このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2016年9月30日金曜日

追憶 1481

年配の女性は黙り込んでしまった。
それは、現実から目を背けるような感覚である。
彼女はいたたまれない気持ちに苛(さいな)まれていただろう。
彼女は、自分の抱える矛盾に気が付いたが、信仰を手放したくはなく、過去の自分を否定することが許せなかったのではないだろうか?
心の中には、わたしの言葉と宗教の教義が戦っているに違いない。
その葛藤が彼女を襲っているのであった。
年配の女性が黙り込んでしまったので、若い方の女性には、それが親や兄弟であればどうか?と同じ質問をした。
若い方の女性も返答に困っていた。
彼女達の信仰する宗教が正しいというのであれば、何も迷うことはないのである。
息子(加害者)を悪魔とすれば良いだけだ。
しかしながら、彼女達にはそんなことは出来ないだろう。
それは、彼女達が愛情深く、純粋であるということをわたしは知っているからである。


2016年9月29日木曜日

追憶 1480

わたしは二人に結婚はしているのかと尋ねた。
若い方の女性は結婚していないという。
年配の女性は結婚していると言った。
そこでわたしは、結婚していると言った年配の女性に子どもがいるかを尋ねた。
すると、年配の女性は一人息子がいるという。
息子は既に成人しており、営業の仕事をしているのだという。
そこで、わたしは彼女達に車の例え話をした。
車を運転するということは、人を殺す確率は五分である。
いつ人を殺すか分からないのである。
それは、車を運転するすべての人に共通することであろう。

「あなたは悪魔や殺人犯、暴力や争いが悪いと言いましたが、あなたの息子が車で人を殺したらどうしますか?明日にでも、あなたの息子が人を殺すかも知れませんよ?相手が急に飛び出してくるかも知れません。その時に、それを悪魔のせいにしますか?殺人犯だとして息子と縁を切りますか?車で人を殺すことは暴力ではありませんか?後に遺族と争うことになりますよ?遺族に対して、”悪魔のせいであなたの家族は死にました”と伝えるのですか?あなたは人殺しの息子を愛することをやめますか?もしも、このような状況に陥ってしまったらどうしますか?」

わたしの言葉に対して、彼女達は明らかに動揺していた。


2016年9月28日水曜日

追憶 1479

わたしの言葉を聞いて、彼女達は心の内に明らかな不快感を抱いた。
しかしながら、表情には穏やかな笑みを浮かべていた。
それは、わたしが無知で愚かな人物であるために、救いの手を伸ばさなければならないという彼女達なりの愛の形を現したからであろう。
彼女達はわたしを哀れんでいたように思う。
迷える子羊を導いてやろうと考えていたに違いない。
彼女達は、わたしの言葉に反発し、自分達の宗教の教典を取り出し、その一節を紹介しながら悪魔や争いが諸悪の根源であるという主張を押し付けた。
その時、全身が泡立ち、寒気と吐き気に襲われた。
見ると、彼女達の背後に大きな暗闇が浮かんでいた。
その中には、数え切れない程の炭のように黒い人達がいて、それぞれが呻(うめ)き声を上げながら絡み合っていた。
彼女達の主張がどのような可能性を導くのかは、それによって明らかになった。
そこでわたしは例えを以て話さなければならくなった。

2016年9月27日火曜日

追憶 1478

「悪魔も殺人鬼もいて良いと思うし、暴力も争いもあって良いと思います。それを必要としている人がいるから、それ等の存在がこの世界に許されているとは思いませんか?わたしが神様だったらそうしますよ。あなた達は神様を信じていないのですか?」

わたしは彼女達が信仰している宗教や”神”を否定したいのではない。
彼女達の意識レベルは、小さな範囲にとどまっていたのである。
そのために、善悪を分ける西洋的な宗教観を信仰しているのである。
西洋の歴史を少しでも勉強したのであれば、西洋的な思想がどのような結果を導いたのかが分かるだろう。
わたしが信仰しているのは、名前を持つような小さな存在ではない。
名前を持つのであれば”神”などではないのである。
名前を持っているのは、個々に分けられた存在である。
名前とは、似た別の存在との区別のために付けられるからだ。
わたしが信仰しているのは、すべてに共通する存在としての”神”である。
わたしの信仰する”神”は、善悪も一つに束ねている。
それは、”すべては一つ”という根源的な教えを導く存在のことだ。
呼び方は何でも良いだろう。
”か”でも”み”でも、”A”でも”B”でも良いのである。
なぜなら、”すべては一つ”ということは、すべてであるからだ。
そのため、呼び方など何でも良いのである。
本当は、名前など持たないであろう。

