このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2014年10月31日金曜日

追憶 783

光の中には見知った姿があった。
それは、あの赤ん坊である。
赤ん坊が光と共に天から来て、A子の肩に触れた。
そして、そのまま首に抱きつく形となった。
赤ん坊はとても満たされた表情をしている。
その光景を見て、わたしは嬉しくなった。
その時、思いがけずA子が口を開く。
それは、赤ん坊との出会いと別れを肯定(こうてい)する言葉であった。
それを聞いて、わたしの喜びは更に大きなものとなったが、赤ん坊も同じ気持ちであっただろう。

2014年10月30日木曜日

追憶 782

わたしの仕事は、ある意味霊と人とを繋ぐ架け橋のようなものであるのかも知れない。
霊と人が正しく学ぶための役割を担っているように思える。
人生における正しいさとは成長することであり、成長するためには喜びや感謝、思いやりや協力などの建設的な感情に至ることが重要である。
わたしの仕事の目的は、霊と人が様々な出来事を建設的な感情によって処理することへの手伝いであるのではないだろうか?

A子に対して必要なことを話し終えた。
A子は泣いていたが、自らの体験を受け入れることができたようである。
その時、天から光が降るのが見えた。
それは優しい光であり、安心を感じるものであった。

2014年10月29日水曜日

追憶 781

A子のところに宿った赤ん坊がこの世に生を受けることはなかったが、この赤ん坊は明らかにA子の子どもである。
この赤ん坊も自らの死(肉体の死)を以てA子に苦しみを与え、そこから大切なことを学ばせる必要があったのだ。
しかしながら、A子は流産という出来事の中から、自責の念という苦しみに焦点を当ててしまった。
そのために、正しく理解することができなかったのである。
わたしたちは子どもが与えてくれる苦しみに対して真っ向から向き合う勇気を持たなければならない。
そうでなければ、誰も幸せにはなれないのである。
赤ん坊はずっとA子に対してメッセージを送り続けていた。
しかし、A子はそれに気が付いてもいなかったであろうし、それを受け入れもしなかった。
そのために、今回わたしを使って様々な現象を体験させたのである。

2014年10月28日火曜日

追憶 780

A子は涙ながらに流産があったことを語ってくれたが、その時点では受け入れることができてはいなかったのである。
大抵の学びは苦しみを連れて来る。
人は苦しまなければ学ぶことができないのかも知れない。
それほど、無知であったり、自我が強いのであろう。
状況を受け入れ、学びによって成長することができれば、苦しみはなくなるのではないだろうか?
人は成長するほどに、苦しいと思うことが減っていくのである。
母は強しと言うが、それは、良い意味で子どもに迷惑をかけられ、苦しめられるおかげで肝が据わり、成長することができるために得ることのできる状態であると言えるのではないだろうか?
母が強いのは、子どもが運ぶ苦しみのおかげなのである。

2014年10月27日月曜日

追憶 779

最愛の人の死という苦しみを認めることができなかったのだ。
受け入れることがなければ、それについての情報を得ることはできない。
自発的に知ろうともしないものを知ることなどできないのである。
A子が受け入れなかったので、その学びは心の中に停滞することになった。
循環しない水が「腐る」のと同じように、停滞する学びは破滅的な状態を得るのである。
赤ん坊はA子のことを恨(うら)んでなどいなかった。
赤ん坊の怒りの感情の原因は、寂しさからくるものであったからだ。
A子が受け入れていたなら、赤ん坊はすぐさま天に帰っていたに違いないが、A子が学びを得る必要があったがために停滞していたのである。


      

