このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2017年8月31日木曜日

追憶 1789

葬儀の日にも、わたしはあの老女を思い出していた。
わたしが会場に到着した頃には、既に多くの人が着席していたので、わたしは会場の外の通路に設けられたパイプ椅子に腰を下ろした。
それは、一般的な葬儀であった。
いつものように、故人の遺影が中央に飾られている。
しかしながら、わたしは会場の右手に飾られてある花が気になった。
そこが、陽炎(かげろう)のように揺らめいて見えたからだ。
それを見て、わたしはあの悪夢を思い出した。
それは、老女が炎に包まれる前の光景と良く似ていたからである。
わたしが陽炎を見つめていると、それは少しずつ炎となった。

2017年8月30日水曜日

追憶 1788

友人は、複数ある商業施設の一つで働いている。
わたしは久し振りに彼女の店を訪ねた。
すると、彼女はわたしを快(こころよ)く迎えてくれた。
わたし達は互いの近況や、他愛の無い話をして再開を喜んだ。
しかしながら、彼女の話の中に強く惹(ひ)かれるものがあった。
それは、義理の母親の訃報(ふほう)である。
わたしは彼女の義理の母親を知らないが、話を聞いた時にあの悪夢を思い出したのである。
わたしは”流れ”のようなものを感じた。
わたしが彼女に会い、義理の母親の訃報を聞くのは、偶然ではないような気がするのである。
そこで、葬儀の日時を尋ねると、明日だというので、わたしは参列することに決めた。

2017年8月29日火曜日

追憶 1787

夢の中で老女が焼かれたのと同じ場所に立ってみた。
そこは、複数の商業施設が共有している駐車場である。
車の往来もあるので、長時間そこに立っている訳にもいかないが、わたしには感じられるものが何も無かった。
あの悪夢は、何の脈絡もない只の夢だったのだろうか?
そう考えると、わたしは独りで駐車場の真ん中に立っているのがおかしくなった。
わたしはあの悪夢と老女を頭の片隅に追いやり、友人に会うことを楽しむ気持ちを引き寄せた。
このまま駐車場の真ん中に立っている訳にもいかないので、友人の職場に向かって歩を進めた。

2017年8月28日月曜日

追憶 1786

夢の中の場所へ向かう間も、わたしは老女のことを考えていた。
結論に辿り着かない思考は、宛(あて)の無い旅路のようである。
それは、途方も無い旅路であるが、終わりが知れないことで心が高揚しているというのも事実であった。
簡単に答えに辿り着ける問いには面白味は無いが、答えに辿り着くことの難しい問いは面白いものである。
手品には、必ず”種”があるが、最後までそれが隠されているために見ていて楽しいのである。
途中で”種”を見破ることのできる手品など、見ても楽しくはないだろう。
そのため、わたしはこれからどのような展開が待ち受けているのか?と胸を弾ませながら車を走らせているのだ。
わたしは、あの悪夢の”種”を明かしたいのである。



2017年8月27日日曜日

追憶 1785

わたしはずっと、夢のことを考えていた。
熱帯夜の湿気のように、不快感が全身に纏(まと)わり付いて離れない。
何をしていても、炎に焼かれた老女の苦痛に歪んだ顔と悲鳴が、頭から離れないのである。
老女が焼かれた場所は、わたしの良く知っている場所であり、近くでは友人が働いている。
わたしは、仕事終わりにその場所へ向かうことを決めた。
そこへ行けば、夢や老女のことが何か分かるかも知れないと考えたからである。
そして、久し振りに友人の顔でも拝(おが)もうと考えたのである。

2017年8月26日土曜日

追憶 1784

ある日のこと、わたしは悪夢に叩き起こされた。
嫌な夢であった。
それは、見知らぬ老女が目の前で炎に焼かれて絶命するというものである。
夢の意図は分からない。
あの老女には見覚えがないし、なぜ炎に焼かれるのかも分からない。
彼女はなぜ、わたしの夢に現れたのであろうか?
何かを訴えるためにわたしを訪ねた霊的な存在なのであろうか?
それとも、わたしの感情的な問題が、あのような形として現れたのであろうか?
目覚めてからも、悪夢のことを思考していた。
悪夢の余韻(よいん)が、依然として頭の中に漂(ただよ)っていたのである。

