
意識的な存在とわたしたち人間を別物とする価値観というものがある。
多くの人がそうではないだろうか?
普段、意識的な存在を見ることも触れることもできない人が多いためにそう考えるのは自然なことであろう。
しかしながら、彼らは肉体(形)を持たないわたしたちなのである。

2012年7月20日金曜日

追憶 150

わたしはその感覚に驚いた。
正に吐きそうなくらい気持ち悪いのである。
それが身体的な原因によって引き起こされる現象であるのならば、その理由に対する検討がつかなかった。
急に吐きそうになるほど気分を害することなど、生まれて此の方経験したことがないのである。
これはきっと意識的な原因によって引き起こされる現象であると言えるだろう。
わたしに威嚇を続ける狐が原因であるような気がするのである。
確証がある訳でもないのだが、そうに違いないとわたしの第六感が叫んでいるのである。
きっと、この感覚は正しいであろう。

破滅的な感情は重たい。
気持ちが沈むという感覚は分かるであろうか?
不満や不安、そして心配・・・
それらの苦しみは破滅的な感情である。
それは黒くドブドブしていて重たいものであり、それが集中すると吐き気を伴った苦しみへと変化していくのである。

2012年7月19日木曜日

追憶 149

わたしが決意を新たにした時、初めにわたしのところに来た狐がどこからともなく現れた。
どこからともなく現れた狐はわたしを確認し、それから威嚇を続ける狐の元に向かった。
威嚇を続ける狐の方は、もう一方の狐に対して何の反応もしなかった。
威嚇の手を緩めようとはしないのである。
それほど緊張していたのだろう。
威嚇を続ける狐に構わず、狐はその身体と大きな尻尾を威嚇を続ける狐の身体に絡ませた。
犬がじゃれ合うように身体を擦り付けるのであった。
しばらくそれを続けていると、威嚇をしていた狐の緊張が少しばかり緩んできたように思えた。
この狐は、威嚇を続ける狐のことを大切に思っているようである。
二匹は仲間なのであろう。
その時、わたしは気持ち悪さが胸に込み上げてくるのを感じていた。
それは車酔いをした時のような吐き気であった。

2012年7月18日水曜日

追憶 148

わたしはこの狐がどこから来たのかは知らない。
もしかすると、わたしには直接的な関わりは無いかもしれない。
しかしながら、狐がわたしの目の前で苦しんでいるのは、わたしにも何らかの責任があるからであろう。
それがどのような問題であったにしても、自らの目の前に存在しているのならば、その時点において無関係だとは言えないのである。
わたしはでき得る限りの愛情を以って狐に向き合った。
狐はといえば、わたしの気持ちなどお構いなしに威嚇を続けている。
どうにかしてこの怒りを抑えなければならないと思ったが、わたしに思い浮かぶアイデアは謝罪することだけだった。
でき得る限りの愛情を込めた謝罪の気持ちを狐に向けて伝えた。
人間は愚かだけれど、これから少しずつでも変わっていくことを約束した。
個人的なところからのスタートだけれど、自然やそこに存在している命や意識の苦しみを理解し、それをできる限り多くの人の心に広げていこうと思った。

2012年7月17日火曜日

追憶 147

しかしながら、そのことを理解する機会がわたしたち人間には乏しい。
これは残念なことである。
環境の変化によって自分たちが苦しんで初めて、ようやくそのことを理解するのである。
実際の歴史を振り返ってみても、環境汚染によって様々な弊害(病気や経済的な損失)が生まれ、その問題が実感として(もしくは社会的に)明らかになるまで、人間は何の手も打たなかったのである。
人間は愚かな生き物だ。
問題が明らかになって自分たちが苦しみを味わうことがなければ、それに気が付かない、そして何の手も打てないということもあるだろう。
実際、わたしも赤潮によって家業の養殖の真鯛が何万匹(2004年、愛媛県では20万匹以上)もへい死することがなければ、わたしもそれに気が付くことはなかったであろう。
今回、わたしは幸いなことに自然?が抱える苦しみを直接的に理解する機会を得た。
これをわたしはチャンスだと思ったのである。
今まで自然が抱える苦しみに気が付けなくて申し訳のない気持ちと、自分に対するふがいない気持ちがわたしの中には充満していた。

2012年7月16日月曜日

追憶 146

牙を剥き出しにして怒りを露(あらわ)にする狐に対して、わたしはどのように接すれば良いのか分からなかった。
わたしはその場から一歩も動くことができずに、ただ固まっていたのである。
狐は恐怖と怒りに震えているのだろう。
狐に刺さっていた黒いものが人間が生み出してしまった苦しみであるのならば、狐がわたしに対して怒りを剥き出しにすることにも納得することができる。
わたしは人間が生み出してしまったであろう苦しみが、狐の小さな身体を突き刺し、苦しめてしまっていたことに反省した。

