このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2013年11月30日土曜日

追憶 448

わたしが向き合わなければならないものは客人である三人の心ではあるが、このような状況で自分自身の心と向き合わなければならなくなるとは思いもよらなかった。
人生には常に、自分自身への学びが存在しているのであろう。
何をするにも自分自身と向き合うことになるのだと、わたしはこの時に悟った。
しかしながら、わたしにはこの場で自分自身のトラウマを解決する術はない。
しかしながら、自分自身の中にそのようなトラウマが存在しているということを理解することはできた。
今のわたしにはそれが精一杯である。
わたしには右を向きながら左を見るという芸当はできなかった。

2013年11月29日金曜日

追憶 447

人は過去に形成された心の状態に従う生き物である。
人は自らの心によって次の選択をするのだ。
心の中に喜びがあれば、喜びを生み出すための選択をする。
心の中に苦しみがあれば、苦しみを生み出すための選択をするのである。
心の中に存在するものは、周囲の人間からの教育によって決められる。
成人した人間は自分自身に対して教育を施しているため自己責任である。
成人した人間が周囲の人間のせいにするのは間違っているが、幼い子どもにはどうすることもできないのである。
成人した人間は、幼い子どもに対しての教育的な責任があるのだ。
わたしが恐れているのは、自分自身に対する教育が不足しているのが最たる原因ではあるが、周囲の成人した人間からの教育的なトラウマというものが影響しているという状況もあるのである。

2013年11月28日木曜日

追憶 446

周囲の大人(教師)がわたしを叱るのは仕方のないことであろう。
(両親は放任的、または、教育的な人物ではなかった)
それが常識であるのならばそうしなければならない。
それに、わたしに対して(深い意味での教育的な観点は持たないにしても)連帯行動の意味を教えていたのだろう。
それは、人が互いに協力して生きる為の知恵である。
しかしながら、幼い頃のわたしにはそれを理解することができなかった。(それは、二十歳を超える頃まで続く)
深い意味を理解することのできないわたしは、ただ叱られることだけをピックアップして理解した。
そのため、何のために叱られているのか理解することができずに、叱られているという恐怖が幼い心の中に根を下ろしてしまったのである。



2013年11月27日水曜日

追憶 445

わたしは目の前の見えない壁に恐れを抱き、それと向き合おうという気持ちを持ちながらも背を向けていた。
自分自身で求めていたにもかかわらず、いつの間にかに消極的な気持ちが芽生え、自分自身に自信が持てなくなっていたのである。
これは、物心ついた頃からの習慣である。

わたしは幼い頃から人とは違う性質を持っていた。
わたしは皆と同じようにすることができなかった。
大人の言い付けを聞いたり、それを守ることもできなかった。
それに、皆のように「いい子」でいることもできなかった。
他人の気持ちを理解することもできなかったし、大人の言う良いことと悪いことも理解することができなかった。
注意が散漫で、状況に関係なく思い付いたことを思い付いた通りに実行していた。
そのため、わたしは同じ子どもや周囲の大人から反感を買っていたことだろう。
わたしはいつも大人(教師)に叱られていたのである。


2013年11月26日火曜日

追憶 444

どのような天分に恵まれていたとしても、人は努力重ねて失敗し、更なる努力と工夫を積み重ねることによって更に失敗していくものであるだろう。
わたしが難しい状況に対して恐怖を感じているのは、失敗することを恐れているからであろう。
失敗することによって、悪い状況が手に入ると信じているからこそ、恐れているのである。
わたしにはこの世界のルールがどのようなものであるのか分からないが、失敗を積み重ねることによってのみ、それを理解していくことができるのであろう。
人が失敗するのは、当たり前のことなのである。
考えてみると、わたしは言葉を話すことも歩くこともできなかったのである。
幾度となく失敗を積み重ね、ようやく少しだけできるようになったのだ。
わたしがしなければならないことは、失敗を恐れずに突き進むことである。
人は完璧ではない。
人は万能ではないのだ。
どのような人も失敗しているのである。
しかもわたしはまだ、この状況に対して失敗すらしていない。
わたしはこれより先に失敗するのである。
まだ実現していないことを恐れているのは愚の骨頂であるだろう。

