このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2018年7月31日火曜日

追憶 2123

わたしは天使に力を借りて、誰かに対して霊的な手助けを行っているが、それは、他力に頼っている訳ではない。
例えば、わたしは清掃活動によって少しでも世の中や自然環境の役に立とうと努めている。
最近では、西日本豪雨の被災地のボランティアに、日曜日の度に参加することで少しでも役に立とうと努めている。
そして、日常生活においては、天使の力を借りるに相応しい"器"であろうと、理(ことわり)の追求に自分なりに努めているのである。
他力は、自力の先に存在している。
自力に努めることの出来ない者には、他力は得られないだろう。
わたしには、宗教に携わる人達は、何よりも大切な自力を軽んじて”神”という他力に頼っているようにしか思えないのである。




2018年7月30日月曜日

追憶 2122

宗教に属することは、人の心の弱さを肯定(こうてい)することを助長してしまう。
それは、歩くのに骨が折れるといって、近くでも車で移動するようなものである。
わたしが小学生の頃は、片道約3kmの道のりを歩いて通学したものである。
当時のわたしには、辛いことの方が多かったが、今では良い経験になったと思っている。
人生には、正解というものはないと思うが、子ども達だけで歩いて通学することによって、親に頼ることの出来ない状況が与えられたことは、わたしにとっては最善であったように思える。
下校時には、家の場所が校区の端であることもあり、一人で帰ることも多かった。
それによって、自分で考えるということや、自分で何とかしなければならないということを教えてもらえたように思える。
そして、道中には、多くの人達に助けられた。
その経験が、今のわたしを支える柱の一部となっているのである。


2018年7月29日日曜日

追憶 2121

自分では何もせず、ただ”神”に祈り、縋(すが)ることは、豊かな人生の原因とはならない。
母校の校訓は"自律、自尊、克己"というものであった。
わたしは、学校の勉強は好きではなかったが、校訓のことは好きで今でも覚えている。
わたしは今でも、"自律、自尊、克己"という素晴らしい言葉を教えてくれた母校に感謝をしている。
この言葉は、人が人生を豊かに生きるための基礎となる教えであると思うのだ。
自律とは、自立のことであると解釈している。
人は、自らの脚で立たなければならないのである。
自尊とは、自分を大切に思う気持ちである。
自分を卑下(ひげ)している人が多いが、それでは豊かな人生には程遠いのである。
克己(こっき)とは、自分の中の弱さに打ち勝つということだ。
人は、弱さを抱えている。
弱さは、人を邪道へと導く。
それに打ち勝たなければならないのである。




2018年7月28日土曜日

追憶 2120

それは、”神”に縋(すが)ることではないだろう。
泣き言を吐いて、”神”の救いを待つことでもない。
自分の足で立ち、他者に協力し、他者からの協力を受けて、自分の足で歩かなければならないのである。
例え、世界の終末が訪れたとしても、自分の身は自分で守らなければならない。
誰もあなたを守ってはくれないのである。
残念ながら、”神”が理由もなく人の願望を叶えることはないだろう。
助けを求めて助けてくれることなどないのだ。
普段から、誰かや何かを助けているからこそ、助けられるのである。
種を蒔(ま)かなければ、収穫は無いのである。



2018年7月27日金曜日

2119

”神”の救いを待っていれば、その間に多くのものを失ってしまうのである。
溺れている者は、藁(わら)でも掴まなければならない。
ただ、溺れているだけであれば、溺れ死んでしまうのである。
それを本望(ほんもう)とするのであれば良いが、多くの人はそのようには思わないだろう。
多くの人は、人生を続けたいと思うからである。
それは、魂が、人生において様々なことを学び、成長することを望んでいるからだ。
長生きすることや、財産を貯えることや、大切な人と過ごすことや、世界を平和にすることなどは、本来の目的ではない。
それ等のことは、後から掲げた志(こころざし)なのである。
人は、魂を成長させるために人生を経験している。
成長したいと思うから、生きたいのである。
生きるためには、生きるための選択を行わなければならないのだ。



