このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2019年7月31日水曜日

追憶 2488

人は、病を通じて痛みと苦しみを経験しなければならない。
それは、そうでもしなければ、病を生み出した心の歪みを手放すことが出来ないからだ。
多くの人は、自分自身を信じている。
多くの人は、自分自身が正しいと信じているのである。
多くの人は頑(かたく)なである。
考え方が変わることは難しい。
多くの人は、考え方を変えることが出来ないのである。
そこには、信仰(しんこう)が存在するからだ。
多くの人は、意識的にも、無意識的にも、自分自身の考えを信仰している。

2019年7月30日火曜日

追憶 2487

多くの人は、痛みや苦しみによって、病に執着する。
執着すれば、病は形を保たなければならないのである。
それは、人が病を引き止めて、保存するということだからだ。
病において、痛みや苦しみは仕方のないことである。
病においては、痛みや苦しみが伴(ともな)うことが自然だ。
痛みや苦しみを伴わない病は存在しないだろう。
それは、痛みや苦しみを経験することが、病の目的だからである。



2019年7月29日月曜日

追憶 2486

誤解の無いようにしなければならないが、建設的な思考がすべての病を根絶するということではない。
誤解して欲しくは無いが、治らなくても良い病というものも存在しているのである。
病の目的は心を改めさせることである。
人が自らを改めることがなければ、病が治る必要はない。
どれだけ建設的に考えたとしても、自らを改めなければ、病は目的を果たすことが出来ないのだ。
それでは、病が去ることは出来ないのである。

2019年7月28日日曜日

追憶 2485

痛みは、必ずしも苦しみではない。
それは、不自由にも同じことがいえる。
人は、病によって痛みや不自由を得るが、それをどう解釈(かいしゃく)するかは、それぞれに任されている。
病による痛みや不自由を前向きに考える人もいる。
そのような人の病は、形を保つことが出来ない。
それは、精神が肉体に影響を及ぼしているということである。
例えば、建設的に考える人の方が、免疫(めんえき)や自然治癒力は高まっているだろう。
そして、破滅的に考える人は、免疫や自然治癒力は弱ってしまう。
それは、偽薬効果(プラシーボ効果)が証明していることである。

2019年7月27日土曜日

追憶 2484

すべての人は、未熟である。
そのために、誤解を避けることは出来ない。
本来ならば、病は恐れるものでも、苦しむものでもないのだが、多くの人は、恐れ、苦しんでしまう。
気にしなければ気にならないものも、気にすれば気になってしまう。
病を気にしなければ良いが、多くの人は気にする。
それは、仕方のないことである。
建設的に気にするのであれば良いが、大抵の場合、破滅的に気にするのである。
病を恐れたり、苦しむのは、それを破滅的に気にしているということだ。

2019年7月26日金曜日

追憶 2483

病を治そうとしても、そこに原因が存在しないために、苦しみを取り除くことは出来ない。
病を治そうとすることは大切ではあるが、それと同時に自分自身を直そうと努めなければならないのである。
自分自身を直すことなく、本当の意味で病を治すことは出来ない。
寧(むし)ろ、自分自身を直せば、病は自ずと治っていくのである。
病に苦しむのは、自分自身を直さないからだ。
自分自身を直せば、病に苦しむことはなくなる。
病を気楽に考えることが出来れば、病は病としての形を保つことが出来ない。
病は、恐れられ、苦しまれることによって、病として存在することが出来るのだ。

2019年7月25日木曜日

追憶 2482

結果を改めるために結果を弄(いじ)ってはならない。
この世界において、結果を改めるためには、原因を改めなければならないのである。
原因とは、病のことではない。
原因とは、自分自身のことなのである。
そのため、苦しみは病によって導かれるのではない。
苦しみは、自分自身によって導かれるのである。
この世界においては、自分自身を体験する。
すべての状況が、自分自身を現しているのだ。
それがどのような悲劇でさえ、自分自身の抱えるものを映し出しているということを理解しなければならないだろう。

2019年7月24日水曜日

追憶 2481

肉体を自分だと思い込んでいるために、肉体を治そうとする。
肉体を治すことは、とても大切なことであるが、病と闘うことは最善ではないだろう。
なぜなら、病は敵ではないからだ。
病は、自分が肉体ではないということを気付かせてくれる最高の手助けなのである。
しかしながら、多くの人はそのことに気が付かずに、病によって肉体との結び付きを強めてしまう。
病を敵と見做(みな)し、肉体との間に共通の敵を作ることによって、肉体との絆(きずな)が強まるのである。
大切なのは、病が結果であるということを理解することだ。

