このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2015年7月31日金曜日

追憶 1054

わたしは女の生み出した恨みの感情に感謝した。
すると、右手が宙に十字を描く。
わたしはこれから、光の十字架を投じるのだ。
女と老人と、そして、男性をこの苦しみから解放する。
それが、わたしの仕事である。
迷いなく飛んだ光の十字架は、黒い顔の額から内部に埋まった。
すると、内部から徐々に光が広がって、やがて全体を包んだ。
それは柔らかな光であり、そこからは優しさが感じられた。
大きな悲鳴と共に、黒い顔はその形を崩していく。
輪郭(りんかく)の曖昧(あいまい)さに比例して、恨みの感情も薄れていくような気がした。

2015年7月30日木曜日

追憶 1053

これが女の抱えている恨みの姿であろう。
恨みの感情は自制心よりも巨大に育ち、自分自身をも飲み込んでしまうのだ。
女は自分自身でさえ、恨みの感情をコントロールすることができない状態であったのではないかと推測する。
きっと苦しかったはずだ。
恨みの感情が排出されると、女はその場に倒れて動かなくなった。
女を動かしていたものは、恨みの感情であったのだろう。
今や本体は恨みの感情の方である。
しかし、”これ”を育てたのは女の弱さである。
女は、自らの弱さを理解するために恨みの感情に飲み込まれ、苦しみを体験することができたのだと思う。
そのため、わたしは女の恨みの感情に対して感謝の気持ちを以て接することができる。
すべてに意味を見出せば、この世界には”悪いもの”などなくなるのである。

2015年7月29日水曜日

追憶 1052

光の十字架は迷いなく飛び、女の額に突き刺さった。
場を揺らすような大きな悲鳴と共に、女の目と口からは黒い煙のようなものが吐き出される。
それは、女の頭上に塊(かたまり)を形成していた。
わたしは再び、光の十字架を作り出して女に投じた。
胸に突き刺さると、全身から黒い煙のようなものが排出される。
それも頭上の塊へと飲み込まれた。
黒い煙の塊は忽(たちま)ちに見上げる大きさとなった。
それはやがて、苦悩に満ちた一つの顔となったのである。

2015年7月28日火曜日

追憶 1051

ここにいる人達は愛情という大切な視点を失っていたのだ。
老人はそのことに気が付いたが、それは長い苦悩の末に勝ち取った宝物である。
女はどうであろうか?
この中で最も憎しみに近いのが女である。
ここまで来ると、最早自力で立ち戻ることは難しい。
女は恨みの感情に浸かり過ぎているのだ。
例えるならば、首まで地面に埋まっているようなものである。
その状態から自力によって抜け出すことは困難である。
わたしが光の十字架を持たされたのも、女が自力では立ち戻ることができないことを理解しての選択であると推測される。
そうなれば、これからわたしが取るべき行為も見えてくる。
わたしは女に対して、光の十字架を投じるだろう。
そして、女を恨みの感情から引き上げるのである。

2015年7月27日月曜日

追憶 1050

女は歯を剥き出しにした怒りに満ちた表情を見せた。
しかし、そこに眼球は無かった。
眼球があったであろう場所は真っ黒に塗り潰されているようである。
女は恨みの感情によって、きっと大切なものを見失ってしまったのだ。
霊は眼球や脳を使ってものを認識している訳ではないので、眼球を失ったからといって視界を失う訳ではない。
正しい視界を失ってしまった表現として、眼球が失われてしまったのである。
大切なのは、愛情に根差した視点である。
愛情に根差した視点を失ってしまえば、どのような人物の視界も光を失ってしまう。
光を失った視界を生きる人が得るものは苦悩である。
そして、それはそこから抜け出さない限りは持続していくものなのだ。

2015年7月26日日曜日

追憶 1049

老人と女の間に生じた争いの根源は、愛情の不足にあるのだと思う。
愛情の不足さえなければ、人の心が争いを求めることなどないのだ。
老人はそれを、ここで気が付いたのであろう。
わたしは自らの右手が宙に十字を描くのを見た。
それは辺りの暗闇を遠ざけ、金色に輝く光の十字架となった。
それは太陽のように明るく、そして、暖かくこの場を包み込んだ。
それに気が付いたのか、女が髪を振り乱して振り向く。
そこには、車の中で見た紅い唇(くちびる)があった。

