このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2018年3月31日土曜日

追憶 2001

人が豊かに生きるために宗教は必要なのだろうか?
ある人には必要であり、ある人には必要ではないだろう。
これまでに、何人もの宗教によって幸福を得たと主張する人に会ってきた。
しかしながら、それは主観による幸福に過ぎなかった。
幸福とは、主観的なものに違いないが、わたしには誰一人として幸福だとは思えなかったのである。
わたしには、彼等が不幸であるために宗教に携(たずさ)わっているとしか見えなかったのだ。
現に老女は不幸にしか見えない。
不安や心配に苛(さいな)まれて暮らしているのである。
人生には、様々な可能性が存在し、様々な生き方が許されている。
小さな世界(価値観)に留(とど)まらずに、様々な可能性を生きれば良いと思うのである。



2018年3月30日金曜日

追憶 2000

多くの人は、その方法を宗教に求めるのであろう。
それは、宗教が救いを宣伝しているからであり、多くの人は深く考えることをしないからである。
大切なのは、誤解を手放し、偏見の支配から抜け出すことである。
それは、多面的に学ばなければならないということだ。
一つのことにとどまっていることによって、誤解は強化される。
そして、一つのことにとどまっているために、偏見から抜け出すことが出来ないのである。
宗教というものは、しっかりとした教義を地盤として成り立っている。
教義を守ることが宗教なのである。
そのため、宗教に救いを求めることは、誤解と偏見を強化することに他ならないのだ。

2018年3月29日木曜日

追憶 1999

多くの人は、苦悩が消滅することを成長であると考えているだろう。
そのために、苦悩から逃れようとするのである。
残念ながら、人生において苦悩は避けられない。
ゴータマであれ、イエスであれ、ある種の苦悩を抱えていたのである。
彼等のような素晴らしい人格者でも苦悩を抱えて生きなければならないのが、この世界の理(ことわり)である。
小学生の抱えている苦悩と、社会人の抱えている苦悩は異なる。
人は、苦悩と共に生まれ、苦悩と共に死に到達しなければならないのである。
老若男女、すべての人が苦悩を抱えていることは理解することが出来るだろう。
わたし達に出来ることは、苦悩のレベルを高めていくことだけであろう。
苦悩のレベルを高めていくためには、苦悩に向き合い、ただ常識に従うことをやめ、誤解を手放し、偏見の支配から抜け出さなければならないのである。

2018年3月28日水曜日

追憶 1998

そのためには、常識という偏見に満ちた価値観が障壁となることを覚えておかなければならない。
当たり前の風習や文化に従っているだけであれば、本質を見極めることなく生きていかなければならない。
それでは、苦悩が続いてしまうのである。
いつまでも、同じことに苦悩する必要はない。
人が苦悩から逃れることは出来ないだろうが、苦悩の対象を改めることは出来る。
それは、より質の高い苦悩であるということなのだ。
苦悩の質が高まることを成長というのかも知れない。



2018年3月27日火曜日

追憶 1997

当たり前の風習や文化も、それが本質的であるとは限らない。
もちろん、その中にも本質的なものは存在するし、新たな風習や文化が本質的であるとも限らないのである。
そのため、わたし達は本質を見極める必要があるのだ。
数ある浅はかな情報の中から本質を見極めるためには、非常に小さなものを探し出すような細やかさが必要なのである。
そのために、意識をより繊細にコントロールしなければならないということなのだ。
"当たり前"の意識のレベルでは、本質を見極めることは出来ない。
野生動物が、小さな物音を察知して姿を隠すような繊細な意識のレベルが必要なのである。

2018年3月26日月曜日

追憶 1996

最も売れているものが最も良いとは限らない。
最も支持されているものが最も良いとも限らないのである。
マクドナルドやコカコーラなどの世界的な企業の提供する商品が、本当に良い食品だと思うだろうか?
わたしはそれを良いとは思わないので、口に運ぶことはない。
寧(むし)ろ、良いものは少ない。
残念ながら、この世界においては、良いものの方が理解されないということの方が多いのである。
天動説が常識であった時代の人たちは、地動説を受け入れることが出来なかった。
天動説は、自己を中心とした傲慢(ごうまん)な考え方であったために、本質的な考え方だとは言えない。
結局は、地動説の方が事象に対して本質的な考え方であるとして、常識がそれを受け入れなければならなかった。
長い間信じてきた常識は、結局のところ誤解から生じた偏見でしかなかったということである。