2016年9月26日月曜日

追憶 1477

わたしには、売るほどの失敗談はあっても、不幸話というものはない。
それは、わたしが不幸ではないからである。
そのため、彼女達の期待には応えられそうにもなかった。
そこでわたしは、彼女達に

「悪魔も殺人鬼もいて良いと思いますよ」

と伝えた。
すると、彼女達はわたしの言葉に耳を疑ったのであろう。
予想外の出来事に遭遇し、自分の思惑(おもわく)や計画が完全に破綻した人の表情を見るのは慣れている。
光の仕事で天使や相手の守護者の言葉を伝える時には、誰もが同じ表情になるからだ。
わたしはまた吹き出しそうになったが、懸命に自分を抑えた。
彼女達はしばらくの間、唖然としていた。
それは、五秒くらいだったかも知らないが、彼女達にとっては長い時間だったかもしれない。
わたしの先制パンチが見事に彼女達を撃ち抜いたのである。
この”試合”の勝敗は既に決まった。
わたしの勝ちである。
対人の勝敗は、初めに驚かせた方が勝ち、驚いた方が負けると相場が決まっているのである。

2016年9月25日日曜日

追憶 1476

世の中には、様々なレベルのものがあって良いと思う。
宗教は善悪を分けるが、わたしは悪魔がいても良いと思うし、殺人鬼がいても良いと思うのだ。
それは、蜂や熊や猪や百足(むかで)や鮫や蝮(まむし)がいて良いことと同じである。
もちろん、殺人鬼は極論ではあるが、例えば車を運転している時点において、すべての運転手が殺人を犯す可能性は五分であろう。
車を運転するという行為は、人を殺すか、殺さないかの二者択一である。

ある宗教の勧誘で二人の女性がわたしを何の約束もなく訪ねたことがあった。
彼女達は自分達の名前も身分も明かさない失礼な態度であった。
その時点で、彼女達の状態や目的がどのレベルにあるのかを察したが、なんだか面白そうだったので、時間は余り無かったが五分くらいを彼女達にあてることにした。
彼女達の主張を要約すると、世の中には悪魔が存在しているというものであった。
争いや暴力や戦争などが、悪魔の仕業であり、わたし達は身を守らなければならないというのだ。
わたしは吹き出しそうになったが、必死で堪えて真剣に話を聞いた。
彼女達は自分達の宗教の経典を読み、集会に参加することによってわたしを救おうとしてくれているようであった。
とても親切で愛情深い人達である。
彼女達はわたしに世の中が暗闇で覆われていることを訴え、わたしに不安を与えたいようであった。
そして、わたしの不幸話を聞きたいようであった。

2016年9月24日土曜日

追憶 1475

わたしは調理の専門家ではないため、彼女たちの力は大いに役立つ。
わたしは光の仕事によって人の心を手助けし、地産地消カフェによって肉体を手助けしたいと考えたのである。
人が人生を豊かに生きるためには、心と肉体が健やかでなければならない。
心だけの健全化に努めることは、脆弱(ぜいじゃく)な価値観の手助けとなってしまう。
それは、唯心論に傾倒する生き方になってしまい、幻想に逃避し易くなってしまう。
所謂(いわゆる)、”お花畑”状態となり、現実逃避を喜ぶようになるのだ。
それは、チャネリングなどの超自然的な体験に没頭し、地から足が離れてしまう可能性が高くなる。
肉体だけの健全化に努めることも同じである。
それは、唯物論に傾倒する生き方を導き、現実主義を主張し始める。
科学は未知の可能性を追求する学問であるが、顕在化(けんざいか)した物証だけを信じ、潜在化している可能性を見失う。
”お金で買えないものはない”、”人は脳や心臓であり、死んだら何も無い”というような価値観に生きるようになるのである。
唯心論と唯物論、心と身体の両方の質を高める必要があるのだ。

