このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2013年7月31日水曜日

追憶 526

母親は好き嫌いが明確な人である。
それは価値観の偏りを意味するであろう。
自らの正義(好きなこと)に反することや人を許すことや、受け入れることができない人物は偏見を抱えている。
偏見がもたらすのは、文字通り偏った見方である。
物事を偏った見方によって見るのであれば、その判断を誤ることは明確であるだろう。
偏見を以てして、正しい判断など行えるはずがないのである。
わたしの中にも様々な偏見が存在しているからそのことが良く分かる。
何かや誰かを許すことができなかったり、受け入れることができなかった時には、例外なくわたしは苦しみを得た。
今までの人生がそうであったのだから、これからも同じであるだろう。
きっと、世界の理(ことわり)は変わらない。
この世界を快適にするためには、自らを変える以外に方法はないであろう。

2013年7月30日火曜日

追憶 525

それは、母親が抱える破滅的な意識である。
それらが、傾斜を与えられた水のように勢い良く流れ込んできた。
指先から流れ込み、胸の中に溜まる破滅的な意識に対して、わたしは強烈な不快感を覚えた。
それは、不満や不安や拒絶などの感情が一つにまとまった残飯を無理矢理食わされているような感覚である。
強烈な吐き気や気怠さがわたしを襲う。
わたしはこの状況に驚いた。
人の心とは、これ程の破滅的な意識を抱えているのであろうか?
自分自身の破滅的な意識も強烈ではあったが、母親の破滅的な意識はそれを遥かに凌(しの)いでいる。
母親はバセドウ病によって苦しんでおり、肉体的、精神的なストレスが主な要因であると推測するが、母親がこれまでの人生において築き上げた自己というものにも要因があるような気がした。

2013年7月29日月曜日

追憶 524

純粋な欲求というものは自我を離れたものである。
それは、愛というものであるのかも知れない。
見返りを求めずに施すことや、大天使ミカエルがわたしに下す指示などがそれに当たるだろう。
わたしが探しているのは、自我によって導き出される自発的な目的ではなく、相手のためだけの目的なのであった。
それは、能動的なものではなく、受動的なものである。
しばらく待っていると、わたしの中に純粋な欲求が芽生えてきた。
それは、「母親の心に触れたい」という欲求であった。
その欲求に従うようにわたしは右手を母親の背中に伸ばした。
不思議なことではあるが、純粋に欲求は必要な行動を無意識の内に教え、それを行わせる。
わたしが母親の背中に触れた瞬間に、母親の中からわたしの中に何か黒くて重たいものが流れ込んでくるような感覚に襲われた。

2013年7月28日日曜日

追憶 523

母親を真正面に座らせるのには抵抗があった。
母親だからだというのではないが、向かい合って座ることには恥ずかしさと気まずさがあった。
わたしは母親に対して、背中を向けて座ってもらうことにした。
まずは、自らの意識を集中することが必要であるだろう。
自分自身の準備ができていないのに、必要なことは行えない。
わたしは自らの心に向かい、静寂を探した。
割りと短い時間で静寂を感じることができた。
思っていた結果とは違っていたが、それが良い方の結果であったので嬉しかった。
この時、わたしは自分自身のために何かをする時よりも、他人のために何かをする時の方が力が増すことを改めて実感することができた。
真意は分からないが、わたしが普段よりも良い結果を残せたのはそのせいだと思っている。
わたしは静寂の中で自我を手放し、純粋な欲求だけを待った。

2013年7月27日土曜日

追憶 522

人は自分自身のことを知らないものである。
外面として作り出していると書いたが、別に自分自身のことを理解した上で外面として自分というものを作り上げている訳ではないだろう。
自分自身を理解してそれを作り上げている訳ではなく、剥がれ落ちる外面を繕うように人は自分自身を形成しているのである。
外壁の修繕に忙しいのであれば、家屋と室内に至っては手が回らないであろう。
わたしは自分自身が外面ばかりを気にかけて生きてきたからそう思うのである。
わたしは自分自身を見つめた時に、他人にも同じような特徴が見えるのに気付いた。
現時点においては推測の域を離れることはないが、わたしが抱えている問題を同じように他人も抱えているであろう。
母親の中にも、外面を繕うことによって内面が損なわれるという自己形成にあたっての間違いというものが、きっと存在しているはずである。