2013年11月25日月曜日

追憶 443

わたしは今の自分自身にできることを精一杯にやろうと心を定めた。
これはいつも思うことである。
困った時には、現状において自分自身にできることを探し、それを一つ一つ積み重ねていくことしかできないのである。
わたしにはいきなり大きなことはできない。
わたしには小さなことを地道に積み重ねていく以外に方法は無いのである。
天分に恵まれた人を羨ましく思う。
より大きく物事を考え、動かす人が輝いて見える。
どのような天分に恵まれた人であっても、成果を上げている人たちであっても、必死に努力を重ねてそのような立場を手に入れたに違いない。
誰もが失敗し、苦悩したのだろう。
わたしが抱えている問題も質は違うが、誰もが向き合わなければならないものなのだと理解することができる。




2013年11月24日日曜日

追憶 442

もちろん、覚悟が定まっているだけで抱えている問題が解決するということはないが、覚悟が定まっていない者には問題の解決に繋がる糸口さえも見付からないであろう。
覚悟が定まっていない者は、何をやっても中途半端で駄目である。
結果を残す者はいつも、覚悟を以って事に当たるものであろう。
わたしは絶対に結果を残すという強い意思によって自分自身に発破をかけた。
わたしはこの道を進みたいのである。
わたしにはこれ以外に進みたいと強く願う道は無いのである。
これは、20年間という命の道において、自分自身が初めて切望することのできた道なのである。

2013年11月23日土曜日

追憶 441

人は苦しいことに立ち向かわなければならないだろう。
わたしはいつもそう思う。
そう思いながらも、逃げ出していることの方が多いのは、わたしが軟弱であるからであろう。
わたしには覚悟が定まっていないのである。
二十歳を過ぎているというのに、わたしは甘えた餓鬼である。
年齢は関係ないかもしれないが、同じ年齢の人であっても責任感を以って自らの仕事に対して真剣に向き合っている人はごまんといるのである。
それよりも幼い年頃でありながら、必死に生きている人たちもたくさんいるのだ。
死活問題を抱えながら生きている子どもたちもたくさんいる。
わたしの抱えている問題はなんと平和であり、なんと小さなものなのであろうか。
わたしは自らの状況に対して、少しでも弱音を吐いたことを恥じ入った。

2013年11月22日金曜日

追憶 440

人数が増えることによって、意識を集中させ、それを安定させることがこれ程難しいことであろうとは予想していなかった。
考えてみれば、一人の人間の心を見るのにも必死であり、それを満足にこなすことができない状態であるのだから、この状況が難しいということは当たり前なのである。
わたしは自分自身がやりたいこと、やらなければならないと自発的に感じることに対しては責任を強く感じる傾向にある。
わたしは苦しいことは嫌いである。
問題や壁からは逃れたいと思うのだ。
しかしながら、わたしが向き合っているこの状況というものは、わたしが自ら求めている理想なのである。
この状況がどのように難しいものであろうとも、わたしには逃げることができないのである。
ここで逃げるのならば、わたしはまたうだつの上がらない人生を歩まなければならないからである。

2013年11月21日木曜日

追憶 439

これまでは、自分自身の中に静寂を探していた。
そして、その次は母親やMさんといった特定の他人の中にそれを探した。
自分自身の中に静寂を探すのは大変なことであったが、特定の他人の中に静寂を探すことに比べるなら大したことではない。
そして、わたしは多数の他人の中に静寂を探すことに比べるなら、特定の他人の中に静寂を探すことは大したことではないと実感するのであった。
人間が増えれば、その人数に比例して作業は複雑化する。
それは、どのようなことであっても同じであろう。
一つの受信機によって三つの電波を受信しなければならない。
しかも、その中から一つの電波に限定する必要がある。
一つの電波に限定することができても、他の二つの電波を打ち消すことなどできないであろう。
わたしはまるで意識の乱気流の中にいるような気分であった。

