それから、何度か金縛りに遭遇したが、あの女に巡り会うことはなかった。
いつか巡り会うことがあれば、その時は力になりたいものである。
瞑想は自らの内側に向かい、そこに、その先に存在している「大きな世界」へと続く扉を開くためのものである。
それは、自己の追求や発見と言えるだろう。
わたしたちの本質は意識ではないだろうか?
心こそが本質であるような気がするのである。
そして、その心はもっともっと大きな心に繋がっているように思える。
それをある人は神と呼び、ある人は仏と呼び、敬い崇めるのではないだろうか?
わたしの中には神や仏という概念は無かった。
宗教が教える神や仏という概念は、わたしにとっては不自然なもののように映ったのである。
わたしが求めるものはもっと自然的なものでり、「柔らかいもの」である気がしたのである。
だからわたしは瞑想を始め、自らの内側に向かったのである。
それは、自身の金縛りの体験に基づく選択だった。
実際に金縛りにあったことのある人ならば分かるかも知れないが、あれを肉体的疲労や脳だけ覚醒している状態だと定義するのにはかなりの無理がある。
それは、ホワイトをグレーと言っているようなものである。
似てはいるが、似て非なるものである。
両方を経験したわたしには、あのプレッシャーを脳や肉体が作り出せるとは到底思えない。
あれは明らかに外部からのものであったのである。
何度も金縛りの経験をしたわたしは、それを解決するための答えは争いには無く、また意識的な世界からのアプローチが必要なのではないかと強く思うのであった。
「問題」と同じ立場に存在することが大前提であると考えた。
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