このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2016年12月31日土曜日

追憶 1573

人間はそれ等を別々なものとして信じている。
過去は過去であり現在は現在、そして、未来は未来なのである。
そのために、人は現在という場所に存在しながら、過去を嘆(なげ)き、未来を切望する。
もしくは、過去を賛美して、未来の訪れを拒むだろう。
それは、世界に否定を持ち込んだ結果である。
否定的な感情は時間を分断し、同時に世界を分断する。
そのために人は苦しんでいるのかも知れない。
受け入れるという行為は、過去、現在、未来を同時に認識することなのではないだろうか?

2016年12月30日金曜日

追憶 1572

子どもが燃料の残量やわたしの結末を知っていたのかは分からないが、わたしが子どもによって助けられたことは疑うことは出来ないだろう。
考えても分からないが、霊的な存在は人間とは違う時間感覚で存在しているのかも知れない。
例えば、人間の感覚では未来という状態が霊的な存在にとっては未来という状態ではないのかも知れない。
時間軸を移動する訳ではないのかも知れないが、すべての時間軸に存在しているのかも知れない。
例えば、樹木には過去と現在と未来が同時に存在している。
黄色く色褪(いろあ)せた葉や、地に落ちて朽(く)ちる葉は過去であり、緑に茂る葉は現在、そして、小さく控える芽は未来である。
人間はそれ等を別々に認識しているが、霊的な存在はそれ等を同一視しているのではないだろうか?

2016年12月29日木曜日

追憶 1571

わたしの感謝の言葉に、老女は穏やかに返した。
燃料の満ちたバイクは、以前よりも力強く感じた。
快調な排気音は、気力に満ちていた。
それはわたしの心配事が消え去ったからであろうか?
バイクも心も軽かった。

帰り道で、わたしは山で出会った子どもを思い返していた。
彼は人間ではないだろう。
恐らく、山の神様か精霊なのではないだろうか?
彼がわたしを通さなかったのは、バイクの燃料が不足していることを知っていたからではないだろうか?
わたしが自分の思う通りに奥へ進んでいたなら、すぐに燃料が尽きていただろう。
そうすれば、民家もあるかどうかも分からない山道で困り果てていたはずである。
あの時に引き返したことで、わたしは麓のガソリンスタンドまで無事に辿り着くことができたに違いない。

2016年12月28日水曜日

追憶 1570

ガソリンスタンドは無人であり、照明すら灯っていない。
周囲に人の気配はなく、わたしは新たな課題を得た。
わたしはこの状況から導き出せる最善の選択を思案していた。
すると、室内の壁に建設会社の名前を見付けたが、その文字を道を挟んだ建物に見付けた。
どうやら、このガソリンスタンドは、建設会社が運営しているようである。
そこでわたしは、建設会社に向かったが、日曜日であるために無人であった。
そこで、隣接している自宅と思われる建物に伺(うかが)った。
玄関のチャイムを鳴らすと、しばらくして老女が現れた。
彼女は初めて見るわたしを不思議そうに眺めた後、穏やかに話を聞く姿勢を整えた。
そこでわたしは挨拶をして、ここに至る経緯を話した。
事情を汲(く)んでくれた彼女は、快(こころよ)くガソリンを分けてくれた。

2016年12月27日火曜日

追憶 1569

わたしは何も気にしてはいなかった。
わたしには何の問題も生じていないのである。
ただ事実を受け入れ、そこから導き出せる最善だと思える選択をするだけだ。
今はリザーブタンクの燃料があるから、それを使って走れるところまで走る。
燃料が尽きれば、尽きた時に導き出せる選択をすれば良いのである。
”燃料が尽きたらどうしよう”
などということは考えなかった。
思考は反射的に不安を考えていたかも知れないが、気にしてはいなかったのだろう。
聞こえていたように思うが聞こえていなかったのかも知れない。
わたしに出来ることは残された燃料で走行することだけである。
他に出来ることがないのだから、他のことを考える必要はないのだろう。
ダムを過ぎ、わたしはいつの間にかに麓のガソリンスタンドに到着していた。

