このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2016年10月31日月曜日

追憶 1512

わたしは精神としての彼の話を聞く必要はなかったのだろう。
右の人差し指と中指が空中に十字を描くと、暗闇を切り裂くようにして光の十字架が現れた。
それを彼に投じると、それは胸に突き刺さって輝きを増した。
彼の大きく開かれた口からは大量の黒い煙のようなものが吐き出された。
それは、頭上で蛇のように絡まっていた。
わたしは吐き気を覚えたが、再び光の十字架を創造し、黒い煙のようなものに投じた。
すると、ゲップと共にそれは”天”へと消えた。
黒い煙のようなものを吐き出した彼は沈黙して立ちすくんでいる。
わたしは近寄って彼を抱擁(ほうよう)した。
すると、彼の頬を流れ星のように涙が走った。
それを見て、わたしは安心した。
精神としての彼の抱えている苦しみは取り除くことができたのだろう。
浮かび上がり、”天”へと吸い込まれていく彼を見送りながら、わたしは思いを馳(は)せていた。

2016年10月30日日曜日

追憶 1511

精神としてのわたしと、肉体としてのわたしが黒い煙のようなものを吐き出すと、人影の姿が少しずつ明るくなっていくように感じた。
続けていくと、人影の姿が明るみになった。
それは、肩を落とし、悲しみに打ち拉(ひし)がれて立ちすくむ彼そのものであった。
これは、彼の精神であろう。
何か辛いことがあって、心を暗くしているに違いない。
わたしに出来ることは、目の前の彼の精神を苦しみから解放することであろう。
彼の精神を苦しみから解放することによって、何等かの展開が期待できるのである。

2016年10月29日土曜日

追憶 1510

人影に向き合うと吐き気に襲われた。
それを引き金として、わたしは黒い煙のようなものを吐き出した。
精神と繋がっている肉体には、それはゲップとして現れる。
精神としてのわたしが吐き出した黒い煙のようなものは、更に肉体を通して浄化される。
これは、精神と肉体との二つのフィルターによる作用であると考えられる。
人には意識レベルのフィルターと、物質レベルのフィルターが備わり、二つのフィルターを通さなければ浄化されないものと対峙しているのだろう。
それは、精神の抱えるストレスと、肉体の抱えるストレスの大きく分けて二種類のストレス(破滅的な意識)が存在しているからだと推測する。
それは、人が精神と肉体という二つの性質を所有しているからだろう。

2016年10月28日金曜日

追憶 1509

内容の分からない三行の天使文字を書き終えると、それを直線で囲った。
すると、文字が金色の光を放つ。
それに両手で触れると、彼の背中に押し込まれるように消えた。

わたしの目の前には暗く何も無い空間があった。
それは手を伸ばせば届くような狭い空間にも思えたが、果てし無く広いようにも思えた。
わたしは目の前の暗い空間を虚無(感)だと感じた。
これは、彼の心であり、彼の抱えている虚無感なのではないか?
わたしにはそう思えるのである。
わたしは虚しさを感じていた。
それは、この空間に共感しているからだろう。
何もかもが虚しく思えた時、目の前に人影が現れた。
それは始めからそこにいたのかも知れないし、今出現したのかも知れない。
人影は暗い空間よりも少しだけ濃い暗さをまとっていた。


2016年10月27日木曜日

追憶 1508

瞼(まぶた)を閉じて心を静めると、彼の全身を黒い煙のようなものが覆っているのが見えた。
黒い煙は顔を覆い隠すように、頭上に集中して停滞していた。
この黒い煙からは破滅的な力を感じる。
彼の”不幸”の正体は、この黒い煙なのだろうか?
この黒い煙を理解して解消するのであれば、彼の抱えている”不幸”も解消されるだろうか?
様々な思考がわたしを通り抜けた。
その時、わたしは時が満ちたのを知って瞼を開き、彼を目の前に導いた。
背中を向けて腰を下ろすように頼むと、目の前には”不幸”をまとった鉛が鎮座(ちんざ)した。
わたしは彼の”不幸”に触れる必要を感じた。
すると、右手が彼の背中に伸びて、人差し指と中指を使って文字を記し始めた。
これは、天使の言葉?であるだろう。
わたしには解読することができないが、彼に必要な言葉であるに違いない。