2014年10月26日日曜日

追憶 778

人の死というものは悲しいものである。
最愛の人との別離は、誰にとっても辛いことであろう。
しかし、それは無駄なものではないし、無意味にあるのでもない。
そのことを理解した上で状況を眺めるなら、結論は違うものになるのである。
「神」は死をも使って、わたしたちを育んでいるのだ。
だから、わたしたちは最愛の人の死に会ったとしても、それを悲観し、くよくよとしている訳にはいかないのである。
すべては成長のためにあり、すべては幸福のためにある。
このことを忘れてしまえば、最愛の人の死を無駄なものにしてしまうだろう。
赤ん坊が苦しんでいたのは、A子がそれを受け入れることができなかったからであると推測することができる。

2014年10月25日土曜日

追憶 777

霊や神々と交流していると、死という概念さえ怖くは無いということに気が付く。
そして、それが意味を持ち、大切なものであるということも悟るのである。
霊や神々と交流する以前のわたしであれば、死は怖いものだと思っていたし、不運や不幸というものが存在していると思っていた。
しかし、歳を重ね、経験が増す程にその考えが浅はかなものであったことに気が付くのである。
極端な話をすれば、人を殺すことも、人に殺されることも選択肢としては有り得るのである。
しかし、わたしは人を殺したいとは思わない。
誤解して欲しくはない。
殺されることがあるなら、それはそれで仕方のないことだと受け入れるだろう。
この世界において実現可能なことは、そのすべてが「神」によって与えられた選択肢であり、可能性なのである。

2014年10月24日金曜日

追憶 776

それは、所謂(いわゆる)成長である。
しかし、多くの人はこのことに気が付かない。
すべてが意味のある大切な学びであるという考えにまで至らないのが現状である。
そのために、苦しみを否定しているのだ。
苦しみを否定しているが故に苦しんでいるのである。
今日の日本に生きている人の多くは、ある種の平和の中に生きている。
不幸だとか、苦しいなどと主張しているが、今の時代や生活や悩みが、如何に恵まれているのかを知らないでいる。
簡単に言えば、取るに足らない詰まらないことに苦悩しているのだ。
わたしは霊や神々の存在を知った。
そこから、真理という「神」が創り出したこの世界のルール、そして、人生が何のためにあるのか?また、自分自身は何であるのか?ということを理解しようと努めている。
以前のわたしがそうであったように、多くの人が大したこととして恐れていることは、今のわたしには恐れるべきものではないことを理解しつつある。


2014年10月23日木曜日

追憶 775

わたしはA子に対して、多くの必要な言葉を伝えた。
その中には、赤ん坊を流産した理由というものがあった。
流産は成るべくして成った。
それは計画されたものだったのである。
A子は実子を失う必要があったし、赤ん坊は孤独の中で苦しむ必要があったのだ。
それは、A子と赤ん坊、それにB男を始めとする関係者に対する学びである。
その計画は真理と守護者たちによって進められた。
人は大切なものを失うと、それに対する気持ちが強化される。
失う苦しみを理解する人でなければ、本物の大切にする気持ちを得ることはないのである。
人は苦しんで初めて、それが如何に大切なものであったのかを知るのである。

2014年10月22日水曜日

追憶 774

わたしが会った赤ん坊は、やはりA子の実子(じっし)であったのかも知れない。
A子は傷口から膿を取り出すように、心の中から辛い経験を絞り出した。
A子は過去に流産の経験があったのだ。
早期流産であったために、赤ん坊の姿までは無かったであろう。
今のところ、肉体に魂が宿るタイミングがどこにあるのかは分からないが、A子が流産した時点において、赤ん坊の魂はやがて肉体となるものに宿っていたに違いない。
しかし、何らかの理由によって、肉体が滅びなければならない状況になったのである。
その結果、赤ん坊の魂だけがA子の中にとどまるという状況が生じたのである。

2014年10月21日火曜日

追憶 773

わたしは、見たまま、感じたままをA子に告げた。
しかしながら、その言葉には自我は含まれていない。
わたしの言葉には、大天使ミカエルを始めとする神々の意思が宿っているのである。
言葉を選んだつもりではあるが、A子にとっては辛いことを言ったかも知れない。
わたしはA子にとっては辛いことも伝えなければならないのだ。
人は辛い現実と向き合い、それを受け入れて乗り越えなければならないのである。
わたしの言葉を聞いて、A子は泣き始めた。
背中越しなので確証は無いが、話し始める前から泣いていたようにも思える。
むせび泣くA子を思いやりつつ、わたしは話を続けた。