2013年7月26日金曜日

追憶 521

わたしは母親に実験の旨(むね)を伝えて協力してもらった。
母親は多少霊感というものを備えているように思える。
霊を見るとか、直感的であったり、察しが良いという感じではないが、何と無くそう思う。
根拠は無いのだが、わたしが感じる感覚を理解することができるのではないかと思った。

わたしは自らの心に触れるように、母親の心に触れてみようと考えた。
生まれてからこれまでの間、わたしは母親の言葉や表情、感情や行為などの外の表現に触れては来たが、それらの外面を生み出している内面に触れたことはなかった。
人と人は作り出された外面によって関わるのが普通である。
親子であってもそれは変わらない。
人と人は作り出された外面の情報によって判断しているのである。
どんなに自らをさらけ出しても、そこには自らを正当化する気持ちやプライドを拭い切ることはできないであろう。


2013年7月25日木曜日

追憶 520

人が自分自身に対して行えることは、少なからず人に対して施すことができるであろう。
わたしは自らの内側(体内や心境)に存在している破滅的な意識を取り除くことに多少なりとも成功していた。
これを他人に対して施すのである。
自分が心地好いのだから、きっと人もそのように感じるであろう。
その具体的なやり方は分からないけれど、その欲求がわたしを導いた。
わたしは母親に協力してもらって、自らの力を試すことにしたのである。
この実験によって、わたしは自らの力を多少なりとも理解することができるであろう。
そうすれば、自らの力が誰かや社会に対して貢献することができるものであるのか?
それとも、何の役にも立たないものであるのか?
ということが分かるだろう。
とにかく、わたしは自らの力のことを知る必要があった。

2013年7月24日水曜日

追憶 519

わたしが幸福を得るためには、意識的な充実と物質的な充実が必要である。
それは即ち、どのような考えを以てどのような事を行うのか?ということであろう。
好きなことや興味のあることをしなければ、意識的な充実も物質的な充実もないであろう。
好きでもないことや興味のないものを嫌々こなしたところで、何が満たされるのであろうか?
わたしはこれまでの自らの生き方がそれを満たすことができなかったから、それを繰り返してはならないのである。
人は自分のやりたいことをしなければならないと悟らざるを得ないのである。
わたしが好きなこと、興味のあることは、霊や人の心などの目には映らないけれども、確実にそこに存在しているものであった。
それがわたしを通じて他人や社会に対して貢献することが、わたしに幸福をもたらしてくれるような気がするのである。

2013年7月23日火曜日

追憶 518

お金さえ十分にあれば幸せになると考えている人の多くは、お金を得ることだけを考えている。
その結果だけを見て、手段は考えていない。
ただ、お金が欲しいのである。
意識的な満足さえあれば幸せになると考えている人の多くは、宗教や神という存在に頼る。
宗教や神という存在を信じてさえいれば救われると本気で信じていて、その結果しか見ていない。
だから、宗教や神という存在の名前を使って人道に反したことも行え、また何も行わなかったりする。
それは結果だけを見て、その手段のことを考えてはいないのである。
ただ、意識的な救いが欲しいのである。
極端な考え方は、人生を歪めてしまう。
二十歳までのわたしは物質的なもの(
お金や品物)だけを見て生きてきた。
その結果は散々なもので、自己が満たされているという感覚を得ることは遂になかったのである。
わたしはそのアンバランスを正さなければならないのである。
物質的な充実だけでは不足している。
意識的な充実だけでも不足しているのだ。
お金を得るのであれば、どのような仕事をした結果それを得るのか?
心の充足を得るのであれば、どのような信仰によってそれを得るのか?
結果だけを見ずに理念や手段にまで考えが及ぶのであれば、本当の意味での満足が得られるであろう。