2018年7月26日木曜日

追憶 2118

自力に頼らなければ、人は悪事を美談にしてしまう。
大切なのは、自分で判断することなのである。
ただし、すべての人は未熟であり、無知であることを忘れてはならない。
人は自力に頼らなければならないが、それは、最終的な決断を自力で行わなければならないということである。
最終的な決断を行うまでは、他力を必要としなければならない。
それは、学ばなければならないからだ。
人は自力のみで学ぶことは出来ない。
人は、他力によって学び、自力によって成長するのである。
そのことを理解しなければならないだろう。
目の前に危険が迫っているのであれば、人は自力によって自分を守らなければならないのである。



2018年7月25日水曜日

追憶 2117

それは、宗教に属していても同じことである。
宗教に属していながら、悪事を働く人は多い。
正義感からそれを善事だと思い込んでいる人もいる。
例えば、西洋の一神教は、”神”の名の下に略奪と破壊を繰り返した。
聞くに耐えない悪事を働いたのが、一神教を信仰する司祭や教徒達なのである。
そういう時代だから仕方がないとは思うが、そのような時代であっても、愛に根差して生きた人達はいるのである。
誰もが自らの悪事を美談にしてしまう。
歴史を学べば理解することが出来るだろう。
例えば、教科書には一方的な見解しか載っていないように思える。
それは、宗教の教典にも同じことが言えるだろう。



2018年7月24日火曜日

追憶 2116

それが愛というものであるのではないだろうか?
愛とは、甘やかすことではなく、問題に向き合えるように手助けすることだと思うのである。
わたしは天使と共に生きている。
それは、特別な加護を受けているように思えるだろう。
しかしながら、わたしの加護と他者の加護には違いがない。
この世界に存在する人の中で、”神”の加護を受け損ねている人はいない。
どのような人であっても、”神”の加護を受けているのである。
”神”は、人を差別することはないだろう。
それは、わたしが他者と変わりないからである。
わたしが悪事を働けば、他者と同じ苦しみが導かれる。
天使と共に生きているからといって、罪における罰を免(まぬが)れるということは有り得ないことなのである。

2018年7月23日月曜日

追憶 2115

若い女性は、自らの力で自分を守ろうとしたのである。
わたしには、それが”神”の救いを待つよりも美しい行為だと思うのだ。
もちろんだが、わたしは彼女達を本気で殺そうなどとは思わない。
それは、そのような因果が存在しないからである。
しかしながら、わたし以外の誰かが、何等かのきっかけで彼女達を殺そうとするかも知れない。
その時に”神”にお祈りするのが最善の方法だとは思えないのである。
自力で歩こうとしない者を”神”が救うだろうか?
人の親が、いつまでも子を背負って歩むことが出来るだろうか?
自力で一生懸命に挑戦してみて、それでも足りない部分は補(おぎな)ってくれることもあるかも知れないが、目の前の困難に対して諦める者には、それに相応しい状況を導いてくれるのである。





2018年7月22日日曜日

追憶 2114


”あなたは、そんなことはしないと思います”

若い女性が答えた。

”本当にそう思いますか?あなたはわたしのことを何も知らないんですよ?”

わたしは、笑顔を浮かべて彼女の柔らかそうな喉元(のどもと)を見詰めた。
それは、わたしが彼女達を殺すためには、先ずは二人の喉を潰すことを真剣に考えていたからである。
若い女性の笑顔が引き攣(つ)るのが分かった。
多少なりとも、恐怖が芽生えたのであろう。

”わたしが襲い掛かったらどうしますか?”

若い女性は、消え入りそうな声で絞り出した。

”そんなことは・・・しないと思います”

間髪を入れずにわたしが問い掛けた。

”本当に?”

わたしの言葉に対して、若い女性はそれ以上は何も答えなかった。

”抵抗することなく、殺されますか?”

すると、わたしの言葉に対して若い女性が答えた。

”抵抗します”

わたしには、それで十分であった。
彼女の気持ちが聞けて良かった。



2018年7月21日土曜日

追憶 2113

人を殺した人は、人を殺したことから学び、人に殺された人は、人に殺されたことから学ぶのである。
そのような体験をしなければならない人は、そのような体験からしか学ぶことが出来ないのだ。
この世界に、無駄は存在しない。
無意味なことも、理由のないことも存在しないのである。

わたしは彼女達に例え話をすることにした。

"例えば、わたしが今からあなた達を殺します。残念ながら、わたしはあなた達を簡単に殺すことが出来るのです。それでも”神”が救ってくれると思いますか?"