2016年12月26日月曜日

追憶 1568

わたしはフューエルコックをリザーブに切り替えた。
故障でなければ、これで多少の距離を走行することができるはずである。
セルモーターを回すと、エンジンは快調に始動した。
ギアをローに入れアクセルを開くと同時にクラッチを接続する。
すると、何の問題もなく走行を始めた。
ギアを上げても問題はなかった。
ガス欠が原因だったのであろう。
桜並木が心に触れることはなかった。
わたしは麓(ふもと)の地区に小さなガソリンスタンドがあったことを思い出していたのだ。
営業している様子はなかったが、そこまで辿り着けば何とかなるだろうという算段なのである。

2016年12月25日日曜日

追憶 1567

不思議に思ったが答えが見付からなかったので、再び走り出そうとした時、エンジンが沈黙した。
わたしはガス欠を疑い、車体を左右に振ってみた。
すると、タンクの中ではガソリンの揺れる音がしている。
念のため、給油口を開いて中を覗いてみた。
多少の燃料は残っているようであったが、ほぼ空の状態であった。
わたしはやっと、リザーブ(予備)タンクの存在を思い出した。
バイクの燃料タンクは、メインタンクとリザーブタンクの二重構造になっている。
メインタンクの燃料が空になったとしても、リザーブタンクの燃料を使って少しだけ走行することができるのだ。
ガス欠のための保険である。

2016年12月24日土曜日

追憶 1566

わたしは集落を過ぎ、再び桜並木に差し掛かった。
すると、急にバイクの速度が落ちた。
不思議に思い、アクセルを開ける。
すると、更に速度が落ちる。
心地好く鳴いていた排気音は乱れ、明らかに弱っていた。
そして、エンジンが止まってしまった。
バイクは残りの運動エネルギーを消費して沈黙した。
鳥の囀(さえず)りがヘルメットの向こう側で聞こえている。
わたしは周囲を見渡した。
それは、子どもの言動に対する答えがあるのではないか?と考えたからである。
しかしながら、めぼしいものは見付からなかった。
そこで、バイクの不調を疑い、もう一度エンジンを点火してみた。
すると、軽快な排気音と共にエンジンが始動した。

2016年12月23日金曜日

追憶 1565

考えても分からないことは考えても仕方が無い。
だからわたしは子どもの言葉に対する答えを自分の中に探すことをやめた。
どちらにしても、答えは後から分かるのである。
今のわたしには分からないことも、後のわたしには分かるのだ。
人生はいつもこのパターンである。
わたしは事あるごとに、後に答えを受け取っていた。
今回も同じことだろう。
わたしは子どもとの体験を既に手放していた。
それは、置き去りにした過去であり、わたしは”今”バイクで走っているのだ。

2016年12月22日木曜日

追憶 1564

沈黙する子どもを見つめていると、不快感に襲われた。
それは、他人から拒否されていると感じる感覚である。

”帰れ”

言葉は強くなっていた。
わたしは子どもに対して、何か不快なことをしたのであろう。
わたしにはその理由が分からないが、子どもはわたしを拒絶しているということは、子どもが嫌がる何かをしたのであろう。
わたしは子どもを傷付けてしまったのかも知れない。
わたしはこれ以上ここにはいられなかった。
わたしは申し訳なく思い、ヘルメットの中で別れの挨拶をした。
そして、バイクを反転させて帰路に着いた。

2016年12月21日水曜日

追憶 1563

それから子どもは沈黙した。
わたしは自我意識の反発心と向き合っていた。

”先へ進もう。そこにはきっと新しい発見があり、成長することができるよ”

自我意識は、わたしの欲求を知っている。
それは、詐欺師のように味方を装う。
その手法は巧妙(こうみょう)であり、疑わなければ気が付かない。
詐欺師は詐欺師だと認識されないから詐欺師なのである。
”普通”の人たちには、自我意識という詐欺師の存在にすら気が付かない。
自我意識に誘導されているにもかかわらず、自分で選択していると思い込んでいる。
多くの人が、宣伝や広告に誘導されて、自分には必要のないものや、本当は欲しくないものを購入しているが、それは自我意識の誘導による結果なのだ。
自我意識は本当に必要なものを否定(反発)する。
そして、本当は必要のないものに執着させようとするのである。
わたしが抱えている先へ進みたいという欲求は、本当は必要のない選択であるが、自我意識にとっては必要な選択なのであろう。