2014年10月20日月曜日

追憶 772


「思い煩う必要はありません。心に従いなさい」

天から降ってきた光は、大天使ミカエルの言葉である。
わたしは自分独りでこの仕事をしているのではないことを思い出した。
未熟なわたしが仕事をこなしているのは、わたしを導いてくれる神々の存在があるからである。
大天使ミカエルを始め、狐であるハクとコン、北灘湾の神様である白龍神など、わたしは多くの守護者と共に仕事をしているのである。
わたしに足りないものは、わたしの守護者が補う。
守護者との協力によって、わたしは仕事をしている。
わたしが思い煩うことは、仲間を信用していないということになるだろう。
わたしの守護者が力不足だと言っているようなものである。
大天使ミカエルの言う通りである。
わたしは守護者たちを信頼し、心のままに伝えれば良いのだ。
どのような結果に繋がるのかは分からないけれども、それで良いのである。

2014年10月19日日曜日

追憶 771

わたしは悩んでいた。
A子にどのように伝えるべきか?
赤ん坊のこと聞いても良いだろうか?
傷付きはしないだろうか?
一瞬の間に、様々な思考が巡った。
わたしは迷っていた。
どうすることが正解なのか判断が難しいのである。
わたしは気が付いてはいないが、自我によってどうにかしようとしているのである。
しかしながら、自我によってどうにかしようと考えるのは間違いである。
なぜなら、わたしは未熟であるからだ。
未熟であるわたしが判断したところで、良い結果を導き出すことなどできるはすがないのである。
その時、天から光が降った。


2014年10月18日土曜日

追憶 770

「ありがとう」

小さな声は力強く心に届いた。
わたしは心の中で、しっかりとその思いを受け止めた。
天が閉ざされて光が去ると、わたしは視界を失った。
目の前には薄暗がりがあったが、これは瞼(まぶた)の裏であり、部屋の明かりが透けているのだと理解することができた。
わたしはゆっくりと瞼を開き、一つ深く息をした。

B男が心配そうな表情でわたしを覗き込んでいる。
それを悟り、心配の必要がないことを伝えた。
体力と精神力を消耗していたが、それは問題にはならないだろう。
わたしは少しずつ強くなっているようである。

2014年10月17日金曜日

追憶 769

わたしは幸せだった。
赤ん坊も幸せなのではないかと思える。
それは、赤ん坊の表情が穏やかであったからだ。
愛に包まれて安らかに眠っている。
わたしにはそう見えた。

天から光が降りてきて、赤ん坊を包み込む。
その光は赤ん坊を受け取りに来たのだと理解して力を緩めた。
すると、赤ん坊はわたしの腕を離れて宙に浮かんだ。
その時にわたしは、赤ん坊の頬を伝う涙を見た。
その涙によって、この苦しみが終わりであることを理解するのであった。
小さくなっていく姿を見送りながら、わたしは自分自身が泣いているのに気が付いた。
これは喜びの涙であることをわたしは知っている。

2014年10月16日木曜日

追憶 768

光の杭は迷いなく飛び、黒い煙に到達すると同時にその輝きを伝えた。
光の杭によって、黒い煙は光の粒になり、水蒸気のように揺らぎながら天に登っていった。
黒い煙が天に帰ると、わたしの気分の悪さは微塵も無くなっていることに気が付いた。
わたしは気分の良さに感謝した。
気分が良いことは幸せである。
赤ん坊に視線を落とすと、嵐の過ぎ去った夜のように沈黙していた。
目を閉じたままで身動き一つしないのである。
赤ん坊は霊であるためおかしな表現ではあるが、死んだのではないかと思うのであった。
赤ん坊の顔には安らぎが浮かんでいるように見える。
これを見てわたしは安心した。
そして、穏やかな気持ちが肩を抱くのを感じるのであった。