2013年11月20日水曜日

追憶 438

わたしには集中力が必要であった。
わたしが意識的な世界を捉えるのには、洗練された集中力が必要だったのである。
視覚で捉えることができないものを捉えることは、とても難しいことである。
見えないものを見るのだ。
決して簡単なことではない。
それも、自らが想像するのではなく、そこにあるものを捉える必要があるだ。
それは、空中を飛び交う電波を見るようなものなのである。
人は想像によって世界を自分自身に都合の良いものに導こうとしてしまう。
それでは、歪んでしまうのだ。
わたしがしたいことは、人を自分に従わせることではない。
目的は寧ろ、独立することであろう。
そのためには、その人にとって必要な学びを導く必要があると思うのである。

わたしは今だに会話を続けている四人に対して集中が必要であることを告げて目を閉じた。
彼女らにも自分なりに集中してもらうことにした。
わたしはいつものように自らの心の中に静寂を探すが、それはとても難しいことであった。

2013年11月19日火曜日

追憶 437

しばらく座っていると、来客を知らせるチャイムが鳴った。
わたしは静寂の中から抜け出して、そろそろと玄関に向かった。
そこには母親と三人の女性がいた。
皆、近所に住んでいる主婦で、わたしもよく知っている人たちである。
彼女らは、楽しそうな笑顔の中にどこか恥ずかしそうな表情を隠していた。
わたしは三人と軽く挨拶を交わして招き入れた。
三人はそれぞれに何かを会話しながらわたしの後に続いた。
それは、これから待っているであろう状況に対する期待と不安を互いに共有し、精神を安定させようとする行動だったのだと思う。
部屋に到着し、わたしは中央に、母親と彼女らは入り口付近に腰を下ろした。

2013年11月18日月曜日

追憶 436

疑問を抱き、それを追求することによってのみ物事は本質へと近付き、何かを付け足すことや間引くことによって向上を実現するのではないだろうか?
それはどのようなことにも言えることであると思える。
ただし、自分自身の見識が未熟であったり、偏っているのであれば向上は実現しないため、注意しなければならないだろう。
わたしは古い習慣や風習を否定しているのではない。
古い習慣や風習は素晴らしい。
続いているのだから、それだけで素晴らしいのである。
古いものをただ否定するだけであるのならば、どこかの国の革命のように、善悪の判断もなく文化を壊してしまうだけである。
大切なのは、その習慣や風習がどのように役に立っているのか?ということであるだろう…
と、いうようなことを考えながら、わたしは部屋で独り静かに座っているのである。


2013年11月17日日曜日

追憶 435

何も考えない純粋で従順な子どもは素敵だと思う。
しかしながら、何も考えない大人は素敵だろうか?
わたしが盆踊りについて考えても、その答えに辿り着くこともないだろうが、自分で何かに疑問を持ち、それを自分で考えることは大切なことであるだろう。
そうでなければ、何のためにそれをしているのか分からないからである。
ただの習慣や風習としてやるのなら、それは飾り付けられただけの内容の無い儀式でしかないであろう。
そこに意味があるのだろうか?というのがわたしの考えである。

2013年11月16日土曜日

追憶 434

それは夏祭りの時期だった。
わたしの住む地域では、毎年地元の住民だけでこじんまりとした盆踊りが催される。
それは出店も出ないような小さな小さなお祭りである。
この時期になると、婦人会の人たちは盆踊りの練習に勤しんでいた。
わたしは消防団に所属していたため、櫓(やぐら)を組み立て、山から切り出してきた竹に短冊や花飾りを飾り付けて準備を整える。
幼い頃のわたしは、毎年訪れる夏祭りに何の考えも持ってはいなかったが、今のわたしは夏祭りの効果について余計なことを考えてしまう。
盆踊りをすると神様は喜ぶのだろうか?
盆踊りの時だけしか自然に感謝しない人間に救いはあるのか?
盆踊りの時であっても自然に対して感謝していない人はたくさんいるだろう…
盆踊りを踊ったくらいで、死者は天国へと向かうのだろうか?
変な疑問が頭をよぎるのである。

