山道の子どもが、未来を予知していたのかは分からないが、結果的にわたしを助けてくれたことには変わりないであろう。
時間の本質は分からないが、子どもがわたしを助けてくれたことは理解することが出来る。
もちろん、子どもにはそのような気持ちは無かったかも知れない。
それが必然だろうと偶然だろうと、結果を見ればどうするべきかを知ることが出来る。
山道の子どもが何者であるかはどうでも良いことなのである。
相手の素性がどのようなものであれ、わたしは助けてくれたことに感謝するべきであろう。
今日の人間社会は、知らない相手の善意を歪めて解釈したり、知らない相手に善意を以て接することを避けている傾向が強いのではないだろうか?
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