2013年7月22日月曜日

追憶 517

すべての命はその意識を正しく美しく整えることによって満たされるであろう。
人が幸福を求めるのであれば、それを速やかに成さなければならない。
何を得ても、意識の充足がなければ意味がないのである。

目の前の問題を解決するためには、それを物質的な方法と、意識的な方法によって働きかけなければならない。
どちらか一方の方法では不足してしまう。
例えば、お金という物質的な方法によって解決することのできる問題は多いが、それだけですべての問題が解決する訳ではない。
宗教のように、神という存在を信じるという意識的な方法によって解決することのできる問題は多いが、それだけですべての問題が解決することもないのである。
人は物質的な豊かさと意識的な豊かさの両方を満たさなければ、人生の幸福は得られないものである。
しかしながら、自分自身を含めた多くの人はその方法に偏りがあるように思える。



2013年7月21日日曜日

追憶 516

人は心という意識を正しく美しくする程に喜びや豊かさを得ることができる。
それは、正しく美しい意識が人にそのような行動をさせるからである。
当然、受け取る結果もそのようになる。
人は自らの抱える意識に従って物事を行うが、それは人だけに限ったことではない。
犬や猫などの動物たちも、意識に従って物事を行っている。
飼い主から多くの愛情を受け取る動物は、心穏やかに暮らす。
意識が満たされ、心が満足しているならば、その行動も静かで穏やかである。
飼い主からの愛情を受け取ることができない動物は、例外なく心が乱れている。
意識が満たされることなく、心が傷付いて痩せ衰えているのであれば、その行動は騒がしく乱暴である。

2013年7月20日土曜日

追憶 515

人以外の生物にも意識は存在している。
犬や猫、魚や昆虫さえも、自発的に活動している。
そこに何らかの意識が存在していることは明白であろう。
植物にしてもそうである。
彼らが声を発することはないが、枝葉を伸ばし、花を咲かせる姿には何らかの意識を感じることができるであろう。
その感覚をより研ぎ澄ましていけば、自然の営みに対しても、そこに何らかの意識が存在していると思うこともできるだろう。
雨が降り、川が流れ、地が潤い、太陽が照らす…
このような当たり前のことに対しても、ただ当たり前にそのような活動があるのではなく、何らかの意識に従ってそれが行われていることを考えることもできるかもしれない。
世界中に意識が存在し、すべての事柄を動かす動力となっているのであれば、人生そのものが何らかの意識によって成り立っているという考えが出てくるのは、自然なことであろう。
人は自らの判断によって行動を決める。
その判断が人生を築く訳であるが、その行程が人の意識によって導き出されたものであるということは明白なのである。

2013年7月19日金曜日

追憶 514

この世界には意識があまねく行き渡っている。
人は思考や感情などの意思を持っている。
それが人の本質であるということは誰にも否定することができないであろう。
どのような主義の人物も、思考や感情によって人生を築くからである。
幸も不幸も、その思考や感情によって決まるのである。
それらが目には映らないから、うまく説明できないからといって、自らの思考や感情という意識を否定することができる人はいないであろう。
科学が発展するに従って、人は意識という存在を明確に捉えるようになるのではないだろうか?

命には意識が宿っている。
命とは意識である。
命とは肉体の持つ生命活動だけのことではない。
精神も命である。
そのように考えるなら、意識は人だけにあるものではないと思うのが普通である。