2013年11月15日金曜日

追憶 433

ある日、わたしにある依頼が飛び込んできた。
母親が持ち込んだそれは、近所に住む母親の友人を「見る」というものであった。
母親が話したのだと思うが、彼女たちはこういうことに興味があるのだろう。
わたしも人の心や意識というものに対して関心があったし、何かしらの助けになれば良いと思ったので、需要と供給は満たされるのである。
わたしはこの依頼を快く引き受けることにした。
依頼といっても、要はただの実験である。

2013年11月14日木曜日

追憶 432

目の前の問題を解決するためには、それを問題としている原因を突き止めなければならない。
どのような問題にも、それを構成している要素が存在しているはずなのである。
 それを問題として存在させているメカニズムがあるはずなのだ。
それは、人の持つ原因であるかもしれないし、意識的、霊的な外部からの原因であるかもしれないが、そこに問題が存在している以上は、何かの働きがあったに違いないのである。
わたしにはそれを解明することが求められるだろう。
問題に対する理解を深めることによって、わたしはより良い仕事ができるはずなのである。
それから、Mさんと少し話してその日は解散となった。


2013年11月13日水曜日

追憶 431

わたしが破滅的な意識を取り除くことによって、その人が幸福を感じ、それを持続していくのかどうかは分からないが、人が幸福を求める存在であるなら、その目的に至るために思い付く可能性はすべて試してみなければならないと思うのである。
わたしには知らないこと、分からないことが多過ぎる。
20年以上生きてきて、わたしが知り得たものは何も無いに等しかった。
わたしは今更ながら、何も知らないことにショックを受けるのであった。
しかしながら、それと同時にもっと知りたいという願望の芽生えがあったことも事実である。
自分自身が何も知らないという事実を得たことによって、その歪(ひずみ)や不足を補おうとする心の働きが芽生えていた。
これは、人が成長したいという生物の根源的、本能的な欲望による感情であるだろう。

2013年11月12日火曜日

追憶 430

それらを取り除くことによって、人の心は安定する。
わたしの心の中から黒い犬が出た時のように破滅的な意識が取り除かれるなら、人の心は安らぎを得ることができるのである。
不安や不満などが心の中に存在しているとして、どうやって心の安らぎと安定を実現することができるだろう?
残念ながら、人は強くはない。
破滅的な意識を所有していながら幸福に至るのは難しいだろう。
大切なのは、楽しみや喜びなどの建設的な意識を生み出すことと、破滅的な意識を取り除くということだろう。
この二つの方法を用いて、人の心は豊かに存在することができるのである。

2013年11月11日月曜日

追憶 429

遊び半分で意識的な存在と、その問題に向き合うことはできない。
そんなことをすれば、すぐさまこちらの精神が危険にさらされてしまうであろう。
わたしは何をするにしても、そこには確固とした動機(信念)が必要なのではないかと思った。
褒美をもらおうなどという感覚であっては、信念が汚れ、気が緩み、方向性を失って、きっと怪我をしてしまうだろう。
それはどの道でも同じことなのではないだろうか。
何に対しても真剣に取り組むことが大切なのである。

わたしは今回の仕事によって、Mさんの心の中に存在していた破滅的な意識の一部を取り除くことができた。
しかしながら、それは文字通り一部でしかなく、Mさんの心の中にはその他にも様々な破滅的な意識が存在しているだろう。
人の心は広くて深い。
そこにはこれまでの人生で生み出した思考や感情が蓄積している。

