このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2012年3月31日土曜日

追憶 39

声を発しようとしてもそれが出来ない。
肉体は水圧によって潰されているかのようにピクリとも動かせなかった。
鼓膜は張り詰めるように膨張し、強烈なプレッシャーが心を襲った。
その時、わたしは窓を隔てた部屋の外に何かがいるのを感じていた。
激しいプレッシャーの中であるため、それが何であるのかを確認する余裕など持てなかった。
しかしながら、それは窓の外から確実にわたしのことを見ているのである。
すると、それは窓をすり抜けるように部屋に侵入して来た。
窓はわたしが眠っているベッドのすぐ横にある。
窓をすり抜けるように部屋に侵入して来た何かは、そのままわたしを観察するように頭上で静止した。
目を開けようとしても、びくともしなかった。
わたしの中には強烈な不安と恐怖心が生み出されようとしていた。
それを避けよと様々なことを試みたが、すべての感覚が否定されているために、小さな抵抗すらも叶わない。
わたしは完全にお手上げ状態だった。
その時、わたしの耳元に何かが近付いてくるのを感じた。

2012年3月30日金曜日

追憶 38

これは夢なのだろうか?
しかし、起きている感覚もある。
まるで肉体は寝ているにも関わらず、心は起きて自由に行動しているような感覚である。
幽体離脱というものだろうか?
わたしは疑問を抱えながらもその流れに身を任せることにした。
すると、目の前の映像が何時の間にかに消えていることに気が付いた。
それは余りにも自然であったために、何の違和感も無かったのである。
わたしは浅い眠りの中にいるような感覚に戻っていた。
その時にはもう、裏山からこちらに向かって来ていると思われるザワザワのことなどすっかりと忘れてしまっていた。
わたしが安心感の中で深い眠りに就こうとしたその時、わたしは強烈な違和感に襲われる。
それはほんの一瞬のことではあったが、何かが違うのである。
それが何かは分からないけれど、何かが違う。
わたしがその違和感を探ろうとした瞬間に、わたしは物凄い力でベッドに押さえ付けられた。

「な…に…!!!」

言葉にならなかった。
声として発音することすら出来なかった。
わたしは肉体のすべての自由を奪われてしまったようだった。


2012年3月29日木曜日

追憶 37

わたしが自らの問題を解決するためには、心や人格の歪みを正す必要があった。
それを実現させるためには、心や人格が存在している自らの内部に向かう必要がある。
そして、その副産物として生み出される意識的な視点はわたしを理想へと導いてくれる。
わたしにとってそれは一石二鳥であった。
確信は無かったが、腰痛が治るのと同時に霊の姿を捉えることが出来るのである。
わたしは来る日も来る日も瞑想と腰の治療と金縛りに会うように励んだ。
その成果もあって、金縛りには度々会うようになっていった。
もう一つ面白い金縛りを紹介しよう。

ある日、眠りに就いていたわたしは眠っているにも関わらず、外が騒がしいと考えていた。
感じていたのではなく、考えていたのである。
裏山の方向から何かザワザワとしたものが近付いて来ている。
わたしは自分が睡眠状態にあると分かっていた。
表現がおかしいが、自らが睡眠状態であるということがどういう訳か自身で客観的に理解することが出来るのである。
寝ぼけていたのとは違う。
なぜなら、自らが寝ている部屋の外の景色が頭の中に映し出されるのである。
記憶が脳内で紡がれたのとは違い、そこにはリアルな感覚があった。
月明かりだけが頼りなので怪しいところだが、裏山の方向を見ても特に変わったところは無いように思える。
何かザワザワとしたものがこちらに近付いて来ているような漠然とした感覚である。
しかしながら、そこには漠然とした不安感が存在していた。
裏山の方向から飛んで来ていると思われるザワザワの正体を知ろうとすると、言いようの無い不安が胸を締め付けた。

2012年3月28日水曜日

追憶 36

先天的にすべての人は霊や心などの意識的な存在を認識する能力を持っている。
しかしながら、多くの人が成長過程においてその能力を潰してしまう。
赤ちゃんや幼児が大人には見えないものを認識したり、相手の心を掴んですぐに友達関係を結ぶことが出来るのは、打算や引け目などの物質的な視点ではなく、意識的な視点によって世界や相手を捉えることが出来ているからであろう。
長く生きるに連れて、人は様々な欲望に支配され、やがては意識的な視点という先天的な能力を自らの選択によって潰してしまうのである。
それは、ある意味では自らの存在を否定し、歪めていると言えるのではないだろうか?
わたしは様々な欲望を抱えている。
そのほとんどが自己に向けられた利己的な欲望である。
そのため、わたしは幼い頃からたくさんの人を傷付けてきた。
様々な感情を爆発させてきた。
様々な悪事を働いてきた。
様々な人に迷惑を掛け、様々な人に愛想を尽かされた。
自らの心もたくさん傷付き、その人格は歪んでしまった。
わたしの中には改善しなければならない様々な問題が存在しているのである。
しかしながら、人は愚かなもので、どうしても乗り越えられないような大きな困難によって苦しめられなければ、自らの抱えている問題について考えようとはせず、ましてやそれを改善しようともしないのである。
そして、問題を先延ばしにして、どうしようもない状況へと自らを追い込んでしまうのだ。
わたしの腰痛という状況も、わたしにとっては自らの心の歪みが導き出した致命的な問題であったのである。

2012年3月27日火曜日

追憶 35

問題とは、自らの心や霊の破滅的な状態のことである。
心が破滅的な状態に傾くことは問題なのである。
霊にも心は存在している。
人と同じである。
破滅的な心は肉体に何らかの問題を引き起こす。
心は知らず知らずの内に破滅的な意思を受け入れてしまう。
それはある意味では、仕方のないことである。
人生の目的が成長にあるため、心は破滅的な方向に引っ張られる。
世界には、破滅的な要素が溢れているのである。
わたしが腰痛に悩まされているのも、自らの心に破滅的な方向性が存在しているからに違いないと考えるようになっていた。
腰痛という問題は、生活習慣の改善だけでは治らないと直感的に思ったのである。
わたしが自らの問題を解決するためには、様々な破滅的な要素を取り除く必要があるのである。