2016年10月26日水曜日

追憶 1507

バイクの楽しさを思い出した頃、わたしを一人の男性が訪ねた。
彼は30代の既婚者である。
出迎えると、黒くて重苦しい雰囲気をまとい、何かしらの悩みを抱えているのが傍目(はため)にも明らかであった。
彼は明らかに”不幸”を抱えていたのである。
部屋に案内して、互いに腰を下ろした。
彼は鉛(なまり)のように存在したが、それが肌にまとわりつく湿気のようで不快であった。
心の輝きは失われ、脆弱(ぜいじゃく)な精神は風前の灯(ともしび)というところであろう。
わたしの仕事は、彼の抱えている悩みの原因を解明することである。
わたしには彼の抱えている”誤解”を取り除く必要があるのだ。
彼の抱えている悩みがどのような状況によって導かれたのかを知る必要はない。
なぜなら、すべての悩みが感情問題に過ぎず、それは内的矛盾に他ならないからである。
わたしは彼の抱えている内的矛盾を解けば良いのである。

2016年10月25日火曜日

追憶 1506

久しぶりに運転するバイクは、喜びよりも恐怖の方が勝っていた。
昔は、一瞬だとは思うが居眠りしながら運転していてもそこに恐怖を感じることはなかった。
それは、慣れていたからに違いないが、今のわたしには緩やかなカーブを走るのにもぎこちないのである。
しかしながら、慣れとは凄いもので、すぐに恐怖心を失わせた。
必要以上にスピードを出して危険な運転をするようなことはしないが、既に運転することの喜びが勝っていた。
しかしながら、わたしが自分の運転技術を過信することはない。
それは、過去にバイクで事故に会ったことが二回もあるからである。
どちらも、わたしが直接的な原因の事故ではないが、一つは急に左折した車に巻き込まれて5m程飛ばされて民家に激突したこともあった。
そのような体験から、わたしはバイクの危険性を承知しているのである。

2016年10月24日月曜日

追憶 1505

わたしが求めていたのは自由であり、それは、危険と放任によって実現すると考える。
バイクは危険な乗り物であるだろう。
フレームに守られることも、シートベルトに固定されることもない。
曲がるには体重移動を必要とし、風雨の影響をまともに受ける。
夏は暑く、冬は寒い。
そして、死と隣り合わせである。
これは、誇張(こちょう)ではない。
バイクに乗っているのであれば、簡単に死ぬことができるだろう。
それ程に危険な乗り物である。
しかしながら、それ等の条件を逆手に取れば、季節や”風”、マシンの駆動力や遠心力、そして、命を感じることが出来る。
それがわたしに自由を与えてくれるのだ。
自動車にはそれが出来ない。
バイクとは決定的な違いがあるのである。
それがわたしを魅了(みりょう)するのだ。

2016年10月23日日曜日

追憶 1504

わたしが不自由さを感じていたのは、今だにNのことを引き摺(ず)っていたからに違いない。
地産地消カフェをオープンしたくらいでは切り離せなかったのだ。
わたしは自身の抱えるルサンチマンに不自由さを感じていたのである。
それが不快で仕方なかった。
感覚としては、檻(おり)の中に閉じ込められた鳥、鎖で繋がれた犬、蛹(さなぎ)の中で羽化を待つ蝶のようであった。
わたしはきっかけが欲しかったのかも知れない。
できることから少しずつ変えていこうというのである。

安易な発想としては、車で移動することに不自由さを感じていた。
それは、フレームやエアバッグ、シートベルトや様々な安全装置に守られているからである。
天候にも左右されることもなく、ナビゲーションシステムやエアコンやオーディオなど、至れり尽くせりである。
車は比較的には安全な乗り物であり、利便性に長けてはいるが、それ等と引き換えに自由な感覚を失うように感じるのである。
車は、過保護な親のようなものであり、わたしには煩(わずら)わしく思えたのであった。