2013年11月10日日曜日

追憶 428

人の苦しみを肩代わりし、それを解決する作業というものが仕事であるだろう。
問題を解決することが仕事である。
仕事とは貢献すること、そこに利益や価値を生み出す作業のことである。
苦しみを肩代わりすることもなく、問題を解決することもなければ、それは仕事とは呼べないだろう。
わたしは良い仕事をしたいと考えていた。
仕事とは、必ずしも給金を得て行うことだけではないと思う。
主婦の家事、子どもの勉強、親の子育て・・・
例を上げれば切りがないが、直接的に給金を受け取ることがなくても、人がやっていることはすべてが仕事であると言うことができるであろう。
わたしは意識的な存在と向き合う時に、それを仕事であると考えている。
それは、生半可な気持ちで向き合うことができないからである。
意識的な存在と向き合う時のあの危機感や苦しみを味わえば、誰でも自ずとそのような答えに至るであろう。

2013年11月9日土曜日

追憶 427

感情の共有によって、同じ体験をしたとは言い難い。
それは、所詮他人事であるからである。
しかしながら、それに近い苦しみを体験することによって、そこから導き出される感情を理解することはできるだろう。
他人のことを理解するためには、他人と同じ境遇から導き出される気持ちを所有しなければならない。
そうでなければ、どのような言葉も総じて綺麗事であるだろう。
わたしには自分自身と他人の抱えている意識的な問題を解決したいという願望と目的がある。
他人のそれを解決するためには、疑似体験を通じて、その苦しみを肩代わりする必要があるのだと学んだ。
どのような仕事も、他人の問題や苦しみを肩代わりすることによって成り立っている。


2013年11月8日金曜日

追憶 426

他人の心と向き合うことによって、わたしは他人も自分自身と同じように苦しんでいるのだということを理解したのである。
他人の心の中に入り、それと向き合うことがなければ、わたしは実感としてそれを理解することはなかったであろう。
わたしにとってそれはただの他人事であり、その苦しみにわざわざ触れる必要などないと考えていただろう。
これまでのわたしは実際にそう思っていたし、そうしてきたのである。
実際に体験したことがなければ分からないことはたくさんある。
他人の苦しみを理解するためには、同じ経験をするか、その心の中に入って、苦しみを肩代わりすることであろう。
同じ経験をしたことがない人が何を言おうとも、相手を慰めることはできないのである。
わたしはMさんの心の中に入って、同じ経験をしたのではない。
しかしながら、そこに導かれる感情を共有したのである。

2013年11月7日木曜日

追憶 425

わたしが話し終えると、Mさんは抱えている不安や苦しみについていろいろと聞かせてくれた。
そして、Mさんは疑問に思ったことを質疑し、わたしはそれに出来る範囲で答えた。

幼馴染の母親であり、幼い頃から知っているMさんが苦しみを抱えて生きているということを、わたしは今まで想像したこともなかった。
わたしは子どもだったのだろう。
他人のことも考えられるということが、大人に成るということなのかもしれない。
今までのわたしは自分自身の中には苦しみが存在しているのは当たり前のように理解していたが、自分自身のことで精一杯であり、身近な人も様々な苦しみを抱えながら生きているという考えは浮かんでこなかった。
そして、それをどうにかわたしが解決しようなどという考えには至らなかったのである。

2013年11月6日水曜日

追憶 424

疲労が溜まり、心も肉体も鉛のように重たかった。
心も身体も大いに消耗しているようである。
わたしは体力と精神力の回復のために、少しばかり目を閉じて静寂を探し、その中で心穏やかに過ごした。
体力と精神力が少しだけ回復したのを感じると静寂の中から抜け出し、Mさんの背中に向かってMさんの心の中で見たことや理解したことを話して聞かせた。
わたしには具体的なことは分からなかったが、わたしの経験に対してMさんは静かに頷き続けるのだった。
きっと、何か思い当たる節があって、その理解と反省と対策を思案していたのだろう。
わたしには分からないことがたくさんあり、現時点においては推測が先行してしまう。
しかしながら、今はそれで良いのではないかと思うのである。
それ以上のことはできないし、そのような手段も知らないからである。
それに、わたしが変な価値観を付属するよりは、Mさんが自分自身で考える方が有益であるような気もするのである。