2014年10月15日水曜日

追憶 767

苦しみの中には希望が芽生えるものである。
わたしが赤ん坊を抱き締めた時に、その小さな胸の奥の暗闇の中に、小さな光が生じた。
それは、愛と呼ぶべき希望の光だったのである。
わたしはその小さな光が消えないように、またそれを育むようにしっかりと赤ん坊を抱き締めた。
すると、赤ん坊は真っ黒な目と口を目一杯に開くと天を仰いだ。
耳を劈(つんざ)くような悲鳴は、赤ん坊のものである。
その時に目と口からは大量の黒い煙のようなものが吐き出された。
それが空中で一つに交わる。
吐き気を覚えたわたしは、光の杭を握り締めていた。
そして、これを黒い煙に向けて放った。

2014年10月14日火曜日

追憶 766

赤ん坊が霊となり、孤独にいるということは、先程の推測通り堕胎か死産のどちらかであろう。
何かしらの事情によって、赤ん坊にとっては想定外の出来事が起きたに違いない。
その状況を受け入れることができないが為に苦しんでいるのではないだろうか?
黒い煙のようなものを吐き続けていると、赤ん坊の表情が悲しみに塗り替えられているのに気が付いた。
それと同時にわたしの中には、慈悲が芽生えていた。
小さな瞳から次々に溢れては落ちる涙に引き寄せられ、わたしは赤ん坊に手を伸ばした。
小さな肩に手を掛け、引き寄せて抱き締めた。
もう、わたしのことを拒絶してはいない。

2014年10月13日月曜日

追憶 765

黒い煙のようなものを吐き続けていると、赤ん坊の表情が一瞬だけ泣いているように見えた。
これは、赤ん坊の本意ではないだろうか?
赤ん坊は悲しんでいるのである。
悲しい気持ちが積み重なり歪むことによって、怒りの感情が生じたのだろう。
悲しみによって、人は怒りを覚えるものである。
この空間には、赤ん坊以外には誰もいない。
赤ん坊以外には何も無い。
ここには、赤ん坊だけが存在しているのである。
赤ん坊は孤独の中にいる。
この孤独の中から助けを求めているのであろう。
わたしにはそうとしか考えられないのである。

2014年10月12日日曜日

追憶 764

気分の悪さが込み上げてきて、わたしは黒い煙のようなものを吐く。
わたしから吐き出された黒い煙は、空中を漂う間に光に変わった。
それは、天に登り消えていく。
そのプロセスは苦しいものであったが、結果からは大きな喜びを得ることができた。
黒い煙が光へと変わることが、わたしには嬉しかったのである。
繰り返していると、赤ん坊の表情に微妙な変化を見た気がした。
怒りの感情の中に、何か別の感情が現れたように思えるのである。
それは、どこか物悲しいものであった。
秋が別れを告げる頃に、葉が燃えて散っていくような切なさをそこに覚えるのである。
これは、寂しさである。

2014年10月11日土曜日

追憶 763

決め付けは危険である。
何事にあっても、裏付けを取ることをしなければ、それはいつまでも神秘的であったり、疑いを離れることはなく、懐疑心がいつまでも付きまとってしまう。
物事を有耶無耶(うやむや)に処理するのは、医者が患者に対して適当な病名を告げることと同じである。
正しい病名を知らなければ、病気の治療はできない。
病気を治すためには、病気の本質を理解しなければならないのと同じに、問題を解決するためには、その問題の本質を理解しなければならないのである。
今回の問題の本質とは、赤ん坊が抱えている怒りはどこから来たのか?ということである。
物事を論理的に考え、理論付て裏を取り、赤ん坊の怒りを解くことが求められているのである。