2019年7月23日火曜日

追憶 2480

しかしながら、多くの人は、他者に憧れを抱き、他者のように成ろうとする。
それは、悪いことではないが、憧れの他者に成ろうとする時に、無意識に自分を否定しているのである。
そこに悪気は無いだろうが、この世界の原因は行為であるということを忘れてはならないだろう。
そのため、自分を否定したという行為が、それに相応しい結果を導くのである。
多くの人は、人生を完成させることが出来ない。
それは、自分を生きていないからである。
自分と他者を比較する時点において、自分を生きてはいないのだ。
多くの人は、自分ではない自分の肉体を生きているのである。

2019年7月22日月曜日

追憶 2479

わたしが他者と自分を比較して、憂鬱(ゆううつ)な気分に陥(おちい)っていたのは、肉体が自分自身であると信じていたからである。
大抵の人は、かつてのわたしのように、自分自身が肉体であると信じているだろう。
肉体を通じて得られる表面的な情報を間に受けて、本質を見失っていたのである。
本来ならば、人は、異なっているのが自然である。
人は、異なっていなければおかしいのだ。
ある程度の類似性は存在するが、同じであれば進歩は実現しないのである。
異なっているからこそ、変化することが出来る。
異なっているからこそ、進歩することが出来るのである。

2019年7月21日日曜日

追憶 2478

わたしには、どうしても肉体が自分自身であるとは思えないのである。
なぜなら、何一つ思い通りにならないからだ。
多くの人が、肉体に対して何かしらのコンプレックスを抱いている。
わたしにも、多くのコンプレックスが存在していた。
自分の肉体が気に入らなかったのである。
自分よりも背が高い人や容姿端麗(ようしたんれい)な人、頭脳明晰(ずのうめいせき)な人や手先が器用な人、運動能力に優れた人や歌が上手い人など、自分よりも優れた人と比べては、自己憐憫(じこれんびん)に陥(おちい)っていたものである。

2019年7月20日土曜日

追憶 2477

多くの人は、自分が肉体であると思っているし、肉体を通じて得る痛みも自分だと思っている。
肉体も肉体を通じて得る痛みも、とても現実的なものであるために、それを現実だと信じてしまう。
生まれる前から肉体に宿り、肉体を通じて得る刺激を受け続けていれば、それが現実だと思うのは仕方のないことであろう。
わたしが自分は肉体ではないと言うと、大抵の人は笑うか驚く。
わたしが冗談を言っているように思うのだ。
しかしながら、わたしは、わたしの中の真実を話しているのである。

2019年7月19日金曜日

追憶 2476

それは、慣(な)れであるのかも知れない。
肉体の痛みは変わらないが、心の痛みは随分(ずいぶん)と変わって来ていた。
腰痛に対する怒りや恨(うら)み、そして、悲しみや絶望感が失われ、どうでも良いと思うようになった。
それは、諦(あきら)めであったようにも思える。
そして、どうでも良いと思っていると、わたしは肉体と痛みを俯瞰(ふかん)していることに気が付いた。
そこでわたしは、自分という存在が肉体でも無ければ、痛みでも無いということを学んだのである。

2019年7月18日木曜日

追憶 2475

矛盾を手放すことによって、人は、苦しみを手放すことが出来る。
多くの人が病によって苦しむのは、病が矛盾であるからだ。
矛盾は病を生じさせる。
病を手放すためには、病を受け入れなければならない。
病を歓迎(かんげい)しなければ、あなたが救われることはない。
病という矛盾を受け入れることによって、矛盾に気が付き、それを解消することが出来るということである。
わたしも長い間、腰痛と付き合ったが、わたしにとっては、付き合う期間が長過ぎて、最後には笑えていた。
痛みが激しくて、寝返りを打つのにも苦労するような有り様であったが、そうなると、怒りや悲しみを通り越して笑いが止まらないのであった。
そうなると、否定することにも疲れて来る。
腰痛を否定することに疲れた頃、わたしは開き直っていたのである。

2019年7月17日水曜日

追憶 2474

病は、その人に合わせて作られた救済であるということを理解しなければならないだろう。
人は、病を受け入れることによって、救済を受けることが出来るのである。
しかしながら、多くの人はそのことを知らない。
多くの人は、救済を求めながら、病を否定しているのである。
そこには、矛盾が存在する。
多くの人は、矛盾を生きている。
その矛盾こそが苦しみであることに気が付かなければならないだろう。

2019年7月16日火曜日

追憶 2473

寧(むし)ろ、病は救済なのである。
しかしながら、多くの人は、表面的にしか物事を認識しない。
そのため、救済である病を不幸な出来事だと思い込んでしまうのだ。
多くの人は、たまたま自分が病という災難に出会ったのだと考えるだろう。
しかしながら、偶然であるのならば、他の人がその病に出会っても良かったし、他の人が陥(おちい)っている病にあなたが出会っても良かったはずである。
しかし、その病は、あなたに導かれたのである。
人は、それぞれに異なる病に陥る。
あなたは、その病に出会うべくして出会ったということを理解しなければならないのだ。

