このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2018年10月31日水曜日

追憶 2215

住職も、いつかは変化の時を迎え入れなければならないだろう。
それは、いつか必ず訪れるが、その時には大きな苦しみを必要とするに違いない。
なぜなら、人生の大半の時間を小さな世界に停滞することへと費やしてきたからである。
その反動は大きいだろう。
錆(さ)び付いたネジを回すには、大きな力と代償(だいしょう)を必要とする。
ネジは定期的に回さなければ、錆び付いて固着してしまうのである。
それでは、仕事を果たすことは出来ないだろう。
ネジは、固定することも仕事であるが、取り外せることも大切な仕事なのである。
錆び付いたネジには価値が無い。
人はそれを捨ててしまうのである。




2018年10月30日火曜日

追憶 2214

わたし達は、嫌でも変化を受け入れなければならない。
変化を食い止める術はない。
それは、人が無力であるからだ。
変化を否定し続けるのであれば、強制的に変化が行われるのである。
強制的な変化が行われるのは望ましくない。
なぜなら、その時には強い感情の揺らぎを経験しなければならないからだ。
強制的な変化の時には、怒りや悲しみが渦巻き、心は苦しみに支配されてしまうだろう。
閉ざされた心は、無理に開かれるのである。
変化を否定し続けた人の心は、強制的な変化に対応することが出来ないのである。

2018年10月29日月曜日

追憶 2213

猪が石垣を崩すのは、住職にとっては一つの失敗であり、変化であるだろう。
駐車場に車を止められるのも同じことである。
どちらも、住職にとっては気分の悪いことであり、受け入れ難いことなのである。
そのために、駐車場にバリケードを張り、みかん畑に向かってラジオを四六時中聞かせ続けているのである。
住職にとって、それ等を受け入れることは現状を否定し、変化を受け入れることなのだ。
住職は変化を嫌っている。
自分自身の欲に従って、失敗することも、気分を害することもない、安全な場所にいたいのである。
気持ちは分からなくもないが、それでは世界が狭まってしまうだろう。
つまりは、成長を否定することなのである。

2018年10月28日日曜日

追憶 2212

人が失敗するためには、未知に対して挑戦しなければならない。
なぜなら、既知(きち)に対して失敗することは難しいからである。
失敗をしない方が気分は良い。
しかしながら、それでは、停滞するだけなのだ。
成長とは、変化することである。
変化するためには、失敗しなければならないのである。
失敗は、気分を悪くする。
本能が反射的に失敗を拒絶するが、理性によって受け入れなければならないだろう。
本能は停滞を求めるが、わたし達は、理性によって変化を実現しなければならないのである。

2018年10月27日土曜日

追憶 2211

例えば、机の上で勉強ばかりを続けた人間の価値観や考え方は偏ってしまう。
様々な知識を所有したとしても、それは、成長ではないのだ。
成長を実現するためには、机から離れた遊びから学ぶことも必要なのである。
知識だけでは成長を実現することは出来ない。
成長を実現するためには、知識の支えとなる経験が必要なのだ。
経験とは、実践のことである。
様々な実践を経験しなければならないだろう。
宗教というのは、戒律(かいりつ)によって行動を制限する。
行動を制限することが、“良い”人を育むという考え方なのだ。
悪いことをしない方が、良い人を育てるためには近道であるように思える。
しかしながら、成長というものはそう単純なものではない。
成長への近道は、悪いことをして失敗したり、苦渋(くじゅう)を得なければならないのである。




2018年10月26日金曜日

追憶 2210

幼子にとって大切なのは、親から離れることである。
親から離れる時に、幼子は大きな世界を得るのだ。
幼子が成長を願うのであれば、親から離れることが必要である。
人が、成長するためには、小さな世界(価値観や考え方)を離れなければならない。
小さな世界では成長は限られてしまう。
それは、鉢の中で育つ樹木と同じである。
根が鉢の中で詰まれば、それ以上の成長は出来ないのだ。
鉢の中で育つ樹木は、小さいのである。
宗教に携わっている人が成長するためには、宗教から離れなければならないのである。
離れてみなければ、自由を得ることは出来ないだろう。
根を伸ばして様々な価値観や考え方に触れなければ、成長を実現することは出来ないのである。