霊のことを理解することが、ひいては自らの人格や心を理解するきっかけとなるとわたしは考えたのである。
自らの内側に向かって行くという行為が、自らの認識を物質のレベルから意識のレベルにまで押し上げる。
自らの内側を知るという行為は、その副産物として同じ意識というレベルである霊に対する認識を生み出してしまうのである。
それは、心に触れようとするからである。

2012年3月26日月曜日

追憶 34

それから、何度か金縛りに遭遇したが、あの女に巡り会うことはなかった。
いつか巡り会うことがあれば、その時は力になりたいものである。

瞑想は自らの内側に向かい、そこに、その先に存在している「大きな世界」へと続く扉を開くためのものである。
それは、自己の追求や発見と言えるだろう。
わたしたちの本質は意識ではないだろうか?
心こそが本質であるような気がするのである。
そして、その心はもっともっと大きな心に繋がっているように思える。
それをある人は神と呼び、ある人は仏と呼び、敬い崇めるのではないだろうか?
わたしの中には神や仏という概念は無かった。
宗教が教える神や仏という概念は、わたしにとっては不自然なもののように映ったのである。
わたしが求めるものはもっと自然的なものでり、「柔らかいもの」である気がしたのである。
だからわたしは瞑想を始め、自らの内側に向かったのである。
それは、自身の金縛りの体験に基づく選択だった。
実際に金縛りにあったことのある人ならば分かるかも知れないが、あれを肉体的疲労や脳だけ覚醒している状態だと定義するのにはかなりの無理がある。
それは、ホワイトをグレーと言っているようなものである。
似てはいるが、似て非なるものである。
両方を経験したわたしには、あのプレッシャーを脳や肉体が作り出せるとは到底思えない。
あれは明らかに外部からのものであったのである。
何度も金縛りの経験をしたわたしは、それを解決するための答えは争いには無く、また意識的な世界からのアプローチが必要なのではないかと強く思うのであった。
「問題」と同じ立場に存在することが大前提であると考えた。

2012年3月25日日曜日

追憶 33

拳が立てた鈍い音は、掛け布団に拳がめり込んだものだった。
その瞬間に目が開いた。
そして、何時の間にかに金縛りは解けていたのだった。
わたしは乱れる呼吸と激しい喉の渇きを覚えていた。
部屋の中は消灯しているために真っ暗だった。
辺りを見渡したが女の姿はどこにも確認することは出来なかった。
既に気配も感じない。
去って行ったのだろうか?
わたしは全身が気怠(だる)いと感じていた。
いくらか頭痛も感じる。
それに軽くではあるが、鳥肌がまるで砂浜に打ち寄せる波のように何度も肌を触っている。
不思議である。
わたしは金縛りというものを体験したのはこれが始めてだった。
振り返ると少々の怖さはあったけれど、全体的に怖さよりも苛立ちの方が強かったように思える。
金縛りというものを体験する前には、わたしの中には様々な憶測があった。
しかしながら、実際に体験してみると想像していたものとはずいぶんと違うものであるという感想を持った。
わたしが苛立ったのはきっと、女の力になれなかった自分自身の不甲斐なさに対してではないだろうか?
押さえ付けられることに対する不満もあったが、それは表面的な理由であるような気がする。
わたしは去って行った女の行方が気になっていた。
傷付けてしまったのではないかと考えていた。

2012年3月24日土曜日

追憶 32

激しいプレッシャーの中でわたしは意識を集中した。
しかしながら、それは簡単なことではなかった。
なぜなら、ずっと押さえ付けられると言うか、落下していると言うか、そういう感覚の中にいたからである。
ジェットコースターで読書をするようなものだろうか?
とにかくそのような状況で集中するのは困難を極めた。
その間にも女は耳元で何かを訴えている。
女の吐息が耳に触れる。
わたしの全身は激しく泡立った。
心の中には不満が充満し、今にも爆発しそうであった。
理不尽に自由を奪われることは辛いことだと思った。

激しいプレッシャーの中でも少しずつ意識が右手の小指の指先に集まり始めた。
わたしはそれが掻き消されないように守りながら大切に育てた。
小指から薬指、中指から人差し指、そして親指にまで意識が行き渡った。
指が僅かではあるが、動く感覚があった。
わたしはそれを見失わないように更に集中を高めた。
わたしの集中が高まるに連れて、金縛りのプレッシャーが弱まっているように感じる。
ほんの僅かではあるが、そう感じることが出来た。
女が明らかに動揺しているのを感じる。
わたしは隙を伺っていた。
すると、一瞬ではあるがその隙が「見えた」気がした。
わたしは一気に右の拳を握り締め、女に向けて力一杯に放った。
拳は鈍い音を立てた。

2012年3月23日金曜日

追憶 31

女は小さく「ア゛ッア゛ア゛ ッア゛…」という具合に、しゃがれた声で何かを懸命に訴えようとしているようだった。
なんとなくそう感じる。
口がガクガクと震え、そこから言葉にならない声が漏れている。
しかしながら、わたしには女の訴えようとしていることを理解することは出来なかった。
すると、女はわたしに倒れ込むように覆いかぶさってきた。
わたしを押さえ付けるプレッシャーは一段と強くなっていった。
耳元で同じように何かを訴えてくる。
しかし、それでも全く分からなかった。
わたしには女の訴えを理解するまでの余裕が無かった。
わたしを押さえ付けるプレッシャーはとても強く、恐怖心まで生まれてくる。
そのような状況で女の訴えを理解することなどわたしには不可能だった。
その時、わたしの心の中に新たな感情が芽生えてきた。
それは「怒り」であった。
きっと、プレッシャーに対して精神が限界に達してしまったのだろう。
心の中に芽生えた怒りの感情は、心の防衛策だったのではないかと思う。
わたしの中の恐怖心は一転して怒りに変わった。
わたしは押さえ付けられていることにとてつもなく腹が立った。

「何でわたしが女に押さえ付けられなければならない!こっちは男だぞ‼」

わたしは単純にそう思った。
わたしは無性に腹が立って、「腹の上からどかないのなら殴ってやる!」と心の中で強く思った。
わたしの思いが女に通じると思ったからである。
しかしながら、女がわたしの上から動く気配は無かった。
わたしはまた腹が立った。

「仕方ない、一発殴ってやる!」

そう意気込んだ。
そして、この強烈な金縛りを解く方法を考えた。
わたしの中に直感的に浮かんだ考えは、右の拳に意識を集中するというものだった。
右の拳だけに意識を集中すれば、女の金縛りにも勝るのではないかと真剣に思った。
わたしは早速、右の拳に意識の集中を始めた。