2017年8月25日金曜日

追憶 1783

親友の父親は、人生が独りの道であることを死後に知ることになったのだと思う。
それを悪いことだとは思わない。
わたし達は、何を理解するにも遅過ぎるからだ。
それは人の愚かさ故(ゆえ)の結果であり、仕方のないことであろう。
人生とは、後悔との対話である。
それは、弱い自分自身との対峙(たいじ)なのだ。
人はこれを避けることはできない。
わたし達は皆、苦しみを乗り越えて進むのである。

2017年8月24日木曜日

追憶 1782

わたしが親友の父親のその後を知らないのは当然である。
それは、わたしと親友の父親の道は違うからだ。
残念ながら、わたし達は誰かと共に人生を歩むことはできない。
生前も死後も、わたし達は独りで歩まなければならないのである。
独りで歩むことを決心した人には退路が無い。
誰にも頼ることはできず、責任は自分にあるという気概(きがい)が芽生えるのである。
自分独りでは、甘えることはできない。
それは、人を成長させるのである。
誰かに頼り、責任を誰かや何かのせいにしている人には自力が育たない。

2017年8月23日水曜日

追憶 1781

親友の父親は、人生が独りの道であることを見失っていた。
そのために、甘えたのである。
甘えた者には、人生は重荷となってしまう。
それは、自力で歩む力を失っているからである。
自らの命を絶つという選択を悪いとは思わない。
誰かのためにそうする人もいるであろうし、そのような場合が最善であることもあるだろう。
しかしながら、親友の父親の場合は自らの選択に後悔していたのである。
それは、人生という重荷に耐えられずに倒れたことを意味しているだろう。
それは、甘えていたということを現しているのである。

2017年8月22日火曜日

追憶 1780

残念ながら、わたしはそれから親友の父親の姿を見ていない。
姿が見えないということは、問題を解決して光へと無事に旅立つことができたのであろうか?
ネガティブなものを感じないので、問題を解決して旅立ったのだと信じたい。
残念ながら、わたしには、これ以上を知る必要はないということなのだろう。
なぜなら、親友の父親の道は、わたしの道とは異なるからである。
彼は彼の道を進み、わたしはわたしの道を進まなければならないのだ。
今回、わたしが親友の父親に関わったのは、道が近付いていたからに他ならない。
残念ながら、道が交わることはない。
それは、人生が本来、独りの道だからである。
人は、孤独に歩まなければならないのだ。

2017年8月21日月曜日

追憶 1779

親友が閉めた玄関の扉の前で、親友の父親は俯(うつむ)いて立ち尽くしていた。
わたしは親友の父親の踏ん切りの悪さに業(ごう)を煮やした。

”覚悟を決めて早く入れよ。面倒臭いなぁ”

わたしの思いに対して、親友の父親は泣きそうな顔を向けた。

”早く”

わたしの思いによって、親友の父親は渋々ではあったが、玄関の扉を通り抜けて帰宅したのであった。
その姿が子どものようであったので、自然と笑いが込み上げてきた。
わたしは笑いながら帰路についた。

2017年8月20日日曜日

追憶 1778

無事に親友の自宅に辿り着いた。
親友が車を降りて、門扉(もんぴ)を背にした時、親友の父親も同じように門扉のところに立っているのが見えた。
わたしが親友と別れの挨拶を交わしている間、父親はわたしに背を向けて自宅を眺めていた。
心なしか、その背中が小さく見えた。
きっと、自宅に帰ることを躊躇(ためら)っているのだろう。
迷惑を掛けた妻と娘に会うことを恐れているのかも知れない。
わたしは親友に状況を告げた。
親友は笑っていたが、その思いが親友の父親に届いたのかは不明である。
わたしは親友に対して、先に帰宅するように提案した。
それは、親友について行けば、自宅に帰り易いのではないかと思ったからだ。
わたしは親友が玄関の扉を閉めるのを見届けた。



2017年8月19日土曜日

追憶 1777

親友の家に辿り着くためには、二つの順路があった。
わたしは普段、広い道を選択して親友の家に向かっていた。
しかしながら、今回は狭い道を通りたいという衝動に駆られて右折したのであった。
すると、なぜか親友がわたしの行動に驚いていた。
理由を聞くと、わたしが狭い道を選択することを見たことがないというのである。
そこでわたしは、気分の問題だと返した。
しかしながら、親友は納得してはくれなかった。
親友は、それが父親の意思だと言い張るのである。
わたしは考え過ぎだと反論したが、親友にはそう思えたのだという。
それは、親友の父親はいつも狭い道を通って帰宅していたからだそうだ。
どちらにしても、わたしにはどうでも良いことだったので、親友の主張に賛同して、狭い道を進んだ。