2013年11月5日火曜日

追憶 423

黒い顔が完全に沈黙すると視界がにじんできて、すべてが暗闇に包まれそうであった。
わたしは自らの体力?精神力?に限界を感じていたこともあり、その状況を見守る以外の手段が思い浮かばなかった。
世界が崩壊しつつあったのだ。
徐々に閉ざされていく視界を眺めていると、わたしは自分の仕事が終わったのだと感じた。
暗闇に飲み込まれるようにして埋れていく黒い顔は、少し笑っているように見えた。
その記憶を最後にわたしはMさんの心の中から弾き出された。

懐かしい暗闇が眼前に広がっている。
懐かしい音が届き、懐かしい匂いによって鼻腔(びこう)が満たされる。
わたしは錆び付いた鉄の扉をこじ開けるようにして、重たい瞼(まぶた)を上げた。

2013年11月4日月曜日

追憶 422

わたしは何があっても目の前の状況を受け入れることにした。
その意味や意図が分からなくても、それを認め、そこから学ぶことがこの状況においてわたしにできる唯一のことだったのである。

光の杭に抵抗していた黒い顔も、光の杭が押し込まれて見えなくなると抵抗することもなくなっていた。
命が絶たれるようにして沈黙した黒い顔に対して、わたしは新たに光の杭を作り出してそれを突き刺した。
光の杭を突き刺す度に猛烈な気分の悪さを感じ、わたしはゲップによって黒い煙を吐き出した。
その行為を何度か繰り返していると、気分の悪さに襲われることもなくなり、黒い煙を吐き出すこともなくなった。
それは、傷口から膿をすべて取り出したような爽快な感覚であり、とても心地の好いものであった。
わたしは安心感を覚えていた。

2013年11月3日日曜日

追憶 421

子どもが正しい判断を下すことはできない。
それは、子どもが経験不足の未熟者であるからである。
幼少期の子どもは親の教育に従わなければならない。
それは、子どもが何が正しくて、何が間違っているのかを知らないからである。
子どもは親の命令に従わなければならない。
それは、子どもが自分自身で考え、判断することができないからである。
子どもは我慢しなければならない。
それは、子どもが自力で生きていくことができないからである。
わたしは子どもである。
わたしにとっての親は大天使ミカエルだ。
彼がわたしを導く。
彼の命令を無視することはできない。
それは、わたしには何が正しくて、何が間違っているのかを知らないからである。
また、この状況を正解(豊かさ)に導く力がないからである。

2013年11月2日土曜日

追憶 420

わたしは、今すぐにでも
黒い顔の絶叫から逃れたかった。
とにかく、その音が恐かったのである。
それはわたしの精神を壊してしまうのではないかと感じるほどの嫌悪感であったのだ。
これはわたしの意思ではない。
わたしは黒い顔に光の杭を打ち込もうなどとは考えていない。
しかしながら、わたしはそのように行動している。
これは大天使ミカエルの意思であろう。
大天使ミカエルの言う「正しく導く」ということの答えは、黒い顔を殺すというものであったのだろうか?
徐々に食い込んでいく光の杭を押し込みながら、わたしは状況を整理し切れずにいた。
わたしには何が正解であり、何が不正解であるのか分からなかったのである。

2013年11月1日金曜日

追憶 419

わたしの中で考えがまとまらない間に答えは出た。
わたしは右手を掲げ、人差し指と中指を宙に差し出した。
それは無意識の行動であった。
空中に一筋の線を描くようにして、それを一気に引き下げる。
すると、目の前には黄金に輝く一つの杭が現れる。
わたしはこの金色に輝く杭を「光の杭」と呼んだ。
光の杭を手に取ると、躊躇(ちゅうちょ)なくそれを目の前の黒い顔に突き刺した。
すると、黒い顔は苦痛に歪んだ表情を見せて悲鳴を上げた。

「ぐぐ…ぎゃぁぁぁぁぁぁ」

わたしはこれまでに聞いたことのない音に衝撃を受けた。
断末魔の叫びというのは、このことを言うのだろうか?