2012年3月22日木曜日

追憶 30

わたしは目を開けることすら出来なかった。
彼女だという安心感から、わたしは状況に対して完全に油断していた。
しかしながら、「こいつ」は彼女なんかではない。
何か得体の知れないものが、彼女に成りすましているのだろう。
その変化の大きさにわたしはなす術が無く動揺し、その流れに沿うことしか出来なかった。
全身がぎゅっと圧縮されるようなとても強いプレッシャーが襲う。
不思議なことに、わたしは目を閉じているのだけれど、女の姿は見ているのである。
しかも、わたしは女を正面に捉えていた。
まるで馬乗りになられているような状態である。
例え今の状態で目を開けたとしても真横を向いているため、視野の範囲で女を捉えることは難しいと思われる。
だいたい、正面で捉えているということを説明することが出来なかった。
まるで、映像が頭の中に流れ込んでくるようである。
目は閉じているので、そうとしか考えられなかった。
黒い影が体をもたげた時に、それは女だと分かった。
異常に多い黒髪が女の全身を包むように生えている。
その隙間からチラチラと顔が覗くが、わたしの全く知らない顔だった。
この女が彼女では無いことは証明された。
わたしはどうにかこの状況を脱したいと思い、身体をどうにか動かそうと足掻いていたが、焦れば焦る程に状況は悪化しているように思われた。

2012年3月21日水曜日

追憶 29

わたしは驚いた。
彼女の行動は物理的に有り得ないのである。
ベッドまでは1m近くの高さがある。
そこに上がるのにベッドに触れることもなく飛び乗ることは不可能である。
それに、着地の衝撃もなくベッドの上に立っていることなど有り得ない。
物理的におかしなものを見ると、人は恐怖を覚えるか、思考が停止する。
わたしの場合は思考が停止するに近かった。
頭はどうにかその不自然に対する矛盾を取り除こうと努めていた。
鼓膜が膨張するようにボーと大きな音を立てた。
それは飛行機や電車に乗っている時に気圧の変化によって耳が痛くなるのと似ているように思える。
その時、わたしは彼女は「人間」ではないと思い始めていた。
(夢の中にいるような感覚なので、危機感などは基本的に薄い)
すると、その瞬間に全身に何倍もの重力が一気にのし掛かるような感覚があり、わたしはまるでベッドに引きずり込まれるような感覚に襲われた。
まるで暗闇の穴に落ちているようである。
わたしは精一杯の努力をしたが、身体のどの部分も動かすことは出来なかった。
わたしは何かに完全に押し潰されてしまっていたのである。
耳が高音によって引き裂かれるようだ。
わたしは恐怖心というプレッシャーを全身全霊で受け止めていた。
すると、彼女は横向きに寝るわたしの身体を踏まないようにベッドの上で円を描くように歩き始めた。
ギシギシとベッドが音を立てる。
わたしの身体を踏まないように彼女は器用に歩く。
激しい緊張感と恐怖心と重みと耳鳴りの中で、わたしはこれが金縛りというものだろうか?と考えていた。
すると、わたしの考えを読んでいるかのように、黒い影が更に強いプレッシャーと共にわたしに覆いかぶさってきた。
わたしはそれを尋常ではないと感じた。
黒い影はわたしに張り付くようにしていたが、ゆっくりと頭をもたげ始めた。

2012年3月20日火曜日

追憶 28

正門を通り過ぎた足音は納屋に入り、その先にあるわたしの部屋の扉の前に立った。
この時、どういう訳かわたしはそれが当時お付き合いをさせてもらっていた彼女だと思った。
わたしの頭の中では、彼女と遊ぶ約束をしていたけれど出迎えることが出来なかった…と勝手に思考がそのような物語を紡いでいた。
彼女は部屋の扉の前に立っている。
しかしながら、立ち尽くしたままで一向に入ってくる気配がない。
わたしは寝ぼけた頭で「入ってくれば良いのに…」などと考えていた。
すると、次の瞬間に彼女は部屋の中にいた。
わたしは彼女が部屋の扉に触れていないことに気が付いたのは、それから随分後のことであった。
彼女は部屋の扉も開けずに部屋の中に進入して来た。
それだけで十分おかしな状況ではあるが、わたしの頭はそれを不自然だとは認識しなかった。
彼女は円を描くように部屋の中を歩いた。
わたしの頭の位置だと、彼女のお腹から胸の辺りがちょうど目線と同じくらいの高さになる。
「何やってんだろう?」わたしは彼女の行動に素直にそう思った。
普通ならわたしが寝ている横で部屋の中を歩き回らないだろう。
普通ならわたしのことを起こそうとするはずである。
しかしながら、彼女は何度も繰り返して円を描くように歩き回った。
それでもわたしはそれを変だとは思わなかった。
むしろ、わたしは起こされるのを期待しているところがあった。
しかしながら、彼女は一向にわたしを起こす気配がない。
そこでわたしは始めて極小さな違和感を覚えた。
「あれ?何か普通じゃないな?彼女じゃないのか?」そう思い始めた瞬間に、彼女はベッドの上にいた。


2012年3月19日月曜日

追憶 27

わたしは自らの内側に「心の目」を探し出し、それを鍛えて自由に扱うことを決心した。
わたしはとにかく様々な方法を試そうと思った。
要は霊を捉えることが出来れば良い訳である。
成すべきことは単純である。
その日からわたしは霊を捉えようと奮起した。
就寝前には必ず「金縛りに会いますように」「お化けちゃん、わたしに会いにおいで」などと心の中で何度も何度も繰り返して唱えながら眠りに就いたものである。
そうすると面白いもので、わたしは幾度となく金縛りに遭遇するようになった。