2013年7月18日木曜日

追憶 513

わたしに不快感を与える破滅的な意識は、わたしの内側にも外側にも確認することができた。
内側の破滅的な意識とは、自分自身が抱える劣等感や悲壮感やトラウマなどの苦しみである。
外側にあるそれは他人の心や頭の中、それに場所(空間)に存在しているのであった。
他人の中に存在している破滅的な意識は、自分自身が意識していなくても、その人の言動などによって一緒にいると不安を抱いたり、不満を覚えるなどの嫌な気分になるというような感覚が分かりやすいであろう。
場所(空間)に存在している破滅的な意識は、そこにいると居心地が悪く、何と無く嫌な気分になるというような感覚があると思うが、そのようなことである。
当然のことではあるが、心地好いと感じる建設的な意識も存在している。
わたしが意識に対して意識的に向き合う中で導き出した結論は、意識という目には映らない存在は、この世界のすべての場所に行き渡っているということであった。
この世界に意識の存在しない場所はないと思えるのである。


2013年7月17日水曜日

追憶 512

わたしの今回の挑戦は、それを知るためのものであるだろう。
これまでの不器用で不自由な生き方から、わたしはわたしを解放する。
わたしは人生の自由を手に入れ、楽しく生きていたいのである。

毎日、自らの心と向き合うことで、わたしは心の中に存在している破滅的な意識を掃除することが上達していた。
状況や心を整えた状態で瞑想しなくても、日常のあらゆる場面で気分が悪くなってゲップが出た。
ゲップが出ると楽になる。
そして、また気分が悪くなり、ゲップが出る。
その繰り返しであった。
意識的にやらなくても自然に出るということは、それが習慣として馴染んで来たということであるだろう。
それを更に追求すれば、より良い結果が得られるはずである。
わたしはこの力をもっと自然に、もっと自由に使いこなし、それを他人に対して役立てることを目標にしていた。

2013年7月16日火曜日

追憶 511

わたしは苦しみという名の人生を自由に泳ぎ、自分自身と多くの人を救わなければならないのだ。
救うことができるかどうかなど、今のわたしには先のことは分からない。
分からないから、試すのである。
わたしは自らの人生に対して、初めて挑戦したいと思えることに出会えた気がする。
これまでのわたしは挑もうとはしていなかった。
周りの大人たちがわたしに対して何かを押し付けてくることはあったが、それも渋々のことであった。
やるのはやるが、それが自主的なものになることは有り得なかった。
わたしにはやる気がなかったのである。
どうすれば良いかなんて分からなかった。
自分がどのように生きたいのか?
どのような人物になりたいのか?
何のために生きているのか?
何が心を満たすのか?
わたしは人生というものが何であるかを、全くもって分かっていなかったのである。

2013年7月15日月曜日

追憶 510

自分自身の心の膿を取り出すことができるのであれば、他人の心の中にある膿を取り出すこともできるかもしれない。
自分自身に対して行えることは、他人に対して施せるはずである。
もちろん、この考えは推測でしかなかったが、何と無くそう思える自分がいた。
他人を助けることができるのは、自分自身を救うことができる人物であるだろう。
自分自身のことが疎(おろそ)かな人物には、自分自身のことよりも難しい他人のことをどうこうすることはできないであろう、というのがわたしの持論である。
泳げない者が溺れている人を助けるために水に飛び込んでも、溺れている人を助けるどころか、その人にも辿り着けない可能性もあるのだ。
泳ぎの得意な者であれ、溺れている人を助けることは難しい。
泳ぎの得意な者であれ、溺れている人と共に溺れることもあるのである。

2013年7月14日日曜日

追憶 509

わたしはこれまでの人生の中で多くのことに傷付き、その傷口は膿を溜めてうずいていた。
わたしが行おうとしているのは、その傷口から膿を取り出す作業なのである。
傷口から膿を取り出し、傷口を塞ぐことができたなら、わたしの抱える劣等感や悲壮感、それにこの人生に対する空虚感も手放すことができるだろう。
傷口がうずかなければ、傷口に対して悩むことも心配することもないのである。
苦悩を考えている人が、それ以外の場所に辿り着けるだろうか?
苦悩を抱えていたわたしがこれまでの人生で辿り着いたのは幸福などではなかった。
やはり、わたしは苦しんでいたのである。
そこから抜け出すためには心の傷口を塞ぎ、より良い心を育てるということであろう。

