このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2018年3月5日月曜日

追憶 1975

現代の宗教施設の多くが、成り金趣味の立派な建物や偶像で飾られている。
もちろん、それは今に始まったことではなく、昔からそのような状態であっただろう。
それ等を否定したのが本来の宗教であったはずである。
宗教というものが、偉大な預言者や指導者から始まったのであれば、現代の宗教の在り方には、どうしても疑問を覚えてしまうのである。
わたしには、本来の教えとは真逆な態度に思えて仕方ないのである。
本来の宗教とは、”神”と共に生きる哲学のことなのではないだろうか?
例えば、貨幣価値が無く、他者のいない無人島であろうとも、"神"を信仰して生きることは可能だと思うのである。
信仰心とは、宗教の教義や集団や幹部のためのものではない。
多くの信者を”栄養”としてぶくぶくと太っている宗教組織を見ていると悲しくなる。
ぶくぶくと太っている宗教組織と対照的に、からからに干涸(ひか)らびている信者を見ていると更に悲しくなるのである。
曲がった信仰心によって、自分の心と人生が覚束無(おぼつかな)いのでは意味がないのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