彼女達は、わたしの言葉を冗談として受け取った。
顔には笑みが浮かんでいる。
わたしがそのような行為に及ぶことはないと高を括(くく)っているのである。
常識的に考えればその通りである。
しかしながら、わたしは頭の中で、本気で彼女達の殺し方を考えていた。
どうすれば簡単に素早く二人を殺すことが出来るだろうかと思案していたのである。



2018年7月20日金曜日

追憶 2112

しかしながら、死後のことは分からないのである。
わざわざ不義に生きたいとは思わないが、それが必要な人や状況もあるだろう。
大切な人や何かを守るために、誰かを殺さなければならない場合もあるのだ。
その場合、その人は悪人となり、地獄に行くのだろうか?
わたしは宗教に深く携わったことがないので、宗教の教えを深く理解してはいないが、地
獄というものを見たことがないので、宗教が教える地獄が本当にあるかは分からない。
否定している訳ではない。
きっと、地獄という場所も存在しているだろう。
わたしは苦しみに飲み込まれている霊体と会うが、彼等の状態が地獄だとすれば、それは
案外良いものだとも思ってしまうのである。
それは、彼等にも最善の学びが与えられるからだ。
この世界においては、誰に対しても最善の学びが与えられているのである。



2018年7月19日木曜日

追憶 2111

彼女達のわたしに対する思いやりは理解することが出来る。
彼女達は、自分達の知っている”良いこと”をわたしにも知って欲しいのである。
彼女達は、わたしが救われるように、天国に行けるように手を差し伸べてくれているのであろう。
しかしながら、わたしは救われなくても良いと考えている。
天使には成りたいが、地獄行きでも別に構(かま)いはしないのである。
それが”神”の決定ならば仕方の無いことだと思うからだ。
救われなくても、地獄行きでも、わたしは自分なりに懸命に生きようと思っている。
それは、それが最善であると思うからだ。
彼女達の宗教や神様を信仰しないわたしは、恐らく地獄行きだろう。
それも仕方の無いことだと思う。


彼女達の宗教や神様を信仰しないことによって、わたしの地獄行きが決定すれば、もしも地獄から出て生まれ変わることが出来るとすれば、次の人生では、彼女達の宗教や神様を信仰するようにしよう。

2018年7月18日水曜日

追憶 2110

彼女達は、目の前の現実を受け入れ、懸命に生きる覚悟がないのであろう。
わたしは、”神”の救いなどなくても良いと思うが、彼女達には必要なことに違いない。
わたしは人生がどのように展開しても良いと思うが、彼女達にはそうは思えないのであろう。
彼女達は、自分達の考える良いものが欲しいのである。
そして、それを他者にも理解して欲しいと考えているのだろう。
わたしは、どのような状況にも大切な学びが隠されていると思うし、それを楽しめるとも考えている。
わたしには、未来に対して彼女達程の恐怖心は無いのである。
それは、未来など、どうでも良いと考えているからだ。
未来がどのような展開をしても、それで良いのである。
どうやら、わたしには、彼女達程の強い願望というものが無いようだ。

2018年7月17日火曜日

追憶 2109

始まったものは、いつかは終わるだろう。
それが、この世界の理(ことわり)である。
”神”は、始まったものに対して、同時に終わりを与えた。
生まれた命は必ず尽きる。
人は生まれ、必ず死を迎えるのだ。
生きている人間は、死の後のことを必死になって考える必要はないだろう。
それは、大抵の人が思い出すことが出来ないからである。
わたしは死後の世界を肯定(こうてい)するが、それ程重要だとは思わない。
死後の世界よりも、生きている世界の方が重要だと思うからである。
目の前の一歩をまともに踏み出せず、それをまともに踏み締められない者には、その先のことを考えても仕方の無いことだ。
世界の終末は訪れるかも知れないが、その時は潔(いさぎよ)く死ねば良いのである。
この期(ご)に及(およ)んで、”神”の救いなど求めても仕方の無いことなのである。
なぜなら、この世界には奇跡などという因果関係を無視する偶然は存在しないからである。