2016年10月22日土曜日

追憶 1503

ある日、わたしの中には新たな思いが湧き起こった。
それは、バイクに乗りたいというものであった。
この感情の原因は、自らの心が抱える不自由さにあるだろう。
心が抱える不自由さをバイクに乗ることによって少しでも解消しようとしているのだと客観した。
感情問題の解決を、バイクやその状況に求めているのであろう。
東京で暮らしていた時にはバイクを所有していた。
東京から愛媛までバイクで帰ってくる程に好きで乗っていたが、愛媛で暮らすようになってからは乗る機会も減ったこともあり、知人が必要としていたので譲った。
それから何年もバイクには乗っていなかった。
乗りたいとも思わなかった。
しかしながら、今はバイクを求める気持ちが強く、海岸に打ち付ける波のように何度も何度もせがむのである。
そこでわたしは某オークションでバイクを落札することにした。
思い立ったが吉日である。
数日後、バイクが届いた。




2016年10月21日金曜日

追憶 1502

それは創造力を失わせるに違いない。
”退屈”な環境で育った人間の創造力は、退屈を継続させる程度のものであろう。
様々な造形や色彩、感性や価値観の中で育った人間には、新たな価値観を生み出すこともできるかも知れない。
宗教であっても、大量生産型の社会であっても、それは見えない制限を強要しているように思えるのである。
それは、わたしにとっては不自由であり、息苦しさを感じる。
自由を得る必要があると思うのだ。
決められた規則の中だけでものを動かすのであれば、何も変わりはしない。
そこには進化が導かれないのである。
創造力によって、そこに存在しないものを出現させることが求められているように思えるのだ。

2016年10月20日木曜日

追憶 1501

今日の日本人からは強力な生命力を感じない。
ある種の平和的な時代やある程度の飽和(ほうわ)した経済状況の影響もあるかも知れないが、薄弱な精神には志(こころざし)さえ失われたように感じる。
余分を求める必要はないかも知れないが、何かをより良くしなければならないと思える。
何かをより良くするためには、強靭(きょうじん)な精神と志が必要なのではなかろうか?
触れるものが画一化し、多様な形を得る機会が失われるということは、感動を失うということに繋がるだろう。
例えば、同じ景色のトンネル内を車で走っている時には発見が少なく、感動も生まれない。
これと同じように、画一的な食事や生活は、人から生命力を奪うのではないかと思えるのである。

2016年10月19日水曜日

追憶 1500

世の中も変わった。
わたしが幼い頃には、季節を感じる手作りの弁当を持ってピクニックに出掛けたものである。
しかしながら、今日のわたし達は利便性を求めているのか、それに甘えているのか、時間に追われているのか、精神的な余裕がないのか、風雅(ふうが)を感じる力が失われたのか、は分からないが、作られた商品をポリ(ポリエチレン)袋に抱えて出掛ける。
そして、ポリプロピレン製の包装を”雑音”を立てて剥(は)ぎ、誰もが同じものを口に運んでいる。
手作りが主流であった頃には、弁当にも個性があった。
それに、良い意味で泥臭い雰囲気があったものである。
しかしながら、今日の日本は悪い意味でスマートになってしまったように思える。
この間は、山にアケビを採りに行ったが、それは決して美味しいものではない。
しかしながら、そこにはコンビニなどで売られている甘いお菓子よりも、多くの喜びと感動とエネルギーがあるのだ。
わたしはそこに風雅を感じるのである。