2016年12月20日火曜日

追憶 1562

わたしは無音の中で、離れた子どもと向き合っていた。

”帰った方が良い”

子どもの声だった。
それは穏やかな声色であったが、強い意志を感じさせる。
子どもはわたしをこれ以上先には進ませたくないようであった。
わたしが子どもの声に思考する時には、排気音が耳を揺らしていた。
わたしの自我意識は先へ進みたいと切望していた。
先に何があるのかを見たいのである。
自我意識は状況に対して反発する性質を持っている。
子どもに否定されたことに対して反発しているのである。
わたしは必ずしも先へ進む必要はないのだが、自我意識が反発しているために先へ進みたいという欲求に執着してしまう。
自我意識は、子どもに対して”自分の邪魔をするな”と言っているのである。

2016年12月19日月曜日

追憶 1561

それは、7、8歳くらいの男の子であろうか?
杉が作り出す影によって断言することが出来ない。
しかしながら、その子どもが着物を着ていることは理解することが出来た。
着物からは素足が伸びていた。
何も履いていないようだ。
子どもは道を塞ぐように仁王立ちをしている。
まるでわたしを通さないようにしているようであった。
それにしても、いつの間に現れたのであろうか?
この先に民家があるのだろうか?
近くで遊んでいて、知らない人間を観察しようとして出てきたのだろうか?
なぜ着物を着ているのだろうか?
わたしの頭の中では、様々な憶測が飛び交っていた。
耳を揺らす排気音が次第に小さくなっていった。

2016年12月18日日曜日

追憶 1560

休憩に満足したわたしは、この後どうするか迷っていた。
このまま奥へと進むのか?それとも引き返すのか?ということである。
奥へと続くのは、杉が覆う真っ直ぐな道である。
少し先で曲がっているために、わたしは好奇心を刺激された。
日も高いし、予定がある訳でもない。
このまま帰宅するのも面白くない。
わたしは道を進むことに決めてバイクに跨(また)がった。
小さくエンジン音を立てながら、奥へと続く道を正面に置いた。
心の準備をして走り出そうとした時、少し先の道を塞ぐようにして子どもが立っているのが見えた。

2016年12月17日土曜日

追憶 1559

わたしはそこにいなかった。
しかし、有ったのだ。
川の流れに戯(たわむ)れる気泡も、木々を揺らす春風も、そのすべてには隔たりが無く、一つであった。
わたしがそこにいたのであれば、わたしは自分という個体であっただろう。
わたしは全体としてそこに有ったのである。
わたしはすべてを眺めていたが、何も眺めてはいなかった。
個体の視界は狭い。
そのため、情報の不足は必至である。
無知には必ず独自の解釈が導かれ、全体を歪んで認識する。
そこには何の理解も導かれないであろう。
自我意識を抱える多くの人が誤解を生きるのはそのためである。
全体として存在するのであれば、運命論的な立場を取るであろう。
すべての事柄が予(あらかじ)め決められているのかは分からないが、目の前に導かれる状況を受け入れることは出来るのである。


2016年12月16日金曜日

追憶 1558

わたしはぼんやりと川の流れを眺めていた。
聞こえてくるのは自然の音だけである。
わたしは何を眺めていたのであろう?
何を聞いていたのか?
わたしは水の中の気泡を眺めていたが、それを眺めてはいなかった。
あらゆる自然の音を聞いていたが、それを聞いてはいなかったであろう。
わたしは何をしていたのだろうか?
それはわたしにも分からない。
きっと、わたしはそこに有ったのだろう。
わたしは何もしていない。
橋の上にわたしはおらず、そこには誰もいなかった。