わたしたち人間は、知らず知らずの内に自然に対して苦しみを生み出してしまっているのである。
北灘湾(地元の海)にゴミが漂い、生物の種類が明らかに少なくなってしまったのも、人間が自分たちがより豊かに生きるために目指した環境作りの産物であるだろう。
自分たちは良いことをしていると思っているだろうが、それは人間目線での話であって、自然の中に生きる生命にすると、とても迷惑な話なのである。

2012年7月15日日曜日

追憶 145

心を蝕む破滅的な力に対抗するのは簡単なことではなかった。
わたしを支えていたのは、苦しんでいる狐を助けたいという気持ちだけであった。
今のわたしには意識的な力に対して何のテクニックも無い。
ただ、気持ちだけでこの状況に挑んでいるのである。
それは無謀なことかもしれないが、既にこの状況にいるのだから、持っているものだけでやるしかないのである。
狐を助けたいという一心で、わたしは黒いものを掴んでいた。
最初から最後まで気持ちの勝負だった。
苦しみに対してわたしの気持ちがそれを凌駕(りょうが)したのであろうか?狐に突き刺さっていた黒いものを何とか引き抜くことに成功したのである。
黒いものを投げ捨て、荒い呼吸を整えるように努めた。
身体が重たいのはどうしようもなかった。
黒いものから解放された狐は素早くわたしの元を離れ、少し離れたところでわたしを威嚇(いかく)した。

2012年7月14日土曜日

追憶 144

一般的に人が霊的な事象に対して嫌悪感を持つことは理解できる。
それは、そこに恐怖を感じるということもあるだろうが、その本質には恐怖の先にある精神的なダメージによる危機感というものが存在しているように思えた。
それは動物的な本能であるだろう。
肉体的な危機感と同じように、精神的な危機感を無意識の内に本能が知らせているのである。
霊に対峙するというのは、危機感や己の命と向き合うということでもあるのである。
そのため、普通の感覚ならばそれに嫌悪感を抱き、拒絶の心が生まれるものなのである。
誰でも命に関わる危機感には面したくないであろう。
精神的なダメージは人の命を脅かしてしまう。
心(精神)というものは人の本質であるということができるであろう。
心が傷付き、疲れ果ててしまえば、どのような人も命を継続させることが難しくなってしまう。
憂鬱(ゆううつ)や自殺というものも、心に何らかのダメージがなければ有り得ない状況であるだろう。
狐に突き刺さる黒いものから伝わる苦しみは、わたしの心を蝕み、直接的にダメージを与える。
心が沈む感覚の先にわたしは無気力さを感じ、自虐や自殺という選択肢が脳裏を過(よぎ)るのを見ているのであった。

2012年7月13日金曜日

追憶 143

意識的なものを動かすにはとにかく意識の力が必要になってくる。
それは今までにあまり扱ってこなかった分野の力である。
今までは意識的な分野よりも物質的な分野に重きを置いて生きてきた。
脳であったり筋力であったり、それが自然なことであると思っていたし、当たり前のことであった。
そういう方法や世界しか知らなかったということもあるだろう。
そのため、意識的なものを動かすのには多くの労力を注ぎ込む必要があったのだ。
黒いものを掴む腕から気怠さと吐き気が同時に襲ってくる。
それに加えて、怒りや悲しみといった感情が頭を無理矢理にこじ開けるようにして侵入してくる。
気が狂いそうになる。
破滅的な意識に触れるということは、精神に直接的なダメージを得るリスクを負うということである。

2012年7月12日木曜日

追憶 142

わたしたちはどこかでそのことを忘れてしまっているのかもしれない。
自分たち人間の利便性と発展を中心とした文明作りというものに重きを置き過ぎているような気がしてならないのだ。
狐に突き刺さる黒いものは、わたしたち人間が自分勝手に自然を破壊し、命を奪ってきたために生み出された苦しみなのかもしれない。
自然的(適切)に処理されなかった苦しみが行き場を失いさ迷っているようにも思える。
それが正しい解釈なのかは分からないが、そういう解釈をした途端に狐に突き刺さる黒いものが少しずつではあるものの動き始めたことに気が付いた。
もしかしたら、この解釈には一理あるのかもしれない。