寝ている最中に感覚だけが目覚めるような感覚がある。
それはまるで浅い眠りを彷徨っているようだった。
眠っている時の感覚と同時に、起きている時と同じように周りの雰囲気を感じているような不思議な感覚である。
その時はなぜか、感覚が高校時代の自分であった。
わたしはその感覚を懐かしいと感じていた。
現在の感覚を持ちつつ、高校生の自分の感覚を持っていた。
それもまた不思議な感覚であった。
わたしが眠っている部屋は、高校時代と同じ場所である。
家は中庭を囲むように建物がコの字に建てられている。
わたしが眠っている部屋は、道路に面した納屋と車庫が一体となった建物の一角にある。
そして、わたしが眠っているベッドの真横には正門があった。
わたしが使っているベッドは下に収納スペースを確保するために1m程の高さが設けられたタイプである。
だから、誰かが訪ねて来るとわたしの枕は部屋の真横を通る人の目線と同じくらいの高さになるために、息遣いや足音などですぐにその存在を確認することが出来た。
その日、高校生だったわたしは、誰かが訪ねて来たことを眠っている状態で感じていた。
その人は道路から敷地に入り、部屋に沿うように正門へと向かってきた。

2012年3月18日日曜日

追憶 26

わたしの興味は心霊に向けられていた。
それはわたしの興味を物質から意識。
頭(思考)から胸(心)。
外側から内側。
常識から非常識。
既知から未知。
肉体から魂へと変化させていったのであった。
わたしは相変わらず腰痛を抱えながら仕事を続けていたが、その中で心霊に対する興味は強くなる一方であった。
わたしは宗教や仏教などに興味はなかった。
あれは不自然であると思うからである。
わたしが興味をそそられるものは、もっと自然的で、もっと「柔らかいもの」なのであった。
宗教が神と呼ぶものは実際に見たことが無いので信じないが、何か大きなものがこの世界と自らの中に存在しているのではないかと感じることはあった。
それは宗教が言う神であるかも知れないが、自分自身で確認したことではないので信じることが出来なかったのである。
わたしの中と外の世界に存在している得体の知れない何か大きなものの存在…
それがわたしの中に何かモヤモヤとしたものを残していた。
わたしはそれを自分自身の目で、耳で、肌で、何より心で感じたいと強く思った。
わたしの中のモヤモヤした気持ちを定義したかったのである。
そのためには、眼球では捉えられないものを捉える必要性を感じていた。
それを実現させるためには、「心の目」を鍛えなければならないと思った。
惑星を捉えるのならば天体望遠鏡。
微生物を捉えるのならば顕微鏡。
心霊や神と呼ばれるものを捉えるのならば、それと同質だと思われる「心の目」が必要なのではないかと考えたのである。
それはツール的な感覚だった。
しかしながら、そんなものを確信している訳ではない。
もしも「心の目」が実際に存在したとしても、だいたい、それがどこに在るのか?どうやれば扱うことが出来るのか? そんなことは全く分からなかったのである。

2012年3月17日土曜日

追憶 25

色々と治療法を模索する中で、腰痛に関しては自らの力によって治さなければならないのではないかと考えるようになっていた。
なぜだか外には答えがないと思ったのである。
わたしはどうすれば自分自身の力によって腰痛を治すことが出来るのか?その答えを懸命に探した。
その時のわたしは「自分で治す」という考え以外は持てなかった。
一度決めたことは曲げられないのが玉に瑕(きず)である。
頑固である。

寝たきり状態になっている時、わたしはただ寝ているのも退屈なので携帯電話でネットをくぐったり、寝たままで読書をしたりしていた。
そこで読み漁っていたのは主に怖い話だった。
わたしの本棚には怖い話の本がたくさんあった。
それは愛媛に帰って来てから少しずつ買い溜めたものである。
わたしは心霊体験の体験談が記載されているサイトや書籍を求めた。
療養中のわたしには、怖い話を読んでゾクゾクすることが娯楽となっていた。
そして、ある時からわたしの中には

「怖い話の中にあるような体験をわたしもしてみたい」

そう思う心が育っていた。
わたしの中には、「腰痛は自分自身の力によって治さなければならない」という考えと、「心霊体験を実際にしてみたい」という全く以て交わることのない二つの考えが同時進行で道を急いでいたのであった。

2012年3月16日金曜日

追憶 24

腰痛はわたしの気持ちをあざ笑うように徐々にその症状を悪化させているように思えた。
それは違和感から始まったが、今では常に右脚が痺れている。
立っていても、座っていても、寝ていても常に痛みと痺れが襲ってくるのである。
その痛みは激しく、同じ体制を一分として続けていられなかった。
そのような状態でもわたしは我慢しながら同じように仕事は続けていた。
仕事をしていれば何時の間にかに治っているだろうと安易に考えていたのである。
しかしながら、そのような甘い考えが通じるような相手ではなかった。
二ヶ月に一度猛烈な痛みが襲うようになり、立っていることが出来なくなって仕事中でもその場に倒れ込んで動けなくなる程だった。
倒れ込んでも寝返りも出来ない程の痛みだった。
一週間寝込んで動けるようになっては働き、二ヶ月後にはまた倒れ込んで寝込む。
このようなサイクルを何度も何度も繰り返していた。
腰が痛ければ仕事にならない。
生活すらまともに出来ないのである。
それは命を所有するわたしにとっては、死よりも悔しいことのように思えた。
何とかしてこのもどかしい状態から抜け出したかったのである。
わたしは思い付く治療を片っ端から探っていった。
しかしながら、手術という選択肢は除外した。
そのような治し方では意味がないと思えたからである。
医者も鍼灸師も、整体師も霊能者?もわたしの腰痛を取り去ることは出来なかった。
わたしは頭を抱えた。
誰もわたしの期待する結果を導いてはくれなかった。

2012年3月15日木曜日

追憶 23

赤潮騒動をきっかけとして、わたしの中には北灘湾に対する特別な気持ちが芽生えていた。
それは、「北灘湾をきれいにしたい!」という強い気持ちであった。
赤潮に加えて、北灘湾にはゴミの存在が目立った。
ナイロン製品や空き缶やペットボトルなどが浮遊しているのである。
実際、漁業従事者のほとんどの人は、飲み終わったジュースの缶などをそのまま海に捨てていた。
わたしはそれがまたショックだった。
漁業従事者にとって海は仕事場であり、命ではないのか?
農家で例えるのならば、自らの畑や田んぼにゴミを捨てているようなものである。
わたしの家系はそんなことはしなかったが、海にゴミを捨てるという行為はその他の漁業従事者の中では常識として認識されていた。
もちろん、北灘という地区全体でそのような考えを持っている人はたくさんいた。
道端にはゴミが溢れていたからだ。
自然に囲まれ、自然に助けられて生きているにも関わらず、田舎の人間程その大切さや品格に欠けているのである。
わたしは絶対に毒されまいと心に決めた。
わたし独りでもゴミを拾おうと決心したのである。
それは北灘湾に対する罪滅ぼしであったし、自らの心に沸き起こる強い衝動でもあった。
海に出たその日から、わたしは独りでゴミを回収するようになった。