2018年10月25日木曜日

追憶 2209

善悪の対立を受け入れなければ、宗教という集団を維持することは出来ない。
敵がいるから一致団結することが出来るのであるが、それは、弱い者の捻(ひね)くれた根性であると思えて仕方がないのである。
敵がいなければ、それぞれが自由に行動することが出来るだろう。
人見知りをしない子どもは、親を離れてどこへでも行ってしまう。
そこには、恐怖心に勝る好奇心が存在しているのである。
敵がいれば、子どもは親を離れることが出来ない。
それと同じことが、宗教という環境で行われると、信者は宗教の教義や集団を離れることが出来ないのである。

2018年10月24日水曜日

追憶 2208

争いの無い島に争いが持ち込まれたのである。
宗教観は、純粋な人の心に善悪を植え付けてしまう。
本来の宗教観とは真逆なのだが、今日の宗教は世界を善悪に分断することによって、集団を維持しているのである。
善の世界に住みながら、悪の世界を否定する。
世の中には、特定の宗教観とは異なる価値観の方が多いために、必然的に宗教の主張する善というものは小さな世界観になってしまうのだ。
袈裟(けさ)を身に付け、経を唱え、寺に籠(こ)もり、戒律(かいりつ)に縛られて生きている人が、どのくらいの割合でいるだろうか?
そのような価値観に従わない人の方が多いのは、それが最善の道ではないと判断した人が多いということなのである。



2018年10月23日火曜日

追憶 2207

人が争わずに生きるためには、すべての主張を許容する価値観が必要なのである。
しかし、残念ながら、そのような価値観を現状の人類は見出してはいない。
争いが続いているのは、価値観の規模が小さいからに他ならないのだ。

宗教の歴史は、ある意味争いの歴史である。
人は、宗教が無くても争っていただろうが、宗教によって争いが激化したことは事実であるだろう。
肉食獣のいない島の動物には警戒心が”無い”。
それは、草食動物が基本的には互いに干渉しないからである。
そのため、人間が肉食動物を持ち込むと、その島の動物は簡単に全滅してしまう。

2018年10月22日月曜日

追憶 2206

今日の宗教は、敵から身を守るために仲間を増やしているように見える。
そして、相手の主張を認めず、自分達の主張を受け入れさせることが最善だと考え、世界(観)は広げないままに、人を押し込めようとしているのである。
特定の宗教に収まり切る程、人の主張は小さなものではない。
特定の世界観に収まり切らないために、争いが生じているのだ。
人類が、争い続けているのは、小さな価値観の中で生きているからである。
普段は穏やかに昼寝をしている野良猫も、小さな檻(おり)に捕らえると暴れ狂う。
それは、人間にも同じことが言えるのである。

2018年10月21日日曜日

追憶 2205

武装することは、不自由になるということである。
弱い者は、武装することで身を守ったつもりでいるが、それは誤解なのだ。
身を守るというのは、争うことではなく、共存することなのである。
争っているのであれば、身がもたない。
敵が存在しないのであれば、身を守る必要もないのである。
仲間によって守られるということもあるのだ。
世の中には、違う考え方の人達がいる。
彼等は決して敵では無い。
人は分かり合えないかも知れないが、分け合うことは出来るのである。
小さな世界の中の小さな価値観を生きていれば、分け合うことが出来ずに、奪い合ってしまうだろう。
残念ながら、今日の宗教はそのような価値観を育んでいるようにも思えるのである。



2018年10月20日土曜日

追憶 2204

“裸”に成る以外には、自分自身や人生を理解することは出来ない。
今日の宗教は、弱者の救済を謳(うた)ってはいるものの、武具としての役割を果たしているようにも思える。
弱者が宗教という拠(よ)り所で武装し、目の前の問題と向き合っているように思えるのだ。
武装しているのだから、争うのは当然である。
住職が傲慢(ごうまん)に陥(おちい)り、他者を恫喝(どうかつ)するのは、彼が弱者であることと、宗教によって武装しているためであろう。
弱者は恐れている。
“裸”に成ることは、不利を得ることだと思い込んでいるのだ。

2018年10月19日金曜日

追憶 2203

宗教の矛盾がそこにある。
もちろん、個人の資質によるだろうが、在家者が出来て、出家者が出来ないというのであれば、宗教などは害悪(がいあく)でしかないだろう。
動機はどうであれ、住職は少なからず仏の道を志(こころざ)した人物である。
仏の道とは、解脱(げだつ)の道であるだろう。
しかしながら、住職は、誰よりも俗物(ぞくぶつ)であるように思えて仕方がない。
残念ながら、今日の宗教の在り方では、人を解脱させることは出来ないだろう。
それは、”詰まらない”規則に縛られているからだ。
しかも、その規則が理(り)に叶ってはいない。
宗教の規則というものは、不自然なことばかりなのである。
念仏を唱(とな)えたからといって、人生を理解することが出来るだろうか?
滝に打たれたからといって、髪を剃ったからといって、袈裟(けさ)を身に付けたからといって、自分を知ることが出来るだろうか?

