このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2017年5月31日水曜日

追憶 1697

医者は病人を必要とし、消防士は火事を必要とし、宗教家は信者を必要とし、政治家は社会問題を必要としているのである。
矛盾が生じる時、例えば、医学が病気を作るという状態を得るのである。
霊能者と呼ばれる人たちや宗教家は、悪霊を仕立てる。
それが善意であっても同じことである。
その人の状態は、因果の仕組みによって導かれた自分を知るために相応しい最善であるにもかかわらず、それを不幸と呼んで、更にはそれを他者である霊的な存在のせいにするのである。
名前や時期や方角や物の配置などで自分の状態が決まるという、余りにお粗末な見解もあるのだ。
医者は病気を、霊能者や宗教家は不幸を作ることによって繁盛するだろう。
他者の幸福のために働いている人が半数はいると信じたいが、社会を構成しているのは矛盾に満ちた人間である。
それが、集団を作れば、仕事や生活や立場を失う恐怖に駆られて、利権のために働くようになるだろう。


2017年5月30日火曜日

追憶 1696

これは、すべての人に言えることだろう。
誰一人として、無知と誤解を克服した人はいない。
ソクラテスでさえ、無知の知と考えたのである。
誰もが、歪んでいる。
それは、現代社会を見れば明らかである。
すべてのシステムが歪み、矛盾を孕(はら)んでいる。
現代社会において、矛盾の存在しない場所はないと思えるのだ。
例えば、わたしは真鯛の養殖業を営んでいるが、そのために真鯛を苦しめ、海を汚しているのである。
現代の養殖のやり方では、自然から貪(むさぼ)るだけである。
自然を顧(かえり)みることなく、自己の利益を追求して自然から貪るのであれば、自分の手で自分の足場を崩すという矛盾を生じさせるのだ。

2017年5月29日月曜日

追憶 1695

光の十字架は、暗くなった森を照らした。
わたしは光の十字架を掴むと、それを黒い煙のようなものに投じた。
すると、黒い煙のようなものは苦しむような印象を残して沈黙し、光の粒となった。
それは、森に漂う霧のようで美しかった。
その時、これがわたしの中の弱さであることに気が付いた。
それは、人間としての歪みである。
黒い煙のようなものは、わたしに内在する誤解の姿である。
わたしは様々なものに対して無知であり、それ故に誤解を所有しているのである。

2017年5月28日日曜日

追憶 1694

白い象の瞳がわたしを見透かしたのであろう。
それは、とても心地の好い感覚であった。
白い象は、わたしよりもわたしのことを知っているのである。
わたしは白い象によって、自分を教えてもらったのであろう。
黒い煙のようなものが腹の中から引き抜かれると、先程までの吐き気が消え去った。
身体の重さも感じない。
わたしは体調不良から解放されたのである。
次にわたしが行うことは分かっていた。
吐き出した黒い煙のようなものの処理である。
この場所にとって、この黒い煙のようなものは異質な存在であり、不自然であるからだ。

2017年5月27日土曜日

追憶 1693

子ども達の笑い声を聞いていると、吐き気が込み上げてくる。
その時、白い象が動きを止めて、透き通るような瞳がわたしを捕らえた。
白い象の瞳がわたしを捕らえた途端に、何かに掴まれるような感覚によって吐き気が限界に達した。
わたしは大量のゲップと共に黒い煙のようなものを吐き出していた。
それは、腹(潜在意識)の奥底から胸(顕在意識)を通って吐き出されたような感覚である。
わたしの抱えている汚れのようなものが、強制的に根刮(ねこそ)ぎ引き抜かれたような気分であった。

2017年5月26日金曜日

追憶 1692

白い象は紅い絨毯(じゅうたん)のようなものを羽織っているが、その先端の無数の総(ふさ)に鈴が結ばれていた。
白い象は歩いている訳ではなく、滑るようにして渓流を横切るように移動しているが、紅い絨毯の先端が揺れて鈴が音を立てているのであった。
その周りにたくさんの子ども達が楽しそうに走り回っていて、笑い合っているのである。
白い象はそんな子ども達にも、わたしにも関心が無いような態度であり、それはまるで、樹木に戯(たわむ)れる小鳥の群のようであった。