2015年7月25日土曜日

追憶 1048

多くの人は生きている内に、自分自身に対しても、自分以外の存在に対しても、愛情を見失っていく。
すべての存在が”神”によって等しく、一つであったことを忘れてしまうのだ。
物質世界においては、それぞれが別々の状態を以て存在している。
そのため、いつの間にかに、自分自身が独りであると考えてしまうのであろう。
自分自身が独りだとする考えの元で、寂しさが生まれる。
そして、寂しさが依存を生み出し、複雑に絡み付く関係性を導く。
または、そこには怒りが生まれる。
そして、怒りが争いを生み出し、同じように複雑に絡み付く関係性を導くのである。

2015年7月24日金曜日

追憶 1047

しばらくの間、わたしは沈黙に遊んだ。
急がば回れという言葉があるが、その通りだと思う。
わたしは急いでいるのだ。
急いでいるから待つのである。
この辛抱に価値があると思っている。
霊的な世界に時間の感覚はないが、長く彼等を見ていたように思える。
すると、老人が何かに気が付いたように顔を上げた。
その表情は満足を抱えているように見えた。
老人の表情を見ていると、わたしは老人が愛情を悟ったのだと気が付いた。
女との間にどのような因縁があるのかは未(いま)だに分からないが、相手がどのような人物であろうとも、愛情を以て接するのが最善である。
人間関係とは、心の付き合いだ。
愛情を以て接することがなければ、それは複雑に絡み付いてしまうのである。

2015年7月23日木曜日

追憶 1046

そんなわたしを見て、老人は困り果てていた。
そして、沈黙し、何かを思い巡らせるように瞼(まぶた)を閉じた。
老人は自分自身の生前の在り方について考えているに違いない。
その考え方や価値観や行為が、今の状況を導いたのだ。
それを悔いているのかも知れない。
自分自身の非力さを嘆き、後に謙虚さを得るだろう。
すべての状況には、自らを正すヒントが隠されている。
大抵の人は困難を嫌うが、人生の目的が成長にある以上は、これを否定する訳にはいかないのだ。
困難を受け入れ、自分自身の無知を知り、反省して改めることによって初めて、この学び、この苦悩は終わるのである。
老人は正に今、学びを終わらせようとして、この状況に対する考え方と自身の在り方を改めているのであろう。

2015年7月22日水曜日

追憶 1045

老人はわたしに懇願(こんがん)した。
老人の力ではこの状況をどうすることもできなかったのであろう。
そうでなければ、男性が幾度も事故に合うこともなかったのかも知れない。
しかし、わたしが自分勝手に動くことはできない。
大天使ミカエルの指示がなければ、わたしは何もできないのである。
今のわたしには、助けを懇願する哀れな老人と、力無く項垂れる男性と、それを呪う女を眺める以外には方法がないのだ。
助けたい気持ちはあっても、わたしには何が最善であるのかも分からないし、力も使えないのである。
安易に手を貸すことだけが助けではないと、わたしは経験上学んでいる。
だから、この待機している時間にも大切な意味があるということを知っているのだ。
わたしは焦らない。
必要が満たされるまでは何もしないのである。

2015年7月21日火曜日

追憶 1044

恨みの感情によって、老人と女はこの世とあの世の間に束縛されているのである。
それは、中途半端な立ち位置であり、ここに長くとどまると人格が損なわれ、やがて黒い煙のようになってしまう。
狭い空間に閉じ込められると、やがて精神の崩壊が起こるのと同じようなものではないだろうか?
わたしがゲップや叫び声によって吐き出す破滅的な意識である黒い煙は、破滅的な思想と霊体の集合体ではないかと推測するのである。
このままの状態であれば、いつか男性も引き入れられ、その苦しみが増すことによって更に闇が深まる可能性があるのだ。
わたしにはそれを避けなければならない理由がある。
わたしの目的は少しでも多くの人や霊を苦しみの中から助け出すことである。
そのために、ここにいるのだ。


2015年7月20日月曜日

追憶 1043

それこそが、女の恨みがもたらす最大の呪いなのかも知れない。
老人には我が子に対する思い入れがある。
それは、単なる思い込みに過ぎないが、今の老人にとっては重要なことなのだ。
死後にも生前の関係性が持続するのか?という質問には、わたしの認識する光(天国?高次元?)に帰るまでの世界(幽界?霊界?)であれば持続する。
霊体となった人間は、肉体を持たずして生前の人格を保つのである。
光に帰れば、生前の関係性から離れて、純粋な絆によって結ばれるのである。
例えば、生前には親子関係であっても、光の先では親子関係などは持たない。
魂というレベルであっては、”すべては一つ”なのである。
そのため、現代の仏教(一括りにしてはいけないだろうが)が先祖供養として様々な儀式を執(と)り行っているのは、自分達が仕事をしていないということを公言しているものであると、わたしは経験上考えているのである。