2016年10月18日火曜日

追憶 1499

話が長くなったが、要はそれぞれの学びの段階に相応しい場所が必要なのである。
コンビニなどの工場による添加物を使って大量生産で作られた食物が必要な人がいる。
その一方で、個人店舗で添加物を使わずに一つ一つに手間を掛けて作られた食物が必要な人がいるのである。
わたしはコンビニなどの食物は基本的には食べたくない。
それは、見た目は美しいが、内存しているエネルギー(生命力とでも言うのだろうか?)が感じられないからである。
添加物による何かしらの副作用を懸念してもいるが、栄養や”心”がこもってはいないように感じるのだ。
味付けや見た目も大切かも知れないが、わたしにはそれ以上に重視するものがあるのである。
味が口に合わなくても、誰かが一生懸命に作ってくれた食物の方が力を感じるのである。

2016年10月17日月曜日

追憶 1498

わたし達が学んでいるのは、自分自身に他ならないだろう。
わたしは彼女達を通じて自分自身を学び、彼女達はわたしという存在を通じて自分自身を学んでいるのである。
多くの人が陥るのは、”他人に教えてやろう”というエゴイズムである。
世の中はこれによって回っている。
彼女達はわたしに自分達の宗教を教えようとし、わたしは彼女達に自らの価値観を教えようとしているのである。
違いがあるとすれば、その”固さ”だけであろう。
恐らく、彼女達のエゴイズムはわたしのよりも固い。
しかしながら、わたしも彼女達の教えに従わず、自らの信念を貫き通そうというのだからなかなかに固いであろう。
金属と石を叩き付ければ火花が生じる。
それがわたしの感じている怒りの感情なのである。
わたしは彼女達を肯定しつつも否定している。
彼女達はわたしを否定する。
彼女達のせいにする訳ではないが、振り上げた金槌(かなづち)を手放さない限りは、誰に会っても火花を散らすことになるだろう。
小さな火種が家屋を全焼させることを、彼女達は知らないのである。

2016年10月16日日曜日

追憶 1497

しかしながら、わたしはもう一度思考を練らなければならなかった。
それは、”人生は自分自身との対峙である”という(わたしの中の)鉄則があったからだ。
彼女達は未熟な価値観の中に生きている。
それは善と悪、”神”と悪魔、愛と争い、味方と敵…
相対的な価値観の中に世界を築いているのである。
しかしながら、わたしは相対的な価値観の中に世界を築いている彼女達の価値観に憤(いきどお)りを感じている。
わたしの感じている怒りは、自分自身の感情であり、彼女達のものではない。
わたしは、”すべては一つ”であるという感覚に焦り、いつの間にかに相対的な価値観に溺れていたのであろう。
わたしはどこかで彼女達とは違うと思っていたが、その根底にあるものは同じである。
私たちは、同じ学びを違う段階で行っているのである。
彼女達がわたしを訪れるのは、彼女達がわたしに相応しいからであり、わたしが彼女達に会うのは、わたしが彼女達に相応しいからであろう。
わたし達は一つの学びの中にいて、相対的な立ち位置に置かれているのである。
これは、”神”からの皮肉であるのかも知れない。

2016年10月15日土曜日

追憶 1496

わたしは内心腹を立てていた。
不毛な議論に費やしている時間はないのである。
なぜなら、この後にも人に合わなければならなかったからだ。
わたしは彼女達を説得しようとは思わなかった。
それは、彼女達の信念が余りにも育ち過ぎていて、わたしにはどうすることもできなかったからである。
その時、わたしは自身の抱える怒りの感情に違和感を覚えた。
初めは、彼女達の頑固さや無駄な時間を過ごさなければならないというもどかしさから生じた感情だと思っていたが、そこに違和感を感じるのである。
これは、わたしの感情ではないと思えるのだ。
そうすると合点がいった。
わたしの感じる怒りの感情は、彼女達の抱える感情であるだろう。
宗教とは、敵を必要としている人の信仰である。
敵が存在しなければ、宗教は成り立たないのだ。
彼女達は、彼女達の主張する悪魔や争いに対して怒っている。
その感情を認識しているのであろう。

2016年10月14日金曜日

追憶 1495

今の彼女達には、このことは受け入れられないだろう。
だから、わたしは彼女達の同じ内容の話を遮(さえぎ)って、帰ってもらった。
彼女達と分かれた後、わたしは彼女達から引き受けた破滅的な感情を綺麗にして光へと帰した。
彼女達は幾らか軽くなったはずである。