2017年5月25日木曜日

追憶 1691

鈴の音と子ども達の笑い声が近付くに連れて、地面に束縛(そくばく)する力が強くなった。
荒い呼吸が、腹の中の獣の興奮を伝えている。
その時、わたしは渓流の奥を見せられた。
そこには、わたしの常識を超越したものがあった。
それは、真っ白な象であった。
他に形容する言葉が見付からない。
百合の花のように全身が透き通るほどに真っ白な象が、渓流の谷間にいるのである。
きっと、陽は落ちているだろう。
今は夕陽の余韻(よいん)で明るいのだろうが、渓流の奥は既に暗闇が迫っている。
そこでは、山の景色に相応しいとは思えない真っ白な象が異彩を放っているのであった。

2017年5月24日水曜日

追憶 1690

すると、森の奥から微かに鈴の音のようなものが聞こえてきた。
それは癇(かん)に障(さわ)った。
怒りの感情が込み上げてくるが、それは身体を動かす程の力も無く、腹の中で煮えたぎるだけであった。
すると、鈴の音に合わせて、幼い子ども達の笑い声のようなものも聞こえてきた。
腹の中で煮えたぎる怒りの感情が、手脚を縛られて身動きが出来ないような歯痒(はがゆ)さを感じる。
相容れない異質なものが、相反しているように感じた。
しかしながら、それ等は矛盾を否定するかのように引き寄せ合っているのである。

2017年5月23日火曜日

追憶 1689

怒りの感情を持続させるには、膨大なエネルギーが必要となる。
それは、大きな火力を持続させるためには、膨大な燃料が必要であることと同じである。
怒りの感情を持続させるためには、例えば、森を切り倒し、地中に穴を開け、大量の燃料を確保する必要があるが、その方法では膨らむのも早いが、萎(しぼ)むのも早いのである。
そのため、怒りの感情を長らく持続させることはできない。
怒りの感情を持続させれば、心の中の資源が枯渇(こかつ)するのも早いのである。
わたしは余りの体調の悪さに、その場に膝(ひざ)を着いた。

2017年5月22日月曜日

追憶 1688

腹の深いところから、どうしようもなく怒りの感情が込み上げてくる。
わたしの腹の中の獣が、森の奥に潜む何かに対して、強烈な敵対心を抱いているのである。
わたしはそれを傍観(ぼうかん)しているに過ぎなかった。
わたしは腹の中の獣の感情に呼応していた。
森の奥に潜む何かに対して、その存在を拒絶したいのである。
わたしには選択肢はなかった。
渓流の緩やかな流れにも逆らうことのできない無力な落ち葉であった。
その時、わたしは自分が威嚇(いかく)する犬のように、歯を剥(む)き出しにして森の奥を睨(にら)み付けていることに気が付いた。

2017年5月21日日曜日

追憶 1687

記念碑から少し進むと、強烈な吐き気が襲った。
わたしは堪らずにバイクを停めて休憩することにした。
そこには小さな橋が掛かってあり、その下には渓流(けいりゅう)が輝いていた。
本来ならば、この美しい光景に心が洗われるのだろうが、今のわたしには何の喜びも得られなかった。
腹の中に猛り狂う獣が潜んでいるような感覚に縛られ、深い穴の奥に閉じ込められているようである。
ヘルメットを置いて、渓流を眺めていると、森の奥から視線のようなものを感じてた。
それは、刺すような視線であり、今のわたしには耐えられるものではなかった。


2017年5月20日土曜日

追憶 1686

わたしを呼んだのは、この老人ではないのか?
それにしては無関心であり、暖かさも感じられない。
どちらかと言えば冷たく、嫌悪感すら覚えそうになるのであった。
わたしを呼んだのは別の何かに違いない。
そう思うと、身体の重さが増したような気がした。
重たい身体を引き摺(ず)りながらバイクに戻り、エンジンに火を入れて彼を見ても、やはりわたしには何の興味も抱いてはいないようである。
わたしは彼にこの先に立ち入ることを断ってからバイクを走らせた。