2016年12月15日木曜日

追憶 1557

見渡しても人の姿が見えない。
生活の痕跡(こんせき)は見て取れるが、人の気配を感じないのである。
人が住んでいないように見える民家もあるが、洗濯物が干してある民家もあった。
住民は仕事にでも出ているのだろうか?
余所者(よそもの)のわたしにとっては住民に怪しまれないことを嬉しいと思う反面、何処と無く寂しくもあった。
わたしは心の中で”お邪魔します”と呟きながらバイクを走らせた。
集落を抜けると大きな橋があった。
橋のたもとにバイクを停めて、しばらく休憩することに決めた。
それは、橋からの眺めがとても美しかったからである。

2016年12月14日水曜日

追憶 1556

畑が増え、田んぼが目に入る頃には、人の生活に触れていた。
そこにはどこか懐かしい風景が広がっていた。
わたしの幼い頃の空気がそこにはあったのだ。
木製の電柱は、背の低いものが道端に一本だけ残っており、今でもクレオソートの黒さを残している佇(たたず)まいは、わたしを幼心へと回帰させるようであった。
わたしは再びバイクを停め、恐らくは20数年振りの再会に自分勝手に酔い痴れていた。
感慨(かんがい)に浸り終えると、わたしは再びバイクで走り始めた。
すると、道に覆い被さるように民家の屋根が現れた。
狭い土地柄なのか、道路と民家の距離が近いのである。
一段高い場所に建てられた民家であるが、道から窓を開けられそうな程の距離であった。
わたしにとっては、そんなことが新鮮であり、楽しかった。

2016年12月13日火曜日

追憶 1555

何度もカーブを曲がった。
川に沿うように道が作られている。
この川がダムへと続いているのだろう。
アスファルトの道には杉葉によって綺麗な轍(わだち)が形作られていた。
これは、日常的に車が通る証拠である。
杉葉は5cmほどは降り積もっているであろう。
そこに湿った黒いアスファルトが顔を出している。
わたしは左のタイヤが通った跡に従って慎重に道を進んだ。
すると、小さな橋の先に石垣の畑が見えた。
手入れされた畑が人の存在を知らせた。
わたしは、もう少しで集落に到着するという期待に胸を躍らせた。

2016年12月12日月曜日

追憶 1554

するとまた走りたくなった。
バイクに跨(またが)り、わたしは桜に誘われるように道を奥へと進んだ。
桜並木を抜けると、一層細い道に入った。
それは、軽自動車同士でもすれ違うことが難しいのではないかと思えるような道である。
樹々は鬱蒼(うっそう)と茂り、空を覆い隠している。
肌寒さが太陽の存在を忘れさせようとしていたが、木漏れ日が辛うじてそれを引き止めていた。
桜の賑(にぎ)わいに比べると、ここはとても淋しい場所であった。
わたしの心の中では、自我意識が不安を生み出し始めている。
バイクを操作しながら、自我意識を宥(なだ)める。
その一方では、真(本当の自分)が好奇心を生み出していた。
わたしは真に従いたいのである。
この先には集落が存在しているはずだ。
わたしはそれを見たいのだ。

2016年12月11日日曜日

追憶 1553

しばらく休んでいると、わたしは自分が山と同化するような感覚を得た。
わたしという生命体が、山という生命体に受け入れられたように感じたのである。
そこでわたしは心の中で山に挨拶をして、今日の目的を伝えた。
すると、バイクで走りたくなったので、目的の桜を探しに向かった。
走り出してすぐに目的の桜並木に到着した。
バイクを停めてエンジンを切ると、再び静寂が訪れた。
淡いピンク色が青空に映えていた。
八分咲き程度の桜の並木は壮大な眺めである。
時折、風が桜の花を揺らす。
それは冬を凌(しの)ぎ、春に咲き誇る生命の喜びを教えてくれているようであった。
わたしは桜の樹を褒(ほ)めて、感謝の気持ちを伝えた。

2016年12月10日土曜日

追憶 1552

澄み渡る青空は、宇宙空間に存在する星々の概念を忘れさせた。
春の日差しは世界を鮮明に映し出す。
少し肌寒く感じる風と淡々と耳に届くバイクの排気音、そして、コーナーを走る時の遠心力が心地好かった。
わたしは自然と人工を堪能していた。
目的の桜が霞(かす)む程に、ただバイクで走ることが楽しかったのである。