2017年8月18日金曜日

追憶 1776

息子に叱責された父親は、情けなく謝罪した。
それを見て、わたしには親友の父親の前途は程遠いと感じた。
わたしが父親の反応を伝えると、親友は声を出して笑った。
わたしと親友との間では、今回の騒動で多くの人に迷惑を掛けた親友の父親が、反省の末に”借りてきた猫”になっていることが可笑しくて仕方なかったのである。
それでも、親友の父親はわたしと親友の会話に参加する場面もあった。
わたしが親友の父親の言葉をそのまま真似て話すと、親友はそこに父親の言葉癖を見付けたようで喜んでいた。
わたし達は、和気藹々(わきあいあい)と家路を辿った。

2017年8月17日木曜日

追憶 1775

目的を終えたので、わたし達は帰ることにした。
助手席に乗り込む親友と同時に、後部座席に親友の父親が座っていた。
わたし達は三人で、奇妙なドライブをすることになった。
わたし達は親友の父親の話をしながら帰路についた。
わたしと親友の会話に対して、親友の父親が謝罪によって相槌(あいづち)を打ってくる。
親友には聞こえていないみたいなので、気が向いたら通訳してやった。
しかしながら、親友の父親の言葉は非常にネガティブなものであったので、それを聞いていた親友は次第に腹が立ってきたのだろう。
親友は、見えない父親が座っている後部座席に向かって強く叱責(しっせき)したのである。

2017年8月16日水曜日

追憶 1774


「馬鹿なあいつらしいな」

親友は見えない父親にも聞こえるように言葉を投げたのだと思う。
親友の言葉には、怒りと悲しみが混ざっていた。
わたしには、親友が父親のことを自分の子どものように考えているのだと思えた。
親友は、父親が亡くなったくらいで落胆するような性格ではない。
強い意思を持った男なのである。
親友は父親に対して悪態をついたが、それは悪戯(いたずら)をした子どもを許すための言葉だったように思えた。

2017年8月15日火曜日

追憶 1773

親友の父親は、黒い獣から解放された。
それは、一時的な機会を得たことを意味している。
死後ではあるが、その状態で出来ることを懸命に行わなければならないのである。
生前の怠慢(たいまん)のつけを支払わなければならないのだ。
その機会を得たのである。

”一緒に帰ろう”

わたしの提案に対して、親友の父親は風呂場の磨りガラス越しにうなづいた。
そして、次の瞬間にはわたしの背後に立っていたのである。
振り向いて見ると、親友の父親は申し訳なさそうな、やけに情けない顔をしていた。
そこでわたしは笑ったが、親友がそれを不思議がったので、事の顛末(てんまつ)を聞かせてやった。

2017年8月14日月曜日

追憶 1772

請求書が届いてから、自らの愚行を恥じても遅いのである。
事実は事実として存在し続け、それが跡形もなく消えるということはないのだ。
しかしながら、人は未熟であり、愚かである。
人は過ちを犯さなければならない。
過ちを避けて生きることのできる者は存在しないのだ。
大切なのは、自らの愚行を認めて、それを繰り返さない努力を重ねることである。
それは、生きている人間であっても、霊的な存在であっても同じことである。

2017年8月13日日曜日

追憶 1771

だから、わたし達は懸命に生きなければならないのである。
人生において、無駄にして良い時間や労力など存在しない。
欲望に溺れ、怠惰(たいだ)に生きる者は、その代償を必ず支払わなければならないのである。
それは、稼ぎもないのに豪遊し、稼ぎもないのに寝て過ごす人の借金のようなものである。
借りた金の支払いが許されることはない。
何等かの形で代償を支払わなければならないのだ。
人生を怠惰に過ごす者は、誰かや何かに借りを作っているようなものである。
怠惰に過ごす者は、それを気楽と呼んで得をしたかのようにさえ思っている。
クレジットカードで買い物をすれば、買い物をした時には得をした気分になるだろう。
しかしながら、後になってから、請求書(領収書)が確実に届くのである。

2017年8月12日土曜日

追憶 1770

現在、黒い獣は存在しないが、それは状態のことであり、克服したということではない。
親友の父親は霊的な存在となったが、選択を変えなければ、同じ状態を繰り返すことになるのである。
それは、これからの彼の選択次第であろう。
残念ながら、人生は死によっては完結しない。
死後にも魂の道は続いているのである。
親友の父親は、これから自分自身の人生の後始末をしなければならない。
死ねばすべてが清算されるほど、この世界は甘くないのである。