2017年5月19日金曜日

追憶 1685

常識的に考えてみれば、彼が人間ではないことは理解することができる。
汚らしい着物を羽織った老人が、一人で山の中の記念碑の上に座っているとは考えにくい。
わたしは初めから彼が人間だとは思っていない。
霊的な存在であり、山の神様か何かだろうと考えていたのである。
バイクを停めて、エンジンを切る。
すると、静寂が押し寄せてきた。
ヘルメットを置いて彼を見ても、同じように遠くの方を眺めている。
人間ならば、わたしに目線を落とし、多少の警戒心でも抱くところだろう。
しかしながら、彼はわたしに見向きもせず、興味すら無いようであった。
近付いて話し掛けてみても、何の反応もない。
彼はまるで、記念碑の一部のようであった。

2017年5月18日木曜日

追憶 1684

山道を進むに連れて、身体の重さと吐き気が増した。
それでも、進む必要があると思ってバイクを走らせる。
幾つかのカーブを越えると、前方に大きな岩の記念碑のようなものが見えた。
そして、その上に古い着物をだらりと羽織った老人が胡座(あぐら)をかいて座っている。
遠目に見るそれは、浮浪者のような汚らしく、老いぼれた男であった。
しかしながら、見た目とは裏腹に威厳(いげん)のようなものを感じる。
わたしは彼を只者では無いと直感し、挨拶をしようと決めた。

岩の記念碑は見上げるほどの大きさである。
書いてある漢字を理解することは出来ない。
その上に小さく薄汚れた老人が、どこか遠くの方を眺めながら鎮座(ちんざ)しているのであった。

2017年5月17日水曜日

追憶 1683

わたしは誰かに呼ばれているような気がした。
それは、とても大らかな声であったように思う。
何かとても大きくて、暖かいような感覚を得たのである。
わたしはその声に従う必要があると思い、心の赴(おもむ)くままにバイクを走らせた。
わたしはある山に向かっていた。
何と無く、そこへ向かうべきだと感じたからである。
それは、自宅から15kmほどの場所にある山で、そこは多くの住居がある地区だ。
わたしは二車線の広く快適な道を、住居を横目に見ながら進んだ。
山に向かうに連れて、樹木の割合と対照的に少しずつ住居が少なくなってくる。
住居の数に比例して、道幅も狭くなり、山の入り口では、運転に気を使うほどの道幅となっていた。
わたしは心の中で山に挨拶をして、人の生活を通り抜けた。

2017年5月16日火曜日

追憶 1682

初夏のことである。
陽は傾いていたが、未だに遠くの山の上に浮いていた。
わたしは重たい心と身体を放り投げるようにして椅子に沈めた。
指で瞼(まぶた)を抑えると、疲労しているのだと実感した。
わたしはその姿勢のままでしばらく瞼を抑えていた。
すると、瞼の裏側に声が聞こえた気がした。
それは、音声であっただろうか?
それとも、映像であったか?
それは、刹那(せつな)の出来事であったが、どこからか何かが伝わったような気がしたのである。

2017年5月15日月曜日

追憶 1681

その日、わたしは体調不良に陥っていた。
吐き気が続いていたのである。
身体は鉛(なまり)のように重たく、それに比例するように気分は沈んでいた。
わたしにも気分の浮き沈みはある。
わたしも未熟な存在なのだ。
気分の浮き沈みによって見える景色は異なる。
それは、新たな視点を学ぶ機会となるのだ。
そのため、気分が浮き沈みすることを悪くは思わない。
寧ろ、それは良いことであると思える。
例え、どのような気分であろうとも、わたしはいつもの生活を続ける。
その日も、吐き気と重たい気分と身体を引き摺(ず)りながら、一日の仕事を終えたところであった。

2017年5月14日日曜日

追憶 1680

わたしの人生にはいつも不思議が付きまとう。
それは、わたしが人生の意図を理解することも出来ない未熟者であることを意味しているのである。
わたしは未熟な存在として生まれ、未熟を積み減らすために生きている。
きっと、ただ、その目的のためだけに生きているのだろう。
未熟を積み減らすために様々な経験が存在しているのだと思えるのだ。
理由は分からない。
しかし、胸の奥の更に奥の方から湧き起こる欲求が、わたしに囁(ささや)いているのだ。

”学べ、そして、読み解け”