2013年7月13日土曜日

追憶 508

瞑想をすることによって心の中に存在している汚れが取り除かれ、その結果として心が穏やかになり、身体が軽くなるのだから、それは良いことであると思える。
わたしは良い発見をしたと喜んだ。
それは、自分自身が心の汚れや歪みによって苦しんでいて、それを解消する可能性が見えたからである。
自らの心の中に存在している汚れやその歪みを解消すればどのようなことが起こるのであろうか?
わたしはそのように考えていた。
わたしが苦しみから抜け出すためには、今のわたしができることの中ではそれが最善の方法であるような気がしていた。
わたしは自らの心を治さなければならないのである。
それは、医者に見せても、薬を飲んでも治らないものである。
それは、心が汚れているのは病気ではないからである。
鬱病(うつびょう)という状態があるが、それは心が汚れて歪んでいる状態であると思っている。
心が汚れて歪むことによって、建設的な思考や感情を形成することができないのである。
わたしも自らの人生を考える中で、大きな虚無感に襲われたことが何度もある。
その度に、わたしはそれに飲み込まれまいと必死であったが、心が汚れを知らずに歪んでいなければ、鬱状態に落ち込むことはないであろう。

2013年7月12日金曜日

追憶 507

瞑想を繰り返す中で、わたしはあることに気が付いた。
それは、瞑想中に気分が悪くなることである。
今までは明確には分からなかったが、目を閉じると車酔いに似た感覚が襲うのだ。
吐き気に対峙していると、それが込み上げてくる感覚があり、ゲップが出た。
ゲップが出るとすっきりする。
瞑想をする度にそれの繰り返しであった。
わたしにはそれが何を意味しているのか分からなかったが、経験を重ねる中でそれが自らの内にある破滅的なもの(意識)であるような気がしていた。
人は生活の中で意識を汚していく。
その思考、感情、価値観は様々な影響力に従って歪んでいく。
それを正そうとする力がなければ、人の中にあっては心は汚れて歪む。
普通に生活しているだけでも部屋を掃除しなければ、それが汚れるのと同じことであろう。
わたしが瞑想することによってゲップをするのは、自らの心を掃除しているということなのである。
わたしは瞑想することによって、心の中に蓄積された汚れを取り除いているのである。

2013年7月11日木曜日

追憶 506

わたしが自らを救うためには、それらの思いから遠ざかる必要があった。
乱れた心ではその思いから遠ざかることはできない。
瞑想によって思いを制し、心を静めることが重要なのである。
ただし、思いを制し、心を静めることだけではならない。
不要なものを取り除くことは大切であるが、それと同時に必要なものを育てなければならないのである。
人は座っているだけではならず、動き働かなければならないのだ。
静と動が正しく導かれて初めて満たされるのである。
必要と不要のバランスが保てずに、豊かさは存在しないであろう。
わたしは自らの心と人生のバランスを考え直さなければならない時期にきていた。
ここで自らを見つめ直さなければ、わたしの人生は詰まらないものとして終わるに違いない。
わたしはただ歳を取った老人にはなりたくなかった。
老いた日においても役に立つ立派な人物になりたかったのである。
そのための今であるような気がしていた。

2013年7月10日水曜日

追憶 505

瞑想は日課として毎日継続していた。
どのように忙しくて疲れていても、わずかな時間であってもそれを休むことはなかった。
わたしは気の向くことであれば、それを飽きずに続けることができた。
自分のことを飽き性だと思っていたが、どうやらそれは間違いであったようだ。
わたしが何かに対して継続することができなかったのは、その対象に対する興味や楽しみが不足していたからであろう。
わたしが飽き性なのではなく、選択が間違っていたのである。
人がもしも、継続することができないのであるならば、それはその対象が間違っている可能性があるだろう。
どのような人も、好きなことには情熱的である。

