このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2014年8月31日日曜日

追憶 722

わたしの姿を見て、目には映らない世界があるということを受け入れることは無いにしても、否定することはなくなったのではないかと思える。
心の中に築かれた偏見を取り除いたことで、これからNの心には柔軟性と好奇心が生まれるはずである。
それによって、偏見に捉われることなく、正しい判断が下せるのではないかと思える。
広がりを見せる価値観は、Nにより楽しい世界を教えるはずである。
それによってNは、以前よりも幸福になると確信することができる。
どうするかはN次第であるが、その心に触れた時に多くの純粋さを知ったことで、この確信が生じたのである。

2014年8月30日土曜日

追憶 721

気が付くと、わたしはNの背中を見ていた。
わたしはいつの間にかにNの心から離れたようである。
わたしは一つ深く息を吐き、今見たことをできる限り正確に伝えた。
Nはわたしの話に的を得るところがあったのか、その話を背中越しにではあるが真剣に聞いているのが分かった。
わたしは人の心の中にいる時、その身体はわたしの意思を離れている。
身体と完全に切り離されるということはなく、身体がどのような状態であるかということは客観的に認識している。
霊や人の心が破滅的な黒い血反吐を吐き、または感情を露(あら)わにする時には、わたしの身体はゲップをしたり、叫び声を上げたり、倒れて暴れているようである。
Nはその光景を目の当たりにしているはずであり、その行為が演技であったり、人を騙すためのもので無いことを理解したのだろう。
そのために、わたしの話に対して、真剣に向き合っているのである。

2014年8月29日金曜日

追憶 720

次の瞬間に、ガラスが割れるようにして光の線が走り、黒い空間は粉々に砕かれた。
音を立てて崩れ落ちる様は、新たな可能性を予感させるのには十分な印象である。
風が吹いてくるような感覚を覚えて、わたしは心地好さを得た。
窓を開けて、部屋の中に新鮮な空気を取り込む時のような清々しさがそこにはあった。
散らばった空間の欠片を拾い集め、わたしは光の杭を打ち込んだ。
すると、欠片は光を帯びて輝き、光の粒となって天へと登っていくのである。

「ありがとう」

そう聞こえた気がしたが、気のせいかもしれない。

2014年8月28日木曜日

追憶 719

この空間(偏見によって築かれた価値観)があれば、再びあの少女のような感情や価値観が生じてしまう。
価値観とは、心を育む揺り籠のような役割りを果たしているのである。
心という純粋な赤子は、教育によってどのような姿にでもなるのだ。
偏見の無い価値観を所有すれば、偏見の無い心が育まれる。
人はそのようにして正しくあるべきなのである。
10代の少女であれ、60代の成人であれ、人は偏見を持ってはならない。
そうでなければ苦しみが続くからである。

わたしは光の杭を生み出した。
それを目の前の空間に対して投じた。
闇の中に吸い込まれるようにして、光の杭は見えなくなった。


2014年8月27日水曜日

追憶 718

わたしたちは偏った価値観に捉われてはならない。
偏見によって世界を見るなら、それは簡単に歪んでしまうものなのである。
窓ガラスに少しでも歪みや汚れがあれば、外の景色を正しく見ることはできないであろう。
何らかの勘違いを生むはずである。
勘違いをして生きていると、正しいことを正しく見ることはできず、間違ったものを間違いだと認めることができずに過ごすことになる。
そうなれば、人は気付かない内に道を踏み外してしまうのである。
わたしはNが道を踏み外さないようにしなければならない。
どうするのかはN次第であるが、選択肢を与えることが仕事であるだろう。
新たな選択肢を受け入れるためには、この偏見によって築かれた空間が邪魔なのである。

2014年8月26日火曜日

追憶 717

この空間はNの価値観の一部である。
その価値観の中に少女であるNの心の一部が存在していた。
13年間という短い年月であっても、その中で形成される価値観というものがある。
それによって、Nの思考や感情などの判断が導かれている。
Nが霊的な事象に対して懐疑的であったのも、この価値観によって導かれる判断であるのだ。
人は価値観によって思考や感情を決定し、人生を判断している。
どのような人物も、自らの価値観に逆らうことはないであろう。
それは、価値観というものが、心(思考や感情)の蓄積によって築かれたものであるからである。

2014年8月25日月曜日

追憶 716

目の前には少女のいた空間が存在している。
そこは狭く、暗い場所であった。
わたしは歩を進め、少女と同じように立ってみる。
すると、そこは閉塞感が存在しており、圧迫感によって外部との接触が断たれてしまうように感じた。
この中にいると、外部からの刺激もないので、偏見が生じるのは容易に推測することができる。
少女が怒りの感情に満ちていたのは、このように閉鎖的な場所にいたからに違いないのである。