2017年8月11日金曜日

追憶 1769

人生において重要なことというのは、大抵が難しいものである。
どのような道においても修練が必要であるが、それは難しいことなのである。
大抵の人が安楽を求め、怠慢(たいまん)を選ぶ。
それを選ばせているのは弱さである。
人生を豊かなものにするためには、自身の弱さと向き合い、それを克服しなければならないが、それは争って勝るということではない。
弱さを認め、”癒す”ことが求められるのだ。
親友の父親にとって、黒い獣は克服しなければならない存在である。
それは、黒い獣の存在を認め、癒すことによって解決する問題なのだ。

2017年8月10日木曜日

追憶 1768

苦しみは、黒い煙のような嫌悪感をまとっているが、その本質は光の粒のような輝きを放つ成長の糧(かて)なのである。
そうでなければ、苦しみを経験した人が成長することの説明が付かないであろう。
親友の父親は、黒い獣を手放すことによって、何かしらの成長を実現することが出来るだろう。
それを知っているから、わたしにとって黒い獣は敵ではないのである。
わたしにとって黒い獣は、干ばつの後の台風のように、見た目には悪いが、本質的には良いものなのだ。
多くの人は台風を嫌うが、台風がなければ水不足は避けられないのである。
黒い獣を嫌う人は、成長という魂にとっての命の糧を嫌うようなものなのだ。
それを喜ぶことは難しいであろう。

2017年8月9日水曜日

追憶 1767

わたしには、どちらが良いかを判断することが出来ないが、黒い煙を悪いものだと考えている人にとっては、光の粒は相対的に良いものとなるだろう。
例えば、多くの人が苦しみを悪いものだと考えている。
しかしながら、わたしには苦しみを経験することには大きなメリットがあると思える。
それは、苦しみを経験することによって成長することが出来るからだ。
苦しみというものは、見た目には黒い煙のような嫌悪感を覚えるものである。
しかしながら、苦しみとは問題提起であり、様々な指摘を的確に与えてくれるものだと思えるのだ。
例えば、年齢の若い人は、年齢を重ねた人に比べると、人格に重みを感じることが少ない。
単純に考えると、それは苦しみを経験した量の違いなのではないかと思えるのである。

2017年8月8日火曜日

追憶 1766

すると、黒い獣の全身が光に包まれた。
そして、光の粒となって砕けたのである。
光の粒は、天に輝く大きな光の先へと帰りたいようであった。
そこでわたしは、光の粒を両の掌(てのひら)で掬(すく)い上げて、天に輝く大きな光に向かって進んで行けるように息を吹き掛けた。
すると、光の粒は春の突風に巻き上げられた桜の花弁(はなびら)のように優美に舞い、大きな光に溶けるように消えたのである。

欲望は黒い煙のような姿をしている。
それは、破滅的な性質を持っているからである。
一見すると、それは悪いもののように思える。
確かに、その状態を良いとは言えないだろう。
しかしながら、黒い煙である欲望の本質は、光の粒である。
大抵の人は、光の粒と聞けば、良いもののように思うだろう。

2017年8月7日月曜日

追憶 1765

光の十字架は、風呂場の磨りガラスを通り抜けて黒い獣に突き刺さった。
甲高い悲鳴が闇夜に響いた。
しかしながら、それは親友の耳には届かないものである。
わたしは吐き気に襲われて、ゲップによって黒い煙を吐き出した。
そして、目の前に円を描くと、光る扉が現れる。
それは、わたしと黒い獣を繋ぐ扉であった。
光の扉に腕を差し込んで、沈黙した黒い獣を掴む。
そして、こちらに引き抜くと同時に光の扉は消えた。
黒い獣には覇気がなく、眠っているように沈黙している。
わたしは再び宙に十字を描いて、光の十字架を膝(ひざ)の上の黒い獣に突き刺した。