養殖漁業の仕事を始めてから、わたしには一つの悩みが生まれていた。
それは、腰痛であった。
高校生の時のぎっくり腰が始まりで、東京で働いてる時にバイクに乗っていて車にはねられた時に再発していたが、それ以降は治まっていた。
しかしながら、海の仕事を始めてからは腰の具合が芳(かんば)しくなかった。
きっと、力仕事による影響と睡眠不足によって引き起こされる症状である。
当時は昼間の養殖漁業の仕事に加えて、早朝3時からの鰯漁も同時にやっていた。
それも、日曜日以外はほぼ毎日である。
もちろん、日曜日にも午前中に少しだけ養殖漁業の仕事はあったし、夕方には月曜日の鰯漁の準備もしなければならなかった。
ハードな生活の中で単純に身体が悲鳴を上げていたのだと思う。

2012年3月14日水曜日

追憶 22

わたしは東京から帰って間もなかったし、まだ養殖漁業の仕事をする頭に切り替わってはいなかったが、緊急事態であるためにロープの結び方もうろ覚えな状態で父が運転する船に乗って沖を目指した。
他のたくさんの船も同じように沖を目指していた。
船は水面を切るように進む。
その時に濃度の濃い赤潮はバタバタと音を立てて水面を叩く。
それはまるで濡れタオルで水面を叩いているような音であった。
それにエンジン音が加わると何しろうるさくて、まともに会話をしようとは思えなかった。
漁場に到着すると、多くの船が既に作業を開始していた。
少しでも水深があり、少しでも赤潮の濃度の薄い場所に養殖筏を移動させようというのである。
養殖筏は、10〜12m四方の大小様々な鉄の枠に金網やポリエステル製の網を張り、その中で魚を飼育している。
それが流されないように一つに連結させ、更には八方に錨(いかり)を打ち込んでいる。
養殖筏を移動させるためには、すべての錨を回収し、筏と筏との連結を解除しなければならなかった。
それはかなり大変なことであった。
話を聞くと赤潮の影響で魚が死んだそうだ。
それでこの騒ぎなのである。
わたしたちは現時点において自分のところに被害が無さそうだったので、既に筏を移動する作業に入っている人たちのことを手伝うことにした。
そして、何とか移動作業を終えて魚を殺すこと無く赤潮を無事に乗り切ることが出来たのである。
わたしは赤潮騒動を機に、養殖漁業の仕事をしようと頭を切り替えたのである。

2012年3月13日火曜日

追憶 21

赤潮は魚を殺してしまう。
プランクトンの濃度が上がると、海水は糊のようにベトベトになる。
そして、大量発生したプランクトンは寿命?と酸素を使い果たして死んでいく。
その時に魚を飼育する筏(いかだ)があれば、酸素を失った魚たちはたちまちの内に酸欠になって死んでしまうのである。
それに、高濃度のプランクトンがエラに詰まって直接的に窒息もする。
わたしが東京で暮らしている頃に、高濃度の赤潮が発生して北灘湾のブリやシマアジなどに加えて、真鯛などの養殖魚が大量に死んだことがあった。
わたしは母親から電話で軽く聞いただけだったが、わたしの家もかなりの損害(うん千万円)があったらしい。
その時は実際に海の状態を見た訳では無かったので実感が湧かなかったが、赤潮を目の当たりにするとその凄さが実感として伝わってくる。
とにかく衝撃的であったし、悲しかった。
赤潮は水温が20度を超えるような初夏から秋口(6〜9月)にかけて発生する。
わだつみ祭りは7月20日である。
赤潮が発生する条件は整っていた。

7月20日、祭り当時。
よく晴れた日だった。
今日も気温が上昇するだろうなどと予想していた。
気温が高い程、赤潮は濃度を高めるように思えた。
わたしは魚たちのことが心配だった。
すると、案の定、赤潮が濃くなると今の筏の場所では魚にとって危険だということになり、水深の少しでも深い沖合に移動することになった。
そのため、わだつみ祭りは中止となった。


2012年3月12日月曜日

追憶 20

北灘地区は海と山には挟まれた土地であり、一本の道路が海と山を隔てるように全体を貫いている。
その道路を挟むように住宅が連なっている。
もちろん、山に向かって内陸もあるが、ほとんどの生活が海岸に寄り添うようであった。
わたしの家は道路を隔てた山側に位置していた。
わたしは道路を横断すると、道路を隔てたすぐ先にある作業場へと向かった。
道路から作業場へと向かう途中で、派手な色がわたしの心に飛び込んできた。
それはたくさんの大漁旗や登りであった。
養殖漁業に使う10tの本船に飾り付けられたものであった。
わたしはそれを嬉しく思って駆け寄った。
潮の匂いが微かに鼻腔(びこう)を刺激するのがまた嬉しかった。
しかしながら、わたしはすぐさまその喜びを手放さなければならなくなる。
それは、わたしが海を見てしまったからであった。
海が赤いのである。
赤というよりは茶褐色に近く、とにかく海水が海水ではなくなっていたのである。
所謂、赤潮である。
赤潮はプランクトンの大量発生が原因で引き起こされる現象である。
海に栄養があり過ぎるとそれを餌としてプランクトンが増える。
養殖漁業によって海の環境が変わってしまったのだ。
そもそも、何十万匹という魚の数である。
そこに投入される飼料。
そして、魚が排出する糞尿。
海には栄養が腐るほど存在することになるのは必至なのである。
それに、海が消化しきれなかった飼料や糞尿が海底に降り積もり、ドブの山を築いているのである。
その影響か海藻は激減し、魚の種類も減った。
それに加えて、潮干狩りによる貝類の搾取が水質に更なる影響を与えていた。
結局は、人間の欲望が導き出した結果である。
自然はいつも人の欲望に傷付けられている。
わたしはそれに強い衝撃を受けた。
ショックだった。
わたしはその場に立ち尽くしてしまい、お祭り気分で喜んでいる場合ではなかった。
とても悲しかった。
北灘湾が泣いているように思えた。
わたしは北灘湾に対して、人の罪を贖(あがな)わなければならないと強く感じた。