2014年10月10日金曜日

追憶 762

赤ん坊の怒りは、わたしにとっては不快なものである。
これは赤ん坊にも言えることであるし、もしかすると母親であるかも知れないA子にも不快感として様々な影響がおよんでいるのかも知れない。
ここでいう影響とは、赤ん坊の破滅的な意識である怒りの感情によって、A子の心が乱され、破滅的な状態を得るということである。
そして、わたしがA子が母親であるかも知れないと述べたのは、A子に妊娠の事実を確認した訳ではないからである。
A子のところに赤ん坊の霊がいるからといって、それがA子の子であるとは限らないというのである。
この赤ん坊には違う母があり、後にA子のところに来た可能性もあるからだ。
このように、分からないことが多くあり、様々な可能性を検証しなければならないのである。

2014年10月9日木曜日

追憶 761

赤ん坊は心に深い傷を負っているに違いない。
霊ではあるが、赤ん坊が恨みを抱くにはそれなりの理由があるだろう。
赤ん坊が恨みを抱くということは、生まれて間も無く殺されたか、堕胎(だたい)されたか、このどちらかの可能性が高いのではないだろうか?
A子が生まれて間も無い我が子を殺すだろうか?
常識的に考えるとその可能性は低いと言えるだろう。
堕胎であるなら、状況によっては可能性として有り得る。
様々な理由によって、仕方なく堕胎する人は多くいるだろう。
A子とB男、もしくはA子の過去にそのような事実があるかも知れない。
わたしは赤ん坊の苦しみの原因が後者であることを信じ、それを仮定して赤ん坊と向き合うことを決めた。
しかしながら、現状において真実は分からないために、これはあくまでも仮説であることを忘れてはならない。

2014年10月8日水曜日

追憶 760

わたしの中には哀(あわ)れみが溢れていた。
悲しい気持ちになり、可哀相なのである。
吐き気を堪えながら、わたしは泣き喚く赤ん坊に近付いた。
抱き抱えようと思いしゃがみ込む。
その時、強烈な吐き気と共に今度は赤黒いものを吐瀉した。
それは地に満ちて、赤い絨毯(じゅうたん)の様になった。
すると、赤ん坊が泣き止み、そのままぎこちなく立ち上がった。
瞼(まぶた)を開いて見せた赤ん坊の眼球のあるべきところには、黒い何かが収まっていた。

「お前のせいだ…お前が悪いんだ…」

赤ん坊は確かにそう言った。
わたしは心に鋭い痛みを覚えた。

2014年10月7日火曜日

追憶 759

赤ん坊が泣き喚(わめ)く光景を前に、わたしは茫然自失(ぼうぜんじしつ)としていた。
何も無い空間に赤ん坊の泣き声はこだまする。
その声がわたしに入り、遠くなる。
悲しい感情が溢れてくるのは気のせいでは無い。
わたしは頬を伝う涙を認識した。
赤ん坊が泣き喚くのは、悲しいからなのである。
小さな胸に抱える悲しみを、わたしが理解することを願っているのである。
赤ん坊の泣き声は言葉ではないが、そこに意思が込められているのを理解することができる。
赤ん坊は必死に訴えているのであろう。
自分にできることで精一杯に努めているのである。

2014年10月6日月曜日

追憶 758

その時に強烈な吐き気に襲われて、わたしは何かを吐瀉(としゃ)した。
目の前に吐き出されたものは、血に浮かぶ人の内蔵の様に見えた。
それを吐き出すことによって多少の不快感が消えたが、それでも吐き気が消えることはなかった。
わたしが吐き出すものを見て、黒い何かが這(は)う様にして近付いてきた。
そして、吐瀉物にその身を踊らせた。
それを見て、わたしの不快感は一層強くなるのであった。
しかしながら、この光景から目を逸らすことはできなかった。
わたしはこれを見なければならないのである。
これを見ることによって、何かを理解しなければならないのだろう。
何時ものことであるが故に、わたしは今更驚きはしない。
黒い何かは人の内蔵の様なものを身に纏(まと)おうとしているようであった。
しばらくして、それは人間の赤ん坊の姿となった。