2016年9月23日金曜日

追憶 1474

わたしが地産地消カフェに参加したのは、質の良い食事によって肉体の健康を保つ手助けができるのではないかと考えたからである。
質の良い食事とは、添加物の入っていない食事のことである。
確証は無いが、病気に対する唯物的な要因として添加物が関係しているのではないかと思える。
わたしは添加物に対して多少のアレルギーがあるのではないかと思う。
それは、添加物が入った食品(特に菓子)を食べると吹き出物ができるからだ。
小、中学生の時には毎日のように添加物入りの菓子を食べていた。
その結果として体重は増え、ニキビに悩まされた。
思春期のことだと思っていたが、今になって思うことは、添加物へのアレルギーであったのではないかということだ。
成人してからは基本的にニキビができることはなくなったが、添加物入りの菓子を食べた翌日にはニキビができる。
このことから、わたしにとっての吹き出物は添加物に対するアレルギー反応ではないかと思えるのである。
現代病と言われている肥満や癌(がん)やアレルギーなどの様々な疾患(しっかん)との因果関係も、個人的には疑っているのである。

2016年9月22日木曜日

追憶 1473

既に最善の仕事をしてくれている相手に求めることは、相手の最善の仕事にケチを付けるようなものなのである。
そのため、神仏に祈るという行為は、神仏に対して文句を吐く行為であるということなのだ。
人生にはどうすることもできないことがある。
わたしはNと一緒にいたかったが、それはどうすることもできなかった。
どうすることもできないことは、どうもしなくて良いということなのだろう。
人生の決定が覆(くつがえ)ることはない。
何とか延命しようとしても、その道は尻窄(しりつぼ)みなのである。
燃料を補給し続けたとしても、各部品の寿命がくれば車は走ることができないのである。 
どうすることもできないことは諦めて、別の方法や道を、努力によって進んで行くことの方が良いのではないかと思えるのだ。
神仏に求めることをやめ、自力に求め、世界のために働くのであれば、(最低条件を満たした)夢は実現するだろう。

2016年9月21日水曜日

追憶 1472

わたしが彼女に振られたのは、この条件のほとんどを満たしてはいなかったからであろう。
彼女にとって、わたしは魅力がなかったのである。
条件を満たしていれば、印象はいくらかは変わっていたのではないかと思える。
この世界は現実的であることを忘れてはならないだろう。
多くの人は夢が実現しないと考えているか、願えば叶うなどと考えている。
神社仏閣に人が群がる光景を見れば、彼等が如何(いか)に神仏を頼りにしているのかが分かるだろう。
神仏に助けを求める人であっても、懸命に努力している人はいるだろう。
しかしながら、神仏に求めるのであれば、やはり詰めが甘いのである。
人間は、自らの条件を整えることに専念する必要があるのだ。
神仏に求める時間を努力に費やす方が現実的である。
しかしながら、神仏を否定しているのではない。
わたしは天使や仏に会い、共に仕事をする仲である。
しかしながら、わたしは一度も神仏に求めたことはない。
それは、必要なことは既に行ってくれているからである。

2016年9月20日火曜日

追憶 1471

もちろん、願って叶うものではない。
”神”に祈って与えられるものでもない。
実現する夢には条件があると考えられる。
利他的であること。
自分自身に関係していること。
成長のためになること。
努力していること。
ある程度のレベルで夢が実現していることが想像できること。
恐れよりも喜びの感情の方が強いこと。
など、その他にも様々な条件があるだろう。
しかしながら、ここに列挙した条件が夢を実現させるための最低条件であるように思える。
最低条件が揃(そろ)わなければ夢が実現することはないだろう。
利己的であること。
自分自身に無関係なこと。
成長のためにならず、堕落を助けること。
努力してはいないこと。
実現することを全く想像することができないこと。
喜ぶどころではなく、恐れていること。
夢に対してこのような条件を揃えて、それが実現すると思うだろうか?
余程の捻(ひね)くれ者でない限り、この条件で夢が実現することがないことは認めるだろう。

2016年9月19日月曜日

追憶 1470

わたしが手にしなければならないものは、真の価値である。
飾られた偽りの価値を手にすることは、人生の目的に反しているのだ。
わたしが真の価値を手にするためには、利己的な欲求を追い求めてはならないだろう。
例えば、寂しいという理由によって、他人に依存するのは偽りの価値を導いてしまう。
それは、自分のための欲求に過ぎないからだ。
”相手の手助けがしたい”、”相手を喜ばせたい”、このように利他的な欲求こそが、真の価値を導いてくれるのである。
それこそが、夢の実現であるように思えるのだ。
多くの人が夢が実現しないと考えている原因は、それが利己的な欲求であったために実現してもすぐに崩壊したという過去からのトラウマにあるのではないだろうか?
利己的に求めることをやめ、誰かや何かのために求めるのであれば、真の価値が実現するはずである。
それは、客観的に考えて、この世界の理にかなっているように思えるからである。