2019年7月15日月曜日

追憶 2472

病は、誰にとっても現実であることを認めなければならないだろう。
それは、自らの歪みや汚れの証明である。
多くの人は、病を不運だと考えているが、病は人生の計画である。
人は、計画的に病に陥(おちい)るということを理解しなければならないだろう。
歪みや汚れに陥っている者にとって、病は必要なものである。
それは、病に陥っている者にとっての救済(きゅうさい)だと考えなければならない。
人は、不運によって病に陥るのではない。
病に陥っている者は、決して不幸などではない。
病に陥っている者は、救われようとしているのである。

2019年7月14日日曜日

追憶 2471

多くの人は、苦しいことが嫌いだ。
当然、自分と向き合うという苦しみは避けて通る。
多くの人は、現実という苦しみを避けて、幻想という喜びを生きようとしているのである。
しかしながら、人生が思い通りになることはない。
幻想を生きることでは、真(まこと)の喜びは得られないのである。
例えば、睡眠中の夢の中で、どれだけの喜びを得たところで、睡眠から覚めてしまえば失っているのである。
余韻(よいん)に浸って僅(わず)かな時間喜びを味わうことも出来るが、覚醒(かくせい)に比例して喜びは失われる。
睡眠中の夢の中で得たものを、日常へと持ち込むことは出来ないのだ。

2019年7月13日土曜日

追憶 2470

病とは、本質から離れた状態のことである。
病を抱えている人は、本質から離れた状態を生きているということだ。
本質から離れた状態が病であるとすれば、本質へ近付けば病を手放し、癒されるということである。
病は、自分と向き合うことが出来る最高の機会を提供してくれる。
人は、病でも患(わずら)わなければ、自分と向き合うことをしないだろう。
何かしらの問題によって苦しむことがなければ、自分と向き合うことをしないのである。
それは、自分と向き合うことは苦しいからだ。

2019年7月12日金曜日

追憶 2469

病に対して最も効果的なのは、心を改めることである。
自我意識に偏(かたよ)っているのであれば、そこから中心を目指さなければならない。
非我(ひが)に偏っているのであれば、やはりそこから中心を目指さなければならないのだ。
中心とは、読んで字の如(ごと)く、心の中である。
それは、心の最深部である本質だ。
そこには、完全が存在している。
人は、本質に近付く程に癒される。
そして、本質から遠く離れる程に病むのである。

2019年7月11日木曜日

追憶 2468

多くの人は、病を敵とする。
病を倒せば、癒されると考えているのである。
しかしながら、病とは結果に過ぎず、炎の煙や熱と変わらない。
例えば、何等かの医療行為によって病を倒したとしても、根本的な解決にはならない。
煙や熱を払っても、火種が残っていれば、再び炎上するのである。
病の根本は、心の在り方であると理解する必要があるだろう。
心の在り方を改めることがなければ、病が根本的に解決することはないのである。

2019年7月10日水曜日

追憶 2467

誰かや何かに対して怒りや恨みを抱くことは、炎を無視して、煙や熱を取り除こうとする行為であるからだ。
それは、無意味な行為ではないが、空しいということに気が付くだろう。
原因である炎を処理しなければ、どれだけ煙や熱を払っても、同じことを繰り返さなければならないからだ。
原因を改めなければ、結果が改まることはない。
どれだけの努力を積み重ねても、原因を改めるための努力でなければ、結果が改まることはないということを理解しなければならないだろう。

2019年7月9日火曜日

追憶 2466

わたしは、霊になってまで苦しんでいる人達に良く出会う。
彼等は、誰かや何かに焼かれて苦しんでいるのではない。
彼等は、自らの傲慢(ごうまん)さによって焼かれているということを理解しなければならないだろう。
霊は、誰かや何かに対して、怒りや恨(うら)みを抱えているように見えるが、それは誤解である。
わたし達人間も、誰かや何かに対して怒りや恨みを抱く。
しかしながら、それも誤解であることを理解しなければならないのだ。
わたし達人間は、誰かや何かに対して怒りや恨みを抱くが、それでは、怒りや恨みの原因を解消することが出来ないのである。



2019年7月8日月曜日

追憶 2465

多くの人は、傲慢(ごうまん)という炎に焼かれている。
それはとても苦しいことである。
多くの人は、その苦しみを認識してはいるが、その原因を理解してはいない。
煙や熱で苦しんでいるものの、炎には気が付いていないのだ。
炎に気が付かなければ、延焼(えんしょう)は避けられない。
多くの人は、燃えるものが無くなるまで、自分が炎に焼かれていたことに気が付かないのである。
多くの人は、死を得てもまだ、自分の傲慢さに気が付かない。
身体が焼かれても尚(なお)、傲慢を手放せないでいるのだ。