愚かなことに、彼女達は一週間後にもわたしを訪ねた。
もちろん、わたしを勧誘するためである。
しかしながら、年配の方の女性は別の人であった。
それは、以前の女性よりも自信に溢れ、より教義に精通しているような印象であった。
前回、わたしに言い包められたことを受けて、この女はより実力のある者を従えて来たのである。
彼女達の魂胆(こんたん)を見透かして、わたしは呆れた。
50も過ぎているであろう年配の女性は、偽善という愛を以てわたしを救おうとしている。
その歪んだ熱意が恩着せがましく鬱陶(うっとう)しいのだ。
50年以上も生きて、そんなことも分からないのであろうか?
わたしは彼女の愛など必要とはしていない。
彼女達の背後には、前回と同様、黒い人影が蠢(うごめ)いていた。
自分のことも救えないのである。
なんと自分本位な人達なのだろう。
わたしは心の中に怒りの感情が生まれたのを感じた。

2016年10月13日木曜日

追憶 1494

彼女達は宗教の教えに没頭することによって”神”に逃避している。
しかしながら、私たちがしなければならないのは、(苦しい)現実との対峙なのである。
それは、忙しいからといって子どもに食事を作らない母親(父親)の態度に似ている。
”神”という”妄想”を愛せば、現実の苦悩を愛することができなくなってしまうのである。
だから、彼女達は殺人犯を愛することができない。
悪魔を許すことができないのである。
”神”の愛を謳(うた)っているのであれば、殺人犯も悪魔も愛することができるはずである。
しかしながら、殺人犯や悪魔という現実を否定しているために、愛することができないのだ。
忙しいからといって子どもに食事を作らないことは、子どもを愛していると言えるのだろうか?
それでも親は愛していると主張するだろう。
忙しかったから仕方が無いと自己を正当化するかも知れない。
しかしながら、子どもが同じように親を愛するだろうか?
もちろん、食事だけが愛情の形ではない。
しかしながら、親に食事を作ってもらえなかった子どもが親になった時には、その子どもにも同じことをする可能性は高まる。
わたしには正しい愛情の形というものは分からないが、それが歪な形をしているように思えるのである。

2016年10月12日水曜日

追憶 1493

そのためには、良い教育と良い生活が必要である。
良い教育とは、実践から得られる真理に対する知識である。
それは宗教に対立する。
良い生活とは、自然と調和した生き方のことである。
それは添加物に対立する。
人が目指すべきは、良い人生であるが、そのためには良い教育と良い生活が欠かせないのだ。
良い教育のためにわたしは光の仕事に邁進し、良い生活のために地産地消カフェで学ぶのである。
そして、それによって一人でも多くの人の良い人生の手助けができれば良いと思っているのである。
添加物の多く入った不自然な食事を続けていれば、良い生活を実現することはできないであろう。
教育にも生活にも、様々な段階があるのだ。
それを必要としている人には必要である。
そのため、添加物の多く入った食事を悪だとは考えない。
わたしがやりたいのは、添加物の少ない食事を、それを必要としている人に提供することである。
地産地消カフェのコンセプトは、”地域の味を残したい”というものであった。
添加物の多く入った出来合いの食事ではなく、口に入れるものは食材から調理したものにしたいという気持ちがあるのだ。
若い母親(父親でも良いが)に料理を作って欲しいのである。
それは、”母の味”として家族と子どもとの絆を強くする。
良い食事は良い生活、良い生活は良い人生となると期待するのである。