2012年3月11日日曜日

追憶 19

愛媛に帰ったなら、家業である養殖漁業の仕事をしなければならないと考えていた。
父親が一人で切り盛りしているため、少しでも力になれると思ったし、自然に触れる仕事がしたかったのである。
わたしが生まれ育った北灘という地区は、北灘湾という湾を取り囲むように人の生活がある。
古くは鰯漁が盛んだった漁村である。
1950年代には真珠養殖が始まり、その後ブリや真鯛などの海面漁業が盛んになった。
わたしの家も祖父の代からその流れに沿ってきた。
鰯漁も、真珠養殖も、真鯛養殖も生業とした。
わたしには真珠養殖の記憶は無いものの、鰯漁と真鯛養殖は継続していた。
わたしはそれを手伝わなければならないと考えていたのである。
わたしが帰ったのは7月の頭。
20日には北灘湾に感謝を捧げる「わだつみ祭り(20日祭り)」がある。
鰯漁を生業として来た網主と呼ばれる人たちの祭りで、大漁旗や登りを立てた漁船に神輿を乗せて湾内を巡る。
そして、神輿を海に投げ込んだ後、陸に上げて祝詞と感謝を捧げる。
わたしの家も鰯漁を生業として来た網主であるため、わだつみ祭りには深い関わりと思い出があった。
わたしが帰った年はたまたまわたしの家がわだつみ祭りの当番なっていた。
わたしが12歳の時に当たってから、9年ぶりの担当である。
わたしはそれを知らずにいたため、実家に帰ってそれを知った時には懐かしさと嬉しさが込み上げてきたものである。
わたしは海を見たくなった。
小学生の頃は祖父と父と兄と弟と共によく海に出ていた。
鰯漁や養殖の仕事に付き添って行ったものである。
中学生になると、部活やらで海に出ることも海に対する関心も無くなっていた。
だから久々に北灘の海を感じたくなったのである。
昔の心に触れるようで楽しみであった。

2012年3月10日土曜日

追憶 18

瀬戸大橋に入った瞬間に、わたしは全身を包み込んでくる温もりを感じた。
明らかに空気が違うのである。
海上に出たから気温に差があるのであろうか?
きっと海水の温度によって橋は陸地に比べて暖かいのだろう。
しかしながら、わたしはそれだけではないような気がしていた。
わたしは四国大陸がわたしのことを受け入れてくれているような気がしていた。
歓迎してくれているような感覚である。
どうしてそう感じたのかは分からなかったが、純粋にそう思ったのである。
わたしの中にあった恐怖心は何時の間にかに消え去っていた。
今は温かい気持ちで一杯である。
わたしは嬉しさに満たされながら瀬戸大橋を渡り切った。
香川県に上陸すると、「よく戻った…」そう聞こえた気がした。
勘違いかも知れないが、小さくそう聞こえた。
わたしの心は更に嬉しさを増し「ただいま!ありがとう!!」などと叫んでいた。
フルフェイスのヘルメットの内部に声が反響し、耳が痛かった。
しかしながら、それがとても楽しかった。
それから何度も「ありがとう!」などと叫び、一人で笑っていた。
今になって考えると変である。
わたしはその足で西条市に住む友人宅に一泊し、それから故郷である宇和島市に帰ったのである。

2012年3月9日金曜日

追憶 17

それは気持ちの問題であった。
このまま走行して瀬戸大橋を望むよりも、一旦気持ちを切り替えてから再会を果したかったのである。
わたしは新たに気持ちを作ってバイクに股がった。
車はほとんど走っていなかった。
ガソリンタンクをポンポンと軽く叩き、「頼んだぞ」とバイクを本線に乗せた。
しばらく走ると、空に赤や緑の光が滲んでいるのが見えた。
それは闇夜に主塔を浮かび上がらせるための警告灯であった。
わたしはいよいよ瀬戸大橋に辿り着くのだと気持ちが高ぶっていた。
しかしながら、肉体は夜風の寒さに震えていた。
全身に寒さを感じながら進む。
前方にはわたしを誘い込むようにオレンジ色の街灯に照らされて浮き上がる瀬戸大橋があった。
わたしは感動した。
主塔から伸びるいくつものワイヤーが、わたしを幼い頃の自分に引き戻すようだった。
しかしながら、感動の奥に軽い恐怖感が存在していることに気付いた。
この感覚は何なのであろう。
今からわたしは空に放り出されて闇の隙間を彷徨い、やがては暗い海へ沈むのではないかと思うのであった。
橋に近付くに連れて、感動よりも恐怖心が大きくなっていく。
胸が激しく鼓動していた。
わたしは恐怖心を振り切るようにアクセルを開いた。
マフラーがパラパラと乾いた音を上げる。
夜風がまた少し寒くなった。
わたしはスピードを引き連れて瀬戸大橋に突入した。

2012年3月8日木曜日

追憶 16

すると男は

「じゃあ、1000円にしとくわ」

おもむろにそう言って何か別の作業を開始した。
わたしはもっと支払いたかったが、指定された金額でなければ男は受け取らないだろうと思い、指定された金額を男に渡した。

「まいど!」

男はどこか嬉しそうだった。
それを見て、わたしも嬉しかった。
わたしはお礼もそこそこにバイク屋を後にした。
それから数日間、わたしは友人にお世話になり、ようやく愛媛に向けて出発したのであった。

大阪を出発し、山陽自動車道を通って岡山県に入った。
大阪を出発した時間が遅かったため、倉敷市に到着する頃には辺りは夜が支配していた。
夏とは言え、夜の山陽道はとても寒く感じられた。
何しろ、スネに感じるエンジンの温もりをとても愛おしく感じる程だったからである。
わたしはこの旅の目的の一つに「瀬戸大橋を渡る」という目標があった。
それは、幼い頃に家族で行った記憶がわたしにそうさせるのであった。
親元を離れて少しは成長したであろう、今のわたしの感覚で再びその空気を感じたかったのである。
道を進んでいると、瀬戸大橋を知らせる看板が目に入った。
わたしの胸は小さく高鳴った。
それはまるで、クリスマスの夜にサンタクロースやプレゼントを待ちわびる子どものような気持ちであった。
わたしは瀬戸大橋が視界に入る前に、路肩にバイクを停めた。