2018年3月25日日曜日

追憶 1995

人生が豊かでないと思うのであれば、それは、本質を見極めることが出来ていないということである。
本質を見極めることが出来ているのであれば、人生に苦しむ必要もないのだ。
常識とは、誤解が積み重なった偏見に過ぎない。
残念ながら、世の中の大半の人は情報弱者である。
世の中の大半の人が、当たり前を良いものだと考えているだろう。
情報弱者は、自発性を失っているために情報弱者なのである。
当たり前や常識に対して何の疑問も抱かず、例え疑問を抱いたとしても何の行動も起こさず、流れに沿ってそのまま従っているのだ。
情報が少なければ、誤解をするのは当然である。
誤解をすることによって、偏見を抱えるのも当然の結果であるのだ。



2018年3月24日土曜日

追憶 1994

繊細な意識のコントロールを必要とするのは、そこに秘められている本質を見極めるためである。
見極められるかどうかは分からないが、少しでも深く認識する必要があるのだ。
そうでなければ、簡単に誤解を招いてしまう。
誤解すれば、導かれる霊的な現象の意味を理解することが出来ずに履き違えてしまう。
それでは、状況を悪化することに繋がってしまうのである。
霊的な現象が導かれるのは、状況をより豊かなものにするためである。
そのため、本質を見極めることなく、誤解を招くのであれば、それは本末転倒(ほんまつてんとう)なのである。




2018年3月23日金曜日

追憶 1993

老女の声が、わたしの頭の中で反響するようになった。
わたしはそれを不快に感じる。
老女が悪いのではない。
これは、感覚の切り替わりなのである。
それは、わたしの意思に反して自然に起こる現象である。
わたしの感覚は、既に霊的なものへと向けられていた。
霊的な世界の事象を見極めるためには、繊細(せんさい)な意識のコントロールを必要とする。
ただ、霊的な世界に触れるだけならば、特別な意識のコントロールは必要ではない。
霊的な存在を見るというだけなら、多くの人が体験していることである。
霊的な存在を見る多くの人は、繊細な意識のコントロールなどしてはいない。
彼等は自然に霊的な存在を見ているのである。

2018年3月22日木曜日

追憶 1992

わたしには、人の信仰を否定する権利はない。
人は誰もが、信じたいものを信じれば良いのである。
そのため、わたしが老女の行為に意見を挟むことはなかった。
しかしながら、この部屋に入ってから、わたしには気になることがあった。
それは、部屋の空気が重たいと感じるのである。
黒い霧が漂っているような感覚なのだ。
わたしには、それを心地好いとは思えなかった。
老女は楽しそうにわたしに話をするが、わたしは彼女のように楽しくはなかった。
この部屋にいると、少しずつ気が萎(な)えてくるのである。

2018年3月21日水曜日

追憶 1991

老女が一通りの話を終えると、わたしに仏壇と神棚を見せてくれた。
それは、隣の部屋であったので、わたしは再び老女に従って部屋を移動した。
その部屋には、立派な仏壇と神棚があった。
仏壇と神棚で一つの壁が埋まっていたのである。
仏壇には、お菓子や果物などが供えられていて、老女の夫と、息子夫婦の写真が飾られていた。
神棚には、何枚かのお札と小さな湯呑(ゆの)みが置いてあるだけの一般的なものであった。
立派ではあるが、仏壇も神棚も一般的なものである。
老女は、仏壇と神棚の世話をするのが日課であり、それが生き甲斐であると教えてくれた。

2018年3月20日火曜日

追憶 1990

歪んだ信仰は、歪んだ現実を実現する。
歪んだ現実とは、不自然な状況のことである。
不自然な状況とは、心地の悪い時間ということだ。
多くの人は、心地の悪い時間を過ごしている。
しかしながら、それを信仰しているように思える態度を示す。
例えば、寺に不満を抱えながらも、寺の仕来(しきた)りには従う。
寺の仕来りによって気分を害しているが、それでも仕来りを続けているのである。
わたしには特定の宗教がないので、宗教儀式には関心が無いが、それが心地の悪い時間であるのならば、他の方法を探せば良いと思うのである。
ある程度の辛抱は必要だとは思うが、気分を害してまで辛抱する必要はないと思う。
現代には、何をするにしても、いくらでも別の方法が存在しているが、多くの人はなぜか既存の方法に執着してしまう。
恐らく、仕来りに反することを恐れているのだとは思うが、わたし達の仕事は、より本質的な方法で生きることなのではないかと思うのである。