ダムに到着すると、わたしはバイクを停めて一休みすることにした。
遠くから鳥の囀(さえず)りが聞こえてくる。
時折、風が枝葉を揺らす音がするが、他に音は無かった。
わたしにとってはこれだけでも価値がある。
人間活動が生み出す騒音に囲まれた日常は、わたしにとっては苦悩でしかない。
森の中には耳が痛くなる程の静寂が存在している。
森の中で独りでいる時には、自分の足音が五月蝿(うるさ)く感じてしまう。
自分の鼻を通過する空気の音が気に障ったことがあるだろうか?
森の中では心臓の鼓動でさえ聞こえてくるようである。

2016年12月9日金曜日

追憶 1551

冬が終わりを告げる季節になると、人は桜に焦(こ)がれるものだ。
毎年見る桜も、それに飽きることはない。
桜の季節が近付くと、わたしはどうしても出掛けたくなる。
今年はバイクという相棒がいるためにその気持ちは一層強いものであった。
わたしは桜並木の道をバイクで走りたかったのである。
20kmも走らずにダムがある。
ダムの奥には小さな集落があり、何世帯かの人達が暮らしていた。
普段は住民以外は訪れないような立地のその集落は、今だに木製の電柱が残るノスタルジックな雰囲気の場所である。
わたしは幼い頃に一度だけ何かの用事で訪れたことがあるが、それからは集落の存在さえ忘れていた。
わたしがその集落を思い出したのは、ダムの奥の道に桜並木があることを思い出したことがきっかけであった。
そこでわたしは、お花見がてらにその集落を訪問してみようと思い立った。

2016年12月8日木曜日

追憶 1550

事故はわたしに多くの豊かさを導いてくれた。
事故はわたしの抱える自我意識を取り除き、身軽にしてくれた。
どのような”不幸”にも自我意識を取り除き、人を真(本当の自分)へと近付ける力があるだろう。
あなたが何かの問題を抱えたとしても、それは自我意識を取り除くための作業だということを忘れないでいて欲しい。
わたしたちは誰もが歪んだ存在である。
その歪みを矯正するために人生があるのだ。
すべての状況には大切な意味があると理解するのであれば、心を汚さずに済むだろう。
あなたがどのような問題を抱えていようとも、それに負けないで欲しい。
克己(こっき)によって、無意識の責任転嫁に対応するのである。
そうすれば、どのような問題も問題と成ることはなく、どのような不幸も不幸には成り得ないだろう。

2016年12月7日水曜日

追憶 1549

構造と理論をある程度理解すれば、後は組み立てるだけである。
見た目には複雑に見える機械も、その仕組みは単純なものである。
わたしはバイクを自力で修理し、再び走れるようにした。
これで、いつバイクが故障したとしても、ある程度は対応することができるだろう。
知っていることと知らないことには大きな違いがある。
バイクの構造をある程度知ったことによって、わたしは不安を取り除くことができたし、幾つもの新たな発見をしたのであった。
これはわたしにとっては大切なことだ。
どのような知識であっても、知っていることには価値がある。
世の中には知識の価値を知らず、それを必要としない人達がいるが、その人達は多くの問題を抱えることになるだろう。
知っていれば問題にならないことであっても、知らなければ問題として成り立つのである。

2016年12月6日火曜日

追憶 1548

わたしには問題がもう一つ残っていた。
それは壊れたバイクである。
バイクを修理しなければならないのだ。
安易に考えれば、バイク屋に持ち込んでしまえば良い。
お金を払えば簡単に解決する。
しかしながら、それでは何の学びにもならないのである。
わたしは自分で何かを学ぶために事故に遭ったのであって、誰かに学びを委託(いたく)するためではないのだ。
そこでわたしは、何の知識も技術も無かった”ので”、自分で修理しようと思い立った。
そこでわたしは、バイクの構造を学び、必要な部品を取り寄せた。