2018年7月16日月曜日

追憶 2108

この世界における物理的な現象には、そのすべてに"タネ"が存在する。
手品師は、物理的な現象を技術によって奇跡のように見せる。
見ている人達には、それはとても驚くべきことのように思えるが、手品師には、そこに因果関係が存在していることが分かっている。
手品師も同じように驚いていれば"奇跡"である可能性も高いが、残念ながら、手品師は事の顛末(てんまつ)を知っているのである。
宗教に携わっている人達の主張する"奇跡"とは、わたしには、手品師の行う手品よりも、何倍も何十倍も優れた"タネ"によって現された物理的な現象だと思えて仕方ないのだ。
歴史は、同じことを違う表現で繰り返しているに過ぎないだろう。
何かあれば驚きはするが、どういう訳かそれを目新しいとは感じないのである。
恐らく、本質的には同じことを繰り返しているからだろう。
そのため、わたしは宗教に携わっている人達のように安易に"奇跡"というものを信じるこ
とが出来ないのである。




2018年7月15日日曜日

追憶 2107

例えば、ある宗教の教典には、”神”の力によって海が割れるというものがある。
それが、実際に起きたことなのか?、意識を教育するための比喩表現の一つなのか?、宗教を維持発展するためのただのファンタジーなのか?は分からないが、海が割れるためには、海を割るという物理的な働き掛けが必要である。
今日の人類には理解することの出来ないようなテクノロジーが存在していたのかも知れない。
かつて地球上には、ピラミッドや前方後円墳などの様々な驚くべき建造物を築くことの出来る文明が存在したのである。
海を割るくらいのことは出来たのかも知れない。
別の星や別の次元からの協力であったのかも知れない。
宗教の教典に書かれていることが事実かどうかは分からないが、もしも、それが事実だとしても、それは今日の人類が知り得ない物理的な働き掛けによる結果であるはずであって、わたしには、奇跡などではないと思うのである。

2018年7月14日土曜日

追憶 2106

この世界は、因果の仕組みが働いている。
しかしながら、宗教に携わっている人達は因果を否定する。
それは、”神”という存在を特別視する(させる)ためであろう。
宗教は、奇跡が"売り"なのである。
因果の仕組みを通して世界を見れば、すべてが当然のことであり、それが自然であると理解することが出来る。
多くの人は、不運や偶然というものを信じているが、わたしにはそのようには思えないのである。
因果関係が存在していないように思える状況というのは、原因にまで遡(さかの)ることが出来ていないだけのことだ。
原因にまで遡ることが出来ないために、原因が存在しないと考えてしまうのである。
それは、安易な考えだと思うのだ。
宗教に携わっている人達は、”神”を全知全能であると主張する。
全知全能であるはずの”神”が、因果関係を無視して事を運ぶだろうか?



2018年7月13日金曜日

追憶 2105

わたしは、彼女達を哀れんだ。
特に、若い女性に対して、哀れみの気持ちが強かった。
それは、以前にわたしが指摘した矛盾に答えを見出すことが出来ないにもかかわらず、未だに同じ活動を続けているからである。

”この世界に救いはあると思いますか?”

若い女性が話の流れを断ち切って、唐突(とうとつ)にわたしに問い掛けた。
彼女は、”神”の話をしたいのだろう。
話の流れを終末論へと向かわせたいのである。

”そんなものは無いと思いますよ”

わたしは即答した。
わたしの回答に対して、若い女性はまたもや同様を隠した。

”なぜですか?”

若い女性が多少向きになって質問を重ねたのは、やはりわたしの回答を理解することが出来なかったからである。

”この世界には因果の仕組みってのが存在しているからだよ”

溜め息を吐いてから、わたしは若い女性に対して”丁寧”に答えた。

2018年7月12日木曜日

追憶 2104

次の週の日曜日にも、同じ宗教の勧誘がやって来た。
この間の若い女性が、別の年配の女性を連れてやって来たのである。
若い女性は、多少の慣れもあってか、前回よりは気さくに話し掛けてきた。
わたしは、いつもの調子で穏やかに言葉を返した。
今回の年配の女性は、前回の年配の女性に比べると、自分自身に自信を持っているように思える。
まるで、迷える子羊でも見るように、わたしに対して微笑みを浮かべていた。
わたしを哀れんでいるのだろうか?
年配の女性からは、わたしに教えたいという意気込みのようなものを感じたが、それを隠しているようである。
わたし達は、前回のように当たり障りのない言葉を交わした。
若い女性は、本題への入り口を探しているようであった。