2012年3月7日水曜日

追憶 15

わたしは是非ともそれを交換してくれと頼んだ。
しかしながら、男はなぜか険しい表情を浮かべていた。

「どうかしましたか?」

気になってわたしが聞くと、男は多少恥ずかしそうに口を開いた。

「あのな、実はこのパーツはウチにはないねんな。それで、ここからちょっと行った所に大きなバイク屋があるんやけど、そこなら置いてると思うねん…買って来てくれへんかなぁ?」

わたしは「近くにバイク屋あったのかよ!しかも大きいのかよ!」と思っていた。

「分かりました。行ってきます」

「じゃあ、頼むわ」

男はわたしにメモを持たせて見送った。
メモにはブレーキパッドの品番が書かれていた。

歩いて10分もしない内に目的のバイク屋に到着した。
近い…
しかも、大きい…
わたしはため息を吐いて店内へ潜り込んだ。
店員にメモを見せると、それに相応しいものをすぐに手渡してくれた。
わたしは代金を支払い、急いで男の待つ小さなバイク屋へと向かった。
バイク屋に到着すると、早速手に入れたブレーキパッドを手渡した。
男はわたしに丁寧に説明しながら作業を見せてくれた。
そして、順調に作業が終わった。
わたしは男に代金を尋ねた。
すると男は代金は必要ないと言う。
旅行の餞別(せんべつ)らしかった。
わたしは困った。
ここまでお世話になっておいて、お礼もしないなんてとても気持ちの悪いことだと思った。
わたしはしつこく代金を尋ねた。

2012年3月6日火曜日

追憶 14

わたしは彼の鋭い目つきと温厚な眼差しとのギャップに、どういう訳か何らかの期待を感じていた。
なぜか、このオイルに塗(まみ)れた男が信頼に値すると直感的に感じたのだった。
それは、不思議な感覚だった。
わたしは男にバイクの不備を説明した。
すると、すぐにバイクを持ってこいと言うので、わたしは急いで友人のアパートへと戻り、バイク屋までバイクを運んだ。
わたしのバイクは赤いバイクの隣に並んだ。
男はわたしのバイクを軽く?診断すると、何かを含んだ感じで頷いている。

「どうですか?」

業を煮やして男に尋ねた。
すると、男は言った。

「これは配線がショートしてるな!これ見てみぃ。配線が潰れてしもてるやろ?これじゃあかんで!」

男はそう言って、フェンダー(後部の泥除け)の裏を覗き込んで指差した。
わたしも男の動きに合わせるように、男が指差す先を覗き込んだ。
男はウィンカーの配線を止めていた部分の締め付けが強過ぎだと丁寧に説明してくれた。
これはわたしの仕事であった。
バイクの部品を交換してカスタムする時に念入りに締めた所が強過ぎたようである。

「こんなもんはすぐに直るから待っといて」

そう言って男は早速作業に入った。

「じゃあ、お願いします」

わたしは彼にそう告げると、店内で待たせてもらうことにした。
男は意外に話し好きなようで、いろいろ聞かれた。
その中でわたしは埼玉から愛媛に帰郷する途中であることを話した。

「そういうことなら勉強(安く)しとくわ!」

彼は楽しそうに話していた。

ウィンカーの修理が終わると、男はわたしのバイクを一通り診断し始めた。
そして、一つの重要な問題に気が付いたようだった。
それは、前輪のブレーキパッドの消耗具合いだった。
わたしのバイクはディスクブレーキという方式である。
タイヤに連動して回転するディスクと呼ばれる鉄の円盤を、金属製のヤスリのようなパッドで挟んで止めるというものだ。
250CC以下のバイクには車検が無いため、気にしてはいなかったが、男に言わせると既に交換の目安は過ぎているということであった。
ブレーキパッドが消耗して薄くなれば、ブレーキの性能は下がる。
最悪の場合はブレーキが効かなくなるだろう。
男はわたしにブレーキパッドの交換を勧めた。

2012年3月5日月曜日

追憶 13

翌日、友人を仕事に見送るとわたしは早速バイク屋を探して近所を散策した。
すると、歩いて5分くらいの場所に小さなバイク屋を発見することが出来た。
小さなバイク屋は、割と大きな通りに面し、バイクの修理を主体として、中古のスクーターを販売しているようであった。
歩道には、スクーターやゴミ?のようなパーツの残骸が無造作に迫り出している。
わたしはその光景を見て「ここのバイク屋で大丈夫か?」と思った。
しかしながら、他にバイク屋も見当たらなかったので、意を決して訪ねてみることにした。

狭い空間に道具やらパーツやらが乱雑に積み上げられている。
一台の赤いバイクがピットに入っていたが、それが瓦礫の中に咲く一輪の花のように見えた。
瓦礫の中に何かを探しているように、グリスによって黒く汚れた「ツナギ」の小さな背中がわたしを出迎えた。

「おはようございます。お邪魔します」

瓦礫の中にわたしの声が響いた。
すると、黒く汚れたツナギがゆっくりとわたしを振り返った。
そこには鋭い視線があった。
それはまるでよそ者を見るような目…
それは痩せた男だった。
中年の男はわたしを確認して立ち上がった。
すると、鋭い眼光は影を潜め、穏やかな目をした小柄な男になった。

「いらっしゃい。おはようございます」

彼は明るく挨拶をした。

2012年3月4日日曜日

追憶 12

わたしは彼の行為に驚いた。
話を聞くと近く?のコンビニまでコピーを撮りに行って来たらしかった。
しかしながら、ここからコンビニは見当たらなかった。
わたしが彼の立場ならば、

「申し訳ありませんが、自信が無いので詳しくは別の人に聞いて下さい」

とでも答えていただろう。
愛媛でも東京でも埼玉でも、初対面の、しかも素性も分からないわたしにここまでやってくれた人はいなかった。
大阪人だからだろうか?
それとも個人的なものであろうか?
わたしは彼の思いやりに感動していた。
わたしが何かお礼をしようとしても、彼は「いらん、いらん!」と言って取り合おうとはしなかった。