と…

2017年5月13日土曜日

追憶 1679

人生は不思議で満ち溢れている。
本来ならば、不思議なことなど存在しないだろう。
しかしながら、人生は不思議で満ち溢れている。
それは、人間が無知であるからに他ならない。
この世界には、遍(あまね)く因果の仕組みが存在している。
これは、疑いようの無い事実であると思える。
人生はいつも後になって理由を明かしてくれるが、それは、後になってようやく自分自身の成長が人生の意図に追い付いただけの話である。
そのため、人生には不思議に思えることはあっても、不思議という実体は存在してはいないのだ。

2017年5月12日金曜日

追憶 1678

わたし達一人一人が、古い自分を殺さなければならない。
それは、野蚕(やさん)が幼虫の姿を捨てて、暗闇の中の一筋の光を求めて懸命に羽ばたくように、わたし達も先の見えない人生を不慣れな新しい自分で進んでいく必要があるのだ。
野蚕が幼虫の姿を捨てなければ、桑の葉を食い尽くしてしまうか、秋に葉と共に落ちてしまい、蟻の餌になってしまうだろう。
生命は、季節に合わせて古い自分を殺し、新しい自分を生きるのである。
それが理である。
理に反することは、豊かさに反することだ。
ならばわたしは、自分を殺そう。

2017年5月11日木曜日

追憶 1677

人は、何かを殺すことによってしか生きられないのである。
古い文化を殺し、新しい文化を生み出す。
これは、世界中で行われていることだ。
原住民族の文化も、強く伝統に根差してはいるが、決して生き続ける訳ではない。
差はあれど、必ず変化の中に存在しているのである。
古いものが良いとする考えもあるだろうが、わたしは必ずしもそうとは思わない。
この世界の理に根差したものが良いのであって、新旧は関係のないことなのである。
新しくても、よりこの世界の理に近ければ良いものであると思うのだ。

2017年5月10日水曜日

追憶 1676

改めたとは言っても、以前に比べて多少改まったということであり、依然として多くの不自然さは潜在している。
わたしの場合は、自らの抱える不自然さとは、生涯を通じて向き合い続ける必要があると思えてならない。
わたしはそれを不服に思っている訳ではない。
それが人生の目的であると思っている。
わたしはいつも、古い自分と向き合うだろう。
その度に自分を殺し続けなければならないのだ。
この世界は、他の命を殺さなければ生きていくことができない。
わたしは動物の肉は食べないが、魚と野菜は殺している。
それに、体内には免疫機能が備わり、毎日無数の細菌を殺しているのである。


2017年5月9日火曜日

追憶 1675

わたしの幼少期は、環境的にも、人間関係も満たされていた。
しかし、自らの心は満たされていなかった。
それは、わたしの中に存在する不自然を感じていたからであろう。
わたしの苦悩は、20年に渡り続くのである。
それは、鍛冶屋が鉄を打つように、人生がわたしを鍛えたのであろう。
わたしは幼少の頃から人生に叩かれ続けた。
それは、自らの選択の当然の結果である。
その度にわたしは古い自分を殺し、不自然な自分を改めた。
その結果として今の自分が在るのだ。
だから、人生に対しては感謝以外の感情は抱いていない。

2017年5月8日月曜日

追憶 1674

残念ながら、以前のわたしは不自然さに気が付かずに生きていた。
そのために、苦悩を抱えていたのである。
今でも、不自然さを抱えてはいるが、以前に比べると薄まったようにも思える。
それは、人生が教えてくれる学びによって自分を殺し、改めたことで実現したのだろう。
人生の教えとは苦悩である。
人は、苦悩を通じて自分を殺すのである。
幸福感を通じて自分を殺すのは難しい。
それは、幸福を得ている時には、それが良いと考えてしまうからだ。

2017年5月7日日曜日

追憶 1673

山の中で出会った二人も、あの青鬼も、わたしを殺そうとしていた。
二度も同じことが続くということは、それを強く求められているということであるだろう。
この世界には偶然は存在せず、すべてが意味を以った必然であると言えるだろう。
わたしは自分を改めることを求められているのだ。
人生がわたしに求めているのであれば、そうなるように努めなければならない。
これまで、わたしは自分勝手に生きてきた。
しかし、それが不自然な生き方であることは人生が教えてくれたのである。