2016年10月11日火曜日

追憶 1492

自由に生きて、自由に学ぶためには、やはり自力(唯物論)が必要である。
自分の幸福は、神頼み(唯心論)だけでは実現しない。
”神”は、困難に向き合う人は助けるが、困難から逃避する人は助けないのではないだろうか?
それは、助け方の違いであるように思える。
困難に向き合う人には後押しが必要であり、困難から逃避する人には放任が必要であるだろう。
”神”は、その人に相応しい手助けをする。
そのため、神頼みは成功しない。
多くの人にとって、神頼みとは相応以上の要求だからである。
やはり、唯心論と唯物論の両方を強化する必要があるのではないだろうか?
健やかな心と健やかな肉体を育むのである。

2016年10月10日月曜日

追憶 1491

時間は既に予定を大幅に超えていた。
わたしはこの後、人と会わなければならなかったのだ。
わたしは多少の焦りを感じていた。
わたしが正しい訳ではないが、わたしから見ても彼女達は小さな価値観の檻(おり)に閉じ込められているように思える。
わたしの役割とは、彼女達に檻の外の世界を気付かせるくらいのことであった。
しかしながら、今の彼女達には、何を言っても通じないであろう。
彼女達は彼女達の信じる場所で学べば良いのである。
わたしには、他人を”引き摺(ず)って”歩く程の情熱はない。
そういう意味においては、宗教もパワフルである。
他人は他人の道を行けば良いし、自分は自分の道を行けば良いと思えるのだ。
どのように生きようとも、それは自由なのだと思える。
自由に生きて、自由に学ぶことが人生の意義なのではないだろうか?

2016年10月9日日曜日

追憶 1490

彼女達は再び沈黙した。
それは、彼女達が普段から自分で考える習慣を持たないからである。
これは、彼女達が、”神”に従い、教義に従い、教祖に従う中身の無い傀儡(かいらい)であることの証明である。
宗教の問題点がここにあるのだ。
わたしは好きなものを信仰すれば良いと思う。
しかしながら、自力を失うような信仰には警戒している。
わたしたちは、ニーチェの言うルサンチマンを克服し、奴隷道徳に陥らない人間でなければならないと思うからだ。
ニーチェの言う超人に拘(こだわ)る必要はないとは思うが、自力を失うことは人生の放棄に他ならないと思うのである。
人は自由な心で生きるべきである。
彼女達は何かしらのトラウマによって、今の宗教に拘っているように思える。
彼女達の必死な姿を見ていると悲しくなるのだ。
彼女達にとっては、今の信仰こそが自分を保つ唯一の手段なのではないかと思えるのである。
本当に良いものであれば、相手から求めるものだと思うが、彼女達にはそのことが分からないのであろうか?
彼女達が再び沈黙を破ったのは、わたしの質問に対する答えによってではなかった。
彼女達は厚かましくも、再びわたしを勧誘してきたのである。
ここまで反発するわたしを、これ以上苦しめようというのである。

2016年10月8日土曜日

追憶 1489

彼女達はわたしが冗談でそのようなことを言っているのだと高を括(くく)っているようである。
それは、現代の日本において、目の前の人に命を脅かされるということは滅多にあるものではないからだろう。
わたしは余裕を見せる彼女達に対して、今度は深刻な顔で同じ問い掛けをした。
すると、彼女達は明らかな動揺の表情を浮かべた。

”あなたはそんなことをしません”

若い方の女性が捻(ひね)り出した言葉は、暗闇を恐れる少女の強がりのような弱々しいものであった。
彼女達は自分達が信仰する”神”が救ってくれるなどと本気で思っているのだろうか?
彼女達の命は、わたしの手の中にあるのではないのか?
わたしが彼女達を殺さない保証など、どこにあると言うのだろう?
わたしは彼女達の信仰する”神”の言うことなど聞き入れはしないだろう。
結果的にわたしが彼女達を殺さないとすれば、彼女達は自分達の信仰する”神”の力によって守られたと解釈するに違いない。
それは、彼女達の信仰する”神”の力なのだろうか?
彼女達は結果論を持論にこじつけているに過ぎないように思える。
自分に都合の良いことは”神”の力とし、自分に都合の悪いことは悪魔の力とするのである。
その矛盾が彼女達の宗教の限界であると、わたしには思えるのだ。