2016年12月5日月曜日

追憶 1547

黒い男のことは、彼には黙っていた。
それは、彼には黒い男の存在を知る必要がなかったからである。
学びとは、それぞれに独自のものである。
わたしが黒い男を体験したからといって、彼にもそれが共通する訳ではない。
彼に黒い男の話をしたところで、そのアプローチの方法では理解し難いのである。
それぞれの理解し易い方法によって学べば良いだろう。
文字が良ければ文章で良い。
数字が良ければ数式で良いのだ。
人生はそれぞれの学びなのである。
それに、彼にとっての必要は、既に光の仕事によって満たしている。
これ以上の情報は必要ないだろう。
わたしは独りで、彼への光の仕事が終わったことを喜んだ。

2016年12月4日日曜日

追憶 1546

わたしが黒い男を認識することができたのは、心を汚さなかったからであろう。
心が澄んでいたから、見極めることができたのではないだろうか?
心を汚すということは、ネガティブな感情によって思い悩むということである。
心の中に多くの感情を抱えているのであれば、視界は悪くなるのだ。
雨の日には、雨粒や靄(もや)によって視界が奪われるのと同じである。
雲一つ無い晴天であれば、視界は開かれる。
心の中も、自然界も違いはない。
それは、意識的な方法も、物質的な方法も違いがないということなのである。
どちらの方法からアプローチしても構わない。
どちらにしても辿り着くところは同じである。
数学、物理学、哲学、文学、経済学、医学、生物学、天体学、心理学、形而上学(けいじじょうがく)…
どのような学問であっても、すべてが真理に向かって続く道なのである。

2016年12月3日土曜日

追憶 1545

霊的な方法に拘(こだわ)る必要はない。
唯物的な方法であっても、十分に真理を得られるのである。
人生を考えてみると、霊的な現象(自らの意識に触れる状況)は稀(まれ)である。
大抵の状況において、わたし達は霊的な現象を認識することはできない。
ほとんどの状況を唯物的であり、表面的な認識によって生きているのである。
わたしは黒い男によって霊的な現象を体験することができたが、大抵は彼のように霊的な現象を体験することなく学びを得るのである。
霊的な現象を体験しようとするまいと、そこで心を汚すことなく有れば良い。
心を汚すことなく有ることは、霊的な現象も能力も必要ではないのである。

2016年12月2日金曜日

追憶 1544

独りになると、この時点において、彼への光の仕事がようやく終わったことを理解した。
彼が持ち込んだ仕事は、わたしも彼と同じように体験し、しかし、別の結果を導くということで解決するものであったのだ。
それは、実際に状況を変えるということを見せる必要があったのである。
光の仕事とは、宗教や占いのような机上の空論であってはならない。
それは、実践的な作業によって自らを改めていくことなのである。
実体験を通じて導かれる言葉や行為でなければ意味がない。
教えられたこと、暗記したことをただ伝えることには価値がないのだ。
そのため、どのような道であっても、それをより深く進もうと考えているのであれば、実体験の重要性を理解しなければならない。
日常の中にこそ、道が存在しているのだ。

2016年12月1日木曜日

追憶 1543

男を引き寄せて抱き締めると、それが自分自身であることに気が付いた。
男はわたしではないが、わたしなのである。
人は選択の違いによって状況(状態)を分かつ。
男はわたしとは真逆の選択をした。
わたしと彼は、選択によって道を分岐するまでは同じ線上にあったはずだ。
もちろん、これは意識の状態のことである。
男が苦しみを選択しなければ、わたしと同じ喜びの道を歩んでいたはずだ。
そのため、男はわたしなのである。
今、男は喜びの線上に存在しているだろう。
穏やかな表情を見れば分かる。
男とわたしは再び一つになったのである。
天から射す光が、わたしに時間を告げた。
わたしは男を手放した。
すると、死神が男を抱きかかえ、ゆっくりと上昇を始めた。
死神はやはり敵対する存在ではない。
わたしたちは同じ仕事をしているのだ。
死神からは強大な慈愛のようなものさえ感じる。
天が閉じると、わたしは部屋で独りになった。