2014年8月24日日曜日

追憶 715

安らかな表情で眠る少女を眺めていると、天から声が響いた。

「解放し、行かせなさい」

わたしはその言葉に従い、抱える腕の力を抜いた。
すると、少女は風に誘われる鳥の産毛のように柔らかく浮かんで、わたしの腕から離れた。
その時に天から差した一筋の光によって、全身が輝きに包まれるのであった。
輝きが増すほどに、少女は天へと近付いていく。
やがて、天の光と少女が一つに溶け合って見えなくなった。
少女の姿が見えなくなると、速やかに天が閉じ、もはや光が照らすことはなかった。
わたしは少女のいた空間と共に取り残されたのである。



2014年8月23日土曜日

追憶 714

少女の瞳から涙が零れ落ちた時、わたしは少女のいる空間に歩を進め、少女を抱き締めた。
すると、強烈な吐き気に襲われて、黒い煙のようなものがわたしの口から吐き出されるのを見た。
人差し指と中指を使って光の杭を作り出す。
それを空中に浮遊している黒い煙のようなものに投じた。
光の杭が黒い煙のようなものに突き刺さると、それはキラキラと輝く光の粒となって天に帰った。
わたしはそれを見て嬉しくなるのであった。
少女を見ると、わたしの腕の中で安らかな表情を浮かべて眠っているようであった。

2014年8月22日金曜日

追憶 713

それは、その選択が最善だと思ったからである。
考えてはいなかったが、自身の心がそうさせるのであった。
わたしは我慢していた。
心に突き刺さるものは耐え難い程の苦痛であったが、これはわたしが受けなければならない試練であるのだ。
これをしなければ展開することの無い状況があるのである。
そのことを理解して、わたしは耐えているのである。
少女は、有りっ丈の感情をわたしにぶつけたに違いない。
それは、少女の頬に一筋の光が走るのを見たからである。
わたしはその涙が救いであることを理解した。

2014年8月21日木曜日

追憶 712

背後に立つわたしを認識した少女は、雲が形を変えるようにゆっくりと振り返った。
そこにあったのは、怒りに満ちたNの顔であった。
ここは、Nの心の中である。
そこにいるNの顔をした少女は、Nであるに違いない。
彼女はNの心の一部であり、価値観なのであろう。
少女は当然のようにわたしを睨み付けた。
その怒りが鋭く尖り、わたしの心に突き刺さる。
わたしは胸を押さえ、その痛みに耐えた。
彼女のすることに対して抵抗しようとは思わなかった。

2014年8月20日水曜日

追憶 711

扉の奥には赤黒い空間があった。
それは、トイレの個室くらいの広さであり、そこにはあの少女が後ろ向きで立っているのが見えた。
その背中からは不満と拒絶が漂っている。
しかし、わたしは少女がわたしをここまで招き入れたのだと確信していた。
そうでなければ、ここまで辿り着くことはできなかったであろうし、扉がこんなに簡単に開くはずもないのである。
前提として、彼女はわたしを拒絶しているのだ。
このように、上手く事が運ぶのは、協力者がいなければ不可能である。
その協力者が彼女自身であると、わたしには思えてならないのだ。

言葉が出ない。
わたしは言葉すら探してはいなかった。
どうするべきなのか分からなかったのである。


2014年8月19日火曜日

追憶 710

わたしが向かっているのは潜在意識である。
なぜなら、答えはそこにあるからだ。
どのような表現も、必ず本質からくるのである。
顕在意識は潜在意識から現れる。
人の価値観や意思は、そのすべてが潜在意識から生じるのだ。
あの少女も顕在意識の中には見かけなかった。
ならば、もっと深い潜在意識にいると推測するのが普通であるだろう。
わたしはあの少女を探しているのである。
静寂の中を進むと、小さな扉に辿り着いた。
それは簡素な洋風の扉であり、何の警戒も感じない。
ノブを回せば開くのではないかと思えるようなものであった。
わたしは何の躊躇(ちゅうちょ)もなくノブを回し、力を込めて扉を引いた。

2014年8月18日月曜日

追憶 709

Nの心の中は、様々な音で溢れていた。
四方八方から様々な音が飛んでくる。
それを避けながら奥へと進む。
進むに従って音の数が減り、やがて静寂が辺りを包んだ。
静寂の中でわたしは一つため息を吐いた。
それは、騒がしいのが苦手だからである。
多感な中学生の心の中には、様々な興味が詰め込まれているようである。
それで良いのだ。
子どもは様々なものに興味を持つことが良いだろう。
騒がしかったのは、Nの顕在意識(けんざいいしき)である。
これは、普段Nが意識的に使っている意識である。
自分の思い通りになる思考や感情などがこれに当たる。
静寂は潜在意識である。
これは、Nが意識しても使うことができない意識である。
潜在意識にあるものは、自分勝手に使うことはできない。


