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自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2012年3月15日木曜日

追憶 23

赤潮騒動をきっかけとして、わたしの中には北灘湾に対する特別な気持ちが芽生えていた。
それは、「北灘湾をきれいにしたい!」という強い気持ちであった。
赤潮に加えて、北灘湾にはゴミの存在が目立った。
ナイロン製品や空き缶やペットボトルなどが浮遊しているのである。
実際、漁業従事者のほとんどの人は、飲み終わったジュースの缶などをそのまま海に捨てていた。
わたしはそれがまたショックだった。
漁業従事者にとって海は仕事場であり、命ではないのか?
農家で例えるのならば、自らの畑や田んぼにゴミを捨てているようなものである。
わたしの家系はそんなことはしなかったが、海にゴミを捨てるという行為はその他の漁業従事者の中では常識として認識されていた。
もちろん、北灘という地区全体でそのような考えを持っている人はたくさんいた。
道端にはゴミが溢れていたからだ。
自然に囲まれ、自然に助けられて生きているにも関わらず、田舎の人間程その大切さや品格に欠けているのである。
わたしは絶対に毒されまいと心に決めた。
わたし独りでもゴミを拾おうと決心したのである。
それは北灘湾に対する罪滅ぼしであったし、自らの心に沸き起こる強い衝動でもあった。
海に出たその日から、わたしは独りでゴミを回収するようになった。

養殖漁業の仕事を始めてから、わたしには一つの悩みが生まれていた。
それは、腰痛であった。
高校生の時のぎっくり腰が始まりで、東京で働いてる時にバイクに乗っていて車にはねられた時に再発していたが、それ以降は治まっていた。
しかしながら、海の仕事を始めてからは腰の具合が芳(かんば)しくなかった。
きっと、力仕事による影響と睡眠不足によって引き起こされる症状である。
当時は昼間の養殖漁業の仕事に加えて、早朝3時からの鰯漁も同時にやっていた。
それも、日曜日以外はほぼ毎日である。
もちろん、日曜日にも午前中に少しだけ養殖漁業の仕事はあったし、夕方には月曜日の鰯漁の準備もしなければならなかった。
ハードな生活の中で単純に身体が悲鳴を上げていたのだと思う。

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