2016年9月18日日曜日

追憶 1469

厳密に言えば、自分のための欲求(夢)も実現する。
しかしながら、それは”張りぼて”に過ぎない。
実質の無い実現であると言えるのである。
それは、遺産相続や宝くじによって得た不労所得のようなものだ。
どれだけの不労所得を得たとしても、因果の仕組みが働いて、相応しい形に調整されてしまう。
経済力に乏しければどれだけの所得を得たとしても、簡単に破産してしまう。
何かを得たとしても、その人の”徳”の量に比例した結果を受けることになるのである。
そのため、自分のための欲求が実現したとしても、それがその人に相応しい形に調整されるのだから、実現していないのと同じなのである。
もしも、わたしが彼女と交際することができたとしても、間も無く何かしらの理由によって破局していたはずである。
実質の無いものにどれだけ入れ込んでも、残念ながら価値がないと言えるだろう。

2016年9月17日土曜日

追憶 1468

今回の”実験”は、自分のための欲求が実現するのか?ということである。
実験は、わたしの推測を見事に証明した。
もちろん、実験というものは何度も試みた結果によって結論に至るものであろうが、わたしにとって都合の良い結果がすぐに出たということで、わたしはそれを結論としたのである。
この実験によって、自分のための欲求が実現しないことを学習した。
今後、わたしは人間関係に対して、自分のための欲求は持ち込まないであろう。
人生に対しても、自分のための欲求は持ち込まないはずである。
わたしは今回の実験によって、自らの愚かさを再認識することになった。
わたしはいつものように、愚かな失敗を繰り返したのである。
しかしながら、この失敗がわたしに成功の方法を教えてくれる。
成功の方法とは、愚かな失敗と反対のことをすれば良いのである。
実に簡単なことなのだ。
しかしながら、多くの人は失敗することを恐れている。
自分の愚かさに向き合いたくはないのである。
そのため、成功の方法が分からない。
その結果として、夢が実現しないと決め付けたり、諦めたりするのである。

2016年9月16日金曜日

追憶 1467

わたしは気を紛らせたかったのかも知れない。
弱い心と好奇心が混じり合う感情によって、わたしは答えを探した。
わたしはある女性を食事に誘い、何度か友人として楽しい時間を過ごした。
わたしは彼女に対しての恋愛感情というものは無かった。
彼女は端正(たんせい)な顔立ちをしており、明るくて気さくな性格の持ち主である。
一般的に見れば、魅力的な女性であることは間違いないであろう。
見た目と表面的な性格が良いということで、彼女に答えを求めたのである。
何度か食事をして、わたしは交際を求めた。
結果として、わたしは見事に振られた。
良い答えをもらえたと思っている。
わたしは振られたことに満足していた。
初めから、このような結果を求めていたのかも知れない。
振られたことには満足していたが、彼女に迷惑を掛けたような気がして申し訳なく思い、自分の愚かさに虚しくなった。

2016年9月15日木曜日

追憶 1466

世の中には、恋愛というものを軽く考えている人もいるだろう。
他人との関係性を気楽に考え、短絡的な快楽を求めるとでも言うのか?拘(こだわ)りが無いとでも言うのだろうか?恐れを紛らわすためなのか?コミニュケーションの一環として楽しんでいるのか?わたしの中には無い価値観というものがある。
わたしは恋愛感情も無しに、交際が実現するのか?実現すればどのような展開になるのか?を知りたかったのである。
わたしは過去に一度だけ、相手に求められて交際させてもらったことがあったが、わたしには相手に対する恋愛感情が薄かった。
そのため、恋愛関係はすぐに破綻(はたん)し、相手に対しては申し訳ない気持ちを残す苦い体験をしたことがある。
しかしながら、恋愛関係も無く、恋愛関係を求めるという馬鹿げたことを経験したことは無かった。
そのため、わたしはそれに挑戦してみたくなったのだ。
相手に対して、失礼であることは理解している。
しかしながら、その答えが無ければ先へ進むことが出来ないと思っていた。
当時はNに振られた傷心も手伝っていたのではないかと思うが、そのような心境でなければ行うことが出来ない実験であったことは間違いないであろう。