2014年8月17日日曜日

追憶 708

わたしは彼女のことが知りたかった。
彼女の心の内を理解したかったのである。
彼女が誰で、Nの中で何をしているのか?
どうしてわたしを否定するのか?
知りたいことはたくさんあった。
好奇心がわたしの胸を叩いた。
それに従って再度瞼を閉じる。
わたしの意思に反して右手が伸びる。
Nの背中に到達した右手は、人差し指と中指を使って天使文字を記し始めた。
金色に輝く文字を三行記すと、それを直線で囲った。
直線によって囲まれた天使文字は更に輝きを増し、わたしは両手によってそれを背中に押し込んだ。
輝きが見えなくなると同時に、わたしの視界はNの意識の中に入っているようだった。

2014年8月16日土曜日

追憶 707

瞼の裏の暗闇を見詰めると、すぐに人影が現れた。
それは後姿の女性であった。
彼女は後姿から察するに十代前半の女の子という容姿である。
この人を見て、わたしは直感が働くのを感じた。
この人がわたしを否定しているのだと。
弾かれるようにして瞼が開いた。
わたしは喜びを感じていた。
それは、あの女性はわたしを否定しているのだが、わたしに会いに来たからである。
後姿を見せてはいるが、姿を見せたのだ。
本当に嫌なら、姿を見せるのも嫌であろう。
わたしには、この否定する行為が彼女の本意ではないような気がしてならなかった。
そのために、嬉しかったのである。

2014年8月15日金曜日

追憶 706

感情に流されてはならない。
これは仕事の鉄則であると思う。
感情に流されてしまっては、正しく行うことができないであろう。
わたしには正しく行う必要がある。
私情を挟んでは仕事が歪んでしまうことをわたしは知っている。
多くの霊能者と呼ばれている者や自称霊能者の大抵が、仕事に私情を差し挟んでいる。
そのため、正しく聞いて、正しく見て、正しく理解して、正しく行うことができないでいるのが現状である。
正しく行うとは、その人や霊を正しい道に導き、本当の幸福を得させることである。
その人や霊に対して真理を伝え、行うことができなければ、その人の霊能力には何の価値も無いのだ。
わたしは瞼(まぶた)を閉じて、Nの心を感じ取ろうと努めた。

2014年8月14日木曜日

追憶 705

Nがわたしを嫌っているという事実は存在しない。
寧ろ、友人としての好意を持っているのではないかと思える。
そうでなければ、わたしたちが笑顔で会話をすることは無かったであろう。
わたしの抱えている猜疑心(さいぎしん)は、わたしとNのどちらからか生じたものによって覚えたものではない。
もしも、この感情がわたしとNのどちらからか生じたものであるのならば、もっと早い段階において表現されていなければおかしいのである。
この場には、わたしとN(とCさんとその他の人たち)を除く、第三者がいるはずである。
その第三者がわたしに対する嫌悪感を持ち、拒絶しているのであろう。


2014年8月13日水曜日

追憶 704

これは、大天使ミカエルからのNに対する仕事の準備が整ったという合図である。
わたしは自分勝手には仕事をしない。
必ず、わたしの守護者である大天使ミカエルの合図を待ち、彼の思うことを実現するために働くのである。
わたしの言葉を聞いて少しだけ肩を震わせたNは、緊張した面持ちで背中を向けて座布団に腰を下ろした。
Nの後姿を見て、わたしは嫌な気分になった。
それは、心の中にNがわたしを嫌っているのではないか?という思いが現れたためである。
わたしの心は疑いに満ち溢れていた。
それを受けて、わたしはNのことが嫌いになりそうだった。



2014年8月12日火曜日

追憶 703

二人を部屋に通し、適当に座ってもらった。
わたしは部屋の中央に置いてある座布団の前に腰を下ろした。
そこでNの緊張が増すのを感じ、それを受けたわたしの胸の鼓動も増すのを感じた。
これがNの緊張であるのかは確信は無かったが、なぜかそのように感じるのである。
わたしは目を閉じて意識を集中した。
すると、誰かがわたしを警戒し、否定しているような感覚に襲われた。
それは居心地の悪さを教え、わたしの挙動は少しばかり違和感を抱えるのである。