2015年7月19日日曜日

追憶 1042

どういった経緯でこのような状況に陥ったのかは分からないが、この老人と女との間に生じた問題であるらしい。
女は老人の息子である男性を恨んでいるように見える。
わたしはそこが解せなかった。
疑問を結ぶために、その理由を尋(たず)ねた。
それは、老人が死んだからだと教えてくれた。
女の恨みは始め老人へと向けられていた。
女の恨みが影響しているのかは分からないが、老人は死を以て人生を離れた。
女が老人の息子である男性を呪っているということは、老人の死因に女の恨みは直接的な関係を持たないのかも知れない。
しかし、死後にも女と離れることはできなかった。
それは、女が息子に対して恨みの感情をぶつけ始めたからである。


2015年7月18日土曜日

追憶 1041

わたしにはここにいる人たちが自分勝手に見えたし、同時に子どものようにも見えた。
この人たちがやっていることはとても幼稚なのである。
言い方が悪いが、獣のようなものであろう。
こう言うと、動物に失礼かも知れない。
動物の方がよっぽど高次の感情の中に生きているだろう。
ここには相手を思いやる礼節が一切なく、わたしは様々な感情を通り越して呆(あき)れてしまうのであった。

老人がわたしに気付いた。
老人は皺(しわ)を掴んだ顔を目一杯に動かし、わたしに対して懸命に助けを求めた。

2015年7月17日金曜日

追憶 1040

以前のわたしはここにいた。
ここまで深くはなかったであろうが、同じようなものである。
多くの人が怒りを抱え、その中の何割かは恨みを武器としている。
これは、周知の事実である。
多くの人がそれを”普通”だと思っているのだ。
それは、自己を正当化することによって引き起こされる状態であるが、これは自分が正しいという自惚れから始まるものであろう。
この女と、老人と、彼の間にどのような過去があるのかは分からないが、それぞれが自分が正しいという自惚れと、自己を正当化する気持ちがあったのではないだろうか?
このような行為がある内は、世界は暗黒に包まれるのである。

2015年7月16日木曜日

追憶 1039

老人を見ていると、事故の被害者である男性のことが頭に浮かんできた。
わたしには老人と彼が何かしらの関係性を所有していると感じた。
すると、女の前に彼の姿が浮かび上がった。
彼は全体的に暗い影のような姿であり、背中を丸めて座り込んでいる。
弱々しく項垂(うなだ)れる彼に対して、女は恨みの感情をぶつけているようだ。
その光景を老人が見つめているのである。
わたしは悲しい気持ちになった。
ここはなんて虚しい世界なのだろうと思ったのだ。
恨みの感情が充満し、それに浸る人たち。
わたしにはこれがとても低次の世界の出来事であると見えていたのである。

2015年7月15日水曜日

追憶 1038

謙虚な姿勢と学ぶ気持ちを以て向き合うのであれば、初見とは違う視点を得ることが出来る。
わたしは女を哀(あわ)れに思った。
これは、いつも抱く思いではあるが、心を乱すということは、それだけ苦しんでいるということである。
これを哀れに思わずして、どう思うというのであろうか?
わたしには女を思いやる気持ちがある。
それに従えば、哀れみが導かれるのだ。
そのように見ると、女の向こうに老人の姿が浮かんだ。
老人はやけに歳をとって見えた。
それは、彼の表情が疲れ切っているように見えたからだろう。
老人は、苦悩に満ちた表情と絶望を宿した瞳で女を見つめていた。

2015年7月14日火曜日

追憶 1037

ただし、わたし自身が完璧にできているなどとは言えない。
わたしも未熟であり、十分に歪んでいる。
それを解消するための人生なのである。
わたしは出来る限り謙虚でありたいし、常に学び続けていきたいと思っているのだ。
そのため、この女に対しても謙虚な姿勢と、そこから学ぶ気持ちは忘れないように努めている。

わたしは改めて女の背中に対峙した。
今度は穏やかに客観することが出来るような気がする。
謙虚な姿勢で偏見を用いず、学ぶ気持ちで向き合うのだ。
そうすれば、何かの糸口を得ることが出来るのである。

2015年7月13日月曜日

追憶 1036

女の声にわたしの良心が反応した。
それは拒絶を以て、わたしの頬をぶったように思えた。
わたしは無意識の内に女の感情に引き込まれ、利用されようとしていたのである。
わたしが恨みの感情に引き込まれて女の首を締めていたのならば、わたしには女と向き合う資格は無かったであろう。
これは人間も変わりないが、霊的な存在は自己を正当化している。
そして、それを理解して欲しいと思っているのだ。
そのため、感情の操作によって自らの仲間に引き込もうとするのである。
これに引き込まれてしまう者は、苦悩の中に彷徨(さまよ)うことになるのだ。
そのため、人に対しても霊的な存在に対しても、自己を律(りっ)して強く保つことができなければならないのである。
話は逸れるが、今日のテレビに出演している自称霊能者や占い師は大抵が肥満体系である。
これが意味しているところにも注目しなければならないだろう。