2016年9月14日水曜日

追憶 1465

誰かや何かに貢献するためには、様々な経験をしなければならない。
それは、経験値こそが物事の本質へと導くからである。
比較対象を得なければ道理は見えてこない。
そのために、偏りの無い経験を得ることが理想なのである。
これまでのわたしは、恋人に対しては恋心のようなものが必要だと考えていた。
恋愛は自分の中では軽々しいものではなく、真剣に向き合わなければならないと考えていたのである。
そのため、心が動かなければ行動してはならないと考えていた。
誰かを恋愛対象として好きになり、その気持ちが抑え切れない程に熱を持った時に行動を起こすものだと考えていたのである。
とはいえ、Nとの交際は異例ではあった。
しかしながら、わたし個人としては、他人との交際(恋愛関係)を重たく考えていたのである。

2016年9月13日火曜日

追憶 1464

多くの人は、夢が実現しないものとして決め付けている。
多くの人は夢を諦めて生きているだろう。
生活のためや家族のためだという理由によって、妥協(だきょう)や諦めを受け入れているのである。
それが悪いと言いたいのではない。
他人のために生きることは素晴らしいと思う。
しかしながら、他人のために自分を犠牲にしているのには違和感を覚えるのである。
わたしは自分に出来ることで、出来る限り多くの人を手助けしたいと考えたが、結果的に全国から多くの人がわざわざわたしを訪ねてくれる。
これも、思い描いたことの実現である。
ただ、誤解してはならないのが、実現したことは利他的な欲求を主体とした夢であったということだ。
喫茶店を経営したいと思い描いた動機は、人の相談を聞き、癒しを与えたかったからである。
光の仕事を思い描いた動機も、霊や他人のためであった。
利己的な夢の実現は難しいであろう。
寧(むし)ろ、それは実現しない方が良いのではないかとも思える。
次にわたしが記すのは、利己的な欲求による失敗例である。

2016年9月12日月曜日

追憶 1463

思い描いたことは、案外簡単に実現する。
思い返せば、光の仕事でもそうであった。
わたしは霊に会いたいと思い、会うことができた。
霊を助けたいと思うと天使が現れて、結果的に霊を助けることができた。
自分自身を変えたいと思い変われた。
(しかしながら、これにはゴールはないと思える)
霊的な観点から人の手助けがしたいと思い、(恐らくではあるが)手助けすることができた。
人生を変えたいと思い、大きく変わったのである。
変わることを感知して思い描いたのか、思い描いたので変わったのかは分からない。
状況が思い描いた通りに変わることはないが、思い描いた方向性の状況は実現するのである。
多くの人は夢は叶わないと言うが、本当にそうだろうか?
もちろん、叶わない夢もあるだろう。
それは、自分自身に対して何の関連性もない戯言(たわごと)を夢としている場合であろう。
例えば、何の知識も経験も無いのに、何かの専門家に成りたいというようなものである。
現実(現状)離れした夢は、空想に過ぎないのである。
わたしの場合は、霊的な世界に対して猛烈な興味があり、それを楽しむ気持ちが人一倍強かった。
それは、わたしの現状であり、夢の実現に大いに関連していると言えるだろう。
そう考えれば、実現する夢というものは、その種(原因)を所有している可能性が高い。
それは、学びに起源しているのからであろう。
わたしには、霊的な世界との交流や”喫茶店”を経験するという必要があったのだと思える。

2016年9月11日日曜日

追憶 1462

わたしは出来る限りの協力を約束していたので、力不足ではあるが了承(りょうしょう)した。
彼女達は、以前からパン屋で働いていたので、調理やメニューには何の問題もなかった。
わたしは彼女達の傍(かたわ)らで、事業の立ち上げを見学しているようなものであった。
一緒に事業のコンセプトを練り、物件を下見し、約半年後にはお店がオープンすることになった。
わたしもエプロンを腰に巻いてお店に立った。
料理を運び、珈琲を淹(い)れる。
そこでわたしは気が付いた。
わたしの将来の可能性は、既に実現していたのである。
何十年も先のことだと思っていた。
しかしながら、実際には半年後のことだったのである。
もちろん、わたしが経営している訳ではないが、それに近い形での実現であった。

2016年9月10日土曜日

追憶 1461

わたしは二人に対して光の仕事を施し、現状における心の問題点と、その改善方法を伝え、出来ることは行った。
わたしは二人に出来る限りの協力を約束し、母と助け合うように頼んだ。
その日、二人は喜んで帰っていった。