2016年10月7日金曜日

追憶 1488

彼女達の信じる宗教の書物によれば、”神”がある街やそこに住む人達を殺せと命じたと記されている。
”神”の意に沿わない人達は殺しても良いというのである。
彼女達の信仰する”神”は、余りにも人間的(生物的、感情的)なのではないだろうか?
”神”がそのような個人的な主張をするだろうか?
わたしには疑問である。
別にすべての人が仲良くする必要などは無いと思うが、意に沿わない人を虐げたり、殺す必要などないと考えるのである。

わたしは黙り込む彼女達から答えを得る前に次の質問をした。

”わたしが今ここであなた達を殺したらどうしますか?”

わたしが目の前のか弱い女性を殺すことなど容易い。
誰にも気付かれずに二人の息の根を止めることも出来るだろう。
もちろん、わたしは彼女達を殺したいとは思わない。
これは、極論による例え話なのである。
しかしながら、わたしでない他の人物であれば、その可能性は十分に考えられる。
彼女達はそんな可能性など考えてはいないだろうから、見ず知らずの男を何の躊躇(ちゅうちょ)もなく訪ねるのである。

2016年10月6日木曜日

追憶 1487

それは別に、宗教に限ったことではない。
わたしはすべてを肯定し、すべてを否定すれば良いと考えている。
例えば、殺人犯は殺人を犯すことによって、殺人の持つ意味に触れるのである。
殺人犯にとっては、殺人を犯すことでしか学べないのだ。
そして、被害者は殺されることによって、殺されることの持つ意味に触れる。
被害者にとっては、殺されることによってしか学べないのである。
殺人犯が悪であり、被害者が善だとする感情論からは離れて考えて欲しい。
被害者となった者が、殺人犯となった者を虐(しいた)げていたとすれば、善悪は逆転するのではないだろうか?
強姦されている女性が、自身の人格を守るために男を殺したとして、どちらが善であり悪なのだろう?
何の罪もなく、善良だと思われる人が殺されたとしても、殺されるということは、それを学ばなければならないのだ。
理不尽に聞こえるのは、物事を表面的にしか捉えていないからである。
結果はすべて正しいだろう。
結果が出ているにもかかわらず、それを否定するのはやはり現実逃避なのである。
わたしには善悪の判断が出来ない。
わたしに下せる判断は、”すべてが必要な学びではないのか?”という推測だけである。
わたしの信じる”神”というものは、そのように矛盾を抱えない存在であり、宗教でいう敵を作り出し、自分の都合で多くの人を迫害するようなルサンチマンを抱えている存在ではないということだ。

2016年10月5日水曜日

追憶 1486

わたしは宗教も彼女達の生き方も肯定(こうてい)するが、それを否定もするのである。
矛盾しているように聞こえるかも知れないが、わたしは矛盾していないと考えている。
それは、現状を一旦肯定しなければ、それを改めることができず、現状を改めるということは、現状を否定するということでもあるからだ。
誰もが幸福を求めている。
それは、現状よりもより良い形の状況があると信じているからであろう。
そのためには、肯定し、否定するというプロセスが必要なのである。
それは、地面を蹴らなければ先に進むことが出来ないのと同じだ。
人は地面を踏むという肯定によって前傾姿勢を手にし、地面を蹴るという否定によって前進するのである。
彼女達は自分達の信じる宗教を肯定している。
それは、宗教という地面を踏んでいるということだ。
わたしが促しているのは、その地面を蹴って前進しようということなのである。

2016年10月4日火曜日

追憶 1485

宗教というものは、それを学ぶ段階の人達にとっては必要なものである。
そのため、宗教そのものの存在を否定はしない。
それを必要としている人達には、大切な学びの場所なのである。
この世界においては、様々な段階の魂が、様々な段階の学びを得ることができるのだ。
わたしは前世において、宗教の布教活動のようなものをしていた記憶がある。
その時の人生において、宗教というものを学び、その本質に触れたのかも知れない。
そのために、わたしは今回の人生においては、宗教に属し、それを学ぶ必要がないのだと思える。
そのため、わたしが彼女達の期待に応えることは出来なかった。
今回、彼女達がわたしを尋ねたのは、彼女達にとっては仲間(のようなもの)を増やす目的があったのだろうが、より深い目的はわたしに会うことによって可能性を垣間見るためなのではないだろうか?
そのためには、わたしはある意味否定的な立場を取らなければならなかったのである。