2015年7月12日日曜日

追憶 1035


「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね…」

聞くに耐えなかった。
女は聞き分けのない子どものようである。
恨みの感情が全体を侵食し、まるで黒い影のような姿であった。
わたしは女の感情に引き込まれ、女を殺したいと思った。
わたしたちは一つに繋がっている。
共感性とでも言うのだろうか?
互いに惹(ひ)かれ合い、いつの間にかに同化する。
意識的にも無意識的にも、それは行われるのである。
わたしは女に近付くと、背後から首を締めようと考えていた。
わたしの中には女に対する殺意が溢れていた。

「殺せ」

その時、わたしの中に女の声が響いた。

2015年7月11日土曜日

追憶 1034

それが正しい文明の在り方なのかと、わたしは常日頃から疑問に思っているのである。
苦しんでいる人は、そのもどかしい気持ちから怒りを発することは良くあることであるが、自分自身もそうであることを大抵の人が忘れている。
そのため、ネガティブな状態の霊を悪霊などと卑下(ひげ)したり、見当違いに恐るのである。
相手を助けたいと思う気持ちはおかしいのであろうか?
わたしたちは今一度、自分自身に問い掛けなければならないだろう。

暗闇の中を進むと、やがて景色が赤みを帯びてきた。
怒りの感情がわたしの肌に刺さるようである。
わたしは気にせずに進む。
すると、髪を振り乱して狂乱しているような女の後ろ姿に辿り着いた。

2015年7月10日金曜日

追憶 1033

純粋な気持ちは、わたしを利他的にさせた。
これは、誰もが同じなのではないかと思う。
特に日本人(遺伝子、文化、歴史的に見て)であれば、そのようになると思える。
わたしたちの純粋な気持ちの中には、相手を思いやる愛情が備わっているのである。
純粋な気持ちであれば、わたしは相手を助けたいと感じるのだ。
そのような視点で眺めた時には、状況に対する印象は違ったものになってくる。
恨みの感情をぶつけてくる相手であろうとも、愛おしく思えてくるのである。
これは、不思議な感覚ではあるが、純粋な気持ちによって思い出されるのだから、こちらがわたしたちの本質なのではないかと思えるのだ。
今日の資本主義、利益追求型の(劣等)社会においては、相手を思いやる気持ちは優遇されず、相手から多くを奪うことに比重を置いているような印象を受ける。

2015年7月9日木曜日

追憶 1032

その時、脳裏には再び不敵に笑う女の赤い口が浮かんだ。
重たい身体を気合いで持ち上げ、その場に胡座(あぐら)をかいた。
瞼(まぶた)を閉じると、そこには部屋よりも深い暗がりがあったが、それは歪みながら揺れていた。
引いては返す波のように襲う吐き気に堪えながら、わたしは意識を整える。
純粋な気持ちであれば、わたしは静寂の中に入り込めた。
恐れがあってはならない。
わたしは純粋に女の(幸福の)ために働くのである。
この心地悪い状況から、女を救い出すのだ。
そのような気持ちで向かうのである。

2015年7月8日水曜日

追憶 1031

事故の意味を考えていると、胸がただれるように熱くなるのを感じた。
恨みの感情が沸き起こり、汚い言葉を罵(ののし)りたくなる。
わたしは深い溜め息を吐いてその感情を鎮(しず)めようとしたが、強烈な吐き気がそれを阻止していた。

「憎い憎い憎い憎い憎い…」

わたしの心の中を暴言が占領していく。
罵詈雑言(ばりぞうごん)が飛び交い、わたしはどうにも嫌な気分になった。

「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す…」

その時、明らかにわたしのものではない女の声が心の中に響いた。

2015年7月7日火曜日

追憶 1030

しかし、わたしが睡魔に襲われることがなかったのは、吐き気がわたしを襲っていたからである。
わたしは改めて事故のことを思い出していた。
考えてみると、道の駅の辺りから様子が違っていたのだと思う。
あの時、わたしは気怠さに付き纏(まと)われて休む他なかった。
あの時、休まなければわたしは映画館に向かっていたはずである。
その後の父からの電話。
そして、帰路での事故…
わたしはあの場所で、あの男性と事故に会うことが計画されていたのではないかと思えるほど、すべての状況がそこへ繋がってしまうのである。
わたしたちは事故に導かれたのであろうか?
起きたことは避けられないにしても、その意味を理解する必要があることは分かっているつもりだ。
事故に会うという”不運”があって終わりということではないのである。

