それからのわたしは、以前にもまして瞑想に対して多くの時間を費やすようになった。
相変わらずの腰痛が許す限り、わたしは心を鎮め座るのであった。
腰痛は自然的に発生し、自然的に治まっていた。
痛みが完全に消え去るということはなく、右足は常に痺れているような状態ではあったものの、痛みが比較的に弱い時には仕事にも精を出していた。
しかしながら、無理をし過ぎると腰に限界がきて寝込むことになる。
横になり安静にしていることや鍼灸院で治療を受けることで、腰の痛みを何とか誤魔化しながら日々を過ごしていた。
そんな毎日の中、何時の間にかに金縛りには遭遇しなくなっていた。
金縛りにはなるようにと願いながら眠りに就くものの、「当たり」はパッタリとなくなっていたのであった。
まぁ、腰の具合が芳しくなかったのもあるので、金縛りどころではなかったではあろうが…
しかしながら、わたしはそこに寂しさや不安を感じることがあった。
理想としては、霊などの意識的な存在や世界を捉えるところにある。
その感覚がパッタリと止めば、理想から遠ざかることになり、そこに寂しさや不安が募るのは当たり前のことであろう。
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