後日、二人が再びわたしを訪ねた。
それは、光の仕事を目的としてのことであったが、わたしに対して別の形での協力を要請(ようせい)するためでもあった。
彼女達は、米粉パンを主体とした地産地消カフェを計画していた。
所謂(いわゆる)、六次産業化というものである。
そのために、事業形態を法人化し、その理事の一人として参加して欲しいということであった。

2016年9月9日金曜日

追憶 1460

それから、わたしは喫茶店の経営について調べ始めた。
それは、将来への布石(ふせき)であった。
わたしは喫茶店を経営するという可能性の種を蒔いたのである。
それは、何年か、何十年後かに実を付けるかも知れない。
どちらにしても、知らないことを勉強することは楽しかった。
それに、人生が少しでも変わっていくようで心地好かった。

ある日、わたしを二人の女性が訪ねた。
この二人は以前に母親と共に働いていた人達であり、わたしも面識があり、友達のような関係である。
二人には高校生になる子どももいて、仕事と主婦業を兼業する努力家である。
そんな二人がわたしを訪ねたのには理由があった。
それは、二人が母親と一緒に飲食業を始めるということで、その報告と霊的な示唆(しさ)を得ようと考えたからであった。

2016年9月8日木曜日

追憶 1459

わたしの頭の中には一つの青写真があった。
それは、Nと離れることによって生じた初めの変化であった。
それは、将来、わたしが喫茶店を経営し、そこで珈琲(コーヒー)を入れながら人の相談を聞いているというものである。
そのビジョンは、わたしの構想ではなかった。
ただの妄想である。
遠い未来の可能性の一つに過ぎなかったのかも知れない。
わたしが見た(想像した)のか、見せられたのかは分からなかった。
しかしながら、それがわたしの一つの可能性であることには違いないであろう。
わたしは可能性を探していた。
現状が褒められた訳ではないが、それでも新しいことを始めなければ心が停滞する気がした。
わたしは、新しい刺激によってNが去ることによって生じた心の穴を埋めようとしたのであろう。
そして、見返してやろうとする気持ちが後押しをしていたように思う。


2016年9月7日水曜日

追憶 1458

しかしながら、今回取り除かれた歪んだ感情は、全体の一部である。
もしくは、一段階であったように思える。
なぜなら、次に沸き起こった感情とは、”Nを見返してやろう”という意欲だったからである。
感情の形は変わったものの、Nに対する感情が消えた訳ではなかった。
しかしながら、ネガティブな意味で見返してやろうなどとは考えていない。
より成長し、立派な男になった姿を見せたいと考えていたのである。
わたしの中での立派な男とは、より良い仕事をし、可能性を途絶えさせない男のことであった。
わたしはより良い仕事をし、可能性に向き合い続ける生き方をしようと心掛けた。
そのためには、今やっていることをより良いものにしなければならない。
思考や生活を精錬(せいれん)し、仕事を研磨(けんま)しなければならなかった。
わたしは自分のやるべきことに対して、出来る限りの力で向き合った。
Nに使っていた時間や労力が無くなった分、それを惜しみ無く注ぎ込んだ。
気が付けば、わたしは仕事漬けの毎日を送っていた。

2016年9月6日火曜日

追憶 1457

生きるということは、恥ずかしいことなのではないかと思う。
自らの恥とは、自らの弱さと汚れに起源するからである。
わたしはいつも恥ずかしい生き方をしているように思える。
わたしはいつも自分の至らなさを見せ付けられ、その度に苦しんだ。
しかしながら、恥を得なければ成長することがないことも理解することができる。
そのため、恥を得ることは良いことだと思うが、その度に受けるショックは毎回のように苦しみとなるのであった。
今回も自らの恥に教訓を得させてもらえた。
この苦しみを以て、感情の問題も終わりである。
わたしはNに対する歪んだ感情が、吐瀉物(としゃぶつ)のように吐き出され、気分が晴れるのを認識した。

2016年9月5日月曜日

追憶 1456

わたしは自分のすべきことを知っている。
しかしながら、それは簡単なことではなかった。
自分自身の弱さと肉体が、それを許してくれなかったからだ。
わたしは、Nのことが心や頭に過(よぎ)る度に、弱さと肉体を説得し続けた。