2018年10月18日木曜日

追憶 2202

住職は、寺(宗教)から離れなければ、世界の広さを知ることは出来ない。
寺を離れ、個人として存在しなければ、悟りを得ることは出来ないのである。
寺に所属し、住職という立場を貪(むさぼ)っているのであれば、これ以上の成長を実現することは不可能であろう。
赤子が立ち上がるのは、赤子にとっては難しいことではあるが、人の一生に照らしてみれば簡単なことである。
住職が成長することは、住職にとっては難しいことではあるだろうが、それは、取るに足らないことなのだ。
不正を働かず、思い遣りに根差して生きることは、在家者(ざいけしゃ)でも行うことの出来る簡単なことなのである。
それこそ、赤子が立ち上がるくらいのことなのだ。

2018年10月17日水曜日

追憶 2201

青虫は、成長して蝶になり、羽ばたいて大空に飛び立つことによって初めて、世界の広さを知る。
青虫が生きているのは、自分にとっては巨大ではあるが、世界にとっては小さな植物の枝の先の、更に小さな葉の上なのである。
枝を離れなければ、世界の広さを知ることは出来ない。
羽を持ち、大空に羽ばたいて初めて、青虫は世界の広さを知るのである。
青虫として足元の葉を貪(むさぼ)っている間は、世界の広さを知ることもなければ、自分が取るに足らない小さな存在であることも知ることは無いだろう。



2018年10月16日火曜日

追憶 2200

残念ながら、今回の人生において、住職が悟ることは無いだろう。
住職は、宗教という小さな世界を生きたことで、誰よりも盲目(もうもく)になってしまったのである。
本来ならば、盲目的に生きている人を導かなければならない立場にある人物である。
しかしながら、現実は、檀家の人達の足を引っ張っる存在へと成り下がってしまっているのだ。
残念ながら、宗教というのは、その程度のものである。
宗教という小さな世界の中に生きている間は、決して悟ることは出来ない。
それは、小さな葉の上に生み落とされた青虫と変わらないからである。

2018年10月15日月曜日

追憶 2199

そのような人間が、悟ることは出来ないだろう。
何かに対して理解を深めることも、何かを完成させることも出来ないだろう。
残念なことに、そのような人間程、声や態度が大きいのである。
“弱い犬程よく吠える”という言葉があるが、住職はそれを体現している人物なのではないだろうか?
小さな世界を生きていると、他者との関わり方を見失ってしまう。
他者とは、別の意見を生きる人のことである。
人は、異なる意見を生きるのが自然だ。
それを認めることが悟りであるだろう。

2018年10月14日日曜日

追憶 2198

傲慢(ごうまん)に陥った老人が、自分を改めることは難しい。
それは、そのような方法によって、これまでを生き延びることが出来たからだ。
生き延びることが出来るということは、その生き方が正しいという誤解を生じさせるのである。
住職は決して、人の意見を受け入れないだろう。
それは、自分が正しいと思い込んでいるからである。
これは、厄介(やっかい)な病だ。
我が儘(まま)に育てられ、視野の狭い人間を、更生することは難しい。
それは、これまでに物事が思い通りに進むという体験を繰り返して来たからだ。
そのような人間は、騒げば主張が通ると思い込んでいるのである。

2018年10月13日土曜日

追憶 2197

わたしは、住職を哀れに思う。
それは、彼が井の中の蛙(かわず)に思えるからだ。
小さな世界で威張(いば)り散らしても、空しいだけなのである。
井の中で傲慢(ごうまん)に生きるよりも、大海(たいかい)で謙虚に生きる方が、人格としては優れているだろう。
人は人格を高めるために生きていると思うのである。
そのためには、“無知の知”を知ることが求められるのだ。
自分が何かを知っていると思い込み、傲慢に陥(おちい)るのであれば、それ以上の成長は見込めないのである。
残念ながら、住職はそのような状態に陥っているだろう。
年齢を考えると、彼が謙虚さを身に付け、これ以上に人格を高めることは難しいだろう。