2018年3月19日月曜日

追憶 1989

人は、意識の過程に反することは出来ない。
多くの人は、環境や状況や他者に変わることを求めるが、それが不可能であることを理解しなければならない。
例え、環境や状況や他者が変わることがあったとしても、自分の意識の過程が変わることはない。
自分という存在は、環境でも状況でも他者でもない。
それは、自分というある意味では他から切り離された限定的な存在なのである。
限定的な存在である自分には、自分を変えることしか出来ないのだ。
多くの人は、例えば、大金が手に入ったら、抱えている多くの問題が解決し、幸福を得られると思っているようであるが、現実はそのように都合の良いものではない。
自分の意識が変わっていなければ、大金を手に入れることによって、却(かえ)って問題を大きく悪化させてしまうというのが現実的なのである。



2018年3月18日日曜日

追憶 1988

人は、意識の過程に相応しい選択をする。
正確には、意識の過程に相応しい選択しか出来ないのだろう。
例えば、酒やタバコやギャンブルを楽しむ人たちは似ている。
価値観や思考体系、行動パターンを共有しているように思えるのだ。
価値観や思考体系や行動パターンが、その人の範囲を決めているのだろう。
わたしは酒もタバコもギャンブルもやらないが、それは、それ等のことがわたしには必要がないからだと思える。
それが、良いか悪いかは分からないが、わたしの過程には必要のないことなのである。
人は万能な存在ではなく、限定的な存在であるだろう。
肉食も、出来る限りの添加物もやめたが、それは、わたしの意識の過程に相応しい選択なのだと思える。
ネガティブな考え方も、ポジティブな考え方もやめた。
それが、今の必要であり、今に相応しいことだからであろう。



2018年3月17日土曜日

追憶 1987

生まれ変わりの回数と、その質によって、魂の成長段階は異なる。
魂は意識として現れ、その人の人格や価値観を決定付ける。
意識には、ある程度の決まった道筋があるように思える。
大雑把に言えば、小学生の興味関心や選択は、大抵の場合共通している。
それは、意識がその過程にあるからだろう。
中学生には中学生の意識の過程があり、高校生には高校生の、大学生には大学生の意識の過程があるように思える。
小学生であっても、中学生や高校生のような興味関心や選択を行う者もいる。
そのような者は、小学生でありながら、意識の過程は先へ進んでいるということなのだと思えるのである。
しかしながら、人は大雑把に言えば一つの意識の流れの中を歩んでいるように思える。
わたしには、皆が決まった範囲の意識的な過程を経るとしか思えないのだ。

2018年3月16日金曜日

追憶 1986

肉体の年齢と魂の年齢とは異なる。
それは、肉体というものは入れ物に過ぎないからだ。
肉体とは、自動車のようなものである。
若人は、大抵が運転が下手である。
それは、経験が浅いというだけの理由である。
多少の差はあっても、人は経験を重ねることによって技能を上達させていく。
初めは運転が下手な人も、運転を繰り返す内に上達し、安全に目的地まで辿り着くことが出来るようになる。
経験を重ねることと、技能の向上は比例している。
サンデードライバーよりも、毎日の通勤で自動車を運転する人の方が運転が上手いのは当然のことだ。
年齢を重ね、何台も自動車を乗り継いでいる人の方が運転は上手いだろう。
魂は、生まれ変わりによって肉体を乗り継ぐ。
何度も生まれ変わることによって、人間としての経験値が蓄えられる。
それは、人生の生き方が上手くなっていくということなのである。