「呼びなさい」

突然の声にわたしは瞼(まぶた)を上げた。


2014年8月11日月曜日

追憶 702

以前の遣り取りによって、Nが唯物論者であることは分かっている。
しかし、彼女が霊を見た結果それを否定しているのか?
それとも、霊を見たこともなく否定しているのかは分からなかった。
わたしにはNがどのような理由によって唯物論者として生きているのか?ということに興味があった。
しかし、それを本人から聞き出そうとか、どうしても知りたいということでない。
他人が何を信じ、どう生きようとも、わたしにはあまり関心の無いことであったのだ。
わたしは幼い頃から他人に対してあまり興味が無かった。
きっと、自分自身のことで精一杯であり、余裕が無かったのであろう。
そのため、他人に対しての強い興味が持てなかったのではないかと思う。
自分自身や他人への幸福には関心があったが、その人の主義主張には関心が無いのである。



2014年8月10日日曜日

追憶 701

その日、Nは笑顔の中に疑いと興味、そして緊張を隠してやって来た。
Cさんは慣れたもので落ち着いている。
わたしはいつもと同じように二人を招き入れた。
(その他に多くの人がいたが割愛する)
Nは笑顔の可愛いどこにでもいる普通の中学生である。
わたしにとっては友人であるCさんの娘であり、霊や天使を信じていない唯物論者だった。
わたしは霊や天使を信じている唯心論者である。
わたしたちは違うものを信じて生きていた。
しかし、わたしも元は唯物論者である。
わたしの場合は知らなかったというのが理由である。
知らないから、信じるもなにも無かったのだ。
わたしのような人が一般的であるだろう。
多くの人が霊や天使に出会うことも、それ等がどのようなものであるのかを知ることもなく生きているのである。


2014年8月9日土曜日

追憶 700

Nは霊を信じていないようであった。
その文面から、人を小馬鹿にした印象を受けた。
わたしはそれを気に掛けない。
なぜなら、Nが霊を否定しようとも、わたしには何の関係もないことであったからだ。

Cさんは時々わたしの「光の仕事」に顔を出した。
この時は来たい人は勝手に来ても良いという状態だったので、一晩に20人くらいの人で部屋は一杯になっていた。
わたしは力不足でありながらも、精一杯に仕事をこなしていた。
ところで、CさんとNは仲が良かった。
母娘とはそういうものなのかもしれない。
NはCさんからわたしの仕事のことを聞いていたに違いない。
ある日、CさんがNも光の仕事に連れて行きたいとの要望があった。
わたしはそれを嬉しく思い、快く承諾した。

2014年8月8日金曜日

追憶 699

ある日、Cさんが中学生の娘について相談を持ち掛けてきた。
それは誰もが経験するようなたわいもないことではあるが、わたしはその相談に親身に答え、Cさんもそれをよく聞いていた。
それから、自然な流れでCさんの娘であるNと出会い、少しだけ話をするようになった。
この時点では、わたしが霊や天使を見ていることは話していない。
Cさんとは相談事から世間話まで話す普通の友人である。
わたしとCさんはよくメールで交流していた。
そこにNがCさんの携帯電話を使ってわたしにメールをし、たわいもない話をして楽しく過ごしていた。
ある時、Nとメールをしていると、わたしはなぜか霊や天使についての話をしたが、その時Nはそのことを完全に否定した。

2014年8月7日木曜日

追憶 698

政府が広めようとする価値観は、経済を中心とした資本主義である。
それはとても大切である。
経済の発展なくして国の発展は有り得ない。
経済の発展なくして、地域も家庭も個人の人生も豊かにはならないからである。
しかし、資本主義に翻弄(ほんろう)され、それに偏ることは良くない。
それは、この世には、人の心や守護者といった目には映らない存在がいるからである。
精神論だけでは不足している。
唯物論だけも不足する。
人には精神と肉体があるように、この世にも意識的な状態のものと、物質的な状態のものとが存在しているのである。
この二つの理(ことわり)を見失ってしまえば、豊かな人生を得ることはできないのだ。

2014年8月6日水曜日

追憶 697

神道や(特に今日の)仏教が必ずしも良いということではないが、それらは人が豊かに生きるための方法を追求してきた文化であるだろう。
(しかし、今日の仏教はシッタルタ(釈迦)の教えとはかなり異質なものとなっている。葬式仏教と呼ばれ堕落している。それは、人が欲望によって都合の良いように改めたのと、真理を知らない者が上に立つからである。キリスト教を初めとするすべての宗教もこれと全く同じ道を辿っている) 

