日課の瞑想は、その度にわたしの感覚を少しずつではあるが磨いてくれているようであった。
それは、錆びた刃物を研いでいくように、わたしの心にこびり付いた錆を落としていく作業である。
心の錆を落としていく度に、本当に少しずつではあるが自らの意識が「世界」に浸透していくような気がする。
わたしを取り囲む様々な存在に対して自らの意識が手を伸ばし、直にそれに触れる。
それは、目で見て、肌で触れる感覚(五感)とはまた違う形でわたしの中にその対象を認識させるようであった。
心の眼で観て、心で直に触れるような感覚である。
それは、感覚を超えた感覚…
いや、それは本能への帰依であるだろう。
わたしたち人間は、本能から脱することで理性を保つことを覚えた。
そして、理性は人間を動物から文化を持つ人へと進化させた。
しかしながら、理性はある意味、本来持っている力を抑えるという側面もあるだろう。
人は理性によって文化を得る代わりに、本能の中に備わる意識的な力を(ある意味)見失ってしまったのではないだろうか?
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