2018年3月15日木曜日

追憶 1985

わたしは、彼女の話の同じ場所でも、新たな場所でも修正案を提示した。
老女は、その時はわたしの修正案を受け入れるような態度を示す。
しかしながら、それもすぐに忘れてしまうようであった。
長い間培(つちか)われてきた価値観を改めることは、年齢を重ねた人にとっては不可能に近いことだと思える。
わたしの頭の中には、"馬の耳に念仏"や"犬に論語"という言葉が浮かんでいた。
ただし、わたしは老女を蔑(さげす)んでいる訳ではない。
若い魂を諭しているのである。
老女は、わたしよりも若い魂である。
経験が浅い分、理解が浅いのは仕方のないことなのだ。



2018年3月14日水曜日

追憶 1984

わたしには、彼がネガティブな感情を抱えているのが分かっていたが、身体が何の反応も示さないため、急を要する状況ではないのだろうと考えた。
放っておいても何の問題もないと理解して、老女が懸命に差し出してくれたお茶を受け取った。

老女の話は、いつも同じ内容である。
一通りの昔話と苦労話だ。
わたしは、老女の生まれから現在までの"大冒険"をこれまでに少なくとも3回は聞いているだろう。
わたしは老女の話の中に、彼女の現状を見ている。
彼女の話事態は聞いてはいない。
話の内容は頭に入ってくるが、物語を聞いている訳ではなく、価値観を捉えようとしているのである。
わたしは話の"奥"を見て、彼女の抱える問題点を見極め、それに対する修正案を提示するのであった。
残念ながら、1度の話し合いで変われる程、人間は柔軟ではない。
反発、否定、疑念、譲歩、受容という過程を経なければ、人間が変わることはないのである。



2018年3月13日火曜日

追憶 1983

リビングに通されて、彼女の言葉通りに座卓を前にして座った。
一つ大きな息を吐いて、老女は動きを止めた。
そして、わたしにお茶を入れることを告げた。
わたしは彼女の心遣いに感謝して、素直に待つことにしたのである。
座っている位置からは、廊下と階段が見えた。
わたしが目線を感じて振り向くと、先程の灰色の男が壁に半身を隠すようにして、階段からわたしを見詰めているのである。
彼にとっては、わたしが気になるのだろう。
彼からは、訪問者を見定めているような感覚を得た。

2018年3月12日月曜日

追憶 1982

わたしは、這(は)うようにして歩く老女に案内されて廊下を進んだ。
家は新築の部類に入るだろう。
フローリングに白い壁紙、上階へと続く階段の踊り場には、大きなガラスが嵌(はめ)め込まれてあり、そこにはステンドグラス風のシートが貼られてあるが、それが柔らかな光を階段から廊下へと運んでいた。
わたしは老女と家のコントラストに違和感を覚えたが、慣れが違和感を拭(ぬぐ)うと信じて気にしないように努めた。
すると、階段の手摺の壁から、人影が顔を覗(のぞ)かせた。
それは、全身が灰色の男であった。
大きなガラスを背負っているため、逆光によってそう見えるのかとも思ったが、老女は一人暮らしである。
侵入者かと思ってはみても、男からは生気を感じることが出来なかった。
男は霊体である。
男からは何の敵意も感じられなかった。
そこで、わたしは男に挨拶をして、先を行く老女を追った。




2018年3月11日日曜日

追憶 1981

玄関を開けて、わたしは老女の名前を叫んだ。
それは、彼女は耳が遠かったからである。
何度か叫ぶと、奥の方で物音がしたのに気が付いた。
もう一度叫ぶと、ようやく、わたしの耳にも返事が届いた。
しばらく待っていると、壁に設置してある手摺(てすり)を頼りにして、身体を支えて歩く老女が顔を見せた。
わたしが笑顔で挨拶をすると、老女はいつものようにわたしを祭り上げるような挨拶をするので、それを制した。
わたしを"先生"と呼び、特別扱いするのは相変わらずである。
わたしは彼女の言動を訂正しながら、彼女の言葉に従ってお邪魔することにした。



2018年3月10日土曜日

追憶 1980

わたしは老女に本当の信仰心を見出して欲しいのである。
人生には、思い通りにいかないことしかないが、それを悲観するのは間違っているだろう。
なぜなら、"神"がそれを許しているからである。
"神"が許さなければ、目の前の現実は違う形として導かれているに違いない。
"神"を信仰しているのであれば、理解することが出来るだろう。
"神"を信仰していない人には、この考え方は理解することが出来ないかも知れない。
"神"を信仰していない人は、自分自身を信仰している。
そのような人は人生を思い通りにしたいと考えているのである。
世の中には、人生を受け入れている人がどれだけいるだろう?
宗教に携わっている人の中には少ないのではないだろうか?
それは、人生を受け入れているのであれば、"神"に泣き付かないはずだからである。