2017年5月6日土曜日

追憶 1672

わたしは自分の性格を長所だと認識しているが、長所の半分は短所でもあるだろう。
一途に頓着することは良い結果を導く反面、そうではない結果を導く可能性を抱えている。
わたしの場合は、一途に頓着する余り、横の広がりが弱くなる。
深くなることは良いが、細くなってしまうのだ。
大切なのは、太く深く育つことだろう。
そのためには、横の広がりが必要なのである。
”曲がる”というのは、改めるということであるだろう。
樹の根は、地中の岩を避けて通る。
それは、根を曲げることであるが、結果として広く頑丈に根を張ることができる。
岩を取り除いた畑に植えた樹は、簡単に耐えれてしまう。
それは、曲げる必要もなく、細い根で事足りるからである。

2017年5月5日金曜日

追憶 1671

恐らく、青鬼はわたしに遣わされた精霊か何かであろう。
神社の前でバイクに乗ってきたのは、土地に関係しているのかも知れない。
青鬼を遣わせたのが何かは分からないが、学びのためであったことは明白である。
青鬼がわたしに導いてくれた学びとは、”道を曲がれ”という教えであるだろう。
それは、柔軟性を持てということなのだと思える。
わたしの性格は頑固で一途であると分析している。
自分で決めたことは簡単には諦められず、時間や食事を忘れて頓着(とんちゃく)してしまう。
光の天秤を書き続けているのも、その性格のためであるだろう。

2017年5月4日木曜日

追憶 1670

わたしは、そうしたいと思い、光の塊を抱き寄せた。
すると、そこから情報が伝わる。
それは、直感のように曖昧(あいまい)な情報であった。
恐らく、わたしの力量においては、全体の一部を感じ取ることにとどまるのであろう。
わたしは青鬼の意味を知るための手掛かりを得たように思える。
そう感じた時には、光の塊はわたしの腕を離れて、天に輝く大きな光に向かって上昇していた。
わたしは胸の奥に充実する感覚を得て、感謝の気持ちを言葉に変えた。

2017年5月3日水曜日

追憶 1696

青鬼はまとわり付くような嫌らしい笑みでわたしを見詰めた。
何かを企んでいるような笑顔が不愉快であった。
すると、わたしの意思に反して、右手が宙に十字を描いた。
右手が光の十字架を青鬼に投じた後に、自らの行為に対する認識が追い付いたのである。
わたしが驚いていると、光の十字架に射抜かれた青鬼が苦悶(くもん)の表情を浮かべて苦しんでいるようであった。
先程までの嫌らしい笑みを失った青鬼を見ていると、可哀想に思えた。
それから、すぐに青鬼は沈黙し、その姿は光の塊(かたまり)となった。

2017年5月2日火曜日

追憶 1695

それから帰宅するまでの間、バイクは何の問題もなく走行した。
わたしの内省のテーマは、バイクが曲がらないことに変わっていた。
しかしながら、納得することの出来る答えを導き出すことは叶わなかった。
バイクをいつもの場所に停め、ヘルメットを外し、一息ついた時に異様なものが視界に飛び込んできた。
それは、荷台に座る青鬼であった。
それは、どう見ても青鬼にしか見えなかった。
それは、肌の青い、毛の抜けたチンパンジーのような姿をしている。
それがバイクの荷台に静かに座っているのだ。
わたしの頭の中には疑問符が飛び交っていた。

”こいつは何だ?”

それ以外の思考は存在してはいなかった。

2017年5月1日月曜日

追憶 1694

強い抵抗を伝えて、バイクは田んぼの手前で止まった。
断っておくが、速度を出し過ぎているということはない。
わたしは内省していたし、運転と景色を楽しむためにゆったりと走行していたのである。
それでも曲がらなかったために、急ブレーキを掛けたのであった。
わたしは田んぼに転落しなかったことに安心した。
そして、高まっている胸の鼓動を感じて、この状況が面白くなり、独りで笑ってしまった。
バイクを調べても異常は見付からない。
どのような状況であっても、そこには必ず学びが存在し、わたしはその意味を見出さなければならない。
また一つ、新たな課題が与えられたのである。