2018年7月11日水曜日

追憶 2103

彼女達は、いじめや暴力や殺人や戦争を悪だと言った。
しかしながら、彼女達の思考は、根本的にはいじめや暴力や殺人や戦争を行う人達と変わりないように思える。
もちろん、彼女達は暴力的ではないため、いじめや暴力や殺人や戦争を行う人達とは、表現方法が異なっている。
しかしながら、それぞれに共通しているのは、悪が存在するという考え方なのである。
いじめや暴力や殺人や戦争を行う人達は、自分の思う悪に対してそのように行為しているだろう。
いじめや暴力や殺人や戦争を行う人達は、自分の思う善に対して、そのような行為は行わないのである。
仲間に対しては、誰もが優しく振る舞う。
仲間に対して、愛情を以(もっ)て厳しく振る舞うことと混同してはならないが、人は敵に対して暴力的に行為してしまうのである。
彼女達も、口調は穏やかであったが、いじめや暴力や殺人や戦争を悪と見なしていた。
それを行う人ではなく、行為自体を悪として扱っていたのかも知れないが、自分の仲間がいじめや暴力や殺人や戦争の犠牲者になった時には、暴力的に行為した人を責め立てるに違いない。



2018年7月10日火曜日

追憶 2102

宗教(一神教や新興宗教)に携わっている人達は、この世界から悪を取り除こうとしているようである。
宗教に携わっていない正義感の強い人達も、どうやら同じ考えであるようだ。
要は、自分にとって都合の悪いものを排除したいということなのである。
それは、自分にとって都合の良い世界を築こうとしているということであろう。
要は、欲深いのである。
残念ながら、彼等は客観性を見失っている。
彼等の妄想(もうそう)の中では、世界の中心に自分が存在しているのであろう。
人生の中心には自分が存在しているが、世界の中心には誰も存在していないのである。


そこを履き違えてはならないだろう。

2018年7月9日月曜日

追憶 2101

わたし達人間は、何事にも執着することなく、垣根なく様々なことに挑戦しなければならない。
様々なことに挑戦しなければ、"人生の意味"や、"自分が何か?"ということが分からないのである。
人は、"楽園"に暮らすために生まれたのではないだろう。
なぜなら、この世界には多くの苦しみが存在しているからである。
人が、苦しみを避けて生きることは出来ないだろう。
どこへ逃げても、その場所に苦しみは存在しているのだ。
それは、土や水や風や光のように、自然に存在する。
土や水や風や光も、強過ぎれば苦しみとなる。
愛情も怒りも悲しみも、強過ぎれば苦しみとなるが、それ等の感情は自然と備わっているものなのである。



2018年7月8日日曜日

追憶 2100

豊かさと幸福が、宗教に左右されないのであれば、わざわざ宗教に執着する必要はないだろう。
なぜなら、宗教は人の可能性を束縛(そくばく)するからである。
人は、可能性を広げるために生まれた。
人は、責任の範囲において、自由に生きることが許されているのである。
人は何も知らない。
そのため、人は挑戦しなければならないのだ。
未知に挑戦することによって、人は自らの可能性に向き合うことが出来る。
自らの可能性に向き合うことによって、人は実力を身に付けることが出来るのである。
ある程度の実力があれば、問題や苦しみに対して嘆(なげ)き、”神”や宗教に縋(すが)る必要はない。
それは、自分自身の力や、他者との協力によって、問題や苦しみを乗り越えていくことが出来るということなのである。



2018年7月7日土曜日

追憶 2099

宗教は、問題や苦しみから人を逃避させてしまう。
そのため、老女も彼女達も、自らの向き合わなければならないはずの問題や苦しみを否定しているのである。
問題や苦しみから逃避することは、問題や苦しみを生み出してしまう。
そのため、わたし達は”神”に頼ってはならないのだ。
宗教に携わっても、問題や苦しみを抱えて生きている人達がいる。
宗教に携わることなく、問題や苦しみを抱えて生きている人達がいる。
それは、問題や苦しみが宗教に関わりないということを現しているのだ。
もちろん、宗教に携わっても、豊かさと幸福を抱えて生きている人達がいる。
そして、宗教に携わることなく、豊かさと幸福を抱えて生きている人達がいるのだ。
豊かさと幸福も、やはり宗教には関係しないということであろう。