2018年3月9日金曜日

追憶 1979

ただし、自分自身を信仰する余り、自分自身を"神"と考えてはならない。
自分自身を"神"とする傲慢(ごうまん)さは、自分自身という偽りの"神"を見ることになるからだ。
自分という未熟者を信仰する訳にはいかないのである。
自分自身を信じながらも、疑うという態度が必要なのである。
矛盾しているように思うかも知れないが、この世界は陰陽が揃(そろ)って自然なのである。
宗教や自分を信じるだけではならない。 
宗教や自分を疑うだけでもならないのだ。
信じながら疑うことによって、本当の信仰の在り方が見えて来る。
そこには、争いも泣き言もなく、目の前の現実を受け入れて立ち向かう立派な信仰心が存在するのである。




2018年3月8日木曜日

追憶 1978

多くの人は、自分以外の存在と争う。
敵が存在するために、"神"に泣き付いているのである。
それは、怖いものを見て、親の足にしがみ付いて泣く子どもと同じであるだろう。
多くの人は、"神"に対して弱音を吐いているのだ。
それを敵にしたのは、他の誰でもない自分自身である。
それを恐れているのも、自分自身であるということを理解しなければならない。
自分自身の判断によって、人生は大きく変わる。
そのことを知らない人は、"神"に縋(すが)ったり、起きることもない"奇跡"を待ち侘(わ)びるのである。
人生を変えるのは、自分自身の力だと信じなければならない。
"神"を信じる前に、自分自身を信じなければならないのである。
自分自身を信じることさえ出来ない者が見ているのは、宗教などの偽りの"神"である。
自分自身を信じることが出来る者が見ているのが、本物の"神"であるだろう。



2018年3月7日水曜日

追憶 1977

老女は、目の前の現実に対して悲観的に生きている。
家族に先立たれ、一人暮らしであり、年老いて、身体も言うことを聞かない。
彼女にとって、それは苦しい現実なのである。
酷な言い方かも知れないが、その状況は自らの導いた結果である。
しかしながら、それは、最善である。
老女は、そのような状況から、大切な何かを学ばなければならないのだ。
そのような状況でなければ学ぶことが出来ないのである。
それは、自分自身を学ぶためであるだろう。
そのために、目の前の現実を通じて自分自身の弱さを見せ付けられるのだ。
老女が向き合わなければならないのは、目の前の問題ではなく、自分自身の弱さなのである。




2018年3月6日火曜日

追憶 1976

信仰心は、人の心を育み、人生を豊かにするためのものであるだろう。
宗教が提示する妄想の"神"を信奉(しんぽう)して、自らの人生を蔑(ないがし)ろにするためのものではないと思うのである。
わたしが宗教の提示する"神"を妄想だと言うのは、その"神"に会ったことがないからである。
わたしは、実体験しか信じることが出来ない。
しかしながら、わたしが何かを完全に信じることはない。
どこかには、必ず疑いを抱えているのである。
それは、自分自身も他者も、不完全な存在であると思っているからだ。
わたしは、実体験で天使に会ったから、天使の存在を信じている。
しかし、それは、天使の存在の有無の割合が変わったに過ぎない。
わたしは天使の存在を信じているが、それと同時に僅(わず)かではあるが、その存在を疑ってもいる。
宗教においては、盲目的に信じることが美徳とされているように思うが、わたしにはそう思えない。
それは、疑いを抱かなければ、何事の本質も得られないと思うからである。