何ヶ月か経って、わたしはNと会う機会があった。
思い返すと、これが一つの試験であったように思える。
わたしのNに対する感情を試したのだろう。
そこでわたしは見事に”赤点”を取り、落第したのであった。
わたしにとって、それは大きな失敗であった。
思い出したくも無い程に恥ずかしく、情けない。
しかしながら、その失敗によってわたしの感情に変化が起きた。
それは、Nに対する執着なのか依存心なのか分からないが、それが剥(は)がれ落ちたのである。
わたしはいつも、失敗することによって成長しているように思える。
振り返ると、わたしは常に失敗し続けて来た。
失敗によっていたたまれない気持ちに追い込まれた時に初めて、心の底からの反省をすることができるようである。

2016年9月4日日曜日

追憶 1455


「分かった」

しばらくの沈黙の後、Nは言葉を投げた。
それは、穏やかな水面に投げられた石のようであり、小さな波紋を作った。
その波紋がやがて大きなうねりとなって襲うことを、今のわたしは知らないでいた。
その後の会話は覚えていないが、陳腐(ちんぷ)な別れの挨拶であったように思える。
六年近い付き合いの呆気ない幕切れに、わたしは泣きながら笑っていた。

それから、わたしはNに対する思いに苦しんだ。
これは、初恋以降いつの間にかに忘れていた苦しみである。
Nの投げた石の波紋が、何度も何度もわたしを襲う。
耐え切れなくなり、何度かNに連絡したが、Nの冷たい態度にわたしは自分自身を情けなく思い、そして蔑(さげす)んだ。

2016年9月3日土曜日

追憶 1454

自分自身の弱さと肉体に対する感情は、やがて怒りへと変わっていった。
子どものわがままに業を煮やした母親のような心境であったと思う。
わたしは弱さと肉体に対して”もう良いだろ”と心を荒げた。
すると、弱さと肉体は大人しくなり、小さくなった。
そこでわたしは、Nに別れを告げた。
Nは急な展開に驚いていたようで、別れ話をしているのではないと主張した。
しかしながら、わたしはNを手放さなければならない。
それ以外に道は無いのである。
Nの話を遮(さえぎ)って、わたしは再び別れを告げた。
わたしはNの気の強さを知っている。
わたしの提案が承諾(しょうだく)されることも知っている。
これで良いのだ。
嫌だけれど、これで良いのである。

2016年9月2日金曜日

追憶 1453

次の日、わたしたちは再び電話で話をした。
わたしの弱さと肉体は最後まで抵抗を続け、わたしは強い葛藤(かっとう)と闘わなければならなかった。
わたしはNを手放さなければならない。
それがNにとっての最善であろうが、弱さと肉体が簡単には許さなかった。
わたしは冷静であり、自分自身を客観視もしていた。
冷静というよりは、冷めていたのかもしれない。
それは、自分自身の中の弱さと肉体のくだらなさにである。
本当?のわたしは、弱さと肉体のパフォーマンスに呆れていた。
涙さえ流す始末である。
別に格好付けて自分を正当化しているのではない。
もしも、格好付けているのであれば、こんなことは書く必要がないからである。
わたしは自分自身に冷めていた。
しかしながら、わたしは自分自身の弱さと肉体を説得しなければならなかった。
弱さと肉体は、わたしの側面である。
それを否定し、争うのであれば、次に同じ問題を引き起こすことは明らかであったからだ。
そのため、弱さと肉体を説得するのに、わたしは多くの時間と労力を必要としたのである。

2016年9月1日木曜日

追憶 1452

自分のこと(精神的な安堵)、肉体のことだけを考えるのであれば、Nの提案に甘んじることで自分を慰めることができるだろう。
しかしながら、わたしが考えなければならないのは自分や肉体のことではないのである。
重要視しなければならないのはNのことであると、わたしは信じていた。
受話器の向こうからNの声がぼんやりと聞こえている。
内容は確か、距離を置くことはわたしを傷付けるためではないという思いやりであったように思える。
わたしはNと共に生きていたいと思ったが、それは許されないと強く感じた。
わたしはNと交際関係を解消し、会わないようにしなければならない。
それが、わたし達にとっての最善の道なのだと直感していた。
しかしながら、簡単に決断することが出来なかった。
それは、今までの思い出が、わたしの弱さや肉体と共謀(きょうぼう)するからである。
わたしはNに時間を求めて、通話を終えた。