2018年10月12日金曜日

追憶 2196

組織に所属していても、思慮深く、尊敬に値する人は数多くいるだろう。
個人的に活動している人であっても、思慮が浅く、軽蔑の対象となる人は数多くいるのである。
結局は、自分自身がどうするか?ということであろう。
今日の宗教の教義は、偏見と誤解に満ちたものであるだろう。
そのために、世界が限定される。
住職の過去は知らないが、父親も住職をしていたために、若くして後を継いだのではないだろうか?
他の職業や、様々な立場を経験していれば、あそこまで傲慢(ごうまん)に陥らずに済んだのではないだろうか?
檀家(だんか)の年寄り連中は、住職ということで無条件に祭り上げる。
様々な条件が重なって、勘違いを発症してしまったのであろう。

2018年10月11日木曜日

追憶 2195

組織が、末端の人間を完全に管理することなど不可能である。
末端どころか、幹部であっても管理することは出来ないだろう。
そのため、住職の振る舞いを許している本寺にも責任があるだろうが、やはり、住職の個人的な責任が大きいと思うのである。
その組織に所属するすべての人間は、その組織の看板を背負っている。
それは、個人としての名前を失うことが、組織に所属するということだからだ。
ジブリ映画に、少女が温泉宿の主人に名前を奪われるという作品があったが、組織に所属するということは、ある意味では滅私奉公(めっしぼうこう)の契約(けいやく)なのである。
住職は一個人ではあるが、その宗派の一員である。
自分勝手に振る舞いたければ、組織を離れ、個人的に責任を負って行わなければならないだろう。



2018年10月10日水曜日

追憶 2194

宗教家は、無知や臆病な人の不安を煽(あお)る。
それは、顧客にするためだ。
現代の宗教において、信者は顧客に過ぎないだろう。
顧客という表現は優しいかも知れない。
なぜなら、一般的な企業は顧客を丁重に扱うからだ。
しかしながら、宗教家は信者を丁重に扱ってはいないだろう。
少なくても地元の寺には、そのような態度は確認することが出来ない。
普通に考えれば、寺を利用する人に駐車場を開放するはずである。
しかしながら、地元の寺では、入口の段差も大きく、元は畑であった舗装もされていない草だらけの空き地に駐車させるのだ。
そして、普通の人ならば気にならないことや、感謝するべきことにも腹を立て、気に食わないことがあれば所構わずに怒鳴り付け、更なる不安で脅(おど)すのである。
地元の寺の住職は特例であると信じたいが、それを許している のはこの寺の本寺(ほんじ)なのである。

2018年10月9日火曜日

追憶 2193

言葉は、価値を持たない。
価値は、行為によって示されるのである。
住職の行為は、誰が見ても外道であるだろう。
ここでは書くことの出来ない行為が幾つもあるのだ。
しかしながら、寺の掲示板に書かれた言葉はとても美しい。
言葉は美しさを語り、行為は醜態(しゅうたい)を晒(さら)しているのである。
言葉と行為のどちらを信じれば良いだろう?
詐欺師の言葉と行為のどちらを信用するだろうか?
答えは明白である。
残念ながら、言葉には価値がない。
価値があるのは行為なのである。
その人のことを知りたければ、言葉ではなく、行為を見ることである。

2018年10月8日月曜日

追憶 2192

自分勝手に判断することは悟りではない。
それは、”神”への信仰でもなければ、仏の道でもないのである。
これは、後に聞いた話ではあるが、駐車場は寺の土地ではなく、住職の所有する土地であるそうだ。
自分の土地をどうしようが住職の勝手だが、寺に訪れる人の車を小一時間停めさせることくらいのことはしても良いだろう。
檀家(だんか)制度がなければ、寺など成り立たないのだから、それは当然のことだと思うのである。
住職は、欲深い人物であると思える。
自分の欲望に従い、善悪を定めているが、それが常識を逸脱(いつだつ)しているのである。
仏の道を歩んでいるはずの住職が、仏の教えの反対を行なっているのは皮肉である。

2018年10月7日日曜日

追憶 2191

それは、”神”も悟りも特定の場所に停滞することがないからだ。
”神”や悟りというものは、”すべて”であるだろう。
木製や銅製の像も”神”や悟りの一部であるのかも知れないが、猪や崩れた石垣も”神”や悟りであると思えるのである。
わたしには、”すべて”を冷静に観察することが出来る状態こそが悟りであると思える。
物事に優劣を決め付けないことこそが重要であるだろう。
なぜなら、わたし達には判断することが出来ないからだ。
猪が石垣を崩すことの是非(ぜひ)は、誰にも判断することが出来ないのである。
猪が石垣を崩すことによって、住職には理解することの出来ない別の問題を回避していたかも知れないのである。