2017年8月6日日曜日

追憶 1764

嫌な相手を助けようとすることが重要なのである。
大切に思う相手を助けようとすることは当たり前のことであり、誰にでも出来ることだ。
しかしながら、嫌な相手を助けようとすることは、誰にとっても難しいことなのである。
愛とは単純なものであると思えるが、それを行うのは難しい。
それは、多くの人が好き嫌いによって愛を壊してしまっているからである。
わたしは黒い獣との時間を楽しんでいる。
そのため、ここ(わたしの心の中)には愛が導かれたのであろう。
難しく、複雑に考えなければ、どこにでも愛は導かれる。
しかしながら、多くの人は過去や偏見や誤解に捕らわれてしまうのだ。
そのために、愛を導くことができずに争っているのである。
わたしは黒い獣を助けたい。
それは、親友の父親を助けたいからである。
ただ、それだけのことである。

2017年8月5日土曜日

追憶 1763

わたしは破滅的な性質を持つ霊的な存在に対しても好意を抱いている。
わたしにとっては、霊的な存在には善悪の境が無いのである。
天使だろうが、悪魔だろうが、どちらも大切に思うし、どちらと接している時も楽しいと思う。
それは、個性のようなものであり、人によって遊び方が異なるようなものだと解釈しているのだ。
黒い獣との遊び方は、天使との遊び方とは異なるが、同じように遊んでいることには変わりない。
わたしには、それが愛であると思えるのだ。
神様は、愛によって善悪の両方を創造した。
そして、善悪の両方が神様なのである。
という理論なのである。

2017年8月4日金曜日

追憶 1762

ただし、他者のために成るということを誤解してはならない。
多くの人が他者に対してただ尽くすことや、許(ゆる)すことだと思っているだろう。
確かに、誰かに対して尽くすことや許すことは素晴らしいことだとは思うが、必要な過程を経て、最終的にそのような行為に至るのであれば問題はないだろう。
他者に対して尽くすことや許すことに至るまでには、反対することや叱(しか)る必要もあるかも知れないのである。
本当に相手のことを考える時には、すべての感情や方法を可能性として必要とするのである。
そう考えると、愛とは、すべての感情が存在する場所にこそ生じるのではないだろうか?
光の十字架は天使?神様?の力であるが、これが美しく輝いているのは、それが喜怒哀楽のすべての感情を兼ね備えた力である愛だからだと思えるのである。

2017年8月3日木曜日

追憶 1761

わたしは、人生が自分自身のためにあると思っているが、自分自身のために成ることというのは、他者への貢献によって初めて実現すると思っている。
それは、他者を通じてのみ、人は自分自身に気が付くことができるからである。
とはいえ、わたしの場合はそこに打算はない(と思っている)。
経験として、自分の利益のために行動した時よりも、他者の利益のために行動した時の方が短期、長期に関係なく、結果的に心地好かったという程度のことなのである。
それは、他者のために行動することによって、結果的に自分自身のために成ると理解しているのだ。
わたしは自己犠牲など美しいとは思わない。
寧(むし)ろ、そこには偽善者の態度を垣間見(かいまみ)るような気がするのだ。
自分自身のために他者に対して行動するのではなく、他者のために行動した結果として、それが自分自身のために成るということだと思うのである。

2017年8月2日水曜日

追憶 1760

感謝の気持ちに導かれるようにして、わたしの右手は宙に十字を描いた。
すると、暗闇を切り裂くようにして、光の十字架が出現した。
感謝の気持ちがなければ、光の十字架を出現させることは出来ないのだろう。
霊的な存在を敵と見做(みな)し、争っている人には扱えない力なのである。
なぜなら、光の十字架は霊的な存在を痛め付けるための武器ではなく、救済するための道具であるからだ。
わたしは光の十字架によって、黒い獣を助けるのである。
天使?神様?から与えられた力というものは、自らの利益のためには扱えない。
わたしの扱える力は、それを向ける相手の利益のためにこそ与えられたのである。

2017年8月1日火曜日

追憶 1759

自尊心が愛情を見失えば、それは傲慢(ごうまん)となる。
傲慢に陥(おちい)れば、貢献は難しいのである。
わたし達の仕事は、黒い獣を助けることだ。
そのためには、自尊心の協力が必要なのである。
自分を整えていない者は、誰の手助けにもなれないのだ。
チームが内乱を起こしていれば、良い成果を導くことは出来ないのである。
わたしの説得を自尊心が受け入れると、黒い獣に対する感謝の気持ちが芽生えた。
黒い獣は、親友の父親の問題ではあったが、それは、彼が成長するためには必要な存在であったのだ。
自尊心を和らげ、問題に対しても愛情を持てば、そこには必ず感謝の気持ちが導かれるのである。