黒いものを引き抜くのには多くの力が必要であった。
力といっても腕力ではない。
それは精神力というものであろうか?
とにかく精神が、心が疲れるのであった。

2012年7月11日水曜日

追憶 141

わたしにはこの狐が自然の代弁者であるような気がしてならなかった。
自然が訴えることのできない苦しみを見せてくれているのではないだろうか?
わたしたち人間はいつの間にかに大切なことを忘れてしまっているのかもしれない。
わたしたちの豊かな生活は、自然やそこに生きる命の犠牲の上にこそ成り立っているというのに、わたしたちはそれを知っているのだろうか?
そのことに関心を持ったことがあっただろうか?
思いやり、感謝し、労ったことがあっただろうか?
生きていくためには生活圏を広げなければならないし、命を奪わなければならない。
生きていくということは、侵略するということだろう。
生きていくということは、本来「汚い真剣勝負」なのである。
汚い騙し合いではあるが、お互いが命をかけた真剣勝負であり、快楽のために命を奪うなどということはない。
命は命を繋ぐために存在しているのである。

2012年7月10日火曜日

追憶 140

まるで、自己犠牲によって災いから自分以外の存在を守っているようであった。
破滅的な感情は必ず何らかの問題を引き起こす。
怒りや悲しみという破滅的な感情には、状況に対する豊かさを破滅させてしまう力がある。
自然環境を破壊した人間はその罪を環境の変化の中に見て、その罰を食物連鎖の中に知ることになる。
それだけで終われば良いが、目には見えない力を蔑(ないがし)ろにしてしまうと大変なことになってしまう。
目には映らないものを信じることができない人は多い。
人の心でさえ気にかけていない人間が多過ぎる。
人の心や、目には見えない意識の力を信じていないのである。
そのため、人を傷付けても裏切っても平気であるという人物は多いのである。
命を屁とも思わない人物も多く存在している。
無意味に虫を殺し、快楽のために動物をいじめ、命を奪う。
昔は、人の心の中にも自然や命や神という存在に対する畏怖の思いが存在していた。
しかしながら、世界が資本主義に走り出すと、多くの人間は大切であるその気持ちや文化を忘れてしまった。

2012年7月9日月曜日

追憶 139

おそらく、この狐は自然界に生きる神で間違いないであろう。
狐が苦しんでいるのは、自然が破壊されたからであろうか?
多くの命が無闇矢鱈に奪われているからだろうか?
きっと、人間が行う開発によって自然の景色は壊され、そこに生きる命は苦しみを得ることとなったであろう。
それが黒い刃物となって狐を襲っているように見えた。
それに加え、人間が生み出す破滅的な感情というものも強く感じることができた。
狐にとっては、自然とその中に生きる命は大切だが、そこに生きる人間というものもまた大切なのだろう。
自分たちの生活をより快適にするために自然を破壊する人間。
そのように強欲な存在であったとしても、神からすれば同じく愛すべき命に変わりはないのであろう。
黒い刃物に触れていると、これが狐に刺さったというよりは、狐が自らそれに刺さったという方が正しいのではないかと思うようになっていた。
それは、苦しみの中にある狐の心があまりにも愛情で満ちていたからである。

2012年7月8日日曜日

追憶 138

それは人間が生きる中で生み出す争いの感情や感傷、自然が破壊されることで生み出される命の悲鳴や怒りなどであった。
この狐は、世界に存在している苦しみをその小さな体で受け止めていたのである。
それは、この狐の立場というものが大いに関係しているのであろう。

狐の体に刺さる黒いものを抜こうとするがそれはとても頑丈で簡単には動く気配がなかった。
わたしは狐の様子を見ながら何度もそれを抜こうと試みた。
その中で、狐のことが何となくではあるものの、心の中に伝わってくるような気がした。
その感覚が正しければ、この狐は自然の中に存在する神である。
山や川、野原や田畑などの守護者・・・
そこ(自然)に宿る命と言った方が良いのであろうか?
狐からは野山を駈ける風を感じることができた。
木の葉を揺らし、地面に優しい木漏れ日を演出するような、とても穏やかで心地の好い感覚を得ることができる。
自然の力強さ、寛大さが心を通り過ぎていった。

2012年7月7日土曜日

追憶 137

実際、多くの人が思いの力によって苦しみを受けている。
ほとんどの苦しみが思いによるものであると言っても過言ではないであろう。
思いが存在しなければ苦しみを生み出すことも、それを受け取ることもないのである。
そして、苦しみを抱えているすべての霊は、破滅的な思いの力によって傷付いていた。
その心に何らかの破滅的な感情を抱えているために苦しんでいるのである。
この狐に突き刺さる黒いものは外部からの刺激であるだろうが、それを受け取っている以上、抱えているということになるのである。
わたしは黒いものに触れる中で、それが所有する思いを感じることができたが、それは人が生み出した怒りや悲しみや苦しみ。
それに、自然の中の命が生み出した怒りや悲しみや苦しみであることを感覚的に認識することになる。
この狐は多くの人や命が生み出す破滅的な感情を抱えていたのである。

