彼らに近付く程に恐怖心は薄れ、親近感のような感情が湧いてくるのであった。
わたしは自らの内側を覗くことによって腰痛が治るのではないかと考えていた。
そして、その副産物として意識的な視点が生まれるのではないかと思っていた。
しかしながら、霊の存在を捉えた後もわたしの腰痛は続いているのだった。
これまでの二ヶ月間程、わたしは毎日暇さえあれば瞑想に努めていた。
瞑想をしたことで自らの内側を捉えられたかと言えば疑問である。
霊のことを見ることが出来るようにはなったけれど、自分自身の内側のことは何にも見えてはいなかった。
瞑想によって見えてくるのは、自らのどうでも良い考えや、不規則な思い出や鼻歌ばかりであった。
自分自身の心や人格を探すが、そんなものはどこにも見つからなかったのである。
わたしは計画の見直しを考えていた。
自らの内側に心や人格を探す必要などないのではないかと考えるようになった。
腰痛はとても辛いし、その苦しみから逃れたいとは思うけれど、今は霊を捉える意識的な視点を育てる必要があるのではないかと考えるようになる。
出来ないことを求めるよりも、出来ることをやっていく方が先決なのではないだろうか?
ふと、そう考えたことがあった。
わたしに出来ることと言えば、少しではあれど霊を捉えること。
それがとても大切であるように感じた。
わたしは、腰痛を治すという目的は一旦置いておいて、霊を捉える意識的な視点の成長に努めることにした。
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