2019年7月7日日曜日

追憶 2464

怒りは、些細(ささい)なすれ違いから生じる。
それは初め、小さな摩擦(まさつ)に過ぎないが、それが続くと煙が立つ。
やがて、そこには小さな火の粉が生み出される。
小さな火の粉は、周囲のものを巻き込みながら、大きな炎へと成長するのである。
大きな炎は、世界を焼き尽くしてしまう程の力を有する。
炎の強大な力の前では、人は無力だ。
人は、炎によって苦しみ、簡単に死を得てしまうのである。

2019年7月6日土曜日

追憶 2463

かつて、わたしも傲慢(ごうまん)に支配され、怒りに溺(おぼ)れた。
それは、底なしの沼のように、もがく程に沈んでいくようなものである。
怒りに溺れることは、苦しいことである。
しかしながら、そこから抜け出すことは出来ない。
それが苦しいことだと、どこかでは分かっていながら、その強大な力に飲み込まれてしまうのだ。
怒りには、中毒性があるのではないかと思える。
それは、砂糖やお酒、マラソンや筋肉トレーニング、整形手術や買い物、そして、ギャンブルや麻薬などのように、度を過ぎてもやめられないものなのだ。



2019年7月5日金曜日

追憶 2462

それは、わたし達の心を現す態度が、身体を通じてメッセージを伝えることを意味しているからであろう。
傲慢(ごうまん)な態度を現す者は、腰を折られるのである。
それは、多くの場合、腰痛として現れる。
傲慢な態度を現す者は、腰痛によって生活や仕事の腰を折られるということなのだ。
腰が言うことを聞かなければ、何一つ思い通りにはいかない。
それは、心を乱し、荒立たせる。
心は怒りに支配される。
しかしながら、怒りが続くと、やがてはそれが無意味であることに気付く。
そして、悲しみが襲い、やがて絶望するのである。



2019年7月4日木曜日

追憶 2461

わたし達は、出来るだけ早く、自分の病に気が付かなければならない。
しかしながら、それは難しいことである。
なぜなら、人は未熟に生まれるからだ。

”腰を折る”や”腰が低い”などという言葉がある。
腰を折るという言葉には、途中で妨げるとか、屈服(くっぷく)するという意味がある。
腰が低いという言葉には、謙遜(けんそん)なさまという意味がある。
どちらも、態度を現している言葉であるが、どちらにも腰という部位が用いられているのである。

2019年7月3日水曜日

追憶 2460

30代を迎えて、あれ程悩まされていた腰痛に悩まされることはなくなった。
激しい運動が出来るかどうかは分からないが、日常の痛みは存在しない。
わたしは、誰かに腰痛を治療してもらった訳ではない。
残念ながら、誰にも、わたしの腰痛を治すことは出来ないのである。
腰の痛みを手放したのは、わたし自身である。
これは、わたしが以前に比べると謙虚(けんきょ)になったことの証だと思っている。
腰痛は、わたしの傲慢(ごうまん)さの現れであったと思えるのだ。
傲慢とは、心の病である。
それは、心を蝕(むしば)み、やがては身体を蝕む。
身体を蝕むことで、病が生じる。
病が生じることで初めて、心が蝕まれていたことに気が付けるのである。

2019年7月2日火曜日

追憶 2459

だから、わたしは自分自身を不自然な存在だと思うのである。
わたしは、幼い頃から、自分自身に対して不自然さを抱えながら生きて来た。
それは、以前に比べると少なくはなったが、今でも同じである。
そして、わたしもその未熟さ故(ゆえ)に、病などの様々な問題を避けることが出来ないのだ。
振り返ってみると、わたしは、幼い頃から様々な病や問題を抱えながら生きて来た。
それは、わたしが霊的な世界である自分自身と向き合うまで、頻繁(ひんぱん)に引き起こされていたように思える。
わたしも、10代の頃から彼と同じように腰を患(わずら)い、20代は腰痛との闘いであった。
痛みが酷(ひど)い時には、数ヶ月間ほぼ寝て過ごしたこともあった。
しかしながら、結果として、わたしは腰痛を通じて自分自身と向き合うことが出来たと思っている。
腰痛という苦しみが無ければ、わたしは自分自身と向き合うことも、それを幾らかでも改善することも出来なかったであろう。

2019年7月1日月曜日

追憶 2458

病とは、誤解のことであると、わたしには思える。
すべての人は、誤解という名の病を患(わずら)っているのだ。
しかしながら、多くの人は自分が患っていることを知らない。
皆が患っているのだから、それが"普通"だと思い込むのである。
わたしには、"普通"は不自然に思える。
わたしには、"普通"が苦痛なのである。
とはいえ、わたしも皆と同じように患っている身である。
わたしは皆と違うとは思っていないが、自分が患っていることには、何と無く気が付いているのだ。