2012年7月6日金曜日

追憶 136

倒れている狐に近付くと、何やら黒く鋭く尖ったものがその胴体部に突き刺さっているのが確認できる。
それに射抜かれているがために弱っているのであろう。
わたしが今ここにいるのは、狐の胴体に突き刺さるものを取り除き、助けるためであるに違いない。
論理的にはそうであるだろうが、わたしはそのようなことも考えぬままにその黒い物体を掴んでいた。
それを掴んだ途端に全身に悪寒が走ったのを覚えている。
指先から頭の天辺に抜けるのは怒りや悲しみなどが入り交じったような感情であった。
それをうまく表現することは難しいが、その感情は凶器となり狐を襲っているようである。

意識的な世界では、感情などの思いは相当な力を持つ。
物質的な世界では形を持たない思いであっても、こっちの世界では立派な形を持っているのである。
思いの力を侮ることはできない。

2012年7月5日木曜日

追憶 135

暗闇に目を凝らすと見えてくるものがあった。
それは小さく黒い固まりであるように思える。
何かは分からないが、何か小さなものが暗闇の中にうずくまっているのだ。
わたしは足元を探るように小さな何かに恐る恐る近付いた。
すると、何やら小さなうめき声のようなものが聞こえてくるのに気が付いた。
それは犬が苦しい時に上げるクークーというような甲高い悲鳴であった。
その声を聞いた時に、わたしはそれを動物ではないかと考えた。
怪我でもしているのであろうか?
何らかの理由で動けないのは確かであろう。
わたしは用心しながら少しずつではあるものの、それに確実に近付いていった。
すると、そこには一匹の狐が倒れていた。
横倒しになっている狐は息が荒く、弱り果てていてとても苦しそうであった。
虫の息とはこのことであろう。


2012年7月4日水曜日

追憶 134

意識を合わせ直すと、見えてくる景色がいくらか違ってくる。
ハクの仕草の中にも今までとは違う意思が読み取れるようになった。
自らの「深さ」や思いの強さ、認識の角度によって見えてくるものは変わってくるものだと思った。
人生と同じである。
ハクの意思の中には無邪気さとは違う感情が確かに存在していた。
それは悲しみや焦りといった感情であった。
わたしはその感情にそっと意識を合わせてみた。
すると、違う場所に意識が向かう。
それは黒い場所であった。
何もないただの暗闇の空間。
そこには微かに苦しみの感情が漂っている。
ハクはわたしに何を見せようとしているのであろう?
この空間にはきっと何かが存在しているはずである。
わたしには認識することのできないなないかが。

2012年7月3日火曜日

追憶 133

わたしはある違和感を感じていた。
それは、このハクという狐がわたしに甘えていることに対してであった。
ハクはわたしに甘えているのであろうか?
甘えているように見えているだけであって、甘えているとは限らないのではないかという疑問が浮かんだのである。
わたしはハクの意思を正確に読み取れているだろうか?
意識的な存在からの言葉というものは音ではない。
それはまるでテレパシーのように直接的に意識に伝わってくる意識の会話である。
心の声を相手とやり取りするような不思議な感覚であった。
そのため、聴覚を頼りに今までを生きて来たわたしにとっては、意識的な存在との意識的な会話というものに不慣れであった。
わたしが聞いた「ハク」という名も、正解かどうかは正直なところ分からない。
わたしは今一度ハクに意識を合わせ、その意思をできる限り正確に読み取るように努めた。

2012年7月2日月曜日

追憶 132

ハクという狐は人懐っこかった。
人慣れしているというのだろうか?
狐にも野良や「飼い」というものがあるのだろうか?
わたしに興味を抱き、体を擦り寄せてくる様子を見ていると、とても野良だとは思えない。
このハクという狐は一体何がしたいのであろうか?
意識的な存在が何の目的も持たずに現れるはずがない。
わたしは今までの経験からそのように推測していた。
意識的な存在が現れた時、そこには必ず何らかの必要性が伴っていたからである。
それは大抵が何らかの問題を抱えていた。
このハクという狐は、路上の猫のようにただわたしに甘えているのではない。
そこには何らかの意図が存在しているはずなのである。
わたしは何かを疑っている訳ではない。
そこに存在しているであろう真意を知りたいだけなのだ。
回りくどい言い方、伝わらない意思は必要ない。
ただ求めているもの、伝えたいことを真っ直ぐにぶつけて欲しいだけなのである。

2012年7月1日日曜日

追憶 131

わたしの意識の先端はやがて一匹の獣を捕らえることになる。
それは白い毛並みが美しい狐(に見える獣)であった。
狐といっても自然界に存在している狐とは少し形が違っている。
狐は狐であるだろうが、自然界で生きるに相応しい姿はしていない。
何と言うか、アニメーションのようにのっぺりとした印象で現実味はあまり無いと言っても良いだろう。
神社に鎮座する稲荷像を思い浮かべることができる。
まるでアニメーションの世界の中から飛び出して来たかのように見える狐は、自らを「ハク」と名乗った。