瞑想をしていると、わたしは心(感情)が静まるのを感じた。
日常生活の中ではそれらは様々な方向に刺激されて高ぶる。
感情が高ぶり、心が乱れていると、知らず知らずの内に心は破滅的な意識によって汚れていく。
人や状況に対する苛立ちや焦りや心配などが、人の心を汚すのである。


2013年7月9日火曜日

追憶 504

そして、その力を人に分け与えることができたら素敵だと考えるのであった。
人が心に持つ何らかの煩(わずら)いによって苦しんでいるのであれば、わたしはそれを取り除きたいと思うのである。
そのためには、自分自身の心の中に存在している様々な煩いを取り除く術を身に付けなければならない。
わたしの心は多くの煩いによって束縛を受け、多くの苦しみを味わった。
わたしは自分で自分のことを歪んだ人間だと知っている。
その歪みがわたしに悪さをさせ、苦悩する状況を導いてきたのである。
わたしはその歪みを矯正し、正しい思いを以って生きなければならない。
正しい思いがあれば、心は豊かさを得るであろう。
豊かな心であれば、そこには分け与えるものが何かあるはずである。
わたしは意識的な力の強化と自らの心の矯正に努めることによって、人間的な成長を成さなければならないのである。

2013年7月8日月曜日

追憶 503

わたしが小さな思考を駆使して辿り着いた答えは「自立」であった。
自分自身のことが十分にこなせなければ、人のことにまで手が回らないであろう。
自分自身の食う分があって、分け与えることができるのである。
自分自身が不足しているのに、他人に与えるのは困難である。
例え自分自身が持っているものが少なくても、持っているものがあるのならば、そこから分け与えることができるだろう。
わたしは多くのものを持ってはいないが、せめて人に分け与えることができる量は持ちたいと思った。
そのために、自分自身のことを十分にこなし、自立しなければならないのである。
何かに依存している状態では既に不足している。
大切なのは分け与えることなのである。
分け与えるためには、多くのものを持っていなければならない。
わたしは意識的な力(霊能力?)が自分自身のために十分に活用することができるように、自分なりにより一層努めるのであった。

2013年7月7日日曜日

追憶 502

今のわたしには難しいことではあるが、わたしは意識的な力によって苦しんでいる人や霊の役に立ちたいという目的を持った。
それを具体的な形として組み上げなければならないのである。
今のわたしが目指すべきは、この不安定な力(霊能力?)を体系化することであろう。
そのような意思が導かれたことによって、わたしの考えと行動には変化が生じた。
これまでは、興味や好奇心に先導されることによって進んでいた道が、使命感や責任感に従って進むようになったのである。
自分自身のために求めていた道が自分自身のためのものではなく、自分以外の存在のためのものになる。
その感覚は、わたしを少しだけ「大人」にしてくれたようであった。

2013年7月6日土曜日

追憶 501

わたしの人生の幸福は、個人的な幸福の上に成り立つのであろう。
一般的な幸福を当てはめたとしても、わたしの人生の幸福は得られないと感じた。
わたし個人としての目的を果たすことが必要なのである。
個人的な目的を果たすことによって、わたしは個人的な幸福を得るであろう。
個人的な幸福を得たなら、人生という自分以外のことを含めた全体的な幸福を得ることができるのである。
全体的な幸福を以って、わたしは人生に幸福を得るであろう。

わたしは人生の幸福を得るために、個人的な目的の達成に乗り出さなければならなかった。
それは、全体的な幸福を達成するためである。
だから、わたしは全体(社会や人や命や自然や意識的な存在や世界)に対して貢献しなければならないのである。