2014年10月5日日曜日

追憶 757

知らない場所は心細さを覚えさせる。
わたしは暗く狭い空間にいた。
ここは寂しい場所である。
わたしはいたたまれない気持ちになって辺りを見渡した。
何か分からないものが落ちている。
それは空間の暗がりの中にあって、それよりも黒いものであった。
この空間で認識することができるものはそれだけである。
黒い何かは、人の赤ん坊ほどの大きさである。
わたしはそれを赤ん坊だと思ったが、ここからでは姿を確認することはできなかった。
導かれるように歩を進める。
それが目の前にあっても、わたしにはその黒いものが何であるのかを理解することはできなかった。

2014年10月4日土曜日

追憶 756

光の塊が背中に溶けると、光のトンネルのような道が開かれた。
わたしはそこに吸い込まれるようにしてA子の意識の中に入ったのである。
そこは、始め暗かったが、慣れてくると目の前に白い何かがぼんやりと浮かんでいることに気が付く。
わたしは何と無く手を伸ばし、それに触れようとした。
すると、嫌な予感がするのと同時に無意識的に動きが止まった。
しかし、それを振りほどき、わたしは一瞬の後に再び手を伸ばして触れた。
白い何かに触れた瞬間に嫌な気分に支配された。
指先から黒い何かが流れ込んでくるのが分かったが、それを食い止めることはできなかった。
黒いものが入ると、わたしは視界を失った。


2014年10月3日金曜日

追憶 755

A子は自分が何故涙を流しているのか分からないと言った。
わたしにもそれが分からないから、これからその理由を探すのだと告げた。
A子は深く頷(うなず)いて見せ、背中を向けて座した。
わたしはA子とB男に対して何の心配もないことを告げ、何が起ころうとも静かに座っているように頼んだ。
大きく息を吸い、静かに吐く。
少しずつ意識が整うような感覚に導かれるようにして、わたしはゆっくりと瞼を閉じた。

A子の背中に右の指先が触れる。
わたしはA子の背中に触れているが、その意識に触れているのである。
人差し指と中指が背中を走ると、そこには黄金色に輝く天使文字が現れた。
三列の天使文字を直線で囲う。
すると、それは強く輝き始め、光の塊となった。
わたしの両の掌(てのひら)がそれをA子の背中から意識へと押し込むのを見た。

2014年10月2日木曜日

追憶 754

わたしは胸の鼓動の高鳴りを感じていた。
それは、嬉しい感情から導き出されるものではなく、緊張感や危機感に似ていると思えた。
嫌な気分なのである。
わたしはA子の顔を見た。
すると、A子の大きな瞳からは涙がこぼれていた。
何かしらの感情があって、それを抑えることができなかったのであろう。
わたしにはそれがどのような感情からくるものか分からなかったが、あの赤ん坊の泣き声に関係しているのではないかと思えてならなかった。

「呼びなさい」

大天使ミカエルの声が天から降る雷の様に響く。
わたしはその声に従って、A子を目の前の座布団へと誘導した。

2014年10月1日水曜日

追憶 753

二人を部屋に招き、わたしは中央に置いてある座布団の前に、二人は入り口付近に座ってもらった。
二人には楽にしてもらうように告げて、わたしは意識を整えるために瞼(まぶた)を閉じた。
瞼を閉じると、気分の悪さが強調される。
その時、どこからとも無く赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
それは遠くに聞こえたが、わたしに向けて発せられているような気がした。
その声は、助けを求めているように思えてならなかった。
その声を辿ると、どうやらA子の元から聞こえてくるようである。
そこまで認識した時に、わたしはその場から弾かれて部屋の景色を眺めていることに気が付いた。