「お天道様が見ているよ」

という教えがある。
これは、太陽を神様と例え、すべての行為が神様に見守られているという素敵な考え方である。
この教えは真理である。
神様は、人の心の内にあって輝き、わたしたちを見守っているのである。
Cさんの守護者である白い犬がそうであったように、神様とは人の心の内に存在しているのだ。
神道には、清明心(きよきあかきこころ)という教えがある。
字の如く、清らかで明るい心によって生きることが大切だということである。

2014年8月5日火曜日

追憶 696

守護者を認識する以前に比べ、わたしの心や人生は豊かなものになった。
迷いの生存をやめ、道が見え始めたように思うのだ。
地上のことだけでは、人は生きる目的を見出せないのではないかと思う。
数年前のわたしが人生の目的を見失っていたように、多くの人がそこに至るのではないだろうか?
今日の日本では、年間三万人前後の人が自殺している。
それは、分かっている範囲での数字であり、行方不明者として扱われている人数を合わせると、実際の数はそれよりも多くなるのではないだろうか?
これ程までに進んだ文明の日本にあって、これ程までに自殺があるのは、生活環境の向上と人生の豊かさ(幸福感)には確信的な因果関係は無いのではないかと思える。
敗戦国としてアメリカの文化を受け入れた日本は、神道や仏教の教えが薄れてきた。

2014年8月4日月曜日

追憶 695

守護者が見守ってくれていると思うことで、人は孤独を制することができるのではないだろうか?
わたしはまだまだ未熟であり、孤独に打ち勝っているとは言えないが、守護者の存在を認識する以前は、家族や友人や恋人に依存していたところが多かった。
依存心はわたしの中に弱さを生み出す原因となり、それによって心は歪んだ。
人は他人からの協力を受けずに生きることはできない。
そのため、人は他人と協力しなければならないのだ。
しかし、寂しさを紛らわせるために依存することが正しい生き方であるとは思えないのである。
人は自立を目指し、一人でも多くの人を助ける必要があるのでないかと思えるのだ。
守護者を認識することで得られるのは、自立心から生じる他人への貢献であり、
そこから得られるの豊かな人生であるだろう。

2014年8月3日日曜日

追憶 694

守護者はわたしたち人間の霊的な親である。
わたしたちは守護者からの愛を受けて、すくすくと成長することができるのだ。
どのように辛い状況に至ろうとも、わたしたちは決して独りでは無い。
目には映らないかも知れないが、わたしたちのすぐ側には、いつも守護者がいてくれるのである。
これは、推測でしかないが、どのような人にも守護者がいると思う。
わたしの見識が推測を出ないのは、すべての人のことを調べたからではないからである。
しかし、わたしやCさんがそうであるのだから、その他の人であっても同じことが言えるのではないかと思うのだ。
人は孤独を感じて苦悩している。
親族や恋人、友人を頼りにしても孤独が消えることはない。
他人の存在はとても大切であるが、わたしの場合は他人によって孤独が満たされるということは無かったのである。
一時的に忘れさせてくれるので孤独が消えると思うが、また独りになると襲ってくるのだ。

2014年8月2日土曜日

追憶 693

守護者はわたしたち人間のために、真理に従って状況を導いている。
それも、わたしたち人間が理解することができるように、できる限り簡単なものとして導くのだ。
子どもが間違っていることをすると、その親は叱る。
子どもが正しいことをすると、その親は褒める。
それは、子どもに理解させるために分かり易くしているのである。
人生には様々なことがある。
苦しいこともあれば、嬉しいこともある。
ただ、苦しいと感じることの方が多いに違いない。
それは、人が真理に対して間違った生き方をしているからである。
その間違いを理解するために、苦しい状態に置かれるのだ。
暴飲暴食をしたり、怠惰な生活を送っていると、病気になって教わるのと同じである。
しかし、その指摘は守護者のおかげで分かり易いものとなり、また、守護者がかばうために軽減されている。
そのために、Cさんの守護者である白い犬は黒く染まっていたのである。

2014年8月1日金曜日

追憶 692

人が幸福を得るためには、自分のために働いてくれている存在のことを忘れてはならないのだ。
自分のために誰かが種を撒き、育て、収穫する。
それを誰かが運び、誰かがお店に並べるのである。
そして、それを誰かが買ってきて、あなたに振る舞うのだ。
あなたは腹に収める食物が誰がどのように、どのような思いによって育てたものであるのかを知らない。
しかし、それはあなたの腹を満たすのである。
食物を育てた人がいなければ、あなたは空腹に苦しんだのである。
実在する人であっても、あなたがその人を見ることはない。
しかし、そこに違和感を覚えることはないのだ。
守護者は意識的な存在であるため、側にいても認識することは難しいが、「遠く離れている誰か」と同じ認識で良いのではないかと思う。