2018年10月6日土曜日

追憶 2190

崩れた石垣を眺めていると、後から来た家族がわたしに追い付いた。
そこからは、一緒に坂道を登り、四角い石に形だけの参拝をした。
先祖のことは大切に思うが、わたしの中では先祖と墓石が繋がらないのである。
祖父が生前に愛用していたものに面影を見ることはあっても、墓石からは何も思い浮かばないのだ。
それなのに、どういう訳か皆は墓石を祖父のように考えているようである。
どこにも祖父の姿は見えないのに…
物を大切にする気持ちは大切だとは思うが、それぞれを区別する必要があるだろう。
例えば、木製や銅製の像を一心不乱に拝んだところで、悟りを得ることなど出来るはずがないのだ。

2018年10月5日金曜日

追憶 2189

猪が石垣を崩すのは、自然の成り行きである。
放置された畑よりも、山である方が豊かであるだろう。
人が自分の都合で見なければ理解することが出来るはずである。
人は、人間以外の生命に支えられて生きている。
人間だけが利益を得ようと考えれば、人間以外の生命が損失を得るだろう。
もとより、わたし達は自然環境から土地を借りているに過ぎない。
借りている土地を、自分のものだと居直(いなお)っているのだ。
その傲慢(ごうまん)な態度が、愚かさであることに気が付かないのである。




2018年10月4日木曜日

追憶 2188

人は、支え合って自然である。
なぜなら、その時に心の平安がもたらされるからだ。
互いに協力し、補(おぎな)い合うことによってのみ、人の心は満たされる。
自分勝手には、心を満たすことは出来ないのだ。
人は、自然の中を生きている。
人は、自然環境に対して協力しなければならないのだ。
自然環境に対する協力を拒絶し、自分勝手に振る舞うことは、自らの足場を崩すことである。
それは、自然環境の状態が、そのまま自分自身の状態であるからだ。
人は、自分以外の何かとの関係性の中に生きている。
そのバランスが保たれている時が豊かさなのである。

2018年10月3日水曜日

追憶 2187

仏の道とは、解脱(げだつ)の道であるだろう。
解脱とは、作為から無為(むい)へ、不自然から自然へと到達した姿であると思える。
作為や不自然を手放した状態こそが解脱なのではないだろうか?
ミカン畑は、人の手を離れて荒れている。
それは、必要とされていないということである。
住職は、恐らく、寺の敷地とミカン畑を隔てる溝の石垣までも崩され、自分が被害を受けることを恐れているのだろう。
人生においては、自分が損失を得ることなど当たり前のことである。
自分のお金が減ることを恐れているのであれば、他者の商品を盗む以外に方法はないだろう。
それが不自然な行為であることは、周知の事実である。
自分が損失を得ることは、自然なことだ。
それは、誰かや何かに利益を得させることだからである。



2018年10月2日火曜日

追憶 2186

荒れたミカン畑と、石垣に関係する人にとっては、猪は厄介な存在であるだろう。
それは、猪に石垣を崩されることは都合が悪いからである。
崩れた石垣を修理するのは、とても骨の折れる仕事であるのだ。
しかしながら、それは、一方的な見方であると思えて仕方がない。
猪や自然からすれば、恐らくは、ミカン畑というものは都合の悪いものであろう。
ミカン畑もやがては自然に帰ることを見れば明らかである。
猪や自然にとっては、周囲の森と同じような環境である方が都合が良いと推測するのである。

2018年10月1日月曜日

追憶 2185

"普通"の人の行為ならば、わたしは何の疑問も持たなかっただろう。
わたしが疑問を抱いたのは、これが仏の道を志す人の行為だったからである。
"枯れ木も山の賑(にぎ)わい"という言葉がある。
少し解釈は異なっているかも知れないが、この世界には自分にとって都合の良いことばかりが実現する訳ではない。
どちらかといえば、自分にとって都合の悪いことの方が多く実現するようにさえ思える。
この世界には、都合の良いことと、都合の悪いことの両方が存在して自然であり、それが豊かさを成り立たせているように思えるのである。
自分の都合で見れば、世界は歪んでしまう。
枯れ木を許さなければ、山は豊かさを成り立たせることが出来ないのである。