2018年7月6日金曜日

追憶 2098

誤解してはならないのが、”神”の救いが訪れたからといって、問題や苦しみが取り除かれることはないということである。
寧(むし)ろ、”神”の救いが訪れることによって、人は目の前の問題や苦しみに向き合うことが出来るのである。
宗教を信仰している人達は、そこを誤解しているのだ。
”神”は、わたし達が強く生きていくための支えである。
”神”は、わたし達に"自分達の足で歩け"と励(はげ)ましているのである。
わたし達は、”神”という存在を使って、目の前の問題や苦しみと向き合わなければならないのだ。
残念ながら、わたし達は問題や苦しみを避けることが出来ない。
避けようとすることが問題であり、苦しみを生み出す選択なのである。



2018年7月5日木曜日

追憶 2097

幸せではないから、幸せを求める。
救われていないから、救いを求めるのだ。
人は、無いものを欲するのである。
”神”の救いが訪れない人は、神頼みを続ける。
”神”の救いが訪れない人などいないのだが、それを理解することの出来ない人は多いのだ。
”神”の救いが訪れているのを理解している人は、神頼みは行わない。
その必要が無いのである。
わたしは、神頼みを行わない。
それは、”神”の救いは常にわたしと共にあるからである。
それを理解しているわたしは、神頼みをする必要が無いのだ。
”神”に頼る必要が無いわたしは、自力と他力を使って目の前の問題に向き合うのである。




2018年7月4日水曜日

追憶 2096

彼女達は、自らの抱える矛盾によって苦しむだろう。
そして、その苦しみから逃れるために、神頼みに励(はげ)むはずである。
そのため、彼女達が矛盾を手放すことは出来ないだろう。
それは、老女も陥っている危険な道なのである。
大切なのは、”神”が救ってくれることなどないと理解することだ。
残念ながら、奇跡などは存在しないのである。
何度も言わなければならないが、宗教や幹部に救いを求めて頼っても、残念ながら救われることはない。
偶像や儀式に人を救う力などないのである。
宗教や幹部や偶像や儀式に人を救う力があるならば、老女や彼女達は救われていて良いはずだ。
しかしながら、老女も彼女達も幸せそうには見えないのである。




2018年7月3日火曜日

追憶 2095

そのため、一神教の教えでは、どうしても悪となる敵が存在することになってしまうのである。
それは、信者の幸福を考えた結果の教えではなく、宗教体系を維持するための恐れであるように思えて仕方がないのだ。
そして、その宗教を必要とした歴史や時代背景のことも考えてみなければならないだろう。
その宗教が生まれた時には、その教えが必要不可欠なものであったかも知れないが、今日にその教えが必要であるとは限らないのである。
彼女達は、一神教の教えを信じていたが、わたしの質問に対して、自らの信仰の中に矛盾を見出してしまった。
それは、彼女達の信心が足りなかったからではない。
理由は、もっと深いところにあるのではないだろうか?
わたしは誰が何を信じても良いと思うが、人は自分自身を偽るべきではないと思うのである。


2018年7月2日月曜日

追憶 2094

わたしの質問に満足に答えることが出来ずに意気消沈した彼女達は、パンフレットを置いて去った。
それは、彼女達が布教活動によってわたしを訪ねたことを意味するものであった。
彼女達は、わたしを自分達の信じる宗教に勧誘したかったのである。
しかしながら、それは、実現しなかった。
彼女達の信じているのは、一神教の宗教であった。
彼女達の置いていったパンフレットを眺めて、わたしは彼女達が悪を作りたがる理由を納得した。
一神教の宗教体系を成り立たせるためには、唯一の神を奉(たてまつ)る必要がある。
唯一の神を奉るためには、どうしても悪となる敵が必要不可欠なのである。
悪や敵が存在しない世界には、信じる者を救ってくれる唯一の神など必要のない存在となってしまうからだ。


それでは、一神教として都合が悪いのである。

2018年7月1日日曜日

追憶 2093

愛の道は、受け入れる道である。
それは、容易なことではない。
正義に従って悪を生み出し、それを敵として争い、自らを正当化することの方が容易なのである。
大抵の人は、敵と争う道を選ぶ。
それは、それが容易だからである。
大抵の人の理由は、単純なものだ。
要は楽な道を選ぶということである。
彼女達は、世の中に悪を生み出すことによって楽な道を選んだ。
しかしながら、楽な道が楽なのは初めだけで、それは後に険しい道となる。
彼女達は、そのことに気が付いていないのである。
そこで、自らの選んだ道を客観視させる必要があったのだ。
そのために、わたしは彼女達に質問を重ねたのである。