もちろん、何を信じるかは個人の自由だ。
どのような価値観を持っても良いのである。
しかしながら、目に映る形だけを信じることしかできないのは寂しい。
それは、「お金さえもらえれば友人を裏切っても構わない」過剰な表現ではあるが、わたしにはこのように聞こえてしまうのである。
まぁ、目に映る表面的な利益ばかりを求めた結果が、友人である自然を破壊して富を得るという形になっていったのだから強(あなが)ち間違いでもない。
わたしも意識的な存在を感じることがなかった頃は、目に映る形ばかりを求めていた。
罪もない小さな命を殺すのも平気だった。
むしろ、そこに快楽さえ感じているほどだった。
人の気持ちなんて考えられなかった。
自分の考えを押し付け、従わなければ争っていた。
意識的な存在を感じることのなかった頃のわたしは、大切なものが(今よりも)全く見えてはいなかったのである。
人の心も目に映ることはないが確実に存在しているものである。
ある意味、人の心も意識的な存在である。
「神」と同じものなのである。
意識的な存在を感じることは、人の心も感じることに繋がるのではないだろうか?
もちろん、自らの心にも。
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