2013年7月5日金曜日

追憶 500

それが、自分自身としての個人的な人生の目的だったのである。
生活を成り立たせることが人生だと思っていたわたしの考えは浅はかであった。
生活が成り立てば幸せだと思っていたが、そんなことで満たされる程、人生は簡単なものではなかったのである。
もしも、生活が成り立つこと、例えば家族が健康であり、家庭が円満で日常が安定することが人生の幸福であると言うのならば、わたしは生まれた時点から幸福であり、そこで迷うことも苦悩することもなかったであろう。
祖父が始めた養殖漁業を父親から引き継ぎ、素敵な嫁をもらって、仲の良い家庭を築く…
それは素晴らしいことであるのかもしれないが、わたしにはその未来や人生が虚しく見えたのである。
世間一般に求められている「幸せ」によって、わたしという個人が幸福になれるとは到底思えないのである。
もちろん、そのような幸せを否定している訳ではない。
わたしの中にもそのような幸せを欲する気持ちは大きくあった。
でも、それだけではわたしという個人が満たされることがないと思うのである。


2013年7月4日木曜日

追憶 499

わたしは様々な苦しみを味わったことで、ようやく自らの意思によって進みたいと思える道の入り口を見付けたのである。
わたしの苦しみは大したことはないだろうが、それでもわたしはもがき苦しんでいたのである。
苦しみには様々な種類があるだろう。
わたしの場合は、それは先が見えないという苦しみであった。
それは、停滞を意味する。
どれだけ仕事や生活が安定し、多くの物を所有し、食物によって腹を目一杯に満たしても、わたしの心が苦しみの束縛から逃れることはなかった。
わたしにとっては、金品には価値がない。
価値がないというのは語弊があるが、金品だけでは心や人生を満たすことができなかったのである。
わたしは必要以上(使用する以上)の金品を所有することによって、自身の人生に対しては金品よりも、もっと価値のあるものが必要だと思うようになった。

2013年7月3日水曜日

追憶 498

人は皆、向上心を持って生きなければならない。
向上心を持って生きるためには、向上心を持つことのできる道を選択する必要があるだろう。
人は自分の興味が及ぶものでなければ向上心を持つことができない。
わたしがこれまでの人生において向上心を持つことができなかったのは、自らの進んでいる道に興味がなかったからである。
本当の意味で楽しかったことがあっただろうか?
きっとなかった。
そう思い込みたかったのは、道を知らなかったからである。
人生には様々な可能性が存在しているが、わたしにはそれを見付ける力量はなかったのである。
それは苦しみ以外の何ものでもなかった。
興味の湧き立つ道を知らず、向上心を持たずに生きることは心への拷問である。
興味を持たずに楽しまず、向上心を持たずに怠慢な人生には喜びが存在しない。
そのような人が苦しむのは当然のことなのである。


2013年7月2日火曜日

追憶 497

わたしには、意識的な力によって人や社会の役に立ちたいという目的意識が芽生えていた。
わたしは自分の好きなこと、自分の楽しいこと、自分ができることを人の中に投じなければならないのだ。
社会はサービスの台頭によって成り立っている。
様々なサービスが同業種間で競い合い、より良いものを社会に提示することによって暮らしは高まる。
人は豊かな社会を求めている。
ならば、より良いもの(サービス)を提示することが必要であるだろう。
人(個人)がより良いものを提示することがなければ社会に発展はなく、社会の発展がなければ人生の豊かさも得られないのである。

2013年7月1日月曜日

追憶 496

これまでのわたしの生き方では人生の幸福には辿り着くことができないと理解した。
わたしはたくさんの悪事を働き、苦悩の中に生きていたのである。
わたしが感じる幸福の中には、それに反するようにいつも苦しみが潜んでいた。
わたしはそのことに気が付いていながら、それが幸福であろうと思い込んでいたし、その矛盾を指摘しようなどとは思わなかった。
矛盾を指摘することで、必死に掴んでいる希薄な幸福でさえ、指の間をすり抜けて消えるのが怖かったのだ。
何をしてもわたしの心が満たされることはなかったが、わたしはその見かけだけの幸福にしがみつこうと必死にもがいていたのである。
わたしは苦しみの中に在って、それが愚かな行為であることにようやく気が付いた。
幸福とは、心が満ちることであろう。
わたしにも、幸福というものの正体は分からない。
しかしながら、今までのわたしが抱えていた「何か」は幸福とは程遠いものであったことは理解することができるのである。