それは、何の変哲もない森の中に”心”を見るためである。
	それは、友を探すということだ。
	わたしの友は、目に見える形をしてはいない。
	それが妄想かどうかは分からないが、思い通りに向き合うことが出来ないので、わたしの妄想からは独立した存在なのではないだろうか?
	わたしは瞑想に願望を投影することはしない。
	どちらかと言えば、わたしは現実論的な立場にある。
	観察しているに過ぎないだろう。
	わたしは謎を解明したいのである。
	わたしは友を探し出したいとは思っているが、見付けられないのであればそれで良いのである。
	結果はわたしの与(あずか)り知るところではないのだ。
	わたしはわたしに出来ることをし、与えられる結果を受け入れ、そこから新たに始めるだけである。
	
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