2018年3月5日月曜日

追憶 1975

現代の宗教施設の多くが、成り金趣味の立派な建物や偶像で飾られている。
もちろん、それは今に始まったことではなく、昔からそのような状態であっただろう。
それ等を否定したのが本来の宗教であったはずである。
宗教というものが、偉大な預言者や指導者から始まったのであれば、現代の宗教の在り方には、どうしても疑問を覚えてしまうのである。
わたしには、本来の教えとは真逆な態度に思えて仕方ないのである。
本来の宗教とは、”神”と共に生きる哲学のことなのではないだろうか?
例えば、貨幣価値が無く、他者のいない無人島であろうとも、"神"を信仰して生きることは可能だと思うのである。
信仰心とは、宗教の教義や集団や幹部のためのものではない。
多くの信者を”栄養”としてぶくぶくと太っている宗教組織を見ていると悲しくなる。
ぶくぶくと太っている宗教組織と対照的に、からからに干涸(ひか)らびている信者を見ていると更に悲しくなるのである。
曲がった信仰心によって、自分の心と人生が覚束無(おぼつかな)いのでは意味がないのである。

2018年3月4日日曜日

追憶 1974

厳(おごそ)かな儀式や、仰々(ぎょうぎょう)しい祈りなどは必要ではない。
あれは、自分自身を安心させるためや、信者を集めるためのパフォーマンスに過ぎない。
宗教に属する人達の格好は、最早(もはや)コスプレに過ぎないのである。
偉大な預言者や指導者は、そのようなものを必要とはしていなかったであろう。
ゴータマやモーセ、アブラハムやイエス、そして、ムハンマドも偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)を禁じた。
そして、彼等は立派な社(やしろ)を必要とはしなかった。
それは、偶像崇拝は物質主義であることを見抜き、それによって人間が”神”に背を向けることを知っていたからであろう。
拝金主義も偶像崇拝の一種である。



2018年3月3日土曜日

追憶 1973

宗教を信仰している人達は、そこに気が付いてはいないだろう。
"神"の側にいることが、"神"や自分のためになると信じているのではないだろうか?
"神"の側にいることが重要であるのならば、わたし達がこの地上に生まれる必要などないのである。
天国?の方が余程"神"に近いだろう。
しかしながら、わたし達は"神"を離れて地上に生まれなければならなかった。
それは、"神"から離れることが必要だったからである。
親元を離れることが出来ない子どもは、世の中の役に立つことが出来るだろうか?
人が世の中の役に立つためには、自立心を育てなければならないのである。
依存心を抱えている人には、自発性がなく、想像力の無い、誰かに従うだけの人になってしまうだろう。
誰かに従うことによっても、立派に世の中の役に立つことは出来るだろうが、各々(おのおの)がより良い提案をした方が良いと言えるだろう。
宗教の教えに従っているだけであれば、この世界への理解を深めることは出来ない。
それは、偏見や誤解を強めるだけなのである。
偏見や誤解を抱えている人は、役に立つどころか、足を引っ張ってしまう可能性の方が高いだろう。




2018年3月2日金曜日

追憶 1972

今回の人生において、わたしに宗教は必要ない。
それは、"神"を信仰しているからである。
子どもが親元を離れて遊ぶことが出来るのは、親子の間に信頼関係が構築されているからだろう。
親子の間の信頼関係が薄弱なものであれば、子どもは不安を抱えて、親元を離れて遊ぶことはない。
親に見捨てられはしないかと、縋(すが)り付いているのである。
それは、"神"と人間との関係においても同じことである。
"神"を信仰している人は、"神"から離れることが出来る。
それは、"神"から頼まれた"仕事"を完遂(かんすい)する必要があるからだ。
"神"に縋り付いていれば、頼まれた"仕事"に取り掛かることも出来ないのである。



2018年3月1日木曜日

追憶 1971

老女は"神"に祈りを捧げることを習慣としている。
聞こえは良いが、それは要求である。
例えば、"神様、助けてください"という要求をする人がいるとして、その人は"神"を信仰してはいない。
"神"に祈りを捧げることを信仰深いと考えている人が多いだろうが、"神"を信じていれば、助けを求めることなどないのである。
目の前の状況は"神"(因果の仕組み)が導いたのである。
もしも、"神"を信仰しているのであれば、目の前の現実に立ち向かうはずなのだ。
"神"を信仰している人は、実践的であるはずだが、"神"を信仰している多くの人は、苦しみに対して嘆(なげ)き悲しみ、停滞しているのが普通である。
"神"に祈りを捧げ、宗教的な儀式や生き方に停滞するよりも、広い世界に自らの可能性を探しに行く方が賢明なのではないかと思うのである。