2016年10月3日月曜日

追憶 1484

現実を生きることは苦しい。
誰もが顔を背けたくなる辛い経験を抱えているだろう。
しかしながら、人はそれに向き合わなければならないのである。
逃げる程に苦しみは増す。
どちらにしても、やがて逃げられなくなるのだ。
現実逃避の道は尻すぼみである。
それは、鰻漁の”じごく(鰻カゴ)”のように、一度入ったら抜け出すことが難しいものであろう。
宗教には、同じような苦悩を抱え、同じような希望を欲する仲間(のようなもの)が集まる。
彼女達にとって、そこは心地の好い場所であるに違いない。
そこでは、互いの傷を舐め合うことができるからだ。
その状態こそがルサンチマンなのではないかと思うのである。
彼女達は自分自身を正当化するために、わたしを引き込もうとしているのである。
わたしが賛同することによって、また少し自分が間違っていないと思えるのである。
そうやって現実逃避を加速させ、抜け出すことが難しい”じごく”の奥へと向かうのだ。
しかしながら、彼女達はそのことを理解してはいない。
きっと、彼女達は純粋にわたしを助けようとしているのである。

2016年10月2日日曜日

追憶 1483

しばらく待っても、彼女達から明確な答えが得られなかった。
二人共黙り込んでしまったからである。
それは、彼女達が信仰し、わたしにお勧(すす)めする宗教が、この程度の例題で破綻する教えであるということなのだ。
残念ながら、彼女達の”神”は彼女達を救うことなどできない。
わたし程度の者を前にして、彼女達は既に苦悩しているからである。
わたしが苦しめているのではない。
彼女達が勝手に苦しんでいるのである。
それは、彼女達の大切に思う人が車で人を轢(ひ)き殺すことは、今すぐにでも実現するかも知れない可能性であり、現実的な話であるからだ。
その現実的な話から背を向けて、空想の中で生きようとしてきたのである。
推測ではあるが、彼女達の現実には顔を背けたい辛い経験があるのだろう。
彼女達が”神”を見て、”神”と共に生きることは空想に過ぎないだろう。
残念ながら、彼女達は”神”に会うことは出来ない。
彼女達が会えるとすれば、背後にうごめく黒い影達である。
現実に立ち向かう勇気の無い者には、空想の中で生きる以外に道はないのである。

2016年10月1日土曜日

追憶 1482

純粋であり、愛情深い人間が宗教に携わる。
ただし、それは信者に限る。
教祖となる者には、宗教の構造上その性格は当てはまらないであろう。
宗教の本質は、ニーチェで言うところのルサンチマン(奴隷道徳)にあると思うからだ。
宗教の教義とは、純粋で愛情深い人間を弱い立場である信者に仕立て上げる目的を持っている。
宗教とは、多数の信者が少数の”幹部”を支えることによって成り立っている。
信者は弱い立場でなければならないのだ。
宗教に携わるということは、その時点において弱い人間となることが確定するのである。
宗教は、教義を信じることによって救われると解く。
しかしながら、すべての宗教の教義は、例外なく弱者を生産するためのプログラムなのだ。
信者は教義に従う。
それは、学校教育と同じように、暗記することに専念するために、自分で考えることを否定することになる。
所謂(いわゆる)、思考停止に陥るのだ。
宗教に携わっていれば、自然と自分で考える力が奪われてしまうのである。
宗教に携わる者は必ず無知に陥ることになるだろう。
それは、無知であったから宗教に携わることになったのか?
宗教に携わることで無知に陥ったのか?
それは、鶏と卵の議論である。