2015年7月6日月曜日

追憶 1029

悶々(もんもん)とした気持ちと吐き気を抱えて帰ることにした。
Nの両親にも電話で事実を伝え、日を改めて謝罪するようにした。
Nを送り届け、帰宅すると父がいたので、事故のことを簡単に報告した。
父は心配していたが、仕事のことは話さなかった。
きっと、被害はなかったのであろう。
母に礼を伝え、独り自室にこもる。
カーテンを閉めると、暗闇がわたしを包んだ。
暗闇がのしかかるように急激に身体が重くなり、わたしは倒れるようにしてカーペットにうつ伏せた。
わたしの精神的な疲労は、限度を超えていたのだろう。

2015年7月5日日曜日

追憶 1028

Nの検査を待つ間も、わたしは彼のことを気に掛けていた。
しかし、わたしには彼を止められるはずもなく、自分の非力さを嘆(なげ)くのであった。
Nが診察室から出てきた。
検査の結果は何も問題はないようであった。
それを聞いてわたしは安心した。
そして、わたしも一応検査を受けることになった。
身体のことが心配だった訳ではない。
母がそのように頼むのである。
わたしは自分の身体のことなど心配している場合ではなかった。
彼の身体のことで手一杯であったのだ。
そのため、医者の話を上の空で聞き流していた。
医者がわたしの身体の何を検査したのかは分からないが、医者が言うには何も異常はないようであった。
わたしは医者の話を信じてはいなが、空(から)の返事を置いて診察室を後にした。

2015年7月4日土曜日

追憶 1027

「家に目の見えない母親がいるんでね…」

彼は母親と二人暮らしであるようだ。
そして、その母親は目が不自由なようである。
それを聞いて、わたしは躊躇(ちゅうちょ)したが、やはり彼をこのまま返す訳にはいかないと思った。
医者はしっかりと検査したのであろうか?
医者の権限によって引き止めることはできないのか?
どのように強靭な人であろうとも、あの軽自動車で事故の衝撃を受けながら無事な訳がないのだ。
素人のわたしであっても、そんなことは明白である。
わたしは一日だけでも入院してくれるように頼んだが、彼は母親のことが心配だと言って帰るの一点張りであった。
話が平行線を辿るので、わたしが折れるしかなかった。
そこで、母が彼を自宅に送り届けることになって、わたしたちは別れた。
それは、Nを検査してもらうためであった。

2015年7月3日金曜日

追憶 1026

彼は、自分がなぜ何度も同じ目に遭うのかを不思議がっているようである。
様々な人的要因はあるにしても、それでもその回数が多いのだと言う。
わたしにはその原因がある程度予測出来た。
あの女が関わっているに違いないと思うのである。
しかし、そんなことは彼に伝えられるはずもなく、わたしは話を聞くことに専念した。
彼は一通り話し終えると、立ち上がって出口に向かって歩き始めた。
そこでわたしは驚いた。

「待って下さい。帰れるんですか?」

わたしは彼が入院するものだと思っていたのである。

2015年7月2日木曜日

追憶 1025

わたしには謝ることしかできなかった。
それを彼が制するが、わたしは他に言葉が見付からずに押し黙るしかなかった。
しばらく、沈黙が続き、わたしは足元の床を見つめる以外には、この時間を埋める手段を見付けられずにいたのである。
不意に彼が話し始めた。

「いつもこうだ…」

彼は絞り出すように話してくれた。
彼が事故に遭遇するのはこれが初めてではないと言う。
今回は被害者という立場ではあるが、加害者としての立場を得たこともあり、それを何度も繰り返しているというのだ。
そのために、先述の言葉がこぼれるのである。

2015年7月1日水曜日

追憶 1024

吐き気の波が襲った。
もう、一言も話したくはなかった。
口を開くと嘔吐してしまいそうだったからである。
わたしは瞼を閉じて、ただ車の揺れに耐えた。

20分程で病院に到着した。
わたしたちは救急の待合室で彼を待つことにした。
しばらくして、彼が胸を押さえるようにして、診察室から出てくるのを確認する。
わたしは駆け寄ってお詫びした。
彼は怒りを現しつつも冷静であったように思える。
わたしたちは近くにあった長椅子に腰を下ろして座った。
事故による怪我か、精神的なショックによってか、彼はとても弱々しく映った。