「ほなまた!」

その言葉を残して彼は足早に去って行った。
わたしは彼の背中に「ありがとう!」と言った。

「気ぃ付けてな!」

彼の背中からは爽やかな返事が返って来た。
清々しい気持ちである。

地図を頼りにバイクを走らせた。
15分くらい走ると友人のアパートに到着することが出来た。
わたしはもう一度心の中で彼を思い浮かべて「ありがとう」を伝えた。
その後、友人が帰宅し、わたしたちは久々の再会を喜んだ。
しかしながら、大阪に着いたわたしは一つ問題を発見してしまう。
それは、バイクの左後方のウィンカーが点灯しないというものであった。
わたしは電球が切れたのだと思い、次の日にバイク屋を探そうと考えていた。

2012年3月3日土曜日

追憶 11

当時、わたしは250ccのバイク(YAMAHATTR250)を所有していた。
そのため、飛行機でただ愛媛に帰るのも面白くないと感じたので、バイクで帰ることにした。
冒険気分である。
途中の大阪と愛媛県西条市に住んでいた友人のところに厄介になる計画を立て、着替えだけを持って国道一号に飛び乗った。
7月の朝でもバイクでは肌寒く感じた。
途中、走りながら何時の間にかに寝ていて記憶がないところもあったが、何とか夕方には大阪まで辿り着くことが出来た。
大阪に到着すると、わたしは早速友人の住むアパートを探した。
しかしながら、土地勘がないために辿り着くことが出来なかった。
わたしは一先ず休憩しようと思い、路肩にバイクを停めた。
歩道に降りて伸びをした。
石のように固まった身体はギシギシと音を立てて伸びた。
わたしはバイクに腰掛け、友人に連絡を入れた。
友人は仕事中だったようで応答がなかった。
わたしはとりあえず誰かに聞いてみようと思った。
しかしながら、ほとんど人が歩いていなかった。
見渡すとオフィス街のような雰囲気である。
わたしはここから移動して人を探そうとしたのだが、そこにベストタイミングで20代前半くらいの若い男性がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
わたしは直感的にこの人だと思った。
男性が近付くとわたしは声を掛けた。

「すみません。道を聞きたいんですけど…」

すると、男性は笑顔で話を聞いてくれた。
わたしはここから友人の住むアパート付近への道を尋ねた。
すると、男性は口頭で説明してくれるのだが、男性もはっきりとした道順は分からずに自信なさげだった。
すると男性が急に「ちょっと待っててな!」というと何処かへ走り去ってしまった。
わたしは呆気にとられてその場で待機することにした。
男性が走り去って10分くらいが経った。
わたしは流石に違う人に聞こうと思い、移動する準備をしていると、遠くの方から「おぉ〜い」という声が聞こえた。
声が聞こえた方を見ると、先程の男性がこちらに向かって走っているのが分かった。
手には白い紙のようなものを持っていた。
男性は息を切らしながらわたしに二枚の紙を渡した。
それは地図をコピーしたものだった。
そこには赤線が引かれ、友人の住むアパートの付近までの道が記してあった。



2012年3月2日金曜日

追憶 10

店長が動揺するのも無理はない。
なぜなら、わたしも動揺していたからだ。
わたしは店長に今後を相談するつもりで声を掛けたからである。
しかしながら、わたしの口を吐いて出たのは結論だったのである。
それが自らの意思ではないことは分かっているのに、なぜかそれを撤回することは出来なかった。
店長はわたしに辞められると困る理由を並べ、わたしを引き止めようとしていたが、わたしの口を吐いて出る言葉は「辞める」の一点張りだった。
ついに店長は諦め、「じゃあ、今月いっぱいは頑張ってくれ」とわたしの意思?を受け入れてくれた。

「ありがとうございました」

わたしは店長に気持ちを伝えて、休憩を消化しないまま仕事に戻った。
もう少しすればここでは働けなくなると考えると、時間がもったいないように思えた。
少しでも長くこの仕事と一緒にいたいと思ったのである。
わたしは棚に積まれたジーンズを取って広げ、深くため息を吐いてまた畳んで棚に戻した。
それから、仕事を辞めるまではあっという間であった。
今までの思い出がフラッシュバックする。
田舎から出て来て間もない右も左も分からない若造だったわたしを育ててくれたのはこのジーンズショップであり、この仕事であり、この仲間なんだと再認識させられた。
辛いこと、苦しいことはたくさんあったけど、今は感謝の気持ちしかなかった。
わたしは店長を始め、バイト仲間に挨拶をして仕事を終えた。

仕事を辞めたわたしの頭の中には、故郷の愛媛に帰るという考えしかなかった。
どうして、新しい仕事を探さなかったのかは分からないが、どうしても帰らなければならないような気がしていたのである。
わたしは早速、引っ越し会社に連絡を取って部屋の荷物を愛媛の実家に送ってもらうことにした。
引っ越しまで約一ヶ月あったので、わたしは身辺整理とお世話になった人たちに挨拶をするために時間を使った。

2012年3月1日木曜日

追憶 9

それは突然だった。


心の中にわたしを揺さぶる感情が芽生えていることに気が付いた。





「それは仕事を辞めよう」





という感情であった。


やりたくて始めた仕事である。


しかも、仕事に対して不満があった訳ではない。


寧ろ、アルバイトの立場では重要な仕事を任されていたし、共に働く仲間も良い人ばかりで、充実感さえ感じていた程である。


辞める理由が分からない。


しかしながら、辞めたいのである。


わたしは自分がなぜそのように考えるのかを考えた。


しかしながら、いくら考えても有力な答えに辿り着くことは出来なかった。


考えれば考える程に絡まり、答えに辿り着けない。


不思議ではあるけれど、わたしの頭の中では故郷の風景が繰り返し再生されるのであった。


もちろん、わたし自身の意思ではない。


思い出そうとしている訳でもない。





「この感覚は一体何なのだろう?」





わたしの胸中にはそのような思いが溢れていた。





ある日、いつもと同じように仕事をこなし、夕方の15分休憩の時間になった。


わたしはスタッフルームに向かうために階段を上がった。


すると、同じタイミングで店長も15分休憩だったらしく、わたしの前を歩いていた。


わたしは店長に追い付くと声を掛けた。


話したいことがあると告げると、スタッフルームで聞くと言ってくれたので店長の後を追うようにスタッフルームに入った。





「話って何?」





店長は軽く聞いてきた。





「今月いっぱいで辞めようと思います…」





わたしは自分の口を吐いて出た言葉に驚いた。


しかしながら、その言葉を撤回しようとは思えなかった。


店長は一瞬止まった。





「えっ?ダメだよ。困るよ」




店長は困惑しているようであった。